アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Oktober 2019

 ある意味ではマカロニウエスタンの元の元の大元は黒澤映画、つまり日本の侍映画である。だがこれを模倣してジャンルを確立したセルジオ・レオーネの作品自体からはストーリー以外には特に日本映画の影響は感じ取れない。言い換えるとジャンルを作り出したのはあくまでレオーネの業績で、実際後続のマカロニウエスタンの作品から見て取れるのは顔の極度のアップとか長いカットなどレオーネのスタイルの影響である。
 しかし一方で『荒野の用心棒』の原作が黒沢の『用心棒』であることは皆わかっていたわけだし、『羅生門』がベネチアでグランプリをとるなど日本映画が当時のイタリア映画界には知られていたということで日本映画・東洋映画が完全に無視もされていなかったようだ。レオーネの第二作『夕陽のガンマン』に中国人が出てくるのは私には作品をパクリ扱いされて(まあ実際そうなのだが)裁判まで起こされたレオーネが「あっそ。じゃあ日本の侍ではなくて中国人ならいいだろ」とある種の皮肉を込めて登場させたような気がしてならないのだが(考えすぎ)、その他に東洋人が出てくるマカロニウエスタンは結構ある。セルジオ・ソリーマの『血斗のジャンゴ』(何度も言うが、Faccia a facciaというタイトルのまじめなこの映画にこんな邦題つけやがった奴は前に出ろ!)にも東洋人の女性が出てくる。1969年にもドン・テイラーとイタロ・ツィンガレッリ監督の『5人の軍隊』Un esercito di 5 uominiというマカロニウエスタンに丹波哲郎がズバリサムライ役で出演しているが、それよりトニーノ・チェルヴィの『野獣暁に死す』のほうが有名なのではないだろうか。黒沢の『用心棒』に出ていた仲代達也を準主役に起用している。もっとも起用はしているが日本人役ではなく、民族不明な設定で名前もジェームス・エルフィーゴという、アメリカ人のつもりなのかメキシコ人ということなのかそれとも先住民系なのかよくわからないが、とにかく完全に向こう風である。仲代氏は俗に言うソース顔で容貌がちょっと日本人の平均からは離れているからまあメキシコ人ということにもできたのかもしれない。稲葉義男やビートたけしでは無理だったのではなかろうか(ごめんなさい)。氏を素直に日本人という設定にしなかったのはマカロニウエスタンに日本人が出てきたりするとストーリー上無理がありすぎたからだろう。あの時代のアメリカに早々日本人がいるわけがないからだ(だからテレンス・ヤングの『レッド・サン』など私は違和感しか感じなかった)。まあその無理を丹波の『5人の軍隊』ではやってしまっているが、『野獣暁に死す』にしてもチェルヴィは「サムライ」は意識していたようでエルフィーゴがマチェットをぶん回すシーンでのマチェットの構え方が完全に日本刀だった。私はこれを見たとき「これじゃまるで日本人だ。全然「エルフィーゴ」という感じがしない。どうして監督はこんな構え方を直さなかったんだろう」と思ったのだが、実はトニーノ・チェルヴィ監督がサムライを意識して特に日本刀みたいにやらせたのだそうだ。そういわれてみるとそのストーリー、主人公が目的のために名うてのガンマンの人集めをしていくという部分に『七人の侍』との共通性が感じられないこともない。

