アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

März 2023

 1984年にミハイル・ショーロホフが亡くなったとき日本の新聞でも結構大きく報道されていたのを覚えているが、ノーベル賞をもたらしたその代表作『静かなドン』についてはとにかくいろいろと議論があった。特にその剽窃問題についてである。
 発端の一つとなったのがソ連体制、またショーロホフも含めた体制内作家を蛇蝎のように嫌っていたソルジェニーツインが1974年にニューヨークタイムズに発表した、『静かなドン』の真の作者はフョードル・クリューコフ Фёдор Крюков というコサックであるという主張である。これはソルジェニーツィンが藪から棒に考えついたわけではない。他にもショーロホフの剽窃を疑っている研究者はいた。その1人、歴史家のイリーナ・メドヴェージェヴァ=トマシェフスカヤ Ирина Медведева-Томашевская とはソルジェニーツィンも連絡を取っているが、メドヴェージェヴァ氏はソルジェニーツィンが件の記事を公にする前、1973年に亡くなっている。ソ氏はこれで世界中にセンセーションを起こしショーロホフ、ひいてはソ連の作家同盟の信憑性に大打撃を食らわせるとふんでいたが、ソ連側がそれを徹底的にシカトする作戦にでたので話があまり大きくならず、いわば爆弾は不発に終わった。ただ文学研究者など専門家の間では議論が続き、1977年にノルウェーの Geir Kjetsaa(何と読むのかよくわからないがゲイル・ヒェツォとかいう感じになるらしい)という学者がクリューコフとショーロホフの文章をコンピューター解析にかけて、この二人は文体から言って別人であるという結果を出したりしている。しかし確かに「原作はクリューコフではない」かもしれないが、ショーロホフが他のところからも剽窃していないという証明にはならない。『静かなドン』の元の原稿や資料などは革命戦争や大粛清、また第二次世界単線などで消失してしまい、剽窃にせよ自筆にせよ証明ができないのである。証明はできないが、当時の友人知人などの証言や細々と残る資料などから推してショーロホフが様々な源泉からその文章を持ってきたことは確実だ。
 実は『静かなドン』が発表された1929年当時にすでに剽窃問題が持ち上がっている。ショーロホフはそれ以前にはドン・コサックをテーマとするいくつかの短編しか書いておらず、作家としてまだ発展途上であった。それらの短編のあと中間をすっ飛ばしていきなり『戦争と平和』と比べられる長さの超大作を、年齢もまだ20台初めの若者が書けるものなのだろうかという疑いが浮上したのだ。調査団が組織されて調査にあたったが、そこでは一応『静かなドン』は確かにショーロホフの手によるものという結果がでた。これについてはいくつか考慮しておきたい点がある。まず、当時のソ連の著作権法では作家が別の著者の文章を使ってもそれが当該作家自身の芸術の完全な構成部分として全体構成に寄与していれば剽窃と見なされなかった。『静かなドン』は大量の資料をもとにして書かれた小説だが、多少原本資料と小説の文章が似すぎていても、それがしっかり小説の構成部分になっていれば元の資料の著者がその作家を剽窃で訴えても勝ち目はなかったのである。そういえば、ちょっと連想が飛躍するが山崎豊子も自分の体験よりも資料に頼って作品を書くタイプで、何度か盗作で訴えられている。それではショーロホフはその資料を何処から入手したのか。これは氏が小説を書くために自分から「取材」したのではなく、革命戦争のどさくさで資料の方から偶然によって氏の手に落ちてきたものである。敗走する白衛軍コサックたちが残していったのだ。ショーロホフはその資料を見て、自分がこれを残さなかったらこれらの文章は全く日の目を見ずに霧散してしまう、コサックの姿が誰にも知られず歴史の影に埋もれてしまうという危機感から、それを小説として書き残そうとしたという説もある。
