アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

März 2016

 用事でGという町まで電車で行った時、途中の「鬼門」L中央駅(『28.私のせいじゃありません』参照)につく前の車内アナウンス、「降車口は左側です」というのがフランス語で入ったことがある。 
 英語のアナウンスなんかはしょっちゅうなので何とも思わない、というよりいつも「こんな田舎の電車で英語アナウンスなんてしたって仕方ないでしょに、カッコつけんなって」とせせら笑いながら聞いているのだが、フランス語というのは初めてだったので内心「おっ」と思った。たしかにここはフランスから遠くないが、あくまで「遠くない」であって、決して「すぐ近く」とはいえない距離だからだ。それから何駅かしばらくの間シーンと聞き耳を立てていたが、とうとう二度とフランス語はやってくれなかった。
 それがきっかけというわけではないが、その後しばらくしてちょっとフランスまで行ってみた。その路線を目的のG駅で降りずにそのまま進むとフランスに突っ込むのである。当時はG駅までの一日乗車券とその先のほうにあるLauterbourg(ロテルブール、ドイツ語ではラウターブルク)というフランスの町がギリチョンで射程内に入る一日券とが同じ値段だった(往復キップになると後者の方が高かった)ので、またG駅まで行く用ができた際少し余分に出して一日乗車券を買い、Lauterbourgまで行ってみたのだ。一人で行くのは心細かったのでフランス語のできる(はずの)ドイツ語ネイティブを連れて行った。
 まずGで用を済ませた後、さらにもと来た路線にのって先に進むとWörth(ヴェルト)という駅に着くのだが、こことLauterbourgとの間のたった5駅ばかりを往復している路線があるのでそれに乗り換える。

Bahnstrecke_Wörth–Strasbourg
ヴェルト-ストラスブール間の路線図。ロテルブールの前の小さな丸はBerg(ベルク)という駅でこれが「ドイツ最後の駅」である。そことロテルブールとの間に国境線が走っているのが見える。

毎日毎日たった5駅を行ったり来たりしているというのも筑波大の学内バスより空しい感じだが、ここの「次の停車駅は○○です。降り口は向かって右側です」さらに「次の○○が終点です、○○路線をご利用ありがとうございました」とかいうアナウンスが全てドイツ語とフランス語の二ヶ国語になっていた。もしかしたら私が以前にL中央駅で聞いたフランス語アナウンスは、運転手がボタンを押し間違えてうっかりフランス語を流してしまったためかもしれない。録音の声が全くおなじだった。この段階ですでに外国感爆発だったが、目的地Lauterbourgに実際に行って見てまた驚いた。

1.駅の表示、「何番線」とか「出口・入り口」などが全部フランス語。

2.時刻表、「月曜日から金曜日」「土曜のみ」とかいう指示も全部フランス語。おまけに時刻表はドイツのみたいにダサい白黒でなくオシャレなカラー印刷。ただテキストが読めないのがキツイ。

3.時刻表を見ていたら隣にいたおっちゃんがフランス語で話しかけてきたのでビビリまくり。

4.町をちょっと散歩したら、通りの名前とか行き先案内から何から全部フランス語。

5.バスの停留所とかに貼ってある広告も全部フランス語。

6.そこら辺に止まっていた水道屋さんのらしいバンにかいてある多分「電話一本で迅速工事」とかいう意味らしき宣伝文句が全部フランス語。

7.そこに書いてあったメールのドメインが○○.fr!

8.肉屋さんとか美容室の看板も全部フランス語。

9.極めつけは、道でボールけって遊んでいたガキンチョどもの会話が全部フランス語!

10.町の名所・旧跡とかにはフランス語とドイツ語で説明があったが、そのドイツ語に何気に誤植がある。

もう最後には向こうから人が来るたびに「話しかけられたらどうしよう」という恐怖のあまり冷や汗が出てきた。連れの「通訳」も「○○通り」とか「入り口・出口」「本屋」くらいは読めたようだが、あんまり私がいちいち「これ何てかいてあるの」「これ何これ」と聞くのでしまいには「そう毎回聞かれたって困る。俺だってわかんないんだ!」とヒステリーを起こした。 
 この調子だと一旦道に迷ったらもう一生ドイツに帰れなくなりそうなので、あまり深入りせずにチョチョッと通りをひとつ散歩してそそくさと帰ってきてしまった。以前「アルザス・ロレーヌは表示とか全部バイリンガルだし、皆ドイツ語を話してますよ」とか言っていた学生がいたので鵜呑みにしていたが、ウソではないか。

 しかし町は全体として隣接するドイツのよりこぎれいで、いかにもフランスの政府からお金を貰ってそうだった。そもそもこんな辺鄙なところにストラスブールまで電車路線が引いてあること自体、フランス政府がアルザス・ロレーヌに力を入れているのを垣間見た気がしたのだが、アルザスには原発が多いからひょっとしたらそんなことで潤っていたのかもしれない。今は原発の未来がちょっと危うくなって来たがあの町はどうなっているのだろう。あと、他に見るところもないから道に立っている家の表札を見て歩いたのだがJean-Luc Scholzなどという苗字はドイツ語名前はフランス語というパターンが大半だったのが印象に残っている。
 さらに思い出すと、信号機がドイツとは全く違う形でこれも無骨なドイツのと違ってしゃれたデザインだった。

 帰りも帰りで電車を待っていた時、例によって駅のアナウンスがフランス語で(当たり前だ)入ったが、それを聞いた通訳が「あっ、俺たちの電車のことだ」とか言うので私が「その俺たちの電車がどうしたのよ」と聞いたら「そこまではわからない」とかこきやがった。肝心の情報内容が聞き取れなかったらどうしようもないだろうがこの野郎。
 この調子でうっかり乗る電車の方向を間違えてストラスブールまで連れて行かれたらエライことになるので、さらに「ちょっとそこの人にこの電車が本当にWörthに行くのかどうか聞いてみてよ」と頼んだ。「ちょっとお尋ねしますが、この電車はドイツに行くんですか?」くらいのフランス語を話してくれるかと思いきや、たった二語(しかもドイツ語で)「Nach Wörth?(to Wörth?)」。そんなんだったら私にも出来るわ。

