アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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前回2018年のWCでドイツが予選落ちしたとき、私が冗談で「次の2022年も予選通らないから安心しろ」といったら、「サッカーのことなど何もわかっていない弱小国日本人が何か言ってる」的に鼻で笑われたが、私の言った通りになったじゃないか。

もとの記事はこちら

 ドイツ語にSchadenfreude(シャーデンフロイデ)あるいはschadenfroh(シャーデンフロー)という言葉がある。前者は名詞、後者がそれに対応する形容詞だ。私の辞書には前者は「他人の不幸または失敗を笑う」、後者は「小気味よく思う気持ち」とある。Voller Schadenfreude で「いい気味だと思って」。なかなかうまい訳で原語のニュアンスも伝わっている。これらの語は「他人の不幸」といっても深刻な不幸に見舞われた場合には使えないからである。殺人犯人が捕まって厳しい刑に処されたのをみて心のうちに感ずるある種の感情はSchadenfreudeとは呼べないし、いくら嫌いな人でもその人が破産して絶望のあまり自殺したりしたら普通の人はschadenfrohになどならない。深刻すぎるからである。嫌いな人が道でつまずいてコケ、尻餅をついたらSchadenfreudeを感じるだろうが、そこでその人が膝をすりむいて血だらけになったらもうSchadenfreudeの領域を超えている。生物的あるいは社会的な命に別状のない、軽い範囲がこの言葉の使用範囲である。上述の辞書にある「いい気味だ」もうまいが「ざまあみろ」と訳すこともできるだろう。

 今回のサッカーWCでドイツが予選落ちした際、私がつい心の中で抱いてしまった感情はこのSchadenfreudeであった。別にそれによって死者が出たわけでも誰かが自殺したわけでもない、たかがサッカーの話だからである。昔誰かから聞いたところによると南米あたりでは敗因を作った選手は銃殺されたりしたことがあるそうだが、ドイツでは選手の命が危機にさらされることはないだろう。たぶん。被害を蒙ったといえば、多大な需要を当て込んで旗だろ選手の写真カードだろを作りまくり、大量の売れ残りを出した商魂丸出しのスーパーくらいだろうが、こっちのほうも正直「ざまあみろ」だ。
 ドイツは1954年に初めて世界選手権を制して以来、そもそもトーナメントの一回戦で負けたことがない。つまりトーナメントには必ず行っていたのだ。1954年からの前回2014年までの16の世界選手権のうち、優勝が4回、決勝戦進出が8回(つまり4回は決勝戦で負けている)、準決勝までが4回、準々決勝までが4回だから、16分の12、4分の3の確率でベスト4まで残っていた。だから以前にも書いたように国の全体としての雰囲気として、予選は通ると決めてかかっている。チームが勝って上げる歓声も勝ったこと自体より「強いドイツ」を再確認した喜び、大国俺様的な傲慢さを感じさせてどうも私はいやだった。それだけなら単に私のへそ曲がりな判官贔屓に過ぎなかっただろうが、ドイツが前回のWCで優勝した際、お祝いのパレードのとき「ガウチョ野郎を粉砕してやったぜい」的な発言をして2位になったアルゼンチンを揶揄したので完全に失望した。負けた相手をリスペクトしないような奴は今にブーメランを食らうぞと思った。そう思っていたらその発言を聞いてほとんど涙ぐむ在独アルゼンチン人の女性の映像が流された。この女性は長くドイツに住んでいるのでドイツが優勝したのを、まあアルゼンチンが負けたのはくやしいがいっしょにお祝いしようとしていたのだ。本当に同情に耐えない。打ち負かした相手をさらに貶める必要がどこにあるのだろう。以降、それまでは「苦手」だけだったのが「嫌い」になった。だから今回の体たらくには「ざまあみろ」ばかりでなく「やっぱりね。天罰でしょ」という感じが混じっている。日本にはこういうときのために「驕る平家は久しからず」ということわざもあるではないか。
 それでもガウチョ発言の直後はまだWCの余波を駆って強かったがここしばらくは「あれ?」という兆候が見え出していた。専門家には危惧していた人が結構いたようだ。
 予選でスウェーデンに勝ったときも、例によってビール片手にギャーギャー騒ぐファンを尻目に、まともな解説者は「こんなんじゃ優勝は絶対無理」といっていた。さすがに予選落ちまでは予想していなかったようだが。