 ショーロホフにコサックに対する特別な思い入れがあったことは事実のようだ。氏は南ロシアのコサック地域居住地にあった(公式発表によれば)クルジンスコエという村に生まれた。父(実は養父)は色々な仕事についたり農業も営んだりして特に裕福ではないにせよ生活苦にあえいでいる層ではなかった。母はコサックの血は引いていたそうだが家庭そのものはコサックには属していない。それでも周りのコサック、というよりその人々も含めて自分の生まれて育った土地というものに非常に愛着を持っていたらしい。後にソ連で立派な「上級国民」、裕福層になってからも他の作家と違ってモスクワには住まず、生涯生まれ故郷のビョーシキ Вёшки に住み続けた。地元の人たちのためにいろいろ貢献もしている。
 『静かなドン』がスターリンの気に入られ、その保護を受け特権を与えられてまあ物質的にはのうのうと暮らしていたので誤解されるが、ショーロホフは決して「スターリンの犬」ではなかった。1932年から33年にかけてショーロホフの地元、現在のウクライナやコーカサス地方で農民の強制集団化により農業が壊滅して百万の単位で人が餓死していったとき、氏は自分のネームバリューを利用してスターリンに直訴し、中央から送られてきて餓死寸前の農民からさらに穀物を没収していく冷血役人の行為を止めさせ、さらに農民への援助物資を送らせている。大粛清時にも言われなく逮捕された知り合いや、自分の名前を頼って助けを求めてきた地元の人たちに手を差し伸べている。もちろんいくらショーロホフでも無罪にはできなかった。でも少なくとも逮捕されたそれらの人たちの消息を調べて家族に伝えてやったり、裁判をやり直しするように取り計らったり精いっぱいの助力はしたのである。例えばプラトーノフ(『31.言葉の壁』『159.プラトーノフと硬音記号』参照)の15歳の息子が突然行方不明になり消息が全くわからなくなったときも、その子が秘密警察に逮捕されたことを調べだして伝えてやったりしている。
 大粛清の際ライバルに命を狙われたこともある。その時は「ショーロホフを消せ」と命令を受けたその人がショーロホフにチクり、モスクワに逃がしてやった。モスクワで氏はスターリンに直接訴えてライバルのほうを左遷させた。
 それにしてもショーロホフはなぜ昔の仲間でも容赦なく粛清したスターリンに最後まで粛清されなかったのか。これは氏が上手く立ち回ったというより、逆にあまり上手く立ち回ろうとしなかった、できなかったかららしい。一度側近からショーロホフは危ないと耳打ちされた時「あいつは政治については全くの子供で無害だ」と言って話に乗らなかったそうだ。つまりショーロホフは自分の地位を脅かせるような人物ではない、人畜無害と判断されていたのである。中央に出たがらないでド田舎のビョーシキに生涯引っ込んでいることも幸いしたのだろう。
 とはいえ周りの者が次々に消えていき、油断すると自分もいつ何時という恐怖を抱えて生活するのは精神衛生に破壊的作用をもたらすことは容易に想像できる。1930年代に『静かなドン』の挿絵をかきその後アメリカに移住したセルゲイ・コロリコフ Сергей Корольков というイラストレーターも、ショーロホフは大粛清の間に人間が変わってしまったと回想していたそうだ。また自分が正しいと思っている共産主義政府の蛮行(ホロドモール)を目の当たりにしてその無謬性に一抹の疑問も抱く。抱くが当時すでにその体制の中で特権階級として根を下ろしてしまった自分はそういう疑問を全て抑圧するしかない。もちろん人の心の中など外からは絶対わからないが、とにかくショーロホフが1930年ごろからすでに酒浸りになっていたのは事実である。そのアル中ぶりについては守護神スターリンもやや持て余しており、氏が後にノーベル賞を受けたりして外国に出ざるを得なかった際は、アル中とバレないように立ち居振る舞いの監視役をつけていたそうだ。
 さらに作家活動のほうも停滞した。『静かなドン』とそれに平行して書いた『開かれた処女地』で一躍政府公認の国民的作家となったはいいが、その後が全然続いていない。その『静かなドン』ですら15年もかけてやっとのことで仕上げたのだ。仕上げた後もスターリンの顔色をうかがって何回も文章や内容を修正している。大粛清の後の第二次世界大戦・独ソ戦の際は大祖国戦争を題材にして『静かなドン』級、いやトルストイの『戦争と平和』に匹敵するような大小説を書くようスターリンに要求され、書く書くと返事しながらついに果たせなかった。従軍記者として戦場の軍人などの取材もし、ある程度資料はたまったはずだが、「国民的作家」ショーロホフに何かあったらと直接弾の飛び交う戦線には行かせて貰えなかったらしい。でも理由はそれだけだろうか。トルストイだって実際にはナポレオン戦争を経験していない。「なぜショーロホフは書かないのだ。ひょっとして実は書ないのか?」という周りの暗黙の疑問・プレッシャーに本人が気付かないわけがない。それがさらに氏を酒に走らせた。
