アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

August 2022

前に書いた記事の図表を画像に変更しました。レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるからです。生物と無生物を文法レベルで区別する言語は結構多いです。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 日本語では生物が主語に立った場合と無生物が主語に立った場合とでは「存在する」という意味の動詞が違う。いわゆる「いる」と「ある」の区別であるが、

犬がいる。
馬鹿がいる。
機関銃がある。

これをもっと詳細に見てみると生物は「いる」、無生物は「ある」とは一概にいえないことがわかる。

あそこにタクシーがいる。
昔々おじいさんとおばあさんがありました。

しかしタクシーに「いる」を使えるのは駅前で客を待つべく待機しているタクシーなど中に運転手がいる、少なくともいると想定された場合で、意味が抽象化して「タクシーという交通機関」を意味するときは「ある」しか使えない。「そっちの町にはタクシーなんてあるのか?」などと小さな町のローカルぶりを揶揄したいときは「ある」である。さらに「この時間にまだタクシーがあるのか?」という疑問は家から電話でタクシーを呼ぼうとしている人に発せられるのに対し、「この時間にまだタクシーがいるのか?」だと駅に夜着いてキョロキョロタクシーを探している人にする質問だ。
 また昔々おじいさんがありましたというと、おじいさんがいましたといった場合よりこのおじいさんが物語の登場人物であることが前面に出てくる。つまり生身のおじいさんより抽象度がやや高くなることはタクシーの場合と同じだ。もっとも「おじいさんがありました」はひょっとしたら、「おりました」の変形かもしれない。

 ロシア語では主語でなく目的語でこの生物・無生物を表現し分ける。パラダイム上で対格形が生物か無生物かで異なったパターンをとるのだ。まず、生物、人間とか子供とかいう場合は目的語を表す対格形と生格形が同じになる(太字)。まず単数形を見てみよう。
Tabelle1-88
それに対して無生物だと主格と対格が同形になる。
Tabelle2-88
ただしこれは男性名詞の場合で、女性名詞の場合は主格、生格、対格が皆違う形をしているからか、生物・無生物の区別がない。
Tabelle3-88
「女性の言語学者」と「言語学」は形の上ではи (i) が入るか入らないかだけの差である。中性名詞はそもそも皆無生物なのでこの区別はする必要がない。

 上の例は単数形の場合だが、複数形になると両性とも生物・無生物の区別をする。生物は主格と生格が同形、無生物は主格と対格が同形という規則が女性名詞でも保たれる。
Tabelle4-88
「言語学」の複数形というのは意味上ありえないんじゃないかとも思うが、まあここは単なる形の話だから目をつぶってほしい。

 さらに上で出した「子供」の単数ребёнок の複数形は本来ребята なのだが、子供の複数を表すには別単語の дети という言葉を使うのが普通だ。ロシア語ではこの語の単数形は消滅してしまった。クロアチア語にはdjete(「(一人の)子供」)としてきちんと残っている。そのдетиは次のように変化する。生物なので対格と生格が同形だ。
Tabelle5-88
 例えば「言語学者が映画を見る」「女の言語学者が映画を見る」はそれぞれ

Лингвист смотрит фильм.
Лигвистка смотрит фильм.

だが、「言語学者が言語学者を殴る」「女の言語学者が女の言語学者を殴る」は

Лингвист бьёт лингвиста.
Лигвистка бьёт лингвистку.

となる。

 ところがショーロホフの小説『人間の運命』には次のようなフレーズがある。

Возьму его к себе в дети.
I’ll  take + him + to + myself + in + children

主人公の中年男性が、戦争で両親を失い道端で物乞いをしていた男の子を見かけて「こいつを引き取って、自分の子供にしよう」とつぶやくセリフである。в (in) は前置詞で、対格を支配するから、生物である「子供」の場合はв детейとなるはずだ。なぜまるで非生物のように主格と同形になっているのか。腑に落ちなかったのでロシア人の先生にわざわざ本を持って行って訊ねたことがある。するとその先生はまず「あら、これは面白い。ちょっと見せて」と真面目に見入り出し、「ここでは生身の子供を指しているのではなく、子供という観念というかカテゴリーというかを意味しているから無生物扱いされて主格と同形になっているのだ」と説明してくれた。
 その後、生物の対格が主格と同形になる慣用句があることを知った。いずれも生物がグループとか種類というかカテゴリーを表すものである。

идти в солдаты (本来солдат
go + in + soldiers
(兵隊に行く)


выбрать в депутаты  (本来депутатов
elect + in + members of parliament
(議員に選ぶ)


この、「カテゴリーや種類の意味になるときは無生物化する」というのは上の日本語の例、「タクシーがいる・ある」「おじいさんがいました・ありました」にもあてはまるのではないだろうか。さらに「細菌」とか「アメーバ」とか使う人によって生物と無生物の間を部妙に揺れ動く名詞がある、という点も共通しているが、ロシア語は「人形」(кукла、クークラ)や「マトリョーシカ」(матрёшка)が生物扱いとのことで、完全に平行しているとはいえないようだ。言語が違うのだから当然だが。

 さて、面白いことにロマニ語もロシア語と全く同じように生物と無生物を区別する。以下はトルコとギリシャで話されているロマニ語だが、ロマニ語本来の単語では生物の複数形が語形変化してきちんと対格形(というより一般斜格形というべきか、『65.主格と対格は特別扱い』の項参照)になるのに対し、無生物では対格で主格形をそのまま使う。ロシア語と違って男性名詞・女性名詞両方ともそうなる。
Tabelle6-88
属格は非修飾名詞によって形が違って来るため全部書くのがめんどくさかったので男性単数形にかかる形のみにした。「家」の対格が一般斜格でなく、主格と同形になっているのがわかるだろう。その無生物でも与格以下になると突然語根として一般斜格形があらわれるのでゾクゾクする。女性名詞でもこの原則が保たれる。
Tabelle7-88
複数形でも事情は同じだ。(めんどくさいので)以下主格、対格、与格形だけ示す。
Tabelle8-88
下手にロシア語をやっている人などは「これはロシア語の影響か」とか思ってしまいそうだが、私にはロシア語からの影響とは考えられない。第一にこの例はトルコのロマニ語のもので、この方言はロシア語なんかとは接触していないはずである。第二に生物の対格は古い印欧語から引き継いだ対格・一般斜格をとっていて属格(ロシア語でいう生格)と同形ではない。
 もっともロマニ語でも生物と無生物のあいだを揺れ動くグレーゾーンがあるそうで、魚とか蛆虫とかはどっちでもいいらしい。また無生物が擬人化すると生物あつかいになるとのことで、日本の「タクシーがいる」あたりと同じ感覚なのだろうか。


