アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

November 2021

「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事は2021年11月20日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったコロナの陰謀論者についてのインタビュー記事です。ネット記事のタイトルは「馬鹿が大流行」というものでした。

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念のため:私はこの新聞社の回し者ではありません。

文:ナディア・パステガ

南ドイツ新聞:
カストナー先生、先生の新刊のように馬鹿について本を書く方と言うのはつまり自分は馬鹿だと思っていないということですよね。ご自分は選ばれた人の一員とお考えですか?

カストナー:
もちろん私だって日々の事項で時々馬鹿をやらかさない訳じゃありませんよ。

例えば?
この間スピードを出しすぎて罰金を取られました。

馬鹿はIQの問題じゃない、計算ができるとか外国語をマスターしてるとかそういう問題じゃないと先生はお書きになってますが。「馬鹿」とはつまり心のあり方ということでしょうか。
事実を無視する傾向ですね。長い目で見ない、その場で見かけだけのメリットのみ頭に置いて、長い目で見ると自分にも他人にもネガティブな結果になるということを無視するんです。馬鹿な人たちは自分たちを全体構成の一つと見ることができない、常に自分の関心事を真っ先に持ち出すんです。

ドナルド・トランプは馬鹿ですか?
いいえ、氏は経済史家のカルロ・マリア・チポラなら強盗とか犯罪者と呼んでいたところですね。トランプは状況を厳しく分析して、特定の戦術を使えばほぼ確実に成功すると結論しました。そしてその戦術を効果的に使いましたよ。

それでファンの群を大量に引き寄せたと。
頭がいいからと言って必ずしもモラルがあるわけじゃないですからね。トランプは他人の害を徹底的に自分のメリットになるようにしたんですよ。

世界史上最も馬鹿なのは誰だとお考えになりますか?
そりゃ候補が多すぎて答えにくいですよ。まあでもヒトラーはチャンスがあるでしょう。とにかく何百万人も絶滅させて世界大戦を引き起こし自分に対しても他人に対しても最大級の損害をもたらしましたからね。

馬鹿への対処法とは何でしょうか?馬鹿に付ける薬はない、と言われますが。
馬鹿を事実として受け入れるんです。馬鹿を計算に入れておくことですね。

高学歴はどうも特効薬にはならないようですね。例えばISの宗教原理主義に加担したのは教養のない単純な人たちとは限りませんでした。
馬鹿な人たちの主要パラメーターは、自分たちの立場を最優先させて他は全て無視することです。今のコロナ・パンデミックでも言ってる人がいるじゃないですか、私はずっとこのままでいるつもりだって。

どういうことですか?
二言目には「自分のことは自分で責任を取る」って言いますよね。何なんですかねこれは。

何なんでしょうか?おっしゃってください。
自分のことだけ気を付けて他は見ない、ってことですよ。隠者か何かで洞穴で完全に孤立した生活しているならそれでいいでしょうよ。それなら自分の責任は自分でとる、他人のことは構わない、でいいと思いますよ私は。でも私は大きな社会に接触している訳でね、そうなると自分の責任は自分で云々なんて完全にばかげてます。コロナの蔓延のおかげで馬鹿のネタにこと欠きませんよ。

というと?
例えば休暇でエキゾチックな国に旅行するときはワクチン打ちますよね。しっかり副作用があるのにです。出回っているB型肝炎のワクチンなんか、今みたいに広く使われるようになる前にテストした人の数なんて今のコロナワクチンに比べたら微々たるものですよ。現在コロナワクチンが嫌だと泣きごとを言ったりワーワー反対している人で、当人が今までにとっくに打って貰って(しまって)いるワクチンがどういう科学的に基盤に立っているのか詳しく調べてみた人なんか誰もいません。

コロナワクチン反対者は馬鹿だということですか?
そう言わざるを得ませんわね。

でも先生、そんなことをおっしゃってしまったら社会の溝が深まってしまうのではないですか?全く接点のない二つの世界が対峙していることになってしまいますよ。ワクチン支持者と反対者と。両者間の対話ができないじゃないですか。
しなくても構いませんよ。

