アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

Juli 2016

 この間電車の中で偶然以前の同僚に会った。その人は私と同世代で母語がスペイン語である。雑談をするうち、いつしか話は「最近の若い者は(出た、年寄りの愚痴!)ラテン語ができない」とかいう方向に進んで行った。
 一昔前はドイツのギムナジウムではラテン語をやるのが普通だった。その上さらに古典ギリシャ語もやらされるところもあった。それに加えて現代の外国語、当時は大抵フランス語を一つマスターさせられたのだ。ラテン語ができないものはそもそも文科系の大学に入学する資格がなかった。できなくてもよかったのは外国籍の学生だけで、「まあ外のものにドイツ人並の教養を要求するわけにもいかんだろ。けっ。」と甘やかされていたのである。そのアマちゃんの私でさえ、一度「ラテン語資格」を要求されそうになって青くなったことは『2.印欧語の逆襲』の項でも書いたとおりだ。

 ところが最近のギムナジウムではラテン語などやらないところがむしろ普通で、文科系の学部もラテン語なしで入学できてしまうそうだ。外国語学部・言語学部に入学してくる、つまり言語というもののプロになりたいと思っているものでさえラテン語ができない学生がいるのだから、あとは推して知るべし。「だから文法の用語とかも皆知らなくてさ、自動詞とか他動詞とかいう言葉の意味がわかんなくてポカーンとしてるから動詞のバレンツを書いてそこから説明してやったよ。これじゃ語学だって進歩しないだろ。説明が理解できないんだから。」他動詞・自動詞よりも「動詞のバレンツ」などという用語のほうが余計わかってもらえないんじゃないかとも思ったが、全くそういう理論武装なしで語学をやることは不可能だと私も思っている。理屈や堅い話なしで、「覚えましょう・覚えましょう」だけで言葉を覚えるのではそれこそ九官鳥やオウムの訓練所ではないか(『34.言語学と語学の違い』参照)。

 さて、この人は古典ギリシャ語もやったそうだが、続けて「ラテン語は語形変化のパラダイムが美しい」という。名詞や動詞の変化表をみるとその均整のとれた美しさに感動するのだそうだ。私もそれには異存がなかったので、「そうですね。特にo-語幹の名詞がいいですよね。呼格なんかもあるし」と話をあわせたが、さらに言えば私はラテン語だけでなく、いや印欧語だけでなく全ての言語体系は美しい、と思っている。言語の本質はその構造性・体系性にあると思っているのだ。その音韻体系、形態素体系、シンタクスの構造、これらが図式化してあるのを見るのが好きで、語学書などでも中身はすっ飛ばして真っ先に巻末の変化表に目が行ってしまう。ただ、パラダイム表をみるのは好きだが覚えるのは嫌い(いうより「できない」)なのが我ながら情けないところだが。

 この言語の構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう。現在の物理学の知識を駆使しても10m上空からアヒルの羽を一枚落としたときの落下地点をぴたりと当てることが出来ないのと似ている。しかもあらゆる言語がそういう構造を内在させている。現在存在している言語、過去に存在していた言語、これから生まれるであろう言語はすべて「決して人間程度の知力では完全に解析・解明することはできない」存在なわけだ。現在地球上にある言語だけで5000、今までに存在した言語なんて何万、いや何十万あったかわからない。それらはどれ一つとして同じ構造のものがない、すべてただ一回きりこの世に存在し、これからも決して生じることはない現象である。
 こういうことを考えるにつけ、たかが10や20言語のちょっとした挨拶や言い回しを覚えて九官鳥気取りで軽々しく「語学ができる」とか言い出す人にはちょっと反発を覚える。

 また、「体系」「構造」という言葉は一時日本でも流行ったのですでに日常語になっているが、では「体系って何ですか?」とあらためて聞かれるとその言葉を得意げに使っている本人も一瞬うっとつまってしまうことが多い。私は馬鹿なので一瞬でなく一分間くらいつまる。でも聞かれたからには答えなければならないのでいつもまあテキトーに(あのねぇ・・・)こんなことをいって誤魔化している。

「要素Aがそれ自体のものでなく他の要素、BとかCとかの関連において初めて意味を持ってくる、あるいは要素Aの本質はAの内部そのものにではなくBやCとの関係のなかにある、と考えるのが体系という観念です。」

つまり、ある文法カテゴリー、例えば過去形という奴をそれだけじいっと考察していてもあまり意味はないということだ。当該言語がどんな時制体系を持っているかによって意味も使用範囲も全く違ってくるからだ。現在-過去-未来しか持たない言語と過去完了、非完了、アオリストなどやたらとたくさんの時制形を持っている言語では「過去形」といっても全く別物なのである。
 語彙にしてもそうで、例えば「「てつだう」ってどういう意味ですか?」という類の質問をしてくるのは初期段階だけである。ちょっと学習が進むと必ず「手伝うと助けるはどう違うんですか?」というような質問をしてくるようになる。体系内での要素間の関係に目が行くようになるのだ。逆にいつまでも言語の体系性ということが実感として捉えられない人は語学のセンスがないのでせいぜい九官鳥と競争でもしていてほしい、とまでは言わないが(そんなことを言ったら私自身も相当長い間その口だったのだ。『25.なりそこなったチョムスキー』参照)、教師がいくら優秀でも途中で壁に突き当たる場合が多い。一生懸命勉強したはずの語学が使い物にならないのはどうしてなのかか自分でもわからず、結局教師の教え方が悪いからだ、と人のせいにしたりするのだ。

