アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Juni 2022

以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、図表を画像に変更していっています。今回は文章も結構直しました。今更誤植も見つかって大汗です。

内容はこの記事と同じです。

 いわゆる学校文法では「数詞」が独立した品詞として扱われることが多いが、この数詞というのは相当なクセ者だと思う。それ自体が形の点でもシンタクス上でも名詞と形容詞の間を揺れ動くので、勘定されるほうの名詞との結びつきも複雑になるからだ。
 例えば次のセンテンスだが、

Ten soldiers killed a hundred civilians with twenty guns.

この英語だけ見ると一見 soldiers、civilians、guns の深層格はそれぞれ主格、対格、前置詞格あるいは具格だと思う。 ところが soldiers、civilians などの名詞がここで主格や対格に立たない言語は印欧語族にはゴマンとある。ロシア語だと、

Десять солдат убило/убили сто гражданских людей двадцатью ружьями.
ten + soldiers + killed + hundred + civilian + people + twenty + guns

ここでは数詞の後の soldiers、civilian people(太字)が複数属格(ロシア語文法では「生格」)である。つまりдесять(「10」)、сто(「100」)は普通名詞的なのだ。名詞がもう一つの名詞を修飾する場合、一方が属格になる、つまり「山田さんの家」と同じ構造だ。一方対格と主格以外では数詞が名詞の格と一致する。まるで形容詞のように呼応するのである(下記参照)。いずれにせよロシア語ではこれらの「数詞」は立派に格変化を起こす:десять(主格・対格)→десяти(生・与・前置格)→десятью(造格)あるいはсто(主・対格)→ста(生・与・造・前置格)。実はこういう数詞・名詞の格構成はサンスクリットの昔から印欧語族ではむしろ一般的だ。

サンスクリットでは:
1.数詞1-19が形容詞的に用いられ、その関係する名詞の性・数・格と一致する(つまり数詞も立派に格変化する)。
2.20-99、100、1000等は名詞として扱われ、これの付随する名詞は同格に置かれるか、あるいは複数属格となる。

古教会スラブ語では:
1.1~4は形容詞的特性、つまり付加語扱い。「1」では名詞は単数同格、「2」とは双数(両数)同格、3~4で複数同格、5以上から複数属格。
2.数詞の活用は、1~2が代名詞活用、3が名詞i-活用、4が子音活用とi-活用の混同タイプ、5~9だと活用だけでなく品詞も形容詞でなく名詞扱いでi-活用統一。

ロシア語では上にもあるように、主格と対格で数詞の披修飾名詞が属格になり、その他の格では披修飾名詞と数詞が同格だ。それで最初の例文の中の двадцатью ружьями(下線部)は数詞と名詞のどちらも造格になっている。つまりサンスクリットと同じく名詞が数詞と同格におかれるか、あるいは名詞のほうは複数属格に立つという二つのパラダイムが共存しているわけだ。
 対してラテン語では数詞は不変化「形容詞」とみなされたそうで現在の英語やドイツ語といっしょだが、それでもさらに調べると tantum(たくさんの)、plus(より多くの)などの数量表現では披修飾名詞は複数あるいは単数属格になるというから、数詞も名詞的な特性を完全には失っていない。

plūs pecūniae
more + money(複数属格)

『30.あともう少しのドルのために その2』の項で出したイタリア語の例

un po' più di libri
a + few + more + of + books

も di が入るから属格表現の仲間だとみなしていいのではないだろうか。もっとも例えばラテン語のquīdam(「いくつかの」)は「dē または ex」という前置詞がその後に来た後名詞の奪格を取るそうなので、このdi libriも本来は奪格なのかなとは思う。いずれにせよここでラテン語の属格・奪格形がとろけて一緒になってしまい、格機能が統合されていった様子がよくわかる。
 さらにやっぱりそこの項で出したロシア語

На несколько дрлларов вольше
on/for + some + dollars(複数属格) + more
(For some dollars more)

