アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Dezember 2022

 今回のサッカーW杯はスッタモンダの末ドイツがまたしても予選落ちしてアルゼンチンが優勝した。前回ドイツがコケたとき「大丈夫だ。次は韓国でなく日本に負けるから安心しろ」と私が言ったのは単なる冗談(のつもり)だったが、蓋を開けたら現実はそれ以上に過酷、2014年の呪い(『124.驕る平家は久しからず』参照)が全く解けていない展開となった。口は災いの元、相手に対するリスペクトを忘れて傲慢になると自分の方が没落するのは古今から様々な童話やおとぎ話で出しつくされたストーリーである。やはり口は慎んだ方がいい。
 それにしてもアルゼンチンは強かった。ここに勝てたのはサウジアラビアだけだ。本当に凄いチームだ(サウジがだ)。アルゼンチン戦でチームを勝利に導いたサレム・アル・ダウサリ Salem Al-Dawsari  の2点目のゴールは家で取っている新聞でしっかり「今大会で最も美しいゴール20」の一つに選ばれていた。

 しかしサウジアラビア以上に凄かったのはモロッコだろう。予選のグループはモロッコ、クロアチア、カナダ、ベルギーで、ほとんどの人が心の中でクロアチアとベルギーが本戦に進むだろうとふんでいたと思うが、クロアチアとは引き分けたものの、カナダ、ベルギーを粉砕してモロッコがグループ一位で予選を通過した。このあたりから普段いがみ合ったりしているアラブ系やアフリカの国々の人たちがこういう時だけ一致団結しはじめ、世界の広範囲にわたって一大サポート軍団が形成され始めた。しかし本戦第一戦目はスペインである。これもほとんどの人が心の中でスペインの勝利だろうと思っていただろうが、双方得点のないままPK戦に持ち込まれてモロッコが勝った。その得点の入らなかったレギュラータイムも決してダレていたわけではない、点を入れるチャンスもあり、ゴールの試みもあり、結構スリルがある展開ではあったのだ。その時点でアラブ世界を越えて欧州の観戦者も「おや、このチームは結構やるな」と姿勢を正し始めた。そこへ持ってきてあのPK戦である。まずスペイン側の最初の二人が外した。その前に日本・クロアチア戦でやはりPK戦になっていたが、これも日本は始めの二人が外し、ネット上では「PKくらい練習しておけ」などという無責任な発言が書き込まれたりしていたのだ。スペインよお前もかと皆思っただろう。モロッコのほうは二人まで順調に入れていたが3人目がキーパーに阻止されたので、これでスペインの次、キャプテンのブスケツはさすがに入れるだろうからまだ勝負はわからないと皆が(皆って誰よ?)思っていた矢先にブスケツまでキーパーのヤシン・ブヌに止められた。このブヌはボノとも発音され、カナダ生まれでヨーロッパでも活躍しており、結構名を知られているキーパーである。笑い顔が可愛いと評判でブスケツのゴールを止めたときも顔が笑っていたとあちこちで囁かれている。その次、待ったなしの状態で出てきたのがよりによってアシュラフ・ハキミだ。なぜよりによってなのかと言うとハキミはスペイン生まれで、スペインの国籍も持っているからである。そのハキミがパネンカ・キックを入れ試合終了

ブスケツまで止めたPKキラー、笑顔のボノ。https://www.goal.com/en-ng/news/watch-bounou-denies-busquets-as-morocco-reach-world-cup-quarter-finals/blt87c717dee835ee58から
Bounou-smiling-bearbeitet
 PK戦自体もスリルがあったがそれより面白かったのはモロッコ側の観客席の様子である。面白いというと失礼かもしれないが、いい歳のおじさんが涙ぐんだりしている(もっともサウジアラビアがアルゼンチンに勝った時も泣いていたおじさんがいた)その狂喜乱舞ぶりを見たらこちらまで便乗サポートしたくなった。便乗と言えば、モロッコ・スペイン戦の後こちらではクラクションブーブーの自動車が夜っぴて走り回り、通りでは朝まで叫び声がしていた。いくら移民国ドイツと言ってもこの町にそんなにたくさんモロッコ人が住んでいるわけがない。チュニジアやアルジェリア、さらにパレスティナやシリア、エジプト人などアラビア語圏の人たちを全部勘定に入れてもまだ声量が大きすぎる。あれは多分トルコ人までどさくさに紛れて騒いでいたに違いない。
 もうモロッコはこれで十分だ、よくやったお疲れ様と誰もが思ったがまだ先があった。ロナウドのいるポルトガルに勝ったのである。予選でなら部外者が強豪に何かの間違いでチョロっと勝ってしまうことはあるが本選で強豪2チームをやっつけたとなるとさすがに偶然の範囲を超えていないか。続く準決勝ではフランス、3位決定戦でクロアチアに負けはしたが、その時も点を取られて総崩れになどならず、最後まで見るに足る試合を展開した。特にフランス戦でジャワド・エル・ヤミクが後ろ向きの姿勢で試みたあわや同点のゴールは語り草になっている。今さら「たられば」を言っても仕方がないとはいえ、あれが入っていたら試合の流れが完全に変わっていたに違いない。おかげでモロッコの「アトラスの獅子」というニックネームが定着したが、実は私はポルトガル戦の後彼らに「アブド・アル・ラフマーン一世軍」というあだ名をつけていたのである。北アフリカからやってきてイベリア半島全体を征圧したからだ。

