アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Mai 2023

 ドイツに住んでいるためかこちらの新聞でも結構取り上げられているロシアの作家ウラジーミル・ソローキンの День опричника を読んでみた。イワン雷帝下の強烈な専制政治が現代に敷かれていると想定した強烈なディストピア小説だ。タイトルの「オプリチニク」とはオプリチナのメンバーという意味で、そのオプリチナは雷帝が考案し全国に張り巡らされた今でいう秘密警察。歴史用語である。ただし小説は当時のロシア社会にひっかけているだけで舞台設定は2027年、つまりSF小説だから現代オプリチニクはスマホで連絡しあうし、馬でなく車に乗り、飛行機で移動する。専制体制それ自体もさることながら、特権階級として甘い汁を吸わされ積極的にそれを支えているオプリチニクたちやその他の「上級国民」、君主とその家族、つまりそこに住む人間の醜悪さがこれでもかと描かれている。いわゆる全体主義国家を揶揄したディストピア小説というとオーウェルの『動物農場』を思い出すが、やはり専制(に近い)政治が引かれている国の内部を知っている作家が書くと迫力が違う。下手に読むと真剣に気分が悪くなるかもしれないので単純に「お薦め」はできない。

下で述べる通り小さな薄い本だが、読むのに非常に手間取った。
den-opricnika
 そもそもこの作品はタイトルが示す通り、『イワン・デニーソビッチの一日』的な「日常の一日」を描いたものである。たった一日で読む方はすでに吐き気がしてくるくらいだから、こういう日常を百万・一千万単位の国民が毎日何年も送っている社会はそれこそ魔窟であろう。
 
 出だしのエピソードからして、いわゆる「反体制一家」の家をオプリチニク軍団が襲って、一家の主の男を首吊りにし、その妻をオプリチニクみんなで輪姦した後実家に追放、子供たちは取り上げて、相応しくない思想成分を払拭すべく体制派の一家の養子に出すか、国家施設に預けられる。これはまさに今回の戦争でロシア兵がウクライナの民間人相手にやった行為ではないか。小説が書かれたのは2006年で、ウクライナ戦争勃発どころか、クリミア併合さえ起きていなかったころである。ソローキンは予知能力でもあるのか?
 ここで凄いのは主人公が女を強姦しながら、反体制思考の女に体制側の男の精液を注入して反日じゃなかった反露思想を洗浄するのが国家を守るためになると本気で信じていることだ。オプリチニクたちは君主を崇拝していて、君主が何かいうたびにその慧眼に感涙をそそぐ。君主様のためなら喜んで命を捧げるそうだ。俗に言う思考停止状態なのだが、考えてみるとこういう輩は何もロシア特産ではない。某前大統領を神のように崇め、顔を見ると涙ぐまんばかりに狂喜する人たちは本国ばかりでなく、日本にもいる。自分は当地に住んだこともなく、もちろん英語もできないのに全く関係ない国の前大統領を必死で庇うその姿、これはいったい何なんだと思う。特定の党、特定の政治家を「支持」の域を遥かに超えて崇拝しだす人たち。そしてそれを支持しない人たちを非国民の嫌なら出ていけのと罵る。こういう人たちは何処の国にもいる。『オプリチニクの日』が怖いのはこの万国共通性のためだ。専制君主下のロシアの醜悪さが実は他人ごとではないからだ。
 またこの国の住民は常に外側の敵に怯えている。西側がツルんでロシア分割を企んでいるという妄想から逃れられない。その内心の恐怖を小説に出てきた映画の中のセリフがよく表している:

Восток — японцам, Сибирь — китайцам, Краснодарский край — хохлам, Алтай — казахам, Псковскую область — эсгонцам, Новгородскую — белорусам.
(東は日本人に、シベリアは中国人に、クラスノダール地方はウクライナ人に、アルタイはカザフ人に、プスコフ県はエストニア人に、ノブゴロド県はベラルーシ人に。)

ウクライナ人にロシア固有の領土を持っていかれると恐怖しているあたり、ウクライナ戦争に関してロシアが今展開している主張と被る。この  хохлам(単数男性形 хохол)というのはウクライナ人、昔でいう小ロシア人に対する蔑称で、当地のコサックのヘアスタイルに起因する。話が飛ぶが『10.お金がないほうが眠りは深い』でも出したガルシンの『あかい花』にもこの言葉が使われていて、神西清の日本語訳ではルビを使って「ウクライナ人(とさかあたま)」、ドイツ語訳ではKleinrusse (「小ロシア人」)と訳されていた。