 実は私はこれが人生で2度目のフランス訪問である。最初はもうかれこれ28年も前、日本からドイツへ行くのにスケジュールの合う便がなくて、パリまで飛んでそこから電車でドイツに入ったのだ。夜にシャルル・ドゴール空港についたがもう不安で死ぬかと思った。そこから「パリ北駅」まで何らかの交通機関を使って行かなければならなかったのだが、道に迷ったらもう最後だ。人に聞くことができないからだ。いや、仮に聞けたとしても答えが理解できないから聞けないのと同じことだ。今思い出すと自分でもどうやってそんなことができたのかわからないが、飛行機の中で一生懸命発音練習しておいたAllemagne とGare du Nordを連発して切り抜けた。とにかく目的の電車に乗ってベルギーを通り抜けドイツにたどり着けたのである。夜行だったので窓外は真っ暗で何も見えなかったが、どうせ車内でビンビンに緊張したままずっと前を向いていたから外の景色など見えたところで楽しむ余裕などなかったろう。朝方「アーヘン」というドイツの駅名を見たときは地球に帰還したジェーンウェイ艦長の気分、というと大袈裟すぎるがホッとするあまり緊張の糸が切れて一気に年をとった気がした。

 私は言葉の通じない国に行くのが怖い。が、「怖いもの見たさ」というのは私にもある。


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 いわゆる学校文法では「数詞」が独立した品詞として扱われることが多いが、この数詞というのは相当なクセ者だと思う。それ自体が形の点でもシンタクス上でも名詞と形容詞の間を揺れ動くので、勘定されるほうの名詞との結びつきも複雑になるからだ。
 例えば次のセンテンスだが、

Ten soldiers killed a hundred civilians with twenty guns.

この英語だけ見ると一見 soldiers、civilians、guns の深層格はそれぞれ主格、対格、前置詞格あるいは具格だと思う。 ところが soldiers、civilians などの名詞がここで主格や対格に立たない言語は印欧語族にはゴマンとある。ロシア語だと、

Десять солдат убило/убили сто гражданских людей двадцатью ружьями.
ten + soldiers + killed + hundred + civilian + people + twenty + guns

ここでは数詞の後の soldiers、civilian people(太字)が複数属格(ロシア語文法では「生格」)である。つまりдесять(「10」)、сто(「100」)は普通名詞的なのだ。名詞がもう一つの名詞を修飾する場合、一方が属格になる、つまり「山田さんの家」と同じ構造だ。一方対格と主格以外では数詞が名詞の格と一致する。まるで形容詞のように呼応するのである(下記参照)。いずれにせよロシア語ではこれらの「数詞」は立派に格変化を起こす:десять(主格・対格)→десяти(生・与・前置格)→десятью(造格)あるいはсто(主・対格)→ста(生・与・造・前置格)。実はこういう数詞・名詞の格構成はサンスクリットの昔から印欧語族ではむしろ一般的だ。

サンスクリットでは:
1.数詞1-19が形容詞的に用いられ、その関係する名詞の性・数・格と一致する(つまり数詞も立派に格変化する)。
2.20-99、100、1000等は名詞として扱われ、これの付随する名詞は同格に置かれるか、あるいは複数属格となる。

古教会スラブ語では:
1.1~4は形容詞的特性、つまり付加語扱い。「1」では名詞は単数同格、「2」とは双数(両数)同格、3~4で複数同格、5以上から複数属格。
2.数詞の活用は、1~2が代名詞活用、3が名詞i-活用、4が子音活用とi-活用の混同タイプ、5~9だと活用だけでなく品詞も形容詞でなく名詞扱いでi-活用統一。

ロシア語では上にもあるように、主格と対格で数詞の披修飾名詞が属格になり、その他の格では披修飾名詞と数詞が同格だ。それで最初の例文の中の двадцатью ружьями(下線部)は数詞と名詞のどちらも造格になっている。つまりサンスクリットと同じく名詞が数詞と同格におかれるか、あるいは名詞のほうは複数属格に立つという二つのパラダイムが共存しているわけだ。
 対してラテン語では数詞は不変化「形容詞」とみなされたそうで現在の英語やドイツ語といっしょだが、それでもさらに調べると tantum(たくさんの)、plus(より多くの)などの数量表現では披修飾名詞は複数あるいは単数属格になるというから、数詞も名詞的な特性を完全には失っていない。

plūs pecūniae
more + money(複数属格)

『30.あともう少しのドルのために その2』の項で出したイタリア語の例

un po' più di libri
a + few + more + of + books

も di が入るから属格表現の仲間だとみなしていいのではないだろうか。もっとも例えばラテン語のquīdam(「いくつかの」)は「dē または ex」という前置詞がその後に来た後名詞の奪格を取るそうなので、このdi libriも本来は奪格なのかなとは思う。いずれにせよここでラテン語の属格・奪格形がとろけて一緒になってしまい、格機能が統合されていった様子がよくわかる。
 さらにやっぱりそこの項で出したロシア語

На несколько дрлларов вольше
on/for + some + dollars(複数属格) + more
(For some dollars more)