エル・ヤミクはこの姿勢でゴールを試みた。引用元はそれぞれ
https://www.eldesmarque.com/futbol/mundial/1608141-las-delicatessen-de-qatar-2022-los-mejores-detalles-de-calidad-del-mundial

https://news.cgtn.com/news/2022-12-15/CGTN-Sports-Talk-France-end-Morocco-s-World-Cup-miracle-1fMBtD64zm0/index.html
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 こちらはモロッコに対して好意的な報道が多かった。モロッコが予選を通過し、アラブ語圏が全部後ろについてフィーバーしている姿を見て現地のレポーターが「政治も日ごろの争いもない。これがスポーツの意義でしょう」と言っていたが、私もそう思った。そもそもうるさく言えばモロッコは「アラブ民族」ではない。住民の多数はベルベル人である。私が以前会ったモロッコ人もアラビア語とベルベル語のバイリンガルだった。だからアフリカ人はもちろん、モロッコを応援するアラブ人たちは異民族を応援していたことになる。ここがスペインに勝った時もパキスタンやインドネシアからまでお祝いの書き込みがあった。逆に当チームの選手は外国生まれ・外国育ちが圧倒的多数。ハキミやボノばかりではない。それら「事実上外国人」の選手をモロッコ中が何の自己矛盾もなく同胞扱いして応援する。国とは何か、民族とは何かを考えさせられた。
 私は個人的に将来「国」というのはそういう方向に進んでいくのがいいと思っている。例えば日本国内の日本人とほぼ同数の日本人が外国生まれ外国育ちで、日本国内の住人も半数くらいが異民族、つまり在外+在日の日本人対在日外国人の割合が2対1,在外日本人対在日住民(そのうち日本民族は半数)の割合が1対2という想定をしてみよう。それだと在日日本人が全体の3割強しかいないことになる。言語的にも在外日本人の中にはもちろん日本語より現地の言語が優勢な人もいる。逆に在日外国人には日本語が母語の人もいる。こうなればちょっと周りと意見が違ったくらいで「お前本当に日本人か」などという意味のない質問を罵声のつもりで浴びせる輩も減るだろう。 
 そもそも選手を見れば瞭然だが、強豪扱いされている欧州のチームはすでに「移民」に頼りきりである。サハラ南北のアフリカ出身の選手がメチャクチャ多い。そうやって普段頼っているくせに彼らがたまにPKを外したりすると恩知らずな人種差別的罵声を浴びせたりする人がいるのは何様だ。それでも彼らが欧州の国のために戦っているのは単に「国には活躍の場所がない。出身国でサッカーなどやっていたらWCなどには永久に出られない」からではないか?出身国でもWCに出られるということになれば、欧州各国のアフリカの選手が雪崩をうって自国に帰り、欧州はスカスカ、ジダンもンバッペもいないチームでフランスはどこまで行けるか見ものだ。今回のモロッコを見ていたらそんな想像までしてしまった。政治的にはモロッコもカタールも個人的にちょっと住みたくはないのだが(褒めたり貶したり忙しすぎるぞ)、欧米だって褒められる部分ばかりではない。とにかくサッカーでは欧米・南米の独占状態がガタつくのは正直歓迎である。