サッカー世界選手権でのドイツチームの成績の推移。今回の急降下ぶりがわかる。
Artikel1

 というわけで、ある意味ではまあこれでやっと静かに普通に大会観戦ができるようになったし、ドイツ人にもそんなことを言っている人がいるのだが、そう言って(強がって)見せて上辺平気な顔を装っても内心は相当ショックを受けているんじゃないかと思う。というのは、向こうが「これで落ちるところまで落ちたからまあこれからは良くなっていくしかないな」というので私が軽い冗談で「まだ先があるから安心しなさい。次のドバイ大会では地域予選に落ちて不出場だから」と言ったら本気で怒り出したからだ。何をそんなにマジになっているんだ。たかがサッカーじゃないか。さらに心理外傷でタガが外れたのか言うことのロジックが破綻してきた。たとえば、ベルギー・日本戦では「日本のやつら、あんなお上品なプレーしてたらだめだろ。サッカーはダンス大会じゃないんだ。黄カードをガンガン食らうくらい攻撃性をみせなきゃだめだ」などという。でもドイツだってどちらかというと「お上品な」プレーぶりで尊敬されてたんじゃないのか?ちゃんとそれで勝っていたじゃないか。今までは。どうも言うことがわからない。

 ところで日本ではネットなどでは黄カードを集めた韓国になぜか「汚い試合」とかケチをつけていた人を見かけたが、こちらは赤・黄の乱れ飛ぶ試合は「荒い試合」といって普通「汚い」とは呼ばない。汚い試合というのはヒホンの恥(『73.ヒホンの恥』参照)のようなダレた試合のことである。日本・ポーランド戦のような試合のほうがよっぽど「汚い」と呼ばれる可能性がある。
 ひょっとしたら実はドイツ人も妙にお上品なのより荒いチーム・荒いゲームのほうが好きなのかもしれない。現にうちで「あの試合は本当に面白かったなあ」といまだに持ち出されるのが2010年世界大会決勝戦のオランダ・スペイン戦である。どちらが勝っても初の世界一ということで双方殺気だっていた。最初の30分で黄カードが5枚、後半でさらに4枚、延長戦でまた3枚に加えてさらにオランダのハイティンハが一試合中に二枚目の黄をゲットして赤になるというカードの乱れ飛んだ凄まじい試合で、サッカーというよりは格闘技である。しかもここまで荒れても結果そのものはミニマルの1対0でスペインの勝ちという、フィールドでの騒ぎに比較してゴールの少ない試合であった。あまりにカードが乱舞したためか審判の目がくらんだらしく、オランダのデ・ヨングがスペインのシャビ・アロンソの胸のどまんなかに浴びせた16文キック(違)が黄しかもらえなかった。これに赤が出なかったのは、『ウエスタン』や『ミッション』のエンニオ・モリコーネにオスカーが出なかったのにも似て理不尽の極地。あれで黄だったらそれこそ人でも殺さないと赤は貰えないのではないかと(嘘)いまだに議論の的になっている。私はこの「デ・ヨングのクンフー攻撃」を、2006年にジダンがイタリアのマテラッツイに食らわした頭突き、2014年にウルグアイのスアレスがこれもイタリアのチェリーニにかました噛み付き攻撃とともに格闘技サッカー世界選手権の3大プレーのひとつとして推薦したい。

ここまでやっても赤が取れなかったデ・ヨングのクンフーキック。


パリのポンピドゥセンターの前にはジダンの頭突きの銅像が建ったそうだ。今もまだあるのかは知らない。
https://www.parismalanders.com/das-centre-pompidou-in-paris/から

Zinedine-Zidane-Statue-Paris

スアレスのチェリーニへの噛み付き攻撃はメディアでも徹底的におちょくられていた。
http://www.digitalspy.com/から

odd_suarez_bite_1

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前に書いた記事の図表を画像に変更しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるようなので)。ついでに文章も一部直しました。ドイツ領では過去スラブ語、バルト語が広く話されていたということを知らない、あるいは認めたがらないドイツ人は多いです。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 ローマ時代に消滅したエトルリア語(『123.死して皮を留め、名を残す』参照)のほかにもその存在と消滅が記録に残っている言語はもちろんたくさんある。北ヨーロッパでかつて話されていた古プロイセン語も有名だ。「プロイセン」あるいは「プロシア」という名称を後になってドイツ人が転用してしまったため(下記参照)、ゲルマン語の一種、果てはドイツ語の方言かと思っている人もいるようだがこの古プロイセン語はゲルマン語とは全く違うバルト語派の言語である。現在のリトアニア語やラトビア語の親戚だ。