の「ドル」も複数属格である。

 ドイツ語もよくみると結構面白いことになっていて、数量表現が名詞的特徴を示すことがある。たとえば「多くの私の学生」は

* viele meine Studenten
many + my(複数主格) + students

と「私の学生たち」を主格にすることはできず、披修飾名詞を属格にしないといけない:

viele meiner Studenten
many + my(複数属格) + students

イタリア語と同じくここで各変化による属格でなく前置詞のvon(英語のof)を使って

viele von meinen Studenten
many + of + my(複数与格) + students

ということもできるが、これは上の例と比べて「日常会話的」とのことである。

 英語ほどひどくはないとはいえ、ドイツ語も格変化を捨てまくって堕落したがやっぱりまだまだ印欧語なのである。もっとも日本語でも「私の学生の多く」と「学生」を属格にできるが。
 数詞でも同じことが言えて、

* zwei meine Studenten
two + my (複数主格) + students

zwei meiner Studenten
two + my (複数属格) + students

meine zwei Studenten
my (複数主格) + two + students

*のついた2例では数詞が形容詞としての特性を示すため、いわゆる determinator、つまり「私の学生」というDPを支配する所有代名詞 meine の前に出られないが、披修飾名詞が属格の構造では数詞はそれ自体が事実上名詞であるからそこにまたDP、つまり「私の学生」がくっ付くことができる、と純粋にシンタクスの問題として説明することができるが、もっと見ていくと(しつこいなあ)、実は事はそんなに簡単ではないことがわかる。なぜなら

alle meine Entchen
all(複数主格) + my(複数主格) + ducklings

というフレーズは数量表現がdeterminatorの前に来てしかもそのdeterminatorが主格なのに許されるからである。ネイティブに説明を求めたら「1.この表現は子供の歌だからそもそも俗語的だし、2.alleという表現で表現された数量は閉じられたものであるからdeterminatorの限定的な意味と衝突しないからなんじゃないの?」と言っていた。限定非限定の意味の差が決定権を持っている例は他にもあって、例えば

meine viele Studenten
my(複数主格) + many(主格) + students

ということはできるが、

*meine einige Studenten
my (複数主格) + some(主格) + students

とは言えない。meineの持つ限定的意味とeinige(「(不特定の)いくつかの」)の非限定的な意味合いが衝突するからだろう。viel(「たくさんの」)だと「いくつか」より非限定性がはっきりしていないから限定のdeterminator、所有代名詞と共存できるのだと思う。
 シンタクスだけで全てを説明するのはやはり無理があるようだ。

 さて本題だが、ロシア語学習者泣かせの問題として2、3、4では披修飾名詞が変な形をとる、ということがある。英語やドイツ語では2以上になると披修飾名詞は一律複数主格なので何も苦労がないのだが、ロシア語はそんなに甘くない。ちょっとくらべてみてほしい。比べやすいようにロシア語はローマ字にしてみた。
Tabelle1-58
数が2から4までだと名詞が特殊な形をしているのがわかるだろう。これを語学書などでは「ものがひとつの時は名詞は単数主格、2から4までは単数属格(太字)、5以上になると複数属格(下線)をとる。20までいくとまた1から繰り返すので21の机では名詞が単数主格である」、と説明してある。パラダイムをみてみると確かになるほどとは思う。
Tabelle2-58

私の語学の教科書にもそう書いてあったのだが、そのときのロシア人の教師が運悪く言語学系であったため(『34.言語学と語学の違い』参照)、そこで私たち向かって堂々とこういった。

「語学の入門書とか文法書には「2、3、4は名詞の単数属格をとる」と書いてあったりしますが、これはデタラメです。そう説明しないと初心者が混乱するからです。この形はロシア語では失われてしまった古い双数形が残ったものです。」

古教会スラブ語 plodъ(「果実」)のパラダイムを調べてみると、o-語幹では確かに双数主格と単数属格が同形に見える。
Tabelle3-58
それでは2、3、4、のあとに来る名詞の形が単数生格でなく双数主格だとどうしてわかるのか。実は「2」のあとに来る形と単数生格ではアクセントの位置が違うのである。たとえば、шаг(シャーク、「歩、歩調」)の単数生格はшагаで、アクセントは最初のаにあるから「シャーガ」。対して「二歩」はдва шагаだが、アクセントが2番目のаに来て「シャガー」となる。同じくчас(チャース、「1時間」)の単数生格は часа(チャーサ)だが「3時間」は три часа(トリー・チャサー)だ。つまり字に書くとアクセントが表せないから同じに見えるがこの二つは本来全然違う形なのだ。
 これを「単数生格」とデタラメな説明をする語学教師あるいは教科書を、イサチェンコという言語学者が著書の中で「言語事実を強姦するに等しい」とまで言って怒っていた。しかしたかがこれしきのことで強姦呼ばわりされていたら、そこら辺のいわゆる「よくわかる○○語」「楽しく学べる○○語」の類の語学書には強姦魔がいくらもいる。私もさるドイツ語の楽しい入門書で不規則動詞について「日頃よく使う道具はあまり使わない道具より消耗が激しいでしょう。それと同じく日頃よく使う動詞は形が崩れやすいんですよ」とわかりやすい説明をしているのを見たことがあるが、これなんか強姦殺人級の犯罪ではないだろうか。話が全く逆の上に、ドイツ語ばかりでなく、他の言語も不規則動詞は「規則動詞より変化が早かったため」と一般化されてしまいかねないからである。
 使用頻度の高い「基本動詞」が不規則動詞であることが多いのは変化に曝された度合いが規則動詞より強かったからではなくて、その逆、それらが頻繁に使われるため、古い形がそのまま引き継がれて変わらずに残ったからだ。言語が変化し、動詞のパラダイムが変わってしまった後もそれらがまさに頻繁に口に上るそのためにパラダイム変化を被らなかったからである。たとえばロシア語で take という意味の不規則動詞の不定形は взять だが、定形・現在時称だと возьму(一人称単数)、возьмёшь(2人称単数)などとなって突然鼻音の м (m) が現われ学習者はビビる。しかしこれは規則動詞より形が崩れたからではなくて、ロシア語の я が古い時代に鼻母音だった名残である。つまり不規則動詞のほうが古い形を保っているのであり、規則動詞がむしろ新参者なのだ。