 話が逸れたのでPK戦のことに戻すが、今大会ではPKの失敗が非常に目立った。まず日本もスペインも最初の2人が連続して外した。フランスはそれを見たからか、ンバッペを最初に持ってきた。景気づけというか、「良い例」というか「これに続け」というシグナルだろう。さすがにンバッペは入れたがその後が2人連続で外し、日本、スペインとほぼ同パターンとなってしまった。大体PKというのは入るのがデフォではないのか?だからこそたまにシューターが枠にあてたり(ベッカムのようにホームランをかっ飛ばすのは論外)、キーパーが止めたりすると「おおおっ」となるのだ。3人目くらいからその「おおお」が始まり4人目5人目で緊張感が頂点に達するという展開しか記憶にないので、今度のように最初からボコボコ外すPK戦が続出する症状はカタールの風土病か何かじゃないのかと疑っている。
 その風土病をものともせず平常運転したのがオランダで、対アルゼンチン戦では15枚のイエローカードが飛んだ。これは大会記録だそうだ。アルゼンチン側の分も含めての数だが、例えばボウト・ベグホルストが控えのベンチにいる時からすでに黄を食らうというオランダならではの伝統芸で、途中プチ場内乱闘などもあり、見ている方はさあ次は16文キックが出るぞ(『124.驕る平家は久しからず』参照)とワクワクした。チーム内にデ・ヨングという名前の選手がいたからだ。しかしこのデ・ヨングは名字が同じでもクンフー家デ・ヨングとは別人である。残念ながら(?)待望のケリは披露してくれなかった。

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 前にも出したダイグロシアという言葉がファーガソンの造語と思われがちなのに実はそうではないのに対し、今流行の(?)メリトクラシーという言葉は巷で思われている通り社会学者のマイケル・ヤング Michael Young の造語である。1958年に出版された the rise of the meritocracy というエッセイで登場した。ファーガソンのエッセイ的論文 Diglossia が出たのが1959年、チョムスキーの Syntactic structures が1957年出版だから、まさかヤングがわざと言語学と連動したとは思えないが、とにかく1960年直前から前半にかけてはエポックメーキングな時期だったようだ。ついでに『荒野の用心棒』もこの時期の制作である。
 ファーガソンの Diglossia も論文と言うよりエッセイに近かったが(『162.書き言語と話し言語』参照)、ヤングの the rise of the meritocracy は本当にエッセイである。しかも2033年にそれまでの社会の歩みを追うという設定だからからエッセイと言うよりはSF小説・未来小説のようで、内容は硬いのに「面白い」という言葉がぴったりだった。しかも最後にオチというかどんでん返しまでついている。ファーガソンやトゥルベツコイのエッセイ(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)はここまでスリルはない。提起される問題・議論が「人類社会は何処に行くのか」と「印欧語とは何か」「バイリンガルとは何か」では重みとしてはやはり前者の圧勝だ。印欧語の何たるかなどという問題は実際の生活に全然関わってこないからだ。

 メリトクラシーというのは「業績主義」「能力主義」ということだが、ヤングはこのメリトクラシーをそれまで英国で続いてきた世襲に変わる新しい階級社会として描き出している。「階級社会である」という軸はぶれていないのだ。だからいわゆる社会主義者が唱える「人は皆平等」という考えかたは、「センチメンタル」「ポピュリスト的」として洟もひっかけない。人類皆平等などというのは幻想というわけだ。念のため言っておくと、ヤングはそう主張しているのではなくわざとそういうことを言って問題提起しているだけだからあまりここで落ち込まないことだ。この先さらに描写が過酷になるから心の準備が必要だ。

 以前の英国では世襲的階級社会で、貴族、上流階級、労働者階級という風に枠ができていて、どの枠の中に生まれるかで大方職業や人生が決まってしまっていた。その際各々の階級内にはそれぞれ様々な知能の人がいた。頭のいい貴族もいたが、今の義務教育さえクリアできそうもないバカもいた(「バカ」などという差別用語を使ってしまって申し訳ないがヤングは本当に stupid、moron などの言葉を使っているので失礼)。しかし貴族に生まれればどんなバカでも国の要職につくことができたし金にも困らなかった。逆に下層階級にも天才的な頭脳の人がいたが、生まれが生まれなために社会の階段を這い上がれず、一生単純労働者として自分よりずっと頭の悪い周りの人に混じってトンカチをふるうしかなかった。
 国際間の競争が激しくなってきた昨今、こんなことをやっていたのでは生産性が上がらず国が衰退する。優秀な人を下層階級からドンドン這い上がらせてエリート教育し要職につかせるべきだというので様々な対策が立てられることになる。