の「ドル」も複数属格である。

 ドイツ語もよくみると結構面白いことになっていて、数量表現が名詞的特徴を示すことがある。たとえば「多くの私の学生」は

* viele meine Studenten
many + my(複数主格) + students

と「私の学生たち」を主格にすることはできず、披修飾名詞を属格にしないといけない:

viele meiner Studenten
many + my(複数属格) + students

イタリア語と同じくここで各変化による属格でなく前置詞のvon(英語のof)を使って

viele von meinen Studenten
many + of + my(複数与格) + students

ということもできるが、これは上の例と比べて「日常会話的」とのことである。

 英語ほどひどくはないとはいえ、ドイツ語も格変化を捨てまくって堕落したがやっぱりまだまだ印欧語なのである。もっとも日本語でも「私の学生の多く」と「学生」を属格にできるが。
 数詞でも同じことが言えて、

* zwei meine Studenten
two + my (複数主格) + students

zwei meiner Studenten
two + my (複数属格) + students

meine zwei Studenten
my (複数主格) + two + students

*のついた2例では数詞が形容詞としての特性を示すため、いわゆる determinator、つまり「私の学生」というDPを支配する所有代名詞 meine の前に出られないが、披修飾名詞が属格の構造では数詞はそれ自体が事実上名詞であるからそこにまたDP、つまり「私の学生」がくっ付くことができる、と純粋にシンタクスの問題として説明することができるが、もっと見ていくと(しつこいなあ)、実は事はそんなに簡単ではないことがわかる。なぜなら

alle meine Entchen
all(複数主格) + my(複数主格) + ducklings

というフレーズは数量表現がdeterminatorの前に来てしかもそのdeterminatorが主格なのに許されるからである。ネイティブに説明を求めたら「1.この表現は子供の歌だからそもそも俗語的だし、2.alleという表現で表現された数量は閉じられたものであるからdeterminatorの限定的な意味と衝突しないからなんじゃないの?」と言っていた。限定非限定の意味の差が決定権を持っている例は他にもあって、例えば

meine viele Studenten
my(複数主格) + many(主格) + students

ということはできるが、

*meine einige Studenten
my (複数主格) + some(主格) + students

とは言えない。meineの持つ限定的意味とeinige(「(不特定の)いくつかの」)の非限定的な意味合いが衝突するからだろう。viel(「たくさんの」)だと「いくつか」より非限定性がはっきりしていないから限定のdeterminator、所有代名詞と共存できるのだと思う。
 シンタクスだけで全てを説明するのはやはり無理があるようだ。

 さて本題だが、ロシア語学習者泣かせの問題として2、3、4では披修飾名詞が変な形をとる、ということがある。英語やドイツ語では2以上になると披修飾名詞は一律複数主格なので何も苦労がないのだが、ロシア語はそんなに甘くない。ちょっとくらべてみてほしい。比べやすいようにロシア語はローマ字にしてみた。
Tabelle1-58
数が2から4までだと名詞が特殊な形をしているのがわかるだろう。これを語学書などでは「ものがひとつの時は名詞は単数主格、2から4までは単数属格(太字)、5以上になると複数属格(下線)をとる。20までいくとまた1から繰り返すので21の机では名詞が単数主格である」、と説明してある。パラダイムをみてみると確かになるほどとは思う。
Tabelle2-58

私の語学の教科書にもそう書いてあったのだが、そのときのロシア人の教師が運悪く言語学系であったため(『34.言語学と語学の違い』参照)、そこで私たち向かって堂々とこういった。

「語学の入門書とか文法書には「2、3、4は名詞の単数属格をとる」と書いてあったりしますが、これはデタラメです。そう説明しないと初心者が混乱するからです。この形はロシア語では失われてしまった古い双数形が残ったものです。」