 語学書やいいかげんな語学教師のデタラメな強姦罪に対して声を上げたロシア語の先生は勇気があるとは思うが(女の先生だった)、実は一つだけ疑問が残った。残念ながら私のほうに勇気が欠けていたのでその場で質問しそこねたためいまだに疑問のまま残っているのだが、

「2の後の名詞が双数主格なのはわかるが、どうして3と4まで双数になっているのか。」

この記事を書く機会にちょっと調べてみたのだがはっきりその点に言及しているものが見つからなかった。かろうじて次のような記述を見かけたが説明としてはやや弱い。

Под влиянием сочетаний с числительным два аналогичные формы появились у существительных в сочетаниях с числительными три и четыре

数詞の2との組み合わせに影響され、そこからの類推によって数詞の3と4と結合する場合も名詞が同様の形をとるようになった。

上の古教会スラブ語の説明にあるように、3と4は本来複数主格だったはずである。5からは複数属格だったから形が違いすぎて類推作用が及ばなかったのはわかるが、3と4で双数主格が複数主格を食ってしまったのはなぜなのかどうもわからない。やっぱりあの時勇気を出して先生に聞いておけばよかった。


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 ドイツでは国歌を斉唱したりすることがあまりない。もちろん学校行事で歌うことなどないしそもそも「学校行事」などというものがほとんどない。国旗を掲げたりもあまりしない。ベルリンの国会議事堂なんかにはかろうじて国旗が揚がっているが、地方裁判所になると立ててあるのは州旗である。
 昔フライブルク・バーゼル経由でチューリヒに行こうとして電車に乗っていたところ、パスポートのコントロール(当時はまだ東西ドイツがあったし、EUでなくECだったのでスイスとの国境でパスポートのチェックがあったのだ)に来た警察官のおじさんが雑談を始めて、「スイスに行くんですか。でもシュバルツバルトも見ていくといい。フライブルク、チューリヒ、あとミュンヘンやオーストリアの住人って一つの民族なんですよね。言葉も同じ、文化も同じ、一つの民族なんだ」と言っていた。つまりこの南ドイツの警察官のおじさんにとってはオーストリア・スイスのほうが北ドイツ人より心情的に「同国人」なのだ。一方北ドイツ人も負けていない。「フランクフルトから南はもうドイツ人じゃない。半分イタリア人だ」「バイエルン訛よりはオランダ語の方がまだわかる」などといっている人に遭ったことがある。かてて加えてドイツ国内にはデーン人やソルブ人などの先住民族がいる。後者は非ゲルマン民族だ。こういうバラバラな状態だから国旗なんかより先に州旗が立つのだ。ドイツでいい年の大人が国歌を歌ったり国旗を振り回したりするのはサッカーの選手権のときくらいではないだろうか。時々これでよく一つの国にまとまっていると不思議になるが、国歌斉唱などしなくてもドイツという国自体は非常に堅固である。

 日本では時々小学校、ひどい時には大学で国歌を斉唱させるさせないの議論になっているが、そんなことが国家の安定とどういう関係があるのかいまひとつよく理解できない。理解できないだけならまだいいのだが、小学校の式で国歌を歌わせる際、教師や生徒が君が代を本当に歌っているかどうかを校長がチェックするべきだ云々という報道を見たことがあり、これにはさすがに寒気がした。中年のおじさん教師が10歳くらいの子供の口元をじいっと見つめている光景を想像して気分が悪くなったのである。
 子供たちもこういうキモいことをされたら意地でも歌ってやりたくなくなるだろうが、相手は生殺与奪権を持つ大人である。せいぜい口パクで抵抗するしかない。しかしこの「口パク」というのは結局、実際に音が出ないというだけで頭の中では歌っているわけだから相手に屈したことになる。それではシャクだろうからいっそ君が代を歌っていないことがバレない替え歌を歌うという対抗手段をとってみてはいかがだろうか。

 まず、「バレない替え歌の歌詞」の条件とは何か、ちょっと考えてみよう。

 第一に「母音が本歌と揃っている」ということだ。特に日本語のように母音の数が比較的少ないと、アゴの開口度が外から見て瞭然、母音が違うとすぐ違う歌詞なのがわかってしまう。
 もう一つ。両唇音を揃える、というのが重要条件だ。摩擦音か破裂音かにかかわらず、本歌で両唇音で歌われている部分は替え歌でも両唇音でないといけない。両唇音は外から調音点が見えてしまうからだ。具体的にいうと本歌で m、b、p だったら替え歌でも m、b、p になっていないとバレる。ただしこれは円唇接近音でも代用が利く。円唇の接近音は外から見ると両唇音と唇の動きが似ているからだ。で、m、b、p は w で代用可能。逆も真なりで本歌の w を m、b、p と替え歌で代用してもバレない。
 あと、これはそもそも替え歌の「条件」、というより「こうありたい」希望事項だが、母音は揃えても子音は全て変えてみせるのが作詞者の腕の見せ所だ。音があまりにも本歌と重なっていたら、替え歌とはいえないだろう。少なくともあまり面白くない。

 これらの条件を考慮しつつ、私なりに「バレない君が代」の歌詞を作ってみたらこうなった。

チビなら相場。ひとり貸し置き。鼻毛記事をヒマほど再生。俺をぶつワケ?