 まず教育だ。選抜教育に力を入れるべきで、小学校中学校まで皆同じなんてやり方はアホ。小さい頃から頭の出来に応じて学校は分けるべき。グラマースクールその他の学校格差を廃止して機会均等とやらのために一律の総合学校なんかを設置するのは害にしかならない。頭が悪い生徒といっしょになんかさせておいたら、馬鹿が感染してしまい(とまで露骨な言い方をヤングはしていないが)子供の発達が障害される。できるだけ早い時期に頭のいい子だけでまとめ、エリート教育を開始すべきだ。エリート、つまり国や企業を引っ張っていく力のある人間というのは単に頭の回転が早いだけではだめ、それ相応の教養・立ち居振る舞いを身に着ける必要があるが、そういうのは付け焼刃で身につくものではない。特に下層階級の子供は才能があると分かった時点で上流階級の子供以上にできるだけ早く周りの馬鹿から引き離し自分と同等のIQの子供たちと(だけ)接触させるべき。でないと長年染みついてきた下賤さが振り落とせない。下層階級からIQの高い子供を引っ張り上げてエリートにするのは国益である。
 ヤングはアメリカの教育制度についてもちょっと触れ、馬鹿も利口も一律にエレメンタリ→ジュニア・ハイ→シニア・ハイと進む「平等」な教育をコキ下ろしている。もっとも幸いアメリカには大学間にレベルの差があって、そこで生徒が競争でき、頭の出来によって、いい大学・馬鹿大学というランク分けできるからまだいいが、実は17歳18歳になってからやっとIQによる選抜が始まるのでは遅いのだ。本来小学校に入る以前からしっかり知能検査して振り分けるべき。そして能力のない子供は下手に高等教育に進学させたりしないで中学程度で教育を終わらせ、さっさと働かせなさい。進学させたってどうせついていけないのだから。

 能力のある子供が下層階級だった場合逆の問題が出てくることがある。階級にふさわしく両親の人生観も下賤なことが多く、「知」の価値がわかっていない。せっかく自分の子供が知能的に高等教育の資格を持っていても「大学なんかに行く金が無駄。それよりさっさと就職しろ」と教育を中断させたりする。そういう下賤な親を黙らせるためにグラマースクールに行けた生徒には給料を出したらどうだろう。下手な労働者より多く出してやれば利口な子供の邪魔をする馬鹿な親も黙るだろう。
 もっとも能力のある下層階級の子供を「吸い上げる」のはそれでもまあ比較的簡単だ。やっかいなのは上流階級の子供が馬鹿だった場合である。親は自分たちは上流だと思っているし金もあるから子供にどうしても高等教育を受けさせたがる。さらに自分の所有している会社の幹部にしたがったりする。しかし能力・知能もない奴に大学に来られたりしたら周りの利口な学生の足を引っ張るから社会の迷惑だ。また頭の悪い奴が経営している企業が増えたら国益が損なわれる。同族経営、コネ進学などを不可能にするような制度が必要だ。例えば国民全員のIQリストを国が管理するというのはどうだろう。まあ日本のマイナンバーに「IQ」という項目があるようなものだ。

 もちろん能力検査のやりかたは心理学者や脳神経学者が研究を重ねて、能力のある人を捕りこぼさないようにしていかなければいけない。またIQ検査も受験者が当日たまたま風邪を引いていたり心の悩みを抱えていたりして低く出る可能性もあるし、そもそもスロースターターで知能の高さがある程度の年齢になってからジワジワ現れてくる人もいるからIQ検査は定期的に何度でも受け直せてアップデートできるようにする必要がある。

 つまり目ざすべき社会では学歴と能力・実力が完全に一致していて、学歴を見れば実力がすぐわかる社会、能力がある者だけがのし上がれ、貴族だろうが親が金持ちだろうが馬鹿だったら下に甘んじてもらうという、ある意味非常に厳しい階級社会なのである。いわゆる社内教育にもヤングは否定的。企業がグラマースクールや大学の真似事をして偉ぶりたい気持ちはわかるが、そんなものは「正規の学歴」の代わりにはならないというわけである。
 学者が粋を集めた能力検査は非常に精密なので無能な人がいいスコアを出してしまったり、能力のある人を捕りこぼしたりはしないようになっている上、上で述べたように繰り返しがきく。グラマースクールの生徒には給料が出る。そこまでしてやっても這い上がれない労働者階級と言うのは要するに能力がないということ。運が悪いの金がないからだのという慰めは通用しない(「彼らは劣等感を持っているのではない、実際に劣等なのだ」という表現が出てくる)。「勉強だけデキテモー」とか「頭デッカチ」と能力上流階級を罵ることもできない。IQの高い者にはその「社会の実力」も身につけさせるからである。救いようがない厳しさだ。その厳しい階級制度を維持するにはいろいろ解決すべき課題が生じる。
 まず、能力的に下層階級の人をどうするか。彼らが嫉妬や絶望のあまり外で暴れたり人生に希望を失って自暴自棄になったりしないよう懐柔しないといけない。その1は彼らにスポーツをさせることだ。頭で誇れない代わりに筋肉自慢をさせて得意になっていて貰えばいい。その2は、自分は下層でもいつか頭の良い子供や孫が生まれるかもしれないと、次の世代に希望を持たせ、自分は一生下層階級という人生に甘んじてもらうことだ。その3は「何もしない」ことだ。能力が下層の人にはそもそも組織的な抗議運動を起こしたり、政治の場に代表を送り込んだりできる頭はないから譬え多少暴れてもそれは単発に終わり、社会不安にまではならないだろう。
 さらにこれもある意味懐柔策だが、職業名称などをマイルドにしてあまり下層感を持たせないように変更する。だから例えば rat-catcher の代わりに rodent officer、lavatory cleaner の代わりに amenities attendant、 worker でなく technician と呼ぶ。Labour PartyはTechnicians Partyという名前に変更だ。こういうリップサービスをしておけば彼らもまあ自分が高級になったような気になってくれるだろう。

