アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Juli 2022

以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるそうなので(実は私自身は今時スマホがないので自分のブログをスマホでは見たことがないんですが)、図表を画像に変更していっています。本文も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 筒井康隆氏が30代半ばのときに一度読もうとしたが「かったるくて読めたもんではなかった」ため中断し、中年過ぎてから再び挑戦してやっと読破したら大変面白かったというトーマス・マンの『魔の山』に、ちょっと気になる登場人物がいる。「登場人物」といっていいのかどうか、主人公のハンス・カストルプが学校時代を回想して思い出す少年である。主人公はクラスの違うこの少年に非常に惹かれ、知り合いになりたいと長い間思っていて、ある日勇気を持って校庭で話しかけ、結構丁寧に対応してもらって痺れるように嬉しい思いをする、そんな出来事をずっと後になって思い出すのである。
 『6.他人の血』でも書いたように私は文学音痴なのでこの登場人物がストーリー上どのような役割を果たしているのか、何を暗示しているのかなどということはどうでもいいのだが(ごめんなさい)、この少年の描写で次の部分は素通りできなかった。

Der Knabe, mit dem Hans Castorp sprach, hieß Hippe, Vornamen Pribislav. Als Merkwürdigkeit kam hinzu, daß das r dieses Vornamens wie sch auszusprechen war: es hieß „Pschibislav“; ... Hippe, ... stammte aus Mecklenburg und war für seine Person offenbar das Produkt einer alten Rassenmischung, einer Versetzung germanischen Blutes mit wendischen-slawischen – oder auch umgekehrt.   

ハンス・カストルプが話をした少年はヒッペと言った。名前はプリビスラフだ。その上奇妙なことにこの名前は「ル」を「シ」のように発音した:プシビスラフと言ったのである。…ヒッペは…メクレンブルクの出で、その風貌からすると、ゲルマンの血にヴェンド・スラブの血が混じったか、あるいはその逆か、とにかく古い人種混交の産物であることは明らかだった。
(翻訳:人食いアヒルの子)

 ここで「あれ?」と思う人は多いだろう。私も思った。Wendisch、ヴェンド人あるいはヴェンド語というのはソルブ語・ソルブ人の別名である。こちらの言語事典にさえ、「Wendisch:ソルブ語と同義。現在では廃れた名称」と書いてある。さらに私がいつか聞いた話では上下ソルブ語でも特に下ソルブに対してこの名称が使われやすいそうで、先日たまたま見たTV番組では下ソルブ人のなかにはソルブ人とかソルブ語という名称を好まずWendischという名称のほうを使ってもらいたがっている人もいる、とのことだった。上ソルブといっしょにするな、ということなのだろうが、上にしろ下にしろとにかくこのWendischというのはソルブ人のことだ。ソルブ人の住んでいる地域はどこか思い出してほしい。ザクセン州ではないか。北ドイツのメクレンブルクにはソルブ人などいないはずである。
 さらに見れば『魔の山』の日本語訳にはここでヴェンド人あるいはヴェンデンという言葉について注がついている。しかしこれが「北ドイツのラウジッツ地方に住むスラブ人」と説明してある。確かにラウジッツにはソルブ人が居住していてソルブ語が公用語的ステータスを与えられているが(『37.ソルブ語のV』の項参照)ここはザクセン州で北ドイツなどではない。
 おかしいと思って調べてみるとWendenあるいはWendischという名称は元々はソルブ人ばかりでなく、以前はドイツの非常に広い範囲に住んでいた西スラブ語を話す人々全体を意味していたらしい。中世には北ドイツ全体ばかりでなく、結構南の地域もスラブ語地域だったとのこと。北ドイツや東ドイツには今でも「ベルリン」だの「ケムニッツ」だの「ロストク」だの明らかにスラブ語形とわかる地名が多いし、そもそもトーマス・マンの出身地リューベックからしてスラブ語起源、ロシア語のлюбовь(リューボフィ、「愛」)と同源だ。