古教会スラブ語 plodъ(「果実」)のパラダイムを調べてみると、o-語幹では確かに双数主格と単数属格が同形に見える。
Tabelle3-58
それでは2、3、4、のあとに来る名詞の形が単数生格でなく双数主格だとどうしてわかるのか。実は「2」のあとに来る形と単数生格ではアクセントの位置が違うのである。たとえば、шаг(シャーク、「歩、歩調」)の単数生格はшагаで、アクセントは最初のаにあるから「シャーガ」。対して「二歩」はдва шагаだが、アクセントが2番目のаに来て「シャガー」となる。同じくчас(チャース、「1時間」)の単数生格は часа(チャーサ)だが「3時間」は три часа(トリー・チャサー)だ。つまり字に書くとアクセントが表せないから同じに見えるがこの二つは本来全然違う形なのだ。
 これを「単数生格」とデタラメな説明をする語学教師あるいは教科書を、イサチェンコという言語学者が著書の中で「言語事実を強姦するに等しい」とまで言って怒っていた。しかしたかがこれしきのことで強姦呼ばわりされていたら、そこら辺のいわゆる「よくわかる○○語」「楽しく学べる○○語」の類の語学書には強姦魔がいくらもいる。私もさるドイツ語の楽しい入門書で不規則動詞について「日頃よく使う道具はあまり使わない道具より消耗が激しいでしょう。それと同じく日頃よく使う動詞は形が崩れやすいんですよ」とわかりやすい説明をしているのを見たことがあるが、これなんか強姦殺人級の犯罪ではないだろうか。話が全く逆の上に、ドイツ語ばかりでなく、他の言語も不規則動詞は「規則動詞より変化が早かったため」と一般化されてしまいかねないからである。
 使用頻度の高い「基本動詞」が不規則動詞であることが多いのは変化に曝された度合いが規則動詞より強かったからではなくて、その逆、それらが頻繁に使われるため、古い形がそのまま引き継がれて変わらずに残ったからだ。言語が変化し、動詞のパラダイムが変わってしまった後もそれらがまさに頻繁に口に上るそのためにパラダイム変化を被らなかったからである。たとえばロシア語で take という意味の不規則動詞の不定形は взять だが、定形・現在時称だと возьму(一人称単数)、возьмёшь(2人称単数)などとなって突然鼻音の м (m) が現われ学習者はビビる。しかしこれは規則動詞より形が崩れたからではなくて、ロシア語の я が古い時代に鼻母音だった名残である。つまり不規則動詞のほうが古い形を保っているのであり、規則動詞がむしろ新参者なのだ。

 語学書やいいかげんな語学教師のデタラメな強姦罪に対して声を上げたロシア語の先生は勇気があるとは思うが(女の先生だった)、実は一つだけ疑問が残った。残念ながら私のほうに勇気が欠けていたのでその場で質問しそこねたためいまだに疑問のまま残っているのだが、

「2の後の名詞が双数主格なのはわかるが、どうして3と4まで双数になっているのか。」

この記事を書く機会にちょっと調べてみたのだがはっきりその点に言及しているものが見つからなかった。かろうじて次のような記述を見かけたが説明としてはやや弱い。

Под влиянием сочетаний с числительным два аналогичные формы появились у существительных в сочетаниях с числительными три и четыре

数詞の2との組み合わせに影響され、そこからの類推によって数詞の3と4と結合する場合も名詞が同様の形をとるようになった。

上の古教会スラブ語の説明にあるように、3と4は本来複数主格だったはずである。5からは複数属格だったから形が違いすぎて類推作用が及ばなかったのはわかるが、3と4で双数主格が複数主格を食ってしまったのはなぜなのかどうもわからない。やっぱりあの時勇気を出して先生に聞いておけばよかった。


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以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、図表を画像に変更していっています。誤打(あるある!)の訂正や文章の見直しもしています。何回か書いているように私は主専攻が東スラブ語(具体的にはロシア語)、第二副専攻が南スラブ語(同クロアチア語)でした。

