世界中でどんどん使用地域を広げ他の言語を駆逐していっている印欧語だが、話されている地域が過去に大幅に後退したところがある。中央アジアの天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタリム盆地だ。
 現在はこのあたり、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンの南部、中国領の新疆ウイグル自治区は言語が皆テュルク諸語、トルコ語の親戚だ。ロシア国内のタタール語もアゼルバイジャン語もこれである。しかし昔はここら辺はペルシャ帝国やその同盟国の領内で、言語も東イラニアン語派、つまりモロ印欧語だった。「モロ」というのはこのペルシャから中東にかけての言語が現在印欧語の代表者面をしているドイツ語やスペイン語よりむしろ本来の印欧語だからである。いわゆる西域、東トルケスタン(中国領新疆ウイグル自治区)をも含むタリム盆地・タクラマカン砂漠周辺も言語的文化的にはやはり印欧語・アーリア人の生活圏だった。当時の中国の記録では西域の住民のことを「深目・高鼻」と描写してあるそうだ。現在の住人のようなアジア顔とは明確に違っていたのだ。
 つまり中央アジアでは極めて大規模な言語転換、住民の入れ替えが起こっているのである。歴史学者の松田壽男氏はこれを「木に竹を継いだような歴史」と言っているが、転換前、かつて印欧語・アーリア人地域であった名残りは小規模ながら今もそこここに残っていて、中央アジアのタジク語、コーカサスのオセチア語は東イラニアン語派の印欧語だ。オセチア語についてはスキタイ語の末裔だという説を見かけたが、このスキタイ語も結局印欧語。他にタジキスタンで使われているヤグノブ語、新疆ウイグル自治区他で話されているワハン語などの小言語も東イラニアン。テュルク語に駆逐された印欧語が全滅を逃れてわずかに生き残ったのだ。

タクラマカン砂漠という大砂漠があるタリム盆地。ウィキペディアから。
taklamakan

 先史時代のことはひとまず置いておくが、今の東西トルケスタンは遅くとも紀元前550年のアケメネス朝ペルシャの頃は印欧語の地域になっていた。『160.火の三つの形』でも述べたように拝火教のアーリア人だ。その頃サマルカンドやブハラを中心にソグディアナという国(中国語で粟特)があって、のちにペルシャの直轄領になったが、この言語ソグド語ももちろんイラニアン語派の印欧語である。
 その後紀元前334年に例のアレクサンドロス大王が攻め込んで来てアケメネス朝は滅亡、さらにバクトリア地方がギリシャ化し、イラン・ペルシャとインドの間に言語的にクサビが打ち込まれることになった。そのバクトリアの地に紀元前250年ごろギリシャ人が独立王国を建てていたそうだ。高校の世界史で習った、漢の武帝の命令で張騫が派遣された大月氏国というのはこのバクトリアにあったらしい。ただしギリシャ人のバクトリア王国そのものはすでに滅んでいたそうだ。
 さらにこれもやはり紀元前250年ごろ元のアケメネス朝の地にパルティア人がアルサク帝国を建てた。これが中国人の呼ぶ安息である。このパルティア人もイラニアン語派の印欧語を話していたと見られる。最初ヘレニズム文化であったのが、しばらくするうちにそこから離れてペルシャ文化に戻ってしまった。クテシフォンという都市を築いたのもこの国で、これはササン朝ペルシャの首都として引き継がれた。こうして「ペルシャ戻り・イラニアン戻り」をしたササン朝がローマや北のテュルク勢力と拮抗しつつ、3世紀から7世紀まで、つまり中国の唐の時代まで存続する。この言語が中世ペルシャ語だ。アケメネス朝の言葉は古代ペルシャ語(『160.火の三つの形』参照)である。
 このころの中央アジアのタリム盆地のあたりがどんな様子になっていたかについては幸い中国側の資料がたくさん残っている。例えば漢が設立した西域都護府が前60年に行なった報告によるとタリム盆地には多数のオアシス国家が存在していたそうだ。さらに晋の僧法顕(4~5世紀)が『仏国記』で当地の砂漠の凄まじさを描写し、7世紀に完成した北周書異域伝にはそのころの西域のオアシス都市アールシイ(下記)では仏教の他に拝火教も行われていたことが記録されている。7世紀には唐僧玄奘の報告もある。アールシイ(阿耆尼または焉耆、カラシャフルとも呼ばれる)、クチイ(屈支または亀茲)、クスタナ(コータン、瞿薩旦那または于闐)といったオアシス国家の生活文化を描写しているが、その際コータンの言語が他国と異なっていると告げている。また文字はインドの文字を改良したものであると述べている。これは19世紀の終わりから20世紀にかけてスヴェン・ヘディンやオーレル・スタインなどが発掘した遺跡から出てきた死語の資料を解読して得られた結果と一致している:タクラマカン砂漠には3つの言語群があった。中心となるオアシス都市の名をとってアールシイ語、クチイ語、コータン語と名付けることができるが、アールシイとクチイは天山南道、つまりタクラマカン砂漠の北側にある。ところがコータンは崑崙山脈の北、タクラマカン砂漠の南端だ。前の二つは互いに似通った言語だが、コータンは砂漠を隔てていただけあって前者とは明確に違った言葉が話されていた。もっとも上の玄奘のいうコータン語が違っているという「他国」がアールシイなどを指しているとは限らない。玄奘がアールシイ、クチャについて記述しているのは『大唐西域記』の第一巻、コータンについての話は遠く離れた第一二巻だから、コータン語が周りのソグド語か中世ペルシャ語と違っているという意味かもしれないからだ。とにかく現在はアールシイの言語はトカラ語A,クチイはトカラ語Bと呼ばれる。
 トカラ語が印欧語族であることは1907年にはすでに判明していた。ギリシャ語やアルバニア語同様印欧語族の独立した一派で東イラニアン語派のコータン語とは語派が違う。上記の松田教授はアールシイとクチイの言葉を印欧語でイタロ・ケルティックに近い言語としているが、実はこれは間違いではない。現在では否定されているが前は本当にそういう説があったのだ。ギリシャ語やバルト語派・スラブ語派との関係が云々されたこともあった。Adamsという学者は言語の親近度を語彙などで測定して、ゲルマン語派と近いという結果を出している。ケルト語にせよゲルマン語にせよ、つまり言語的には印欧語の北西グループの特徴を示しイラニアン語派とは全く異質ということだ。