 そういうわけでメクレンブルクや下ザクセンなども昔は西スラブ語が話されていたが、これらの人々は皆ヴェンド人と呼ばれていた。12世紀にメクレンブルクを支配していた人ももちろんスラブ人で名前がまさに Pribislav 公といったのである。北ドイツには他にも Pribislav という歴史上の人物が何人かいる。
 ポラーブ語など、彼らの話していた言語はその後ドイツ語に押されて消滅してしまった。ソルブ語だけが生き残った。だからこの文脈でヴェンド人を「ラウジッツに住むスラブ人」と説明するのは明らかに間違い。黙っていればいいものをわざわざ間違った注がついていることになる。
 ではここでラウジッツのソルブ語を持ち出すのが完全にトンチンカンかというと決してそうではない。上でも書いたようにポラーブ語始め滅んでしまったドイツの西スラブ語はソルブ語と非常に近いからだ。その点で Pribislavを「プシービスラフと発音した」というマンの記述は非常に重みがある。西スラブ語では口蓋化された r がそういう変な音(?)になる例がママあるからだ。
 有名なのがチェコ語の ř で、ロシア語なら簡単に r を口蓋化して「リ」といえばいいが、チェコ語だとここで舌先震え音の [r] と調音点が口蓋に近い摩擦音の [ʒ] (つまり「ジュ」)を同時に発音する。そんな音が発音できるわけないだろうと思い、実際の音を聞いてみたが私には [] という破擦音にしか聞こえなかった。[ʒ] は有声音で、この無声バージョンが [ʃ] だが、ドイツ人はこれらの区別が下手で、どちらもschと書き表してしまうのが普通だ。だから本当に「r が sch に聞こえる」のである。
 上ソルブ語ではチェコ語と同じく ř という文字を使うが、これがチェコ語のような信じられない音ではなくて素直に [ʃ]、つまりズバリ sch である。上ソルブ語では p、t、k の後に r が続くと sch になる、という説明を見かけた。p、k の後は必ず sch だが、t の後の r はschでなく s になることもあるそうだ。
 さらに下ソルブ語には上ソルブ語で r が o、a、u、つまり後舌母音の前で š(sch)になるとあった。
Tabelle-71
上ソルブ語の単語は皆 tr、kr、pr が続いているのに ř になっていないじゃないかと一瞬戸惑ったのだが、チェコ語のようにこのřは「口蓋化された r」が変化したものなのだろう。だから ř が現れるのは i と e の前だけなのに違いない。つまり ř は r が子音 p、t、k と母音 i、e に挟まれると現れるのではないかと予想し、ř のついている語の例をさらに探してみると案の定 předměst (「郊外」)だのkřesto(「十字架」)だの přihódny(「ふさわしい、適切な」)だの přisprawny (これも「適切な」)だの、後ろに i か e が来ているものばかりである。上の bratr や sotra にしてもこれに縮小辞がつくとそれぞれ bratřik、sotřičkaとなって i が後続すると r が ř に変化しているのがわかる。例外もあって、英語の away、gone にあたる副詞は preč で r だし、e ならぬ ě の前では r が現れるらしい。それで「あちら側に」とか「向こう側に」は prěki、「横切って」が naprěki。その一方でこの prěki が動詞の前綴りとして使われるときは překi となり、překipjeć で「向こう側に流れる」、つまり「あふれる・こぼれる」。さらに「三時」をtřochといって後続するのが i でも e でもないのに ř になっていたりするが、まあ p、t、k と i 、 e との間に挟まれると r が ř になるという原則は崩れまい。
 ただ、チェコ語では r の口蓋化バージョンは ř だけだが、上ソルブ語は r の口蓋化バージョンとしてもともとの音 rj  も保持されているのがわかる。つまりいわゆる軟音の r が二つに分かれているわけだ。下ソルブ語では口蓋音でもないのに r が š になっていてなんじゃらほいとは思うが、『39.専門家に脱帽』の項でも書いたようにポーランド語やカシューブ語ではソナントの n が無声化してやっぱり š になっていたりするから、まあ西スラブ語ならそれくらいはやりかねないだろうということで納得できるのではないだろうか。
 そういえばポーランド語でもチェコ語と同じく軟音の r は変な音一辺倒だが、rz と2文字で表す。二文字で表してあっても音素としては一つだ。発音は [ʃ] である。
 いずれにせよ、Pribislavという名前の中の r は西スラブ語では sch としか読みようがないのである。
 
 この調子できっとポラーブ語の r も sch と発音したと思われるが、問題はどうしてトーマス・マンがそんなことを知っていたのか、ということである。ポラーブ語は18世紀の末にはもう滅んでいたから1875年生まれのトーマス・マンがこの言語を直接見聞きしていたはずはない。しかしこの言語の記録はドイツ人がよく保存していたから、マンはリューベックかどこかの大学か図書館でポラーブ語などの資料に触れていたか、メクレンブルクでは言葉は滅んでも地名人名に西スラブ語の発音が残っていたか、あるいはマンは現代のソルブ語かせめてポーランド語をよく知っていてそこからポラーブ語の発音を類推したかである。私はマンの作品はそれこそかったるくてきちんと読んだものがロクにないが、ひょっとして氏自身が自伝か何かでそこら辺のことに触れているかもしれない。それともこんなことはドイツ文学研究者の間ではとうに知れ渡っていることなのか?

