アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Juni 2021

オリンピック東京大会が大揺れだ。以下の記事は前回リオ大会のとき書いたものだが、そのときふと東京大会に対して抱いた嫌な予感が当たってしまったようだ。ここでちょっと言及している「ロシアに対するドーピング対策を事実上骨抜きにした」IOCの張本人が実はトーマス・バッハ氏である。


 実は私は高校生のころずっとと大学に行ってもちょっとの間続けていたので剣道三段を持っている。だから、というとあまりにも理由になっていない理由で申し訳ないが、どうもあのフェンシングというスポーツが嫌いだ。なんか後ろに変な電気コード引きずった選手が一次元の線上をピョコピョコ飛び跳ねながらすぐヘナヘナしなうような軟弱な剣でチョンチョンつつきあいしてるのをみるとイライラしてくるのだが(ごめんなさい)。
 もちろん向こうもこちらに同じ事を言ってくるに違いない。妙なスカートを履いた(多分袴なんて外の人から見たらスカートの出来損ないにしか見えないだろう)選手が、打ち込むたびに断末魔のネアンデルタール人みたいな奇声をあげる、当たったか当たらなかったかを電気信号などの客観的な方法で決めないで横っちょにエラそうに立ってる審判が旗振って決める、フェンシング選手が見たらなんじゃいありゃと思うだろうからまあおあいこだ。

 さて、2016年のオリンピックほど見なかった大会は初めてである。もちろんTVでニュース映像が報道されたからといって目をそむけたりTVを消したりはしなかったが、とにかく実況は全く見なかった。別にわざわざボイコットしたわけではない、見る気がしなかったのだ。すでに前々回の2008年ごろから開始前にいろいろ胡散臭い問題や疑惑が湧いてくるようになってシラケムードが濃厚になってきてはいたのだが、今回はあまりにもヒド過ぎた。

 まず会場都市のリオ・デ・ジャネイロに反対者が大勢いたのにお上がごり押しした。オリンピックなんかやってもIOCに金を吸い取られるだけで開催都市にはほとんど経済効果はないということはロス・アンゼルスやアテネ以降、知らない者はいないから反対したのである。「そんな金があるんだったら、社会に回せ」。まさに正論だ。さらにどんなに開催都市が借金まみれになってもIOCは損をしない仕組みになっているばかりか、リオでの大会後オリンピックの宣伝のためにOlympic Channelとかいう特別なTV局を設置し、それに6億ドルだかの費用をかけることにした、と聞けばその一部でもいいからリオに回してやればよかったのにという考えが頭をよぎる。貧乏人が借金まみれになっているのを尻目に自分たちはこれ見よがしに湯水のように金をつかう、これではまるで悪徳商人・吸血鬼ではないか。開催地の住民は踏んだり蹴ったり。ドッチラケである。
 さらにドッチラケたのが、ドーピング問題に対するIOCの態度だ。ロシアが国を挙げてドーピングしているという話自体には何を今更感があったが、世界陸上委員会がロシアを追及して破門(違)にしたのを見て、おおここはそれなりに改善する気があるんだなと感心していたらIOCがそれを骨抜きにした。こちらの新聞でも批判されていたが、その際勇気を持って自国のドーピング事情を告発したユリア・スチェパノヴァ選手が出場できなかった一方、限りなく疑惑のある(そして、スチェパノヴァ選手と違って告発する勇気はもたない)選手たちは何だかんだとIOCが弁護して出場させた。まさかプーチン氏から金でも貰ったわけではないだろうが、利潤・客寄せ第一のIOCの面目躍如、極めて後味が悪かった。いや開始前だから、「前味」か。
 繰り返すが、私がシラケたのはドーピングそのものよりそれに対するIOC側の態度である。こういうことをいうと私が人間性を疑われそうだが、勝ちたい一心で選手が自らヤクを打つにしろ勝たせたい一心で国が秘密裏に選手をヤク付けにするにしろ、私が健康を害するワケじゃなし、心の隅には薬漬けでもなんでもいいから一度100mを5秒で走る人間というものを見てみたいという気持ちもある。見つかれば罰を受けるのだし、見つからなければ早死にする、ということで当事者はある意味では体を張っているのであるから素人の私が外からヤイヤイいっても仕方がない。だがそれを監視すべき立場のものが、職業倫理より金を優先させたとなると話は全く別だ。
  