 どうしてそんなに離れたところにそんな印欧語があるのか。Adamsはギリシャ語やゲルマン語派との親近性はトカラ語がゲルマン・ギリシャ語とズバリ同系だからではなく、トカラ人が元いた場所から移動してタクラマカン砂漠に至る際、ギリシャ語やゲルマン語と接触し影響を受けたからだとしている。つまりトカラ人はヨーロッパから移住してきた(半)遊牧民ということになる。別の説ではトカラ人はヒッタイト人級に古く印欧祖語から分岐したものだという。ヒッタイト語は印欧語ではなく「印欧祖語の兄弟言語」という見方もあるくらいだから、つまりヒッタイト語、印欧(祖)語、トカラ語がさらに共通の祖語から分かれたという見解だ。
 どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかは考古学の領域に入ってしまうのでここではパスするが、東イラニアン語派が中央アジアに入ってきたときにはすでにトカラ語の話者がそこにいたらしい。トカラ語祖語の時代は紀元前千年以前などという議論も行われているそうだが、発掘されたトカラ語の文書は紀元5世紀から8世紀(別の資料では紀元4世紀から12世紀)ごろの新しいものしかないので実証が難しい。しかしトカラ語の単語を他の、(話されていた時代がわかっている)印欧語と比べて音韻対応を検討すればある程度言語の歴史はわかる。ロマニ語(『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)の成り行きもそうやって言語学的に解明されたのだ。
 このトカラ語がAとBに分かれているのはダテではなく、両者は互いに通じなかったのではないかと思われるほど差があるそうだ。さらにトカラ語Aはアールシイの、Bはクチャで話されていた言語と単純にも行かないらしい。第一にタリム盆地は古くから交易の地で人の移動が激しく、文書が発見されたからと言ってそこの住民がその言語を話していたということにはならない。これは下で述べる敦煌でもそうだ。第二にAが見つかった処ではBも見つかっている上にB文書の数の方がずっと多い。ここからBが実際の話し言語で、Aはその時点ですでに死語、宗教儀式や詩などの限られたコンテクストでのみ使われて日常では用いられていなかったのではないかという疑いも起こる。
 面白いことにトカラ語では印欧祖語より名詞格が増えて10(呼格をいれれば11)の格を区別する。しかしそのパラダイムを見れば、トカラ語では印欧語としてのもとの語形が一旦減少し、しかる後に膠着語的接尾辞を付加して格変化させるやり方が発達したことが見て取れる。ロマニ語(『65.主格と対格は特別扱い』参照)や非印欧語のダゲスタンのアグール語と同じパターンだ。トカラ語をぐるりと囲む膠着タイプの諸言語の影響なのだろうか。ちょっと「馬」という語形変化をみてみよう。
Tabelle-165
いかにもサンスクリットの「馬」aśva- とつながっていそうな語だ。 トカラ語Bの複数通格は yakwentsa ではなく yakweṃtsa になるはずではないのかと思うが確認できなかった。とにかくAには因格形がなくBには具格がない。またBでは呼格を区別することがある。例えばこの「馬」は yakwa という単数呼格形を持っているそうだ。さらによく見ると印欧語的な「曲用」によって造られるのは主格、属格、斜格の3つだけで、具格以下は斜格形をベースにしてその後ろに接尾辞(太字)をつけるというロマニ語そっくりのパターンで形成されているのが見て取れる。単数を見るとすでに属格でこのパターンを踏襲しているようにも見えるが、Bで「父」の単数主・属・斜格をそれぞれpācer、pātri、pātärといい、立派に語形変化しているのがわかる。この2層になった語形変化をGruppenflexion「グループ活用」というドイツ語で呼んでいる。
 タリム盆地の北クチャやアールシイのトカラ語ABの他に、紀元前から紀元3世紀ごろまで砂漠の南側で栄えたクロライナ王国(中国語で楼蘭)の言語もトカラ語だったのではないかという説がある。紀元前77年に漢に押されて王国としては滅んだが、都市としてはそのあと何百年も存続した。すでに1937年にBurrowという人がその可能性に言及し、その後もこれをトカラ語Cとする学説が時々流れたが実証には至っていない。最近でも2018年にKlaus T. Schmidtがクロライナ語=トカラ語C説を唱えたが、他のトカラ語学者からコテンパンに論破されたそうだ。考古学的にもこの説には無理があるらしく、発掘品から見てクチャとアールシイは同じ文化圏に属していたが、クロライナからの発掘品はそれとは違う、つまりABとC(というものがあれば)では話者の民族が違うらしい。しかし一方完全にC説が否定されたわけではないので、今後の研究待ちということだ。

