アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Juni 2017

 インドの遥か東、というよりミャンマーのすぐ南にあるアンダマン・ニコバル諸島は第二次世界大戦中に2年間ほど日本領だったところである。特に占領期の後半に地元の住民をイギリスのスパイ嫌疑で拘束拷問し、しばしば死に至らせたり、食料調達と称して住民から一切合財強奪して餓死させたりした罪に問われてシンガポール裁判で何人も刑を受けた。私がちょっと見てみたのはインドで発行された報告だが、しっかり日本兵向けの Comfort Home についての記述もあった。日本軍はやってきたとき支配目的でさっそく地元の住民の人口調査なども行なっているが、問題はこの「地元の住民」、インド側でいうlocal poepleというのがどういう人たちかである。
 ニコバル諸島はちょっと置いておいてここではアンダマン諸島に限って話をするが、ここは主要島として北アンダマン島、中アンダマン島、南アンダマン島の3島があり、これらから少し離れてさらに南に小アンダマン島がある。もちろんこのほかにバラバラと無数の離島が存在する。

アンダマン諸島はここ。ウィキペディアから。
By edited by M.Minderhoud - own work based on PD map, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1012051

Andaman_Islands
ビルマ寄りの北・中・南アンダマン島は昔からビルマやインド、果てはイギリスなどから人々が移住してきた。インド各地から来た住民は出身地ごとにかたまってコミュニティーを造り、ビルマ人はビルマ人、イギリス人はイギリス人でコミュニティーを作ったが、これらコミュニティー間では争いもあまりなく、まあ平和に暮らしていたそうである。アンダマン島生まれのインド人など本国よりアンダマン人としてのアイデンティティーの方が強いそうだ。現在人口役20万人強。この多民族な住民が日本軍が来た時の local poeple だろうが、問題はアンダマン島にはオーストラリアやアメリカ、さらに日本の北海道のようにもともとそこに住んでいた原住民がいたということである。それらの人々はもちろん固有の言語を持っていた。アンダマン諸語である。そのアンダマン諸語はまず大きく分けて東アンダマン諸語と西アンダマン諸語に分けられるが、東アンダマングループに属する言語はもともと10あり、1800年時点では北・中・南アンダマン島全体にわたって話されていた。

アンダマン諸語。残念ながら話されている地域は激減してしまった。これもウィキペディアから。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=330184

Andamanese_comparative_distribution
 その後上述のように外からの移住があり、原住民もヒンディー語に言語転換したり、10あった部族間での婚姻が進み、現在残っているアンダマン語は2言語のみ、しかもその二言語も純粋な形では残っておらず、人々の話しているのは事実上元のアンダマン諸語の混交形で、「大アンダマン語」という一言語と言った方が適切だそうだ。Abbi というインドの言語学者はこれを Present-day Great Andamanese、現代大アンダマン語と呼んでいる。しかもその話者というのが2013年時点で56人(!!)。アンダマン島本島ではなく、その周りの小さな小さな離島の一つ Strait Island というところにコミュニティを作って暮らしている。
 イギリス人は19世紀からこのアンダマン諸語の研究を開始しており、結構文献や研究書なども出てはいる。現在もインドの学者が言語調査をし記録に残そうと必死の努力をしている。が、そもそもイギリス人やインド人など文明国の人が入ってきさえしなければ記録しようという努力そのものが無用だったろう。アンダマン諸語は孤立した島でそのまま話され続けていたはずだからである。自分たちが侵入してきたおかげで消えそうになっている言語を今度は必死に記録して残そうとする、ある意味ではマッチポンプである。しかし一方では外から人が来なかったせいで記録されることもなく自然消滅してしまった言語や、逆に人間の移住により新たに生じた言語だってある。後から来たほうが常に一方的に悪いとも言い切れまい。まさに歴史の悲劇としかいいようがない。

 その壊滅状態の東アンダマン諸語と比べて西アンダマングループはまだ100人単位の話者が存在する。西グループを別名アンガン(またはオンガン)グループといい、さらに二つの下位グループに分類される。中央アンガンと南アンガングループで、前者にはジャラワ語、後者にはオンゲ語とセンティネル語が属す。ジャラワ語は元々南アンダマン島で話されていたが、現在では中および南アンダマン島西部がその地域である。話者はタップリいて(?)300人。オンゲ語は小アンダマン語で100人によって使われている。センティネル語は南アンダマン島の西方にあるやはり離島のセンティネル島で話されている。話者数は全くの未知である。というのは、ここの島の住民は外から人が来ると無差別に攻撃し、時として死に至らせるので言語調査ができないからである。それで現代大アンダマン語、ジャラワ語、オンゲ語には文法書があるがセンティネル語文法はまだない。