 話は少しワープするが、映画も一つ一つの作品を単発でバラバラ無作為に鑑賞したり紹介していてもどうにもならないことがある、と私は思っている。作品Aが当該体系内の作品Bとの関連で初めて意味を持ってくることもあると。ただ、映画では全体として統一の取れた体系というものをきちんと枠組みすることが難しい。いわゆる「ジャンル」というのは枠にはならない。映画芸術発生以来100年余り連綿と作られてきた、またこれからも作られていく映画をポンポンジャンルという箱の中に放り込んだところで収集も統一も取れていないばかりか、どのジャンルにいれたらいいのか人によって違う映画も多い上に(『タイタニック』は恋愛映画なのかアクション映画なのか?)、そもそもジャンルというもの自体、いったいどうやって定義したらいいのか曖昧なこともある(「ブロックバスター」というのは果たして一つのジャンルや否や)からだ。つまり映画のジャンルというものは雑多な映画のテキトーな集合に過ぎない。
 ところがそういう映画にも時々「擬似体系」とでも呼べそうな、全体的に一定のまとまりを示す作品群がある。どの映画がそこに所属するかも明確に決めることができて、枠組みがクリアな集合が。その一つがいわゆるマカロニウエスタンと呼ばれるジャンルというかグループで、これらの作品群は例えば「恋愛映画」などというふやけたジャンルと違ってまずモチーフ(西部劇)が一定している上、1.製作時期がはっきりと限定されている(1964年から1970年代の後半まで)、2.製作国(イタリア)が定義されている、2.監督、音楽、俳優、脚本などが極めて限られた面子である、ので内部の統一性が極めて高い。事実マカロニウエスタンの作品はジャンル内部での相互影響、露骨に言えばパクリ合いが非常に密で独特の小宇宙・閉ざされた空間を形成しているのである。
 また他のジャンルではいわゆる駄作というのは存在の意義が薄く、ガチなフリークならともかく、普通のレビューの網の目からは落ちこぼれることが多いが、内部作品が相互関連して全体の体系を形作っているマカロニウエスタンでは、駄作でも要素Bとして立派に要素Aの存在意義に関与しているのだ。わかり易く言えば、ジャンルの傑作の引き立て役として小宇宙内で重要な意味を持っているのである。そもそもマカロニウエスタンの9割以上は駄作凡作なのだから、体系というかジャンル全体として考察しなければどうにもならない。とにかくこのジャンルは明確に閉ざされた一つの小宇宙を形作っているので一旦ハマると抜けられなくなるのだ。

 あと、これはマカロニウエスタンのような「小宇宙ジャンル」に限ったことではないが、映画を論じる際、製作年を無視すると解釈を誤ると私は思っている。映画は製作と公開が時期的にかなりずれていることが多いのでドイツでの公開時、日本での公開時だけを基にして作品を云々しているとトンチンカンな解釈をしてしまう。少なくとも本国公開はいつだったのか押さえておかないとまずいだろう。本当は本国公開時でなく製作年の方をを考慮すべきなのだろうが残念ながら資料などには出ていないことが多い。
 たとえば私もやってしまったのだが、ブレット・ハルゼイBrett Halsey演ずる『野獣暁に死す』の主人公ビル・カイオワ。最初私はこれは『殺しが静かにやって来る』の主人公サイレンスのコピーかと思ってしまった。陰気な黒装束も同じだったし、顔もちょっと似た方向だったからである。でも調べてみたら前者のほうが制作も本国公開も早かった。つまりカイオワはサイレンスからのコピーではなくてむしろ『続・荒野の用心棒』のジャンゴから直接持ってきたのだとわかる。『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』では後者のほうが圧倒的に名を知られているし評価も高いため、私は見誤ってしまったのである。
 なお、「閉ざされた小宇宙」と言ってもマカロニウエスタンは作品が500以上ある。『52.ジャンゴという名前』の項でも書いたが、その中で私の見た作品など、「見たかどうかよく覚えていない」ものまで無理矢理含めてもせいぜい90作品。あと410作品を見るなんてこの先一生かかっても無理だ。まさに上でも述べたように「構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう」と言える。


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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を翻訳して紹介しています。下のインタビュー記事は2016年7月9日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったものですが、「フェルンヴェー」というドイツ語など、当ブログの記事『3.噂の真相』のテーマと関連しているのでご紹介します。ネットのでなく新聞の記事のほうをもとにしましたので、レイアウトなどちょっと違っているところがあります。
元の記事はこちら