内容はこの記事と同じです。


 クロアチア語は発音でえらく苦労した。

 例えばクロアチア語には /i/ という前舌狭母音、つまりロシア語でいう и しかないのに n という子音そのものには口蓋音・非口蓋音(硬音・軟音)の区別があるのだ。クロアチア語ではそれぞれ n、nj と書いてそれぞれロシア語の н と нь に対応するのだが、その後に /i/ が来たときの区別、つまり ni と nji の発音の区別が結局最後までできなかった。日本語ではどちらも「ニ」としか書きようがないのだが、ni をロシア語式に ни (ニ)と言うと「それでは nji に聞こえます」と怒られ、それではと ны (ヌィ)と言うと「なんで母音のiをそんな変な風に発音するんですか?」と拒否される。「先生、ni と nji の区別が出来ません」と泣きつくと、「仕方がありませんねえ、では私がゆっくり発音してあげますからよく聞いてください」と親切に何度も両音を交互に発音してくれるのだが、私には全く同じに聞こえる。 
 さらにクロアチア語にはロシア語でいう ч に硬音と軟音の区別がある、つまり ч と чь を弁別的に区別する。これも日本語ではどちらも「チ」としか言いようがない。ロシア語では ч は口蓋音、いわゆる軟音しかないからまあ「チ」と言っていればなんとなく済むのだが、クロアチア語だと「チ」が二つあって発音し間違えると意味が変わってくるからやっかいだ。ロシア語をやった人なら、「馬鹿な、もともと軟音の ч をさらに軟音にするなんて出来るわけがないじゃないか」と言うだろうがそういう音韻組織になっているのだから仕方がない。č が ч、ć が чь だ。
 私はこの区別もとうとうできるようにならなかった。例えば Ivić というクロアチア語の苗字を発音しようとすると、講師からある時は「あなたの発音では Ivič に聞こえます。それではいけません。」と訂正され、またある時は「おお、今の発音はきれいな Ivić でした」と褒められる。でも私は全然発音し分けたつもりはないのだ。何がなんだかわからない、しまいには自分がナニしゃべっているのかさえわからなくなって来る。

 反対にクロアチア人の学生でとうとうロシア語の мы (ムィ、「私たち」)が言えずに専攻を変えてしまった人がいる。南スラブ語と東スラブ語間では皆いろいろ苦労が絶えないようだ。

 ところで、古教会スラブ語は「スラブ祖語」だと思っている人もいるが、これは違う。サンスクリットを印欧祖語と混同してはいけないのと同じ。古教会スラブ語はれっきとした南スラブ語族の言語で、ロシア語とは系統が異なる。ただ、古教会スラブ語の時代というのがスラブ諸語が分離してからあまり時間がたってない時期だったので、これをスラブ祖語とみなしてもまああまり支障は出ないが。
 東スラブ語は過去2回この南スラブ語から大波を受けた。第一回目が例のキリロス・メトディオスのころ、そして2回目がタタールのくびきが除かれて中世セルビア王国あたりからドッと文化が入ってきたときだ。
 なので、ロシア語には未だに南スラブ語起源の単語や文法組織などが、土着の東スラブ語形式と並存している。日本語内に大和言葉と漢語が並存しているようなものだ。
 さらに、南スラブ語は常に文化の進んだ先進地域の言語であったため、この南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり、意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする。例えば合成語の形態素として使われるのも南スラブ語起源のことが多い。日本語でも新語を形成するときは漢語を使う事が多いのと同じようなものだ。
 