 上述のように日本軍は侵略して来たときアンダマン島で「国勢調査」をしているが、そこで1945年7月現在の南アンダマン島の人口は17349人、そのうち女性5638人、男性が11713となっている。男性が女性の倍もいるのは多分当時そこにインド解放軍というか英国からの独立を目指す兵士らがたくさんいたからだろうが、そこにさらに注がついていて、この統計は「受刑者と aboriginal race (Jarawa )は除く」となっている。受刑者が多いのはアンダマン島がイギリスに対するオーストラリアのごとく流刑地として使われていたからであるが、ジャラワが人口勘定に入れてもらえていないのは、人間扱いされていなかったというより、ジャラワ人がいったい何人くらいいるのかわからなかったからだと思う。センティネル人ほどではないにしろ、ジャラワ人もいまだに外部との接触を嫌っているそうだ。日本軍が来る前のインド政府というかイギリス政府というか、とにかく現地の政府にも統計が取れていなかったのではないだろうか。
 大アンダマン語を壊滅させてしまった反省からか、下手に「文明」を教示しようとしてアボリジニやネイティブ・アメリカンの文化を破壊しアイデンティティを奪って精神的にも民族を壊滅させ2級市民に転落させたオーストラリアやアメリカ、ついでにアイヌを崩壊させた日本の例を見ていたためか、インド政府は生き残ったアンダマン民族をできるだけそっとしておき、同化政策などは取らない方針をとっているそうだ。それでも島にはインド人などが住んでいるのだから時々ニアミスが起こるらしい。最近新聞でちょっと読んだ話では、ジャラワ族の女性が外部の者に強姦される事件が何件かあったそうだ。その場合は犯人はこちら、というかインド側の者なのだから捕まえて罰すればいい。だが逆にジャラワ族が、強姦された結果生まれた子供の皮膚の色が白かったというので子供を殺す儀式を行なっていたことが報告されたりしている事件もある。これは立派な殺人行為だ。放って置かれているとはいえそこはインド領である。こういう殺人行為を見て見ぬ振りをしていていいのか、という問題提起もあり、いろいろ難しいらしい。

 さて、その「現代大アンダマン語」であるが、そり舌音があり、帯気と無気に弁別機能があるあたり、孤立言語とはいえヒンディー語始めインドの言語と何気なく共通項がある。もちろん文法構造は全く違い、能格言語だそうだ。以下は上述の Abbi 氏が挙げている例。絶というのが絶対格、能が能格である。

billi-bi bitʰ-om
ship- + sink-非過去
The ship is sinking.


tʰire-bi bas kʰuttral beno-k-o
child- + bus + inside + sleep-遠過去
The child slept in the bus.


a-∫yam-e bas kuttar-al kona-bi it-beliŋo.
CL1-Shayam- + bus + indide-処 + tendu(果物の名前)- + 3目的語-cut-遠過去
Shyam cut the tendu fruit in the bus.

tʰire-bi ŋol-om
child- + cry-非過去
The child cries.

つまり-e というのが能格マーカー、-biが絶対格マーカーである。 これが基本だが動作主が代名詞だったり複数だったりすると能格マーカーがつかないこともある。上の4番目の例と比べてみてほしい。

tʰire-nu-ø ŋol-om
child-複 + cry-非過去
The children cry.

絶対格マーカーも時として現れないことがあるそうだ。またどういうわけか他動詞の主語と目的語の双方が絶対格になっている例も Abbi は報告し、正直に理由はわからないと述べている。
 能格言語であるという事自体ですでにアンダマン語は十分面白いのだが、その能格性をさえ背景に押しやってしまうくらいさらに面白い現象がこの言語にはある。上の3番目の例のCL1という記号がそれだ。これは a- という形態素(Abbi はこれらは clitic である、としている)が Class 1を表すマーカーであるという意味だが、アンダマン語では名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもマーカーがついてそれらの単語の意味がどのクラスに属するかはっきりとさせ、微妙なニュアンスの差を表現するのだ。その「クラス」は7つあるのだが、それらは何を基準にしてクラス分けされているのか? 当該観念あるいは事象の inalienability(譲渡不可能性、移動不可能性)の度合いと種類を基準にしてクラス分けしているのだ。クラス1、クラス2、クラス3、クラス4、クラス5、クラス6、クラス7のマーカーはそれぞれ a-、εr-、oŋ-、ut-、e-、ara-、o-(あるいは ɔ-)だが、これらは元々人体の一部を示すものであったらしい。a- は口およびそこから拡張された意味、εr- は主だった外部の人体部分、 oŋ- は指先やつま先など最も先端にある人体部分, ut- は人体から作り出されたものあるいは全体と部分という関係を表し, e- は内臓器官、ara- が生殖器や丸い人体器官 、o- が足や足と関連する器官である。