200万年前にはすでに前時代の人類が「世界征服」への道を歩みだした。それがあったからこそ現代の人類に進化することができたのだ、というのが古代人類学者のフリーデマン・シュレンクの説。

フリーデマン・シュレンク氏は古代人類学者で、ハイデルベルク科学アカデミーのROCEEH(The Role of Culture in Early Expansion of Humans)という研究プロジェクトの主任の一人である。

南イタリア・アプーリアのGrotta del Cavalloで発見された乳歯は現人類の体の一部としてはヨーロッパで最も古いものである。4万5千年から4万3千年まえのものと見られている。


南ドイツ新聞
そもそもどうして人類は移動を始めたんでしょうか?

フリーデマン・シュレンク
私たち古代人類学者は「移動」とはいいません。「生存権の拡大」といいます。一世代ごとにほんの何キロメートル四方かずつ広げていったんですね。初期の人類には目的地なんてなかった。道程そのものが目的だったんです。この生存圏の拡大というのがまさに人類の特徴。すでに600万年前には前人類がアフリカの熱帯雨林を出てサヴァンナに入ったんですから。その新しい生活場所で直立歩行を進化させていったんです。もっともそれはほんとうにゆっくりした歩みで、それから初めてアフリカから出たのはやっと200万年くらい前ですが。

そのままそこにいてもよかったのでは?

その通りです。けれど、では人類にとって移動というのが目新しいことだったかというとそんなこともないんですよ。手に入れたい資源を求めて何キロも歩いたりしてましたからね。食料が不足すればもっと遠くまで行って交換したし。季節ごとに移動する動物を追いかけたりとかも。人口が多くなっていったのも要因の一つかもしれません。けれど頭脳の発達も大切な点でね、人類はそのおかげで道具を使うようになったし周りの環境に左右されることも少なくなって、新しい土地に居住できるようになったと。一方そのおかげで、自分たちの道具に依存する度合いが強くなってしまいましたが。

どこか特別なルートというものがあったのでしょうか?

ありました。移住は多くが海岸沿いのルートを通りました。あるいは川に沿うとか。回廊状の森が隣接しているような川ですね。移動の道筋になるようなところはいろいろと条件を満たしていないといけません。水や食物、道具つくりの材料になる地下資源がないといけない。あと保護物もいる、寝場所用に木があったりとか。後には戦略上の考慮なんかも役割を演じるようになりましたね。周りの土地の状況がよく見渡せるようなところが選ばれたりしたんです。

具体的にはどんな道筋があったんでしょうか?

アフリカを出るのには4つのルートが可能です。第一は筏のような乗り物でジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に行くもの。第二の道は島をいくつか渡って南イタリアに到達するもの。事実そこで140万年前の道具が見つかっていますが、これらが北から移動してきた人々のものではないことは確実です。第三のルートは現在のイスラエルとレヴァントを通るもの、そして第4がアラビア半島を通過してコーカサスと東南アジアに行くものです。それらの回廊地帯にしても居住にむいていた時期というものがありまして、気候が決定的な役割をはたしていたんです。降水量に大きな揺れがあったりしましたからね。それが植生に大きな影響を与えていました。洪積世にはこれがまた何回も変化しましたし。

どれくらいの数の人間が移動していったんですか?

当時世界の人口がどのくらいあったかは見積もるのが難しい。1万1500年前に定住が始まったときはおよそ700万人ほど人間がいたようです、20万年前にホモ・サピエンスという種が発生した時どのくらいいたのかはわかりません。彼らは4~50人の群れになって移動したようです。でもその群れは固定したものではありませんでした。群れの間に結びつきがあったにちがいない、でなければすぐ近親相姦になってしまいますからね。

過去20万年のあいだで、特に移住が盛んだった時期などはあったのですか?

いくつか波がありました。それぞれが違った方向に進んだと思われます。その際道具を組み合わせてまた新しい道具を作る技術(根も切り株も掘り起こせるように斧と鋤を組み合わせたものとかね)が一役買ったのかどうか、私たちとしても知りたいところです。人類は資源を使うのにどんどん柔軟のあるやりかたをするようになっていった。それでいろいろな可能性が広がりました。

新しい生活圏がさらなる進歩をうながす、などということもあったのではないですか?

当然ありましたよ。フィードバックがあったんですから。文化、体格、知能というのは外界と接触しながら発展しますからね。精神の広がりが人類を移動に駆り立てるということもありますよ。そういうのを全部ひっくるめた人類の全体的な行動が生き残りのチャンス、将来の可能性を決めるんです。

最初に移住した人々は好奇心に駆り立てられたのでしょうか?

もちろん好奇心は大事。人間はいつも周りの環境を発見しようとしますから。どうやって生活圏を勝ち取って行ったらいいのか、ということについても彼らはたいてい計画というか何か具体的な戦術がちゃんとあったにちがいない、と私は思っています。

フェルンヴェー(見知らぬ土地への憧れ)のようなものがあったんでしょうか?