 ところで上の箇所にはもう一つ「は?」と思った部分がある。太字にしておいたが、für seine Personという言い回しである。文脈から押してこの für は bezüglich (~に関して)と同じような意味のはずだ。私は「その風貌からすると」と訳しておいたが、実は前置詞 für (英語の for)がこんな使われ方をしているのを見たことがなかったのでネイティブに聞いてしまった。ところが聞かれたネイティブも「へ?」と言い出し、「こんな使い方見たことがない」と私と同じ事をつぶやきながら、辞書を持ち出してきて調べ始めた。Dudenには説明が見当たらず、とうとうヘルマン・パウルのドイツ語辞典まで参照したがドンピシャリなのが見つからない。
 「どんな」をドイツ語で was für ein(e)といい、そこでは前置詞が導く名詞がいわば「判断の枠組み」を示すから、この用法の一種とみていいのかなとは思うが、それならば名詞のほうには不定冠詞がつくはずであるのに、ここでは seine Person(「彼の風貌」)と定形になっているのが引っかかりまくる。さらにこの「彼の」が実はハンス・カストルプのことで「カストルプにとってはヒッペがヴェンド人の血を引いていることが明らかだった」という意味ならば素直に für ihn(「彼にとっては」)と書くはずでPerson(「人物・人となり・風貌」)などという言葉はいらない、と一人でブツブツ言っていたそのネイティブはついにもう一人のネイティブに本を見せて訊ねた。するとその二人目のネイティブは「こういう für は見たことがある」と自慢し出したのである。つまりこの für は「見たことがある」とネイティブがいばれるくらい稀な用法なのだ。
 結局「これは bezüglich だ」と結論するしかなかったが、それにしてもネイティブが二人して前置詞一つにあたふたしている姿は壮観でさえあった。トーマス・マンも罪なことをするものだが、それほど難しい部分が出版されている日本語訳ではいったいどうなっているのか気になって改めて見直してみたところ、なんとその für seine Person のフレーズはすっ飛ばされていた。ただ、

彼はメクレンブルクの生れで、明らかに古い時代の混血、つまりゲルマンの血にヴェンデン・スラブの(ここで上述の注が入っている)血が混ったか-またはその逆の混血の子孫にちがいなかった。

と訳されていたのである。力が抜けた。


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以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるようなので(実は私自身はスマホがないので自分のブログがスマホではどう見えるかわかってない…)、図表を画像に変更していっています。ちょっと加筆もしました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 『17.言語の股裂き』の項で、西ロマンス諸語はラテン語の複数対格を複数形全般の形として取り入れ、東ロマンス語はラテン語の複数主格をもって複数形としたと言われていることを話題にした。私自身はこの説にはちょっと疑問があるのだが、それとは別に対格か主格かという議論自体は非常に面白いと思っている。他の言語でもこの二格が他の格に比べて特別なステータスを持っている事例が散見されるからだ。