マチェットを構えるジェームス・エルフィーゴこと仲代達也。構え方がどう見ても日本刀。

Nakadai2nakadai3

 さて、この『野獣暁に死す』は制作年が1967年、劇場公開日が1968年3月28日で意外にも『殺しが静かにやって来る』の前である。後者は制作が1968年、公開が同年11月19日だ。「意外にも」と書いたのは、前にもちょっと書いたように(『78.「体系」とは何か』参照)主人公や脇役の容貌などに『殺しが静かにやって来る』を想起させるものが多く、私は最初前者が後者をパクったのかと思ったからだ。作品や監督の有名度から言ったら『殺しが静かにやって来る』のほうがずっと上だったせいもある。まあジャンルファンに限って言えば「セルジオ・コルブッチの名を知らない者はない」と言ってもいいだろう。「マカロニウエスタンが好きです。でもコルブッチって誰ですか?」と言っている人がいたらその人はモグリである。それに対して『野獣暁に死す』を撮ったトニーノ・チェルヴィは西部劇はこれ一本しかとっていないし、活動分野もむしろプロデュース業の方で監督は副業だったから知名度もあまり高くない。1959年にはコルブッチの映画の制作もしているし、その後1962年にフェリーニ、デ・シーカ、ヴィスコンティ、モニチェリで共同監督した『ボッカチオ70』(カルロ・ポンティと共同制作)、1964年にもアントニオーニの『赤い砂漠』などの大物映画を手掛けてはいるがそもそもプロデューサーの名というのははあまり外には出て来ない。「チェルヴィって誰ですか?」と聞いても別にモグリ扱いはされるまい。
 さてその『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』だが、比べてみるとまずそれぞれブレット・ハルゼイとジャン・ルイ・トランティニャン演じる主人公たちがどちらもちょっとメランコリックな顔つきで黒装束で雰囲気がそっくりだ。

左が『野獣暁に死す』のブレット・ハルゼイ、右が『殺しが静かにやって来る』のジャン・ルイ・トランティニャン
halsey1silence6

このハルゼイという俳優は一度TVシリーズの『刑事コロンボ』でも見かけたことがある。1975年のDeath Lends a Hand『指輪の爪あと』という話で、レイ・ミランドも出ていた。ちょっと繊細な雰囲気で割と女性にウケそうなルックスだ。
 主人公ばかりではない、『殺しが静かにやって来る』でクラウス・キンスキーが演じた敵役と『野獣暁に死す』のフランシス・モランことウィリアム・ベルガーがどちらも金髪で共通だ。『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』で『血斗のジャンゴ』のベルガーと『殺しが静かにやって来る』のキンスキーが顔の作りそのものは全く違うのに似た雰囲気だと書いたが『野獣暁に死す』のベルガーを見ていると実はこの二人は顔も意外に似ているようだ。少なくとも双方ちょっと角ばった顎をしていて、顔の輪郭が同じである。

左が『野獣暁に死す』のウィリアム・ベルガー、右が『殺しが静かにやって来る』のクラウス・キンスキー
berger3kinsky1

ということで、最初チェルヴィが『殺しが静かにやって来る』からパクったのかと思っていたら実は前者の方が先に制作されたと知って驚いた。『血斗のジャンゴ』と『殺しが静かにやって来る』を比べたりするときもうっかりすると前者が後者から引用したようにとってしまいかねないが、これも後者の方が制作が後である。それではハルゼイの演じた人物の原型はどこから来たのかというと、やはり『続・荒野の用心棒』のジャンゴ以外にはなかろう(再び『78.「体系」とは何か』参照)。黒装束でどこかメランコリックという、以降の何十何百ものマカロニウエスタンの主人公の原型となったキャラクターである。その意味ではレオーネよりコルブッチのほうが影響力が強烈だったといえるのではないだろうか。つまり『殺しが静かにやって来る』→『野獣暁に死す』という流れではなくて『続・荒野の用心棒』→『野獣暁に死す』、『続・荒野の用心棒』→『殺しが静かにやって来る』という二つの流れがあって『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』の主人公のキャラクターが似ているのは間接的なつながりに過ぎないということか。『続・荒野の用心棒』と『殺しが静かにやって来る』はどちらもセルジオ・コルブッチが監督だから自己引用というかリサイクルというか、とにかく「パクリ」ではない。
 