フェルンヴェーって、外界、どこか世界の果てではどんなことになっているのかなと想像してみることから始まるじゃないですか。当時すでに世界中の離れた地域とモノの交換なんかをしていたとすれば、フェルンヴェーとあってもおかしくないでしょう。中国の真珠とかインドのお茶とかが西アフリカにまでやってきていたら、想像がかきたてられもしたでしょう。遠くの地域とモノの交換をするようになるとそこでフェルンヴェーも生じたんじゃないでしょうか。

でもいろいろな道具を実際に交換したりすることとかもあったのでは?

ありました。たとえば槍の穂先なんか交換していました。あと、装飾品とか彩色用の色素とかも。そういうことはすでに15万年前のアフリカで、ホモ・サピエンスがその大陸を出ないうちからやっていました。交易所がいくつもあって、そこを通したんです。遠隔地との交易というのは中国とかヨーロッパではじまったことじゃありません。そもそも遠くの地域と交流するようになって文化の交流も始まったんです。ホモ・サピエンスが発生してすぐのころにまで遡れることなんですよ。それが現人類の最初の「拡大」ということですね。「拡大」というのは、だからまず頭の中で起こったんです。いつのころか空間的な拡大が続きました。そういう意味ではフェルンヴェーも発生源はアフリカですね。

移住していった者と残ったとの間にコンタクトはあったんでしょうか?

そう、モノの取引や交換は人間が広がっていく際強力なサポートになりました。あと遺伝学上でも交流があったことがわかってきました。人類とネアンデルタール人との間にも文化交流があったという証拠も見つかりました。それでこそ我々の種は生存しているんです、どころか結局それが私たちのような種族が誕生した、今のような新しい文化が発生した、それらの原因なんですね。

もうちょっと詳しく説明してください。

チンパンジーも群れで生活していますし、道具も作ります。つまりある種の文化は持っているんです。けれど我々人類とは決定的な違いがある:チンパンジーはその文化を自分たちの地域的に限定された群れの内部でしか伝承していきません。初期の人類の自然淘汰の際に決定的に有利に働いたのが、自分たちの成果を種族全体に伝えることが出来た、ということです。経験を分かち合う、知識を交換したり伝承したりする、そういうことです。それで初めて私たちは人類と言う種となったんです。

そうなるといわゆる開かれた態度がなければどうにもなりませんね。こんにちの移住問題の専門家もそれが移民を社会にうまく適合させるためのカギとみていますが。

もちろんです。道具つくりの技術がいかにして伝えられていったかについては証拠が出せますよ。ある考え方、思想、経験とかが伝えられていって、別のしかるべきところに収まる。こういうことは他の種にはありません。人類のカギとなる特徴なんです、交換・交流という能力は。まさにそこからです、ホモサピエンスがこんにち世界中で示しているバイオカルチャー面での多様性が生じたのは。経験を交換しあうこと、これはこんにちでも原則なんです。けれど今日びはどんどん壁が築かれて交流が邪魔されていっている感じですね。人類にとってこれは致命的なんですよ。

インタビュアー: フーベルト・フィルザー


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 マカロニウエスタンは1960年の終わりに頂点に達したのち70年代に入ると衰退期に入るが、その前にちょっとしたサブジャンルがいくつか生じた。 その一つが俗に「メキシコ革命もの」と呼ばれる、フアレス将軍時代のメキシコ革命をモチーフにした一連の作品である。直接メキシコ革命を題材にしていないもの、たとえばセルジオ・ソリーマの『復讐のガンマン』でもトマス・ミリアン演じるメキシコ農民がセリフの中でフアレスの名を口に出したりしている。いかにも最初から社会派路線を打ち出したソリーマの映画らしい。

 実はどうしてマカロニウエスタンにはメキシコ革命のモチーフがよく出て来るのか以前から不思議に思っていたのだが、次のような事情を鑑みると結構納得できるのではないだろうか。

1.このサブジャンルが盛んに作られたころから1970年代の始めにかけてはイタリアやフランスで共産党の勢力が強かった頃で、調べによればイタリア共産党(Partito Comunista Italiano)は当時キリスト教民主党(Democrazia Cristiana)と協力して連立政権を取りそうな勢いさえあったそうだ。

2.メキシコ革命もののマカロニウエスタンの代表作といえる『群盗荒野を裂く』(監督ダミアーノ・ダミアーニ、1966)、『復讐無頼・狼たちの荒野』(監督ジュリオ・ペトローニ、1968)などの脚本を手がけたのはフランコ・ソリナスだ。 ソリナスは『豹/ジャガー』(監督セルジオ・コルブッチ、1968)でも原案を提供しているし、上述の『復讐のガンマン』でもクレジットには出ていないが脚本に協力したそうだ。この人はその前に『アルジェの戦い』の脚本を書いてオスカーにノミネートされ、後にはオスカーばかりでなくベネチア、カンヌでも種々の賞をガポガポ取ったコンスタンチン・コスタ-ガヴラスと『戒厳令』(1972)で脚本の共同執筆をした政治派で、おまけにイタリア共産党員である。

