アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Dezember 2021

古い記事の図表のレイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになってしまうことがあるので、これから時々前の記事の図表を画像に変更していきます。最初からそうすればよかったんですが… 本文は直していません。もとの記事だけ密かに直そうかとも思ったのですが、せっかくなので再投稿します。

この記事と内容が全く同じですので飛ばなくていいです(汗)

 いろいろな言語が、語族が違うにもかかわらず、その地理的な隣接関係によって言語構造、特に統語構造に著しい類似性類似性を示すことがある。これをSprachbund(シュプラッハブント)、日本語で言語連合現象と言うが、この用語は音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイの言葉で、もともとязыковой союз(ヤジコヴォイ・ソユーズ、うるさく言えばイィジカヴォイ・サユース)というロシア語だ。バルカン半島の諸言語が典型的な「言語連合」の例とされる。

 その「バルカン言語連合」の主な特徴には次のようなものがある。
1.冠詞が後置される、つまりthe manと言わずにman-theと言う。
2.動詞に不定形がない、つまりHe wants to go.と言えないのでHe wants that he goes.という風にthat節を使わないといけない。
3.未来形の作り方が特殊で、補助動詞でもなく動詞の活用でもなく、不変化詞を動詞の前に添加して作る。その不変化詞はもともと「欲しい」という意味の動詞が退化してできたものである。

 このバルカン言語連合の中核をなすのはアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語である。人によっては現代ギリシア語も含めることがある。アルバニア語、ギリシア語は一言語で独自の語派をなしている独立言語(印欧語ではあるが)、ブルガリア語・マケドニア語はセルビア語・クロアチア語やロシア語と同じスラブ語派、ルーマニア語はスペイン語、イタリア語、ラテン語と同様ロマンス語派である。
 セルビア語・クロアチア語は普通ここには含まれない。満たしていない条件が多いからだ。しかしそれはあくまで標準語の話で、セルビア語内を詳細に観察して行くと上の条件を満たす方言が存在する。ブルガリアとの国境沿いとコソボ南部で話されているトルラク方言と呼ばれる方言だ。この方言では冠詞が後置されることがある。つまりセルビア語トルラク方言は、前にも言及した北イタリアの方言などと同じく、重要な等語線が一言語の内部を走るいい例なのだ。

 旧ユーゴスラビアであのような悲惨な紛争が起こって、多くの住民が殺されたり避難や移住を余儀なくされた。言語地図もまったく塗り替えられてしまったに違いない、あのトルラク方言はどうなっているのだろうと気にしていたのだが、先日見てみたらしっかりUNESCOの「危機に瀕した言語リスト」に載っていた。

セルビア語トルラク方言の話されている地域。ウィキペディアから。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1061354
565px-Torlak

 さらに調べていたら、上述の1の現象に関連して面白い話を見つけたのでまずご報告。地理的に隣接する言語の構造がいかに段階的に変化していくかといういい例だ。

1.バルカン言語連合の「中核」ブルガリア語は上で述べたようにこの定冠詞theを後置する。ъという文字はロシア語の硬音記号と違ってここではいわゆるあいまい母音である。
Tabelle1N-18
2.バルカン言語連合に属さないセルビア語標準語には、定冠詞と呼べるものはなく、指示代名詞だけだ。日本語のように「これ」「それ」「あれ」の3分割体系の指示代名詞。標準セルビア語だからこれらの指示代名詞は前置である。
Tabelle2N-18

3.西ブルガリア語方言とマケドニア語、つまりセルビア語と境を接するスラブ語はこの3分割を保ったまま、その指示代名詞が後置される。つまり、「冠詞」というカテゴリー自体は未発達のまま後置現象だけ現われるわけだ。
Tabelle3N-18
3のマケドニア語と2の標準セルビア語を比べてみると前者では3種の指示代名詞が名詞の後ろにくっついていることがよくわかる。形態素の形そのものの類似性には驚くばかりだ。
 Andrej N. Sobolevという学者が1998年に発表した報告によれば、セルビア語トルラク方言でもこの手の後置指示代名詞が確認されている。例えば、
Tabelle4N-18
ə というのは上のブルガリア語の ъ と同じくあいまい母音。godine-ve 以下の3例は複数形だ。全体として西ブルガリア語方言とそっくりではないか。