 ちょっと下の例を比べてみて欲しい。оло (olo) という音連続は典型的な東スラブ語、ла(la) はそれに対応する南スラブ語要素だが、語源的には同じ語がロシア語には南スラブ語バージョンのものと東スラブ語バージョンのものが並存し、しかもその際微妙に意味が違ったり合成語に南スラブ語要素が使われているのがわかると思う。
Tabelle1-56
 さらにいえば、ウクライナ語は昔キエフ公国の時代に東スラブ語文化の中心地だったためか、ロシア語よりも南スラブ語に対する東スラブとしての抵抗力があったと見え、ロシア語よりも典型的な東スラブ語の音韻を保持している部分がある。例えばロシア語の名前Владимир(ヴラジーミル)は南スラブ語からの外来名だ。この愛称形をВолодя(バロージャ)というがここでも上で述べた南スラブ対東スラブ語の典型的音韻対応 ла (la) 対 оло  (olo)が現れているのが見て取れるだろう。この、ロシア語ではВладимирとなっている名前はウクライナ語ではВолодимир (ヴォロジーミル)といって正式な名前のほうでも оло  という典型的東スラブ語の形を保持している。
 この、南スラブ語の la や ra がそれぞれ olo や oro になる現象をполногласие (ポルノグラーシエ、正確にはパルナグラーシエ、「充音現象」)と言って、東スラブ語の特徴である。「難しくてオロオロしてしまいそうだ」とかギャグを飛ばそうかと思ったが馬鹿にされそうなのでやめた。いずれにせよполногласие の л (l) をр (r) と間違えないことだ。

 古教会スラブ語のアクセント体系がどうなっていたかはもちろん直接記録はされていないが、現在の南スラブ語を見てみればある程度予想はつく。以下は南スラブ語の一つクロアチア語とロシア語の対応語だが、これを見ればおつむにアクセントのある上品な南スラブ語が東スラブ語ではアクセント位置がお尻に移動しているのがわかる。アクセントのあるシラブルは太字で表す。 さらに比較を容易にするため、ロシア語もローマ字で示してみた。
Tabelle2-56
 この、「おつむアクセントは上品、お尻アクセントは俗語的」という感覚は人名の発音にも見られるそうだ。例えばイヴァノフ (Иванов)という名前は ва にアクセントが来る「イヴァーノフ」と но に来る「イヴァノーフ」という二種類の発音の仕方があるのだが、「イヴァーノフ」の方が上品で古風、つまりなんとなく由緒あり気な感じがするという。
 それを知ってか知らずか、神西清氏はガルシンの小説『四日間』(Четыре дня)の主人公を「イヴァーノフの旦那」と訳している。貴族の出身という設定だったので、由緒ありげな「イヴァーノフ」のほうにしたのかもしれない。「イヴァノーフ」では百姓になってしまい、「旦那」という言葉と折り合わなかったのか。
 この苗字の元になった名前「イヴァーン」(Иван)のアクセントは ва (ヴァ)にあるのだから、最初は苗字のほうもイヴァーノフだったはずだ。その後ロシア語の言語体系内でアクセントの位置がドンドン後方にずれていったので、イヴァノーフという発音が「普通」になってしまった。さらにウルサイことを言えば、この名前の南スラブ語バージョン Ivo (イーヴォ)はアクセントが「イ」に来るし、セルビア語・クロアチア語でも Ivan を I にアクセントを置いた形でイーヴァンと発音する。つまりそもそものИванという名前からしてロシア語ではすでにアクセントが後ろにずれているのだ。Ивановではその、ただでさえずれているアクセントをさらにまた後方に横流ししたわけか。もうこれ以上は退却できない最終シラブルにまで下がってきている。いわば背水の陣だ。


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前回の続きです)

 完了体アスペクトにはこの「新しい状況の出現」の他に temporal definiteness「時間的に(あるいは時間軸に)固定されている」(『95.シェーン、カムバック!』参照)という要素がある。Dickey という学者が強調していたそうだが、ちょっとDickey を離れてこちらで勝手にこの「時間軸に固定」という観念をいじってみよう。私はこれは R(eference time) の位置がはっきりしているという意味に解釈できると思う。前の例を繰り返すが、