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表が多すぎて機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるので(私自身は今時スマホを持っていないので自分のブログをスマホでは見たことがない)、図表を画像に変更しました。データがやたらとあるので再確認して、文章も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 いつだったか、インドの学校では九九を9×9=81までではなく、12×12=144まで暗記させられる、と聞いていたのをふと思い出して調べてみたら12×12ではなく20×20までだった。「じゅうに」と「にじゅう」を聞き違えたのかもしれない。
 言語によっては12で「2」を先にいうこともあるし、反対に20のとき「10」が前に来たりするからややこしい。また、11と12が別単語になっている言語もある、と言っても誰も驚かないだろう。英語がそうだからだ。英語ばかりでなくドイツ語などのゲルマン諸語全体がそういう体系になっている。ゲルマン諸語で1、2、3、10、11、12、13、 20、30はこんな具合だ。
Tabelle1-81
13からは「1の位の数+10」という語構造になっているが11と12だけ系統が違う。11(それぞれelf, elva, ainlif)の頭(e- あるいはain-)は明らかに「1」だが、お尻の -lf、 -iva、 lif はゲルマン祖語の *-lif- または *-lib- から来たもので「残り・余り」という意味だそうだ。印欧祖語では *-liku-。ドイツ語の動詞 bleiben(「残る」)もこの語源である。だから11、12はゲルマン諸語では「1あまり」「2あまり」と言っているわけだ。
 この、11、12を「○あまり」と表現する方法はゲルマン祖語がリトアニア語(というか「バルト祖語」か)から取り入れたらしい。本家リトアニア語では11から19までしっかりこの「○あまり構造」をしていて、20で初めて「10」を使い、日本語と同じく10の桁、「2」のほうを先に言う。
Tabelle2-81
ゲルマン語は現在の南スウェーデンあたりが発祥地だったそうだから、そこでバルト語派のリトアニア語と接触したのかもしれない。そういえば昔ドイツ騎士団領だった地域には東プロシア語という言語が話されていた。死滅してしまったこの言語をゲルマン諸語の一つ、ひどい場合にはドイツ語の一方言だと思い込んでいる人がいるが、東プロシア語はバルト語派である。
 印欧語ではないが、バルト海沿岸で話されているフィンランド語も11から19までは単純に「1と10」という風には表さない。
Tabelle3-81
11、12、13の-toistaという語尾はtoinenから来ていて、もともと「第二の」という意味。だからフィンランド語では例えば11は「二番目の10の1」だ。完全にイコールではないが、意味的にも用法的にもリトアニア語の「○余り」に近い。「20」のパターンもリトアニア語と同じである。
 
 ケルト諸語ではこの「○余り構造」をしておらず、11、12は13と同じくそれぞれ1、2、3と10を使って表し、一の位を先に言う。
Tabelle4-81
アイルランド語の10、a deichはdéag や dhéag と書き方が違うが単語そのものは同一である。後者では「10」が接尾辞と化した形で、これがブルトン語ではさらに弱まって -ek、-zek になっているが構造そのものは変わらない。それより面白いのは20で、「10」も「2」も出て来ず、一単語になっている。これはケルト祖語の *wikantī から来ており、相当語形変化をおこしているがブルトン語の ugentも同語源だそうだ。印欧祖語では *h1wih1kmt* あるいは h₁wih₁ḱm̥ti で、ラテン語の vīgintī もこの古形をそのまま引き継いだものである。「30」、tríocha と tregont も同一語源、ケルト祖語の *trī-kont-es から発展してきたもの。つまり20、30は11から19までより古い言語層になっているわけだ。これはラテン語もそうだったし、それを通して現在のロマンス諸語に引き継がれている。
Tabelle5-81
当然、といっていいのかどうか、サンスクリットやヒンディー語でも「20」は独立単語である。
Tabelle6-81
ヒンディー語の bīs はサンスクリットの viṃśati が変化したもの。下のロマニ語の biš についても辞書に viṃśati 起源と明記してある。もっともそのサンスクリットは数字の表し方がかなり自由で学習者泣かせだそうだが、学習者を泣かせる度合いはヒンディー語のほうが格段に上だろう。上の11、12、13、それぞれ gyārah、 bārah、tērah という言葉を見てもわかるように、ヒンディー語では11から99までの数詞が全部独立単語になっていて闇雲に覚えるしかないそうだ。もっとも13の -te- という頭は3の tīn と同語源だろうし、15は paṅdrah で、明らかに「5」(pāṅc)が入っているから100%盲目的でもないのだろうが、10の位がまったく別の形をしているからあまりエネルギー軽減にはならない。やはり泣くしかないだろう。
 同じインド・イラニアン語派であるロマニ語の、ロシアで話されている方言では20と30で本来の古い形のほかに日本語のように2と10、3と10を使う言い方ができる。
Tabelle7-81
ドイツのロマニ語方言では30をいうのに「20と10」という表し方がある。
Tabelle8-81
ハンガリー・オーストリアのブルゲンラント・ロマの方言では20と30を一単語で表すしかないようだが、11から19までをケルト語やサンスクリットと違って先に10と言ってから1の位を言って表す。これは他のロマニ語方言でもそうだ。
Tabelle9-81
手持ちの文法書には13がbišutrinとあったが、これは誤植だろう。勝手に直しておいた。他の方言にも見えるが、ロマニ語の30、trianda, trianta, trandaはギリシャ語からの借用だそうだ。
Tabelle10-81
古典ギリシア語では13からは11、12とは語が別構造になっているのが面白い。それあってか現代ギリシャ語では11と12では一の位を先に言うのに13からは10の位が先に来ている。20と30はケルト語と同じく独立単語で、20(eikosi または ikosi)は上で述べたブルトン語 ugent、ラテン語の viginti、サンスクリットの viṃśati と同じく印欧祖語の *(h₁)wídḱm̥ti、*wi(h₁)dḱm̥t または *h₁wi(h₁)ḱm̥tih₁ から発展してきた形である。

 あと、面白いのが前にも述べた(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)バルカン半島の言語で、バルカン連語連合の中核ルーマニア語、アルバニア語では11から19までがone on ten, two on ten... nine on ten という構造になっている。
Tabelle11-81
11を表すルーマニア語の unsprezece、アルバニア語の njëmbëdhjetë、ブルガリア語の edinadesetはそれぞれun-spre-zece、 një-mbë-dhjetë、edi(n)-na-deset と分析でき、un、 një、edinは1、spre、 mbë、naは「~の上に」、zece 、dhjetë、desetが「10」で単語そのものは違うが造語のメカニズムが全く同じである。さらに実はブルガリア語ばかりでなくスラブ語派はバルカン外でも同じ仕組み。
Tabelle12-81
ロシア語 odin-na-dcat’、クロアチア語の jeda-na-est でもちょっと形が端折られていたりするが、one on ten という構造になっていることが見て取れるだろう。20、30は日本語と同じく「に+じゅう」「さん+じゅう」である。

 ここでやめようかとも思ったが、せっかくだからもうちょっと見てみると、11から19までで、1の位を先に言う言語が他にもかなりある。
Tabelle13-81
ヘブライ語は男性形のみにした。アラビア語の「11」の頭についているʾaḥada は一見「1」(wāḥid)と別単語のようだが、前者の語根أ ح د ‎('-ḥ-d) と後者の語根و ح د ‎(w-ḥ-d) は親戚でどちらもセム語祖語の*waḥad-  あるいはʔaḥad- から。ヘブライ語の אֶחָד ‎('ekhád) もここから来たそうだから意味はつながっている。アラビア語ではつまり11だけはちょっと古い形が残っているということだろうか。
 「11だけ形がちょっとイレギュラー」というのはインドネシア語もそうで、12からははっきり1と2に分析できるのに11だけ両形態素が融合している。
Tabelle14-81
この11、sebelas という形は se + belas に分解でき、se は古マレー語で「1」、インドネシア語のsatu と同義の形態素である。belas は11から19までの数詞で「10」を表す形態素。これもマレー語と共通だそうだ。つまりここでも古い形が残っているということだ。
 さらにコーカサスのジョージア語(グルジア語)も1の位を先に言う。
Tabelle15-81
-meṭi は more という意味の形態素だそうで、つまりジョージア語では11から19までを「1多い」「9多い」と表現していることになり、リトアニア語の「○余り構造」とそっくりだ。「13」の ca- はもちろん sami が音同化して生じた形である。また、ジョージア語も「20」という独立単語を持っていて、30は「20と10」である。