 おまけとして、「バルカン言語連合中核」アルバニア語及びルーマニア語の定冠詞後置の模様を調べてみた。一見して、1.アルバニア語はルーマニア語に比べて名詞の格変化をよく保持している(ブルガリア語はスラブ語のくせに英語同様格変化形をほとんど失っている)、2.さすがルーマニア語は標準イタリア語といっしょに東ロマンス語に属するだけあって、複数形は-iで作ることがわかる。3.ルーマニア語はさらにスラブ語から影響を受けたことも明白。prieten「友人」は明らかに現在のセルビア語・クロアチア語のprijatelj「友人」と同源、つまりスラブ語、たぶん教会スラブ語からの借用だろう。ついでにクロアチア語で「敵」はneprijatelj、「非友人」という。

アルバニア語:
Tabelle-Alb1N-18
Tabelle-Alb2-18
ルーマニア語:
Tabelle-Rum1-18
Tabelle-Rum2-18
 私はある特定の言語のみをやるという姿勢そのものには反対しない。一言語を深くやれば言語一般に内在する共通の現象に行きつけるはずだとは思うし、ちょっと挨拶ができて人と擬似会話を交わせる程度で「何ヶ国語もできます」とか言い出す人は苦手だ。でも反面、ある特定の一言語、特にいわゆる標準語だけ見ていると多くの面白い現象を見落としてしまうこともあるのではないだろうか。言語、特に地理的に近接する言語はからみあっている。そして「標準語」などというのはある意味では幻想に過ぎない。


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機種やブラウザによっては図表のレイアウトがグチャグチャになってしまうことがあるので、これから時々古い記事の表部分を画像に変更していきます(最初からそうしろよ)。図表を直すついでに本文も見直しました。原本の古い記事だけ密かに直そうかとも思ったのですが、せっかくなので再投稿します。

この記事と内容が全く同じですのでわざわざクリックするには及びません。(自分で言うな)

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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 実は私は黒澤明の映画で、TVやリバイバルでなく劇場公開時に見たのは『デルス・ウザーラ』だけである。黒澤の映画は世界的に有名だが、黒澤以前にもソ連でアルメニア人の監督アガシー・ババヤンБабаян, Агаси が1961年に一度映画化している。原作は帝政ロシアの軍人ウラジーミル・アルセーニエフ(1872-19230)の探検記 По Уссурийскому краю(「ウスリー地方探検記」、1921)と Дерсу Узала(「デルス・ウザーラ」、1923)で、ババヤンの方は知らないが黒澤はこの両方を参照している。探検自体は出版よりずっと早い時期、1906年から始まっていて、原作ではデルスは「ゴリド人」と呼ばれている。現在で言うナーナイ人だが、スィソーエフ Сысоев, Всеволод (1911-2011) というハバロフスクの作家はこれに疑問を持ち、デルスはナーナイ人ではなくウデへ人のはずだ、と主張したそうだ。まずナーナイ人は魚をとって定住している民族で、獣を追って森のなかを歩き回ったりしない、さらにデルスがアルセーニエフに教えたという言葉はナーナイ語でなくウデへ語だというのである。しかし、ウデへ人とナーナイ人は言語も民族も非常に近く、アルセーニエフの資料からどちらかにキッパリ決めるのは難しいそうだ。デルスはゴリド人(ナーナイ人)ということでいいのではなかろうか。

ババヤンの『デルス・ウザーラ』のアルセーニエフとデルス。https://dibit.ru/p/films/1628から。
1126-3
1126-4
アルセーニエフの原作(=本物)のデルス。ババヤンのデルスの容貌のほうが黒澤のよりむしろ現実に近い。
ウィキペディアから。
Dersuuzala

 そのデルスの話す言葉、ナーナイ語だが幸いトゥングース諸語の一つである。なぜ「幸い」なのかというとトゥングース諸語はさすが大言語の満州語を要するだけあって、古くからロシア人や中国人の興味を引き、比較的研究が進んでいるからだ。研究ばかりではない、文字や書き言葉を発達させ、歴史的な資料も豊富な満州語は文化語としても中国語と並んでかの地の文化生活をひっぱっていた。ソ連の論文でトゥングース・満州諸語 тунгусо-маньчжурские языки と呼んでいるのを見かけたが、いかに満州語の重みが高いかわかる。それともこの名称で「満州語は中国の、トゥングース語はソ連の領域」という政治的分割でも暗示されているのだろうか。まあそれもありうる(下記参照)。
 ナーナイ語の話者はウスリー江沿岸(アルセーニエフが探検した地域だ)と、あとアムール川の周りにもいる。ソ連(ロシア)側と中国側合わせてナーナイ人の人口は1万人強ということだが、この数字があまり正確でない上にロマニ語と同じく民族に属してはいてもナーナイ語を話せない人も多く(『154.そして誰もいなくなった』参照)、言葉そのものの話者はわずか1000人から2000人くらいという報告もある。しかも全員がロシア語あるいは中国語とのバイリンガルで、日常生活に使っているのはむしろそちらの方であり、ナーナイ語を完全に流暢に話せるのは皆50から60歳以上だそうだ。とにかく非常な危機言語である。