 ソローキンに戻るが、つまり悪い事は全て「西側」「グローバリズム」のせい。西側に理解を示す国民は外国の工作員、犯罪を犯す人は外国人の手先。そういう不純分子国民を(女を輪姦したりして)一掃するのが名誉ある純粋ロシア民族としての神聖な義務である。またしてもこれはウクライナ戦争に際して自国で展開しているプロパガンダと完全に被る。実はこれに近い発言を時々日本のSNSなどで見かけるのだが…何か犯罪を犯した人がいると必ず「犯人は日本人か?」とコメントしだす人がいる。報道元が容疑者の名前を伏せると「犯人は在日か?」、名前を出したら出したで「通名だな」。また同胞がちょっと政府に反対の声を挙げれば、「外国かぶれ」「日本の伝統から逸脱」と胡散臭がる。要は素直にお上に従わないような国民は「純粋な日本人じゃない」ということだ。「純粋〇人」といういやらしい言葉は『オプリチニクの日』にも出てくる。主人公のオプリチニクが空港で隣の女性がオプリチナの「業績」を描いたプロパガンダ映画を一生懸命見ているのが女性としては珍しかったため興味が湧いてその顔をつくづく眺めてみると、その顔は Не очень красивое, но породистое(特別美人ではないが、純血人種のものだ)。しかしその純血種女性は反体制分子として一掃された一家の生き残りだったことがわかる。純血日本人にだって現政権や天皇制にさえ反対している人はいるし、ナチス・ドイツのころにもユダヤ人を匿い、ナチスに抵抗した「純血ゲルマン人」はいたのだから不思議ではない。こういう純血種を純血種に相応しい正しい道に引き戻し、不純物は除去するのがオプリチナの仕事である。自分たちがいなくては君主は偉大なるロシアを築き上げることができない、オプリチナとはなんと偉大な仕事だろう。
 ああそれなのに、ソローキンの描く偉大なロシアは実は中国とズブズブで、経済的には完全に依存している。車も中国製、日常品や食料にいたるまで、メイド・イン・チャイナだ。君主様の最も親しい友人の一人も中国人で、何かとその便宜を測ってやっている。君主の二度目の妻の子供たちは中国語がペラペラだ。中国語は最も将来性のある外国語なのである。とにかく小説中に中国語がたくさん出てくる。この調子では偉大な純血大国家ロシアは中国の属国になるのではないか、と思わせるほどだ。

 さらに、これもロシアだけの現象ではないが、オプリチニク、つまり君主に盲従し不純分子の駆除が神聖な義務だとマジで思っているナショナリスト極右はズバリマッチョである。男根がついていることを誇り、女性は一段下の人間。最初に男だけ首吊りにして女は強姦だけで助けてやった(?)のも別に人道的配慮からではない、女を男と同等な生物と見ていないからである。殺す価値もないというワケ。それが証拠に困ったことがあって必死にオプリチニクに助けを求めて来た女性にはケンモホロロの対応、自分に跪いて懇願する女性の胸をブーツの先で蹴り上げて「失せろ!」と追い返そうとする。しかしその女性はロシアで有名なバレリーナ、君主もそのファンであるプリマドンナの知り合いで、そのバレリーナが直接コンタクトして来たのでまあ聞き届けてやるが、あくまで「まあ」であって、ロシア一のそのプリマドンナに対しても上から目線は相当露骨だ。
 男根 love(ああ気持ち悪い)の極めつけはラスト近くのシーン。オプリチニクたちの大集会である。ボスの大邸宅のサウナに集合した配下のオプリチニクたちが当然真っ裸で、中国製の怪しげなヤクを使って男根を隆々と光らせたところで(男根は本当に光を放って輝く)、まず第一のボスの右腕オプリチニクがその突起して巨大化したペニスをボスの肛門に突っ込む。次に別のオプリチニクが右腕の肛門に突っ込む。何番目かには主人公のオプリチニク氏も前の人の肛門に突っ込む。そしてその肛門には後続のペニスが突っ込まれる。そうなってオプリチニクが全員ペニスと肛門で数珠つなぎになった状態を「芋虫」というが、これが「俺たちは男だ!」という意気を示す神聖な儀式なのである。
 やってる本人たちは男の誇りに輝いている(つもり)かもしれないが、部外者はとしてはこんなものをたとえば食事中には読みたくない。

    さてそうやってオプリチニクの「平凡な一日」が終わる。主人公は疲れてベッドに入るが、読者のほうがもっと疲れる。そこで最後っ屁といっては下品に過ぎるが、一発また女は肉便器という思想の登場だ。女性の召使が甲斐甲斐しくオプリチニク氏の世話を焼くが、この召使(なんて言葉はすでに死語か)が主人公に性的奉仕もし召使側もそれで当然と思っていることがプンプンと匂う上に、ちょっと嫉妬しつつ「今日もさぞたくさんの反体制女に精液を注入なさったんでしょうね…」的なことを言う。つまり男根信仰、精液注入こそ男の仕事という価値観が女のほうにまで内在化されているのだ。しかしまたしてもこういう女性の存在はロシアだけの現象ではない。極右男性にチヤホヤされたいばかりにマッチョ思想に組し、同性の性犯罪の被害者を責める、そしてそれが何かカッコいいことだと思っているナショ女性はどこの国にもいる。日本にももちろんいるし、アメリカにもいる。

 この小説に描かれている醜悪さはプーチン下のロシアだけのものではない、ある意味ユニバーサルで、だからこそ読者も食欲が減退するのだ。ひょっとしたらこういう社会を本気でユートピアと見なすナショ氏が自国内にもいそうでゾッとするのである。

