アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

September 2022

前に書いた記事の図表を画像に変更しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるので)。穴があったら入りたい大間違いがあったのでそれも直しました。この大チョンボが5年以上人目に晒されていたのかと思うともう…(この調子だと私まだどこかで大誤打やってそうです)

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 ドイツ語をやると必ず覚えさせられるのがいわゆる Diminutiv(「縮小辞」)という形態素だ。普通名詞の後ろにくっついて「小さいもの」を表す縮小名詞を作る。明治時代には時々「メッチェン」などというトンでもないフリガナをふられていた Mädchen(メートヒェン、「少女」)が最も知られている例だろう。これは本来 Mägdchen だったが、新高ドイツ語の時代になって g がすっぽ抜けた。 Magd + chen で、-chen が縮小辞である。それに引っ張られて名詞がウムラウトを起こすため、Magd が Mägd という形になっている。だから Mädchen は「小さい Magd」。Magd は若い女性ばかりでなく女の召使い(昔は封建社会だったので)の意味もあったが、現在単独の語としてはほとんど使われなくなった。「古語」なのである。本体は消えて縮小辞つきの Mädchen の方だけ残ったわけだ。この -chen の他に -lein(単語や方言によっては -le、-li あるいは -el)という縮小辞もある。Mädchen の代わりに Mädle あるいは Mädel と言っても意味は同じ。ただニュアンスが少し違い、後者の二つは口語と言うか日常会話的。Fräulein(「お嬢さん」)の -lein も本来縮小辞なのだが、最近はFräulein という言葉自体があまり使われなくなってきているし、この単語も Frau+lein と分ける意識はなく、まあ全体で一つの単語だろう。
 他方この縮小辞は一つの単語として確立したものにだけに見られるのではなく、造語用の形態素としても日常会話で頻繁に使われている。例えば「ひよこ」を Küken(キューケン)あるいは Kücken(キュッケン)というが、私などはあのモフモフ感を強調するためこれに -chen をつけて Kückchen(キュックヒェン)と言わずにはいられない。「ひよこさん」である。アヒルに対しても単に Ente(エンテ)などと辞書どおりに呼ぶと無愛想すぎるのでいつも Entlein(エントライン)、Entchen(エントヒェン)である。いちどアヒルにつけるのは -chen がいいのか  –lein がいいのかネイティブに聞いてみたことがあるが、「好きにしろ」とのことだった。
 縮小辞をつけた単語は辞書に載っていないこともあるので、会話でこれを使うと「私は辞書に載っていない言葉を使っているぞ!」ということで、まるで自分のドイツ語が上手くなったような錯覚を起こせて気持ちがいいが、実はこの縮小形使用には気持ちのほかに実際的な利点があるのだ。
 ドイツ語の名詞には女性・中性・男性の三つの文法性があるが、これがロシア語のように名詞の形によっては決まらない。もちろんある程度形から推すことはできるが、Bericht(ベリヒト、「報告」)が男性、それと意味も形も近い Nachricht(ナーハリヒト、「報告」)が女性と来ては「何なんだこれは?!」と思う。ところが -chen であれ-lein であれ、この縮小辞がついた語は必ず中性になるのである。だから名詞の文法性が不確かな時はとにかく縮小辞をくっつけて名詞全体を中性にしてしまえばいい。日本語でも丁寧な言葉使いをしようとしてむやみやたらと「お」をつける人がいるが、それと似たようなものだ。日本語の「お」過剰がかえって下品になるように、ドイツ語でも縮小名詞を使いすぎるとちょっとベチャベチャして気持ちわるい言葉使いにはなるが、文法上の間違いだけは避けられる。
 ロシア語には -ик (-ik)、 -нок (-nok)、 -к (-k) といった縮小辞がある。たとえば
Tabelle-97
 この -ik についてはちょっと面白い話を聞いたことがある。ロシア語ばかりでなくロマニ語でもこの -ik が使われているが(pos「埃」→ pošik)、この縮小辞はアルメニア語からの借用だという説があるそうだ。クルド語にも kurrik (「少年」)、keçik(「少女」)などの例があるらしい。同じスラブ語のクロアチア語では男性名詞には -ić(komad 「塊」→ komad)、 -čić(kamen「石」→ kamenčić)、 -ak(cvijet「花」→ cvijetak)、女性名詞には -ica(kuća「家」→ kućica、 -čica(trava「草」→ travčica)、 -ka(slama「藁」→ slamka)、そして中性名詞だと -ce(brdo「山」→ brdašce)、 -če(momče 「少年」、元の言葉は消失している)を付加して縮小名詞を作るが、ロシア語 -ik とはちょっと音が違っている。この違いはどこからきたのか。考えられる可能性は3つである:1.ロシア語の -ik はアルメニア語からの借用。クロアチア語が本来のスラブ語の姿である。2.どちらの形もスラブ語祖語あるいは印欧祖語から発展してきたもの、つまり根は共通だが、ロシア語とクロアチア語ではそれぞれ異なった音変化を被った。3.ロシア語とクロアチア語の縮小辞は語源的に全くの別単語である。クロアチア語の -ak など見ると -k が現れているし、c や č は k とクロアチア語内の語変化パラダイムで規則的に交代するから、私は2が一番あり得るなとは思うのだが、きちんと文献を調べたわけではないので断言はできない。

 さて、縮小形の名詞は単に小さいものを指し示すというより、「可愛い」「愛しい」という話者の感情を表すことが多い。「○○ちゃん」である。上のひよこさんもアヒルさんも可愛いから縮小辞つきで言うのだ。そういえばいつだったか、私がベンチに坐って池の Entlein を眺めていたら(『93.バイコヌールへアヒルの飛翔』の項で話した池である)、いかにも柔和そうなおじいさんが明らかに孫と思われる女の子を連れてきて「ほら、アヒルさんがいるよ」と言うのに уточика(ウートチカ)と縮小辞を使っていた。ロシア人の家族だったのである。普通に「アヒル」なら утка(ウートカ)だ。
 そういえば前に話題にしたショーロホフの短編『他人の血』では老コサックが戦死した息子を悼んで сынок! (スィーノク)と叫ぶシーンがあった。縮小辞は死んだ息子に対する愛情の発露である。単に「息子」だけなら сын (スィン)だ。
 逆にあまり感情的な表現をしてはいけない場合、例えば国際会議などでアヒルやひよこの話をする時はきちんと Ente、Küken と言わないとおかしい。この縮小辞を本来強いもの、大きくなければいけないものにつけると一見軽蔑的な表現になる。「一見」といったのは実はそうでもないからだ。Mann (「男、夫」)のことを Männchen とか  Männlein というと「小男」「チビ」と馬鹿にしているようだが、Männchen などは妻が夫を「ねえあなた」を親しみを込めて呼ぶときにも使うから、ちょっと屈折してはいるが、やはり「可愛い」「愛しい」の一表現だろう。Männchen には動物の雄という中立的な意味もある。
 ロシア語の народишко(ナロージシコ)は народ(ナロート、「民衆・民族」)の縮小形だが、これは本当に馬鹿にするための言葉らしいが、ロシア語とドイツ語では縮小辞にちょっと機能差があるのだろうか。