いわゆるトカラ語Cの存在はまだ実証はされていないので注意。
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 トカラ語ほどは一般人のロマンを掻き立てないが、コータン語やソグド語を無視するわけにはいかない。
 ソグド語は古い形をよく保ち(言語自体が古いので当然か)、特に名詞の変化パラダイムはほとんど保持していた。紀元1~2世紀から文献が残っており(ソグド人の存在自体については紀元前6~4世紀にはすでに記録がある)、敦煌の西でも4世紀に書かれた手紙が残っている。敦煌はさすが漢が紀元前1世紀に建てた都市だけあって発掘された文書は中国語が多いが、中国の重要な関所となってから西域から人や物が集まってきていたので中国語の他、コータン語やクチイ語、ソグド語、サンスクリット、西夏語、チベット語、果てはヘブライ語の文書まで見つかったそうだ。特にソグド商人の隊商活動がさかんだったらしい。敦煌付近には5世紀前後から大規模なソグド人の植民地というか居住地があった。7世紀ごろもソグド人についての中国の記録がたくさん残っているが、非常に利にさとかったそうで上述の松田教授によると玄奘などもずっと西のスイアブのあたりでテュルクの支配を受けていたオアシス群には西方の国からやってきた商人が雑居し、住人は意気地なしで薄情で、詐欺と貪欲の塊であり、親子で銭勘定にあけくれていると書いているとのことだ。敦煌だけでなくそもそもタリム盆地全体に植民地を築いていたので、トルケスタンでも事実上の商業言語はソグド語だったらしい。トルファン周辺にも5世紀前後からソグド人が大勢住んでいたそうだ(下記)。
 そういえば則天武后の下で秘密警察を取り仕切り住民を恐怖に陥れた索元礼という拷問の専門家も「胡人」だった。唐の時代には胡人という言葉はペルシャ人を指していたはずだが、この「ペルシャ人」というのはつまり「イラン系の人」の意味、言い換えるとソグド人もその中に入っていたということはないのだろうか?索元礼もペルシャ人ではなくソグド人だったということは考えられないのだろうか。実際6世紀にアルタイ・テュルク系の阿史那氏に中国(西魏)の使者として使わされてのはブハラの商人だったそうだ。ブハラもソグディアナの都市である。
 ソグド語はソグド文字という独自の文字を持っていた(まれにブラーフミー文字で書かれた文献もある)が、これはアラム文字から造られたのだそうだ。そのソグド文字からさらにウイグル文字が作り出された。中央アジアの大言語だったのだが、11世紀ごろの文献を最後に交易言語としての地位を失っていった。ペルシャ語、アラビア語、テュルク語、中国語に押されてしまったのだ(下記)。上記のヤグノブ語はソグド語の子孫。
 ソグド語同様コータン語(上記)も古い形をよく残しているが、名詞格は6つであった。近くのトムシュクで発見された言語とコータン語をいっしょにしてサカ語と呼ばれることもある。スキタイ人の言語が関連付けられている。上記のワハン語はコータン語の生き残りである。