太郎は結婚した。E (= R) < S
太郎は結婚している。E < R = S

では、単純過去で Reference time が括弧に入っている。つまり明示されていない、いろいろな解釈を許すということで、要は「特に固定されていない」、言い換えると definite の反対で temporally indefinite なのではないだろうか。ロシア語不完了体と同じだ。「~ている」の方はReference time がはっきりしていて、ロシア語完了体に対応する。
 これも前に名前を出したイサチェンコはロシア語の完了体・不完了体の差を次のように説明している:不完了体動詞では話者の視点が当該事象のただ中にあるから、始まりも見えなければ終わりも見えない。それに対して完了体動詞では話者は当該事象を外からみているから始まりも終わりも、そしてその事象が今どういう過程にあるのかもよく見える。イサチェンコはさらにこれを何かのパレードに譬えて、不完了体はパレードに参加して行進している人の視点だが(だから全体が見えない)、完了体ではパレードを観客席から観察しているようなもので、全体が見渡せる。行進の始まりも終わりも見えるし、次の行進、前の行進も見える、と描写している。それを図示してくれているのでさらにわかりやすいが、ちょっとそのイサチェンコの図示をさらにこちらで解釈してみよう。

イサチェンコの図
Isachenko
事象の外に出ている視点というのを R と解釈して時間軸の上に置いてみるとこうなる。どうも稚拙な図ですみません。
perfekt-iperfekt
不完了体ではRが事象の内部にあるから、その脇を通る時間軸と結びつきようがなく、軸に固定できない。これが temporally indefinite である。完了体は R を錨にして当該事象が軸に結わえ付けられるからtemporally definiteとなる。つまりライヘンバッハ、ディッキー、イサチェンコは実は同じことを互いに独立に主張しているのではないだろうか。

 この完了体アスペクトはある意味わかりやすく、ロシア語、日本語、英語間で(ドイツ語では先にも述べたようにアスペクトの観念がないがしろにされているからボツ)共通する部分が多いが、現在進行体アスペクトが問題だ。日本語では普通は継続動詞に「~ている」をつけて作る。完了体形成と同じ助動詞なのでややこしい。

田中さんは今本を読んでいる。

わかりやすい Mr. Tanaka is reading a book now である。ロシア語ではこういう場合、不完了体動詞を使う。

Он сейчас читает книгу.
he + now + read-不完了体・現在 + book
今彼は本を読んでいる。

しかしよく見てみると瞬間動詞も現在進行体アスペクトになりうることがわかる。寺村氏も似たような例を挙げているが、同じ行為が繰り返される場合である。

毎日何万人もの人が戦争で死んでいる。

複数の主語が次々に死んでいく場合で、一人一人は死ぬのが一回きりで「完了」したとしても「死ぬ」という事象自体は繰り返される。ロシア語でもこういう場合「死ぬ」の不完了体バージョン умирать を使う。

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.
in + world + every +  day + dies.不完了体 + about + 150000 + man
世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。

ここで動詞が умирает と単数三人称 になっているのは、名詞に5以上の数詞がかかると動詞が中性単数になるというロシア語の決まりのためである。事実上は主語は複数だ。この умирать は「ただいま死亡中」という意味にはならない。日本語の「田中さんは死んでいる」も「田中さんは故人」という解釈しかできない。そこを何とかと言われればいろいろ補助をくっつけて「田中さんは今死んでいっている」など無理やり現在進行体アスペクトに出来ないことはないが、ちょっと無理がある表現ではないだろうか。

 ここまでで結論すれば日本語の「~ている」はロシア語の完了体と不完了体どちらの意味も表現することができる、いわば一粒で二度おいしい(古い昭和ギャグを出すな)機能を持っているように見えるがちょっと考えてみよう。次の文だがロシア語だったらどちらも不完了体動詞の管轄で下手をすると同じセンテンスになってしまう。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。

 Он изучает русский язык по воскресеньям.
he + learns/ is learning + Russian + language + during + Sundays
彼は日曜日にロシア語を勉強します/しています。

さらに既出の文

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.