 ロシア語は数詞と名詞の組み合わせが複雑な上(『58.語学書は強姦魔』の項参照)しかも数詞そのものまで語形変化するという勘弁してほしい言語だが、1より大きい数、つまり英語やドイツ語で言う複数の場合その他の格(生格・与格・造格・前置格)では数詞とその披修飾名詞の格が一致するのに主格と対格ではそれらが別の形になる。
Tabelle1-65
どの場合も数詞名詞共に格変化を起こしているが、生格・与格・造格・前置格では名詞と数詞は同じ格である。例えば「二つの机」の与格では数詞двумも名詞столам(ただし複数形)も与格で形が似ているのがわかる。同様に「三ルーブリ」造格ではтремя(「3」)もрублями(「ルーブリ」)も造格、「50冊の本」の前置格でもпятидесяти(「50」)、книгах(「本」)共に前置格形である。
 ところが「2つの机」「3ルーブリ」の主格・対格では数詞自体は主格・対格だが披修飾名詞が一見単数生格で一致していない。「一見」と書いたのはもちろんこれが文法書によく説明してあるような単数生格でなく実は双数主・対格(再び『58.語学書は強姦魔』参照)であることを考慮したからだ。その意味では4までは数詞と披修飾名詞の格は一致しているといえるだろうが、他の格は披修飾名詞が皆複数形となっているのに主・対格だけは双数形になっているわけだから、やはり主格・対格は特殊と言っていいと思う。5以上ではこれがさらにはっきりしていて、「50冊の本」の主格・対格は数詞が主格あるいは対格だが名詞は明確に複数生格である。これを本物の(?)生格пятидесяти книгと比べてみると面白くて、ここでは数詞がきちんと生格になっているため披修飾名詞の生格と一致している。つまり主・生・対格の3格で披修飾名詞が生格になっているのだ。さらに面白いのは数詞がつかない場合、例えば単にbooksと言いたい場合は「本」が複数形のкнигиという形になることだ。これは主格・対格同形である。

 日本語でも主格つまり「○○が」と対格「○○を」は特別なステータスを持っているのではないかと感じることがある。主題の助詞「は」と組み合わせた場合、この2格のマーカーが必ず削除されるからだ。

鳴く
→ 鳥がは鳴く
→ 鳥(が)は鳴く
→ 鳥Øは鳴く
→ 鳥鳴く

殺さない
→ 人をは殺さない
→ 人(を)は殺さない
→ 人Øは殺さない
→ 人殺さない

これに対してその他の格マーカーは「は」をつけても消されることがない。

処格: 東京行かない → 東京には行かない
奪格: お前から言われたくない → お前からは言われたくない

「に」は消せることがあるが、「から」は消せない:

東京は行かない
*お前は言われたくない

つまり斜格マーカーには「共存できない」どころか共存しないと文がおかしくなるものさえあるのだ。

「は」の他に主格・対格は「も」とも共存ができない。

田中さん来た 
→ *田中さんがも来た。
→ 田中さん来た、

その本読んだ
→ ??その本をも読んだ
→ その本読んだ

ただ私の感覚では対格のほうはギリギリで「も」と共存できる。「その本をも読んだ」は文語的表現で話し言葉としては非常に不自然だが、許せないこともない。ないが他の格マーカーと比べると許容度が格段に低い。

北海道へも行った。
佐藤さんとも話した。
外国にも住んだことがある。
地下鉄でも赤坂見附まで行ける。
ここでも野球ができるよ。

これらは全部無条件でOK.だ。共格「と」、具格「で」、同じく処格の「で」などは上の「は」の場合と同じく、格マーカーが居残らないとむしろ非文になる。
 格マーカーにはどうも微妙な階級がありそうだ。いずれにせよ主格と対格は特別といえるのではないだろうか。

ロマニ語もその意味でちょっとスリルのある構造になっているようだ。ギリシアとトルコのロマニ語では「ロマ」(夫・男)という男性名詞の変化パラダイムが以下のようになっている。
Tabelle2-65
ロマニ語は地域差が激しいのでロシアやオーストリア、セルビアなどのロマニ語では微妙に形が違っているが、はっきりと共通していることがある。それは名詞の変化パラダイムが2層になっているということだ。
 まず主格と対格(このグループのように呼格が残っている場合は呼格も)の形の違いは古いインドの祖語から引き継いだもので「語形変化」と呼んでいい。ここでは -és がついているが、語によってはゼロ形態素だったりするし(kher(主格)-kher(対格)、「家」)、女性名詞では -ja が付加される(phen(主格)- phen-já(対格)、「sister」)。
 ところが主・対格以外の斜格は対格をベースにしてそこにさらに膠着語的な接尾辞を加えて作っている。対格というよりはむしろ「一般斜格」と呼んだほうがよさそうだ。つまりロマニ語は主格と対格以外では本来の変化形が一旦失われ、後からあらためて膠着語的な格表現を使ってパラダイムを復活させたということだ。これらの形態素は発生が新しいから元の語の文法性や変化タイプに関わりなく共通である。例えば上で言及した女性名詞 phen- phen-já も主格・対格以外は男性名詞の rom と同じメカニズムで斜格をつくる。上の例と比べてみてほしい。
Tabelle3-65
 どうしていろいろな言語で主格と対格が他の斜格に比べて強いのか。もちろんこれは単なる私の想像だがやはりこの二つが他動詞の必須要素であり、シンタクスの面でも意味の面でも対立性がはっきりしている上使用頻度が高いからではないだろうか。能格言語で能・絶対格と他の斜格(能格言語でも「斜格」と呼んでいいのか?)との関係がどうなっているのか興味のあるところだ。興味はあるのだが調べる気力がない。知っている人、調べた人がいたらメッセージでもいただけると嬉しい。