 シンタクス構造が日本語と似ているとよく話題になるトルコ語は11~19で日本語のように10の位を先に言う。その点はさすがだが、20と30は残念ながら(?)日本語と違って独立単語である。20(yirmi)も30(otuz)もテュルク祖語からの古い形を踏襲した形なのだそうだ。
Tabelle16-81
バスク語も10の位を先に言うようだ。能格言語という共通点があるのにジョージア語とは違っている。もっとも30は「20と10」で、これはジョージア語と同じである。
Tabelle17-81
こうして見ていくと「20」という独立単語を持っている言語は相当あるし、数詞という一つの体系のなかに新しく造語されて部分と古い形を引き継いだ部分が混在している。調べれば調べるほど面白くなってくる。今時こういう言い回しが若い人に通じるのかどうか不安だが、まさにスルメのように噛めば噛むほど味わいを増す感じ。数詞ネタでさかんに論文や本が書かれているのもわかる気がする。


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 プラーグ学派のテーマ・レーマ理論では「伝達価値の高いもの(レーマ)は基本的に文の最後に来る」と言っていた。「基本的に」という注意書きがついているのは、詳細にデータを検討すると逆方向のものもゴロゴロみつかるためだ。別にそれに忠義立てしたわけではないが、前にシャウミャンの話をしたとき、最も主張したかったのは実は最後にチョチョッとつけた情報構造理論についての段で、特に「日本語の授業で助詞の「は」は既知の情報を表わすなどという説明をする人はアンポンタン」という部分である。どこがアンポンタンなのかもシャウミャンの項で述べておいたがあれじゃああまりにもはしょり過ぎだと自分でも思うので、ここでそのテーマをチョチョッと繰り返すことにした。
 
 次の文はソルジェニーツィンの『ガン病棟』の翻訳の最初の文である。

ガン病棟はすなわち第13病棟だった。

これが始まりなのだからガン病棟は既知の情報などではない。それなのにしっかり「は」でマークしてある。もっとも既知論者はこういうかも知れない:「この小説のタイトルが『ガン病棟』だ。だから表紙で言及してあり、その意味で既知である」。あっそ。こじつけ感は否めないのだがまあ認めるとしよう。ではタイトルのない発言はどう解釈したらいいのだろう。

地球は青かった。

これも既知論者は比較的簡単に説明できる。「地球と言う存在は皆知っている。すでに指示対象が背景知識として存在しているという意味で既知」。この理屈で次の、これも小説の最初の文に「は」がついていることも説明できる。

春はあけぼの。

「春」という概念は誰でも頭に持っており、その意味で既知である。あっそ。では次の文はどうだろう。

吾輩は猫である。

この発言者は私の知り合いでも何でもないので誰なのか私には特定できない。その意味で私の「背景知識」にはこの指示対象は存在しない。もちろん既に言及された人物でもない。作者の夏目漱石は誰でも背景知識として持っているという詭弁も通じない。この人物(猫)は夏目漱石ではないからだ。そこで既知論者は言うかもしれない:「吾輩」「ここ」「きのう」など指示対象が発言者や発話状況に依存することが前提となっているDeixis、直示表現はいわばその意味の軸・指示の出発点の存在そのものが既知。あっそ。

 これらの説明はある程度は「あっそ。なるほど」とは思うのだが、既知論者が既知という概念を玉虫色に変化させていることがわかるだろう。「は=既知」という図式を放棄したくないばかりに「既知」の意味範囲のほうを都合によって好き勝手に拡大解釈している感がある。
 しかし実はこの玉虫色の中に重要なポイントが隠れている。「既知」にはいろいろな段階があって「既知対未知」という単純な二項分割にはならないということだ。この「既知の程度」を言語学ではreferential status 「指示のステータス」というが、これにはいろいろな段階がある。段階分けのしかたや設置する段階数はもちろん学者によって異なるが、ここでは大言語学者人食いアヒルの子に従って次のような6つの指示のステータスを区別してみよう。1が最も既知の度合いが高く、6が一番低い、言い換えると未知の度合いが強い指示対象である。

1.記憶の焦点:
指示対象はたった今テキスト・発話の場に導入された。
2.活性状態;
指示対象は生々しく記憶に残っている。
3.半活性状態:
指示対象が以前に言及されたことを(ぼんやりとでも)思い出すことができる。
4.非活性状態だが特定可能:
言及の記憶はないが言語外状況などの助けによって当該指示対象がわかる。
5.特定不可:
文脈などの助けがあっても指示対象を特定できない。
6.エンプティな指示対象:
指示対象が存在せず、その補充を求める。