も、日本語では実は二通りに訳せる。

世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。(上記)
世界で毎日およそ十万五千人の人が死ぬ。

もちろんロシア語でもやろうと思えば文のシンタクス構造を変えたり別の単語を使ってこの違いを表わすことはできるが日本語のようにストレートにはいかない。そもそもこの違いはどこにあるのか?前者は繰り返し、後者は一般的な事実、というか習慣だ。では「繰り返し」と「習慣」の違いは何か?私は前者が時間軸に結びついている、temporally definite であるのに対し、後者は時間軸上に接点がない、temporally indefinite なのだと解釈している。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています。→ E = R = S
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。→ E = S

前者は明らかに具体性が高い。会話が行われている現時点で田中さんが実際にロシア語の学習を繰り返している、つまり definiteness をはっきりと感じる。後者にはそれがない。むしろ田中さんという人の人物描写で、汎時間的とでも言おうか。言い換えると日本語の「田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています」や英語の Mr. Tanaka is reading a book とロシア語のそれぞれ Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям あるいは Господин Танака читает книгу はアスペクト的にイコールではない

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています → E = R = S
Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям  → E = S

Mr. Tanaka is reading a book  → E = R = S
Господин Танака читает книгу → E = S

ロシア語は E = R = S を表わすことができないのだ。だから不完了体 E (= R) = Sで暗に示すしかない。しかしこれはあくまで代用である。では不完了体がダメなら完了体の現在形を使えばいいのではと思うとこれが無理。なぜなら完了体には現在形が存在しないからである。たとえば不完了体の現在形

Он читает кнгу.

完了体

Он прочитает книгу.

では動詞の変化形パラダイムが同じなので(下線部参照)完了体も現在形のような気がするが、実はこれは未来形で「彼は読むだろう、今から読む」だ。つまり下のようなパラダイムになる(三人称単数のみ表示)。
Tabelle-elsas183
現在形がないから R が時間軸に結びついた「~ている」をストレートに表わせない。RがEに先行するか後続するなら大丈夫だが、E = Rだけはできないのだ。

過去
Он прочитал книгу.  E <  R = S
彼は本を読んだ/その本を読んでいる。

未来
Он прочитает книгу. (上述)E > R = S
彼は本を読むところだ。読もうとしている。

私はこのことにまさにこのブログ記事を書いていて気付いたのだが自分でも驚いた。

 逆にロシア語ではストレートに表わせるが日本語ではいろいろ芸を施さないと表わせないアスペクトニュアンスというのもある。前回の記事で日本語の「た」には単純過去と完了体アスペクトの両方の機能があると書いたが、「両方できる」ということはつまり形の上ではキッチリ分けられていないということだ。現日本語の「た」は古い日本語ではそれぞれアスペクトの違いを表わしていた複数の助詞「たり」「つ」「ぬ」「り」などが消滅してその機能を一身に請け負わされる羽目に陥ったわけだから、もともとの助詞がそれぞれ持っていたアスペクトの意味がおんぶお化けというか背後霊のように付着しているのはある意味当然と言える。
 ロシア語では過去に起こった繰り返し事象を完了体でも不完了体でも表わせるが、両者間には明確にニュアンス、つまりアスペクトの違いがある。日本語ではこれらの差が非常にあいまい、というより表わすことができない。

Ученик написал трудное слово несколько раз, чтобы запомнить его.
pupil + wrote-完了体 + difficult + word + several + times, + so that + to remember + it
覚えるために生徒は難しい単語を何回も書いた

Я несколько раз писал ему, чтобы он прислал фотографию своих детей.
I + several + times + wrote-不完了体 + to him, + so that + he + send + picture + of his + children
私はお子さんたちの写真を送ってくれるよう彼に何回か手紙を書いた