はあ?!
対話の用意ができているというのは基本的に肯定すべきだし、いいことですよ。でもそれは双方に容易ができている場合に限るんですよ。それ以外は、まあ、目的もなく結論も出っこない独り言の組み合わせと言ったがいいですね。そういう「自分の意見の権利」と「自分の事実の権利」をゴッチャにするような人たちとは議論しないほうが時間も手間も省けるし、イライラしなくてもすみますよ。対話の場を開いて置くべきとか思うのは甘い。政府はただビシッと決めればいいんです、最新の科学的根拠に基づいてね。

ずっと正しいと信じられてきたのに実は逆だと証明されてしまった科学知識をそれまで正しいと信じていた人たちは馬鹿と呼べるんでしょうか?
いいえ。科学を信じること自体は馬鹿じゃありません。科学は常に動いてますからね。それぞれの研究の最新状況が最良の情報ですが、それだってさらに流れてます。常に新しい知識が入ってきますから。科学と言うのは物事は常に流動し見方は常に変化する、というのが前提ですから。

でも科学者や専門家の信頼性に一部傷がつきましたが。なぜでしょう?
多分理由はずっとさかのぼれるんでしょうが、特にトランプ政権と例の言語道断なオールタナティブ・ファクトって標語ではっきりしましたよ。オールタナティブ・ファクトなんてものはありません。ファクトか、さもなければファクトを無視するばかげた見方かです。以前は少なくとも大学で学び、その事柄に精通し、自分が何の話をしているのかちゃんわかっている人たちがいました。他の人は嘴を入れるのを控えるか、専門家のいう事を信じたものです。そのうち専門家は嘘つきだとか堂々と公共の場で言えるようになってしまいました。陰謀論信奉へスタンバイですよ。

そのご説明がつきますか?
世の中がどんどん複雑さを増して来たために陰謀論スタンバイが強化されたのは確実ですね。陰謀論が包括的なものであればあるほど、世の中のことを一発で説明してくれるようなものであればあるほど、その陰謀論は魅力が増しますから。そうやって専門家に不信を抱き、ファクト後の事実とかオールタナティブ・ファクトとかしゃべっているうちに基本的な雰囲気が出来上がってしまったんですよ。その雰囲気に誘導されて人々は何かのトンデモ理論をベースにして自分たちの見解とやらをでっちあげ、ファクトからの自由と見解の自由とを混同するようになったんです。

「なすすべなし」という感じですが…
この間さるネットビデオを見たんですよ。そこで誰かが、ワクチンとともに地球外生命体の蜘蛛の卵が体内に注入される、それが我々を体中から食いつくすぞと主張してまして。これは本当に「もうどうしようもない」ですよ。これ以上馬鹿げた話がありますか?!

誰もが自分の信じたいことを信ずる、という訳ですね。
でも馬鹿をあんまり自由にさせたり、特に権力を与えてはいけません。でないと危険です。馬鹿が自分たちに害を与えるのは我々の自由社会では法律違反じゃありませんが、他の人にまで害を与えるとなると話は別、全く冷静に落ち着いて受け入れてなんていられませんよ。

どういうことなんでしょうか?
コロナの話ばかりしてもいられないから別の話ですけど、ドイツの「祈祷師」で医者のリューケ・ゲールト・ハーマーが胡散臭い考案をして、おかげで1995年にガン患者の子供をもう少しで死なすところでしたよね。自分の治療法が見込みありと言い含めて、長い間両親の目をすっかりくらまして妨害しました。

先生のいう馬鹿ですが、増えてるんでしょうか?
馬鹿は大流行してます!本当に驚きますよ。どれだけ多くの領域で、人々が実は全然持っていないくせに能力知識を持ってるつもりになっているか。例えば洗濯機が壊れたらごく当然のことながら専門家を呼んできますよね。なのに明らかにそれより複雑なテーマについては自分は何もかも知っている・わかっているという顔をしだす人がたくさん。そういう遊び場の一つでポピュラーなのが医学ですよ。今日び自称専門家がもうウジャウジャいます。全く知識に基づいていない「フィーリングで」男性にも女性にもアドバイス。作家のチャールズ・ブコフスキイが表現してますね:頭のいい人たちが疑問懐疑にとらわれている一方、馬鹿は自信に満ちている、それが問題だって。馬鹿が馬鹿なのを恥じなくなったんですよ。