指示対象はこれらの段階の違いによって異なる言語形式で表わされる。例えば1と2は英語やドイツ語では人称または指示代名詞を使う。3,4になると定冠詞付きの名詞で表わす。5が不定冠詞と名詞。6は疑問代名詞で対象を指示する。それに対して日本語では1はゼロ代名詞、2から4までは指示代名詞(これ、それ、あれ)または指示代名詞に名詞をつけて表わす(この犬、その犬、あの犬)。5では名詞の前に「ある」や「さる」がつく(ある人、さる町など)。または「なにか」「どれか」など疑問代名詞に「か」をつけた形で表わされることもある。6は英語と同じく疑問代名詞だ。ロシア語でも1はゼロで表わし、2では指示代名詞、это や этот が使われることが多い。3になると英語などと違って定冠詞のないロシア語では(裸の)名詞句を使うが、もちろんこれも「そういう場合が多い」であってキッチリ決まっているわけではない。定冠詞がないから5でも3と同様名詞を使ったりするからだ。その代わりというのも変だが、ロシア語では「なにか」「だれか」をさらに細分する。例えば「なにか」ではчто-то と что-нибудь を明確に区別し、前者は現実に存在はするが発話者が特定できない対象物、後者はそれが存在するかしないかに対してさえ発話者が不確実な対象物である。「昨日田中さんがなにか言ってました」のなにかは前者、「田中さんはなにか言ってましたか?」のなにかは後者である。「(なんでもいいから)なにかおいしいものを持ってきてください」も後者だ。後者はいわば5と6の中間的と言えるかもしれない。6はロシア語でも疑問代名詞である。
 上のガン病棟や地球や春は4ということになるだろう。ここで既知論者は「そうか、じゃあ4までが「は」の範囲なんだな」と早合点しそうだが、そうは問屋が下ろさない。まず1を考えて欲しい。屁理屈を言えば記憶の焦点に立つ指示対象、つまり既知の指示対象には「は」がつかない。ゼロ形を使うから「は」のつけようがないからだ。まあそりゃあまりにも屁理屈だと言われるとその通りだが、ちょっとこういう発言を考えてみて欲しい:「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.いろいろ話をしてくれたよ。」ここでは「友だち」が焦点なので、2と3ではゼロ形で指示してある。指示ステータス表現の図式通りだ。次にその焦点対象を全部「は」で表わしてみよう:「1.昨日友だちが来たんだ。2.その友だちはアメリカに行ってたんだ。3.その友だちはいろいろ話をしてくれたよ。」2では焦点対象(既知)を「は」で表わしており、既知論者の主張する通りである。だが3はどうだ。私の感覚ではこの文はウザ過ぎて容認不可である。ここでは「友だち」は焦点ステータスを持続している、つまり普通の焦点以上に焦点で、そのスーパー既知の対象に「は」がついているのだから既知論者の理屈では何の問題もないはずだ。それなのにどうしてこの文はウザいのか?それともこれは「は」の問題でなく単に焦点をゼロ形で表わしていないからなのか。それでは焦点対象に「は」をつけないで比べてみよう:「1.昨日友だちが来たんだ。2.その友だちがアメリカに行ってたんだ。3.その友だちがいろいろ話をしてくれたよ。」 まさにその「焦点がゼロで表わされていない」という理由で2はボツである。上の「その友だちは」の方はOKなので、ここまでだったら既知論者の主張が正しい。しかし焦点がスーパー化している3になるとそうはいかない。文のウザさはむしろ「は」より小さくなる。2を図式通りゼロで表わしてみるとさらにはっきりする。次のうち、どちらが座りがいいだろうか:「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.その友だちはいろいろ話をしてくれたよ。」、「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.その友だちがいろいろ話をしてくれたよ。」 私の感覚では後者、スーパー焦点に「は」がついていないほうが座りがいい。少なくとも既知の度合いが最も高い対象物に「は」がつかないことなど日常茶飯事なのだ。これが一つ。
 逆に既知度の低い、上述の段階で言う5と6にも実は「は」をつけることができる。私自身時々「ある人」「あるところ」など5の対象物に「は」がついているのを見かけるが、ガン病棟も次のような出だしで始めることができる(ただし文学性はソルジェニーツィンより劣る)。

あるガン病棟には13号棟という番号が振ってあった。まったく縁起の悪い話だ。

また次のような会話は十分可能である。

「私また試験に落ちてしまいました(涙)」
「まだ2回目でしょ?平気ですよ。ある人は5回も落ちたそうですから。」

この「あるガン病棟」や「ある人」は少なくとも発話者には特定できるから当てはまらない?ガン病棟はそうかもしれない。しかし後者の例では慰めている人は5回落ちた人を直接知っておらず「誰か5回落ちた人がいる」という話をまた聞きしただけかもしれないではないか。さらに次の例はどうだろう。

あれをやるな、これをやるなって、うるさいな、じゃあ何はやっていいんだ?!

疑問代名詞にも「は」をつけられないことはないのである。さらに私の言語感覚では次の文は完全にOKである。

昨日の集まりね。誰は来て誰は来なかったのか、ちょっと表にでもしてくれない?

この場合は「誰が」と「が」を使ってもいいが、上の「あれをやるな」の文は「何がいいんだ」と「が」をつけるとむしろ許容度が下がる(一番いいのは「じゃあ何ならやっていいんだ?!」と「なら」を使うことだろう)。
 確かに指示のステータスの低い対象物に「は」をつけられるのは限られた文脈だ。限られてはいるが理論的には可能なのである。「は」は未知のものにもつけられる、これが二つ目だ。

 次に既に上でちょっと出したが、「既知の対象にも「は」がつかないことも多々ある」ことをもう一度見てみよう。これは「未知の対象物にも「は」はつけられる」ことといわば裏表の現象である。以下はたしか久野暲の出していた例だが、

強盗が僕の家に入った。その強盗が僕にピストルを突き付けて金を出せと言った。

焦点の「強盗」に「は」がついていないのに、久野氏ばかりでなく私の感覚をもってしてもこの文は完全にOKである。どうしてここは「強盗」なんですかと聞かれたら既知論者はどう説明するのだろうか。「この文章は正しくない、「は」をつけるべきだ」とか規範文法精神を丸出しにして以下のように無理やり訂正でもさせるか。

強盗が僕の家に入った。その強盗は僕にピストルを突き付けて金を出せと言った。

私の日本語感覚では(うるさいな)こんな訂正など余計なお世話、いや害にしかなっていない。要するに「は」がついているからと言って既知とは限らないし、ついていないからといって未知とは限らないのだ。既知論者はどうやってこのオトシマエをつけるのか。ここはやはり「既知」の観念を玉虫色操作したりの妙なアリバイ工作などせずに「実は「は」は指示のステータス、つまり既知・未知の区別とは理論的に無関係です」とさっさとゲロしてしまった方が楽ではないのか。

 では「は」とは何なのか。「は」がテーマ・主題マーカーとも呼ばれているように、話者が「当該対象物と関連させてセンテンスを発話します」、「この発話は当該対象物についてです」とシグナルを出すためにつけるのだ。それ以上でも以下でもない。そして『175.私は猫です』でも書いたようにそのトピックは本来格に中立であると同時に指示のステータスにも中立なのである。
 ではなぜ「は」は既知の対象物などという誤解が生じたのかというと、既知の対象物がトピックになりやすい傾向が確かにあるからだ。このメカニズムも1980年代に言語学者らがとっくに説明している。全く未知の対象物をいきなりトピックにすると聞き手には二重の負担がかかる。つまり1.その対象物が存在するものとして自分の記憶の場に書き込まねばいけない、2.さらにその、今自分で書き込んだばかりの対象物をトピックとして引っ張り出さないといけない。これを譬えるとフォルダ(トピック)とファイル(センテンス内容)を同時に作成するようなもので、聞き手はまず新しいフォルダを自分の頭の中に用意したのち、その真新しいフォルダに発話内容を入れる、二度手間である。
 このような、話者側が「聞き手はこの対象物は記憶にはない」とわかっていながら敢えてそれをトピックマークする行為を日露混血の言語学者オルガ・ヨコヤマ氏は imposition、「押し付け」と呼んでいる。上でも出した例、小説などの場合は受け取る側(読者)にその準備ができているから(だからこそ本を開いたのだ)トピックを押し付けても問題ないが、日常会話は事情が異なる。余計な負担をかからないように、相手がこちらの情報を自分がすでに持っているフォルダに入れられるよう配慮してやるか、せめてまずこちら側からこういうフォルダを作れと指示して下準備させてからそこに入れる情報を伝える、これが普通だ。だからトピックは既知の対象であることが多いのである。しかしこれはあくまで傾向であって、定義として持ち出すことはできない。凶悪犯罪者の90%が男性だからと言って「男性」という言葉を「犯罪を犯しやすい性」などとは定義できないのと同じことだ。そしてトピック=既知が傾向でしかないことも1980年代にチェイフやラインハルトなどの学者が見抜いている。未だにこれを定義と混同する人がいるのはなぜだろう。それとも言語学はその後「やはりトピックは既知の対象と定義すべきだ」という流れに変わったのだろうか。
 
