もとから高いとはいえなかったロシア語を読む力がめっきり落ちた、というか「なくなった」状態だったのでこれはヤバイと思い、積読してあったトルストイの短編хозяин и работник(ハジャーイン イ ラボートニク、「主人と下男」)を引っ張り出して読んでみたことがある。
ロシア語原文にドイツ語の対訳がついた本だが、実は私はこの「対訳」というのが語学で役にたったためしがない。高校や大学のときなど日英あるいは日独対訳本をよく買ったものだが、どうしてもつい日本語の訳だけスースー読んでしまい、肝心の原語のほうは素通り、そして日本語だけ読んでストーリーがわかってしまうと、もうわざわざ英語のテキスト見直す気がしなくなって結局何のプラスにもならなかった、という最悪のパターンで終わるのが常だった。
出版社のほうもそこら辺のことはお見通しらしく、学生用には全訳は載せないで、その代わり所々解説を加えるリーダー形式を出すのが普通だったが、こちらはこちらでまた問題があるのだ。校正者と波長が合わないとイライラの連続になるのである。すでに知っている単語とか文法について延々とくどく説明してある一方、説明してもらいたい肝心の部分の解説がスッポリぬけていたりすることが度重なるとなんかこう、全く話の通じない人と会話をしているような気になって来て、やっぱり途中で投げ出してしまう。私の本棚にはそうやって途中で投げ出された英語ドイツ語のリーダーの死体が山積みになっている。
幸いと言うか、対訳がドイツ語だとロシア語と比べると差があるとはいえ日本語のように光速では意味が頭に入ってこないから目は嫌々原語に向かい、対訳だけ読んで終わるというハメに陥らず一応全部原語のほうを読み通せた。やれやれ。
主人公は手広く商売をやっている金持ちとその下男で、ある日例によって「おいしい商談」をしに出かけたところが途中で吹雪に襲われて道に迷う。ロシアの冬の吹雪だ、即凍死を意味する。金持ちのほうはそれまでお金お金でやってきて、「貧乏な奴は努力と頭が足りないんだ」という価値観だったので、吹雪の中で立ち往生した時、自分が今まで築いてきた富、まだ受け取っていない代金、社会での地位などが惜しくてとてもここで死ぬ気にはなれず、街道に出ようとやたらとあちこち走り回って馬を疲れさせ墓穴を掘る。ところが下男のほうは、この吹雪で視界ゼロのところを走り回ったってどうしようもない、じっとしているに限る、死んだら死んだでその時だ、とビバークして凍死の危険をものともせずに悠々と寝だす。これぞまさにБез денег сон крепчеという格言(『10.お金がなければ眠りは深い』の項参照)そのものだ。
しかし死を前にして主人のほうも人格が浄化され、ついに自分の命を犠牲にして下男の命を救う。死ぬことに対してもはや悲しみも運命に対する怒りも感じず、下男が生き延びるという事は即ち自分も共に生きるということだ、と喜びさえいだくようになる。
トルストイは晩年には死と信仰をテーマにし続けたが、この作品もそうだ。このхозяин и работникのほうがあの有名な『イワン・イリッチの死』より十年近く後に書かれている。また、言うまでもないことだがこれは短編だったのでかろうじて読破できたが、『戦争と平和』のほうはこの先も原語なんかでは読めそうもないので悪しからず。「やれずに終わってしまうこと」が人生には多すぎる。というより「達成したこと」がまったくない人生で終わってしまいそうだ私は。
さてドイツ語訳とロシア語原文を比べていて気づいたことだが、ドイツ語のテキストのほうが1割から2割くらい、ページによっては2割5分くらい長い。ロシア語はいわゆるゼロ代名詞をガンガン許すし、シンタクスが複雑でちょっと格を変えただけで微妙に違うニュアンスを表せるから、必須の文構成要素でがんじがらめになっているドイツ語や英語なんかよりずっと短くてすむのだろう。実際ロシア語でよく意味が取れなくてドイツ語の「答え」を見たが、それでもなおよくわからなかった部分がある。例えば
- Бегу ей настоящего нет, снежно, - сказал Василий Андреич, гордясь своей хорошей лошадью.