 ここまでですでに背筋が寒くなるが、まだ先がある。もう鬱病になりそうだ。

 さて、馬鹿が劣等感に駆られて暴れないように懐柔策を練ることに成功はしたとする。しかしそこでさらに大きな問題が起こる。IQ上流階級の人がドンドン社会を合理化し生産性が上がるにつれてIQの低い人たちにできる仕事が減っていくのである。単純作業などは皆機械がやるからだ。彼らに居場所を提供してやらないと社会が不安定になる。解決策としてIQの低い人たちには高い人たちの召使になってもらうというのはどうだろう。生産性の高い人がその能力を全て社会のために発揮できるよう、部屋の掃除やスーパーでの買い物などという下賤な仕事から解放してやり、そういう些末な作業はそれにふさわしいIQの人たちにやってもらえばいい。そうすれば能力的下層階級の人も失業しないで済む。
 
 ここでお花畑の社会主義者からクレームがつく。人間の価値とは何か?学歴・能力・IQだけが人間の価値なのか?それに対する答えはこうだ。人間の価値、美徳の基準などというものは世につれて変わる。昔槍をもって戦争していたころは力が強く人殺しの上手いのが美徳だった。封建制の頃は忍従の美徳、自分を捨ててご主君様に追従するのが美徳とされた。今の社会では生産性が美徳なのである。今の時代は学歴IQの高いものは低学歴よりも人間としての価値があるのだ。時代や社会に全く影響されないユニバーサルな「人間の価値」などというものは社会主義者のお花畑脳の産物だ。
 そもそも馬鹿も利口も選挙で同じ一票が入れられるというのは不合理だ。IQ値の高い人の一票は馬鹿の何倍かの重みを与えたほうがいい。

 しかしメリトクラシー社会を内部から不安定にしそうな要素は馬鹿の暴走ばかりではない。実は議会制・民主主義が危なくなる危険性があるのだ。今述べた「学歴によって一票の重みに差をつける」というのも相当危ないが、例えば労働者を代表する党を考えてみて欲しい。党員になるのはつまり労働者、知的下層階級である。そういう知能平均の党とそれよりずっと知能の高い大学教授や企業主を代表とする党はそもそも議会で話合う事さえできない。言語能力、教育程度が違いすぎるからだ。議会の権限を弱めて立法機能の一部を行政側に移行する手もあるがそれでは議会が単なる飾りになってしまう危険がある。それだと民主主義そのものがヤバくなるので(上述のように馬鹿の一票を軽くしたりすればすでに十分ヤバくなると思うが)、「下層階級の声を代表する」党が幹部や党員を当該階級でなく、ヨソのもっとIQの高い職業層から引っ張って来るしかない。どちらにしてもIQが下と見なされる職業層は政治に自分たちの声を送り込めなくなるのだ。これをどうするかが課題となる。

