マカロニウエスタンにはいわばシリーズとなったキャラクターがいくつかある。複数の作品で複数の俳優によって演じられた主役キャラで、『52.ジャンゴという名前』で述べた「ジャンゴ」が最も有名だ。1966年に『続・荒野の用心棒』でフランコ・ネロが演じてバカ受けしその後何十もの「ジャンゴ映画」が製作された。ジャンゴほどではないが、他にサバタ、サルタナというキャラクターも繰り返し登場する。後者のサルタナというキャラクターを普及させたのはジャンニ・ガルコという俳優で1966年のMille dollari sul nero(ドイツ語タイトルSartana、日本語タイトル『砂塵に血を吐け』)が第一作。ガルコは当時ジョン・ガルコと名乗っていた。氏はさらに時々ゲイリー・ハドソンGary Hudsonという芸名も使っている。
 Mille dollari sul neroでのサルタナという名前のキャラクターはむしろ(というより完全に)悪役だったが、この作品が特にドイツで当たって上述のようにタイトルもズバリSartana「サルタナ」となったのを受けて、その後もサルタナの名前をタイトルに使ったジャンニ・ガルコ主演の映画が4本作られた。ガルコ自身がキャラクター設定に関与し監督ジャンフランコ・パロリーニにも提案して、薄汚いカウボーイタイプではなくエレガントで気取った賭博者タイプ、いつも真っ白いシャツを着ているオシャレなタイプのガンマン路線で行くことになったそうだ。さらにガルコは以後の映画出演では契約書にいつも条件をつけて、主人公のキャラクターがこの基本路線に合致しない場合は映画のタイトルにサルタナという名前を出さないことにさせた。ところが1970年に来た「サルタナ映画」のオファーの脚本を見たところ、サルタナという名の役のキャラ設定が全然基本に合致していない。すでに時間が迫っていて脚本の修正も不可能だった。そこでガルコはオファーは受けたが、映画のタイトルにサルタナの名前は使わせなかった。それがUn par de asesinosという作品である。しかしドイツ語のタイトルは… und Santana tötet sie alle「そしてサタナが全員殺す」とちゃっかりサルタナを想起させるようになってしまっているばかりか、本国イタリアでも再上映の際タイトルが変更されてLo irritarono... e Santana fece piazza pulitaにされた。英語タイトルなどモロSartana kills them allである。しかしこの作品はサルタナ映画としては非公認である。
 そういうわけでガルコがサルタナ(あるいは紛らわしいサンタナ)という名の主人公を演じている映画は実は全部で6本あるのだが、最初のMille dollari sul neroではまたキャラクターが完全に確立していなかったし、Un par de asesinosではキャラが基本路線から外れているということで除外され、…Se incontri Sartana prega per la tua morte(1968、ドイツ語タイトルSartana – Bete um Deinen Tod「お前の死を祈れ」)、Sono Sartana, il vostro becchino(1969、ドイツ語タイトルSartana – Töten war sein täglich Brot「サルタナ;殺しは日々の糧」)、Una nuvola di polvere… un grido di morte… arriva Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana kommt…「サルタナがやって来る」、日本語タイトル『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』)、Buon funerale amigos… paga Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana – noch warm und schon Sand drauf「(体は)まだ暖かいのにすでに砂まみれ」)の4本だけが「ガルコ公認サルタナ映画」である。それにしても皆すさまじいタイトルだ。ちょっと調べたところこれらは日本では劇場未公開である。最初の公認サルタナ映画…Se incontri Sartana prega per la tua morteにはウィリアム・ベルガーが共演しているが、そういえばベルガーも後に『野獣暁に死す』で、人を殺した後服装の乱れを気にするというタイプの気取り屋タイプの殺し屋を演じていた。サルタナ路線を引き継いだのかもしれない。また、本家ガルコのサルタナ映画はこの6本(あるいは4本)しかないが、ガルコ以外の俳優、例えばジョージ・ヒルトンなどもサルタナというキャラを演じている。フランコ・ネロ以外もジャンゴをやっているのと同じことだ。逆にガルコのほうもサルタナ以外の西部劇にも出ていて、氏が出演したマカロニウエスタンは14作品ある。