 縮小辞の反対が拡大辞 augumentative である。この形態素を名詞にくっつけると「大きなもの」の意味になる。ネットを見てみたらドイツ語の例として ur-(uralt 「とても古い」)、über-(Übermensch「超人」)、 aber- (abertausend「何千もの」)が例として挙げてあったが、これは不適切だろう。これらの形態素はむしろ「語」で、つまりそれぞれ語彙的な意味を持っているからだ。しかも -chen や -lein の縮小辞とちがって全部接頭辞である。単なる強調の表現と拡大辞を混同してはいけない。
 ロシア語には本当の拡大辞がある。-ище (-išče)、–ина (-ina)、–га (-ga) だ。縮小辞と同じく接尾辞だし、それ自体には語彙としての機能がない:дом (「家」)→ домище (ドーミッシェ、「大きな家」)またはдомина (ドミナ、「大きな家」)、 ветер(ヴェーチェル、「風」)→ ветрога(ヴェトローガ、「大風」)。クロアチア語には-ina、-etina、-urina という拡大辞があり、明らかにロシア語の –ина (-ina) と同源である:trbuh (「腹」)→trbušina (「ビール腹、太鼓腹」)、ruka(「手」)→ ručetina (「ごつい手」)、knjiga (「本」)→ knjižurina(「ぶ厚い本」)。この縮小形はそれぞれ trbuščić(「小さなお腹」)、ručica (「おてて」)、knjižica(「小さな本」)で、上で述べた縮小辞がついている。
 クロアチア語は縮小形名詞ばかりでなく、拡大形のほうも大抵辞書に載っているが、ロシア語には縮小形は書いてあるのに拡大形のでていない単語が大部ある、というよりそれが普通だ。辞書の編集者の方針の違いなのかもしれないが、もしかしたらロシア語では拡大辞による造語そのものが廃れてきているのかもしれない。クロアチア語ではこれがまださかんだということか。
 また、拡大形は縮小形よりネガティブなニュアンスを持つことが多いようだ。 上の「ビール腹」も「ごつい手」も純粋に大きさそのものより「美的でない」という面がむしろ第一である感じ。さらにクロアチア語には žena(「女」)の拡大形で ženetina という言葉があるが、物理的にデカイ女というより「おひきずり」とか「あま」という蔑称である。
 だからかもしれないが、さすがのクロアチア語辞書にも「アヒル」(patka)については縮小形の patkica しか載っていない。ロシア語も当然縮小形の「アヒルさん」(уточика)だけだ。この動物からはネガティブイメージが作りにくいのだろう。例の巨大なラバーダックも物理的に大きいことは大きいが、それでもやっぱり可愛らしい容貌をしている。


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 前回大まかに歴史背景を確認したが、イベリア半島の住民、バスク人、ゴート人、ユダヤ人、アラブ人、ベルベル人、ヒスパノ・ローマ人、宗教的にはモサラベ、ムラディ、ムデハルといった人たちは互いにどんな言語で話し、どんな言語を書いていたのだろうか。

 まあバスク人は北の方でバスク語を話しラテン語で書いていたのだろうが、その他の民族の言語生活は複雑だったらしい。宗教と言語が一致していなかったのである。文化的に圧倒的に上位にあったアラブ人の言語が広がり、キリスト教のモサラベまでアラビア語で読んだり書いたり話したりするようになってしまったことは前回書いた。つまり日常会話はアラビア語で行われていた。このアラビア語と言うのはもちろん書き言葉(ファーガソンのいうHバリアント、『162.書き言語と話し言語』参照)ではなく、それと著しく異なった口語のアラビア語である。バグダードのでもアラビア半島のでもない、アル・アンダルス特有のアラビア語口語が発展していた。当地のアラブ人が話していたのもこれである。
 しかしそのアラビア語口語と並行して住民はヒスパノ・ローマ語も日常会話に使っていた。西ゴート人が言語的にはヒスパノ・ローマ人と同化してしまったことは前回書いた通りだが、アラブ人の側にもこれのできる人がいくらもいた。これも前述の詩人国王アル・ムタミド・イブン・アッバードなどもヒスパノ・ローマ語がペラペラだったそうだ。ユダヤ人も日常話していたのはもちろんヘブライ語でなくヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語だった。ムラディにもヒスパノ・ローマ語を母語とする者多くいた。だから上で「日常会話はアラビア語で行われていた」と書いたのはやや不正確で、「アラビア語でも行われていた」としなければいけない。要するにバイリンガルな言語社会だったのだが、 言語社会がバイリンガルだと個人レベルでもバイリンガルな人が大勢いるということで、上の詩人国王なども決して例外ではなかったのだろう。
 注意すべきはこの「ヒスパノ・ローマ語」である。これは現在のスペイン語の直系の先祖ではない。モサラベ語、つまりモサラベ人の言語と言い(繰り返すがこれを話していたのはモサラベだけではない)、当時のカスティーリャ語とは著しく違った別言語である。アラブ人からはaljamía 「外国語」と呼ばれていた。現在イベリア半島に残っているロマンス語はポルトガル語、カスティーリャ語、カタロニア語しかないから、モサラベ語はつまり死語ということになる。『154.そして誰もいなくなった』でも書いたようにバイリンガル状態では一方の言語がもう一方の言語に押されて消滅してしまう危機があるが、ムスリム領内でのモサラベ語も文化語アラビア語に押され気味だったようで、9世紀には書き言葉までアラビア語を使うようになっていたモサラベも多かった(前項で述べたアルバロがボヤいた通りだ)。非寛容なベルベル人支配下ではモサラベはムスリム支配地から北へ脱出し、そこでカスティーリャ語に影響を与えながら吸収されていった。つまり現在スペイン語に夥しく見られるアラビア語要素は直接アル・アンダルスのアラビア語からだけではなくモサラベ語を通して受け入れたのもあるということだ。そうやって話者数は減ってはいたがそれでも13世紀前半には十分話者がいたそうだから、ネブリハの「カスティーリャ語文法」の想定読者にはモサラベ人も含まれていたはずだ。
 忘れてはいけないのがベルベル人である。「第一波」のベルベル人はアラブ人に同化してアラビア語を話していたが、「第二波」、ターイファ時代以降にやってきた人たちはそのままベルベル語を話していた。これもアラビア語に押されていたことは想像に難くない。
 さてそれらの人々の書き言葉はなんであったか。まずアラビア語文語である。ムスリムは当然としてこれで書いていたが、上述のように一部のモサラベ人も使っていた。ユダヤ人もこれで文学活動をしていた。その文章語ヘブライ語は姉妹言語アラビア語の影響を受けてさらに発展したそうだ。キリスト教徒側の文章語はもちろんラテン語だ。つまりアル・アンダルスには理論上1.アラビア語口語とアラビア語文語、2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語、4.ヒスパノ・ローマ語とヘブライ語、5.アラビア語口語とヘブライ語、6.アラビア語口語とラテン語、7.ベルベル語とアラビア文語という7種類のダイグロシアが存在していたということである。前者がLバリアント、後者がHバリアントだ。6はアラビア語を話すようになってしまったモサラベを想定したものだが、とにかく極めて複雑な言語社会だったに違いない。その上Lバリアントのバイリンガルが個人レベルで異なったダイグロシア間を行き来していただろうから複雑さがさらにグレードアップする。
 