3.そもそも映画監督だろ脚本家だろには、左側通行だったり反体制のヘソ曲がりだったり、あるいはそのどちらも兼ねている人が多い上に、たとえマカロニウェスタンの監督であっても(おっと失礼)皆インテリで正規の映画大学などで教育を受けているのが普通だから、ゲラシモフだろエイゼンシュテインだろプドフキンだろのソ連の古典映画を教材にしたに違いない。

4.そうでなくても当時のイタリア映画界はソ連映画界と結構仲がよく、1971年にはダミアノ・ダミアーニがモスクワ映画祭で金メダルを取ったりしている。 残念ながら(?)『群盗荒野を裂く』ではなく『警視の告白』という作品である。そういえば黒澤明がソ連でデルス・ウザーラを取った時、日本側の世話人(プロデューサーと言え)が松江陽一氏、ソ連側がカルレン・アガジャーノフ氏だったが、イタリア映画実験センター(チェントロ)で映画の勉強をしていたことがある松江氏もそしてアガジャーノフ氏も(なぜか)イタリア語が話せたので外部に洩れては困る会話はイタリア語で行なったそうだ。

5.アガジャーノフ氏もチェントロにいたのかどうかは知らないが、とにかく当時のイタリア映画界はソ連映画界と結構密接につながっていた模様だから、「革命」のモチーフはソ連から来たのかもしれない。

 こうして意外なところで自分の専攻したスラブ語学とマカロニウエスタンがつながったので無責任に喜んでいたが、さらにちょっと思いついたことがある。、一つは1965年に西ドイツで製作されたDer Schatz der Azteken(「アステカの財宝」)という映画だ。いわゆるカール・マイ映画と呼ばれる一連の映画の一つである。主演はヴィネトゥ・シリーズを通じて(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)ピエール・ブリースと共演していたレックス・バーカーで、1864年ごろのメキシコ革命時が舞台になっている。映画そのものはあまり面白いと思わなかったし、ブリースも出ていなかったためか興行的にもヴィネトゥ映画ほどは成功しなかったようだが、カール・マイ映画群がある意味ではマカロニウエスタンの発生源であることを考えると、案外この映画あたりがモチーフ選択に影響を与えたのかもしれない。『アステカの財宝』は時期的にも『群盗荒野を裂く』が作られる直前に製作されている。

 もうひとつ、1968年にアメリカで製作された『戦うパンチョ・ビラ』という映画がメキシコ革命を題材にしていたのを思い出してちょっと調べてみたら、これがもうびっくらぼんで、何とフランク・ヴォルフとアルド・サンブレルが出演している。ヴォルフもサンブレルも、普通に普通の映画を見ている常識的な人は誰もその名を知らないが、マカロニウエスタンのジャンルファンなら知らない人はいないという、リトマス試験紙というか踏み絵というか、「知っている・知らない」がファンかファンでないかの入門テストになる名前である。もっともそんなものに入門を許されても何の自慢にもならないが。そのヴォルフはレオーネの『ウエスタン』の冒頭にも出てきてすぐ殺された。マカロニウエスタンの最高峰作品の一つ、セルジオ・コルブッチの『殺しが静かにやって来る』にも出ている。サンブレルのほうもやたらとマカロニウエスタンに出ちゃあ撃ち殺されているので名前は知らなくとも顔だけは知っている人も多いだろう。上述の『群盗荒野を裂く』にも出てきてやっぱり撃ち殺されていた。
 さてさらに『戦うパンチョ・ビラ』の製作メンバーを見ていくと、脚本をサム・ペキンパーが担当している。マカロニウエスタンが逆にアメリカの西部劇に影響を与えたことは有名な話、いや話を聞かなくても当時のアメリカ西部劇をみれば一目瞭然であるが(現在でもタランティーノ映画を見ればわかる)、そういう話になると必ずといっていいほど例として名を出される『ワイルド・バンチ』の監督である。
 
 驚いたショックでさらに思い出してしまったのがエリア・カザンのメキシコ革命もの『革命児サパタ』だが、これは製作が1952年だから時期的に古すぎる。マカロニウエスタンと直接のつながりはないだろう。たぶん。
 