君が代の歌詞を知らない人・忘れた人、念のため本歌の歌詞は次のようなものだ。比べてみて欲しい。母音が揃っているだろう。

君がぁ代ぉは 千代に八千代に さざれ石の巌となりてぇ 苔のむすまで

4点ほど解説がいると思う。

1.本歌では「きみがぁよぉわぁ」と「が」を伸ばして2モーラとして歌っている部分を替え歌の方では「なら」と2モーラにした。もちろん母音はそろえてある。

2.同様に本歌で「よぉ」と2モーラに引き伸ばしてあるところを「そう」と2モーラにした。「そう」の発音は[sou]でなく[so:]だからこれでOKだと思う。

3.「再生」の「生」は実際の発音も「せー」、つまり [sei] でなく [se:] だから本歌の「て」の代わりになる。

4.ここではやらなかったが、「再生」、つまり本歌の「なりて」の部分は「かんで」でも代用できる。ここの/n/(正確には/N/)の発音の際は後続の「え」に引っ張られて渡り音として鼻母音化した[ɪ] (IPAでは ɪ の上に ˜ という記号を付加して表す)が現われ、外から見ると非円唇狭母音「い」と同じように見えるからだ。「再生」より「噛んで」の方がワザとしては高度だと思ったのだが、「ヒマほど噛んで」では全く日本語になっておらず、ただでさえ意味不明の歌詞がさらにメチャクチャになりそうなので諦めた。

 こんな意味不明の歌詞では歌えない、というご意見もおありだろうが、文語の歌詞なんて意味がとれないまま歌っている子供だって多いのだから、このくらいのシュールさは許されるのではなかろうか?私だって子供の頃「ふるさと」の歌詞を相当長い間「ウサギは美味しい」と思っていたのだから。
 そんなことより大きな欠陥がこの替え歌にはある。児童が全員これを歌ってしまったら結局バレてしまうということだ。その場合は、「先生、私はちゃんと君が代の歌詞を歌っていましたが周りが皆変な歌詞を斉唱していました。」と誤魔化せばいい。


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 クロアチア語は発音でえらく苦労した。

 例えばクロアチア語には /i/ という前舌狭母音、つまりロシア語でいう и しかないのに n という子音そのものには口蓋音・非口蓋音(硬音・軟音)の区別があるのだ。クロアチア語ではそれぞれ n、nj と書いてそれぞれロシア語の н と нь に対応するのだが、その後に /i/ が来たときの区別、つまり ni と nji の発音の区別が結局最後までできなかった。日本語ではどちらも「ニ」としか書きようがないのだが、ni をロシア語式に ни (ニ)と言うと「それでは nji に聞こえます」と怒られ、それではと ны (ヌィ)と言うと「なんで母音のiをそんな変な風に発音するんですか?」と拒否される。「先生、ni と nji の区別が出来ません」と泣きつくと、「仕方がありませんねえ、では私がゆっくり発音してあげますからよく聞いてください」と親切に何度も両音を交互に発音してくれるのだが、私には全く同じに聞こえる。 
 さらにクロアチア語にはロシア語でいう ч に硬音と軟音の区別がある、つまり ч と чь を弁別的に区別する。これも日本語ではどちらも「チ」としか言いようがない。ロシア語では ч は口蓋音、いわゆる軟音しかないからまあ「チ」と言っていればなんとなく済むのだが、クロアチア語だと「チ」が二つあって発音し間違えると意味が変わってくるからやっかいだ。ロシア語をやった人なら、「馬鹿な、もともと軟音の ч をさらに軟音にするなんて出来るわけがないじゃないか」と言うだろうがそういう音韻組織になっているのだから仕方がない。č が ч、ć が чь だ。
 私はこの区別もとうとうできるようにならなかった。例えば Ivić というクロアチア語の苗字を発音しようとすると、講師からある時は「あなたの発音では Ivič に聞こえます。それではいけません。」と訂正され、またある時は「おお、今の発音はきれいな Ivić でした」と褒められる。でも私は全然発音し分けたつもりはないのだ。何がなんだかわからない、しまいには自分がナニしゃべっているのかさえわからなくなって来る。

 反対にクロアチア人の学生でとうとうロシア語の мы (ムィ、「私たち」)が言えずに専攻を変えてしまった人がいる。南スラブ語と東スラブ語間では皆いろいろ苦労が絶えないようだ。

 ところで、古教会スラブ語は「スラブ祖語」だと思っている人もいるが、これは違う。サンスクリットを印欧祖語と混同してはいけないのと同じ。古教会スラブ語はれっきとした南スラブ語族の言語で、ロシア語とは系統が異なる。ただ、古教会スラブ語の時代というのがスラブ諸語が分離してからあまり時間がたってない時期だったので、これをスラブ祖語とみなしてもまああまり支障は出ないが。
 東スラブ語は過去2回この南スラブ語から大波を受けた。第一回目が例のキリロス・メトディオスのころ、そして2回目がタタールのくびきが除かれて中世セルビア王国あたりからドッと文化が入ってきたときだ。
 なので、ロシア語には未だに南スラブ語起源の単語や文法組織などが、土着の東スラブ語形式と並存している。日本語内に大和言葉と漢語が並存しているようなものだ。
 さらに、南スラブ語は常に文化の進んだ先進地域の言語であったため、この南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり、意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする。例えば合成語の形態素として使われるのも南スラブ語起源のことが多い。日本語でも新語を形成するときは漢語を使う事が多いのと同じようなものだ。
 