私は慌て者なのでбегу(ビェグー)と見ると早とちりして「ああбежать(ベジャーチ、「走る」)の一人称単数形だな、そのくらいの不規則動詞の変化は知ってるぞふふん」と自己陶酔交じりの解釈をしてしまいそうだが(実は実際にしてしまった)、それではこのセンテンスの意味が全然つながらない。もう一度よく見直して考えてみてもやっぱりわからないのでドイツ語の「回答」を盗み見してしまった。
"Er kann nicht so schnell wie üblich laufen, zu viel Schnee", sagte Wassilij Andrejitsch, der stolz auf sein gutes Pferd war.
「馬の奴いつもみたいに早くは走れませんや、この雪じゃね。」と自分の素晴らしい馬がご自慢のヴァシリー・アンドレイッチが言った。
するとこのБегуというのは動詞ではなくて名詞бег(ビェーク、「疾走・駆け足」)としか考えられないが、問題はこの格である。普通に考えればこれは与格だ。自然さを無視して直訳すると「走りぶりには本来のものがない、雪である」。しかしこれで完全に納得はできないのである。このセンテンスにはすでに与格の代名詞ей(「彼女に」、ここでは「馬に(とって)」)が存在しているからだ。つまりこれはダブル与格になっているわけで、「こういうのってアリなのか?」と戸惑ってしまった。といってこのБегуを与格以外の格と解釈しようとすると生格しかありえない。нет(「ニェット」)という否定詞があるから名詞が生格になり、やっぱり生格の形容詞настоящего(ナスタヤーシェヴォ、「本来の・純粋な・現在の」)がこれにかかって「馬には本来の走りっぷりがない」。意味としては合っている。が、この、-уで作る生格というのは非常に限られた名詞にしか許されておらず、辞書に必ず「この名詞は-уでも生格を作ります」と明記してあるはずなのだ。бегの項にはその指示がないから生格形はбегаという形しかありえないはずだ。それとも僻地の農民層はбегの生格を-уで形成することもあったのか?
まあダブル与格だろうが否定の生格だろうがおおよその意味は違わないからどっちでもいいやという気になって(だから私はいつまでたっても語学が上達しないのだ)、次にソルジェニーツィンの『マトリョーナの家』の露独対訳本をみてみると、こちらもやはりドイツ語のほうが長いとはいえ、現代文学であるせいかトルストイより大分差が縮まっている。それでもロシア語では簡単な文構造で言いあらわせることがドイツ語では「説明」になってしまっている部分が散見された。
Из графика вышел?
~から + ダイヤ・時刻表 + 離れた・脱した
時刻表から離れたのか?
というたった3語からなるセンテンスがドイツ語では、
War der Fahrplan nicht eingehalten worden?
時刻表通りに運転しなかったのか?