 文化的に圧倒的に優勢だったのはアラビア語文語だが(ターイファ時代までは政治的にも圧倒していた)、これも前回述べたように(しつこい)アラブ人はイスラム以前にすでに言語文化を発達させており、ペルシャやギリシアの文明を自分の言葉に翻訳して増幅発展させることができた。現在の自然科学もアラブ人が知識をその言語にまとめて体系化してくれていなかったら、あちこちの言語に様々な知識がバラバラとある状態が長く続き、発展が今より遅れていたかもしれない。だから私は個人的に「アラブ人が自分たちで発明したものはほとんどない、他の文化を吸収して他に伝えただけだ」という言い方は不当だと思っている。「他の文明を吸収して他に伝える」と簡単に言ってくれるが、吸収する側にそれに見合った土台、よほどの言語文化がないとそんなことはできない。その「よほど」の例としてアッバース朝が9世紀始めにバグダッドに建てた「知恵の館」という図書館がある。世界各地からいろいろな文献を収集したばかりでなく、そのアラビア語翻訳も行っていた。アラビア語とギリシャ語ができたシリアのキリスト教徒などが従事した、世界の知の中心地であった。ここでアラビア語文語にさらに磨きがかかったのである。
 この翻訳文化、書物への敬意精神が3世紀の後アル・アンダルスに飛び火した。ただそこではアラビア語のほうが翻訳される側だった。すでに11世紀初頭にリポルRipoll という町の僧院にアラビア語文献の翻訳所が開かれ、その後12世紀始めに大司教ライムンドらによってトレドに翻訳学校が設置された。このトレドの翻訳所は有名だが、ギリシャの自然科学や哲学、ペルシャやアラビア文学ばかりでなく、コーランまで翻訳されたそうだ。それも1134年と1210年の2回もである。翻訳言語は当然ラテン語であった。
 この翻訳の過程がまた面倒で、まずアラビア語文語の読める者、モサラベあるいはムデハル、あるいはユダヤ人が当該テキストの内容をヒスパノ・ローマ語、つまり口頭で脇に控えているヨーロッパ中からやってきた識者に伝える。それを聞いて識者がラテン語に書き取るのである。上で言う2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語というダイグロシア型の話者が共通のLバリアントを通して交流したということだ。その共通Lバリアントが専らヒスパノ・ローマ語だったということは6.アラビア語口語とラテン語のパターンの話者は極めて少数だったか、ほぼ全員ヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語のバイリンガルだったのだろう。とにかくこうして様々な文献が訳された。ヒポクラテスもアリストテレスもプトレマイオスもアラビア語から訳されたのだ。ペルシャの大学者イブン・スィーナー (本名はこれより遥かに長い。下記参照)の著書が訳されたのもここだ。ただその際名前がちゃっかりラテン語化されてAvicenna アヴィケンナとなり、こちらの名のほうが有名で、この人があくまでイスラム哲学者であることがかすんでしまっている。
 レコンキスタが進んだ1248年にはその地はカスティーリャ王国の支配下に入ったが、その王アルフォンソ10世はさすが「賢王」 Alfonso el Sabio と言われただけあって学術を奨励し宗教に寛容でトレドに第二の翻訳学校を建てた。翻訳する側の言語はカスティーリャ語だった。ダイグロシア崩壊の下地はここら辺から作られていったらしい。日本の言文一致運動もそうだったが、口語をもとにした書き言葉を磨き上げるのに翻訳が果たす役割は大きい。そしてこれも日本と同様、いきなり口語オンリーにするのも困難で、ラテン語への翻訳も続いてはいた。コルドバ生まれの大哲学者アブー・アル・ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(こんな名前が覚えられるか)の著書もこの時期にラテン語名アヴェロエス Averoes (これなら覚えられる)で翻訳されている。
 考えてみるとこの翻訳文化が大開花したのはヨーロッパではすでに十字軍が開始されアル・アンダルスはベルベル人が支配していた、政治的には非寛容色が強まっていった時期である。そういう時期でもキリスト教・イスラム教双方の側にこういう人たちがいたのだ。「みんないっしょ」のアル・アンダルスメンタリティの残照はまだ残っていたのか。

  もう一つアル・アンダルスの言語接触の例として詩があげられる。アル・アンダルスで特有のアラビア語口語が発達したことは上で述べたが、さらに10世紀ごろから新しい詩の形式が発展した。ムワッシャハ  muwaššaḥ (スペイン語で moaxaja)といい、連構造を持ち脚韻交代にパターンのある形だが、そのムワッシャハの最終連の後にハルジャ harǧa (スペイン語で  jarcha )というオマケといっては失礼すぎるがリフレーンのようなものがついていたのである。このハルジャがロマンス語史上極めて重要で、アラビア語文語でなくヒスパノ・ローマ語(つまり事実上モサラベ語、まれに古カスティーリャ語)で書かれていた。これが「ロマンス語で書かれた最古の詩」で11世紀初頭にまで遡れ、やっと12世紀に始まったオクシタンのトルバドゥール抒情詩より100年も古い。その一つを見てみると:

tanto amare, tanto amare, habîbi tanto amare!
Enfermeron olyos nidios, ya duolen tan male!

愛をたくさん、愛をたくさん、愛しい人 愛をたくさん!
輝く目が病気になった、ああ痛い痛い!
(無粋な訳ですみません)


これを今のスペイン語にすると次のようになるそうだ。

¡De tanto amar, de tanto amar, amigo, de tanto amar!
Enfermaron unos ojos brillantes, y que ahora duelen mucho.

注意しないといけないのはこれらハルジャが元々アラビア文字またはヘブライ文字で書かれていたことである。ということは母音が表記されていなかったのだ。またアラビア語文語の詩の尻尾にくっ付いていたことや、時々アラビア語からの借用語が使ってあったりするため(上の habîbi (太字)がそれ)、長い間誰もこれがロマンス語であることに気付かず、やっと1948年になってからスターン Samuel Miklos Stern という学者がこれが実はロマンス語であることを「発見」した。だからここに出したラテン文字の例はそのアラビア語表記からいろいろな学者が苦労して再構築したものである。同じハルジャでも解釈者によって表記が違っていたりするのもそのためだ。スターンに続いてゴメス García Gómez が1952年にさらに24のハルジャを見つけた。現在では60以上の作品が収集されている。
 ハルジャのモティーフは若い女性がつれない恋人の態度を嘆いたりするなど本家アラビア詩にはあまり見られなかったものだが、それにしてもアラビア語で詩を詠んだ後突然モサラベ語にコード転換してオマケを付けるという発想はどこから出てきたのか。そもそもハルジャを詠んだのはアラビア語の本歌を作った本人なのか。第一の疑問については当時は詩は朗読するものではなく節をつけて歌うもので、ムスリムとキリスト教徒は単に共存していただけでなく一緒に文化活動もし歌もいっしょに歌っていたからだという説を見た。「聴衆」も過半数はヒスパノ・ローマ語の母語者だったろうからそれにも配慮したのかもしれない。第二の疑問点だが、ハルジャはアラビア語詩人本人が作ったのではなく(そういう人もいたろうが)、記録には残っていないがすでに10世紀にはヒスパノ・ローマ語で作られた歌詞の原形のようなものがあり、アラブ詩人がそれを引用したのではないかとも言われている。
 このムワッシャハからさらにザジャル zaǧal(スペイン語で zéjel)という詩形が生まれた。ムワッシャハの連構造を引き継いでいるが、文語でなく全てアラビア語口語やヒスパノ・ローマ語で詠まれたものだ。このザジャルがカスティーリャ語の詩の発展に絶大な影響を与えたであろうことは容易に想像がつく。初期カスティーリャ語の詩のモティーフや登場人物の名前を見てもアラビア語口語のザジャルの詩にその原本が見いだせる例は枚挙にいとまがないそうだ。
 また15世紀のカタロニア語の詩集(歌集)に次のような作品があって注目に値する。

Di ley vi namxi
Ay mesqui
Naffla calbi

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero finar

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero morir.