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 私はウルグアイ人の有名人は3人しか知らない。一人はサッカー選手の噛みつきスアレス(『124.驕る平家は久しからず』参照)である。もう一人は最も貧しい大統領、ムヒカ氏、そして3人目が俳優のジョージ・ヒルトンだ。前の二人はともかく3人目のジョージ・ヒルトンは一部のファンしか知らないのではないかと思っていたが、亡くなったとき全国紙の『南ドイツ新聞』にまで(小さいとはいえ)記事が出たので驚いた。他にネットなどでも報道していたからこちらでは相当有名だったようだ。ピーター・フォークの訃報は南ドイツ新聞には全く出なかったのだから。

 そのヒルトンだが、マカロニウエスタンのスターである。本名をホルヘ・ヒル・アコスタ・イ・ララJorge Hill Acosta y Laraという。俳優ではないが『続・荒野の用心棒』の主題曲を手がけた作曲家のルイス・エンリケス・バカロフは南米アルゼンチンの出身。 ヒルトンもまたヨーロッパに来る前にウルグアイからアルゼンチンに渡ってそこで俳優活動をしていた。60年代にアルゼンチンからイタリアに渡った映画人は他にも結構いたそうだが、なぜミリアンのようにアメリカに行かなかったのか。ヒルトンは2002年にさるインタビュー記事でそれを聞かれてあっさり「英語がよくできなかったからだ」と答えている。イタリア語ならスペイン語の母語者には簡単にマスターできるだろう。
 ヒルトンはモロにラテン系の容貌のイケメンである(『104.ガリバルディとコルト36』参照)。マカロニウエスタンに起用された時は最初からすでに(準)主役で(下記参照)、その後も順調に主役街道を歩んでいる。今勘定してみたが、1977年までに21本のマカロニウエスタンに出演し、その後(というより途中から)やっぱりジャッロに流れて晩年はTVで活動していた。上のインタビュー記事では最近仕事が全然ないとかボヤていたそうだが、知名度は落ちていなかったようだ。ドイツの新聞にまで訃報が載ったくらいだから本国イタリアではさらに人気があったのだろう。実際イタリアではインタビュー「記事」ではなくTVのインタビュー番組に出ているのを見かけた。全部イタリア語だったので残念ながら内容は理解できなかったが。
 大抵の人にとってヒルトンは「マカロニウエスタンのスター」だが、本人は馬に乗ったり撃ち合いをしたりは好きではなく、そもそも西部劇というジャンルが嫌いでそういう映画は見ないと記事で言っていた。自分は本来舞台俳優、それも喜劇役者だと。でもまさにその西部劇でいい演技してたじゃないですかとインタビュアーに突っ込まれて、そりゃ俳優ですもん、ギャラを貰えば役を演じるのが商売だと返していた。私もこのインタビュアーと同意見で、顔と言いスタイルと言い、この人は絶対西部劇向きであると思う。