前者が完了体、後者が不完了体で、ロシア人は明確にこれらの文脈で完了・不完了を使い分けるが、日本語ではどちらも「書いた」である。前者は完了体なのだからといって「~ている」を入れて「生徒は…書いている」とすると不自然な文になってしまう。同じ繰り返しでも前者はその繰り返しの総体があるまとまりを持った一つの事象だ。「単語を覚えた」という新しい事態も出現している。対して後者は相手が写真を送ってくれたかどうかは問わず、とにかくこちらが何回か手紙を出したという繰り返しの事実を描写しているに過ぎない。前者で不完了体を使い、後者を完了体にするとロシア人は違和感を感ずるのだ。この繊細なアスペクト感覚には日本人もドイツ人も対抗できまい。さらにこういう例もある。

Он перечитал письмо несколько раз.
he + read through完了体 + letter + several + times
彼は手紙を何回も読み通した

Я перечитывал роман «Война и мир».
I + read through不完了体 + novel + „War and Peace“
私は小説「戦争と平和」を何回か読み通した

ここでも前者は繰り返しの総体が一つの事象というニュアンスだ。事象は一応終了して話者は手紙の内容が飲み込めた。後者はタイムスパンには触れられていない。今後もまた「戦争と平和」を読むかもしれない。とにかくなぜここでは完了体または不完了体になっているのかを後から説明して貰えればまあわからないこともないが、ロシア語作文などでこちらが自分でこの違いを表現し分けろと言われたら非母語者にはお手上げだ。

 お手上げだから撤退して日本語の「~ている」に戻るが、これの機能はロシア語のようにアスペクトを表わすというよりアスペクトを「強調すること」にあるのではないだろうか。それについてまた寺村氏が鋭い指摘をしている。

葛西善蔵は芥川自殺の翌年、昭和3年7月に死んでいる

という文の「~ている」は「この金魚は死んでいる」という単純な現状説明ではなく、過去の事実を今改めて確認し、現在の文脈の中でその意義を問う「回想的用法」であるとしている。EとRとの間に距離感がある。この距離感は「~ている」の持つ「アスペクト強調機能」からの派生ではないだろうか。

 前項の最初で述べた日本語のアスペクトというテーマのそもそもの出だしに戻るが、私の今までしていた大雑把な説明、「~ている」は完了体と現在進行体という正反対のアスペクトを表わす、つまり同じ形式が正反対の意味を持つという説明の仕方を実は著書の中で寺村氏に叱られたので反省のあまりこんな記事を2回にもわたって書いてしまったのであった:寺村氏はある形式にこのようにいろいろな意味があるとただ列挙するだけでは文法的な説明とはいえない、問題は多義にわたる用法、異なる意味をどう統一的に説明するかということだと言っている。いやしくも同じ形で表わされているのだから共通する意味の核があるはずだ、それを見つけないでただこの形式にはあれこれの意味がありますとゴチャゴチャ並べて終わりにするのは素人だということだ。そう言われてガーンと来たので、必死にここで私なりに考えてみて出た結論は、「~ている」には Reference time を可視化し、さらにそれを強調する機能があるということである。進行体だの完了体だのはそこから派生されて来た二次的な機能だ。
 アスペクトの強調という機能は「~てしまう」という助動詞も持っているが、こちらの方が強調の度合いが強い。さらに「~ている」と違って「~てしまう」は単にRの存在を可視化するのではなくて、さらにS < R を強調する。だから「不可逆性」「取り返しがつかない」「完全に一件落着」などのニュアンスが生ずるのではないだろうか。面白いことにロシア語の完了体動詞と似て「~てしまう」には現在形がない。つまりS = R を表わすことができない。

全部食べてしまった。

と助動詞が過去形の場合は E < R < S だが、

全部食べてしまう

は「全部食べている」のように E < R = S ではなく、形としては現在形だが意味的には「これから全部食べる」、つまり未来形 S < E < R だ。ロシア語の

Съем всё.
eat 完了体+ all
全部食べてやる/これから全部食べる(ぞ!)

とそっくりだ。


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