と倍の6語になっていた。
さらにしつこくガルシンの『あかい花』だが、これはドイツ語とロシア語のテキストの長さの差がトルストイよりさらに激しかった。ガルシンはトルストイより前の時代の作家である。
そういえばチェーホフが「ものを書く才能とは短く書くことだ」と言っていたそうだ。内容的に乏しいのに、というか内容が乏しいからこそカムフラージュのためにやたらと改行したり変なモッタイをつけてダラダラ牛のヨダレみたいに長くした文章はチェーホフから見たら駄文の最たるものなんだろう。
しかし短くすることが最重点なのは小説やエッセイよりなんと言っても映画の字幕ではなかろうか。登場人物がしゃべっている間に読み終わる長さ、いや短さでなければいけないからだ。話す速度のほうが読む速度より速いのと、あまりべったり文字を挿入すると画面が損なわれてしまうのとでセリフが翻訳でなく要約されて出る。実は私はそうやって短くしてもらってもドイツ語の字幕だと映画に追いつけない。最後まで読み終わらないうちに消えてしまうことが多いのだ。日本語字幕では何の問題もないから、ここでも母語と外国語の理解のスピードの間には本質的な違いがあることが明らかだ。この差は一生縮まるまい。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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ロシア語原文にドイツ語の対訳がついた本だが、実は私はこの「対訳」というのが語学で役にたったためしがない。高校や大学のときなど日英あるいは日独対訳本をよく買ったものだが、どうしてもつい日本語の訳だけスースー読んでしまい、肝心の原語のほうは素通り、そして日本語だけ読んでストーリーがわかってしまうと、もうわざわざ英語のテキスト見直す気がしなくなって結局何のプラスにもならなかった、という最悪のパターンで終わるのが常だった。
出版社のほうもそこら辺のことはお見通しらしく、学生用には全訳は載せないで、その代わり所々解説を加えるリーダー形式を出すのが普通だったが、こちらはこちらでまた問題があるのだ。校正者と波長が合わないとイライラの連続になるのである。すでに知っている単語とか文法について延々とくどく説明してある一方、説明してもらいたい肝心の部分の解説がスッポリぬけていたりすることが度重なるとなんかこう、全く話の通じない人と会話をしているような気になって来て、やっぱり途中で投げ出してしまう。私の本棚にはそうやって途中で投げ出された英語ドイツ語のリーダーの死体が山積みになっている。
幸いと言うか、対訳がドイツ語だとロシア語と比べると差があるとはいえ日本語のように光速では意味が頭に入ってこないから目は嫌々原語に向かい、対訳だけ読んで終わるというハメに陥らず一応全部原語のほうを読み通せた。やれやれ。
主人公は手広く商売をやっている金持ちとその下男で、ある日例によって「おいしい商談」をしに出かけたところが途中で吹雪に襲われて道に迷う。ロシアの冬の吹雪だ、即凍死を意味する。金持ちのほうはそれまでお金お金でやってきて、「貧乏な奴は努力と頭が足りないんだ」という価値観だったので、吹雪の中で立ち往生した時、自分が今まで築いてきた富、まだ受け取っていない代金、社会での地位などが惜しくてとてもここで死ぬ気にはなれず、街道に出ようとやたらとあちこち走り回って馬を疲れさせ墓穴を掘る。ところが下男のほうは、この吹雪で視界ゼロのところを走り回ったってどうしようもない、じっとしているに限る、死んだら死んだでその時だ、とビバークして凍死の危険をものともせずに悠々と寝だす。これぞまさにБез денег сон крепчеという格言(『10.お金がなければ眠りは深い』の項参照)そのものだ。
しかし死を前にして主人のほうも人格が浄化され、ついに自分の命を犠牲にして下男の命を救う。死ぬことに対してもはや悲しみも運命に対する怒りも感じず、下男が生き延びるという事は即ち自分も共に生きるということだ、と喜びさえいだくようになる。
トルストイは晩年には死と信仰をテーマにし続けたが、この作品もそうだ。このхозяин и работникのほうがあの有名な『イワン・イリッチの死』より十年近く後に書かれている。また、言うまでもないことだがこれは短編だったのでかろうじて読破できたが、『戦争と平和』のほうはこの先も原語なんかでは読めそうもないので悪しからず。「やれずに終わってしまうこと」が人生には多すぎる。というより「達成したこと」がまったくない人生で終わってしまいそうだ私は。
さてドイツ語訳とロシア語原文を比べていて気づいたことだが、ドイツ語のテキストのほうが1割から2割くらい、ページによっては2割5分くらい長い。ロシア語はいわゆるゼロ代名詞をガンガン許すし、シンタクスが複雑でちょっと格を変えただけで微妙に違うニュアンスを表せるから、必須の文構成要素でがんじがらめになっているドイツ語や英語なんかよりずっと短くてすむのだろう。実際ロシア語でよく意味が取れなくてドイツ語の「答え」を見たが、それでもなおよくわからなかった部分がある。例えば
- Бегу ей настоящего нет, снежно, - сказал Василий Андреич, гордясь своей хорошей лошадью.
