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 これまでに何度か口にしたダイグロシアという言葉だが、これは1959年に社会言語学者のチャールズ・ファーガソンCharles A. Fergusonがその名もズバリDiglossiaという論文で提唱してから広まった。ダイグロシアという言葉そのものはファーガソンの発明ではないが、学術用語としてこれを定着させたのである。時期的にチョムスキーのSyntactic Structuresが出たころと重なっているのがおもしろい。生成文法のような派手さはなかったがダイグロシアのほうもいわゆる思想の多産性があり、60年代から90年代に至るまで相当流行した。
 事の発端はアラビア語圏、ハイチ、現代のギリシャ、ドイツ語圏スイスの言語状況である。これらの地域では書き言葉と話し言葉が著しく乖離していて、文体の差というより異なる二つの言語とみなせることにファーガソンは気づいた。書き言葉と話し言葉というより書き言語と話し言語である。アラビア語圏での書き言葉は古典アラビア語から来たフスハーで『53.アラビア語の宝石』『137.マルタの墓』でも述べたように実際に話されているアラビア語とは発音から文法から語彙からすべて違い、とても同じ言語とは言えない。ハイチでは書かれる言葉はフランス語だが、話しているのはフランス語クレオールでフランス語とは全く違う。ギリシャも実際にギリシャ人が言っているのを聞いたことがあるが、「古典ギリシャ語?ありゃあ完全に外国語だよ」。しかしその「完全に外国語」で書く伝統が長かったため今でもその外国語を放棄してすんなり口語を文章語にすることが出来ず、実際に会話に使われているバージョン、デモティキDimotiki(δημοτική)と古典ギリシャ語の系統を引く文章語カサレヴサKatharevousa(Καθαρεύουσα)を併用している。デモティキは1976年に公用語化されたが、いまだに文章語としての機能は完全に果たせていない。アラビア語と似た状態だ。なお念のため強調しておくが上でフスハーを「古典アラビア語から来た」、カサレヴサを「古典ギリシャ語の系統を引く」とまどろっこくしく書いたのは、どちらも古典語をもとにしてはいるがいろいろ改良が加えられたり変化を受けたりしていて完全に古典言語とイコールではないからである。ある意味人工的な言語で、話す言葉と著しく乖離しているという点が共通している。スイスのドイツ語も有名でドイツではたいていスイス人の発言には字幕がでる(『106.字幕の刑』参照)。話されると理解できないが書かれているのは標準ドイツ語だから下手をするとドイツ人はスイス旅行の際筆談に頼らなければならないことになる。もっともスイス人の方は標準ドイツ語が理解できるのでドイツ人が発した質問はわかる。しかしそれに対してスイス・ドイツ語で答えるのでドイツ人に通じないわけだ。最近は話す方も標準ドイツ語でできるスイス人が大半だからまさか筆談などしなくてもいいだろうが、スイス人同士の会話はさすがのドイツ人にもついていくのがキツイのではないだろうか。
 これらの言語状況をファーガソンはダイグロシアと名付けた。ダイグロシア内での二つの言語バリアントはLバリアント、Hバリアントと名付けられたがこれは本来それぞれLowと Highを意味し、Lは日常生活で口にされている言葉、Hがいわゆる文章語である。しかしLow、Highという言い回しは価値観を想起させるということで単にLバリアント、Hバリアントと起源をぼかす表現が使われるようになった。チョムスキーのD構造、S構造もそうで、本来のDeep structure、Surface structureという語は誤解を招くというワケで頭だけ取ってDとSになったのである。