 え、何を言っているのかさっぱりわからない?私もだ。文法執筆者の Abbi 氏はそりゃ大アンダマン語が出来るからいいが、氏がひとりで面白がっているのを見て私だって「ちょっと待ってくれ、何なんだよその inalienability ってのは?!」とヒステリーを起こしてしまった。

 大雑把に言うと大アンダマン人は言語で表現されている事象が自分と、あるいは「AのB」という所有表現などの場合BがAとどれくらい分離しがたいかを常に言語化するのである。これが inalienabilityである。何まだわからない?では例を示そう。「血」は大アンダマン語で tei だが、この単語が裸でつかわれることはほとんどなくクラスマーカーが付加されるのが普通だが、その際どの「不可分性クラス」に分けられるかによって名詞の意味が変わってくる。
108-Tabelle1
名詞ばかりでなく、動詞もクラスわけされる。
108-Tabelle2
同じセンテンス内の文要素がそれぞれ別のクラスに分けられることもある。

a-kɔbo εr-tɔlɔbɔŋ (be)
CL1-Kobo + CL2-背が高い + コピュラ
コボ(人の名)は背が高い


a-loka er-biŋoi be ara-kata
CL1-Loka + CL2-太っている + コピュラ + CL6-背が低い
ロカ(人の名)は太っていて(太っているが)背が低い。


「デブ」と「チビ」では不可分性のクラスが違っているのが面白い。

副詞もこの調子でクラス分けされるが、その際微妙にダイクシス関係などが変わってくるそうだ。
 これらの例を見てもわかるようにこのクラス分け形態素は確かに元々は体の部分と意味がつながっていたものが、やがて抽象化され文法化されて本来の身体的意味はほとんど感じ取れなくなって来ているということである。Abbi はその辺を親切にわかりやすい表にして説明してくれている(「関係する身体部分」の項は上述)。
108-Tabelle3
挙げてある単語の例は別の文献(下記参照)からとったが、そこでは(多分編集者の横やりによって)発音表記が不正確だったので Abbi 氏の主著にあたって確認して発音を直してある。下線を引いてあるのは主著で確認できなかった語だが、それらでは o と ɔ、e と ε などの違いが反映されていない虞があってすみません。またさらに引用した「別の文献」で誤植なんじゃないかと思ったものあったので主著からそれにあたると思われる語を挙げておいた(太字)。
 ɸ はpʰ(帯気の p)のアロフォン。また amu(「唖の」)については Abbi 氏は主著で akamu という異形態素を使った形を報告している。そこでは akamu は「食いしん坊」という意味とあるが同時にakamu を「唖の」の意味に使うネイティブスピーカーの例も報告していて、言語調査の一筋縄ではいかないことがわかる。
 他のクラスも見て行こう。
108-Tabelle4
c は英語の ch(無声軟口蓋閉鎖音)。
108-Tabelle5
「縫う」についてはここで出したように c に帯気のマークがつけてあったが、アンダマン語は軟口蓋閉鎖音では帯気無気を音韻的に区別しないはずだから、音素としては単なる c のことかもしれない。また主著には「たった一人の」という意味の ontoplo  という語が載ってがこれは oŋtoplo と同じ語なのではないだろうか。とすると意味が合わない。
108-Tabelle6
108-Tabelle7
「考える」については主著には ebiŋe、進行形で etabiŋe とあるが、さらにもう一つの別文献には eʈabi:ɲe という形で出ている(ʈ はそり舌)。どうも皆微妙に形が違っていてどれが本当なのかわからないのだがとにかくこの動詞がクラス5に属することだけは間違いない。また「親切な」は上に挙げたクラス2の「美しい」と形が酷似していて引っかかるが、語幹が同じでもクラスによって意味が違ってくるという例なのかもしれない。
108-Tabelle8
108-Tabelle9
 言語環境によっては別にこれらの意味を付加するわけでもないのにとにかくクラスマーカーをつけること、例えばこういう文法構造の文では形容詞、あるいは動詞をしかじかのクラスでマークしなければいけないという規則になっている場合もあるそうだ。つまりこのクラス分けというのは一部文法化しているのである。
 Abbi 氏はこのアンダマン語の調査結果を2023年にも Spektrum der Wissenshaft という科学雑誌で発表している。これは米国の Scientific American 誌のドイツ語版で自然科学の記事が中心なのだが、この号では天文物理や生物学の記事を押しのけて Abbi の言語学の記事が表紙を飾った。ただ主な読者層が言語学者ではないからか、それともドイツ語訳の際そうさせられたのか、発音表記が安直なローマ字表記になっているのが残念だ(上述)。また詳しい文法書が出版された2013年のからこの記事までの10年の間にも何人もインフォーマントが亡くなっている。
 大アンダマン語の西方で話されているセンティネル語はまだ調査記述が全く出来ていないそうだが(上述)、この言語もこんなに難しいものなのだろうか。私など矢を射掛けられるまでもなく、言語を見せられただけで心臓麻痺を起こして即死しそうだ。
   