 もう一つの課題は女性問題である。基本的にはIQの高い女性にはドシドシ上昇してもらって馬鹿な男がのさばったりしないようにするのが国益だ。制度を整備してそういうことにならないようにすべきだが、現在の社会時点では実際問題として結婚すると女性の負担が増え、能力を上手く生かせないことが頻繁だ。そこで女性は結婚生活と仕事と力を半々に分散させるか、あるいは家事なんかはIQの低い召使に全部任せるか、さらにあるいは自分のIQを犠牲にして家庭生活を選ぶかということになるが、子供が生まれると頭だけでなく体にも負担が出るのでたとえ召使を使っても女性のIQの損失を賄いきれない。またIQの高い女性は当然子供も少なくとも自分と同等のIQを持ち自分より下の階級に落ちないように望むから、その確率を上げるため(頭のいい両親に馬鹿が生まれることだってある)できるだけIQ値の高い配偶者を探すようになる。
 だが考えてみて欲しい。結婚すると自分のIQが無駄になるのは確実、譬え高知能の配偶者を選んでも自分の子供が下に転落する危険性があるとなれば、馬鹿でもない限り(これらの女性は文字通り馬鹿ではない)結婚なんてヤーメタとなるだろう。子供も下手に自分で産んで転落のリスクを犯すより出来合い、つまり労働者階級の親から生まれた高IQ値の子供を養子として持ってきた方が確実だ。それで「養子仲介業」が盛んになる。下層階級の人はすぐ金のことを考えるので養子受け入れ側の女性が親にたんまり金を出せばすべて丸く収まる。この人身売買があまりにも横行したため、ついに政府は養子制限令を出すに至る。でないと一旦能力の上流階級に属してしまうとそれが世襲する危険が生じるからだ。
 そうこうするうち能力検査のやりかたも脳神経学者たちの努力の結果非常に確実さを増し、子供が生まれた時点、いや生まれる前にすでに将来のIQがわかるようになる。これも養子獲得競争が熾烈化した原因だ。

  以上がヤングの2034年以前の英国社会のシミュレーションである。昔は生まれた家柄で人生や職業が決まってしまっていたが、それが生まれたときのIQでその後の人生がすべて決まるようになるのだ。もっともヤング自身も描き出しているように実際は様々な問題が噴出してきてそうすんなりとは行かない。それからどうなるのか、人類社会はどこに行くのかという問題提起がエッセイの趣旨だ。

 ヤングのこのシミュレーションは舞台が英国社会に限られている。英国が台頭してきたアメリカ、ソ連、アジア諸国と生産性競争で勝ち抜くにはどういう社会を目ざすべきかというシミュレーションである。このエッセイが書かれたのは1958年だからまだ現在のようにはグローバル化が進んでいなかった頃なので、その点では視点が狭い。ちょっとこれを世界規模にまで敷衍して思考ゲームをして見よう。

 今までは生まれた国で一生を過ごすのが基本であった。国にはもちろん馬鹿から天才まで幅広い知能、幅広い能力の人がいた。イギリスの閉ざされた階級社会のようなものだ。このカースト、国籍だの民族の壁が取り払われて頭のいい人はジャンジャン自分の生まれた国を出てもっといい国に移動するべき、出身階級・出身国になんてこだわっていないで「上流国」に渡ってそこで自分の能力を十分発揮するのが人類全体の発展のためという国際社会の社会意識や価値観、コンセンサスが確立されたとする。というよりすでにそれがある程度コンセンサスだが。すると文明文化・技術の進んだ国にはガンガン世界から頭のいい高学歴の人が集まってくる。頭のいい人は語学だって得意だから言葉の壁なんて屁のようなものだ。そうやって住民の50%がIQ150以上である国が出てくる一方、国民の1%くらいしかIQ150がいない(むしろそっちのほうが普通だろよ)国も生じる。IQ100以下などめったにいない国とIQが80くらいの人が10%以上もいる(これもそっちが普通)国ができる。150と80ではお互い意思の相通が困難になるほどだから、国連総会なんて存在意義がなくなる。そもそも国民総低IQになったら政治ができないから国が成り立たない。ヤングのシミュレーションした英国の労働党ではないが、自党のメンバーでは組織を維持できないから頭のいい人を外国から引っ張ってきて行政をやってもらうしかない。
 では高IQ国が万々歳かというとそうはいかない。その国にふさわしくないような頭の悪い自国民をどうすべきかという問題が生ずる。馬鹿に国内に居残られたら自国民・移民を問わず頭のいい人たちの足を引っ張るからである。それに国内にはそういう人たちが就ける仕事も能力の高い人の召使くらいしかない。やはり定期的に国民にIQ検査をして一定のスコアを取れなかった人は等級の低い国に移住してもらおう。国民引き取り代として向こうの国に金を払えば喜んで馬鹿を受け入れてくれるに違いない。こちらも別の意味で言葉の壁の心配などいらない。引受先にはどうせサバイバル程度の語学で足りる仕事しかないからだ。
 現在の調子だとそういうことを本当にやる国が出てきそうで怖い。