 さてこの本はサイズは小さく活字は大きく、しかも223ページしかなかったが、私は全部読むのに2ヵ月もかかってしまった。ロシア語がトゥルゲーネフだのプーシキンだのより遥かに難しかったのだ。理由の一つが「オプリチナ」始めロシア史の専門用語が多く、普通の辞書には載っていないこと。トゥルゲーネフなら一般用のランゲンシャイトの露独辞典と博友社の日露辞典のコンビで大体足りるのだが、今回はそれでは全く歯が立たず普段文鎮代わりにしている(『1.悲惨な戦い』参照)ロシア語の広辞苑、Ожегов のロシア語詳解辞典を引っ張り出した。これなら確かに単語ははるかにたくさん載っている。小さな辞書には載っていない「口語的表現」も比較的多く取り上げてある。載ってはいるのだがその語の説明もロシア語だから辞書を引くのに辞書がいるというたらい回し状態になった。しかしそのオジェゴフにすら載っていない単語が頻繁に登場するので途方に暮れた。あまりにもそういう場合が多いのでさすがに「これはおかしい」と思い、ふとたまたま持っていた「タブー語辞典」を開けてみた。言ってはいけない、知っていてはいけない語、オマ〇コとかチ〇コとかそういうレベルの語が集めてある影の必殺辞書である。それを開けてみたらまああるわあるわ、今までどうしても見つからなかった語がバンバン載っている。それからは見つからない語が出ると「これはそういう言葉なんだな」と思って無視することにした。こういうエゲツない語彙はソローキンの文体の特色だそうだ。
 その禁止用語の濃度が特に高かったのは、ドストエフスキイの『罪と罰』をパロった部分だ。まずドストエフスキイの原文だが:

Удар пришелся в самое темя, чему способствовал ее малый рост. Она вскрикнула, но очень слабо, и вдруг вся осела к полу, хотя и успела еще поднять обе руки к голове.
(老婆の背が低かったことで、打撃はちょうど頭のてっぺんに当たった。叫び声を上げたが、弱々しいものだった。そして、かろうじて両手を頭に向かって持ち上げることはできたものの、いきなり体中が床に崩れ落ちた。)

これがソローキンではこうなっている。原文がほとんど埋没しているので見やすいように色をつけた。空色の部分がそれだ。青以外が追加されている部分だが、そのうち黄色でマークしてあるのは普通に辞書に載っている単語。残るノーマークの語は基本的に「そういう言葉」だと思っていい。もちろん上品な一般辞書には載っていない。

Охуеный удар невъебенного топора пришелся в самое темя триждыраспронаебаной старухи, чему пиздато способствовал ее мандаблядски малый рост. Она задроченно вскрикнула и вдруг вся как-то пиздапроушенно осела к непроебанному полу, хотя и успела, зассыха гниложопая, поднять обе свои злоебучие руки к хуевой, по-блядски простоволосой голове...

 また『オプリチニクの日』では詩がたくさん登場する。登場人物が詠んだという設定ではあるが、これらもネイティブなら、いやネイティブでなくても真面目に文学を勉強した者なら「こりゃプーシキンのあれだな」とか「レールモントフだな」とか「マヤコフスキイをパロったんだな」とか「本歌」がわかるのかもしれない。私は全然わからなかった。実は上の『罪と罰』も「これはドストエフスキイの『罪と罰』の下品なパロディ」と小説に書いてあったからそれをもとに原文を探し出せたのであって、私が自分で見破ったのではない。
 さらに我ながら自分にはわかってないんだろうなと思ったのはオプリチニクたちの冗談というかギャグである。時々会話のロジックが追えないことがあったのだが、これは多分彼らが内輪の冗談を言っていたんだろうと思う。これもネイティブ(や、真面目に勉強した人)にはちゃんと通じるに違いない。通じない私が自分でわかったギャグはこれだけである。主人公が古いブロンズの銅像をみながら独り言をいう。

В его времена пробок автомобильных не было. Были токмо пробки винные...
(この時代には自動車のプロープカなんてなかった。あったのはワインのプロープカだけだプッ。)

これはプロープカという語にひっかけた寒いギャグで、これには「渋滞」という意味、英語でいう jam と「栓」という二つの意味がある。あまりにも寒すぎて日本人にも見抜かれてしまった。
 もう一つたまたま知っていた例だが、「君主に反抗する奴はトレチャコフスキイ美術館に行ってこの絵を見て自分がどうなるか考えてみるんだな」的なコンテクストで Боярына Морозова という絵のタイトルを出しモチーフを説明するが、その描写によってそれがたまたま自分の知っている絵だと分かった。タイトルの方は知らなかったが、イワン雷帝より少し後の時代に皇帝による教会の儀式の改革に反対して処刑された貴族モロゾフの妻が橇で引きまわされるシーンを描いたものである。

君主様のいう事に反対するとこのように処刑されるぞという教訓のためオプリチニクがお薦めする絵。お上に逆らうのは止めましょう。
Авторство: Василий Иванович Суриков. ogHGQgd1Ws9Htg — Google Arts & Culture, Общественное достояние, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13502454から