上段左が『野獣暁に死す』のハルゼイ、右が『殺しが静かにやって来る』のトランティニャン、下段が元祖『続・荒野の用心棒』のフランコ・ネロ
halsey3silence2




django5

 上でも述べたようにチェルヴィは本来制作畑の人らしいが、この映画は危なげなく出来上がっていると思う。プログラムピクチャーの域は出ていないがこのジャンルの平均水準(レオーネやソリーマは平均的マカロニウエスタンなどではない。上の上の部類である)を明らかに超えている。脚本にダリオ・アルジェントを持ってきたせいか、ラストの森の中のシーンなどはちょっと背筋の体温が下がりそうな、ある種怪しい美しさがあるほどだ。現にいまだに新しくDVDが出たりしている。買う人がいるからだろう。
 この作品にとって不幸だったのは、バッド・スペンサーが出演していたことだ。誰が見てもちょっと陰気な復讐映画なのに、コメディ映画・ギャグ映画として紹介されてしまったからである。特にドイツでの偏向宣伝ぶりがひどい。バッド・スペンサーがテレンス・ヒルと組んでドタバタコメディを量産し始めたのはこの後のことで、『野獣暁に死す』の製作当時はスペンサーはまだ普通の役でマカロニウエスタンに出ていた。この映画でもスペンサーはあくまで頼りになるガンマン役である。ラスト近くには仲代に撃たれた挙句マチェットで切りつけられて大怪我をするしごくまじめで大変な役で、ハルゼイのメランコリックぶりといい、ベルガーの陰気さといい、とにかく笑えるシーンなど一つもない。それなのにスペンサーが出ているというだけで、劇場公開当時はきちんと「今日は俺、明日はお前」Heute ich… morgen Du!という復讐劇を想起するまともなタイトルであったのが、その後「このデブ、ブレーキが利かないぞ」Der Dicke ist nicht zu bremsenという誹謗中傷もののタイトルに変更され、スペンサーのドタバタ西部劇として売り出されたのである。カバーの絵もハルゼイや仲代は完全に無視されてスペンサーが大口を開けて笑っているものだ。ここまで不自然な歪曲も珍しい。笑うつもりでこのDVDを買って強姦シーンやアルジェント的な首つりシーンを見せられ、騙されたと感じた客から抗議でもあったのか最新のDVDには「なんとあのスペンサーがまじめな役!」という注意喚起的な謳い文句がつけてある。そんな後出しをするくらいなら始めからタイトル変更などせず、スペンサーの名も絵も前面に出さずに、ハルゼイと仲代の暗そうな顔でも使えばよかったのだ。さらに上記の『5人の軍隊』のほうもスペンサーが出ていたため、後にタイトルが歪曲されてDicker, lass die Fetzen fliegen「おいデブ、コテンパンにのしてやれ」となっている。面白いことに(面白くないが)『5人の軍隊』も脚本がアルジェントだ。この調子だと仮に『殺しが静かにやって来る』でフランク・ヴォルフがやった保安官役をスペンサーがやっていたらこれもドタバタコメディ扱いされていたに違いない。そりゃ完全に詐欺であろう。でもそういえば『殺しが静かにやってくる』には見たとたんに全身脱力症に襲われて二度と立ち上がれなくなるハッピーエンドバージョンがあるが、あれなら確かにスペンサーが保安官の方が合っていたかもしれない。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 琥珀のことをドイツ語で Bernstein というが、この Bern- は本来 brenn-つまり現代標準ドイツ語のbrennen 「燃える」、言い換えると Bernstein の本来の形は Brennstein「燃える石」だ。古高ドイツ語では実際にそう呼んでいた。この brennen という動詞は元々は二つの違った動詞であったのが新高ドイツ語期になって合体してひとつになったものだそうだ:その一つは「燃える」という強変化の自動詞で8世紀の古高ドイツ語、ゴート語で brinnan、古ノルド語で  brinna、中高ドイツ語で brinnen、もう一つは「燃やす」という弱変化の他動詞で古高ドイツ語、中高ドイツ語で brennen、古ノルド語で brenna、ゴート語で gabrannjan といった。ところがそのうち中期低地ドイツ語、中期オランダ語にbernen(自動詞・他動詞共)、古期英語に beornan(自動詞)、 bœrnan(他動詞)(この二つは後に burn という一つの動詞に融合した)という形が現れた。それで13世紀の中期低地ドイツ語では琥珀を bernestēn。barnstēn、börnstēn などと言っていた。現在の Bernstein はこれらの低地ドイツ語形が新高ドイツ語に取り入れられて18世紀に定着したものだ。
 この二つを比べると(英語も含めた)低地ドイツ語と高地ドイツ語では母音と子音 r の順番がひっくり返っているのがわかるが、こういった現象を「音位転換」Metathese といい、いろいろな言語で極めて頻繁に観察される現象である。日本語にもある。例えば「新しい」は本来「あらたし」であったのが、r と t の位置が転換してそのまま固定してしまった。言い間違えで音韻転換してしまうこともよくある。一度「かいつぶり」を「かいつびる」と言った子供を見たが、これも u と i のメタテーゼだ。