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 2010年にアイスランドのEyjafjallajökullという火山が噴火し、大量の灰を空中に撒き散らしたため航空機の飛行が不可能になり、ヨーロッパ中で空の便が何日も麻痺して大混乱になった。しかし大混乱をおこしたのは空の便ばかりではなかった。テレビ局やラジオのアナウンサーなど報道陣もパニックに陥ったのである。誰もこの火山の名前が発音できなかったからだ。
 しまいには噴火そのものよりも名前が注目されて、この名前が言えなくてヒステリーを起こすアナウンサーの模様のほうがニュースになりさかんにTVで流された。
 この名前はIPAで書くと[╵ɛɪja.fjatla.jœkʏtl̥]。アイスランド語のアクセントは常に最初のシラブルにあるそうで、その点ではわかりやすいのだが、l を重ねて ll になると何処からか t が介入してくるあたり一筋縄ではいかない。かてて加えて語末の l は無声化するとのことだ。私にはここが単に声門閉鎖音にしか聞こえないことがあった。日本語ではエイヤフィヤトラヨークトルと読んでいる。なおアイスランド語は無気・帯気を弁別的に区別するそうだ。
 この名前の意味はEyjaが「島」の複数属格(単数はEy)、fiallaが「山」のやはり複数属格(単数はfiall)、jökullが「氷河」で、全体で「島の山の氷河」。これが火山の名前になっているのはその氷河の下から火山が火を噴くからだそうで、さすが「氷と火の国」と呼ばれていることだけのことはある。

 アイスランドといえば先日のサッカーユーロカップでイングランドを粉砕して一躍人気者になったが、ここでも真っ先に人目に止まったのが選手の名前である。まあちょっと見てほしい。
Hannes Þór Halldórsson
Ögmundur Kristinsson
Ingvar Jónsson
Birkir Már Sævarsson
Haukur Heiðar Hauksson
Hjörtur Hermannsson
Sverrir Ingi Ingason
Ragnar Sigurðsson
Theódór Elmar Bjarnason
Hörður Björgvin Magnússon
Arnór Ingvi Traustason
Ari Freyr Skúlason
Birkir Bjarnason
Gylfi Sigurðsson
Kári Árnason
Rúnar Már Sigurjónsson
Aron Gunnarsson
Emil Hallfreðsson
Jóhann Berg Guðmundsson
Kolbeinn Sigþórsson
Alfreð Finnbogason
Jón Daði Böðvarsson
Eiður Guðjohnsen

 たしかにその国に多い姓の語尾というものはある。例えばセルビア語・クロアチア語には-ić(イッチ)で終わるものが非常に多い。しかし多いと言っても例外を見つけるのにさほど困難はないのが普通だ。現にクロアチアの選手にSrnaという姓の人がいたし、私も知り合いにPečurというクロアチア人がいる。このアイスランド語のようにほぼ例外なく同じ語尾という場合はその名前が始めから決まっているのではなくて一定の規則に従って自動的に作り出される形とみていい。ロシア語の父称のようなものか。現に-sonというのは明らかに「~の息子」で、英語のson、ドイツ語のSohnである。
 そういうことを考えながら試合を見ていたら突然隣から「じゃあ、アイスランド人は男と女は姓が違うんだな。女は皆-dóttirだろ。これって「~の娘」(ドイツ語でTochter)だよな」とコメントが入った。私が驚いて「なんであんたアイスランド語なんて知ってるの?」と聞くと

「知ってんじゃないよ。考えればわかるんだ(悪かったな、そこまでは考えが至らなくて)。ビョークの姓がGuðmundsdóttirじゃん。ははん、このdóttirはTochterだな、と今sonの羅列をみて思いついた。」

 そういわれてみると昔やはり「名前が発音できない」と恐れられていたアイスランドの女性大統領がいたがVigdís Finnbogadóttirという名前だった。しかも上のアイスランドの選手にそれと対応するFinnbogasonというラストネームがあるではないか。
 そこでドイツ語の語源辞典でTochterを引いてみると、印欧祖語の*dhuktērに遡れ、古高・中高ドイツ語のtohter、中期低地ドイツ語と現在のオランダ語のdochter、もちろん英語のdaughter、古期英語のdohter、スウェーデン語のdotter、ゴート語のdauhtarが同源である。そして「古代ノルド語」ではdōttir。アイスランド語は北ゲルマン語派の中でも最も古い形、特に語形変化パラダイムをよく保持していて、事実上「古ノルウェー語」または「古スウェーデン語」であると教わったが、本当だ。

 すると翌日の新聞の第一面にアイスランド人の名前についての記事が載った。それによると上のナントカソンあるいはナントカドッティルというのは実は姓ではないとのことである。アイスランド人には姓がないのだ。だから電話帳などには名前がアルファベット順に並んでいる。ではこのナントカソンとは何なのかというと、名前だけでは誰だかわからなくなるため、あくまで補助として親の名前をとってつけるもの、つまり本当にロシア語の父称以上の何物でもない。姓ではないから、当然父親と息子、母親と娘はソンやドッティルが違う。例えばGuðmundur Sigþórssonという人の息子がAlfreðという名前だったらAlfreð Guðmundsson、Björkという名前の娘はBjörk Guðmundsdóttir。親と子ばかりでなく夫婦ももちろんソンとドッティルが違う。さらに事を複雑にするのが、「父親とつながるのが嫌な人、そもそも父親が誰なのかわからない人は母親の名前をとってもいい」という規則である。だから兄弟姉妹間ではソンとドッティルという語尾ばかりでなく、そもそもの語幹となる名前のほうも違うことがあるのだ。
 日本で時々夫婦別姓議論の際、親と子供の姓が違うと家族の絆が崩れるとか頑強に主張している人がいるが、そういう人は一度アイスランドに行って見て来るといい。