 もっともドーピングと言われて思い出す、というより強制的に思い出させられるのがロシアより旧東ドイツの選手たちである。1970~80年代に東独が国を挙げてやっていたドーピングも相当なものだった。ただ社会主義が崩壊した後、現ロシアと違って西ドイツに吸収されて組織や体制が完全に入れ代わったため、いろいろなことが明るみに出たのである。
 1985に東ドイツのマリータ・コッホという選手が47秒60というウソのような世界記録を出し、それがいまだに破られていないので、今でも陸上世界選手権やオリンピックの女子400mになるとその「世界記録」がテロップに出てくる。これが出るたびにドイツ人は恥しくなるそうだ。薬まみれの生産物であることが確実だからである。1991年にハイデルベルクの癌研究所の生物学の教授ヴェルナー・フランケらが詳細にデータを検証して東ドイツでは組織的にドーピングをしていたこと、コッホももちろんそうであったことを明らかにした。しかし、あらゆる検証からして確実なことでもその大会でコッホが本当にヤクを打っていたという直接の証拠がないから引っ込められないんだそうだ。それでこのテロップをみると過去の罪を毎回強制的に思い出させられているように感じるらしい。

 しかし国によっては自国の選手をドーピングする手間さえ惜しんで手っ取り早く外国から出来合いの選手を輸入し、国籍を与えてユニフォームを着せ、メダル稼ぎのマシンとして利用するところがある。これはカタールとかがすごい。この間のオリンピックなどでもブルガリア人の重量挙げの選手、イランのレスリングの選手、エチオピア(それともケニアだったかな)のマラソン選手などがなぜか皆カタール人として出場していた。そのわりにメダルは取れていなかったようだが。ケニアの選手がトルコから出てきたのも見たことがある。
 この傭兵の中にはマリーン・オッティなどの大物もいる。故郷はジャマイカだが、そこの陸連と齟齬をおこしたため、つてを頼ってスロヴェニアに移住し、スロヴェニア代表として出場した。
 面白いのがヨーロッパの卓球選手権で、一度女子個人戦のデンマーク対スウェーデンだか何かをTVで見かけたことがあるが、どちらも中国人の選手だった。1998年以降の中国人の女子個人優勝者を見てみると次のようなあんばいである。

1998年エインドホーヴェン(オランダ)大会
ニ・シアリャン Ni Xialian (ルクセンブルク)

2000年ブレーメン(ドイツ)大会
キャンホン・ゴッシュ Qianhong Gotsch (ドイツ)

2002年ザグレブ(クロアチア)大会
ニ・シアリャン Ni Xialian (ルクセンブルク)

2005年アールフス(デンマーク)大会
リュー・ジャ Liu Jia (オーストラリア)

2007年ベオグラード(セルビア)大会
リ・ジアオ Li Jiao (オランダ)

2009年シュツットガルト(ドイツ)大会
ウー・ジアドゥオ Wu Jiaduo (ドイツ)

2011年グダンスク(ポーランド)大会
リ・ジアオ Li Jiao (オランダ)

2013年シュヴェヒャート(オーストリア)大会
リ・フェン Li Fen (スウェーデン)

名前が漢字でなくローマ字表記だけで書かれてはいるが、これのどこがヨーロッパ選手権なんだと思う。もっともこの現象は女子だけで、男子の個人優勝者は皆ヨーロッパ系の名前であるところをみると、つまりこの選手たちは欧米人と結婚した中国人女性と思われる。もともと欧米人と結婚する東洋人女性は逆より数倍多いのだ。