 「琥珀」の Brennstein→Bernsteinで見られるような母音と流音の音位転換を特にLiquidametathese(liquid metathesis)「流音音位転換」(発音しにくい言葉だなあ)というが、スラブ語がこれで有名なので liquid metathesis という本来一般的な言葉が「スラブ語流音音位転換 」Slavic liquid metathesis の意味で使われることがある。スラブ祖語では母音+流音であったのが南スラブ諸語では流音+母音と順序が逆転し(つまり音位転換を起こし)、東スラブ諸語では「充音現象」 полногласие (『56.背水の陣』参照)として現れる音韻変化で、ロシア語学習者は以下の呪文のような図式を覚えさせられる。
Tabelle1-145
Tというのは「任意の子音」という意味。だから TorTは「子音 - o - r - 子音」という音韻連続の図式化である。スラブ祖語で子音 - 母音 o - 流音(r または l)という順番だったのが南スラブ語では子音 - 流音 - 母音と音位転換を起こし、しかも母音が o から a に代わっているのがわかる(太字部)。ロシア語ではここが母音が添加された полногласиеとなっている。母音が e の場合も基本的に南スラブ語は音位転換、東スラブ語は充音というパターンだが、南スラブ語では祖語の e が ije と e の2通りある。これが『15.衝撃のタイトル』で述べたセルビア語・クロアチア語の je-方言、e-方言の違いである(太字に下線)。ブルガリア語も e だ。また東スラブ語では祖語の e が o となり、流音 l での両母音の区別が失われている。これだけでは抽象的すぎるので例をあげよう。
Tabelle2-145
BSKというのはブルガリア語、セルビア語、クロアチア語のことだ。*gordъ の意味が括弧にいれてあるのはこの語が各言語で意味の分化を起こしているからで、クロアチア語の grad、ロシア語の гóрод は「町」、西スラブ語の両言語、それぞれ gród と hrad は「城塞」、ウクライナ語の горóд は「庭」だが元の言葉は一つで「柵で囲まれたところ」という意味だった。さらにウクライナ語の г はロシア語と違って閉鎖音ではなく摩擦音である。ベラルーシ語でもそうだが(『33.サインはV』参照)実際に聞くと h に聞こえることがあり、チェコ語と対応している。*bergъについては南スラブ語だけ他と意味が違っていて(下線部)「丘」となる。
 実は南スラブ語にはBSKの他にも、というよりBSKよりも大物の言語が属している。古教会スラブ語である。『56.背水の陣』にも書いたが、ロシアではこの古教会スラブ語が最初の、そして17世紀から18世紀にかけてロシア語の文章語が成立するまで事実上唯一の文章語だった。10世紀にキリスト教とともに教会スラブ語が伝わってからずっとこれで書いている間にジワジワ土着のロシア語要素が文章語の中に浸入していたのだが、タタールのくびきから解放されて当時のスラブ文化の中心地であった南とのつながりが再開し、セルビア・ブルガリアから再び人や文化が押し寄せたため南スラブ語からの第二の波をかぶった。だからロシア語には今でも南スラブ的要素が目立つ。同じ単語の語形変化や派生語のパターン内で、東スラブ語と南スラブ語系の形が交代する場合が多いほかに、スラブ祖語では一つの単語であった東スラブ語形と南スラブ語形のものがダブって2語になっていることがある。さらに両単語が微妙に意味の細分化を起こしている。上述の記事でもいくつか例を挙げておいたがその他にも次のような例がある。とにかくロシア語ではこういう例が探すとゴロゴロ出てくる。それぞれ*で表してあるのが祖語形、上が東スラブ語(充音を起こしている)、下が南スラブ語(音位転換がみられる)である。