大アンダマン語インフォーマントと言語学者のAbbiさん(中央)。その後亡くなったインフォーマントも多い。
Abbi, Anvita.2013. A grammar of the Great Andamanese Languege. Leidenから。下の写真も。

Strait Island 2005

その他のストレイト島アンダマン語コミュニティのメンバー。何人か上の写真と同じ顔が見える。
Some members of the community

2023にSpektrum der Wissenschaft の表紙を飾ったアンダマン語の記事。
spektrum23-11


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 変な言い方だが、言語にはどれもそれぞれ「売り」というものがある。日本語の売りは何と言っても主題・トピックを明確に表す形態素が存在するということだろう。ロシア語ならアスペクトが動詞のカテゴリーになっていること、タガログ語なら「焦点」をこれもまた形態素で表すこと、アルバニア語なら意外法 admirative の存在(『100.アドリア海の向こう側』参照)、ケルト語群ならVSO,そしてバスク語、タバサラン語、グルジア語なら能格、とまあいろいろある。さらに小泉保氏によればタバサラン語は62もの格があるそうだ。これも相当な売りである。
 スペイン語の売りはコピュラが二つあることなのではないだろうか。AはBである、A is B というのに場合によって ser というコピュラとestar というコピュラを使い分けるのである。どういう場合にどちらを使うかはさるネイティブが言っていたように「極めて微妙で使っているネイティブ本人にも説明できないことがあるから、外国人にはマスターするの無理だろ」。確かにその通りだろうがそれを言っちゃあオシマイという気がする。文法書にも「無理だ」などとは書かれておらず、凡そのガイドラインというか基本的な使い方は説明してあるし、無理だとわかってはいてもここに言語学的なアプローチをかける非ネイティブも大勢いる。

 ごく大雑把に言うとA=Bという構文で、BがAの本質的あるいは恒常的な性質を表す場合は ser、一時的または偶発的な性質・状態を描写する場合は estar を使う。このニュアンスの違いが最も明確に現れるのは述部が形容詞の場合だろう。

La vita es difícil.
the + life + ser.3.sg. + hard
人生はつらい

La vita está difícil (en astos días).
the + life + estar.3.sg. + hard) (in those days)
(ここのところ)生活がキツイ

Miguel es muy orgulloso.
Michael + ser.3.sg + very + proud
ミゲルは誇り高い人だ

Miguel está muy orgulloso de su éxito.
Michael + estar.3.sg + very + proud (of his success)
ミゲルは自分の成功を誇りにしている

Ese truco es sucio.
this + trick + ser.3.sg + dirty
このトリックは汚い

Ese coche está sucio.
this + car + estar.3.sg + dirty
この車は汚い

El señor Garrote es moreno
the + Mr. Garrote + ser.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は目と髪が黒い

El señor Garrote está moreno.
the + Mr. Garrote + estar.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は日焼けしている

Sus ojos son rojos.
his + eyes + ser.3.pl. + red
彼の目は赤い色だ。(ウサギとか)

