初めて見たときから漠然と感じているのだが、例のコルブッチの傑作『殺しが静かにやって来る』(1968)は『86.3人目のセルジオ』の項で述べたセルジオ・ソリーマの2作目『血斗のジャンゴ』をベースにしているのではないだろうか。知名度から見たら『殺しが静かにやって来る』のほうが格段に上なので、一瞬ソリーマがコルブッチを参考にしたのかと思うが制作も公開も『血斗のジャンゴ』のほうが一年も早いから、どちらかがどちらかをベースにしたとすればパクったのはコルブッチのほうでしかあり得ない。「ベースにしたとすれば」と書いたが、この類似を偶然というのはあまりにも似すぎているし、マカロニウエスタン独特の相互引用ぶりを考えても(『78.「体系」とは何か』の項参照)、ここは「したに違いない」と言ってもいいのではないだろうか。

 『殺しが静かにやって来る』はさすがに有名映画なので皆ストーリーを知っているだろうから(どういう「皆」ですか?)省くが、『血斗のジャンゴ』は、いかにもソリーマらしい心理学的・社会的なプロットで、次のようなものである。

 ボストンの大学で歴史学を教えている教授(ジャン・マリア・ヴォロンテ)が肺を病んで療養のため南部、てか西部にやって来る。ところが途中で逮捕された強盗団のボス(トマス・ミリアン)が逃亡する際の人質にされてしまい、しばらく彼と留まることになる。

 その間に教授は暴力や絶対的な権力に対して妙な魅力を感じ始め、しまいにはミリアンの仲間、というより片腕になってしまうのだが、無法者ミリアンの胸の中には逆に今まで眠っていた良心・理性といったのものが胎動し始める。

 政府はミリアンの率いる無法者の集まりをなんとか撲滅しようと前々から画策していたが、あるときピンカートン探偵事務所(いわば当時のCIA)の職員(ウィリアム・ベルガー)をスパイとしてミリアンの強盗団のなかに潜入させる。ミリアンを逮捕する機会をつくるためである。

 そのベルガーが画策してミリアンは捕えられ、さる町の牢屋にぶち込まれるのだが、町の有力者はこの機会にミリアンだけでなく無法者の集団も一気に全員殲滅しようとして討伐隊を組織し、ベルガーにその隊長をやってくれと打診するが、ベルガーは「俺の任務はミリアンの逮捕を助けるということで終わりだ。理性を失った討伐隊だろなんだろの統制など出来ないしする気もない」と断って本部に帰ろうとする。ところが同じ留置所に前から捉えられていた盗賊団の一人が金でつられて仲間を皆裏切り、アジトの場所をバラしたばかりか、自ら討伐隊の先頭に立ってかつての仲間を虐殺しに出かけたと知ってミリアンが必死で脱獄したため、「彼が逃げたとあればそれは俺の仕事だ」といって討伐隊のあとを追う。

 逃げたミリアンは仲間の隠れ場所に駆けつけるが、すでに大半の者は「正義・法」の名にかこつけて犯罪者狩りをした市民の手で殺されていた。女子供もなかにはいた。彼らの大半は食うに困って仕方なく家族を連れて無法者の中に身を投じた者たちなのである。生き残った人々は砂漠を横切って逃げようとするが、血に飢えた「正義の討伐隊」が彼らに迫り、女子供もろとも始末しようとする。ミリアンとヴォロンテが討伐隊(50人くらいいた)と最終的対決をすべく砂漠の岩に隠れてライフルを構えたところで追いついたベルガーがやって来る。こいつまで来やがったかとミリアンがベルガーに銃を向けて構えた瞬間ベルガーは討伐隊に向かって叫ぶ。
 「やめろ、あいつを逮捕するのは俺の仕事だ。お前達のやっていることには何の正統性もない。家に帰れ、手を出すな」

 「楽しみ」を邪魔された男たちは今度はベルガーに発砲するが、彼が隊長ともう一人を射殺したので、元々烏合の衆だったその他の者は動揺し引き返す。弾を食らったベルガーはその怪我をしたまま足を引きずりながらヴォロンテとミリアンの前に堂々と立ち、「お前を逮捕する」と(ややかすれ声で)言う。その体で何が逮捕だこの馬鹿とばかりヴォロンテの銃が火を噴きベルガーは2発目を食らうが、ミリアンのほうは「俺は投降する、法に従う」と言って立ち上がる。ヴォロンテは驚いて、何を血迷っているんだ、こんな男これで終わりだとベルガーにとどめをさそうとした瞬間、ミリアンの銃がヴォロンテに向かって火を噴く。