*vold-
волость 領地 行政区
власть (国家)権力

*norvъ 
норов 習慣(古)、頑固さ(口語)
нрав 気質、習慣
(この2語については『24.ベレンコ中尉亡命事件』も参照)

*storn-
сторона 方角、わき、国・地方(口語)
страна 国、地方

*chormъ
хоромы 木造の家(方言または古語)、大きな家(口語)
храм 神殿、殿堂

『56.背水の陣』で述べた「南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする」という基本路線が踏襲されていることがわかるだろう。これらは意味が分化したまさにそのために東南双方の語が生き残った例だが、意味の違いが十分でなかったせいで一方が消えてしまったのもある。例えば「若い」は今は東形の молодой しか使われないがちょっと前まではこれと並行した南系の младой という形があった(祖語形は *mold-)。意味的には違わなくとも後者には文語的で高級なニュアンスがあったそうだが衰退した。もっとも原級形では消えたが最上級では南スラブ語系の младший が生き残っている。文法的に高度な要素になると南スラブ語要素の割合が高くなるのが面白い。その「ニュアンスの差」さえないとやはり一方が完全消滅してしまうようだ。例えば11世紀前半ごろからノヴゴロドやキエフで書き始められた年代記には власъ(< *vols-)、 врата(< *volta)という形が見られる。今のволос(「髪」)、ворота(「門」)だが、現在ではこれらの南スラブ語形は跡形もない。また град という、今のロシア語では合成語や派生語にしか見られない(これも前項参照)形、これがネストルの『過ぎし年月の物語』のラヴレンチ―写本では「町」という単独の語として使われている。そこではград と対応する東スラブ語形 город とが併用されているが、Gerta Hüttel-Folter という学者によるとград はコンスタンチノープルなどビザンチンの都市を、 город はロシアの町を表していることが多いそうだ。他にも微妙なニュアンスの差などがあったらしい。なお、非常に余計なお世話だが Hüttel-Folter 氏の名前、Gerta は Greta(グレタ)が音位転換したものではない。Gerta は本来 Gerda で、比較的最近ノルマン語の女性名 Gerðr から借用されたものだが、Greta のほうは Margareta(英語のMargaret)の前綴りと g の後の母音が消失してできた形である。さらに前者は Gertrud ゲルトルートなどの名前に含まれる形態素 Gerd-とは関係がなく、ゲルトルートのゲルは古高ドイツ語の gēr(「槍」)が起源だそうだ。形がちょっと似ているからと言ってすぐ他とくっつけるのは危険である。

『過ぎし年月の物語』では南スラブ語系のград(点線)と東スラブ語系の  город (実線)が並行して使われている。
Hüttel-Folter, Gerta. 1983.Die trat/torot-Lexeme in den altrussischen Chroniken. Wien: p.142から