 どうも徐々にスターリンの寵は衰えだしてはいたようだが、それが決定的にならないうちにスターリンが死んだ(もっともスターリンがさらに長生きしていたらショーロホフは没落したかというとそうも思えない。そのまま国民的作家としての生活は保てたろう)。次のフルシチョフは徹底的に反スターリンだったが、上手く取り入った。いや、「取り入った」というのは正しくない。すでに氏の知名度が高すぎて今更消しにくかった上、氏は基本ノンポリ無害で別に消す必要もなかったと言った方がいいかもしれない。

ビョーシキのショーロホフ宅を訪問したフルシチョフ。フルシチョフの服のダサさが目を射る。
https://тихий-дон.com/news/media/2019/8/30/istoricheskaya-data-hruschyov-v-gostyah-u-sholohova/から
Scholochov-und-chruschtschev
 フルシチョフの下でショーロホフは『人間の運命』(1956)という短編を発表した。同作品は『6.他人の血』でも紹介した日本語の翻訳集に収められている。革命戦争を描いた他の短編と違い独ソ戦が舞台でドイツ軍の捕虜になりあらゆる辛酸を舐めながらソ連に生還した兵士の姿を描いたものだ。自分は生還しても家族はすべて失い(つまり全員ドイツ人に殺され)絶望の淵に立つが、偶然会ったみなし児を引き取って育てることに人生の意義を見いだす。失った息子の代わりに他人の子供に愛情を向けるというパターンが『他人の血』を想起させる。ショービニズムとかわざとらしいというのでは決してないが、私はこの作品が(他の短編と違って)何かの型に従っている、言い換えるとこの作品は何かの意図、文学作品をそのもの以外の目的で書かれたのではないかという印象を受けた。作品の成立事情をみていくとやはり明確な目的があったようだ。
 事の起こりはワシリー・クダーシェフ Василий Кудашев というショーロホフの親しい友人が独ソ戦の初期に志願していってしまったこと。その後部隊が全滅し、クダ―シェフの生死もわからくなっていた。そういう折に従軍記者をしていたショーロフはヤコフ・ジノヴィエヴィッチ・フェリドマン Яков Зиновьевич Фельдман(?)という、ドイツ軍に囚われて脱走してきた一士官の話を耳にした。自分の友人に照らし合わせてその捕虜の話が鮮明に記憶に残ったのである。さらに戦争が終わった後、クダ―シェフの妻が「クダ―シェフは1941年に戦死したのではなく、ドイツ軍に捉えられて強制収容された」という内容の手紙を受け取っていたと聞いた。それ以上の情報は全くなく、クダ―シェフも帰ってこなかった。ショーロホフの脳裏には捕虜を英雄として描いた作品を書こうという望みがよぎったが、その時点ではそれは不可能だったのである。
 スターリン下のソ連では敵の捕虜になった兵士は裏切者の烙印を押され、おめおめとソ連に帰ってきたりすれば収容所行きか銃殺、家族まで「スパイの仲間」の烙印を捺されて様々な嫌がらせを受けたそうだ。「生きて俘虜の辱めを受けず」はソ連の方が徹底している。その裏切り者を英雄視などする作品を書いたら作家まで危ない。
 その流れが変わり、捕虜の名誉回復が行われたのはフルシチョフになってからである。1956年、ジューコフ元帥の要求に従ってスターリン時代に裏切者扱いされていた捕虜を名誉回復するための委員会が設置され、ヒトラーの捕虜収容所生活を勇敢に耐え抜いた捕虜が英雄として扱われることになった。ショーロホフはそれを聞いてすぐに『人間の運命』を書き上げた。スターリンにやいのやいの催促されていた独ソ戦一大ページェントはとうとう仕上げ(られ)なかったのに比べてあまりにも露骨なスピード差だ。しかし、いざそれを発表しようとしたらどこの出版社でも二の足を踏まれた。ジューコフ元帥の委員会があってもまだまだ巷にはスターリン下の雰囲気が一掃できておらず、また『人間の運命』の主人公が捕虜生活で故国の家族に想いを馳せるのはソ連兵士のストーリーとして女々しすぎると思われたらしい。