 ヒルトンの出演したマカロニウエスタンを全部見ていってもキリがないから私の記憶に残っているものだけちょっとあげてみよう。まず一作目の『真昼の用心棒』である。『155.不幸の黄色いサンダル』でも述べたが、ジャッロで有名なルチオ・フルチが監督し、主演は『続・荒野の用心棒』ですでにスターとなっていたフランコ・ネロ、サイコパスな悪役を務めるのが『シェルブールの雨傘』のニノ・カステルヌオーヴォである。クラウス・キンスキーなどと違ってカステルヌオーヴォは容姿がまともすぎてそのままでは異常者に見えないためか、常に顔をゆがめ口を半開きにして変な笑いを浮かべ首を横っちょに傾けて異常ぶりを強調している。ちょっとわざとらしすぎる気がした。キンスキーのように普通にしていてもサイコパスに見えるならそれもいいが、そうでない場合は素直に「一見普通に見えるが実はサイコパス」という怖さを狙った方がいいのではないだろうか。もっともマカロニウエスタンだから分かりやすさを第一にしたのかもしれないが。
 ストーリ―は一言でいうとカインとアベルの如く、パパに十分愛されなかったサイコなカステルヌオーヴォが暴走して町を恐怖に陥れ、まともな息子のほうのフランコ・ネロに殺される話である。ヒルトンはネロの異母兄弟で、最初自暴自棄になって酒におぼれていたのが結局兄に協力するという、非常に分かりやすい話だ。冒頭に出てくるカステルヌオーヴォのニヤケ顔を見ればもうある程度ストーリー展開が予想できる。さらにこれも以前に述べたが、フランコ・ネロが主人公を演じてしまったため本来はトムという名前だったのがドイツではジャンゴとなり、タイトルは Django – Sein Gesangbuch war der Colt(「ジャンゴ-その歌の本はコルトだった」)だ。勘弁してほしい。
 それまでは気にも留めなかったが改めて映画を見直してみるとヒルトンはその酔っ払いぶりなど確かにコメディアンなような気もしてきた。また中盤に馬の横っ腹にずり落ちてその姿勢を保ったまま「ヘーイ、ジェントルメン!」と敵をおちょくりながら撃ちまくるシーンがある。これもそれまでは単純にカッコいいと思って見ていただけだが「馬に乗ったりするのは好きじゃない」というヒルトンの言葉を鑑みると、このシーンは本人がやったのかスタントマンがやったのか気になりだした。肝心の馬の横乗り場面は遠景で顔が見えないからだ。ここだけスタントマンなのか。それとも本当に「乗馬が嫌い」なヒルトンがこんなことをやらされたのか。そういえばヒルトンは上の記事でも監督のルチオ・フルチについてあまりいい発言をしていなかった。エンツォ・カステラーリなどに比べるとフルチは神経質で意地が悪かったそうだ。

『真昼の用心棒』のジョージ・ヒルトン
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ヘーイ、ジェントルメン! これはジョージ・ヒルトン本人かスタントマンか。
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 そのいい人だったというカステラーリの作品が『黄金の3悪人』Vado... l'ammazzo e torno(1967年)である。ヒルトンの役の名は「ストレンジャー」(全然「名前」じゃないじゃん)である。これもドイツ語版ではやめてほしいことにジャンゴになっている(ドイツ語タイトルは Leg ihn um, Django「殺っちまえジャンゴ」)が、フランチェスコ・デ・マージが作曲してラウールが歌うテーマ曲の歌詞が Stranger, stranger, what is your name? とかあるのをどうしてくれるんだ。そこで my name is Djangoと答えろとでもいうのか。シマラナイ話だ。それでもとにかくこの映画がヒットしてヒルトンは名をあげその後の主役街道の発端となった。盗まれた大金をめぐって賞金稼ぎ(ヒルトン)と最初彼に狙われていたお尋ね者(ギルバート・ローランド。本名 Luis Antonio Dámaso de Alonsoというメキシコ出身の米国俳優。下記参照)と盗まれ元の銀行の行員(エド・バーンズ。当時は割とアメリカで人気があったようだが、その後転落した)が三つ巴の競争を展開するという、ステレオタイプなマカロニウエスタンのストーリーである。さらにこの映画は既に冒頭のシーンで誰が見てもレオーネの3部作のイーストウッドとリー・ヴァン・クリーフが演じたキャラクターとさらに『続・荒野の用心棒』のフランコ・ネロの服装まで持ち出してパクった三人の男が登場するなど、作品全体がパクリの嵐である。また私は知らなかったというか気が付かなかったがVado... l'ammazzo e torno というタイトルも『続・夕陽のガンマン』でイーライ・ウォラックがイーストウッドに言った「行って殺して帰って来るわ」というセリフを引用したものだそうだ。パクリにしても芸が細かすぎる。ヒルトンが演じたクールな賞金稼ぎというキャラもマカロニウエスタンの定番でイーストウッドやフランコ・ネロとは雰囲気が違うからまだいいようなものの新鮮味はあまりない。一方でこれが撮られた1967年の頃はまだジャンルが衰退期には入っていなかったから面白いは面白い。ストーリーもどんでん返しの連続で退屈はしない。ラストがまた『続・夕陽のガンマン』のもじりでちょっとフザケすぎなんじゃないかとも思うが(ラスト自体はつまらないオチである)、ヒットしたのも納得できる出来ではある。マカロニウエスタンの平均水準は越えているだろう。