Sus ojos están rojos.
his + eyes + estar.3.pl. + red
彼の目は充血している。

Eres joven
ser.2.sg. + young
あなたは若い。

Estás joven
estar.2.sg. + young
あなたは若く見える。

つまりバーのホステスなどがなじみの客に「あ~ら、社長さん若いわね~」と言う場合には estar を使うわけだ。文法を知らないとおちおち水商売もできない。

 これらの例はまだなるほどと思うが、

es nuevo
ser.3.sg + new 
新品だ。

está nuevo
estar.3.sg + new        
新品価格だ。

とかいう例を見せられるとそろそろ「微妙すぎて外国人にはマスターできない」というネイティブ氏の言葉が頭をよぎるようになる。さらに英語の how is she?、クロアチア語(『60.家庭内の言語』も参照)の Kako su? (3.sg.) にあたる表現にも

¿Cómo es Isabel? 
how + ser.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな人だ?

¿Cómo está Isabel?
how + estar.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな具合だ?

の2バージョンが可能であり、前者には

(Ella) es muy simpática.
(she) + ser.3.sg + very + kind
とても親切な人だ。

後者には

(Ella) está muy simpática últimamente.
(she) + estar.3.sg + very + kind + lately
最近とても親切だよ

あるいは

(Ella) está muy bien.
(she) + estar.3.sg + very + well
とても元気だよ

などと答える。本にはこれより微妙な例が並んでいるがどうせ私には理解できないのでもうやめる。

 さて、この ser か estar かの話になると比較として頻繁に持ち出されるのがロシア語である。似たような区別があるからだ。ただしこちらはコピュラそのものはひとつで述部の形容詞のほうが形を変える。
 ロシア語には形容詞の変化パラダイムが短形、長形の二種あり、後者は付加語としても文の述部としても、つまり A=B の Bの部分としても使えるが、前者は述部としてしか使われない。言い換えると形としては主格しかないのだ。その述部としての短形対長形のニュアンスの差は当該事象が「一時的」か「恒常的」か、あるいは「状態」か「性質」かの違いであると文法書などでは定義してある。例えば、

Мальчик здоров.
boy + (is) + healthy-.m.sg.
Мальчик здоровый.
boy + (is) + healthy-.m.sg.

では、上の短形は今現在、対話の時点で健康だという意味なのに対し、下の長形を使うとこの少年は滅多に病気をしないタイプということになる。コピュラがないじゃないかとお思いになるかもしれないが、ロシア語は現在時称ではゼロコピュラを許す、というよりゼロがデフォだからだ。コピュラが必須になるのは過去形かと未来形のみである。さらにニュアンスというより意味そのものが短形・長形で違ってくることがあって

Он жив.
he + (is) + living-.m.sg. -> alive
Он живой.
he + (is) + living-.m.sg. -> lively

では短形は「彼は生きている」だが、長形は「彼は生き生きとしている」である。また

Китайский язык труден.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.
Китайский язык трудный.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.

だと短形は「自分には難しすぎて中国語ワカンネ」だが、長形は「中国は難しい」という一般的な意味だ。

 この短長二つの形の意味の差が「状態」か「本質」か、あるいは「一時的」か「恒常的」かの対立に帰されることはスペイン語の ser 対 estar と似ているが、Ljudmila Geist という言語学者がこの二つの対立は必ずしもイコールではないことを指摘している。例えば

Пространство бесконечно.
universe +  (is) + endless-.n.sg.
宇宙は無限だ。

で短形を使うのは、これが一時的なことだからではなく、恒常的ではあるが「状態」であるからだそうだ。このように細かく見ていくと違いはあるが、基本的にはロシア語の短形・長形のニュアンスの違いがスペイン語の ser 対 estar と似ているのがわかる。

 ロシア語にはさらに形容詞の長形が述部に立つと、主格をとる場合と造格をとる場合がある。主格しかない短形と違う点だ。ただし長形造格が述部になれるのは過去時称と未来時称。あるいは接続法の場合のみで現在時称では使えない。つまりゼロコピュラと長形造格の組み合わせは不可能なのである。その代わりというと変だが、述語で造核になれるのは形容詞ばかりではなく、名詞も造格に立てる。

名詞による述語
Анна была учительница.
Anna + was + teacher-.sg.
Анна была учительницей.
Anna + was + teacher-.sg.
アンナは教師だった。

形容詞による述語
Ирина была добрая.
Irina + was + good-natured-.f.sg
Ирина была доброй.
Irina + was + good-natured-.f.sg
イリーナはいい奴だった。