 私個人はこの傭兵は構わないと思っている。偏狭な民族主義者・純血主義者は反対するかもしれないが、傭兵の側と国の側が双方合意しているのだから、互いの利益が一致してまことに結構。倫理にも反していないし、第一代表選手がカラフルになって見ているほうも楽しいではないか。
 問題は双方に合意がない場合、例えばその国の代表なんかになりたくない選手に国が無理矢理国旗を押し付けて走らせたりする場合であろう。そう、ここで私の頭にあるのは孫基禎選手のことだ。
 今のIOCなら金に敏感にもなったついでに人権とか国家倫理とかにも一応敏感になっているので、宗主国が植民地を独立国と認めていなくとも国あるいは独立チームとして認めるのが普通だ。だから台湾という「国」のチームが出てくるのである。そもそも今日の国際社会なら日本の朝鮮併合は承認されないだろう。だから今だったら孫選手は最悪でも「日本領コレア」または「日本領朝鮮」、多分「日本領」なんて前置きなしでズバリ「コレア」あるいは「朝鮮」の代表選手と見なされ、氏の世界記録や金メダルは「朝鮮」のものとなるはずだ。しかし孫選手が活躍したのは民族国家という幻想が世界を席巻していたころであり、しかも金メダルを取ったのはナチスドイツの主催したベルリンオリンピックである。条件が悪すぎたとしか言いようがない。
 この間ドイツのTVでこの孫選手のドキュメンタリー番組を流していたので驚いたが、私はオリンピック史などの話になったとき、孫選手の国籍が「日本」となっているのを見るたびに上述のマリータ・コッホの記録を見せられたドイツ人と同じような気持ちになって恥かしくて仕方がない。もちろん当時は韓国も北朝鮮もなかったが、今からでもせめて「朝鮮」という国籍に直して上げられないのかと思うのだが、これも薬によるイカサマ記録と同じで一旦書き込んだら変更できないんだそうだ。理不尽である。

 オリンピックが終わってみるとドイツも日本もメダルを結構取ったようだし、ネットなどで皆が楽しそうに話をしているのでさすがにちょっとは見れば良かったかなとは思った。しかし一方でスポーツとはあまり関係ない子供じみた仰々しい開催式、開催都市を借金まみれにさせても自分たちは肥え太る悪徳商人じみた経営、あまりにも不透明な運営ぶり、IOCがこの先もこういう路線で行くようだと東京大会も全く見ないで終わりそうな気がする。

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前回の『閑話休題⑬』のパートⅡです。
下の記事も2021年5月30日の南ドイツ新聞に載っていたものです

