『67.暴力装置と赤方偏移』でもちょっと述べたが、日本語では緑色のことを「青」ともいう。信号機は赤信号、黄信号、青信号だし、赤くないリンゴは青リンゴだ。私はいままで「緑信号」「緑リンゴ」といっている人を見たことがない。初夏には山が青々としてくるし、東京都目黒区にある地名も青葉台、蝶の幼虫は青虫だ。これはよく話題になっている。今もちょっとネットを見てみたら、やっぱり「進めの信号はどうして青信号というんですか」などといろいろなところで質疑応答されていた。詳しく彩度・明度・色相などの色彩表を持ち出してどの辺の色が青と緑の境界線になっているか実験解説したりしているのもあったが、そういう解説をする前に肝心なことを言っておかないとせっかくの解説自体がかすんでしまうのではないだろうか。最初にバーンと「それは言語の相対性のためだ」と質問に簡潔に答え、次に 人間の自然界認知能力と言語そのものは区別しないといけないと釘を刺し、だから原因はあくまで言語構造内にあるので言語外の自然、つまり目に見える色そのものだけををつついても始まらないのではあるがと前置きして、最後につまりこういうことだと彩度明度色相を出したほうがいいと思う(イチャモンつけてるみたいでごめんなさいね)。言語そのものと指示対象の区別がわかっていない人からいわれなき説教を食らった話は以前にもした(『163.うんとすん』参照)が、言葉で区別しないからといって色が区別できないわけではない。だからさらにそこで色彩異常の話まで持ち出したりするのは「そこじゃない」としか言いようがない。そもそも「どうして青と緑を混同するのか」という質問が出ること自体色の区別そのものはできている証拠。また絵を描かせれば誰でも森は緑に、空は青に塗る。山と海を同じ色に塗ったりする人もいない(ワザとやっている印象派の芸術家などは別)。
 混沌とした自然界をどの様に言語化するかは言語によって皆違う。人間としての自然界認知能力は共通だが、その切り取り方が言語によって異なるのである。見る方にとっては同じ色であっても言語によっては違う名前で呼んだり、誰でもその差を識別できるのにいっしょくたにして呼んだりする。だから日本語では「青」と「緑」の意味範囲がオーバーラップしているが、英語・ドイツ語では被っていない。
 もっとも青と緑がオーバーラップというのは正しくないかもしれない。少なくとも日本語では「青」が「緑」をほぼ包括していると言った方がいいだろう。緑を青と言うことはあるが、青を緑とは言わないからである。また「青」は使用範囲がさらに広い。日本語では顔色について「青い顔をして」とか「真っ青になって」とか「青」を使うが、ドイツ語だと恐怖に駆られた人の顔色はblass(英語のpale)だ。なお「まっさお」では「青」の前に子音の s が入ってくるが、これは「春雨」がはるさめになるのと同じメカニズムだろう。
 ここから普通に推測すると「緑」という言葉の方が新しく、「青」は古い語なのではないかと思われたので、ちょっとネットで調べてみたら知恵袋のベストアンサーでしっかり回答されていて(ということは結構皆知っていたのだ。知らぬは私ばかりなり…)、上代日本語には色を表わす語が赤、白、黒、青の4つしかなかったそうだ。それが証拠にそのままでイ形容詞となりうる色の名前はこの4つしかない。この基本4色よりは新しいと思われる色の名、茶、黄はそのままでは形容詞になれず、後ろに「~色」という形態素をくっ付けてかろうじてイ形容詞になるが(名詞的な性格の強いナ形容詞としても通用する)、その他の緑だの橙だの紫だのは「~色」をつけても形容詞に昇格(?)できない。では青の方が緑より古いということでいいかな、と思ったら万葉集にちゃっかり春者毛要 夏者丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞春(春はもえ夏はに紅のまだらに見ゆる秋の山かも)という句があるではないか。万葉集の日本語は「上代」ではないのか?それともここの緑は純粋に色を意味しているのではなく、「新鮮な」とか「葉っぱがたくさん生い茂っている」とかいう具体的な意味だったのかも知れない。時代の下った日葡事典を見ても「緑」は初夏の若葉とか植物一般を指していたようだ。色の名前として転用されたのは割と時代が下ってからだったのかも。
 面白いことに「青二才」をドイツ語ではgrüner Junge「緑色の若者」という。英語でもgreen に青二才とか未熟の意味があり、さらに恐怖に駆られた顔の色にもgreenを使う。もちろんこういうのは比喩的な使い方だから純粋な色彩名称より外界から遠ざかり言語内への引きこもりの度合いが増しているわけだが、ある意味ではだからこそ両言語における「青」と「緑」という言葉のステータスがわかる。ドイツ語では「緑」が日本語のように「青」に飲み込まれることなく対等の語として頑張っているらしい。

 もっとも青と緑の区別があいまいな言語は実は割と多いそうだ。中国語、例えば誰もが学校で習う杜甫の漢詩にも

鳥愈白
花欲然

こうみどりにして、とりいよいよしろく
やまあおくして、はなもえんとほっす

という部分があり、川が緑で山が青となっている。緑の字が違うし、日本語でそう訳してあるからといって中国語の方では本当のそのつもりだったとは限らないのではないか、つまり漢字に引きずられて誤解釈したのではないという保証はないのではないか(なんだこのまどろっこしい言い方は)という疑問は残るが。