さすがにこのパクリはやりすぎなのではないだろうか。『黄金の三悪人』の冒頭
Pubblico dominio, https://it.wikipedia.org/w/index.php?curid=1240716

Vado,l'ammazzo_e_torno_i_3_banditi
この『黄金の三悪人』の後、ヒルトン主演で大量のマカロニウエスタンが制作された。最も頻繁に組んだのがカルニメオという監督でこの人がヒルトンで撮った西部劇が6本あり、特に1970年から1973年の間に集中している。これらカルニメオ他の作品も何本か見ているがあまり印象に残っていない。「ジャンゴ」の他にサルタナという名の主人公役の映画もあり、面白くなかったのが記憶に残っている。

 その「あまり印象に残っていない」の「あまり」、つまり印象に残っている側の映画が上の2本の他にさらに2本ある。その一つが『真昼の用心棒』の一年あと、『黄金の3悪人』と前後して撮った作品Ognuno per séだ。ジョルジョ・カピターニGiorgio Capitaniという監督がアメリカからヴァン・ヘフリンを呼び、『黄金の3悪人』にも出ていたギルバート・ローランドを起用し、ヒルトンの他にクラウス・キンスキーを出演させた映画で、ドイツ語のタイトルをDas Gold von Sam Cooper(「サム・クーパーの黄金」)というがこれがまさにストーリーである。
 ヘフリンの演じる主役サム・クーパーはほとんど人生を賭けて金を探していたがある日本当に大金鉱を掘り当てる。しかしその採掘場から金を町に運ぶまでが砂漠を通り強盗が跋扈する非常に危険な道のりで、一人で運搬するのは無理だ。誰か信頼のおける相棒の助けがいる(実際最初一緒に金を探していた相棒は金が見つかったとたん独り占めしようとしてヘフリンを殺しにかかった)。そこで昔子供の頃自分が面倒を見ていた若者をメキシコから呼び寄せる。この若者がジョージ・ヒルトンだが、これがしばらく会わないうちに意志の弱い、小ずるくて信用できない人物になり下がっていた。しかもヒルトンにはその友人とかいう怪しげな人物がくっ付いてくる。これがキンスキーで、この二人がホモセクシャルな関係にあることは明確だ。この二人のヤバさに気付いたヘフリンは町にいた昔の友人に話を持ちかけて安全措置をとる。この昔の友人がローランドだが、昔ヘフリンに裏切られたことがあるので半信半疑だ。だからこちら側もヘフリンに対して安全措置を取り、殺し屋をやとって自分たちの一行の後を追わせる。つまり誰も彼も自分の事しか考えず、好き勝手なことをやっているのである。だからイタリア語のタイトルが Ognuno per sé(everyone for himself)というのだ。
 一行は(合わせて4人だから英語のタイトルが The Ruthless Four)は長い旅の後金鉱に着き金を堀りだす。その間キンスキーとヒルトンで独り占め計画を練り、まずローランドを殺し2対1とこちらの有利にしておいてからヘフリンを始末しようということになる。何回か試みて失敗した後、キンスキーがついにローランドを撃ち殺そうとして反対に殺される。そこでキンスキーを庇おうとしてローランドに銃を向けたヒルトンはヘフリンに殺される。
 ヘフリンとローランドは昔のわだかまりも溶け帰途につくが、最初ローランドが雇っておいた殺し屋が相変わらずヘフリンの命を狙ってくる。「もういいから帰れ」と言われて引き下がる殺し屋ではないから今度はローランドはヘフリンと共にその殺し屋たちと対峙しなければならない。その銃撃戦でヘフリンは脚に負傷し、ローランドは胸に弾丸を受けて死ぬ。
 ヘフリンは一人で金を抱えて町に戻る。金持ちにはなった。が、友人も人への信頼も失い、孤独であった。

ジョージ・ヒルトンとクラウス・キンスキー。キンスキーはカステルヌオーヴォと違ってわざわざサイコを演じる必要がない。そのままでも十分異常に見える。
Hilton-Cooper-bearbeitet
ラスト近くのヴァン・ヘフリンとギルバート・ローランド
roland-heflin-bearbeitet
 私はこれが自分の見たヒルトンのマカロニウエスタンではベストだと思う。『シェーン』にも出ていた名優ヘフリンが見事に映画全体を引っ張り、ローランドのおじさんぶりもまたいい味だ。音楽はカルロ・ルスティケリで、これもよかった。カピターニはこれ一本しかマカロニウエスタンをとっていないが、ジャンルの平均水準を明らかに上回る出来である。ブーム後もTVなどで堅実に仕事を続け、2017年に亡くなっている。1927年生まれだから長生きだ。「堅実な作り」、これがこの作品のキーワードだろう。変に奇をてらったり内輪受けの悪ふざけがない。もしかするとそのカルト性のなさのせいかもしれないが、日本では劇場公開されなかった。受けないと思われたのだろうか。