そういうお考えはどこから?
例えば「私はそれは知らない」って誰かが言ってたのを最後に聞いたのはいつですか?しばらく前にオーストリアにはさるラジオ番組がありましてね、道端で人にいろいろ聞くんです。例えばこんな質問:ここでインターネットに接続できるかのは何処か教えて戴けませんか? いやもう呆れますよ。どれだけ大勢の人が答えたか:ええ、教えてあげましょう。ここに沿ってずっと行ってね、向こうの角を左に曲がって三番目の角を右、とか。そう言うかわりに「いえ知りません」っていう人がいない。最近はもう何かを知らないっていうのがすっかり流行遅れになってしまいました。

馬鹿を測るのにどんな基準がありますか?
馬鹿度が測定できる、と言い切るのはまあ思い上がりでしょう。そんなことできませんよ。今日に至るまで頭の良さというのがきちんと定義で来てないんですし。まあでもフィーリングで感じた事実だの本能・直感だのをすぐ持ち出して直感こそ本質的な知識のソースだなどと言い出す人は確実に馬鹿と呼んでいいでしょう。

直感が非常に役立つ生活の場もあるのでは?
そうかもしれません。例えば好感とか反感とかの事柄ではね。でも事実の判定となると直感は危険ですよ。しばらく前にオーストリアのカプルーンの氷河に敷いた鉄道で悲惨な事故がありましたが、そこで事故の起こったトンネルを本能的に上の方に逃げた人はほとんど亡くなりましたね。それは間違いなんですよ、火は上の方に向かって燃えていくんですから。なのに皆上の方、光の方に逃げるという本能があったんです。

先生は犯罪心理学者として刑事裁判で鑑定人をなさり、重犯罪人とも関わっていらっしゃいますね。馬鹿は悪ということでしょうか?
そういうことが多いです。自分の欲求を差し当たって満足させるという短いスパンでしか見ないんですよ。犯罪の多くで悲劇なのは、後から見ればその犯罪行為は全く無意味で嘆かわしいだけだったということです。ミステリアスなことなんてありません。悪には魅惑的なところなんてない、単に馬鹿なだけです。

先生はメディアで「アムシュテッテンの化け物」と呼ばれたヨゼフ・フリッツルの裁判の鑑定人でしたね。フリッツルは自分自身の娘を24年間地下室に閉じ込めて、日常的に強姦し子供を7人産ませました。先生から見てフリッツルはどんな人でしたか?
文句をつけるところはありませんでしたよ。対話には協力的だったし、無作法でもありませんでした。私の質問にもできるだけ答えようとしてくれました。ああいう行為を起こさせたのは、他人に絶対的な権力をふるいたい、性的享楽を味わうだけ味わいたい、そういう欲求でした。自分で言っていましたよ、私は生まれたときから強姦犯なんだって。感情面では全然激しさのない人でした。単に何年も何年も同じことを続けただけなんです。

頻繁に引用されているアルベルト・アインシュタインの言葉がありますね。宇宙と同じくらい無限なものがある、それは人類の馬鹿さだ、という。今自分は馬鹿と関わりあってるなということはどうやったらわかるんでしょうか。
その人物にとって非は常に他人にある、ということでですね。何かうまく行かないことがあっても絶対自分の責任ではない。自省することがありません。馬鹿じゃない人は時には「自分がいつも一番賢い行いをするとは限らない」と思い当たりますよ。

先生ご自身の例では?
まあ、たとえばですね、今すぐ片づけたほうが利口だなということを先延ばしにしてしまう時とか。あと、よく考えずに早とちりでものを言ってしまうとかですね。で、あとから考えるんです、「やらなきゃよかった」って。

ハイディ・カストナーの人物紹介
ハイディ・カストナー氏(59)は心理学と神経学の専門医で、2005年からオーストリア東部のリンツでケプラー大学病院の法医学科の医長をしている。法心理学者として、世に知られている犯罪者を数多く鑑定してきた。中でも世界的に有名なのはヨゼフ・フリッツルの事件で、フリッツルは自分自身の娘を24年間地下室に幽閉し、日常的に強姦し、子供を7人も作っている。カストナー氏は作家としても名を成した。2014年に氏の『怒り』を出版、最近では新刊の『馬鹿』が出た。2015年にはオーストリア共和国への貢献によって名誉賞金賞が送られた。