Vasily_Surikov
 放送禁止用語や背景知識が辞書に載っていないのは当たり前だが、別にタブー語でもなさそうなのに載っていないことばもあった。特定の地方限定か、正書法を無視して口語の発音通りに書かれていて辞書には拾ってもらえなかったと見える。例えばнегоже というのは нигде か негде(nowhere)のことかなと見当がつくこともあったが(ハズしていたら失礼)、わからないままな単語も多かった。ネイティブならどれも一発でわかる違いない。またтокмо という語が頻繁に登場し、これは только(only)かもしれないとは思ったが、使われている文脈に(たいていはтолько 解釈で通じたが。上のギャグもその意味で通じる)только ではなさそうなものもあったので保留している。

 標準ロシア語と違った東スラブ語の形が登場するのもおもしろかった(『145.琥珀』参照)。ウクライナ語なら東スラブ語形が正規の形とされているから目立つが、ロシア語も表には出てこないだけで実は裏では東スラブ語形と南スラブ語形のダブルがかなり蔓延しているのかもしれない。逆に標準ロシア語では東形を使うのに、ソローキンでは南形になっているのもあった。これら非標準形はオジェゴフの辞書に「もう一つの形」として出ているのも少なくなかったが、辞書にはなくて南形に再構築してみて「ああこれか」とピーンとくる語もあった。例えば враг(南形) → ворог(東形)(「敵」)、голос(東形)→ глас(南形)(「声」)、 волос (東形)→ влас(南形)(「髪」)。それぞれ後者がソローキンに使われていた形である。また другой(「別の」)が「第二の」の意味で使われていたこともあった(『156.3番目の正直』参照)。放送禁止用語よりこっちのほうがよほど勉強になるのではないだろうか。まあ放送禁止用語なんか勉強しない方が無難だが。

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以前書いた記事の図表を画像に変更していっています(レイアウトが特にスマホではグチャグチャになるため)文章にも少し手を入れました。日本語の「てにをは」を説明するときドイツ語やラテン語・ロシア語の格用語(?)を使うとすんなりわかってくれる人が多いです。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 日本語では名詞の格を印欧諸語のような語形変化でなく助詞を後置して表す。この「助詞」という言葉だが、こちらでは普通「不変化詞」Partikelと呼んでいる。何度か「後置詞」Postpositionと呼んでいるのも見た。その種々の不変化詞の中で文法格を表すものを学校文法では格助詞というが、私はこれを格マーカーと言っている。
 日本語にはいくつ格があるのかとこちらでは頻繁に聞かれるが、正直返事に困る。はっきりした語形変化のパラダイムがなく格そのものの観念がユルいし、一つの助詞、例えば「に」など(『140.格融合』参照)、複数の格を担っているものがあったりするので、見る人によって格の数が違ってくるからだ。それでも「人によって違います」では答えにならないので私個人はドイツ人には一応日本語には次のような13の格があると説明している。
Tabelle152
「山田さんは鈴木さんより頭がいい」という場合の「より」は果たして「格」といっていいのがどうかやや不安な気もする。これは後述するように、名詞句で使うことができない上限定格の添加も許さない。だから括弧に入れておいた。
 最初にも述べたようにこれらの不変化詞は日本語でも助詞と呼ばれているのだから、日本語側でもこれらが当該名詞のセンテンス内でのシンタクス上の位置を表す機能を持っている(つまり格を表す)と把握されているわけで、私の説明の仕方もそれほどムチャクチャではなかろう。しかしこれらの助詞をじいっとみてみると、当該名詞の格を表すという基本的は働きそのものはいっしょだが、助詞自身のシンタクス上の現れ方によって大きく3つのグループに分類できることがわかる。「が、を、に」と「へ、から、で、と、まで」と「の」の3グループだ。(「より」は観察から除外)。
 まず第一グループ「が、に、を」と第二「へ、から、で、と、まで」はセンテンスの直接構成要素の名詞にしか付加できない、言い換えると当該名詞は動詞の直接の支配下でないといけない。ドイツ語や英語の前置詞と大きく違う点である。ドイツ語のin、an、 bei、nach、mit、英語の from、withなどの前置詞は動詞句VP内でも名詞句NP内でも使うことができる。

VP内
Meine Bekannte wohnt in Heidelberg.
my + acquaintance + is living + in + Heidelberg 
NP 内
meine Bekannte in Heidelberg
my + acquaintance + in Heidelberg

VP内
Er arbeitet bei Nintendo.                        
he + is working + at + Nintendo
NP 内
Angestellter bei Nintendo           
an employee + at + Nintendo
NP 内
die Arbeit bei Nintendo                    
the + work + at + Nintendo

VP内
Sie fährt nach Moskau.
she + is going to drive + to + Moscow
NP 内
der Weg nach Moskau
the + way + to + Moscow

VP内:My Friend came from Germany.
NP内:my friend from Germany               

VP内:I discussed the problem with Mr. Yamada.   
NP内:a discussion with Mr. Yamada                 

対応する日本語の構造では格助詞が名詞句NP内では使えない。動詞句VP内のみである。

VP内:私の知り合いはハイデルベルク住んでいる。
NP 内:*ハイデルベルク知り合い          

VP内:彼は任天堂働いている。
NP内:*任天堂社員
NP 内:*任天堂仕事

VP内:彼女はモスクワ行く。
NP 内:*モスクワ

VP内:私の友達はドイツから来た。
NP内:*ドイツから友だち

VP内:山田さんその問題について議論した。
NP内:*山田さん議論

*のついている構造はOKじゃないかと思う人がいるかもしれないが、それは当該構造を名詞句ではなくて省略文として解釈しているからである。そのことはちょっとつつくと見えてくる。例えば