 さて、上の名前を見るとソンの部分の s がダブってssonとなっている場合と単にsonとなっている場合とがあるが、私は「語幹の名前が子音で終われば s がダブり、母音で終わればダブらない」という規則なのかと思った。しかしどうもそうではないようだ。語幹の名前は単数属格形なんだそうで、s はその属格マーカーなのであり、sonの s がダブっているのではない。さらにアイスランド語には単数属格を a で作る名詞があって、そういう名詞には当然sonだけつく、とこういうしくみらしい。
 
 こういう風に姓なしでやってきてはいたがそれでも19世紀ころまでは外国から姓が導入されたりしたことがあった。だから父称でない姓をもったアイスランド人が少数ながらいる。これは親から子供に引き継がれる。逆にこのアイスランド式の姓でないラストネームは(ああややこしい)1992年からデンマークの自治領フェロー諸島でも認められるようになったそうだ。もっともフェロー諸島には普通の意味での姓もちゃんとあって、Joensen、 Hansen 、Jacobsenの3つが最も多い姓とのことである。上のリストにも一人sonでなくsenで終わるラストネームを持っている人がいるが、この人については「外国起源の姓を引き継いだ」と説明されていた。この外国というのはひょっとしたらフェロー諸島のことかも知れない。

 この父称制度は上にも述べたようにロシア語にある。男だと父の名前に-ич(イッチ)、女だと –евна(エヴナ)を語尾につけて作る。ロシア語はその上にさらに姓が別にあるが、南スラブ語ではこのイッチの父称が姓として固定し、男女共に同じ形になってしまっている。上で述べたセルビア語・クロアチア語の名前はそれである。ゲルマン語圏でも-sonで終わる姓は英語やスウェーデン語にやたらと多い。ドイツではこれが-senとして現われるが、このナントカセンという名前は北ドイツに特有のもので、南ドイツやオーストリアには本来見られなかった。
 中世に現在のロシア、ボルガ川領域に最初の都市国家を作り、黒海沿岸にまで進出したのがバイキング、つまり北ゲルマン人であること(ロシア人は彼らの事をヴァリャーギ人と呼んでいる)、大ブリテン島や北ドイツなどバイキングが活躍した、というかその被害を被ったというが、とにかく彼らの足跡がついた地域にこの父称起源の姓が多い、というのも考えてみると面白いと思う。

 サッカーの話に戻ると、イングランドに対して2点目を入れたのはSigþórssonという選手でローマ字ではSigthorssonと表記するが、このラストネームをドイツ語で読むとSieg-tor-sonとなり、意味はズバリ「勝利のゴール・ソン」。話ができすぎていて下手なギャグとしか思えない。
 また、この試合で選手以上に人気を呼んだのが、アイスランドのTV解説者で、その絶叫ぶり、というより絶叫を通り越してほとんど阿鼻叫喚的な解説ぶりに、「この人の心臓が心配だから次は医者をわきに待機させろ」とまでネットに書き込まれたほどだ。ドイツの新聞では「まさに火山の噴火」と表現されていた。

1点目のゴール、2点目のゴールと試合終了時におけるアイスランドの解説者の絶叫ぶり。アイスランド語では「2」をtvöというらしいことだけは聞き取れる。さすがゲルマン語派だ。ドイツ語や英語と似ている。tvöは主格中性形で、男性形ならtveir、女性形はtværである。




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 サッカーのゴールキーパーのことをドイツ語でTorwart(トーアヴァルト)というが、これは本来「門番」という意味だ。
 まずTorはゲルマン祖語のa-語幹の名詞*duraに遡れるそうで、中高ドイツ語ではtor、中期低地ドイツ語ではdor。英語ではdoorである。wartは「番人」で、動詞warten(ヴァルテン)から来たもの。wartenは今では「待つ」という意味だが昔は「管理する」とか「守る」「世話する」という意味で、現在でも辞書でwartenを引くと古語としてそういう意味が載っている。「待つ」というふうに意味変化を起こしたのは中高ドイツ語の初期あたりらしい。英語ではwardという動詞がこれに当たる。
 このTorwartはゲルマン語としては非常に古い単語で古高ドイツ語にすでにtorwartという語が存在したどころか、ゴート語にも対応するdaurawardsという言葉が見られるそうだ。しかし一方すでに古高ドイツ語の時代にラテン語から「門」Portaという言葉が借用されており、Torwartと平行して中期ラテン語のportenarius起源の「門番」、portināriという語も使われていて次第にこちらのほうが優勢になった。だから現在のドイツ語では「門番」をPförtner(プフェルトナー)というのである。借用の時期が第二次子音推移の時期より早かったため、p →pf と教科書どおりの音韻変化を起こしているのがわかる(中高ドイツ語ではこれがphortenœreと書かれ、子音推移を起こしているのが見て取れる)。この音韻変化を被らなかった英語では今でもp音を使ってporterと言っている。
 つまり、ドイツ語の「ゴールキーパー」はすでに廃れた古いゲルマン語を新しくサッカー用語として復活させたものなのである。