 ちょっと下の例を比べてみて欲しい。оло (olo) という音連続は典型的な東スラブ語、ла(la) はそれに対応する南スラブ語要素だが、語源的には同じ語がロシア語には南スラブ語バージョンのものと東スラブ語バージョンのものが並存し、しかもその際微妙に意味が違ったり合成語に南スラブ語要素が使われているのがわかると思う。
Tabelle1-56
 さらにいえば、ウクライナ語は昔キエフ公国の時代に東スラブ語文化の中心地だったためか、ロシア語よりも南スラブ語に対する東スラブとしての抵抗力があったと見え、ロシア語よりも典型的な東スラブ語の音韻を保持している部分がある。例えばロシア語の名前Владимир(ヴラジーミル)は南スラブ語からの外来名だ。この愛称形をВолодя(バロージャ)というがここでも上で述べた南スラブ対東スラブ語の典型的音韻対応 ла (la) 対 оло  (olo)が現れているのが見て取れるだろう。この、ロシア語ではВладимирとなっている名前はウクライナ語ではВолодимир (ヴォロジーミル)といって正式な名前のほうでも оло  という典型的東スラブ語の形を保持している。
 この、南スラブ語の la や ra がそれぞれ olo や oro になる現象をполногласие (ポルノグラーシエ、正確にはパルナグラーシエ、「充音現象」)と言って、東スラブ語の特徴である。「難しくてオロオロしてしまいそうだ」とかギャグを飛ばそうかと思ったが馬鹿にされそうなのでやめた。いずれにせよполногласие の л (l) をр (r) と間違えないことだ。

 古教会スラブ語のアクセント体系がどうなっていたかはもちろん直接記録はされていないが、現在の南スラブ語を見てみればある程度予想はつく。以下は南スラブ語の一つクロアチア語とロシア語の対応語だが、これを見ればおつむにアクセントのある上品な南スラブ語が東スラブ語ではアクセント位置がお尻に移動しているのがわかる。アクセントのあるシラブルは太字で表す。 さらに比較を容易にするため、ロシア語もローマ字で示してみた。
Tabelle2-56
 この、「おつむアクセントは上品、お尻アクセントは俗語的」という感覚は人名の発音にも見られるそうだ。例えばイヴァノフ (Иванов)という名前は ва にアクセントが来る「イヴァーノフ」と но に来る「イヴァノーフ」という二種類の発音の仕方があるのだが、「イヴァーノフ」の方が上品で古風、つまりなんとなく由緒あり気な感じがするという。
 それを知ってか知らずか、神西清氏はガルシンの小説『四日間』(Четыре дня)の主人公を「イヴァーノフの旦那」と訳している。貴族の出身という設定だったので、由緒ありげな「イヴァーノフ」のほうにしたのかもしれない。「イヴァノーフ」では百姓になってしまい、「旦那」という言葉と折り合わなかったのか。
 この苗字の元になった名前「イヴァーン」(Иван)のアクセントは ва (ヴァ)にあるのだから、最初は苗字のほうもイヴァーノフだったはずだ。その後ロシア語の言語体系内でアクセントの位置がドンドン後方にずれていったので、イヴァノーフという発音が「普通」になってしまった。さらにウルサイことを言えば、この名前の南スラブ語バージョン Ivo (イーヴォ)はアクセントが「イ」に来るし、セルビア語・クロアチア語でも Ivan を I にアクセントを置いた形でイーヴァンと発音する。つまりそもそものИванという名前からしてロシア語ではすでにアクセントが後ろにずれているのだ。Ивановではその、ただでさえずれているアクセントをさらにまた後方に横流ししたわけか。もうこれ以上は退却できない最終シラブルにまで下がってきている。いわば背水の陣だ。


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 私の住んでいる町はホッケンハイムのすぐ近くである。そう、あのジム・クラークが亡くなったサーキットだ。そもそも私がこの町に来たのもここがホッケンハイムから近かったのも一因なのだが、もう30年近く前こちらに来てすぐ、まだロクにドイツ語もしゃべれず右も左もわからないのにさっそく電車に乗ってホッケンハイムのサーキット見物に出かけた。あの頃は勝手に中に入って散歩ができたが、今はどうなっているのだろう。当時はまだ最寄の駅がちょっとボロかったが、何年か後に電車で通り過ぎたらきれいに改造されていた。
 『38.トム・プライスの死』でも書いたように実は私は1970年代のF1を結構覚えているのだが、世界チャンピオンにもなったJ・ハントとしばらくの間いっしょにマクラレンM23・M26に乗っていたヨッヘン・マスという選手がこの町の出身と聞いていた。一度M大学の学食でさっそくそんな話を隣の人にしたら、「うん、皆マスがここの出身だって言うけど、本当はここの近くのバート・デュルクハイムって小さな町の出なんだよね。まあ、本拠地ここだったみたいだし、住んでたのはこっちだから「M市出身」であながち間違いでもないけどさ」といきなりツーカー話が通じてしまった。日本では「ヨッヘン・マスって誰ですか?」と聞き返されるのがオチだったから、ああ、ドイツに来たんだなあ、としみじみ思ったものだ。

 さて、ジム・クラークといえばロータスである。私よりちょっと年上の方々には、ロータスというと真っ先に「モスグリーン」と連想する人も多いだろうが、大抵の人はM・アンドレッティが運転していた漆黒のJPSロータスを思い浮かべると思う(すでにこれが古いって)。が、77年の富士スピードウェイに限ってロータスが一台真っ赤だったことをご存知だろうか?このときだけロータスに一台だけスポンサーがついてJPS LotusでなくImperial special Lotusだったのだ。ドライバーはグンナー・ニルソンだった。ロニー・ピーターソンもそんな感じだったが、いかにもスウェーデンらしく顔は少し怖かったがおとなしい人だった。
 私は76年、77年とももちろん富士スピードウェイにF1を見に行ったが、雨もよいの76年はメインスタンド付近、秋晴れの美しい日となった77年は最終コーナーのところに陣取った。そこでマシンが次々にやってくるのを見ていたわけだが、全く見慣れないマシンをみつけて驚いた。一周目には何だかわからなかったが、2周めにまた走ってきたときやっとロータスだと見分けがついたのである。でもその赤いロータスに驚いたのは私だけではない。周りで観戦していた人も結構ザワザワしだして、「おい、あれはロータスだぜ!なんと!ロータスが赤いぜ!」と皆口々に興奮して騒いていたから。