任天堂で仕事は楽しかった。
任天堂で仕事はプログラミングだった。

を比べてみると、最初の文では

任天堂で仕事(をするの)は楽しかった。

と動詞が省略されているのがわかる。つまり「任天堂で」は名詞の「仕事」ではなく省略された動詞の「する」にかかっているから名詞句内ではないのだ。2番目の文もそう。「任天堂で」は「仕事」でなく「プログラミングだった」という述部にかかると解釈しない限り非文である。さらに

ドイツから友だちは先週のことでした。

という文は私の感覚ではおおまけにまけてギリチョンでOKだが(これを許容しない人も多かろう)、それは「ドイツから友だちが来たのは先週のことでした」という省略文解釈がギリチョンでできるからで、

*ドイツから友だちはシュミットさんといいます。

はオマケのしようがない非文である。さらに以下のセンテンスもオマケがしにくい。

モスクワへ道は遠い。
山田さんと議論はその問題についてだった。

前者はそれでもまだマシで上記の任天堂同様「モスクワへ」は「道が遠い」という述部全体にかかっているという解釈が成り立つが、後者はその解釈が成り立たないので非文度がアップする。
 このように日本語では「が、に、を」と「へ、から、で、と、まで」といった格マーカーは名詞句内では使えない。それではどうするのかというと第三のグループ(「グループ」と言ってもメンバーは一人しかいないが)の限定格マーカー「の」を付加するのだ。そうするとあら不思議(でもなんでもないが)上では非文だった構造が許容できるようになる。

任天堂で仕事はプログラミングだった。
ドイツから友だちはシュミットさんといいます。
モスクワへ道は遠い。
山田さんと議論はその問題についてだった。

だから助詞の「の」は単に属格というより連体格とか限定格とかいうべきだと思う。この「の」は常に名詞句NP内にしか現れず、センテンス、あるいは動詞句VP、またはCPとかという節で使うことができないし、他の格マーカーとの共存できる。使われるセンテンス内の位置が他のマーカーとはっきり異なっているのだ。その際私の感覚では

任天堂での社員

という名詞句は「の」がついているのに許容できないが、実はこれが最初の私が「に」と「で」を一括りに処格としないでそれぞれExistentiell-Lokativ(存在処格)とAktional-Lokativ(動作処格)とに分けた理由である。「に」は「アメリカにいる」とか「アメリカに住む」とかいうように、場所そのものが主体で、動詞は「いる」とか「ある」とか「住む」とか意味の薄いものである。「で」は「アメリカで働く」とか「図書館で本を読む」とか動詞がはっきりした「活動」を表し、処格が意味的にも完全に動詞の支配下にある場合に使われる。畢竟「AでのB」という構造ではBが何らかの活動を表す名詞でないとおかしい。「社員」は活動でなく人であるからいくら「の」をつけてシンタクス的にはNP構造にしても「で」の意味と被修飾語の「社員」が不適合だからはじかれるのである。他方「任天堂での仕事」は、「仕事」が活動を表すからOKとなる。

 さてNP内では使えないというのは第一グループ「が、に、を」と第二「へ、から、で、と、まで」に共通の性質だが、第二グループが「の」と共存できるのに第一グループの不変化詞は当該名詞句内でダブル非変化詞を許さないという大きな違いがある。「の」が付くと自身は削除されるのだ。

*アメリカの旅行は楽しかった。
アメリカの旅行は楽しかった。

*田中さんのお土産は日本で買ったパソコンだ。
田中さんのお土産は日本で買ったパソコンだ。

*映画の鑑賞は私の趣味だ。
映画の鑑賞は私の趣味だ。

*高橋さんの批判は辛らつだった。
高橋さんの批判は辛らつだった。

このうち「に」については与格、方向格は「へ」、奪格は「から」でそれぞれ代用できる。「へ」も「から」も「の」と両立するから名詞句内での両名詞のシンタクス関係または意味関係を表すことができる。

アメリカへの旅行は楽しかった。
田中さんへのお土産は日本で買ったパソコンだ。
モハメド・アリからのパンチは強烈だった。
(「モハメド・アリにパンチを食らった」と比較)