 だからこれを言葉どおりにとればゴールキーパーの仕事は「しかるべき球は丁重に中にお通しする」ということにならないか?でもそんなことをやったら試合になるまい。

 サッカーはイングランドが発祥地のはずだが、ドイツ人は自国のサッカーに誇りを抱いているためか用語に英語と違っているドイツ語独自のものがあり、うっかり本来の英語の単語を使うと怒る。中でも彼らが一番嫌うのは「サッカー」という言葉で、以前日本でもサッカーの事をサッカーと呼ぶと知って「なんで日本人はそんな白痴的な言葉を使うんだ。せめてフットボールといえないのか」と抗議されたことがある。私に抗議されても困ると思ったが、「フットボールと言っちゃうとアメリカン・フットボールと混同しやすいからでしょう」と答えてやったら、「アメリカ人があんな変なスポーツもどきをフットボールと呼ぶのは彼らの勝手だが、日本人までサルマネしてサッカーとか呼ぶことはないだろう」とますます気を悪くされた。その時向こうの顔に「だから日本人はサッカーが弱いんだ」と書いてあった…ような気がしたのは多分私の被害妄想だろう。

 さらに「ペナルティ・キック」はドイツ語でElfmeter(エルフメーター、「11メートル」)という。私はこっちの方がPKより適切だと思う。延長戦でも勝負がつかなかった時のキック戦を「ペナルティ」と呼ぶのは変だ。いったい何の罰なのかわからない。時間内にオトシマエをつけられなかった罰というのではまるで脅迫であるが、このエルフメーターに関してはまさに脅迫観念的な法則があるそうだ。それは「イングランドはかならずPKで負ける」という法則である。

 前回のユーロカップでイタリア対イングランドがPK戦になったが、PKと決まった時点で隣のドイツ人がキッパリといった。

「イタリアの勝ちだ。」

サッカー弱小国から来た私が馬鹿丸出しで「まだ一発も蹴ってないのになんでわかるの?」と聞いたら、

「PKなんてやるだけ無駄無駄。「PKをやればイングランドが負ける」というのは自然法則だ。逆らえるわけがない。」

最初の一人がどちらも入れたあと、イタリアの二人目が失敗し、イングランドが入れたが、彼は余裕で言った。

「うん、最初のうちはやっぱり現象に揺れがあるな。イングランドがPKでリードなんて初めて見たわ。でもこのあとはちゃんと法則通りに収束するから見ていろ。まず次3人目、イタリアが入れてイングランドがハズす。」

その通りになると、

「おや、少なくとも枠には当てられたな。ベッカムよりは優秀じゃないか。4人目、イタリアが入れてブフォンがとめる。」

以前やっぱりPK戦で球をアサッテのほうにすっとばしたベッカムの記憶はまだ新しいのであった。ちなみにその2日ほど前にブフォンがドイツ人のインタビューに答えている様子をTVで流していたが最初誰だかわからなかった。どうもこの顔見たことあるなと思ったらブフォンだったのである。なにせこの人はフィールドで吠えている姿しか見たことがないので、普通の顔をして普通にしゃべられるとわからなくなるのだ。

で、そのブフォンが本当に4人目のイングランドをとめる。

「次、イタリアが入れて試合終了だ」

本当にそうなってしまった。イングランドが一人余って試合終了。確かにこれは自然法則だ。次の日の新聞にも「イングランドのPK、やっぱりね」というニュアンスの記事が並んでいた。Es hört einfach nie auf(「このジンクスはどうやっても止まらないよ~」)というタイトルの記事も見かけた。

 その次のユーロカップ、つまり今回の大会ではイタリアはドイツとすさまじいPK戦になりイタリアのほうが負けたが、そこでドイツの解説者が上述のPK戦にふれ、「イタリアは前の大会でPK戦になって勝ちましたが、まあ相手がイングランドでしたから。」と蒸し返していたものだ。それにしてもこの2016年のPK戦は規定内の5人では勝負がつかず、9人目まで延長してやっと決着がついた。PKの延長戦というのを見たのは私はこれが初めてではあるが、双方あと二人頑張っていれば打者一巡(違)ということになってさらに凄まじさが増していただろうに、その点はかえすがえすも残念である。
 ちなみにさるドイツ人の話では、今までの人生で見た中で最も恥ずかしかったPKキックとは、蹴りを入れようとした選手がボールのところでつまずいた拍子につま先が触れ、球がコロコロ動き出してキーパーの手前何メートルかのところで止まってしまったものだそうだ。これも相当の見ものだったに違いない。

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