最初の3行(イタリック)を長い間誰も解読できないでいたところ、ソラ=ソレ Josep Maria Solà-Solé という学者がこれがアラビア語であることに気づき次のように解読した。

(b)ille [h]i bi[k] namxi
Ay m(i)squi
Na(ḥ)la qualbi

詩全体を訳すとこうなる:

神よ、貴方と歩く
おお麝香
貴方は私の心を甘美にする(ここまでアラビア語)


貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛のあかしに歌を詠おう

貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛にためなら命をささげよう
(韻にも何もなってないヘタレ訳ですみません)

これはムワッシャハから「二か国語構成」というアイデアを受け継いだのだろう。尻尾でなく頭にいわば「逆ハルジャ」がくっついている。15世紀と言えばすでにグラナダ王国以外のイベリア半島がキリスト教徒の支配下に入っていたころだ。しかも北方のカタロニアはもともと最初からムスリムの支配をあまり受けていない。それでもアラブの精神文化の影響は強烈だったのだ。

 1492年、グラナダ王国が陥落し、ネブリハが新しい支配者の言語の普及を試みた時、イベリア半島はこういう多言語状態であった。さてこの豊饒な言語文化はその後どうなったのだろうか。残念ながらまさに「イヤな予感」通りの展開となったのである。
 グラナダ王国が消滅した時点でイベリア半島全体に住んでいたムデハル(前項参照)は後ろ盾を失った。またグラナダを占領した「ヨーロッパ化したキリスト教徒」は初期ムスリムのような寛容さは持っていなかった。1498年にはムスリムを強制的に改宗させる措置が始まり、1499年にはグラナダでアラビア語の本が焚書に付された。続いて1502年、カスティーリャでは「ムスリムは改宗するか出ていくかのどちらかにしろ」という正規のお触れが出た。これで出て行ったムデハルも多いが、これが1526年にはさらに強化されて、宗教だけでなく「ムスリムのような生活様式」まで禁止された。少し遅れてアラゴンでも1525年に人口の3分の1を占めていたと思われるムデハルの強制改宗令が発布された。これら、1492年以降にキリスト教に改宗したムスリムをモリスコ moriscos というが、改宗した後もなお不信の目で見られ続けた。というのもイスラム教では確かに一旦アラーに誓いを立てたものが他宗教に寝返るのは死に値する罪ではあったが抜け道があったのである。改宗が外からの強制による場合は、改宗したふりをして十字を切ってもいい、心のうちでこっそりアラーを信じよという隠れムスリム作戦が許されていた。キリスト教側はその心の領域まで完全に同一化しようとしたのである。1565年にはアラビア語の使用が禁止されモリスコの財産が没収されたりした。ここまでやられたらモリスコは反乱を起こすか(起こしたモリスコもいるが残酷に鎮圧された)出ていくしかない。
 1609年、モリスコの大量追放が始まり、当時推定850万人の人口の30万人を占めていたモリスコが主に北アフリカに追放された。その後1614年、何とか僻地に住んでいたモリスコも一掃され、イベリア半島はムスリムがいなくなった。
 
 しかしそれまで文化面では本家バグダッドがモンゴル人に破壊された後も200年間その世界最高文化を維持し、経済面では特にイベリア半島東部で農業や様々な産業に従事してイベリア半島を支えていたモリスコがいなくなったことで、スペインは経済も文化も空洞化した。そのスの入った国内経済の穴埋めのため、スペイン政府は血眼になってアメリカ大陸を略奪し金銀を奪ったが、国内産業がスカスカなのに略奪品だけで国家財政を保つなど無理がありすぎる。モリスコ追放令を出す以前、ムデハルをジワジワいびり出していっていた時点、1575年にスペインはすでに一度国家破産しているのだ。そこへ持ってきてのモリスコ追放は「スペインにとって人道面だけでなく、経済面でも大災害であった。17世紀以降スペインが衰退していった大きな原因がこれである」と上述のボソング教授は言っている。

この名曲もこのような歴史を考慮して改めて聞いてみるとさらに胸に迫るものがある…



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 1492年は受験生泣かせの年で(誰が泣くか)世界史で重要な出来事が3つも起こった。その一はコロンブスのアメリカ大陸到着(一部には新大陸発見などという名称も使われているようだが、いくら何でも先住民に失礼すぎやしないか)、その二がレコンキスタの完成(グラナダ王国の滅亡)、その三がアントニオ・デ・ネブリハによる『カスティーリャ語文法』Gramática de la lengua castellana の出版である。
 ネブリハの『カスティーリャ語文法』は長い間ヨーロッパで唯一の書き言葉・文化語であったラテン語の位置が各国言語、つまり口語にとって変わられていく重要な一歩となった。その序文でネブリハはこの本を大国となったカスティーリャの女王イザベラに捧げ、新たにその支配下にはいった(カスティーリャ語を母語としない)民がこの素晴らしい支配者の言語が使えるようになるための手助けになろうと言っている。またそこで述べられているネブリハの言語観は今でも通じる近代的なもので、この文法書は 今から見ると言語学史上の金字塔であった。
 私はその『カスティーリャ語文法』について大きく誤解していた点が二つある。まず、私はこれがあたかも1957年に出版されたチョムスキーの Syntactic Structures のごとく出版と同時にセンセーションを巻き起こしたのかと思っていた。ところが実はそうではなかったらしく、ネブリハの生存中当書はほとんど人の目を引かず、やっと18世紀になってから第二版が出たそうだ。ダイグロシア崩壊期によくある「下品な口語なんかに文法もクソもあるか」というお決まりの批判にも晒された。そもそもネブリハはラテン語の専門家で、直前の1486年に『ラテン語入門』Introductiones latinae という本を出版している。こちらの方は売れに売れて16世紀だけで59版刷られたそうだ。「金字塔」という評価はずっと後になってからなされたのである。
 二つ目の誤解は、「新たに女王の支配下に入った民」と聞いてアメリカ大陸の先住民が思い浮かんでしまい、植民地の支配を容易にするためにカスティーリャ語を押し付ける手助けにこの文法書を捧げたのかと思っていたことだ。こちらの誤解の方がずっと程度が馬鹿で我ながら赤面に堪えない。ちょっと考えてみればわかりそうなものだった。
 『カスティーリャ語文法』が出版されたのは1492年8月18日である。その直前、やっと8月3日にコロンブスが航海に出発したのだから、当然その時点では植民地もアステカ人やインカ帝国への虐殺・支配はまだ影も形もない。コロンブスのバハマ到着が10月12日、その地でいろいろ探検して、スペインに帰って女王に航海の結果を報告したのは翌年1493年3月である。しかもコロンブス本人は死ぬまで自分の行った地はインドか中国だと思っていたのだし、ネブリハも確かに文法書の出版は1492年だが原稿そのものはそのずっと以前から着手していただろうから、「女王支配下の新住民」がアメリカ大陸の先住民を指していたはずはない。
 この「新たに支配下に下った住民」というのはイベリア半島の住民のことである。ロマンス語を母語としない住民、つまりアラブ人とユダヤ人のこと以外あり得ない。グラナダ王国が陥落したのは文法書が出る前の1492年6月2日だがそれ以前にイスラム側はジワジワと領土を失っていっていた。しかし領土が失われ支配者が入れ替わっても住民まで入れ替わったわけではない。早とちりな誤解への反省の意味を込めてちょっとイスラム支配下のスペインの歴史や言語構成、住民構成はどうなっていたのか見直してみた。