しかし存在処格、主格、対格の区別は表現しわけられない。「映画の鑑賞」ならまあ「映画」が対格だなとわかるが「高橋さんの批判」となると高橋さんが批判したのかそれともされたのか、つまり主格なのか対格なのかはどうやっても表すことができない。意味に頼るしかないのだ。
 この、二つの名詞からなる名詞句で修飾するほうがされるほうの主格なのか対格なのかというのはドイツ語でもよくわからないことがある。それについて個人的な思い出があるのだが、『85.怖い先生』で述べたドストエフスキーの『悪霊』のゼミの期末レポートで私は Mord Šatovs (「シャートフの殺人」)と書いた。小説ではシャートフという人が殺されるのである。そしたら教授が私のレポートについて批評してくれた際、これではシャートフが人を殺したことになってしまうから Mord an Šatov(「シャートフへの殺人」)か Ermordung Šatovs(「シャートフの殺害」)と書かないといけないと教えてくれた。提出前にネイティブチェックを通してはいたが、そのネイティブは『悪霊』を読んでいなかったので誰が被害者なのか知らず、これにOKを出していたのであった。
 逆に、日本語では単純に「AのB」という構造になっているのでそれ以上深くAとBとの意味関係について考えずにいたところ外国語に訳された形を見て初めて両者の格構造に思いが行く、ということもあった。安倍公房の小説『砂の女』のタイトルがロシア語で Женщина в песках となっていたのである。直訳すると the/a woman in sands、英語タイトルでは the woman in the dunes で、存在処格の「に」が削除された名詞句である。

 まあどこの言語でも名詞句内の名詞の関係(『150.二つの名詞』も参照)には苦労するようだが、とにかく私はこうやって日本語の格マーカーを3つのグループに分けて説明している。

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 言語学にダイクシス Deixis という言葉がある。「直示」と訳されているようだが、素直に(?)「ダイクシス」という借用語を使ったほうが通りがいいのではないだろうか。この Deixis とは何ぞやについては言語学、言語哲学、果てはガチの哲学者たちが様々に定義や議論をしていて細かく考え出すと際限がなくなるが、普通の人が普通にのほほんと理解しているのは指示対象(シニフィエ)が発話状況に完全に依存している語または表現(つまりシニフィアン)のことだ。
 例えば「アヒル」という語は Deixis でない普通の単語だが、仮に私が池のほとりで山田さんと立ち話をしながら「あら、アヒルがいる」と言い、山田さんがそれを受けて「あら本当。アヒルだわね」と発言した場合、「アヒル」という語が指し示すのは同じアヒルである。さらに私が後でそのアヒルを思い出し、「アヒルさん、可愛かったわねえ」と山田さんに確認をとった場合も「アヒル」という語の指示対象は同じだ。また「アヒルはカモを飼い慣らした鳥である」という発言の「アヒル」は具体的な一羽のアヒルではなく、種としてのアヒル全般を示すが、これを私でなく山田さんが言っても指示対象は変わらない。
 それに対して Deixis は指示対象が発話状況によって完全に変わる。例えば私が10月10日に「今日」と言った場合、「今日」が指し示すのは10月10日だが、同じ語を10月11日に言えば指示対象は10月10日でなく11日だ。同じく10月10日に「明日」と言ったらそれは10月11日という意味だが、10月11日に「明日」と言えばそれは10月12日を意味する。
 さらに私が「私」といえばその指示対象は私だが、山田さんが「私」と言えば指示対象は山田さん。同じく私が「あなた」と言えば私の対話の相手だが、その相手が「あなた」という言葉で指し示すのは私である。「ここ」とか「そこ」なども同じく Deixis だ。
 つまりダイクシスにはいろいろ種類があることがわかる。「今日」「昨日」「明日」「来年」などを時間のダイクシス temporale Deixis、「私」「あなた」は人称のダイクシス personale Deixis、「ここ」「そこ」は場所のダイクシス lokale Deixis というが、その他にテキスト内のダイクシス innertextliche Deixis というダイクシスもある。それぞれいろいろと面白い現象があるのでちょっと見てみたい。

 まず時間のダイクシスだが、日本語では時間の表現に時間処格のマーカー「~に」をつけるものとつけないものがある。これは当該表現がダイクシスであるかないかの差だ。

私は10月10日に赤坂見附へ行きました。
私は昨日赤坂見附へ行きました。

「昨日」はダイクシスなので「に」がつかない。時間表現が複数の語から成る場合は最後の語が非ダイクシスならば最初の語がダイクシス、つまり全体としてはダイクシスでも「に」がつく。

私は来月の14日赤坂見附へ行きます。
私は来年の10月10日赤坂見附へ行きます。

例えば「来月の14日に」という句(太字)はダイクシス表現の「来月」が属格あるいは限定格(『152.Noとしか言えない見本』参照)をとって「14日」に接続する構造で、全体として一つの単位をなしているが、ヘッド名詞「14日」が非ダイクシスなので格マーカー「に」がつく。これを考えると上で述べたような「最後の語が非ダイクシス」という説明は不正確で、「ヘッド名詞が非ダイクシスならば」と言うべきだろう。単純に語の順番の問題ではなく、シンタクスの位置が重要なわけだ。当該表現が文の直接構成要素、つまり動詞のバレンツ構成要素である場合にのみダイクシスか否かが区別される。だから例えばここで「来月」が「14日」の支配を抜け出て直接動詞に支配されるようなシンタクス位置に上がってくると基本通り「に」なしの副詞句となる。

私は来月14日赤坂見附へ行きます。
私は来年10月10日赤坂見附へ行きます。

この場合の「来月14日に」は先の例と違って全体として一つの単位ではない。「来月」と「14日」はそれぞれ独立に副詞として働く二つの単位で、図で表すとそれぞれまあこうなる。