人食いアヒルの子のコメント:
「コロナは嘘」論者については最近こういうニュースがあった。コロナは陰謀・嘘と信じて疑わないある人が、当然ながらワクチンも打っていなかったので感染し、重症病棟に運び込まれた。ところが本人もその家族も「これはコロナではない」と言い張り、主張し続け、とうとうその人は「オレはコロナじゃない、コロナなんて存在しない」と言いながら亡くなった。病院で必死にその人を治療した医者やスタッフの無力感はすさまじく、スタッフの一人は「ここまで来ると狂気だ」と言っている。
この狂気はどこから来るのだろうか。


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 アルバニアの北部地方とコソボには「男として生きる」女性たちがいる。「いた」と言った方がいいかもしれないが、「宣誓処女」(英語でsworn virgin、ドイツ語でSchwurjungfrau)と呼ばれる人たちだ。アルバニア語でburrneshëまたはvirgjineshëといい、北アルバニアやコソボの他、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアなどにも存在していた記録がある。アルバニアということはつまりいわゆるゲグ方言地域である。『100.アドリア海の向こう側』でも書いたようにアルバニア語は南部のトスク方言、北部のゲグ方言に大きく二分され、トスク方言地域はイタリアとも近く、海に向かって開けているある意味コスモポリタン的なところで古くからギリシャ・ローマの文化にも接触のあった先進部だった。現在の標準アルバニア語のもとになったのはこのトスク方言である。対してゲグ方言地域は山がちで外部との接触も少なく人々は閉ざされた封建的な部族社会を形成していたので、ゲグ方言は単にトスク方言と違うばかりでなく方言内部の差も大きい。ゲグ方言とトスク方言の最も顕著な違いの一つは、ゲグ方言で n にあたるところがトスク方言ではロータシズムを起こしていることだ。前に出した例の繰り返しになるが、ゲグ方言の dimën「冬」がトスク方言では dimërとなる。さらにゲグ方言ではバルカン言語連合(『40.バルカン言語連合再び』参照)の特徴に反し、未来形を作る助動詞に「欲しい」 でなく「持つ」を使う。例えば「私は書くだろう」はそれぞれ次にようになる。

トスク方言: do të shkruaj
ゲグ方言:       kam me shkrue

トスク方言の do (下線)は助動詞と言うより助詞・不変化詞にまで退化してしまっているが、元々は「欲しい」という動詞である。次に続く本動詞のtë shkruajは接続法単数一人称。対してゲグ方言の kam(下線)は「持つ」という動詞で語形変化のパラダイムも維持しており、これは直説法単数一人称だ。本動詞の me shkrue のほうが語形変化を消失していて、これは不定形である。「不定形の消失」もバルカン言語連合の特徴の一つだから、この点でもゲグ方言は乖離していることになる。もっともこの「have未来」は他のバルカン言語にも周辺部で細々と観察されてはいる。こちらの方が古い形で「will未来」はそれこそバルカン現象として新しく発生した形らしい。上で挙げたn についてもロータシズムを「起こさない前の」形だから、つまり色々な点でゲグ方言は古い形を維持しているわけだ。社会慣習についてもそれが言えるのだろう。

アルバニア語の方言分布。ゲグ方言の方が細分化の程度が大きいのがわかる。ウィキペディアから。
Albanian_language_map_en.svg
 話を戻すが、burrneshë(ブルネシェ)というのは単数形で複数形はburrnesha(ブルネシャ)。またアルバニア語は冠詞を拘置するからそれぞれの定冠詞形はburrnesha(the burrnesha)、burrneshat(the burrneshas)となる。そのブルネシャは自分の属する村あるいは共同体の長老たちの前で、一生処女で過ごし男となることを宣言する。以後は男の服を着、煙草を吸い、一人で外に出かけて酒場で皆と酒を飲み、さらに職を持って収入を得ることができる。周りの男たちからも男仲間として扱われ、家長にもなれる。それらを定めた慣習法は中世以前、いやローマ以前からあったらしいが、法典(Kanunと呼ばれる)として文書化もされている。最も有名なのが15世紀にレケ・ドゥカジニLekë Dukagjiniという北アルバニアの支配者がまとめたKanunだが、20世紀初頭に至ってもコソボの司祭が再法典化している。