 理論上は無制限デスマッチだからこそ、何をトピックにするか、適切な対象物をトピックマークできるかによってその人の言語・会話能力が露見するのである。自己裁量、自由意志だからこそ余計にそこで日本語能力が問われるのだ。自分はなぜこの対象物をトピックマークするのか、なぜこの対象物は焦点なのにトピックとしないのか、自分で理由がわかっていなければいけない。母語者はたとえ人には説明できなくてもわかってはいる。前にも出した例だが、「どなたが山田さんですか?」との問いに「私山田です」と言って手を上げる人など日本語の母語者にはいない。「既知の対象には(自動的に)「は」をつける」などとアンポンタンな教師に刷り込まれてしまうとこんな簡単な事すら永久にできるようにならない。またちょっと高度だがやはり母語者なら絶対ハズさない例としてさらにこんな状況を想像してみてほしい:私は山田さんという人とアポがあるので、指定の時間に山田さんの事務室に行った。ところがドアをノックしても誰もいない。あれと思っていたらちょうどそこに山田さんの同僚田中さんが通りかかった。田中さんは私が山田さんとアポがあることを知っている。そこで田中さんが私にいう。「あっ、山田さんは今来ます。ごめんなさい、ちょっと物を取りに行ったんですよ。」
 以前これとそっくりな状況になったことがある。ただし通りかかったのは田中さんではなく日本語がペラペラの外国人である。その人はマジに日本語がパラペラだったが、そこで私にこういったのだ;「あっ、〇さん今来ます。」 これも日本語の母語者ならまず言わない。なぜか。
 山田さんのドアをノックしている私を見れば「山田さん」という対象物が私にとって指示のステータスの頂点に立つことは明白だ。だからそこで通りがかりの人もそれを汲んで「山田さん」をフォルダ(トピック)にしたのだ。「あなたが山田さんとアポがあることは知ってますよ、ですからその山田さんに関する情報(=今来ます)をどうぞ」というシグナルである。このフォルダなしに「山田さんが来ます」といわれるとまるで私のアポとは関係のない別の山田さんが来たような感じで「それがどうした」と思いかねない。
 
 こういう「は」の本質は母語者には深く染みついている。知らずにうっかり間違った敬語を使ってしまう日本人などいくらもいるが、文脈にふさわしくない「は」を知らずにうっかり使ってしまう日本人はいない。使うとすればそれはわざと、例えば会話を打ち切りたいと暗示するシグナルとしてとかである。

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以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるそうなので(私自身は今時スマホを持っていないので自分のブログをスマホでは見たことがない)、図表を画像に変更しました。所々チョンボやってたんで本文も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 エマヌエル・ガイベルという後期ロマン派の詩人の作品にZigeunerleben(「ジプシーの生活」)という詩がある。シューマンの作曲で「流浪の民」として日本でも有名だが、第二連はこうなっている。

Das ist der Zigeuner bewegliche Schar,
Mit blitzendem Aug' und mit wallendem Haar,
Gesäugt an des Niles geheiligter Flut,
Gebräunt von Hispaniens südlicher Glut.

それは移動するジプシーの群れ
きらきら光る眼と波打つ髪
ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い
イスパニアの南国の灼熱に肌を焦がす
(原作の韻など全く無視した無粋な訳ですみません)


3行目「ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い」という部分が気になるが、これはいわゆるジプシー、つまりロマがエジプトから来たと当時広く信じられていたからである。言いだしっぺが誰であるかはわからない。彼ら自身がそう自称したとも言われている。『50.ヨーロッパ最大の少数言語』の項でも書いたようにロマの起源はインドであるが、その存在が文献に現れるのは11世紀に当時のビザンチン帝国の記録が最初だ。当時ビザンチン帝国だけでなく、中東全般にわたって広く住んでいたらしい。彼らはキリスト教を受け入れていた(そうだ)。肌の色が浅黒く、その地では周りからコプト人と見なされていたのを巡礼目的や十字軍でパレスティナに来ていたヨーロッパ人が本国に伝えた、とも聞いた。
 これは単なる想像だが、私にはロマの方からコプト人だと自己申告したとはどうも考えにくいのである。浅黒い膚のキリスト教徒を見てヨーロッパ人が勝手にコプトだと思いこみ、ロマが特にそれに異を唱えないでいるうちにそういう説が定着してしまったのではないだろうか。そもそもロマ自身は自分たちがエジプト出身扱いされているのを知っていたのだろうか。 ヨーロッパ人側がロマをエジプトから来た人々と「思いたかった」、出エジプト記を今度はキリスト教徒を主役にして再現したかった、つまりある種の宗教ロマン物語を信じたかったのでないだろうか。そしてそういう図式が当時のキリスト教社会にアピールして定着したのでは。例えば上のガイベルの詩にもこんな部分がある。

Und magische Sprüche für Not und Gefahr
Verkündet die Alte der horchenden Schar.

そして苦境や危機に陥れば
老婆が魔法の言葉を告げる
(モーゼかこの老婆は?)


Und die aus der sonnigen Heimat verbannt,
Sie schauen im Traum das gesegnete Land.

そして陽光に満ちた故郷を追われ
祝福の地を夢に見る
(das gesegnete Landあるいはgesegnetes Land(祝福された土地)というのも聖書からの概念)


 こうやって都合のいい時だけは(?)ロマンチックな描写をするが、何か起こると、いや起こらなくてもロマは一般社会で差別抑圧されていたのである。「虐待」といってもいい。ひょっとしたら文学者はロマが普段虐待されているそのために、せめて言葉の上では美しくロマンチックに描いてやって、言い換えるとリップサービスでもしてやって読者の、いや自身の目をも現実から背けようとしたのかもしれない。
 この詩が出版されたのは1834年で、比較言語学者のポットがロマの言語とインド・イラニアン語派との類似に気づいたのは1844年、ミクロシッチが詳細な研究を行なったのが1872年から1880年にかけてだから、ガイベルはまだこの時点ではロマがインド起源ということを知らなかったのだろう。しかし一方ガイベルは1884年まで生きており、古典文献学で博士号までとっているのだからミクロシッチの論文を読んでいたかもしれない。もっとも文学と言語学というのが既に仲が悪いことに加えて、ガイベルの当時いたプロイセンとミクロシッチのいたオーストリア・ハンガリー帝国は敵同士だったから、その可能性は薄いと思うが。