 氏はフランコ・ネロとロバート・レッドフォードを足して二で割ったのをちょっとゴツくしたような好男子であるが、一度インタビューでマカロニウエスタン誕生の瞬間に立ち会った様子を語っている。

 1964年、セルジオ・レオーネがスペインのアルメリアで『荒野の用心棒』を撮っていたとき、ガルコもちょうどマルチェロ・バルディ監督のSaul e Davidという聖書映画に出演していたためそこにいた。「イスラエルのように見える景色」ということでアルメリアがロケ地として選ばれたそうだ。あるときホテルで、ちょうど撮影から宿に戻ってきてバーのカウンターに腰を掛けていた男に会ったが、それがどこかで見たような顔だった。誰かがあれはセルジオ・レオーネで、今彼の第一作目の映画を撮っているんだと教えてくれた。そこでその男の隣に坐って、どんな映画を撮っているのか聞いてみたら、レオーネが言うには、ジャン・マリア・ヴォロンテが悪役をやるちょっとした西部劇だ、とのことだった。そして雑談となり、いろいろ話をしていたら突然背の高い痩せた男が入って来たではないか。これが主役さ、アメリカ人でクリント・イーストウッドというんだ、とレオーネは言った。
 翌日自分の方のプロデューサーにその話をして、レオーネの撮っているのはどんな映画か聞いてみたら、プロデューサー曰く、「ちょっとした西部劇だが、ほとんど無予算でね。爆破のシーンがあるというんで工面してやらないといけなかった。レオーネ自身はその金がなかったんでね」。レオーネが極度の予算不足にあえいでいたのは、そのプロデューサーがケチ、というより約束した予算の支払いさえ滞りがちだったからだそうだ。ガルコのプロデューサーのほうはたんまり予算を貰っていたのである。
 ガルコは自分の映画が終わるとイタリアに帰ってミラノで舞台で仕事をしていたが(この人は元々舞台出身である)。『荒野の用心棒』の大当たりを目の当たりにした。映画館で見たそうだ。比べて予算のタップリあった自分の映画は全然ヒットしなかった。イタリア映画界は猫も杓子も西部劇を撮り出していて宗教映画など上映してくれるところがなかったのである。それで二年後に舞台契約が切れたとき、西部劇で役はないかと探していたら簡単に見つかった。それが上述のMille dollari sul neroだ。監督のアルベルト・カルドーネが「舞台経験のある悪役俳優」を探していたそうである。

真っ白なシャツに粋なネクタイというサルタナの特徴的ないでたち
taeglichBrot-1

その粋ないでたちで銃を粋に担ぐ
619a69c6424010555310bebd316f2baf

Sono Sartana, il vostro becchinoのドイツ語バージョンから。安物DVDだけに画質が悪い。
taeglichBrot-4

 映画史に触れるこういう話も面白いが、それに劣らず面白いのは氏の生まれそのものである。ガルコは本名ジョバンニ・ガルコヴィッチGiovanni Garcovichと言ってクロアチアのダルマチア地方にあるZara(これはイタリア語名。クロアチア語ではZadar)という町の生まれだ。道理で姓が南スラブ系なわけだ。ここでクロアチアが出てくるのには歴史的理由がある。

 ダルマチアもそうだが、現在クロアチア領になっているアドリア海沿岸は長い間イタリア、というよりベネチア共和国に属していた。697年から1797まで千年以上続いた共和国である。ダルマチアは1409年からベネチア領になり、18世紀にハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国支配下にはいった。何百年もイタリア領だったうえ直接支配を受ける以前、1000年ごろからアドリア海に出没する海賊などからの保護をベネチアが受け持っていたりしたこともあってすでにダルマチアとベネチアは密接につながっていたから、今でもイタリア系住民がいる。ガルコの生まれたZara市に至っては第一次世界大全から第二次世界大戦の間、1920年から1947年までイタリア領だった。大戦後ユーゴスラビアの領土になった際、そこに住んでいたイタリア系住民はほとんどイタリアに引き上げたそうだが、ガルコは1935年の生まれだから、生まれた時からイタリア国籍のはずである。本名がGarković とクロアチア語綴りでなくGarcovichとイタリア語表記になっているのはそのためかもしれない。