 ナーナイ語を文字化する試みはすでに19世紀後半に正教の教会が行っている。布教のためだろう。1928年にはロシア語とラテン語アルファベットを用いた正書法が考案されたが、これが「統一北方アルファベット」Единый северный алфавит(ЕСА)の土台となった。「統一北方アルファベット」というのはソ連国内の北方少数民族の言語を共通のアルファベットで記述し、書き言葉化を推進するため考案された文字体系である。ラテン文字が基本になっている。どうもあまり普及はしなかったらしく、1933年ごろに改良されたЕСАでナーナイ語は再文字化されたりはしたのだが、1930年代後半にはナーナイ側のイニシアチブによりまたロシア文字をもとにしたナーナイ正書法になってしまったそうだ。確かに私が1980年代で見たナーナイ語の出版物でも皆ラテン文字でなくキリル文字が使ってあった。

1941年出版のナーナイ語で書かれた物語。キリル文字が使用されている。
https://e-lib.nsu.ru/reader/bookView.html?params=UmVzb3VyY2UtNjk0NQ/MDAwMDEから。

nanai1N
nanai3-bearbeitet
内表紙はナーナイ語とロシア語併記。
nanai2-bearbeitet

 正書法と同時に言語の研究そのものも進められた。ロシア・ソ連で研究論文もたくさん出ている。よく引用されるのが1959年に出たアヴローリン Аврорин, Валентин Александрович による文法書で、ナーナイ語関係の論文には頻繁にこの本が参考文献に掲げてある。言語的には上述のように満州語と近いのに、満州語は中国で、ナーナイ語はロシア・ソ連でとそれぞれ研究地が割れてしまっている感じなのは残念だが政治的には仕方のないことなのだろうか。とにかくちょっとナーナイ語と他のトゥングース語との「近さ」を見てみよう。トゥングース諸語はいわゆる膠着語で名詞の後ろに格マーカーがつく。日本語の「てにをは」と同じだ。格が語形変化のパラダイム自体にはなっていないわけだから格の数も学者によってばらつきが出るが、アヴローリンは主格、対格、具格、与格、処格、向格、奪格を区別している。偶然手元にあった1983年の『月刊言語』にエウェンキ語、ウイルタ語、満州語の資料が載っているので比べてみよう。ナーナイ語だけ単語が違っていて申し訳ない。
Tabelle1N
エウェンキ、ウイルタ、満州語のmooは「木」という意味である。ナーナイ語の ogda と giol はそれぞれ「ボート」と「オール」。キリル文字をラテン文字に直しておいた。格の数にも違いがあり、満州語には処格、向格がない。その代わり属格がある(ここには出していない)。エウェンキ、ウイルタ語にはさらにたくさんの格があるが(例えばウイルタ語には共格がある)、ここではナーナイ語にある格だけ比較した。それでも相似性は一目瞭然だ。主格は全言語でゼロマーカーとなっており、対格マーカーのそれぞれの-wa、-woo、-bə、 -wa 始め与格、処格など形態素がそっくりだ。またナーナイ語も含めたトゥングース語には母音調和、つまり母音間の共起制限があるため、例えば対格マーカーの-wa は単語によっては -we、与格の -du は -do、処格の -la は -lo で現れる。
 さらに上の「活用表」はいわば「単純系」で、これら格語尾の後ろにさらに人称語尾が付くことがあるそうだ。エウェンキ語では一人称単数-w、二人称単数 -s、三人称単数 -n、二人称複数 -sun、三人称複数 -tin、ウイルタ語では一人称単数 -bi、二人称単数 -si、三人称単数 -ni、二人称複数 -su、三人称複数 -či、満州語にはこの現象がないとのことだ。これを頭に置いてアヴローリンの挙げているナーナイ語の「ボート」と「オール」の主格の例を見てみよう。
Tabelle2N
「ボート」の主格が -i になるのが残念(?)だが、他はなんとウイルタ語そのものである。実際ウイルタ語はトゥングース諸語の中でナーナイ語と同じグループに属し、別グループのエウェンキ語、満州語より近いのだ。さてここで一人称複数をすっ飛ばしたのには理由がある。エウェンキ語ではここで除外形と包括形(『22.消された一人』参照)を区別するのだ:除外形 -wun, 包括形 -t。ウイルタ語にはこの区別がなく-puだけ。ナーナイ語も一人称複数は一つだけだが、これがまたウイルタ語とそっくりで、ogda-pu と giol-pu。またウイルタ語では単複ともに一人称では斜格で別形をとり、一人称単数 -wwee、一人称複数 -ppoo。これがナーナイ語ではそれぞれ-iwa、-powaとなるようで、「オール」で見ると一人称単数主格が giol-bi(上述)、 具格が giol-di-iwa、処格が giol-dola-iwaだ。一人称複数だと主格 giol-pu(上述)、具格 giol-di-powa、処格 giol-dola-powaで図式通り。時々音が変わったり削除されたりすることがあるが、まあそれは仕方がないだろう。「オール」の対格は giol-ba-iwa ではなく、giol-b-iwaである。
 二人称、三人称は主格と斜格の区別がないので、「ボート」、「オール」の二人称単数主格がそれぞれogda-si 、giol-si(上述)、対格は ogda-wa-si、giol-ba-si で人称表現の形態素が主格も斜格も同じになる。
 これらは名詞につく人称表現の形態素なので、人称代名詞と形が完全にイコールではなく、例えば名詞では人称表現をしない満州語も人称代名詞そのものはしっかり持っている。エウェンキ語の人称代名詞に除外と包括の区別があるのは上の事から推してもなるほどと思うが、名詞では人称を区別しない満州語も代名詞にはこの区別がある。名詞で区別しないウイルタ語やナーナイ語は代名詞にもこの区別がないが、まあそれはそうだろう。