 もう一つのお薦めヒルトン映画が Los deseperados(「絶望した者たち」、ドイツ語タイトル Um sie war der Hauch des Todes「その周りには死の息吹が漂っていた」)だが、これも日本未公開だ。1969年にスタッフもキャストもほぼ全員スペイン人で制作された作品で、監督は Julio Buchs(フリオ・ブ…最後の子音は何と読むんだ?)。この監督もマカロニウエスタンはこれ一作である。残念ながら1973年に46歳の若さで亡くなった。Buchs が脚本家出身で、自分の監督した映画では脚本も自分で書いていたそうだ。
 Los deseperadosでのヒルトンにはカステラーリやカルニメオなどの作品のようなチャラさが全くない。陰鬱な作品だ。南北戦争で南軍兵士のウォーカー(ヒルトン)は故郷に残してきた妊娠中の恋人が死にそうだとの連絡を受けて、休暇を願い出るが許可されず、軍を脱走する。ヒルトンは何度もその父(何とアーネスト・ボーグナイン)に結婚を願い出ていたのだが、父はヒルトンを徹底的に嫌っていて許しが出なかった。故郷に帰るとその町にはコレラが発生してロックダウンされている。娘が死の床についていると聞いて一目会わせてくれというヒルトンの懇願を聞かず、父はたった今生まれたばかりの子供をヒルトンに投げつけて(?)、もう二度と来るなと家から追い出す。乳飲み子のためにミルクをくれと周りの村々で懇願して回るがコレラの発生した町から来たということで誰も助けてくれない。子供はとうとう死んでしまう。
 ここからがヒルトンの悲劇的な復讐劇の開始だ。なぜ悲劇なのかと言うと主人公が憎しみのために人格的にも破滅していくからだ。最初まだ息のある敵兵を墓に投げ込んで生き埋めにしろという上官の命令を拒否するほど気骨のあったヒルトンが最後には単なる人殺しに転落する。脱走した時の仲間やそこら辺のごろつきと共に強盗団を組織して、まず子供を見殺しにした村の住人を皆殺しにするのだ。ボーグナインにも迫るが米国で当局に追われてメキシコに逃げる。有力者であるボーグナインは米国の当局を通してメキシコ側の軍隊にも要請し、ヒルトン一味を始末してくれるように取り計らう。自分もメキシコに赴くがそこでヒルトンの一味に殺される。だがその後通報を聞いてやって来たメキシコ軍の集中砲撃をうけ、ヒルトン一味も全員無残な死を遂げる。

Los deseperados のジョージ・ヒルトン。とにかくチャラさが全然ない。

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上官からまだ息のある捕虜を生き埋めにしろと言われて命令拒否。
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娘に合わせてくれと必死の懇願。ボーグナインとヒルトン
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それが強盗団のボスに転落する。
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ラスト。メキシコ軍の集中砲火を受ける直前。
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 最初高潔であった者が運命の残酷さに押しつぶされて破滅するという、まるでギリシャ悲劇にでも出て来そうなまさにタイトル通りのストーリーだ。病気の感染を恐れて人を見殺しにするのは南北戦争時というよりヨーロッパのペスト流行時を想起させ、他のマカロニウエスタンとは明らかに毛色が違う。ジョージ・ヒルトンはこういうシリアスな役もこなすのである。そのヒルトンに浅いステレオタイプのジャンゴばかり演じさせるのは人材の無駄遣いではないのか。この作品と上のOgnuno per sé を見ていると特にそう思う。

 実はヒルトン自身もこの映画が好きだそうだ。こういう役の方が本来自分向きだと言っている。監督の Buchs とはいっしょに仕事するのが楽しかった。また映画の役の上では徹底的に憎みあっていたがボーグナインも、仕事仲間としては気持ちよく共同作業ができる人だったらしい。
 もうひとつ、以前この Los deseperados はルチオ・フルチの監督だというフェイク情報が流れたことがあったが、ヒルトンがそれをきっぱり否定した。

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