この主格と造格の違いもスペイン語の ser 対 estar、ロシア語形容詞の短形対長形の里似ていて、主格だと「アンナは生きている間教師をしていた」「イリーナはいい人でしたねえ」だが、造格では「(今はそうじゃないけど)アンナって昔教師だったんだよね」「(昔は)イリーナもいい奴だったんだけどねえ」である。一時的か恒常的かの差に帰せそうだ。だから時間を区切る表現が文内に来ると主格は使えない。それで * をつける。

* Он несколько лет был директор.
he + several years + was + director-
Он несколько лет был директором.
he + several years + was + director-
彼は何年間か所長だった。

ところが「時間の制限がない」ことを明確に表した場合、主・造どちらもOKになることがあるから、この二つの差は単純に時間制限の有無だけから来るのではないことがわかる。

Пушкин всегда был великий поэт.
Pushkin + was + always +great- + poet-主
Пушкин всегда был великим поэтом.
Pushkin + was + always +great- + poet-造
プーシキンは常に偉大な詩人だった。

その次に主格・造格の差を「本質的なもの」か「偶発的なもの」かと見るやり方がある。例えば上のアンナは「教師だった」という文の場合、主格は「生涯教師」というよりも「アンナは人格から見ても教師にうってつけ。教師こそライフワーク」、つまり教師ということがアンナの本質と見るのに対し、造格だとアンナがいわゆるデモシカ教師ということになる。これもなるほどと思うがやはり説明できない例がある。

Анна была дочерью врача.
Anna +  was + daughter-+ doctor’s
アンナは医者の娘だった。

確かにこれを「子供は両親を選べない。全てのものは流転する、パンタ・レイ」という意味で「偶発的な事象」と無理やり解釈できないこともないが、誰の子供か、どういう生まれか、ということはやはりその人物にとって本質的なことだろう。

 Geist 氏はこの他にも主格造格の意味の差を定義する様々な説をあげ、ひとつひとつそれらについての例外現象を挙げていく。そしてこの二つの違いの本質を詳細に分析しているのだが、まずコピュラ文そのものを二つのタイプに分類して

1.[быть + NP造]はシチュエーション内での対象の特性を描写する(特性は恒常的なものでも一時的なものでもありうる)
2.[быть + NP主]は対象の特性をシチュエーションに関連させずに描写する。
(人食いアヒルの子注:быть というのがロシア語コピュラの不定形である)

と定義している。つまり描かれる対象が特定の状況に結びついているか具体的な状況と結びつかずに漂っているかということで、私などは『95.シェーン、カムバック!』で述べた動詞アスペクトの意味の違いの定義と平行性を明確に感じる。
 語学の文法書だったらこの定義で十分なのだろうが、著者は言語学者なのでここからさらにしつこく分析を続け(『34.言語学と語学の違い』参照)、そのニュアンスの違いがなぜ発生するかをコピュラбытьのシンタクス構造内での違いとして説明している。быть には実は2種あり、シンタクス上の基本位置が違うというのである。

1.造格補語を取る быть-1 は語彙上の動詞で、基本の位置はVPである
(быть-lex)
2.主格補語をとる быть-2 は機能カテゴリーで、基本の位置はTPである。
(быть-ftk)

余計なお世話だが TP というのは Tense Phrase のことで生成文法のXバー・セオリー以降から登場するカテゴリーだ(とおぼろげに記憶している)。前にも言ったように私は生成文法にはせいぜい標準拡大理論レベルまでしか追いついていけていないのでいきなりこんな説明をされてもわからない。まさに短形の труден(私にはワカンネ)である。

 このようにロシア語内部のコピュラ構造を論理学、意味論、シンタクスと全てのレベルで分析・解析するというのも面白いが、これを言語間で比較してみるとさらにスリルが増すだろうと思う。ロシア語では Пространство бесконечно という言い回しが許されるがスペイン語で universo está infinito とかなんとかは可能か(多分不可)、とかそういうツッコミである。またロシア語のこういったコピュラ構造がスペイン語にはどう訳されているか、またはその逆を調べてみたら翻訳学としても有意義な研究になると思う。泉井久之助氏もその著書『ヨーロッパの言語』211ページから212ページにかけて通時的な視点からも露・西のコピュラ構造に言及しているが、氏はこの二つの意味の区別そのものは露・西語に留まらない言語ユニバーサルな現象と考えているようである。そういう意味でもツッコミ甲斐があるのではないだろうか。

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