ああ懐かしい。これがニルソンの「赤いロータス」。エンジンはフォードV型8気筒であった。
grandprixinsider.comから

1977-nilsson-imperial-lotus-78

 あの頃は本当に牧歌的ないい時代で、エンジンはフォードV8、マトラV12、フェラーリ水平対抗12くらいしかなく、目をつぶって音聞いただけでエンジンがわかったものだ。腹の底にドーンと響いて来るような低音がフォード、頭のてっぺんにキンキン来るような甲高い音がマトラ12、その中間がフェラーリだった。たしかアルファロメオも走っていたはずなのだが、これは全く音が記憶にない。
 マリオ・アンドレッテイ、ジェームス・ハント、パトリック・デパイエやピーターソンは実物に会ったし(ハントは新宿で見かけた)、ジョディ・シェクターには握手してもらった。6輪タイレルP34とかにもベタベタこの手で触ってやった。あまり自慢にもならないが。
 1980年代になると富士スピードウェイにF1が来なくなったのとレースが妙にショー化してきたので興味がなくなった。だからアラン・プロストとかいわれるともう時代が新しすぎてついていけない。私が「フランス人レーサー」と聞いて真っ先に思い浮かぶのはパトリック・デパイエ、ジャン・ピエール・ジャリエ、ジャック・ラフィー、あとフランソア・セヴェールである。当時セナはまだカートに乗っていたし、ロスベルクは父親のほうがF2で走っていた。本当に私は年寄りである。

 「マシンの色変わり」ということでもう一つ思い出すのが、1977年に南アフリカで事故死したトム・プライス選手の乗っていたシャドウというマシンだ。このチームはドン・ニコルズという人がやっていたが、この「シャドウ」というネーミングはどうやってつけたのか、インタビュー記事を読んだことがある。
 このチームの創立は72年、つまりマシンが葉巻型から楔形に移行した頃。マシンはまず空気抵抗をできるだけ抑えなければいけないが、同時に上に舞い上がらないように地面に密着していなければいけないという基本コンセプトが常識になった頃だ。そのときニコルズは考えたそうだ。「空気抵抗がゼロでしかも地面にぴったりつく理想のマシンはつまり「影」ということだ」。それでその理想のマシンを目指していこう、という意気込みで「シャドウ」というチーム名にしたのだと。
 フェラーリとかマクラレンとかチームに自分の名前をつけて自己顕示する輩と比べてすごく哲学的で奥ゆかしいとは思った。ただ残念なことにこのチームはネーミングだけでなく、チームそのものも奥ゆかしい、つまり今ひとつ弱くてとてもフェラーリ・マクラレンとコンストラクターズ・ポイントを争えるようなレベルではなかったから(ごめんね)、私としてはプライスが早いとここんな所やめてロータスかそれこそマクラレンに移ってくれないかと思っていた。本当にプライスがロータスに移りそうだという噂があったそうだ。
 そのシャドウは前年あたりまで黒かったが1977年には新しいスポンサーがついていきなり白くなった。上で名を挙げたジャン・ピエール・ジャリエというのはプライスと黒いシャドウに乗っていたチームメイトである。その白いマシンで事故死したプライスの後釜に来たA.ジョーンズが77年のオーストリアGPで優勝したとき、私は「この勝利は本来プライスに与えられてるはずだったのに」と思った。
 ところで、このジョーンズはその後世界チャンピオンになった人だが、一見「近所の商店街の金物屋のおやじ」、あるいは「麦藁帽子を被り熊手持って干草をつついてる農家のおじさん」という感じで、誰がどう見てもレーシング・ドライバー、いわんや世界チャンピオンになったようには見えない。ここまでレーシング・スーツの似合わない人も珍しいのではないかと思うのだが、そういえば、ジャック・ブラバムもそんな感じだった。オーストラリア人ってこういう「気さくで気のいいおじさん」風の人が多いのだろうか。

トム・プライスの黒いシャドウDN8(only-carz.comより)
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これもおなじくプライス(ウィキペディアから)

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A.ジョーンズの白いアンブロシオ・シャドウ。オーストリアGPの時のもの。シャドウはこの勝利が唯一である。
(gettimages.comより)

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プライスの亡くなった1977年南アフリカGPの次のレースでチームメイトのレンツォ・ツォルツィ(またはゾルジ)が運転したアンブロシオ・シャドウ。プライスは一レースだけしかこのアンブロシオに乗っていないためか写真が見つからなかった。(racer.comから)
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 一般言語学の教授が一度国粋主義・民族主義を嫌悪してこんなことを言っていたことがある。

「ナチスがヨーロッパのユダヤ人やロマを「浄化」したが、彼らの母語イディッシュ語やロマニ語がどんなに言語融合現象の研究やドイツ語学にとって重要な言語だったか彼らにはわかっているのか(わかってなかっただろう)。そんな貴重な言語のネイティブ・スピーカーをほとんど全滅させてしまった。惜しんでも惜しみきれない損害。」

さらにいわせて貰えばプラーグ学派の構造主義言語学が壊滅してしまったのもトゥルベツコイが早く亡くなったのもヒトラーやスターリンのせいである。ネイティブスピーカーばかりでなく研究者までいなくなっては研究は成り立たない。それまでは世界の言語学の中心はヨーロッパだったが以後は優秀な学者が亡命してしまったためと、国土が荒廃して言語学どころではなくなったため、中心がアメリカに移ってしまった。

 そもそもナチスがやたらと連発した「アーリア人」という名称は実は元々純粋に言語学の専門用語で、人種の民族のとは本来関係ないのである。「アーリア人」という用語を提唱したフリードリヒ・ミュラーという言語学者本人が1888年にはっきりと述べているそうだ。

「私がアーリア人という場合、血や骨や髪や頭蓋のことなど考えているのではないと、何度も繰り返してはっきりと言ってきた。私はただ、アーリア語系の言語を話す人々のことを言っているにすぎないのだ。アーリア人種とか、アーリアの血、アーリアの眼、アーリアの髪などという民俗学者は、私には、短頭の文法などという言語学者とまったく同じ罪人のように思われる。」