grad-gorod-Fertig

 さて話題を本来の琥珀に戻すが、ロシア語では янтарь という。古いロシア語では ентарь だがこの語の起原がいろいろと謎だ。その点について泉井久之助氏が面白い指摘をしている。まず ентарь は昔からロシア語にあった言葉ではありえない。なぜならそうだとすれば古ロシア語では ен の部分が鼻母音の ę [ɛ̃] だったはずで、それなら現在では鼻母音がさらに口母音となり(『38.トム・プライスの死』参照)、ятарь という形をしていなければいけない。現に印欧祖語の *pénkʷe (「5」)はスラブ祖語で*pętь、古教会スラブ語で пѧть (pętĭ)、現在のロシア語で пять になっている。実際 ентарь という語は古教会スラブ語のテキストには出てこないそうだ。10世紀以降の借用語という可能性が高いと氏は述べている。別の資料にはそのころは「琥珀」を表すのに古典ギリシャ語の ἤλεκτρον(「琥珀」)から持ってきた илектр または илектрон という言葉を使っていたとある。ентарь が入って илектр を駆逐したのはそのさらに後のはず。資料によると ентарьが文献に登場したのはやっと1551年になってからだ。
 問題はこの語をどこから持ってきたのかということだが、ロシア語語源事典などにはリトアニア語のgintãras(ラトビア語では dzĩtars)からの借用とある。泉井氏によればこの gint-ãr-as は印欧祖語の *gʷet-  または *gʷn̩-(「樹脂」)という語幹から理論的に全く問題なく導き出すことができる、語根だけでなく、-ãr、-as などの形態素も印欧祖語からの派生とみなせるそうだ。しかしリトアニア語で gint-ãr-as と、アクセントが第二音節に移動しているのが引っかかる(私ではなく泉井氏に引っかかるのだ。私はいい加減だからそのくらいは妥協する)。というのはリトアニア語などバルト諸語はゲルマン諸語と同様アクセントが第一音節に落ちるのが基本だからだ。事実ラトビア語の dzĩtarsではそうなっている。アクセントが後方に移動するのはまさにロシア語の特徴だから(これも『56.背水の陣』参照)アクセントに限ってはリトアニア語がロシア語から借用したと考えたほうが都合がいいのだが、上述の通りロシア語の янтáрь は素直に印欧祖語から形を導けない。そのイレギュラーなロシア語から借用したのにリトアニア語では理論上印欧語のレギュラー形になっているわけで、これではまるで一度死んだのに墓から復活した吸血鬼である。ロシア語→リトアニア語という方向の借用は可能性が薄い。
 もっともリトアニア語 gint-ãr-as →ロシア語 ентáрь という方向についても、なぜロシア語で語頭の子音が消えているのか、もし gint-ãr-asを借用したのなら жентарь とか гентарь とか語頭に子音がついたはずではないか、気になることはなる。なるはなるが、まあ別に бентарьとか лентарь とか突拍子もない子音がくっ付いてきたわけでもなし、g や dž が j になることくらいはありそうな感じだからスルーすることにした。泉井氏はこの子音消失を随分気にされていたが。とにかくいったんロシア語に入ってしまってからは話が楽でそこからさらに他のスラブ諸語に広まった。ウクライナ語の янта́р、チェコ語の jantar、セルビア語・クロアチア語の jȁntȃr、スロベニア語の jȃntar はロシア語からの借用である。
 
 また gint-ãr-as は実は印欧語起原でなく、リトアニア語がヨソから(もちろんロシア語は除外)取り入れた言葉だという解釈もあるらしく、gint-ãr-as はフェニキア語の jainitar(「海の樹脂」)から来たという記述を見かけた。しかし正直これは都市伝説(違)としか思えない。フェニキア語はすでに紀元前一世紀には死語になっていたのだからリトアニア語が直接フェニキア語から取り入れたはずはなく、別の言語を仲介したのでなければいけない。つまりこの語は元のフェニキア語が滅んでから千年間も別の言語に居候した後やっとリトアニア語にやってきたということになる。ではその居候先はどこなのか。私にはラテン語、古代ギリシャ語、大陸ケルト語しか思いつかないのだが、ギリシャ語とラテン語は琥珀を表すのに別の単語を使っていたから(それぞれ上述の ἤλεκτρον とゲルマン語から借用した glēsum)除外すると残るは大陸ケルト語ということになる。大陸ケルト語は言語資料が非常に乏しいはずだが、「琥珀」という語の記録でもあったのか?とにかくフェニキア語説はミッシング・リンクがデカすぎるのではなかろうか。

 英語で「琥珀」は amber だが、これは中期フランス語を通して入ってきた言葉でイタリア語、スペイン語などもこれを使っている。もともとはアラビア語、そのさらに元はペルシャ語だそうだ。「琥珀」でなく「竜涎香」という意味だったそうだ。
 面白いのはハンガリー語の琥珀で borostyán といい、ドイツ語 Bernstein からの借用であるがその際ちゃっかり東スラブ語のような充音現象をおこし T-er-T が T-oro-T になっている。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