 膠着語ということは名詞ばかりでなく動詞にも後ろにベタベタ助動詞や人称表現がくっ付く。例えば過去形は -xa(n)/-xə(n)/-ki(n)/-či(n) という形態素を動詞の後に付加して表わす。やたらと形の幅が広いのは上述のように母音の共起制限がある上、その母音に引っ張られて子音価が変わったり、後続する形態素の影響を受けたりするからである。

Mi  ǯok-či  ǯi-ǯu-j-či-jə-wə,  ama jama-wa tuliə-du xulə-xə-ni.
we + home-向 + arrive-再起-非過去-向-1単斜, father + pit-対 + yard-与 + dig-過去-3単

この例も以下の例もオスコリスカヤ Софья Алексеевна Оскольская という学者が挙げていたものだが、上で述べた人称形態素が現れているのがわかる(下線)。動詞をで示したがまあよくもここまでいろいろくっつくものだと感心する。でも日本語の動詞だって外からはこんな風に見えるにちがいない。-xəが過去マーカーだが(太字)、この文はアスペクト上ニュートラルで、不完了体・完了体のどちらにも解釈できるそうだ。

1.私が家に着いたら、父が(ちょうどその時)庭に穴を掘っていた。不完了体
2.私が家に着いて、父が(その後)庭に穴を掘った。       完了体

動作様相でいえば、前者が進行相、後者が起動相である。副文の動詞が非過去形になっているのが面白い。その非過去形は形態素 -j/-ri/-ǯi/-či を付加して表わすが(太字)、これも動詞によっては完了体・不完了体の両方のアスペクト解釈を許す。下の例では動詞に下線を引いておいた。

(母親がケータイで娘に「今何処にいるの?」と聞いたのに答えて)
 Mi škola-či ənə-j-i.
1単 + school-向 + go-非過去-1単
学校に行くとこよ!     不完了体(進行相)

ələə ələə ǯukə ənə-j
soon + soon + grandpa + go-非過去
今おじいさんが行くよ!   完了体(起動相)

いわゆる瞬間動詞の非過去形では完了体以外の解釈が非常にしにくいのはナーナイ語も日本語もロシア語も同じらしい。

Sagǯi daan’a bu-ǯi-ni.
old + grandma + die-非過去-3単

この文は「年取った祖母が直に死ぬ、今死ぬところだ」という完了体(起動相)解釈しか成り立たず、「年取った祖母が今死亡中」、つまり不完了体(進行相)のと受け取るのは不可能だ。
 解釈だけでなく、形の上でアスペクトを表わす形態素もいろいろある。機能的に日本語の助動詞「~いる」のようなものか。例えば -či/-so ~ -su/-si は不完了体表現。