 そこでショーロホフはフルシチョフに直訴して出版許可を願い出た。その場ではフルシチョフと馬が合ったらしい。双方ツンと上品ぶった「インテリ」が嫌いで、あまり上品ではないギャグや小話を飲み食いしながら楽しむタイプだったそうだ。氏が『人間の運命』の概要を説明しはじめるとフルシチョフは速攻でOKを出し鶴の一声で出版を取り計らってくれた。やはりこの作品には「(自分の個人的な友人も含めた)捕虜の名誉回復」というはっきりした目的があったのだ。その目的が史実を覆い隠してしまったようで、小説でソ連に帰還した主人公は丁重に扱われているのは事実と違う、ドイツ軍の捕虜になったのなら処罰されたはずだ、と出版後に批判も受けた。

 『人間の運命』は1959年にセルゲイ・ボンダルチュクが映画化した。陰影の濃いすばらしい名作だ。原作に忠実だが一カ所原作にはない部分があった。主人公ソコロフ兵士が他のソ連兵と共に捕虜となったとき、「怪我人はいないか」と同胞の間を聞いて回る軍医がいてソコロフも肩が脱臼していたのを直してもらう。捕虜になってまでも仲間の心配をする、これこそ軍医だと感激するのだが、原作ではその軍医のエピソードはそこで終わりだ。その後ドイツ軍が捕虜を整列させて何人かを全く無作為に選び出し、「ユダヤ人だろう」と決めつけて銃殺する場面があるが、映画ではその軍医が殺された中に入っている。これはショーロホフでなくボンダルチュクあるいは脚本ユーリー・ルキンの筆だ。

「怪我をしているのか、同志?」。主人公ソコロフ(左)はやはり捕虜になっていた軍医に肩の脱臼を治してもらう。
AreYouWounded
「ユダヤ人だな?」ドイツ軍の将校は全く無作為にその軍医を選び出す。
AreYouJew
軍医は逍遥として銃殺される。
Erschiessen
 その『人間の運命』を最後に、亡くなるまでショーロホフはまとまった作品を発表していない。スターリンとの約束した戦争小説は晩年に断片は書いて出版社に持ち込んだが拒否された。政治的な配慮ではなくて作品そのものが出版に耐えるレベルに達していなかったらしい。アル中の方も死ぬまで治らなかった。
 ではショーロホフはお上の注文に応じてお望みの作品を全部ゴーストライターに注文して書かせるか他人の文章をコピペするしか能のない三文作家だったのか?そんな作家にうっかりノーベル賞を与えてしまったスウェーデン人はいい面の皮だったのか?インゴルト Felix Philipp Ingold というスイスの作家などはそもそも作家としてのショーロホフは存在しないとまで主張している。あれはソ連政府がプロパガンダのため文才も教養もないそこら辺のアル中労働者(ショーロホフ)に白羽の矢を立て、その人が書いたことにしてクリューコフからブルガーコフから果てはプラトーノフまで、あちこち集めてきた文をつぎはぎして出版させ「プロレタリアートのトルストイ」という存在をでっち上げたのだと。『静かなドン』ばかりではない、それ以前に書いた初期作品まで氏の手によるものではないと。つまり、ショーロホフはマリオネット、体制が作り上げた幻影である。この主張はさすがにそこまで言うかと思うのだが、例えば私の手元にある「肖像画付きロシア作家事典」Russische Autoren in Einzelportraits にはアイトマートフやアナトリー・キムまで載っているのにショーロホフもファジェーエフも名前が出ていない。