 本題に入る前に確認しておきたいことが何点かある。第一点が「レコンキスタ」、「再征服」という命名にそもそも問題があることだ。複数の歴史家がそう言っている。この言葉から連想されるのはキリスト教徒が団結してムスリム支配のイベリア半島を北からジワジワ取り戻していったという図である。しかし実情は全然違う。領土の奪回を狙ったイベリア半島のキリスト教領主は別に「キリスト教の地」を回復しようなどという意図はなく、単に自分の領土、自分の勢力を拡張したかっただけで宗教の事など頭になかった。現に隣のキリスト教領主の領地を奪い取るために仲良しの(?)イスラム教領主の助けを借りたり同盟を結んだりする、またはその逆が日常茶飯事だったそうだ。当地ではキリスト教徒とイスラム教徒は小競り合いはあってもきちんと共存していたである。
 「レコンキスタ」という言葉に暗示される「キリスト教対イスラム教」という間違った対立図式を無理やりイベリア半島にまで当てはめようとしたのは13世紀の初頭エルサレムを取り戻せと十字軍にハッパをかけたローマ教皇インノケンティウス3世あたりらしいが、とにかく「レコンキスタ」という用語は後から人為的にイベリア半島に投影された観念なので不適切だそうだ。
 もっとも十字軍などキリスト教側が狂信化していった時期にはイベリア半島のほうもアラブ人でなくベルベル人の支配下にあって、このベルベル人はアラブ人より宗教的寛容度がずっと低かったようだ(下記)。それで対立図式が当てはまりやすい状況ではあったらしい。

 第二の確認事項は、アラビア文化とイスラム教は区別して考えないといけないことだ。言い換えると「アラブ化」は「イスラム化」とイコールではないということである。イベリア半島にイスラム教徒がやってきたのは711年、イスラム教が起こった622年から100年も経っていない。軍の大部分を構成するベルベル人を率いていたアラブ人が携えてきた文化は「イスラム文化」ではなく「アラブ文化」である。アラブ人が武力だけでなく文化の面でも世界最高のレベルに達したのは確かにイスラム教をかすがいとして諸部族が統一され、領土がアラビア半島外に広がってから、ウマイヤ朝がダマスクスに、アッバース朝がバグダッドに中心を定めてからだろう。そこでインド、古代ギリシア、メソポタミアなどの知の遺産に触れて高度な文化を築き上げた。だがそれ以前、イスラム帝国がまだアラビア半島から出ない頃にすでにアラブ人たちは詩などの言語の文化を発達させていた。酒を愛し、愛の歓び悲しみを歌う高度な言語文化、そういう下地があったからこそ他の文化に触れて自然科学や数学・哲学を自分たちのものとして消化し、自らの文化をドッと開花させられたのだ。野蛮人だったら(差別発言失礼)そこで相手の高度な文化に飲み込まれて自分たちの文化のほうは消滅させてしまうのがオチだ。イベリア半島に伝わったのはこういうアラブの豪族文化であって必ずしもイスラム文化ではない。だからこそイベリア半島には「アラブ人化したキリスト教」が大量にいたのである(下記)。

 第三点。「スペイン人」、つまり「イベリア半島人」としてのアイデンティティはいつ生じたのか。ローマ帝国時代は自分たちをローマ人と思っていたろうが(もちろんバスク人などローマ以前からの先住民はいた)、帝国崩壊後、5世紀から6世紀にかけてゲルマン民族の西ゴート人がやって来て支配者となる。だからスペイン語にはロドリゲス、ゴンザレス、エンリケス、アルバレスなど一目でゲルマン語だとわかる名前が多い。だがそのゴート人は上層部に限られ、当時300万人ほどとみられるヒスパノ・ロ―マ人に対してゴート人はたった15万人くらいで、しかも被支配者の文化に飲み込まれてキリスト教となり言語も速攻でロマンス語に転換してしまった。(ということはゴート人はさすがゲルマン人だけあって「蛮族」だったわけですかね)
 歴史家の意見が分かれるのはここからで、伝統的なスペイン史観では、西ゴート人支配下で「イベリア半島人」(原スペイン人)というアイデンティティが生じていたが、8世紀の初頭にアラビア人が「押し入ってきたので」住民は自分たちのアイデンティティを守るべく立ち上がってレコンキスタに持って行った、ということになる。この歴史観を取っている人には例えばサンチェス・アルボルノス Claudio Sánchez-Albornoz などがいる。もう一つは、西ゴート人支配の頃にはまだまだ「イベリア人または(原)スペイン人」としての一体感などなかった、それが生じたのはアラブ人の支配下でイベリア半島が統一されてから、特にああ懐かしや高校世界史で習ったアブド・アル・アフマーン一世下のウマイヤ朝がスペインをまとめてから、そこで初めて自分たちは同一民族であるという意識が生まれたのだという見解。つまりアラブ文化はイベリア半島人の血肉だということだ。近年はこちらの見解の方が優勢だそうで、カストロ Américo Castro などの学者が唱えている。
 
 四つ目の点は、上記の三点全部に関連することだが、イスラム教は本来他の宗教、キリスト教とユダヤ教に対して非常に寛容だったことだ。このこと自体ははさすがに現在の欧州では(まともな教養の人は)皆知っている。知っているは知っているが時とすると忘れそうになる人もいるので再確認しておく必要がある。イスラム教徒はキリスト教徒、ユダヤ教徒を「啓典の民」ahl al-kitāb と呼んで一目置き、支配地でも宗教の自由を完全に認め、種々の宗教儀式を遂行するのにイチャモンなどつけなかった。ただ他宗教の教徒は人頭税を払わないといけなかったようだ。
 ウマイヤ朝期に首都コルドバでさかんにムスリムをディスっていたキリスト教徒 Eulogius という人物でさえ「このクソ宗教への改宗を強要されたりはしていない」と言っている。後にイスラム教国のグラナダ王国が陥落したとき、キリスト教の支配者がその地に残っていたイスラム教徒に「改宗するかスペインから出ていくか」の二者選択を迫ったのとは対照的である。時代が下ってバルカン半島を支配していた時もイスラム教支配者は基本的に他宗教に寛容であった。そうでなかったらボスニア・ヘルツェゴビナ、シリア、果てはエジプトに現在でも大量のキリスト教徒が暮らしているわけがない。とっくに殲滅されていたはずである。特に成立して間もないイスラム教に支配されていたいイベリア半島にはこの「みんないっしょ」感覚があったらしい。それで上述のように「スペイン人としての一体感はイスラム支配下で発生した」と主張する歴史家もいるのだろう。