敦煌で発見されたソグド語の文書。https://sogdians.si.edu/sidebars/sogdian-language/から
N4-9-Ancient-Letter-2-BLI24_OR8212_95R1_ST_L-963x1600

 そうやって唐の時代までタリム盆地は印欧語の世界だった。ソグド語、コータン語、トカラ語などの文献は5世紀ごろまでは多くがカロシュティー文字で、以降はブラーフミー文字で書かれていたし、内容的にも仏教関係の文書が多い。拝火教も行われていたそうだから、要するにインド・イランの文化圏だったのである。
 唐以降この状況がひっくり返る。もともとは天山山脈の裏側のステップ地域にいたアルタイ・テュルク(中国語で突厥)が6世紀半ばに力を伸ばし、タリム盆地を支配しだしたからである。テュルク支配下でも最初は住民そのものはアーリア人であり、少なくとも唐の間はシルクロードは文化的にはイラニアン系だったが、徐々に住民レベルでもテュルク人が優勢になっていった。ただその時点でもテュルクはまだイスラム化してはいなかった。
 イスラムが入ってきたのは西から、イランからである。イラン化されたイスラム勢力のウマイヤ朝、後アッバース朝が西からタリム盆地に来て、そこでテュルク民族とぶつかったとき、イスラム側(=イラン人側)には強力なテュルクと全面的に武力衝突するか、テュルクを懐柔・改宗させて自分たちの仲間にしてしまうかの選択に迫られ、後者を選んだのだ。懐柔したはいいが、11世紀になってからイスラム化してさらに強力になったセルジューク・トルコ(後オスマン・トルコ)が本国のイランの支配権をもぎ取ってしまったのは皮肉なことであった。とにかくタリム盆地を支配したテュルクは最初からイスラム教ではなかった。こんにちの眼で見るとテュルク=イスラムとつい安直に結びつけてしまいがちだが、テュルク化とイスラム化とは分けて考えなければいけないということだろう。ついでに民族と人間そのものも必ずしもイコールではないところが面白い。テュルク民族は本来私たちと同じ顔をしたアジア人である。事実民族の発祥の地に近い中央アジアではテュルク語話者はアジア顔だ。カザフ人、ウイグル人、タタール人など日本人だと言われても通じる。自慢ではないが私も一度カザフ人と間違えられた事がある。ところが現在のトルコの人々は全然アジア顔をしていない。顔貌的にはイランのあたり、まさに中国人から「深目・高鼻」と言われそうな容貌だ。カザフ人と民族的にはごく近いのに、人間そのものは全く異なるのである。
 
 この中央アジアでの人間の入れ替わりのプロセスについてはステップの反対側でも記録に残っている。ロシアであるが、ここは歴史上少なくとも8回は東からやってきた異民族に国土を荒らされた。最初に来たのがスキタイ人で、ギリシャ人の記録に残っている。紀元前7世紀ごろのことだが、上にも書いたようにこのスキタイ人は印欧語系の遊牧民である。2番目に来たサルマティア人というのもおそらく印欧語を話す民族だったと思われる。次がフン族で、紀元5世紀ごろ。このフン族については所説あるが、とにかく言語が印欧語ではなかったことは確実らしく、また「フン族」と一括りにはしがたいほど諸民族混成軍隊だったと思われる。その次、6世紀にアヴァール人というのが来たが、これはテュルク系の言葉を話していたらしい。このアヴァール人は現在コーカサスにいるアヴァール人とは別の人たちとみられる。その後にハザール人(ユダヤ教に改宗したことで有名)、続いてペチェネーグ人、さらに続いてポロヴェツ人がやってきた。11世紀のことである。ロシア文学史上燦然と輝く叙事詩『イーゴリ軍記』はこのポロヴェツ人とロシア人との戦いを描いたものだ。最後にダメ押しで侵攻してきたのが13世紀のモンゴル人だが、支配層はモンゴル人でも実際に兵士として押しかけて来たのはテュルク人であったことは明らかで、それだからこそこれを「タタールのくびき」というのだ。現在ロシアに残っているタタール語、アゼルバイジャン語などは皆テュルク系。またモンゴル帝国の支配者ティムールは全然モンゴル人などではなく、サマルカンドの近く出身のテュルク人である。しかし肖像画から判断するとティムールはアジア顔であり、上でも述べたように現在のトルコ人とは違っている。
 とにかくロシア側から見ても中央アジアのステップの支配民族は最初アーリア人(印欧語属の話者)だったのが、比較的短い期間にテュルクと入れ替わっているのがわかる。

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