ヘレロとナマにたいするジェノサイドから117年

文:ベルント・デリース
原文はこちら。すべてタダで読めます。

 ヘレロが全て射殺されたり砂漠に追いやられ、そこで渇きのため悲惨な死に方をしたあと、兵士には詩的創作の時間があった。「死にゆく者のあえぎの声と怒りの叫びが果てしない土地の崇高な静けさの中に響き渡った」と兵士の一人は日記に記している。何万人ものヘレロが砂漠で死んでいった。死体の多くは何メートルも深い穴で見つかった。人々は水を得ようとして生き埋めになったのだ。ベルリンの参謀は1904年のウォーターベルクの戦いのあと満足げにこう記している:「ドイツが武力をもって開始したことを水のないオマヘケ砂漠が終わらせてくれるだろう。つまりヘレロ民族の絶滅である。」(人食いアヒルの子注;何の因果か『113.ドイツ帝国の犯罪』で出した引用文と完全に重なっている。ひょっとしてこのデリース氏は私の記事を読んだのか?!まさか)。
 これが近代で最初のジェノサイドとなったが、その「近代」ももう100年以上前のことである。ドイツが殺人行為の謝罪補償を言い出すまでにそんなにも長い時間がかかったのだ。連邦大統領フランク・ヴァルター・シュタインマイヤーがナミビアの議会の前で謝罪し、今後数十年間に11億ユーロを社会プロジェクトのために拠出することになった。
 結局ドイツはここまで謝罪が遅くなることも謝罪せねばなるまい。これほど時間がかかったのは、ホロコーストの陰で他の犯罪行為がかすんでしまったここもあるだろう。また少なからぬ人がずっと「ドイツの植民地主義者はアフリカでは確かに誤りを犯し残酷なこともしたかもしれないが、フランス人やイギリス人、ベルギー人に比べたらずっとマシだ」という見解だった。未開民族に文明を持ち込んでやったじゃないか;汽車も船もボーリングのレーンも。
 こういう自称「親切な」植民地支配国という像が生じたのは自国の過去と徹底的に向き合わなかったからである。プロイセンが今のガーナに要塞を作らせ、そこから奴隷を船に積み込んだことを誰が知っているだろう。植民地時代の歴史処理ということを連邦政府は連立契約に織り込んだがそうこうするうちにも大フリーデンスブルク要塞は荒廃していく。
 ナミビアでのジェノサイドは人道上、道徳上の問題ではなく常に法的な問題として処理されてきた。苦しんでいる他の民族がいるのだからとにかく判例を作らないようにと。しかしそれと同時に他国を指さし、アルメニア人に対するトルコの行為をジェノサイドといって排斥する政治だった。
 さて、ナミビアのヘレロとナマに対する和解提案であるが、それが成功するかどうかについてはまだ何も言えない。交渉の責任者に言わせればドイツはぎりぎりのところまで、いやその限界以上の譲歩をした。ヘレロ側の代表にはその申し出を受け入れた者もいるが、それでは足りないという人たちもいる。もっと高額を要求する声、自分たちに直接賠償金を払えという声も少なくない。ドイツが直接ヘレロと交渉せずにナミビア政府を通したことに対する批判もある。べルリン政府の言に寄れば、代表者とは全て話をしている、ナミビア側に誰と誰を代表団に入れろと指図することはできない、とのことだ。
 とにかく傷害を謝罪しないまま何十年も過ぎたわけで、署名で一件落着というわけにはいかない。これは和解の始まりであって、終わりではないのだ。

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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。

下の記事は2021年5月30日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったものです。当ブログの記事『113.ドイツ帝国の犯罪』『休題閑話⑫ 煙は立つが火が出ない』を書いた時点では「まだ」でしたが、このたびドイツ連邦政府が当時のドイツ領南西アフリカ、現ナミビアの現地人に対する虐殺行為を正式にジェノサイドと認定しました。ナミビアに今後30年間にわたって11億ユーロの支援金を払っていくことになりました。