ダイグロシア論争の発端となった1959年のファーガソンの論文から。ドイツ語圏スイス、アラビア語圏、ハイチ、ギリシャが例としてあげられている。
ferguson1

 ただ、この言いだしっぺ論文がトゥルベツコイのВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)にも似てどちらかというとエッセイに近い論文で、何をもってダイグロシアとなすかということがあまりきちんと定義されていなかったため、後にこの観念がいろいろ拡大解釈されたり誤解釈されたりしてダイグロシアという言葉自体がインフレーションを起こしてしまった感がある(後述)。なので話を進める前にちょっと私なりにファーガソンの言わんとした処を整理してみる。
 まず、書き言葉と話し言葉の乖離が典型的なダイグロシアだからと言って単純にHは文語、Lは口語と定義することはできない。Hバリアントが書かれることなく延々と口伝えで継承されることがあるからである。宗教などの儀式語がそうだが、誰もその言語を日常生活で使っていないから事実上母語者のいない外国語で、二次的にきちんと教えてもらわないと意味が分からない。重要なのはHとLがそれぞれどういう領域で使われているかということ自体でなく、その使用領域がkomplementäre Distribution相補分布をなしているということだ。どういうことかというと、Hが使用される場面では絶対にLが使われることがなく、逆にLを使う場面ではHは使われない。HとL,この二つが双方あって初めて一つの言語としての機能を果たすのである。例えばHが書き言葉として機能している場合、正式文書や文学などを口語で著すことがない。また日常生活では当然口語で生活し、誰も書き言葉で話したりしない。宗教儀式にHが使われている社会では、そのHを一部の人しかわからない状態で使い続け、普通にしゃべっている口語に置き換えたりは絶対しない。これがバイリンガルの言語共同体とは決定的に違う点である。バイリンガルは違う。バイリンガルでは言語Aで話して書いた後、言語Bに転換してそこでまた話したり書いたりする、つまりAもBもそれぞれ言語としての機能を全て満たしているのだ。
 この相補分布のためダイグロシアは非常に安定した言語状態で、1000年くらいは平気で持続する。それに対してバイリンガルは『154.そして誰もいなくなった』で述べたように不安定な状態でどちらかの言語が一方を駆逐してしまう危険性が常にある。さらにその相補分布のためその言語共同体内の人はHとLが実は別言語であるということに気付かない。別の言語だという感覚がないからHをLに、あるいはLをHに翻訳しようという発想が起こらない。このこともダイグロシアの安定性を強化している。
 さて、HとLの言語的関係についてはファーガソン自身は明確には述べていないが、挙げている例を見ても氏がHとLは親族関係にある言語であることが基本と考えていたことがわかる。フランス語⇔仏語クレオール、スイス・ドイツ語⇔本国ドイツ語、フスハー⇔口語アラビア語、カサレヴサ⇔デモティキと双方の言語が親戚関係にある例ばかりである。後者の二つは通時的な親戚、前者は共時的な親戚だ。この、HとLが下手に似ているというのもまた「別言語性」に気付かない要因の一つになっている。