 こういうのが人類の幸福か。「冗談じゃない」というのが私の気持ちであるが、ではこういう暴走をふせぐために逆にガッチガチに民族・国籍で国を囲ってしまい、ちょっと外国人が来たくらいでパニックを起こし、自国民が出ていくと裏切者だのもう帰って来るななどの罵声を浴びせる国ならいいのかというと、それも「勘弁してくれ」だ。「外人来るな」はむしろ実行が簡単だろうが、能力のある自国民の流出を食い止めるのは難しい。頭のいい人は国を出る能力もあるからだ。その力のある自国民を引き留めるのがどんなにむずかしいかは、旧ソ連や東ドイツを見ればわかる。壁を作り情報を統制し国民を監視するには膨大な費用がかかる。この国際競争時代にそんなムダ金を使っていたら国は衰退するばかりだ。物質・経済面ばかりではない、壁を作ってしまったら中の国民は精神的にもガラパゴス化し、知識をアップデートできないから周りの発展についていけない、搾りカスのような国民国家になること請け合いである。

 つまりメリトクラシー全開の国とガラパゴス単一民族国家間の選択は「冗談じゃない」か「勘弁してくれ」かの選択ということになる。ドイツ語ではこういう状態を表わすのに「ペストかコレラかのどちらかを選べ」という言葉がある。まさに救いようのない選択肢だ。

the rise of the meritocracy の表紙。表紙のイラストはちょっと可愛いが中身は過酷。
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本の内容はこちら。表紙が上とちょっと違いますが…

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前回2018年のWCでドイツが予選落ちしたとき、私が冗談で「次の2022年も予選通らないから安心しろ」といったら、「サッカーのことなど何もわかっていない弱小国日本人が何か言ってる」的に鼻で笑われたが、私の言った通りになったじゃないか。

もとの記事はこちら

 ドイツ語にSchadenfreude(シャーデンフロイデ)あるいはschadenfroh(シャーデンフロー)という言葉がある。前者は名詞、後者がそれに対応する形容詞だ。私の辞書には前者は「他人の不幸または失敗を笑う」、後者は「小気味よく思う気持ち」とある。Voller Schadenfreude で「いい気味だと思って」。なかなかうまい訳で原語のニュアンスも伝わっている。これらの語は「他人の不幸」といっても深刻な不幸に見舞われた場合には使えないからである。殺人犯人が捕まって厳しい刑に処されたのをみて心のうちに感ずるある種の感情はSchadenfreudeとは呼べないし、いくら嫌いな人でもその人が破産して絶望のあまり自殺したりしたら普通の人はschadenfrohになどならない。深刻すぎるからである。嫌いな人が道でつまずいてコケ、尻餅をついたらSchadenfreudeを感じるだろうが、そこでその人が膝をすりむいて血だらけになったらもうSchadenfreudeの領域を超えている。生物的あるいは社会的な命に別状のない、軽い範囲がこの言葉の使用範囲である。上述の辞書にある「いい気味だ」もうまいが「ざまあみろ」と訳すこともできるだろう。

 今回のサッカーWCでドイツが予選落ちした際、私がつい心の中で抱いてしまった感情はこのSchadenfreudeであった。別にそれによって死者が出たわけでも誰かが自殺したわけでもない、たかがサッカーの話だからである。昔誰かから聞いたところによると南米あたりでは敗因を作った選手は銃殺されたりしたことがあるそうだが、ドイツでは選手の命が危機にさらされることはないだろう。たぶん。被害を蒙ったといえば、多大な需要を当て込んで旗だろ選手の写真カードだろを作りまくり、大量の売れ残りを出した商魂丸出しのスーパーくらいだろうが、こっちのほうも正直「ざまあみろ」だ。
 ドイツは1954年に初めて世界選手権を制して以来、そもそもトーナメントの一回戦で負けたことがない。つまりトーナメントには必ず行っていたのだ。1954年からの前回2014年までの16の世界選手権のうち、優勝が4回、決勝戦進出が8回(つまり4回は決勝戦で負けている)、準決勝までが4回、準々決勝までが4回だから、16分の12、4分の3の確率でベスト4まで残っていた。だから以前にも書いたように国の全体としての雰囲気として、予選は通ると決めてかかっている。チームが勝って上げる歓声も勝ったこと自体より「強いドイツ」を再確認した喜び、大国俺様的な傲慢さを感じさせてどうも私はいやだった。それだけなら単に私のへそ曲がりな判官贔屓に過ぎなかっただろうが、ドイツが前回のWCで優勝した際、お祝いのパレードのとき「ガウチョ野郎を粉砕してやったぜい」的な発言をして2位になったアルゼンチンを揶揄したので完全に失望した。負けた相手をリスペクトしないような奴は今にブーメランを食らうぞと思った。そう思っていたらその発言を聞いてほとんど涙ぐむ在独アルゼンチン人の女性の映像が流された。この女性は長くドイツに住んでいるのでドイツが優勝したのを、まあアルゼンチンが負けたのはくやしいがいっしょにお祝いしようとしていたのだ。本当に同情に耐えない。打ち負かした相手をさらに貶める必要がどこにあるのだろう。以降、それまでは「苦手」だけだったのが「嫌い」になった。だから今回の体たらくには「ざまあみろ」ばかりでなく「やっぱりね。天罰でしょ」という感じが混じっている。日本にはこういうときのために「驕る平家は久しからず」ということわざもあるではないか。
 それでもガウチョ発言の直後はまだWCの余波を駆って強かったがここしばらくは「あれ?」という兆候が見え出していた。専門家には危惧していた人が結構いたようだ。
 予選でスウェーデンに勝ったときも、例によってビール片手にギャーギャー騒ぐファンを尻目に、まともな解説者は「こんなんじゃ優勝は絶対無理」といっていた。さすがに予選落ちまでは予想していなかったようだが。