新聞には一面全部使っていくつも関係記事が掲載されましたが、これはそのうちの一つです。

手っ取り早く血を流して解決
ドイツの植民地の歴史に対する態度が非常に変化した理由


文:クルト・キスター
原文はこちら。残念ながら全部見るのは有料ですがクリックしただけでお金を取られたりしませんので安心して覗いてください

 比較的短時間ではあったが血にまみれたドイツの植民地政策の歴史は、連邦共和国で(時々そういう声も聞こえてくるが)「無かったことにされていた」わけではない。ただドイツがナチスの時代に行った世紀の大犯罪があるので背景に追いやられてはいた。議論そのものは止んではいなかったといえよう。もっともその議論も長い間第二次世界大戦時のドイツの民族撲滅政策との関連で行われ、歴史学者とマスコミとの論争も、ヘレロやナマに対するジェノサイドやマジ・マジ反乱がある意味ユダヤ人へのジェノサイドやポーランド人やロシア人の大量殺人への発端だったのか否かという点に終始した。また他方では西ドイツでもいくつかの界隈で厳格ではあるが公正な「ドイツ領南西アフリカ」の植民者、あるいは1918年までは自称無敵であった「ドイツ領東アフリカ」のレトフ・フォアベック将軍配下の軍隊という神話の余韻が長く残っていた。
 ひょっとしたらさる記念碑がたどった運命が植民地時代の遺産がどう処理されていったかを見るいいアネクドート、いい見本になるかもしれない:1909年に当時の植民地ドイツ領東アフリカの首都ダレスサラームに帝国弁務官ヘルマン・フォン・ヴィスマンの像が建てられた。1889年に今日のタンザニアで起こった蜂起を残酷に鎮圧した人である。第一次世界大戦後東アフリカの新しい委任統治者となったイギリス人が像を戦利品としてロンドンに持って行った。1921年にドイツに返還され、1922年にハンブルクの大学の近くに設置された。ヴィスマン像はそこで20年間、植民地政策を擁護しその復活を求めて(いわゆる植民地歴史修正主義)植民地政策を祝う催しの中心に鎮座していた。
 1945年4月の爆撃の際ヴィスマンは台座から転げ落ちたが、1949年その栄光ある帝国弁務官は再びそこに据えられた。50年代は西ドイツで現在の問題の克服のほうが近過去・最近過去より重要な課題と見なされていたため、ヴィスマンも全く問題なくそのまま高座に居残った。しかし1961年からその像に対する抗議運動が特に学生の間で執拗に展開されるようになる。1967年と1968年の2回記念像は引きずり降ろされ、その2回目以降はもう戻されずにベルゲドルフの地下に置かれ、おりおり展示もされた-ただし不遜と犯罪のシンボルとしてである。
 ドイツの植民地支配史の捉え方は目まぐるしく変化した。それには連邦共和国での「沈黙の」50年代以降の社会変化が一役買っている。68年の出来事もその一環だ。アフリカやアジアで植民地が次々に独立していったこともあって注視せざるを得なくなったのだ。
 西ドイツの左党の一部は60年代70年代にいわゆる第三世界での種々の解放活動に携わってきた:それは一方では反植民地主義が動機になっているが、他方では東西対抗とも大きな関連性がある。冷戦時にアフリカ・アジアの若い国々が再び旧宗主国に政治利用されたのである。全体的に言ってドイツ民主共和国では連邦共和国より植民地主義の研究がはっきりしていたが、当地では植民地主義が資本主義後期の帝国主義の一環として理解されていたためである。
 80年代の連邦共和国は再び燃え上って力を持ってきた民族社会主義との対決、特にホロコースト問題との対決に明け暮れた。植民地についての論争は消えはしなかったが、ナチスの犯罪の原因追及の一部としてなされるようになる。またドイツの植民地主義というテーマに対する姿勢、もしくはそれに対する関心度は政治上の立場の問題でもあった:左党は関心が強い。保守と右翼は第一次大戦以前のドイツの植民地の歴史はまさに「歴史(過去のこと)」、つまりとっくに過ぎたこととみなしている。
 冷戦後は連邦共和国で植民地史の捉え方に新たな変化が見られた。それは一つには「文化闘争」あるいは「グローバル化」などの見出しでまとめらる事象と関連している;もう一つには2001年9月11日のテロ以降、またそのあとアラブの春が広範囲で挫折してからは現在というものをよりよく理解するために事件を歴史の流れのなかで捉えろという、事象の歴史的関連性が関心の中心になってきたためだ。かつての植民地大国、イギリスやフランス、またはアメリカ合衆国やブラジルのような、かつて奴隷がいた国々のこんにちの社会機構は植民地主義と密接に結びついている。(大雑把に言って)南から北へという移民の流れの大きな部分が植民地化および脱植民地化の結果から生じたのだ。
 いずれにせよ自国の植民地政策への関心の大きさはこんにちのドイツは戦後最大といっていい。120年前のドイツ人の入植者や兵士の態度・行動は特に現在のナミビアとタンザニアでレイシズムや正義という大きなテーマの一環となっている。ソーシャルメディアの恩恵を受けてそれらはほとんどグローバルレベルで強い影響力があり、植民地主義の捉え方を根本から変えてしまったらしい。そのことは連邦政府が今ヘレロとナマの代表者の要求を飲んだことをみてもわかる。
 すでに10年前フォン・トロータ将軍とその自衛軍の犠牲になった者の子孫は基本的には現在のと同じ内容の訴えを起こしていた。しかしこんにちでは植民地時代の犯罪とその犯罪の現在への意味の捉え方が違っている。ドイツの外相がジェノサイドを認めたばかりでなく、民俗学博物館をめぐる論争がおき、遺物が返還され、ストリートの名前が変更されたことなどにもその変化は見てとれる。

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