 ここまで来れば皆思い当たるだろう。そう、言文一致以前の日本語もダイグロシア状態であったと私は思っている。本にもそう書いておいた(またまたどさくさに紛れて自己宣伝してすみません)。言文一致でそのダイグロシアが崩壊しH(文語)の機能をL(口語)が吸収した、というのが大筋だと思っているが、細かい部分でいろいろ検討すべき部分がある。
 まず口語と文語は明治になるまで本当に相補分布をなしていたのか、言い換えると日本は本当にダイグロシア状態であったのかということだ。というのは特に江戸期、さらにそれ以前にも口語で書かれた文章があったからである。江戸期の文学など登場人物の会話などモロに当時の話し言葉で表わされてそれが貴重な資料となっていることも多い。ではそれを持って文語と口語の使用領域が完全に被っていたと言えるのだろうか。私の考えはNoである。例えば会話が口語で書いてある式亭三馬や十返舎一九の作品を見てみるといい。会話部分は口語だが、地のテキストは文語である。言い換えるとそれらは口語「で」書かれていたのではなく口語「を」書いたのだ。実はこのパターンは明治時代に言文一致でドタバタしている時にも頻繁に見られる。地と会話部分のパターンは理論的に1.地が口語・会話が口語、2.地が文語・会話が文語、3、地が文語・会話が口語、4、地が口語・会話が文語の4通りが考えられるが、初期は2や3のパターンが専らで、1が登場するのは時期的にも遅く、数の上でも少ない。もちろん私の調べた文章などほんの少しだが、その少しの中でも4のパターンは皆無だった。文語と口語は機能的に同等ではない、相補分布をなしていたといっていいと私は思っている。
 次に言文一致以前の日本をダイグロシア社会と見なしているのは別に私だけではない、割といろいろな人がそう言っているのだが、海外の研究者に「中国語と日本語のダイグロシア状態であった」と言っている人を見かけたことがある。全く系統の違う2言語によるダイグロシアという見解自体はファーガソン以後広く認められるようになったので(下記参照)いいのだが、日本の言語社会を「中国語とのダイグロシア」などと言い出すのは文字に引っ張られた誤解と言わざるを得ない。漢文が日本では日本語で読まれている、つまり漢文は日本語であるという事実を知らなかったか理解できなかったのかもしれない。山青花欲然 は「やまあおくしてはなもえんとほっす」である。誰もshān・qīng・huā・yù・ránとか「さんせいかよくぜん」などとは読まない。日本をダイグロシアというのなら現在のフスハー対アラビア語に似て、あくまでに文語と文語の対立である。
 さて、上でも述べたがHの特徴の一つに「人工性」というのがある。二次的に構築された言語、当該言語共同体内でそれを母語としてしゃべっている人がいないいわば架空の言語なのだ。もちろん人工と言ってもいわゆる人工言語(『92.君子エスペラントに近寄らず』参照)というのとは全く違い、あくまで自然言語を二次的に加工したものである。母語者がいないというのも当該言語共同体内での話であって、ドイツ語標準語は隣国ドイツでは皆(でもないが)母語としてしゃべっているし、日本語の文語だって当時は実際に話されていた形をもとにしている。この人工性は「規範性」と分かちがたく結びついていて、ダイグロシアを崩壊させるにはLがこの架空性や特に「規範性」をも担えるようにならなければいけない。これが実は言文一致のまさにネックで、運動推進者の当事者までがよく言っているように具体性の強い口語を単に書いただけ、「話すままに書いただけ」ではそういう機能を得ることができない。Lの構造の枠内でそういう(書き言葉っぽい)文体や規範を設けないといけないのだ。相当キツイ作業である。そもそも「構造の枠内で」と言うが、まずその構造を分析して文法を制定したり語彙をある程度法典化しなければいけない。CodifyされているのはHだけだからである。
 書き言葉的言い回し、日本語では特に書き言葉的な終止形を何もないところから作り出すわけには行かない。そんなことをしたら「Lの構造の枠内」ではなくなってしまうからである。法典化されないままそこここに存在していたLの言い回しの中から適当なものを選び出すしかない。ロシア語の口語を文学言語に格上げしたプーシキンもいろいろなロシア語の方言的言い回し、文法表現、語彙などを選び出してそれを磨き上げたし、日本の言文一致でもそれをやった。例えば口語の書き言葉的語尾「~である」であるが(ダジャレを言ったつもりはない)、~であるという言い方自体は既に江戸時代から存在していた。オランダ語辞典ドゥーフ・ハルマでオランダ語の例文を訳すのに使われている。他の口語語尾「です」「だ」は江戸文学の会話部分で頻繁に現れる。これらの表現に新しい機能を持たせ、新しい使用領域を定めていわば文章語に格上げする、言い換えるとL言語の体系内での機能構成を再構築するわけで、よく言われているように、単に話すように書けばいいというものではない。
 面白いことに口語による文章語構築には二葉亭四迷のロシア語からの翻訳は大きな貢献をしたし、文語でなく「である」という文末形を使い、さらに時々長崎方言なども駆使して、後に口語が文章語になり得るきっかけを開いたドゥーフ・ハルマも通時たちによるオランダ語からの翻訳である。どちらも外国語との接触が一枚絡んでいる。さらに馬場辰猪による最初の口語文法は英語で書いてあった。まあ外国人向けだったから英語で書いたのだろうが、文法書のような硬い学術文体は19世紀中葉の当時はまだ口語では書けなかったのではないだろうか。だからと言ってじゃあ文語でというのも言文一致の立場が許さない。外国語で書くのが実は一番楽だったのかもしれない。

 話をファーガソンに戻すが、この論文のあと、ジョシュア・フィッシュマンJoshua A. Fishmanなどがダイグロシアの観念を、全く系統の違う2言語を使う言語共同体にも応用した。例えばボリビアのスペイン語・グアラニ語がダイグロシアをなしているという。さらに社会言語学者のハインツ・クロスHeinz Klossは系統の同じ言語によるダイグロシアを「内ダイグロシア」、系統の異なる言語によるダイグロシア(スペイン語・グアラニ語など)を「外ダイグロシア」と名付けた(『137.マルタの墓』参照)。
 もう一人ボリス・ウスペンスキーБорис А. Успенскийというロシア語学者が横っちょから出てきて(失礼)、HとLとの関係はバイリンガルでのような等価対立äquipolente Oppositionではなくて欠如的対立privative Oppositionとし(『128.敵の敵は友だちか』参照)、Hを有標、Lを無標バリアントとした。ウスペンスキーはプーシキン以前、古い時代のロシア語の言語共同体がロシア語(東スラブ語)と教会スラブ語(南スラブ語)のダイグロシアであったと主張したのだが、その際双方の言語の「欠如的対立性」を主張している。いかにもトゥルベツコイからヤコブソンにかけてのロシアの構造主義の香りがして面白い。またウスペンスキーはファーガソンの考えをむしろ忠実に踏襲し、あまり理論枠を広げたりはしていない。ただ氏の「ロシア語・教会スラブ語ダイグロシア説」にはいろいろ批判もあるようだ。