サッカー世界選手権でのドイツチームの成績の推移。今回の急降下ぶりがわかる。
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 というわけで、ある意味ではまあこれでやっと静かに普通に大会観戦ができるようになったし、ドイツ人にもそんなことを言っている人がいるのだが、そう言って(強がって)見せて上辺平気な顔を装っても内心は相当ショックを受けているんじゃないかと思う。というのは、向こうが「これで落ちるところまで落ちたからまあこれからは良くなっていくしかないな」というので私が軽い冗談で「まだ先があるから安心しなさい。次のドバイ大会では地域予選に落ちて不出場だから」と言ったら本気で怒り出したからだ。何をそんなにマジになっているんだ。たかがサッカーじゃないか。さらに心理外傷でタガが外れたのか言うことのロジックが破綻してきた。たとえば、ベルギー・日本戦では「日本のやつら、あんなお上品なプレーしてたらだめだろ。サッカーはダンス大会じゃないんだ。黄カードをガンガン食らうくらい攻撃性をみせなきゃだめだ」などという。でもドイツだってどちらかというと「お上品な」プレーぶりで尊敬されてたんじゃないのか?ちゃんとそれで勝っていたじゃないか。今までは。どうも言うことがわからない。

 ところで日本ではネットなどでは黄カードを集めた韓国になぜか「汚い試合」とかケチをつけていた人を見かけたが、こちらは赤・黄の乱れ飛ぶ試合は「荒い試合」といって普通「汚い」とは呼ばない。汚い試合というのはヒホンの恥(『73.ヒホンの恥』参照)のようなダレた試合のことである。日本・ポーランド戦のような試合のほうがよっぽど「汚い」と呼ばれる可能性がある。
 ひょっとしたら実はドイツ人も妙にお上品なのより荒いチーム・荒いゲームのほうが好きなのかもしれない。現にうちで「あの試合は本当に面白かったなあ」といまだに持ち出されるのが2010年世界大会決勝戦のオランダ・スペイン戦である。どちらが勝っても初の世界一ということで双方殺気だっていた。最初の30分で黄カードが5枚、後半でさらに4枚、延長戦でまた3枚に加えてさらにオランダのハイティンハが一試合中に二枚目の黄をゲットして赤になるというカードの乱れ飛んだ凄まじい試合で、サッカーというよりは格闘技である。しかもここまで荒れても結果そのものはミニマルの1対0でスペインの勝ちという、フィールドでの騒ぎに比較してゴールの少ない試合であった。あまりにカードが乱舞したためか審判の目がくらんだらしく、オランダのデ・ヨングがスペインのシャビ・アロンソの胸のどまんなかに浴びせた16文キック(違)が黄しかもらえなかった。これに赤が出なかったのは、『ウエスタン』や『ミッション』のエンニオ・モリコーネにオスカーが出なかったのにも似て理不尽の極地。あれで黄だったらそれこそ人でも殺さないと赤は貰えないのではないかと(嘘)いまだに議論の的になっている。私はこの「デ・ヨングのクンフー攻撃」を、2006年にジダンがイタリアのマテラッツイに食らわした頭突き、2014年にウルグアイのスアレスがこれもイタリアのチェリーニにかました噛み付き攻撃とともに格闘技サッカー世界選手権の3大プレーのひとつとして推薦したい。

ここまでやっても赤が取れなかったデ・ヨングのクンフーキック。


パリのポンピドゥセンターの前にはジダンの頭突きの銅像が建ったそうだ。今もまだあるのかは知らない。
https://www.parismalanders.com/das-centre-pompidou-in-paris/から

Zinedine-Zidane-Statue-Paris

スアレスのチェリーニへの噛み付き攻撃はメディアでも徹底的におちょくられていた。
http://www.digitalspy.com/から

odd_suarez_bite_1

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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