 ロマはビザンチン帝国内に結構長い間住んでいたらしく、その語彙には当時のギリシア語からの借用語が目立つそうだ。例えば:
tabelle1-72
 語彙ばかりでなく、派生語を作る際の形態素などもギリシャ語から輸入している。抽象名詞をつくるための-mos (複数形は-mota)がそれ。
 ギリシア語に触れる以前、つまり現在の北インドからコーカサスの言語からの借用は、はっきりどの言語からと断定するのが難しい。借用から時間が経って借用元の言語でもロマニ語内でも語の形が変化を起こしてしまっている上、そもそもあそこら辺の言語はロマニ語と同じく印欧語だから、当該単語が借用語なのか双方の言語で独立に印欧祖語から発展してきたのか見分けがつけにくいらしい。
 それでも当地の非印欧語、グルジア語やブルシャスキー語からの借用を指摘する人もいる。ブルシャスキー語というのはパキスタンの北で細々と話されている言語である。能格言語だ。それにしてもグルジア語にしろその他のコーカサスの言語にしろ、あのあたりの言語がそろって能格言語なのはなぜだ?以前にも書いたように、シュメール語と無関係とは思えないのだが。
 そのブルシャスキー語からロマニ語への借用をヘルマン・ベルガー(Hermann Berger)という学者が1959年に発表した『ジプシー言語におけるブルシャスキー語からの借用語について』(Die Burušaski-Lehnwörter in der Zigeunersprache)という論文で指摘し、13ほど例を挙げ、嫌というほど詳細な検討を加えている。ベルガーの説には批判や疑問点も多いらしいが、面白いので一部紹介しておきたい。著者はこの論文の中でブルシャスキー語とバスク語との親類関係についても肯定的に発言している。
Tabelle2-72
 ビザンチンがオスマントルコに滅ぼされると、ロマはヨーロッパ内部へ移動し始めた。現在ヨーロッパ大陸にいるロマは方言の差が激しく、すでに意思の疎通が困難な場合が多いそうだが、これはロマニ語内部での変化に加えて(それだけだったらたかが600年ぽっちの間に意思疎通が困難になるほど変遷するとは思えない)、あちこちでいろいろな言語と接触して外部から変化させられたためだろう。面白い例が一つある。セルビアで話されているErliというロマニ語方言(というべきか言語というべきか)では未来形をまさにバルカン言語連合の図式どおりに作るのである。Erliでは動詞の接続法に不変化詞kaをつけて表すが、このkaは「欲しい」という動詞kamelが後退したもの。

Ka   dikhav
未来. + see(一人称単数形・接続法)
私は見るだろう

『40.バルカン言語連合再び』の項で挙げたアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語と比べてみてほしい。構造が完全に平行しているのがわかる。

アルバニア語
doshkruaj
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
        
ルーマニア語
oscriu
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
 

ブルガリア語
šte piša
未来 +「書く」一人称単数現在

現代ギリシア語
θα γράψω
未来 +「書く」一人称単数接続法

ところが同じロマニ語でもブルゲンラント・ロマニ語というオーストリア、ハンガリーで話されている方言だと未来形を純粋な語形変化で表す。

phirav (「行く」一人称単数現在) + a
→ phira「私は行くだろう」
phires (「行く」二人称単数現在) + a
→ phireha「君は行くだろう」
など

 上で述べたようにロマの一部がバルカン半島を去ったのはそれほど古い話ではない。それなのにブルゲンラントのロマニ語がバルカン言語連合現象の影響を受けていない、ということはバルカン言語連合という現象自体が比較意的新しい時代に起こったか、現象そのものは昔からあったがロマが周りとあまり接触しなかったとかの理由で影響を被るのが他の言語より遅かったかのどちらかである。語彙面での借用状況を考えると「周りとの接触が乏しかった」とは考えにくいので最初の解釈が合っているような気がするが、なにぶん私は素人だから断言はできない。

 またロマニ語は借用語と本来の言葉との差を明確に意識しているらしく、外来語と土着の単語とでは変化のパラダイムが違う。下は旧ユーゴスラビアのヴラフ・ロマの例だが、kam-(「欲しい」)という動詞はロマニ語本来の、čit-(「読む」)はセルビア語からの借用。ロシア語でも「読む」はчитать(čitat’)である。
Tabelle3-72
つまり土着の単語で母音aやeが現れる部分が外来語ではoになっているのである。これは名詞の変化パラダイムでもそうで、ロマニ語本来の語raklo(「男の子」)と上でも述べたギリシア語からの借用語foroの語形変化ぶりを比べるとわかる。単数形のみ示す。
Tabelle4-72
ここでもeとoがきれいに対応している。なお、私の参照した資料にはなぜか対格形が示されていなかったが、『65.主格と対格は特別扱い』で見たように対格は膠着語的な接尾マーカーなしの第一層一般斜格を使うから「男の子を」はrakl-esになるはずである。それに対して「町を」は一般斜格のfor-osではなく主格と同形のforoになるはずだ。ロマニ語はロシア語と同じく(というよりロシア語がロマニ語と同じく)生物・非生物の差を格変化形で表すからである。
 そういえば日本語は外来語とヤマト言葉を片仮名と平仮名(と漢字)で書き分けるがロマニ語はこの区別をパラダイムでやるわけか。


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 欧州で少なからぬ話者人口を持つロマニ語は文字を持たない言語である。『50.ヨーロッパ最大の少数言語』で書いたように最近では文字化の試みも行われているがあまりうまく行っていない。いわゆる標準言語化も困難だ。だからロマ出身の作家はロマニ語でなく、住んでいる国の言語で作品を著す。
 そういう有名なロマの作家の一人にマテオ・マクシモフMatéo Maximoff(1917 – 1999)という人がいる。バルセロナ生まれだ(という)が、当地には出生記録が残っていない。マクシモフの時代にはロマは周りの社会とは別の独自の部族社会で生き、国境を無視して放浪生活をしていた人が多かったので(今でも一部はそうだ)、出生届を現地の役所に提出したりはしなかったからだ。
 マクシモフの母はフランスのマヌシュと言われるロマでサーカスの綱渡りアーチストとして有名だった。父はルーマニアの南部から来たカルデラシュという、銅細工で生計を立てているロマのグループの属していたが、祖先にはロシアで生活しているグループもいたそうでなるほど苗字がロシア語っぽい。11の言語が話せたそうだ。マテオの言語の才能は父譲りなのだろう。父方の祖父と祖母はそれそれハンガリーとルーマニアのロマだった。
 ここで唐突に思い出したのだが、マテオが生まれたのはまさにバルセロナではアントニ・ガウディがサグラダ・ファミリアの建設に従事していたころだ。そしてガウディもまた銅細工師の家系である。先祖はフランスに住んでいたがバルセロナに移住してきた。この銅細工というのはロマの典型的な職業の一つだが、逆は真ではなく、銅細工師ならロマかというとそうではない。ガウディは完全にバルセロナの社会の中で生涯を送ったカタロニア人である。パラレル社会で生きていたロマとは全く違う。ただ職業家系の点でマクシモフとガウディが接触するのは非常に面白い。
 マテオの一族はガウディと逆にバルセロナからフランスにやってきて住みついた。マテオがまだ子供の頃だ。だから後のマテオの作品の言語はフランス語である。