ウスペンスキーの著書(のコピー)。ダイグロシアを有標のH、無標のLによる欠如的対立と見なしている。黄色いマーカーは当時私が引いたもの。
uspensky


 考えてみれば中世以前のヨーロッパもラテン語と各地の言語とのダイグロシア、少なくともそれに近い状態だったのではないだろうか。特にスペイン以外のロマンス語圏では「内ダイグロシア」だったろう(スペインを除外したのは当地では中世以前はフスハーも書き言語だったはずだからである。そうなると「外ダイグロシア」だ)。その後各々の民族言語が法典化され文法も整備されてラテン語は書き言語としての機能をそれらに譲ってしまった上、元々母語者のいない言語で普通の会話には用いられていなかったから現在ラテン語を読み書き(「書き」のほうは完全に稀)できるのは、単位とりに汲々としている高校生か、仕事でラテン語が必要な人たちだけだろう。そういえばちょっとダイグロシアから話はズレるが、昔テレビで『コンバット』というシリーズがあった。そこでこういうシーンがあった。米兵がヨーロッパでフランス人だったかドイツ人だったか(フランス人とドイツ人では立場が全然違うじゃないか。どっちなんだ)を捕虜にしたが、米兵はドイツ語もフランス語もできない、捕虜の方は英語ができない。困っていたがそのうち米兵の一人が捕虜と会話を始め、そばに立っていた米兵の一人が「なんだなんだ、こりゃ何語だ?!」と驚いたのを見て、もう一人の米軍兵士がボソッと「ラテン語だ」とその米兵に教えてやっていた。話しかけた米兵も捕虜も神学を勉強していたのである。ラテン語、少なくともそれがラテン語であると知っていた兵士の顔に浮かんだ尊敬の念と、ラテン語の何たるかさえ知らない兵士の無教養そうな表情が対照的だったので覚えている。H言語独特の高尚感がよく現れている。この「高尚性」もHの特徴としてファーガソンは重視している。

 再び話を戻して、とにかく論文の中でダイグロシアという用語を持ち出せば専門的なアプローチっぽくなった感があるが(私もやってしまいました)、私が追った限りでは「この言語社会はダイグロシアと言えるか言えないか」という部分に議論のエネルギーの相当部が行ってしまっていたようだ。あるいは当該言語共同体がどのようなダイグロシアになっているか描写する。しかし上述のようにダイグロシアという観念自体があまり明確に定義されておらず、各自拡大解釈が可能なのだから、「この言語共同体はダイグロシアである」と結論してみたところであまり新しい発見はないのではないだろうか。下手をするとダイグロシアでない言語社会の方が珍しいことにもなりかねないからだ。もっともバイリンガルとの明確な違いなどもあるので、ダイグロシアという用語自体を放棄することはできまい。
 だんだん議論が白熱、あるいは議論の収集が着かなくなってきたのでファーガソン本人が1991年にまたDiglossia revisitedという論文を発表して用語や観念の再考を促した。

ファーガソンの第二弾の論文のコピーもいまだに持っている。
ferguson2

 実は私はダイグロシアで一番スリルがあるのはその崩壊過程だと思っている。長い間安定し持続してきたダイグロシアが崩壊するきっかけは何か?外国語との接触自体は崩壊の直接のきっかけにはならない。他に政治的、歴史的な要因も大きい。そしてダイグロシアは一旦崩壊し始めると一気に行く。何百年も続いてきた日本のダイグロシアは明治のたかが数十年の間に崩壊してしまった。それ以前、江戸の文学など私は活字にしてもらっても(変体仮名、合略仮名など論外)読みづらくて全然楽しめない。それが明治時代から文学が突然読めるようになる。ロシアでも「プーシキンから突然文学が読めるようになる」と誰かが言っていたのを見たことがある。そのプーシキン以後、例えばトゥルゲーネフなどの原語のほうが十返舎一九なんかより私はよっぽどよくわかる。隣でドイツ人が17世紀の古典文学なんかを「ちょっと古臭いドイツ語だな。綴りも変だし」とか文句をいいつつもスコンスコン読んでいるのとはエライ違いだ。日本人が普通にスコンスコン読めるのはやはり20世紀初頭の文学からではないだろうか。

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