16世紀ごろのベネチア共和国。Zara市がその領土であるのがわかる。ウィキペディアから。
Repubblica_Venezia_espansione_in_Terraferma

18世紀になってもイストリア半島を含むクロアチアのアドリア海沿岸部はベネチア領であった。
Italy_1796_AD-it


両大戦間のイタリア領の飛び地Zara
Zara-Zadar-1920-1947

 クロアチアの北西部、スロベニアと境を接するところにある三角型をした半島、イストリアもまた伝統的にベネチア領で、やはりイタリア系住民が少なくない。先日もTVのドキュメンタリー番組でイストリア半島の漁師のことをやっていたが、この人の母語はクロアチア語でもスロベニア語でもなく、「イタリア語の一方言」と番組では言っていた。この「方言」とは普通ウェネティー語またはウェネト語(ヴェネト語)と呼ばれるベネチアの言葉であろう。クロアチアの南にある「モンテネグロ」という国名がこのウェネト語であることは以前にも書いた(『45.白と黒』参照)。
 ただし、ここでいうウェネト語は『122.死して皮を留め、名を残す』の項で名を出した、ローマ時代のウェネト語とは違う。ローマ時代のウェネト語はラテン語のいわば兄弟言語で、後にラテン語に吸収されてしまった。エトルリア語と運命を共にしたのである。現在のウェネト語はラテン語の末裔である。同姓同名なのでややこしいが「別人」だ。

 またクロアチア人は宗教的にもカトリックで、マリオとかアントニオとかのイタリア系の名前が目立つ。事実上同じ言語を話しているセルビア人は名前もスラブ系なのと対照的だ。ジャンニ・ガルコの本名もしっかりこのパターン、名前がイタリア語、姓がスラブ語というパターンを踏襲している。氏は少なくともイタリア語・クロアチア語のバイリンガル、ひょっとすると母語はイタリア語オンリーだったと思われる。「若いうちにトリエステに移住し俳優学校で学んだ」と非常に簡単に経歴には書いてあるがこれが曲者で、トリエステに出たのは1948年、つまり僅か13歳のとき。まだ子供といっていい年齢の時だ。しかもZara市がユーゴスラビア領になってまもなくである。この時期、ユーゴスラビアのアドリア海沿岸部、つまりイストリアとダルマチアで、戦争中ファシストがバルカン半島で働いた蛮行への復讐のためイタリア系の住民が虐殺される事件があいついだ。イタリア系住民ばかりでなく「戦争中共産党ではなかった」人まで殺された。フォイベの虐殺と呼ばれているが、このFoibeというのはイタリア語でカルスト地形にできた穴を指し、犠牲者が殺された後、または生きながらここに放り込まれたためそう呼ばれている。ガルコもこの虐殺から逃げてきたのではないだろうか。トリエステまで親戚といっしょに来たのか、それとも親戚は殺されてたった一人でトリエステに辿りついたのか私にはわからないが、「移住」などという生易しいものではなかったはずだ。とにかく、このトリエステで舞台演技を学び、後にローマに出てAccademia d’Arte Drammaticaでさらに学び、1958年から映画にも顔を出すようになって、ヴィスコンティなどとも仕事をしている。

 時は流れて今度はクロアチア人が辛酸を舐めたが、この国はユーゴスラビア崩壊の後、2013年に晴れてEUに加盟する遥か以前、ドイツが批准するより一年近くも早い1997年11月にいち早くヨーロッパ地方言語・少数言語憲章Europäische Charta der Regional- oder Minderheitensprachen(『37.ソルブ語のV』参照)を批准し、1998年から施行した。それによってイタリア語が国内の少数言語として正式に認められ保護されている。正式にクロアチアの少数言語と認められているのはイタリア語のほかにルシン語(パンノニアで話されている東スラブ語)、セルビア語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語、ウクライナ語である。ドイツの批准は1998年9月、施行が1999年11月。イギリスはさらに遅くて批准が2001年3月、施行が同年6月である。フランスやイタリアのほうはいまだにこれを批准していない(『83.ゴッドファーザー・PARTI』『106.字幕の刑』参照)。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