 この「イスラム支配下のスペイン」のことを「アル・アンダルス」という。歴史用語である。

 さてそれらの確認事項を踏まえてアラブ人の到来からネブリハの文法書出版に至るまでのイベリア半島の歴史をごくかいつまんで追ってみた。
 上述のようにイベリア半島はラテン語崩れのロマンス語を話すいわばヒスパノ・ローマ人を少数のゴート人の貴族が支配している状態だった。ガッチリ統一された国家でなく諸侯のバラバラ支配だったので結束が弱く、あっという間にアラブ人に入られたのである。711年、アラブ人の将軍ムーサー・イブン・ヌサイルの代理ターリク・イブン・ジヤードが7000人のアラブ人兵士と5000人のベルベル人の兵士を率いてやってきた。それでスペインの最南端が「ターリクの山」、ジャバル・アル・ターリクと呼ばれているのだ。もちろんこれがジブラルタルという名前の語源である。続いて将軍自身もさらに18000人ほどの増強兵力(その多くはベルベル人)を率いて上陸し、あっという間にイベリア半島を支配した。支配者アラブ人の人口は兵士や、後からやってきたその家族を入れても5万人ほどだったのではないかと思われる。それに対してヒスパノ・ロ―マ人は五百万人から六百万だったと、上述とは別の歴史家の推定している(やはり人によってばらつきがあるようだ)。
 ゴート人なんかの文化にはほとんど影響を受けなかったヒスパノ・ローマ人も、このアラブ人の文化は自分たちを遥かに凌駕していることに気づきたちまち影響された。ヒスパノ・ローマ人の四分の一が一世代内でイスラム教に改宗、10世紀には四分の三、後のグラナダ王国では住民の大半がイスラム教徒だったと推定される。この人たちは muladíes、ムラディと呼ばれた。また上述のようにイスラム教徒は他宗教に寛容だったのでキリスト教徒のままでいた住民も少ないとは言えなかった。これを mozárabes、モサラベという。「アラブ人のようになった人たち」という意味だ。モサラベはイスラム教は取り入れなかったが、アラブ文化には強烈に影響された。上述のように「イスラム化」には何世紀かかかっているが「アラブ化」は速攻だったようだ。すでに9世紀にコルドバのアルバロ Álvaro(名前からするとこの人はゴート人である)とかいうモサラベ人がボヤいている:「最近の若いもんはラテン語もよくできないくせにアラビア語の詩だの寓話だのをありがたがり、イスラムの哲学神学の本ばっか読みやがる。アラブ人の言語文学を勉強し過ぎてキリスト教のこと書くのにまでアラビア語の文章語を使いおって、ああ嘆かわしい」
 身近な者がどんどんアラブ化していくのに危機感を持ったのはアルバロばかりではなかったらしく、不満の矛先をイスラム教徒に向けて悶着をおこすこともあったらしい。居辛くなって9世紀ごろからまだアラブ人に支配されていないイベリア半島の北の方に移住する者もいた。もともと人のあまり住んでいなかったところで、支配しても得になりそうになかったのでアラブ人に無視されていたのである。後にここから「レコンキスタ」が始まった。

初期のアル・アンダルス。ウィキペディアから。
By Al-Andalus732.jpg:Q4767211492~commonswiki (talk · contribs)EmiratoDeCórdoba910.svg:rowanwindwhistler (talk · contribs)derivative work: rowanwindwhistler (talk) - Al-Andalus732.jpgEmiratoDeCórdoba910.svg, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59750789
Al-Andalus732.svg
 ウマイヤ朝に続くコルドバ・カリフ国の終わりごろ、11世紀の初頭から国が分裂しはじめ、小国相対するいわば戦国時代になった。これをターイファ tā’ifa 時代という。面白いことにこの、政治的に不安定だった時期に優れた詩人や思想家・芸術家が続出した。諸侯が権力を誇示するために武力をひけらかすばかりでなく、競って芸術の擁護者たろうとしたからである。セビーリャのアル・ムタミド・イブン・アッバード al-Mu'tamid ibn Abbad など自らが詩人である領主もいた。
 一方このターイファ諸侯が周りとの戦いのためアフリカからベルベル人の傭兵をさかんに呼び寄せたことから政治状況がさらに不安定になった。ベルベル人がアラブ人に取って代わってアル・アンダルスを支配するようになったからである。この時期にやってきたベルベル人は、ムーサー・イブン・ヌサイルやウマイヤ朝のアラブ人と共に来たベルベル人とは分けて考えないといけない。前者はイスラム教徒だったばかりでなくアラブ文化にも同化していたが、後者はアラブ化はせずイスラム教だけ取り入れた集団であったからだ。背景となったアラブ文化、その寛容さや享楽的な背景なしでイスラム教だけ取り入れたらどうなるかは簡単に想像がつく。彼らは今でいうイスラム原理主義だった。キリスト教に対するのと勝るとも劣らない批判の目をアル・アンダルスの「堕落した」イスラム教徒に向けた。例えばそこでよく詠まれていたペルシャのイスラム神学・哲学者アル・ガザーリー al Ghazālī の著書を焚書に処したりしている。またコルドバ・ウマイヤ朝やカリフ国がダマスクスやバグダッドの当時世界最高の文化と密接な交流があったのに対し、ベルベル人の臍の緒は常に北アフリカと繋がっていた。11世紀からアル・アンダルスを支配したベルベル人の王国アルモラヴィド朝もその後継者のアルモハード朝も首都はイベリア半島にでなく、モロッコのマラケシュにあったのだ。このベルベル人支配の下でキリスト教モサラベ人はコルドバ・カリフ国より格段に居辛くなった。「居辛く」というより追放令も出たそうだ。そのモサラベの脱出先、北の方も北の方で上述のように十字軍のころ、キリスト教側も狂信的になっていたころである。しかもピレネーの向こう側から助っ人がワンサとやってきた。ボソング Georg Bossong という史学者はこの状況を「ヨーロッパ化したキリスト教とアフリカ化したイスラム教、つまり十字軍とジハードの衝突」と言っている。この二者がアル・アンダルスを引き裂いたのである。
 言い換えると、もし「イスラム教がイベリア人のアイデンティティを分断した」とどうしても考えたいのなら、それはアラブ人のことではない、(第二波の)ベルベル人である。そして文明文化をもたらしたアラブ人は「イベリア人」の側なのだ。
  そういえば昔当時のスペインを題材にした(という)『エル・シド』という映画があったが、あれも注意しないと解釈を誤る。原作の叙事詩にすでに脚色があることに加え、映画も原作に忠実とは言い難く、しかもご丁寧にキリスト教スペクタクル映画の定番チャールトン・ヘストンが主役なので、どう見ても「イスラム教と戦ったレコンキスタのキリスト教英雄伝」にしか見えない。しかし実際のエル・シド、Rodrigo Díaz de Vivar あるいは Ruy Díaz de Bívar はむしろターイファの騎士で、カスティリアのキリスト教領主から、サラゴサのイスラム教領主へ転職し(これはあくまで「転職」であって裏切りとかそういうものではなかった。上述のようにアル・アンダルスではユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「みんないっしょ」だったからである)、その領主に何年も忠実に使えている。そして共にバレンシアに攻め入ってきたアルモラヴィド人(ベルベル人)と戦ったのである。この映画のラストをおぼろげに覚えているが、エル・シドの死体が馬に乗せられて戦場を駆け抜けるとき(あらネタバレ)、ターバンを巻いた兵士たちが畏怖の念に憑かれてサーッと引いていく。あれらの兵士はアラブ人ではない、北アフリカの「異民族」ベルベル人のはずだ。これを単純に「イスラム戦士」といっしょくたな解釈をしてはいけない。