 一方でアメリカの歴史学者バック Brian J. Boeck は剽窃行為は指摘しながらも氏の文才は否定していない。私の意見もこちらに近い。全く文才がなかったらあちこちの文章をつぎはぎして1人の主人公をめぐるストーリーとして小説にまとめ上げることさえできないからだ。私にいくらドーピングしたところで100mを10秒で走ることなど永久にできないのと同じだ。スターリン体制下でショーロホフは自分が本来持っていたその才能を十分に開花させることができなかった。上述のように大粛清や戦争中は大半のエネルギーを「生き残ること」、「友人知人を生き残らせること」に費やし創作にエネルギーを回せなかったからだ。またソ連のお囲い作家になってしまった以上プラトーノフのように野に下ることもできなかった。やればできないことはなかったろうが、ショーロホフは体制側につきその地位名声を利用して自分の身の周り、自分の近所の人たちを擁護する道を選んだ。事実ビョーシキ地方の人たちはひっきりなしに氏を頼って押しかけて来たそうだ。
 それにこれも上述のようにショーロホフはスターリンや政府に盲目的に媚びへつらっていただけではない。単純に飼い殺しの運命に身をゆだねていたわけではないのだ。自らの作品路線を貫こうとしたはしたのである。例えば『静かなドン』には敵側のコサックの軍人をポジティブに描きすぎているという批判が起きた。白衛軍の将校を勇敢で道徳的な人物として描くのは何事かと。その時氏は「その勇敢な白衛軍を打ち破った赤軍はそれ以上に勇敢で道徳的だという意味だ」と理屈をこねて承知させた。コサックに対する自分の愛着を貫いたのだ。『人間の運命』については上述の通りである。書けと言われた「一大戦争ロマン」を仕上げられなかったのも、捕虜を勇敢な兵士扱いしないようなストーリーにはできなかったかもしれない。それがやっと名誉回復できた時には自分の才能の方が枯渇していて短編にしかならなかったのだろうか。
 ショーロホフ自身も自分が書けなくなっていることを気に病んではいたようだ。上述のバックは自著のショーロホフの伝記 Stalin’s scribe でこんなエピソードを紹介している:1967年、ソ連の若い作家たちの集会の席でショーロホフが突然「皆さん、私は実際にいい作家なんですよ」と言い出した。ソ連政府に名を守られた国民的大作家としてのショーロホフしか知らない世代の人たちがそんな当たり前のことを言われて面喰いつつも、それを請け合うと氏は言ったそうだ。「いや君らはわかってない。私は『るり色のステップ』Лазоревая степь を本当に自分で書いたんだよ」。『るり色のステップ』は上述の『他人の血』と共に1926年の短編集に収められている作品である。どうしてそこで『静かなドン』でなく『るり色のステップ』を持ち出したのか本当のところはもちろんわからない。その初期の才能を正しい方向に持っていけなかった自分自身への嘆きなのか。
 バックはその箇所で『るり色のステップ』とはいったい何なのかについてわざわざ説明を入れ、手腕よく構成された短編だが「今はもう忘れられている」 Now it was forgotten. (p. 306) と書いている。ちょっと待て、ショーロホフと言えば『静かなドン』でも『開かれた処女地』でもなく、初期の短編が一番好きでいまだに時々読んでいる私をどうしてくれるんだとは思った。

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以前書いた記事の図表を画像に変更していっています(レイアウトが特にスマホではグチャグチャになるため)文章にも少し手を入れました。私は母語の日本語も、今まで勉強したことのある言語も全て主格・対格言語なので、能格言語に憧れます。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。
Tabelle1-144
「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出した。例えば Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。
Tabelle2-144
フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。
Tabelle3-144
 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet


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