私は AV[来月の14日に] 赤坂見附へ行きます。
私は AV1[来月]  AV2[14日に] 赤坂見附へ行きます。

では「14日に」に「に」がつかなくても許されてしまうのはなぜか。

私は来月14日赤坂見附へ行きます。
私は来年10月10日赤坂見附へ行きます。

これはダイクシス云々とはメカニズムが違い、それこそ「省略」で、次のような文が許されるのと同じである。

私映画見たのよ。
山田さんと東京行くの。

ここでも本来あるべき「を」や「へ」が省略されているが、律儀に格マーカーをつけてそれぞれ「映画を」「東京へ」と言っても間違いではない。ダイクシスに「に」をつけると非文になるのとそこが決定的に違う。

* 私は昨日に本を読みました。

 さて、さる日本語の教科書で「毎日」と「明日」「昨日」「おととい」が同列に扱われ、

私は毎日勉強します。
私は明日勉強します。
私は昨日勉強しました。
私はおととい勉強しました。

と同じ文型になっていた。「毎日」だけがダイクシスではないのに「に」がつかない。もっとも「毎日」「毎月」などは発話時点を起点とした前後という風にダイクシスを拡大解釈できないことはないだろうが、やはり「明日」や「来週」と同列には置けまい。シンタクス上の振る舞いが違うからである。「毎日」「毎月」などは非ダイクシス表現の付加語になることができない。

私は来月の14日に赤坂見附へ行きます。(上述)
* 私は毎月の14日に赤坂見附へ行きます。

「毎月」は動詞が直接支配される位置にしか立てない。

私は来月14日に赤坂見附へ行きます。(上述)
私は毎月14日に赤坂見附へ行きます。

つまり「に」がつかないのはダイクシスの他にもあるということだ。それは何か。私の個人的な解釈だが(それともどこかの日本語の教科書にすでに説明されているのだろうか)、時間軸に固定されていないことを示す表現(temporally indefinite、『178.日本語のアスペクト表現 その2』)には「に」が つかない。「いつか」にも「に」がつかないのは同じ理由だろう。面白いことに「固定」が問われるのは時間のみで固定されてなくでもそれが場所だと処格マーカーがつく(太字)。

ガーン、どこかに財布を置いてきちゃった!
あの人とは以前どこかで会ったな…

また「朝」「昼」「晩」などの表現に「に」をつけないほうがずっと座りがいいのは、これらの時間は範囲があいまいで「非固定」あるいは「時間的に非限定」のニュアンスが強いからだろう。11時30分は朝なのか昼なのか、午後3時はまだ昼なのかは人によって意見が分かれる。「午前」「午後」のほうはニュアンスとしてはともかく、一応時間の範囲が定義されているから「に」との親和性が遥かに高くなる。

?? 朝に起きたらもう陽が高かった。
朝起きたらもう陽が高かった。

午前に一度買い物に行きましたが、午後にまた行きます。
午前一度買い物に行きましたが、午後また行きます。

私の感覚では両方とも「に」がつかないほうが座りがいいが、「午前」と「午後」は「に」がついてもOKである。「朝に」のほうが明らかに許容度が低い。
 曜日に「に」がつかないことがよくあるのもこの「時間的な非限定性」のせいだろう。曜日は循環するからである。もちろん日付だって毎月循環し、月は毎年循環する。しかし日付は月と言うさらに大きな単位にはっきり組み込まれおり、月が替われば循環はまた最初から始まる。年も一月からまた開始されるので、時間軸上の位置は固定している。これに反して曜日はそうはいいかない。月や年など大きな単位とは無関係に自分勝手に循環する。だから非限定・非固定のニュアンスが生じやすく、「に」なしで使われやすいのだろう。もっともその「非限定」はあくまでニュアンスであって「いつか」のように明確に意味に組み込まれているわけではないし、ダイクシスでもないから「に」をつけても非文にはならない。

私は日曜日に山田さんのところへ行きます。
私は日曜日山田さんのところへ行きます。

後者だと「毎週日曜日」という意味合いが強まる。

 ダイクシスと時間軸上の位置がはっきりしていない時間表現には格マーカー「に」がつかない、裏返すと時間表現に「に」がつくのは発話時点に関係なく時間軸上の一定点にはっきりと固定された表現だということになる。

 次に人称と場所のダイクシスだが、日本語ではこの二つの表現手段が交差している。「ここ(こちら)」「そこ(そちら)」「あそこ(あちら)」は場所のダイクシス表現ではあるが、純粋に話者との物理的な距離を表しているのではない。東京にいる話者がロンドンにいる人と電話で話している場合、ロンドンの天気について「そちらの天気はどうですか」ときく。東京は「こちらは暑いです」だ。しかしそこで現在ウラジオストークに住んでいる共通の知り合いが話題に上ったとしよう。その場合は「あそこも戦争になっちゃって大変そうですねえ」だ。ウラジオストークは東京からはロンドンより近いのにである。「これ」「それ」「あれ」についても同様で、例えばこういう状況を想定して欲しい。私は山田さんとテーブルを挟んで面と向かって話している。山田さんも私も手に花を持っている。でも山田さんはその手をテーブルの上に乗せているので花と私の顔との距離は20cmだ。一方私も花を持っているが私の方は手を下にダラッと垂らしているので花との距離は80cmである。つまり山田さんの花の方が物理的には私の花より近いところにある。それでも私は山田さんの花を「その花」、遠い自分の花を「この花」という。自分の花は顔からは離れているが自分の手とはくっ付いているから「この」なのだという理屈も成り立つが、では私が一旦自分の花を1mほど離れた隣のテーブルに置いてから、山田さんと話を始めたとしよう。それでも私は対面テーブル上の山田さんの花を「その花」というし、後方の花は「この花」と表現する。その際指でその花を指し示すだろうが。つまり「ここ」「これ」は一人称のダイクシス「私」と同機能、「そこ」「それ」は二人称、「あそこ」「あれ」は三人称なのである。だから「ちょっとこちらに来てください」を please come to this direction などとはさすがの私でも英訳しない。Please come to me だ。逆にいわゆる人称表現を使うと日本語はむしろ不自然だ。例えば次のような文だが:

こちらで全て準備してからそちらに送ります、あちらにもこちらから送っておきますのでそちらは何もなさらなくていいですよ。

これを

私たちで全て準備してからあなたに送ります、彼にも私たちから送っておきますのであなたは何もなさらなくていいですよ。

と人称表現を使うと安物の日本語の教科書かグーグル直訳の日本語のようで、普通に日本人が会話で使う表現から乖離している。私個人も「あなた」という言葉は滅多に使わない。渡辺吉鎔 氏によると韓国語も指示代名詞は「これ」「それ」「あれ」と同様三分割で、やはり人称代名詞を場所表現で代用させる場合が多いそうだ。

 最後のテキスト内のダイクシスというのは要するに照応(『148.同化と異化』参照)のことだが、指示が言語外には出ず、あくまでテキスト内、つまり言語内に留まる場合である。お前は何を言っているんだと罵られそうなので順を追ってみていきたいが、まず Brian is my friend. The man is very smart. を考えて欲しい。 Brian と the man は同じ対象を指示しているが、その際指示対象は言語外の実際の人物だ。図に描くとこうなる(もうちょっとまともな作図はできないのか)。
Schema1-191
以下の文でも同様の図式となる。

赤坂見附は青山一丁目の次の駅です。赤坂見附には日比谷高校があります。
schema2-191
最初の「赤坂見附」という言葉も二番目の言葉も言語外の赤坂見附と言う実際の場所を指示している。では次の二文の違いはどこにあるのか。

赤坂見附は青山一丁目の次の駅です。ここに日比谷高校があります。
赤坂見附は青山一丁目の次の駅です。そこに日比谷高校があります。

最初の文の「ここ」(太字)は言語外の場所を直接指示しているのではなく、聞き手が当該の場所にいることを想定し、「さあこの場所だよ」と言っている。「さあこの場所だよ」と言われて自分の周りをみればおや今自分は赤坂見附にいる。そして自分の今いる(と想定された)場所に日比谷高校がある、と発言者は表現しているのだ。つまり場所のダイクシスで、図にすると以下のようになる。
Schema3-191
それに対して「そこ」は場所ではなく、前に発言された「赤坂見附」という言葉自体を指している。指示対象シニフィエは言語外の赤坂見附と言う場所ではない、先行する「赤坂見附」という言語記号シニフィアンである。これがテキスト内ダイクシスだ。「次の停車は表参道です。そこで千代田線に乗り換えてください」の「そこ」も同じくテキスト内ダイクシスである。
Schema4-191
 次に「私はそう思う」と言う場合は既に発言された内容を示し「私はこう思う」では思った内容がその直後に来ること多いので、「そう」は前方照応「こう」は後方照応(『148.同化と異化』参照)とまとめたくなるが、上で述べた事柄に似て「そう」と「こう」では指示のメカニズムが微妙に違うと感じている。「私はこう思う:云々」と言うとき聞き手は一旦自分の周りを見ろと指示される。それで聞き手がキョロキョロとあたりと見回しているところにさあこれだ見ろとばかり発言内容が来るわけだ。ただし上の赤坂見附の場合と違って視点のある場所は言語内であるが。そして「こう」は後から来る内容ばかりでなく「とにかく山田は馬鹿だ。オレはこう思うね」などでは「こう」の指示内容が「山田は馬鹿だ」ということもありうる、つまり前方照応もできるが、「そう」はそうはいかず(お前はダジャレを言っているのか)前方照応しかできない。「オレはそう思うね。とにかく山田は馬鹿だ。」だと「そう」の内容は「山田は馬鹿だ」ではない。さらにひとつ前の発言である。
 面白いことに英語では「こう」にあたるthis のほうが前方照応・後方照応の二刀使いで「そう、ああ」の that のほうが前方照応オンリーだそうだ。指示される内容をイタリックで表す。

This is what he said, „How foolish she was!“ (後方照応)
He has apologized; this shows that he is sorry. (前方照応)

Who will do it? That is the question. (前方照応オンリー)

これは『22.消された一人』でも名前を出した安井稔教授の指摘である。とにかくダイクシスは「場所」「人称」「照応」の表現手段がいろいろ交差していて、言語哲学だけでなく言語比較の点でも面白い。

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