 ベルガーは一瞬状況を把握できないでいたようだが(すでに死を覚悟していたのだ)、やがてヨロヨロ立ち上がると死んでいるヴォロンテの顔面に弾をバシバシ撃ち込んで顔をめちゃくちゃにし、「顔がわからなければ皆この死体はお前のものだと思うだろう。他のものには俺がそういっておく。さあ、さっさと行け」とミリアンを逃がす。

 繰り返しになるが、この映画の原題はFaccia a faccia(face to face )というもので、結構含蓄のある題名だ。私はこれを「自分の内部にある別の自分と対面した」という意味なのだと解釈していることは以前にも書いた。最後に死体の顔を破壊したのも「顔」ということでタイトルと結びついている。

 『殺しが静かにやって来る』とモティーフが重なっていることは瞭然である。

 已むなく無法者となった社会の弱者を正義の名を借りて血に飢えた人間狩りをする賞金稼ぎ・討伐隊。登場人物にも平行性がある。まずウィリアム・ベルガーの役と『殺しが静かにやって来る』のクラウス・キンスキーの役が重なって見える。どちらも無法者の群れを追う、という設定だからだ。
 しかもベルガーもキンスキーも金髪でちょっと角ばった顔つきをしていて容貌の基本が同じだし(ただ顔の造作そのものは全く違う)、最初登場してくる際どちらも襟元がなんとなくワヤワヤした服装をしているのも共通項。そして双方雰囲気が陰気で、これも双方「Wanted」のチラシというかポスターというか、紙切れをビラビラ自慢げに見せびらかす。

双方襟元がワヤワヤした衣装でどちらも陰気にご登場。上がベルガー、下がキンスキー
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そしてご両人とも「Wanted」の紙切れをひけらかす。
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 ベルガーは笑うと普通にしているより顔が陰気になるというジュリアーノ・ジェンマなんかとは全く逆のタイプで、その不遜な笑い顔がトレードマークと化している感があるが、その陰気な笑い方をして見せてもまあ普通のおっちゃんである(もっとも私はイイ男だと思うが)。対してキンスキーは別に笑わないで普通にしていてもサイコパスにしか見えない。こりゃああの真面目なソリーマ監督には使いにくいだろう。

これも上がベルガー、下がキンスキー
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 『殺しが静かにやって来る』のもう一人の主人公、ジャン・ルイ・トランティニャン演じるサイレンスという人物は服装から見てコルブッチの前作『続・荒野の用心棒』のフランコ・ネロを引き継いだことは明白だが、フランク・ヴォルフがやった保安官。この登場人物は『血斗のジャンゴ』のベルガーと重なる。ヴォルフ保安官も本来無法者たちを追う立場なのに彼らに対して理解を示すのだ。
 面白いことにクラウス・キンスキーはドイツ人、フランク・ヴォルフはアメリカ人ではあるが名前を見てもわかるようにドイツ系で、ドイツ語が少し話せたそうだ。ウィリアム・ベルガーも本名ヴィルヘルムというオーストリア人である。バーガーと呼んでいる人が大半だが私はドイツ語に義理立てしていつもベルガーと言っている。だからこの3人は役を離れても妙につながっているのだ。

 つまり『血斗のジャンゴ』でベルガーがやっていた一人のキャラクターをコルブッチは二人に分けたということだ。ソリーマでは最初無法者を追う方であったベルガーが最後は彼らに理解を示して逃がしてやるが、コルブッチではこの二つの要素、あくまで追うほうと助けるようとするほうが最初から二つにキッパリ分れ、交じり合うことがない。そしてコルブッチでは最後には善役でなく悪役が勝つ。言い換えるとソリーマでは道徳が法より優先するが、コルブッチでは法が道徳に勝つのである。

 このように元の映画の設定をこれみよがしに逆にする、というのはコルブッチの得意ワザだ。だから『続・荒野の用心棒』ではレオーネではカラカラの砂塵だった部分がドロドロの泥濘に化けたし、『殺しが静かにやってくる』ではソリーマの暑い砂漠がいかにも寒そうな雪景色と化した。『血斗のジャンゴ』でベルガーが初登場するとき森をぬけてくるシーンと、『殺しが静かにやってくる』のタイトル画面の構図がそっくりであるが、前者では普通の森であったのが後者では雪景色になっている。
 なお、話はそれるがラストでベルガーに撃ち殺される卑怯な裏切り者の役をやったのは相変わらずというかまたかよというか、アルド・サンブレルである。

木の間に埋もれて乗馬姿の主人公が見分けにくいが、画面の構図がそっくりである。上が『血斗のジャンゴ』、下が『殺しが静かにやって来る』

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構図が非常に美しい『血斗のジャンゴ』のラストシーンでのジャン・マリア・ヴォロンテとウィリアム・ベルガー(肩の傷を押さえてうずくまっているほう)
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