 さてマクシモフが作家活動に入ったきっかけというのが非常に面白く、まさに「運命」という言葉が思い浮かぶ。
 1938年夏、中部フランスでロマの部族同士が争いを起こし、怪我人や死者が出た。きっかけはマクシモフの部族の少女が他の部族に連れ去られたことだった。抗争はロマの規律にのっとったもので死者が出てもロマにとっては犯罪ではなかった。が、ここはフランスである。当然フランスの法律に従って裁判が行われ、傷害殺人として当事者のロマたちが刑を受けた。その中にマクシモフもいたのである。しかし最年少のマクシモフは直接手を下してはおらず、偵察と見張りを受け持っていただけとわかり、比較的軽い刑ですんだ(それでも殺人幇助だ)。その際マクシモフの弁護を務めたジャック・イソルニJacques Isorni がマクシモフの文才を見抜き、服役中に何か書いてみるように勧めたのである。このイソルニという人は後1945年の戦犯裁判時ペタン元帥の弁護を受け持った。そのあとは政治に転向し死刑廃止にも尽力した人である。人の才能を見抜けるわけだから当然自分自身も文才があったようで自伝も残している。
 そのイソルニに勧められて書いた物が「一囚人が暇つぶしに著した書き物」のレベルを遥かに超えていた。何年か後に出版され大成功を収めた。それがマクシモフの処女作『ウルジトリ』である。ロマの生活を題材にした小説だ。マクシモフはその後も続いて文学作品を書き続け、1985年にはフランス政府から芸術文化勲章Chevalier des Arts et des Lettres を授与されている。1999年にロマンヴィルで亡くなった。
 小説で有名になってもマクシモフはロマとしての生活を変えず、一族と共にロマの部落で銅細工師として生き、作品は夜仕事が終わってから書いた。原稿が出来上がると必ず部落の長の所へ行き、何か不適当なことを書いてはいないか、ロマ以外に知られてはいけないことを漏らしたりしてはいないかチェックを受けたという。妻のTira Parni (この名前の女性が処女作『ウルジトリ』に登場する。下記参照)と二人の子供と同じ部屋で暮らしていた。

マテオ・マクシモフ(中央)
https://www.romarchive.eu/rom/collection/a-delegation-of-the-comite-international-rom-from-paris/から
0eb1df9bb5e36122cedda520af92cd95
 私の読んだ『ウルジトリ』はスイスの出版社刊のドイツ語訳だったが、ちょっとネットでレビューを見てみたら「読み出したら止められなくなって一気に最後まで読んでしまった」と書いている人がいた。本当にそんな感じだった。

 舞台はまだ貴族がいたころのルーマニアである。ロマは馬車で放浪生活をしている。そういう部族の一つの中で暮らしているテレイナという若い女性は元々は別の部族の出だがこの部族の若者の所へ嫁いでいた。しかし花婿は結婚後まもなく死んでしまった。テレイナの母も娘と暮らしていたがこのドゥニチャは魔術使いなので部族の者、特に花婿の父はドゥニチャが息子を呪い殺したのだと想い、二人を憎んでいる。部族の長に嫌われた二人は訪れる人もない。花婿の義妹だけが親切で時々二人のテントにやって来た。
 テレイナは身ごもっていた。クリスマスを過ぎたある夜、母と二人だけで子供を産む。「ああ、あの人が生きていたら」とテレイナは嘆く。テレイナは死んでしまった夫を心から愛していたのである。母ドゥニチャはそれを聞いて秘密を告げる:子供が生まれて三日めの夜、精霊が3人やってきてその子の運命を決める。この精霊をウルジトリと呼ぶ。彼らは姿を現さない、その声が聞こえるだけだがそれを聞くことができるのは特定の人だけである。ドゥニチャもそういう能力を持っていた。ドゥニチャは花婿が生まれたときもそこにいてウルジトリの会話を聞き、花婿は結婚して6か月目に死ぬことを知っていたのだ。それならなぜ私と結婚なんかさせたのだと娘がなじると母は言う。お前は40歳になるまで生きられるがその条件として二十歳になる前に結婚し、21になるまでに子供を産まなければいけなかった。でないとと20歳で死ぬ運命だったのだ。お前が40まで生きられるよう、私は結婚させたのだと。
 そして今テレイナが産んだ子供の運命を決めるウルジトリの声を聞く。その夜ドゥニチャが薪としてくべた木は、その場所で死んだ人の魂がこもっている木から切ってきたものだった。死者を侮辱した罰としてその子はその薪が燃え尽きたとき死ぬだろう。それを聞いてドゥニチャは燃えさしの薪をかまどから抜き出し、火を消して娘に言う。この木切れが燃え尽きない限りこの子は死なない。この命の木切れを生涯守り抜けと。
 ドゥニチャは自分が直に死ぬことも知っていた。テレイナはそれを信じない。だってお母さんはこんなに元気じゃないの、ウルジトリが間違ったのよ。母はそれに答えて言う。そう、私は健康だ。だからこそ私は相当悲惨な死に方をするはずだ、と。
 ウルジトリは間違っていなかった。年が明けてすぐ、テレイナの死んだ夫の兄弟の妻、上で述べたテレイナたちに親切だった女性が急死した。元々テレイナたちを憎んでいた兄弟たちの父はこれもドゥニチャが呪い殺したと確信して、部族の者たちと共にドゥニチャを撲殺する。母を殺されたテレイナは自分の幌馬車で部落を逃げ出すが、途中猛吹雪に襲われて気を失う。
 凍死しかけていたテレイナを救ったのはさるルーマニア人の男爵であった。男爵は子供の頃重い病気にかかって死にかけ、医者も誰一人なすすべがなく手をこまねいていたとき、領内にいたジプシー女が術を使って病気を直してくれた。以来自分はジプシーには大きな借りがある。命の恩人であるその見知らぬ女性へのお礼に雪の中に倒れていたあなたを助けたのだと男爵は言う。その女性こそ母ドゥニチャであった。
 テレイナとその子(アルニコと名付けられた)はその後17年間、男爵の城で過ごすことになる。アルニコは男爵の召使として誠実に働き一度など男爵の命を救う。その令嬢のヘレナとはお互いに心の中で愛し合っているが、身分の違いから言い出すことができない。ある日領地の中にテレイナの一族が滞在していることを偶然知った二人は城を出て自分たちの部族に帰っていく。
 アルニコは部族でも尊敬される人物となるが、用事でブカレストに行ったとき、暴漢に襲われそうになっていた若い女性を救う。それがパルニというやはりロマであった。しかもパルニはテレイナの夫の部族に属し、ドゥニチャやテレイナの話も知っていた。パルニを見染め、その兄弟と友人になったアルニコは、部族間の「停戦」を提案しにパルニの部族の所に趣き、またそこでパルニとの結婚の許可も願い出る。部族の長はいまだにドゥニチャやテレイラ、またその息子のアルニコにはいい感情を持っていなかったが、特に反対する理由もないので停戦に応じようとしたとき、以前パルニの父が軽い気持ちで「娘をやろう」と約束していた部族の男が結婚に待ったをかける。アルニコは諦めて去っていくが、その相手の男を嫌悪していたパルニは愛するアルニコが行ってしまったのを見て自殺する。
 パルニの父も部族の男たちも、パルニが死んだのはアルニコのせいだとしてアルニコを殺そうとする。アルニコの部族の方が「戦力」としては圧倒的に優勢なのでまともに戦ったら勝ち目がないと、何人か刺客を送って殺害を企てるのである。しかし逆にアルニコに刺客を何人も殺され、一人は囚われて「さあ殺せ」と喚くが、アルニコの部族はその者を生かし、パルニの部族への使いを託す。
 それはロマの法に従ってアルニコの部族とパルニの部族のどちらに非があるか正式に決めてもらおうというのだ。裁判には当事者の部族の他に他の部族も呼び、ロマの習慣に従って公正な判断をする。そこで第三の部族も呼ばれるが、判決は「アルニコには全く非がない」というものだった。パルニやテレイナの夫の部族の「逆恨み」は不当であると正式に決まったわけで、これでドゥニチャの復讐も果たしたことになる。
 さてテレイナも40歳に近づき、死期が迫っている。死ぬ前に孫の顔が見たいと、アルニコを部族の長の娘オルカと結婚させ、一年後には子供も生まれる。いよいよ死ぬ間際になったとき、テレイナは嫁のオルカを呼び寄せ、命の薪を手渡してしっかり保管するように、アルニコが年を取って苦しむようだったら楽にしてやるように、またオルカ自身が先に死んでしまいそうな時はその子供に訳を話して薪を渡すように言いつける。女同士の信頼感だ。
 ところが実はアルニコは母の言いつけでオルカと結婚したものの、どうも自分の妻を愛することができないでいる。しかもある時ふと思い立って昔暮らした男爵の城に挨拶に行った際、さる侯爵と結婚させられそうになっていたヘレナと再開して愛を告白され、妻と息子を捨てる決心をし、住処を出ていく。
 アルニコを愛していた妻オルカは絶望し、相手の女を殺すかアルニコを殺すか思い詰めるが、ルーマニア人を殺したりしたらその法律が黙っていない。そこで薪を火にくべる。アルニコは城へ帰る途中、突然心臓に焼けるような痛みを感じ、苦しみながら息絶える。それは以前母テレイナと幼いアルニコが吹雪で倒れていた木の下であった。
 