私は慌て者なのでбегу(ビェグー)と見ると早とちりして「ああбежать(ベジャーチ、「走る」)の一人称単数形だな、そのくらいの不規則動詞の変化は知ってるぞふふん」と自己陶酔交じりの解釈をしてしまいそうだが(実は実際にしてしまった)、それではこのセンテンスの意味が全然つながらない。もう一度よく見直して考えてみてもやっぱりわからないのでドイツ語の「回答」を盗み見してしまった。
"Er kann nicht so schnell wie üblich laufen, zu viel Schnee", sagte Wassilij Andrejitsch, der stolz auf sein gutes Pferd war.
「馬の奴いつもみたいに早くは走れませんや、この雪じゃね。」と自分の素晴らしい馬がご自慢のヴァシリー・アンドレイッチが言った。
するとこのБегуというのは動詞ではなくて名詞бег(ビェーク、「疾走・駆け足」)としか考えられないが、問題はこの格である。普通に考えればこれは与格だ。自然さを無視して直訳すると「走りぶりには本来のものがない、雪である」。しかしこれで完全に納得はできないのである。このセンテンスにはすでに与格の代名詞ей(「彼女に」、ここでは「馬に(とって)」)が存在しているからだ。つまりこれはダブル与格になっているわけで、「こういうのってアリなのか?」と戸惑ってしまった。といってこのБегуを与格以外の格と解釈しようとすると生格しかありえない。нет(「ニェット」)という否定詞があるから名詞が生格になり、やっぱり生格の形容詞настоящего(ナスタヤーシェヴォ、「本来の・純粋な・現在の」)がこれにかかって「馬には本来の走りっぷりがない」。意味としては合っている。が、この、-уで作る生格というのは非常に限られた名詞にしか許されておらず、辞書に必ず「この名詞は-уでも生格を作ります」と明記してあるはずなのだ。бегの項にはその指示がないから生格形はбегаという形しかありえないはずだ。それとも僻地の農民層はбегの生格を-уで形成することもあったのか?
まあダブル与格だろうが否定の生格だろうがおおよその意味は違わないからどっちでもいいやという気になって(だから私はいつまでたっても語学が上達しないのだ)、次にソルジェニーツィンの『マトリョーナの家』の露独対訳本をみてみると、こちらもやはりドイツ語のほうが長いとはいえ、現代文学であるせいかトルストイより大分差が縮まっている。それでもロシア語では簡単な文構造で言いあらわせることがドイツ語では「説明」になってしまっている部分が散見された。
Из графика вышел?
~から + ダイヤ・時刻表 + 離れた・脱した
時刻表から離れたのか?
というたった3語からなるセンテンスがドイツ語では、
War der Fahrplan nicht eingehalten worden?
時刻表通りに運転しなかったのか?
と倍の6語になっていた。
さらにしつこくガルシンの『あかい花』だが、これはドイツ語とロシア語のテキストの長さの差がトルストイよりさらに激しかった。ガルシンはトルストイより前の時代の作家である。
そういえばチェーホフが「ものを書く才能とは短く書くことだ」と言っていたそうだ。内容的に乏しいのに、というか内容が乏しいからこそカムフラージュのためにやたらと改行したり変なモッタイをつけてダラダラ牛のヨダレみたいに長くした文章はチェーホフから見たら駄文の最たるものなんだろう。
しかし短くすることが最重点なのは小説やエッセイよりなんと言っても映画の字幕ではなかろうか。登場人物がしゃべっている間に読み終わる長さ、いや短さでなければいけないからだ。話す速度のほうが読む速度より速いのと、あまりべったり文字を挿入すると画面が損なわれてしまうのとでセリフが翻訳でなく要約されて出る。実は私はそうやって短くしてもらってもドイツ語の字幕だと映画に追いつけない。最後まで読み終わらないうちに消えてしまうことが多いのだ。日本語字幕では何の問題もないから、ここでも母語と外国語の理解のスピードの間には本質的な違いがあることが明らかだ。この差は一生縮まるまい。
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