アルモラヴィド朝の領土。首都はスペインでなくモロッコのマラケシュにあった。
https://historiek.net/al-andalus-het-spanje-der-moren/74627/から

Het-imperium-van-de-Almoraviden
 さてこのベルベル人は戦いでは勇敢、宗教的には生真面目だったが、政治の駆け引きや人民の統治能力がなく、どんどんその領土を失っていった。キリスト教徒の南進によって、その領土内には大量のイスラム教徒が居残ることになる。彼らは町の中心部からは立ち退かされたが、領内に住むこと自体は許され、宗教の自由も認められた。これらのイスラム教徒を mudéjares、ムデハルという。「居住を許された者」という意味だ。このムデハルも言語や文化の面でキリスト教側に大きな影響を及ぼした。
 13世紀半ばにはセビーリャがキリスト教徒の手に落ち、イベリア半島はほとんどキリスト教側の支配下に入った。その「ほとんど」を維持し、1492年まで200年に渡ってイスラム教の王国として持ちこたえ、高度な文化を維持したグラナダのナスル朝はアラブ人の国である。武力ではなく政治手腕で持ちこたえた国だったが、とうとうグラナダの陥落する時がやってきた。最後の王アブー・アブダラー Abū ʿAbdallāh はキリスト教側の降伏要求に応じて1492年1月2日宮殿の鍵を手渡したのである。王はグラナダから追われ最後に峠から町を一瞥して溜息をついた。その峠が現在 El Suspiro del Moro「ムーア人の溜息」と呼ばれる場所である。それを見て王の母が言ったそうだ:「何を女みたいにメソメソしているの?町を取られたってあなた、それを守り切れなかったのはあなたでしょ」。もちろんこれは単なる伝説である。
 細かい事を言えばアブー・アブダラーはアラブ人であってムーア人、つまりベルベル人ではなかったはずだが、グラナダ王国の時期には北から「居辛くなった」ムデハルが多数う移住してきてある程度均等な社会を構成しており、住民レベルではアラブ人とベルベル人の区別は薄れていたそうだ。
 溜息の後アブー・アブダラーは北アフリカに渡り、モロッコのフェズで不幸な生活を送りそこで死んだ。

(前置きだけで記事が終ってしまいました。この項続きます。)

「レコンキスタ」進行の様子。最後の砦グラナダ王国も1492年陥落した。
http://ferdidelange.blogspot.com/2018/05/reconquista-van-miquel-bulnes-is.htmlから

2000px-Reconquista_(914-1492).svg


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前に書いた記事の図表を画像に変更して文章も訂正しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるので)。

あっ、あとこの機会にお伝えしますが、下さったメッセージは一つも無視することなく読ませていただいています。誤植その他のご指摘も「あっ、しまった。馬鹿じゃね私?!」と赤面しつつ訂正しています。個人的にお礼のメールができない場合もあるのでこの場を借りて皆さんにお礼させていただきます。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 印欧語本来の名詞変化パラダイムをすっかり失って廃墟と化した英語は別として、印欧語族の言語では名詞が格変化して形を変えるのが普通である。もっともドイツ語も相当廃墟状態で4つの格しか残っていない、しかもその際名詞自体は形をあまり変えずに冠詞に肩代わりさせるというズルイ言語になり下がってしまっているが、本来の印欧語は少なくとも8つの格を区別していた。
 サンスクリットは主格、呼格、対格、具格、与格(または「為格」)、奪格、属格、処格の8格を区別するが、a-語幹の名詞(男性名詞と中性名詞の場合がある) aśva-(「馬」)のパラダイムは以下のようになっている。この文法書では単数主格、双数属・処格、複数主・呼・具・与・奪格の語尾が s になっているが、別の教科書ではこれが h の下に点のついたḥ、いわゆるヴィサルガという音になっている。
Tabelle1-90
i-語幹には男性・女性・中性すべての文法性がありうるが、例えばこのグループの男性名詞のkavi-(「詩人」)は次のように語形変化する。
Tabelle2-90
a-語幹と違って単数で奪格と属格が溶け合って同じ形になってしまっているが、この手の融合現象は特に双数形で著しい。双数では主・呼・対格と、具・与格、奪・属・処格がそれぞれ同形、つまり形が3つしかないのが基本である。さらに「友人」sakhi-はちょっと特殊な変化をするそうだ。
Tabelle3-90
私が面白いと思うのは「呼格」というやつだ(太字)。廃墟言語の英語やドイツ語くらいしか知らない人は John is stupid.のように John がセンテンスの主語になる場合も Hi, John! と呼びかける場合もどちらも同形を使って平然としているが、本来の印欧語では「ちょっとそこの人!」と呼びかける場合と「そこの人が私の友人です」と文の主語にする場合とでは「そこの人」の形が違ったのである。前者が呼格、後者が主格だ。ラテン語も単数で呼格を区別するから知っている人も多かろう。「友人」amīcus の変化は以下の通り。サンスクリットとは格の順番が違っているが、格の順番が言葉によって文法書でバラバラなのは不便だ。サンスクリットタイプで統一すればいいのにとも思うが、欧州ではインドとは別にもうラテン語タイプが慣用になってしまっているので無理なのかもしれない。大坂と東京の電源周波数が今更統一できないのと同じようなものか。
Tabelle4-90
サンスクリットに比べてラテン語は語形変化が格段に簡単になっているのがわかる。まず双数がないし、格も6つに減っている。かてて加えて単数でも複数でもあちこちで格が融合してしまっている。しかも実は呼格も退化していて普通は主格と同形。この-usで終わる男性名詞だけが形として呼格をもっている例外なのである。その呼格も形としては単数形にしか現れない。それでも「ブルータス、お前もか」という場合、Brutusとは言わないでBruteと語形変化させないと殺されるのだ。させてもカエサルは殺されたが。