レケ・ドゥカジニの支配した地域。なるほど北アルバニアだ。ウィキペディアから。
Ungefähres_Herrschaftsgebiet_Leke_III._Dukagjini
法典では「復讐法」と言ったらいいのかblood fuedの定めもある。家族の者が害を受けたら加害者の家族に同じことをやり返していい、いややり返さなければいけないという規定で、似た習慣はシチリア、コルシカにもある。『ゴッドファーザー パートII 』の主要テーマにもなっていた。ついでに言えば、シチリアには中世からアルバニア人が住んでいた。

 女性がブルネシャになる主な理由は二つある。第一に、家長によって決められた結婚をしたくない、そもそも結婚したくない場合。上で述べたブルネシャの特権とやらを見てほしい。人とバーに行ったり酒を飲んだり家族の大黒柱になるなど、日本社会なら女性が普通にやっている。男友達も含めた知り合いで集まって楽しくビールを飲むなど、やったことのない女性がいたらお目にかかりたい。そういう普通のことが当地では男性にしかできなかったのである。こういう社会での「結婚」というものが女性にとってどれだけの苦痛であるかは想像するに難くない。もっとも結婚が女の地獄であったのはロシアでもそうだったらしい。プーシキンだのカラムジン、果ては『イーゴリ戦記』だのの貴族文学ばかり読んでいるとわかりにくいが、ロシアの民謡には「嘆きの歌」というジャンルがあるそうだ。どういう時にこの歌を歌うのかと言うと、若い女性が結婚の際に心痛を吐露するのだという。ショーロホフやゴーリキイの短編にもこの地獄を描写した作品がある。これから逃れるには男になるしかなかったのだ。女のままでいたら最後、家長が勝手に夫を決めて強制的に向こうの家族に「あてがわれて」しまう。拒否権はないのである。もちろん現在ではそこまで酷くはないだろうが、私も何年か前にそういうアルバニアの社会意識がドイツに持ち込まれたのを垣間見る機会があった(『13.二種の殺人罪』参照)。
 ブルネシャになる第二の理由は、家族に息子が生まれないことだ。息子がいないと父親の土地や財産を相続することができない。職業につける者もいないから、家族が没落してしまう。また息子がいてもあまりにもボンクラでとても家族を率いる技量がない場合、娘の一人が男にならざるを得ないのである。また親戚の家、例えば叔父さんの家などにまともな息子がいなくて、頼まれてブルネシャとして向こうの家族に出向く女性などもいたということだ。
 このブルネシャの存在は20世紀の初頭に英国の旅行家イーディス・ダラム Edith Durham が著書のHigh Albania(1985年にリプリントが出ているそうだ)で報告しており、最近でも(でもないが)2000年にアントニア・ヤング Antonia YoungのWomen who became menという本が出ている。ヤングはそこでブルネシャたちへのインタビューも行った。以後人類学者ばかりでなく普通のマスコミ雑誌などでもこのブルネシャが取り上げられて有名になった。ストラスブールの放送局ARTEも2019年にもドキュメンタリを流している。ネット上にもブルネシャについての記事が結構あるが、どうも興味本位というか怖いもの見たさというか、知られざる世界的なセンセーション狙いを感じさせられてちょっと引っかかるものが多かった。そういう私もここでこうやってブルネシャについて書いているので同じ穴のムジナかもしれないが、『138.悲しきパンダ』でもちょっと述べたようにエキゾチック感覚に飢えて人様の文化・習慣にドカドカ土足で踏み込む、珍獣を写真に捉えたと言って喜ぶような感覚には違和感を覚える。日本人からすると舞子と芸者の区別もつかない外国人が京都にドカドカ押しかけてただ単に着物を来ていただけ女の人を撮影し、インタビューし、「接触に成功。これがニッポンのゲイシャだジャーン」的な薄っぺらい記事を書かれた時の感覚だろうか。ひょっとしたら外国に日本の文化が紹介されたと言って喜ぶ人もいるかもしれないが、私だったら「見せもんじゃないぞ!」と怒っただろう。当地の社会学者がそこら辺のことに触れているが、今も残るブルネシャ(たいていはすでに高齢だ)はマスコミに完全に誤解されたと感じており、もうジャーナリストとやらとは関わりたくないといっているそうだ。きわめて少数だが外部の「エキゾシズム・フリーク」に乗じて商売を始めた者もいる。3時間から5時間のインタビューに100ユーロだかの料金を要求したりするそうだ。ブルネシャに会うパッケージ・ツアーまである。ブルネシャに会って握手をしてもらうと150ユーロ、インタビューが250ユーロ、いっしょに写真を取ると400ユーロという具合だ。その社会学者はそういう様子を見て非常に心を痛めていたが、私の方まで悲しくなりそうだ。
 上述のARTEにしても、この放送局は非常に硬い番組しか流さないので全く大衆受けがせず視聴率の低い放送局だが、そのARTEのドキュメンタリでさえ、人工的なストーリー性を感じすぎた。ただ、他のアルバニア人、例えばティラナなど開けたトスク方言地域の人は自国のこういう習慣についてどう思っているのかも見せてくれたのでその点公正だと思う。「主人公」の若いアルバニア人女性は北にブルネシャという習慣があることを知り会って話を聞こうとする。それを知った母親は「止めなさいよ、そんな人に会うのは。だって普通じゃないでしょそんな人」と吐き捨てるように言っていた。