スイスの出版社から出た『ウルジトリ』のドイツ語訳。小さな可愛い(?)本である。
ursitory-bearbeitet
 以上が大雑把なあらすじだが、その中でロマの生活習慣が生き生きと描かれている。舞台がルーマニアなのはマクシモフがその父から様々な話を聞かされていたからだろう。部族間で通婚が頻繁だった一方で殺し合いもすること、ロマと非ロマ(ガジョという)の区別が明確であることなどは著者の生活とダブる。ロマニ語も紹介されているので、そのうちのいくつかをちょっと手元のロマニ語事典で確認してみた。
 例えばロマの暮らすテントのことを chara とあるが、これは辞書によるとčerga となっている。カルデラシュの言葉だそうだ。またテレイナがドゥニチャに、アルニコがテレイナに「お母さん!」と呼びかけるとき dale! と言っている。これは daj (「母」)から来たのだろうがこの言葉はバルカン半島のロマが使っていた言葉だ。daleという形はその呼格形で、主にボスニアのロマに見られるもの。カルデラシュなら dejo! となるはず。つまり本人はカルデラシュのマクシモフも他のロマニ語バリアントも知っていて使っていたのだ。マクシモフの両親もそうだが、様々な部族が通婚しているのでそれぞれ自分の部族のバリアントを子供に伝えていたのだろう。
 面白いのでもうちょっと見ていくと「年上の男性に敬意を持って呼びかける」敬称が kaku だが、辞書によるとこれはカルデラシュや他の部族も広く使っている言葉で kak である。 上のdale! が呼格なのだからこれも呼格のはずだが、 呼格なら語尾に -u を取らない。普通男性名詞の呼格は -a になるはずだ。例えば manuš (「人間、夫」)の呼格は manuša。まれに不規則な形をとる呼格もあって、dad(「父」)は dade になったりするが、-u の例は見つからなかった。もしかするとカルデラシュでは kak の他に kaku という形もあって、主格と呼格が同形になるのかもしれない。さらにひょっとすると、-u の呼格形はセルビアあたりのロマから伝わったのかもしれない。セルビア語やクロアチア語では呼格で -u をとる男性名詞があるから(『90.ちょっと、そこの人!』参照)、それに影響されたのかも知れないが、とにかくこの資料だけではなんとも言えない。
 もう一つ drabarni という言葉が出てくる。上のあらすじ紹介で述べたがドゥニチャがこの drabarni で、「魔術使い、魔女」と本には説明してあった。辞書を引くと drabardi という単語が出ていて、これは同じ言葉だろう。 drabarni そのものも載っていて、カルデラシュの言葉だそうだ。しかしその意味は「占い師」とある。つまり未来を予言する力を持った者のことで、「魔女」とはちょっと違う。ストーリーからするとドゥニチャは「魔女」よりむしろこちらである。
 さらにバラバラの単語だけでなくロマニ語の文も出てくる。本には文全体の訳しか載っていなかったので(当たり前だ。これは小説で言語学の論文じゃないのだ)、これもちょっと文法書を調べて確認してみた。例えばアルニコがパルニに会った時、相手もロマだとすぐわかったので聞く。

Kaski shéi san?

「君は誰の娘だい?」という意味だが、kaski は疑問代名詞「誰の」(ドイツ語で wessen、英語の whose)の女性形単数だ(男性形は kasko )。続く単語「娘」が女性名詞なのでそれとの呼応である。その「娘」、shéi は辞書には čhej (ということは最初の破擦音は帯気音)で載っていてボスニアのロマの言葉だと説明されている。破擦音 čh はカルデラシュでは摩擦音 ś になるそうだからsh という表記はそのせいだろう。この「摩擦音化」は他にも見られる(下記参照)。san はコピュラ si の2人称現在形。文法構造としては非常にわかりやすい文だ。パルニが答えないのでアルニコは安心させようとして

Dikes ke rom sim.

と言う。dikes は本当は dikhes で、k は帯気音。動詞 dikhel (「見る、見える」)の2人称単数現在だが、この単語はロマニ語全般に広がっているいわば「ロマニ共通語」だ。ke はカルデラシュ語(?)で、接続詞。ドイツ語の dass、英語の that。次の rom は言わずと知れた「ロマ、ジプシー」で、最後の sim はコピュラの一人称単数。全体で「僕がロマだってことは見ればわかるじゃないか」という意味になる。
 もう一つ。全く違う場面で「引き返せ!、帰れ」を

Gia palpale!

と言っている。Palpale は副詞でロマニ語共通。英語の backwards 、ドイツ語の zurück だ。Gia は動詞「行く」の命令形だが、「行く」は普通 džal と書き、その命令形は dža!。この破擦音 dž がカルデラシュでは摩擦音 ź で現れる。だから命令形は本来  źa!。なおカルデラシュに見られるこれら口蓋化摩擦音 ś と ź はそれぞれ š、ž とははっきり音価が異なるそうだ。後者は非口蓋音。とにかくこの文は Go back! である。

 作品のタイトルともなったウルジトリ、子供が生まれたときその運命を決める3人の精霊という神話は実はバルカン半島に広く見られ、ギリシャ神話のモイラ、運命を決める3人の女神につながる。パルカとしてローマ神話に引き継がれた女神たちである。さらに燃える薪と人の命との連携する話がやはりギリシャ神話にある。英雄メレアグロスが生まれたときモイラたちが薪を炉にくべ、これが燃え尽きない限りメレアグロスは死なないよう魔法をかける。後にメレアグロスが母の兄弟を殺したとき、母は復讐のために命の薪を火にくべる。
 カール・リンダークネヒト Karl Rinderknecht という作家はロマが火というものに特別な魔力をみる世界観は彼らがインドから携えてきたのかもしれないと言っているが、ギリシアにも同じようなモチーフがあるところを見ると、これはインド起源と言うよりギリシャも含めた印欧語民族そのものの古い拝火の姿が今に伝わっているのではないだろうか。原始印欧祖語(の話者)は「火」を崇めていたのだ(『160.火の三つの形』『165.シルクロードの印欧語』参照)。

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