 ラテン語はもちろんサンスクリットでさえもすでにその傾向が見えるが、呼格は主格に吸収されることが多かったので今日びのドイツ語学習者などにはそもそも Mein Freund ist blöd (My friend is stupid)と Hey, Freund! とでは「友達」の格が違う、という意識すらない人がいる。が、スラブ諸語などにはいまだに呼格をモロに形として保持している言語があるので油断してはいけない。何を隠そう私の専攻したクロアチア語がそれである。例えば女性の名前「マリア」は呼格が「マリオ」になるので、「ちょっと、マリアさん!」は「ヘイマリオ!」である。男性名詞の「マリオ」は呼格もマリオなので、クロアチア語ではマリアさんとマリオ君を区別して呼びかけることができない。ちょっと不便だが、その代わり(?)o-で終わらない男性名詞は皆しっかり呼格と主格が違うので変化形を頭に叩き込んでおかないと、人に呼びかけることもできない。小学生が教室で「先生!」ということもできないのである。例えばprijatelj(「友人」)という単語は次のように語形変化する。
Tabelle5-90
格の順番がまたしてもラテン語やサンスクリットと違っているが、それを我慢して比べて見ると単数で主格と呼格が違った形になっているのがわかる。面白いことに単数呼格はなんと別の斜格、処格と同形だ。こういうのはちょっと珍しい。複数では定式どおり主・呼格が同形である。なお、単数属格と複数属格は字で書くと同形だが発音が少し違い、複数のほうは母音を伸ばして prijatēljā という風に言わないといけない。もう少し別の例を見てみよう。
Tabelle6-90
「友人」の場合と同じく複数属格の最後の-aは長いāである。単数の主格で k だった音が呼格では č と子音変化しているがこの k→č というのは典型的なスラブ語の音韻交代で、ロシア語にもみられる(下記参照)。同じ音が複数では c [ts] になっているが、これも教科書どおりのスラブ語的音韻交代である。
 ラテン語では上の amīcus などいわゆる第二活用(o-語幹)の名詞の一部でしか呼格を区別しないから第一活用(a-語幹)か第三活用(子音語幹やら i-語幹やら)をとる女性名詞は主格と呼格が常に同形ということになるが、クロアチア語ではラテン語の第一活用に対応する、-a で終わる女性名詞にも呼格がある。上でも述べたとおりだ。正書法には現れないが複数語尾の a(下線)は長母音。
Tabelle7-90
なるほど上の「友人」や「男の子」のようにここでも複数形では主格(対格も)と呼格が同形なんだな、と思うとこれが甘い。女性名詞では複数主格と複数呼格ではアクセントが違うのである。クロアチア語は強勢アクセントのあるシラブルでさらに高低の区別をするが、複数主格のženeでは最初のeが「短母音で上昇音調」、複数呼格ではこれが「短母音で下降音調」である。つまり主格では žene(ジェネ)を東京方言の「橋」のように、呼格だと「箸」のようなアクセントで発音するのだ。
 実は男性名詞の単数の主格と呼格の間にもアクセントの相違があるものがあって、例えば Franjo という名前の主格は a が「長母音で上昇音調」、呼格は「長母音で下降音調」だ。私の母語日本語東京方言には対応するアクセントパターンがないが、主格は「フラーニョ」の「フラ」を低くいい、「ー」で上げる。呼格は「ラ」の後で下げればいいだけだから、東京人が普通に「フラーニョ」という文字を見て読むように発音すればいい。で、上の「マリオ」も呼格と主格では音調が違うんじゃないかと思うが、ちょっと資料がみつからなかった。
 とにかくクロアチア語というのは余程勉強しておかないとおちおち呼びかけもできないのだ。スロベニア語に至ってはこれに加えて双数というカテゴリーをいまだに保持している。これらに比べればドイツ語の語形変化なんて屁のようなものではないか。

 あと、語学系の教師がすぐ「決まった言い方」と言い出す(『34.言語学と語学の違い』『58.語学書は強姦魔』の項参照)ロシア語の Боже мой(ボジェ・モイ、Oh my God!)という言い回し。この Боже は Бог(ボーク、「神」)の呼格形である。ロシア語はパラダイムとしての呼格は失ってしまったがそれでもそこここに古い痕跡を残しているのだ。この Бог  → Боже (bog → bože)という音韻変化はまさに上のクロアチア語の momak  →momče と平行するもの。前者が有声音、後者が無声音という違いがあるだけである。
 
 さらに私の知っている限りではクロアチア語の他にロマニ語が呼格を保持している。以下はトルコで話されている Sepečides(セペチデス)というロマのグループの例だが、男性名詞も女性名詞も単数・複数どちらにも呼格がパラダイムとして存在している。(『65.主格と対格は特別扱い』『88.生物と無生物のあいだ』の項も参照)
Tabelle8-90
単数呼格と複数主格とではアクセントの位置が違うので、誤解のないようにこの二つだけアクセント記号をつけておいた。女性名詞も呼格の区別ははっきりしている。
Tabelle9-90
ロマニ語も方言によっては使用がまれになってきているものもあるらしいが、まあ呼格がよく残されている言語といっていいだろう。

 さて日本語であるが、以前「日本語のトピックマーカー「は」は文法格に関しては中立である」ということを実感として味わってもらおうと、

私の友人は来ないで下さい。

という文をなるべくこの構造の通りにラテン語に訳してみろ、と言ってみたことがある。英語やドイツ語だと意訳して my friends may not ... とか Meine Freunde sollten nicht...とか話法の助動詞かなんかを使って「私の友人」を主格の主語にしてしまう危険性があるが、それでは構造の通りではない。なぜなら「来ないで下さい」は命令文だからである。しかも、私の意図としてはここで日本語不変化詞「は」はあくまでトピックマーカーであって主語だろ主格だろを表すものではないことを特に強調しておくことにあったので、Meine Freunde sollen とか Mein Freund soll とかやられてはこちらの意図が丸つぶれになってしまう。
 ここでの「私の友人」は呼格である。だから呼格であるかどうかわかっているかどうか、言い換えると「は」は斜格中の斜格である呼格にさえくっ付くことができると理解できたかどうかを確かめるためには呼格を区別する言語に訳させてみるのが一番。ラテン語ならギムナジウムで皆やってきているはずだから「来ないで下さい」は無理でも文頭の「(私の)友人」なら大丈夫だろうと思ったのである。念のため「ドイツのギムナジウムを終えた人に質問します」と前置きまでしておいた。
 ところが意に反してラテン語を履修していたドイツ人が一人もおらず、座が沈黙してしまった。良かれと思って前の晩から一生懸命こういうワザとらしい例文を考えて準備しておいたのに完全に裏目に出た感じ。いわゆる「間が持たない」という状況。漫才師だったら即クビになっているところだ。どうしようと思っていたら、イタリアの人が「ドイツのギムナジウムは出ていませんが、国でラテン語をやりました」と手を挙げた。やれやれありがたいと上の日本語を訳させてみたら(これもまた念のため、「単数形でやってみなさい」と指示した)、開口一番「Amīce…」と呼格で大正解。それさえ聞けばもう「来ないで下さい」なんてどうでもよろしい。さすがラテン語の本場、マカロニウエスタンの国の国民は教養があると感心した。
 後で私が「最近のドイツの若いもんって古典語やらないの?ヨーロッパ人のクセにラテン語できないとか、もうグロテスクじゃん」と外で愚痴ったら「日本語の説明にラテン語を持ち出すほうがよっぽどグロテスクだろ」と逆襲された。さらにこの例文は不自然だと指摘されたので、また一晩考えて

ブルータスさんはイタリアの方ですか?

という例文を、「ブルータスさんというのは第三者でなく、話し相手です」と発話状況を明確に限定した上でラテン語に訳させてみることにしている。しかしまだ上述のような Brute という形を出してきた者はいない。ドイツ語や英語だとこれが

Brutus, sind Sie Italiener?
Brutus, are you an Italian?

となってしまい、ブルータスが呼格であることがはっきり形に出ない。

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