Alosemǯi klass-či ii-wuči-ə-ni nuči guru-səl ele-se-xa-či.
teacher + class-与 + enter-分詞接続法2-斜-3単 + small + people-複 + stand-不完-過去-3複
先生が教室に入ったら、子供たちが立っていた。

Alosemǯi klass-či ii-wuči-ə-ni nuči guru-səl ele-xa-či.
teacher + class-与 + enter-分詞接続法2-斜-3単 + small + people-複 + stand-過去-3複
先生が教室に入ったら、子供たちが立った。

前者と後者の違いは動詞部に-seという形態素があるかないかだけだが、前者を「子供たちが立ち上がった」、後者を「子供たちは立っていた」と解釈することはできない。
 また -psin/-psiŋ という形態素は完了体(起動相)を表わす。

Ag-bi ičə-rə n’oani mora-psiŋ-ki-ni «Baače-go-a-pu».
elder brother-再帰単数 + see-分詞・同時 + she + shout-起動-過去-3単 + „Hello“
自分の兄を見て、彼女は「あら元気?!」と」叫んだ。

この起動相マーカーがないと進行形・不完了体の意味にしかならない。

Mi komnata-či ii-wuči-jə,
əjkə-i ak-či-jə mora-xa-ni.
I + room-向 + enter- 分詞接続法2,
elder sister-1単 + elder brother-与-再帰単数 + shout- 過去-3単


ここでは動詞(下線)に psiŋがついていないので、起動の意味にはならず、

私が部屋に入ったら、姉が兄に何か叫んでいた。(不完了体、進行相)

であって、

私が部屋に入ったら、姉が兄に何か叫んだ。叫び出した。(完了体、起動相)

とは受け取れない。
 これらの他にもアスペクトまたは動作様相を表わすマーカーがいろいろあるが、動詞の側にも特定のアスペクトマーカーをつけないと語としては成り立たないものがあるそうだ。反対に特定のアスペクトマーカーを付加できない動詞もある。

 こうしてみると形としてはいろいろな解釈を許すニュートラルな動詞にしてもマーカーにしても、それらが表わすのは「アスペクト」というより動作様相といったほうがいいかもしれないが、それをさらに抽象して完了・不完了の二項対立に持って行っているのがいかにもロシアの学者らしくて面白かった。それをふむふむ言いながら読んでいるうち本論とは別に語彙面でも面白いことに気づいた。ナーナイ語では日本語と同じくelder brotherや elder sisterを英独露語のようにバラさずに一つの単語で表わせるようだ。オスコリスカヤ氏の挙げた例の中に、əjkə (elder sister) 、ag (elder brother) (上述)、nəu (younger brother) などの語が見える。それぞれ日本語の「姉」「兄」「弟」みたいだ。英語やドイツ語で「兄」と「弟」が同単語になっていることに常々ムカついていたのでこれは本当に嬉しかった。「妹」はどういうのかと気になってアヴローリンの本を覗いてみたら younger brother が нэку- とある。オスコリスカヤ氏の nəu だが、そこに括弧で younger brother (sister) と注が入れてある。ということは自分より年が若いと性で区別しない、つまり「弟」と「妹」の区別がないということだろうか。
 もう一つ、ロシア語からの借用語が多いことに目がとまる。上述の例だけみてもすでに
jama(「穴、堀」)、 škola(「学校」)、 klass(「クラス、教室」)などの単語が見つかる。一目瞭然それぞれロシア語のяма、школа、класс からの借用だ。この調子だとロシア語からの借用語は相当多そうだ。中国領のナーナイ人は中国語からいろいろ取り入れているに違いない。

 最後に『デルス・ウザーラ』の原作者アルセーニエフのことに戻るが、その後夫人(黒澤の映画で描かれていた人だ)と離婚し、1919年にその「原因」となった女性と再婚した。ただし元の夫人や息子(これも映画に出てきた)の生活費・養育費などはきちんと払い続けている。アルセーニエフの死後、二番目の夫人は大粛清の煽りを受け反革命分子として1938年に銃殺された。1920年に生まれた娘も収容所に送られたり大変な目に遭ったらしい。アルセーニエフ自身の親戚たちも既に大粛清以前に革命のごたごたでほとんど命を落としている。時代の波を被って破滅したのはデルス・ウザーラだけではなかったのだ。

黒澤明の『デルス・ウザーラ』は最近ブルーレイがでたようだが、レビューを見ると音声も画質もあまりよくないようだ。
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