ARTEのドキュメンタリに登場したブルネシャ。
Vierges 
 この記事の冒頭に「いたと言った方がいいかもしれない」と書いたが、ブルネシャの習慣はもう廃れていっており、存命のブルネシャは100人もいないのではないかと思われる。だから「全滅しない今のうちに」と(あさましい)パッケージ・ツアーまで生まれるのだろうが、そのうち誰もいなくなるであろうことは確実だ。現在のアルバニアではブルネシャなどになる必要がなくなったからだ。女性は女性のままで(?)男性の付き添いなどなくても外に出られる、職業にもつける、Kanusはその影響力を失い、強制結婚も行われなくなった(まだ残滓のあることは上で述べたとおりである)。もちろんまだ男女同権からは程遠いが、ブルネシャの存在意義はもうなくなっている。

 さて、社会学者はさすがにセンセーション狙いなどせず地味にジェンダー論的観点からブルネシャを観察していた。ブルネシャは「第三の性」なのか、またブルネシャという制度は超封建的な男社会の軛から女性が少しでも開放できるいわば救済制度だったのか。ある意味では女性はブルネシャになることによって男性の持つ殺傷与奪圏外に逃れられたからである。
 まず二番目の疑問に対してはLittlewoodという人(だけではないが)がキッパリとノーといっている。むしろその逆で、男性が支配し女性が隷属するという封建体制をさらに強固にするものであったと。女性と言うジェンダーのままでは自分自身の人生を謳歌できない、それができるのは男性だけだという厳しい2分割原則は全く揺るがないからだ。例えばヤングのインタビューしたブルネシャには過剰適応気味の人がいた。男性以上に女性(つまりセックスの点では同性)に対して支配的、ほとんど攻撃的にふるまう人がいたそうだ。ブルネシャはいわゆる「女性解放」とは反対の側にたっている。
 さらにいわゆる「男装の麗人」ともメカニズムが反対だ。男のような着物を着、男のような言葉使いで暮らしている女性のタイプは映画やマンガに時々出てくるが、これはあくまで女性性を強調にする作戦に過ぎない。現に「麗人」という言葉が表している通り、こういう女性は若くて美人、つまり男性の要求する女性性そのものであり、それが証拠にその手の麗人たちが最後にはちゃっかり男の恋人を見つけてめでたしめでたしになるストーリー展開が多い。変なたとえだが塩を少し入れると汁粉の甘さが引き立つごとく、標準のジェンダー像からわざと外して奇をてらうことによってさらに女性性を強調する手で、一見方向が逆のようだが胸にシリコンを入れ唇にはこれでもかとルージュを塗りたくって女を前面に押し出すのと目的は同じである。
 ブルネシャの本質はセックスの点では「無性」(だから処女を宣誓するのだ)、ジェンダーとしては男ということだ。LGBTなどで時々言われる「第三の性」とも違う。無性だからセックスとジェンダーのギャップ問題も起きない。インタビューで見る限り自己内部の葛藤に悩む声も聞こえてこない。ただ、無性であっても人体構造上は女性だから全く男性と同じわけにはいかない時もある。病気をしたとき男性病棟に入院したいか女性病棟か聞かれたブルネシャは女性病棟だと答えたそうだ。また血の復讐法でも理論上は殺される権利(!)のあるブルネシャが実際に殺された例はほとんどないという話も聞いた。そういった「誤差」はある。あるが「男性ジェンダーの強化」という本質は変わるまい。
 いずれにせよ、このブルネシャが全くいなくなる日は近そうだ。

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