だからもしアメリカ生まれの日本人が英語を母語として育てば立派なアーリア人だし、そもそもロマはドイツ人なんかよりよっぽど由緒あるアーリア人である。
 上で述べた教授も、「ナチスのせいで本来中立な言語学の用語であった「アーリア語族」という用語が悲劇的な連想を誘発するようになってしまい、使えなくなった」と嘆いていた。だいたい「印欧語」という折衷的な名称は(ドイツで以前使われていた「インド・ゲルマン語族」は論外)不正確な上誤解を招くのでできることなら使わないほうがいいのだ。これだと「インド」と「ヨーロッパ」との間に一線画せるような間違った印象を抱かせる上、インドで話されているのは印欧語だけではないからこの名称は本来全く意味をなさない。普通の神経を持っている者ならヒッタイト語やトカラ語を「インド・ヨーロッパ語族」などとは呼びたくないだろう。「アーリア語族」という名称が使えれば全て丸く収まるのである。
 その、本来最適であった中立的名称を使えなくしてしまったのは言語学ドシロートの国粋主義者である。もっとも「母語」、「民族」、「国籍」という全く別の事象を分けて考えられない人は結構いるのではないだろうか。

 さて言語学者が嫌うのは特定の言語話者を低く見ることばかりではない。その逆、特定の言語を他言語より優れたものと見なして自己陶酔する民族主義者も嫌悪する。
 時々、安易に「日本語は世界でも特殊な言語だ」とか「優れた言語だ」と言って喜んでいる人がいる。不思議なことにそういう、「日本語の特殊性」と無闇に言いだす人に限ってなぜか比較対照にすべき外国語をロクに知らなかったり、ひどい場合は日本語を英語くらいとしか比較していない、いやそもそも全く外国語と比較すらしていない場合が多い。難しいの珍しいのなどといえるのは日本語を少なくとも何十もの言語と比べてみてからではないのか?日本語しか知らないでどうやって日本語が「特殊」だとわかるのだろう。例えば日本語を英語と比べてみて違っている部分を並べ立てればそりゃ日本語は「特殊」の連続だろうが、裏を返せば英語のほうだって日本語と比べて特殊ということになるのではないだろうか。そもそも特殊でない言語なんてあるのだろうか。
 以前筑波大学の教授だったK先生が、この手のわかってもいないのに得意げに専門用語を振り回す者(例えば私のような者とか)に厳しかった。私は直接授業は受けたことはないが、書いたものを読んだことがある。どこの馬の骨ともわからない者の書いたエッセイ(例えばこのブログとか)とか評論、時によると小説などを鵜呑みにして「日本語は特殊で世界でも珍しい言語だ」とかすぐ言い出す人々を先生は、Japan-is-unique-syndromeと揶揄、つまりビョーキ扱いしていた。いったい日本語のどこが珍しいのかね? 母音は5つ、世界で最もありふれたパターンだ。主格・対格の平凡きわまる格シスム。「珍しい」と自称するなら能格くらいは持っていてから威張ってほしいものだ。

 確かにこれら言語学者たちの言葉はヒューマニストのものとして響く。そこに共通しているのは人間を肌の色や民族で差別することに対する怒りだからだ。しかし私はこれを「ヒューマニズム」と呼んでいいのか、と聞かれると無条件で是とは答え得ないのである。意地の悪い見方をすれば上の教授が痛恨がったのは言語の消滅であって人間の消滅ではないからだ。
 たしかに実際問題として言語はネイティブスピーカーという人間なしでは存在しえないし、「言語」は人間として本質的なものだ。「人類は言語によって他の動物から区別される」「言語がなかったら文明も文化も、つまり人類の創造物はすべて存在し得なかった」と本に書いてあるのを何回も見た。だから言語と人間は不可分なわけで、その意味では上の言語学者は結果としてヒューマニストである。その怒りは事実上人間を差別したり、自分たちを特殊な存在と考えたりすることへの嫌悪なのだが、いわゆるヒューマニズムとは完全にはイコールでないような気がしてならない。

 言語学者にあるのは、未知の現象と遭遇しえた喜び、あるいは話には聞いていた・理論としては知っていたが実際には見たことがなかった現象(言語)を実際にこの眼で目撃しえたという純粋な喜びだ。確かにこういう純度の高い喜びの前では国籍の民族の肌の色の眼の色のなどという形而下の区別など意味をなさないだろう。
 実は私もさる言語学の教授を狂喜させたことがある。私の母語が日本語だとわかると、教授は開口一番、「おおっ、では無声両唇摩擦音をちょっと発音してみてくれませんか?」と私に聞いてきた。そんなのお安い御用だから「ふたつ、ふたり、ふじさん」と「ふ」のつく単語を連発してみせたら、「うーん、さすがだ。やっぱりネイティブは違う」と感動された。後にも先にもこの時ほど人様が喜んてくれたことはない。
 でもこれを「ヒューマニズムの発露」と受け取っていいかというと大変迷うところだ。

 しかし一方ヒューマニズムという観念自体定義が難しいし、「やらぬ善よりやる偽善」という言葉もあるように「結果としてヒューマニズム」「事実上のヒューマニズム」というのもアリなのではないかとは思う。最初に抽象度の高いヒューマニズムという観念が与えられて各自がそれを実行・実現する、という方向とは逆に、最初に各自それぞれ人間という存在に何かしら具体的な尊厳を感じ取って守る。言語学者は言語がそれだが、他の人はまた人間の別の要素に犯しがたい崇高なものを感じ取る、そういう、各自バラバラに感じ取った神聖不可侵感をまとめあげ積みかさねていったものが「ヒューマニズム」という観念として一般化・抽象化される、そういう方向もアリだと。


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