 さてその現代日本語の「青」。緑方向には意味の範囲がドイツ語・英語のblau、blueより広いが、青そのものの内部ではむしろ指示領域が狭まる。日本語には「濃い青」を示す「紺色」という言葉があるからだ。例えば白ではない剣道の胴着の色を私は「青」とは言わない。「紺」である。以前これに近い色をドイツ人が単に「青」と呼んでいるのを見て違和感を抱いた。さらに藍色も私は一つの独立した色という感覚だ。でないと「青は藍より出でて藍より青し」という諺が成り立たない。つまり私にとっては青、紺、藍はそれぞれ別の色だが、ただ「紺」と「藍」の区別のほうはちょっとあいまいで時々いい加減に使ってしまっている。一度ドイツ人に「日本語では濃い青dunkelblau(「暗い青」)は青とは別の紺と言うれっきとした一つの色だ」と説明をしたら驚かれ、その後しばらく何か青っぽいものがあるたびに「これは紺か青か」いちいち聞いてこられたので閉口した。しかしそこで「見りゃわかるでしょ。よく見なさい」という言い方は成り立たない。目に入っている色は日本人もドイツ人も同じだからである。違うのはそれぞれの言語で外界をどう切り取るかだ。あくまで言葉の問題なのである。
 現代日本語ではさらに「薄い青」を表わす「水色」という言葉がある。これもドイツ語では「濃い青」同様合成語にしてhellblau(「明るい青」)と呼ぶしかない。上のdunkelblauもこのhellblauも「青」blauという要素を含んでいるから、面倒くさければ両方とも単に「青」と呼んで済ますこともできる。日本語ではそれぞれ独立した語だから剣道着を水色ということはできないし、ピンクと対になった「男の子の色」を紺ということもできない。私は個人的には上で述べた紺と同様水色も「青」と言われると相当違和感がある。
 こうやってドイツ語ではblauの一語ですむ色の範囲が日本語では紺・青・水色に3分割(または藍を入れて4分割)されているわけだが、ロシア語ではこれが2分割だ。синий とголубой の2語で、形を見てわかる通り別単語だがどちらもblau に相当する。露独辞典ではсиний を (dunkel)blau、голубой を himmelblau(「空の青」)と定義してあった。家にあった露和辞書ではсиний は「(黒味をおびて)青い、こん色の、あい色の、«голубой を参照せよ»」と注のつく親切さ。そこで素直にголубой を引くと「空色の」とあるだけで、普通の青はどうなるんだと一瞬うろたえるが голубой の項に例として голубые глаза(青い目)、 голубое небо(青い空)とあり、「紺でない青」はこのголубойでいいんだな、日本語で言えばだいたい前者が「紺」、後者が「青+水色」なのかなと一応わかったような気にはなる。
 しかしこの「一応」が実は曲者だ。まず逆方向ではどうなっているか見てみると独ロ辞書のblau の項にはまずсиний とあり、続いてhellblau: голубой と注が出ている。つまりblauの基本は濃い方のсиний のようだ。和露辞書が家にないのでオンラインで「青」を引くとまずсиний 、 голубой とあり、辞書によっては続いてзелёный (green)、 бледный (pale) も掲げてある。つまり露和辞書で培われていたわかったような気が覆され、синий も青だということになる。さらに「紺」を引くと темно-синий(「暗いсиний」)、「水色」はсветло-голубой (「明るい голубой 」)と出ていて、その中間のまさに「青」、暗くないсиний、明るくない голубой はどういうのかますますわからなくなる。混乱に拍車をかけるのが、辞書によっては「水色」がсветло-синий(「明るいсиний」) またはбледно-синий(「薄いсиний」)となっていることだ。合成語になっているとは言え、「水色」にまで синийが使えるのである。「紺」の方もтёмно-голубой(「暗いголубой 」)としている辞書が一つあった。かてて加えて「目が青い」という形容詞はголубоглазый、синеглазый の両バージョンが可能である。確かに碧眼といっても人によって色あいが少し違ってはいるが、「水色」と「紺」ほどの差などない。日本語では人間の目はあくまで「青」であって「水色の目」とか「紺色の目」という言葉はない。空の色は目より色の幅が広く、日本語でも「水色の空」、「青空」、「紺碧の空」など3色とも可は可だが、「水色」と「紺」はちょっと文学的なニュアンスになり、普通の文脈で普通に空の色の話をするときは「青」が基本だろう。ロシア語では双方普通に可能なようだ。次のような例を見つけた。

Знаешь, почему небо синее?
(空はどうして青いのか知っているかい?)
Какое небо голубое!
(空がなんて青いんだろう!)
    
つまりсиний と голубой のどちらが「青」にあたるのかわからない。синий の方が使われている頻度が高いので、「青」のデフォはсиний なのかなとも思うが、それこそ青い色が出てくるたびにネイティブを捕まえてこの色はсиний か голубой かいちいち聞いてみないとダメっぽい。青か紺かドイツ人に聞かれて閉口している場合ではないのだ。

 こういう所から見ても色の名称というのは、その色の色相や明度、果ては光線のスペクトラムを測ってこれこれの範囲は〇色などという風に機械的には定義できないことがわかる。上でちょっと述べたような比喩的用法があることを別にしても相対的な使いかたというのもある。例えば長い間冷たい水に浸かって寒さでふるえている人の唇を「青い」ということがあるが、その色は紫色だ。面白いことにドイツ語でもこういう時「青い唇」という。この場合の「青」あるいはblauはその色ズバリを指し示しているのではなく、相対的に青い、つまり本来赤い唇が青の色相方向に流れているということだろう。赤が青側にズレればつまり紫だ。少なくとも日本語ではここで「あなた寒いんじゃない?唇が紫色よ」ということもできるが、この「紫」は相対的に紫というのではなく、色そのものを指示している。「青」を使う場合といわばメカニズムが違う。

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