 13世紀にドイツ騎士団がポーランドの公爵から許可されてバルト海沿岸に進出というかバルト海沿岸を侵略してというかとにかくそこに領土を形成していったとき当地で話されていた言語が古プロイセン語である。ポメサニアPomesanien、サンビア半島Samlandと呼ばれている地域だ。
 プロイセンという名前が最初に文献に出てくるのは9世紀で、バイエルンの地理学者がBruziというバルト海沿岸の民族について言及している。これらの人々はまたPruzziあるいはPrūsai(プロイセン人本人は自分たちをこう呼んでいた)とも呼ばれたがやがてPreußenというドイツ語名が定着し、さらに民族でなく地域を表すようになってドイツの一地方の名称として使われるようになったのだ。

 現在見つかっている最も古い古プロイセン語の文献は13世紀後半か14世紀初頭のもので、バルト語派全体でも最古のものである。リトアニア語もラトビア語も16世紀までしか遡れないからだ。
 その最古の文献の一つがエルビング(ポーランドではエルブロング)の語彙集Elbinger Vokabularとよばれるドイツ語-古プロイセン語の辞書で、古プロイセン語のポメサニア方言の単語が802収められている。単語がアルファベット順でなく「食事」「服装」などのテーマ別に配置されている、いわば旅行者用の言語案内書である。古プロイセン語ばかりでなくドイツ語の貴重な資料ともなっている。13世紀から14世紀にかけてドイツ騎士団領で話されていた当時のドイツ語が記されているからだ。現在のドイツ語ではもう失われてしまっている古い形が散見される。
 1545年にはルターが1529年に発表した小教理問答書の翻訳が二冊出た。その二冊目は一冊目の改訂版である。訳者はわかっていない。1561年にはこれもルターの大教理問答書が訳されたが、こちらは訳者がわかっている。Abel Willという牧師がプロイセン人のPaul Megottの助けを借りて訳したものだ。この3冊とも出版地はケーニヒスベルクであった。小教理問答はポメサニア方言、大教理問答ではサンビア半島方言で書かれている。両方言間には音韻対応も確認されている。例えばポメサニア方言の ō がサンビア半島のā に対応している:tōwis (ポ)対tāws(サ)(「父」)など。また大教理問答書はテキストが量的に多いというばかりでなく、古プロイセン語のアクセントやイントネーションなどが反映されていて貴重な手がかりになっている。
 この教理問答書の直前、1517年から1526年ごろにかけてSimon Grunauという僧が編纂した辞書は「グルナウの辞書」として知られている。これらのほかにも断片的なテキストや碑などがいろいろあるし、ドイツ語-古プロイセン語ばかりでなくポーランド語の辞書も存在するとのことだ。
 しかし語彙に関してはそういった貴重な資料が提供されている一方、シンタクス面では鵜呑みにできかねる点があるらしい。得に教理問答書がドイツ語の原本にあまりに忠実な訳をとったため、硬直したセンテンス構成となっていて語順などは実際の古プロイセン語からは乖離しているからだそうだ。いわゆる直訳体が通常使われている言葉とはとかけ離れている、というのは日本語でもその通りである。また所々誤訳も見つかっている。ドイツ語の名詞Reich 「帝国・領域」と形容詞reich「豊かな」を取り違えたりしている部分があるとのことだ。もっとも多少の誤訳は翻訳にはまあつきものだし、誤訳だと判明しているそのこと自体が古プロイセン語がきちんと解読されている証拠ではある。

 エトルリア語と違って古プロイセン語は一目見た瞬間からすでにバルト語の一つであることが明らかだった。語彙の面でも文法構造の点でもリトアニア語やラトビア語との相似が著しかったからだ。もちろん微妙に違っている部分もいろいろあるので、リトアニア語、ラトビア語は「東バルト語派」、古プロイセン語は「西バルト語派」と分けている。だから現在生き残っているのは東バルト語のみだ。

バルト語派の系統図。
Arkadiev, Peter (et.al) (ed.).2015. Contemporary Approaches to Baltic Linguistics. Berlin:De Gruyterから
Baltisch_bearbeitet

 不便なことに古プロイセン語は言語比較の際必ずと言っていいほど持ち出される基数が1、3、10、1000しかわかっていない。序数は10まできれいにわかっている。教理問答の「十戒」が10番目まであるからだ。その序数を東バルト語派の両言語と比べてみると下のようになる。
Tabelle-125
古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語との間には地域差ばかりでなく時代差があるので気をつけないといけないが、それでもこの三言語が非常に似ていることがわかる。さらに「第3」、「第6」、「第9」の語頭音を見れば古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語、つまり東西バルト語派の間に境界線を引けることがわかる:古プロイセン語ではそれぞれ、tir- (tîr-)、 Øus- (Øuš-,vuš-)、nev- がリトアニア語、ラトビア語ではそれぞれtrẽ- (tre-)、šẽš- (ses-)、dev- で、明瞭な差があるからだ。東バルト語派の「第六」、šẽštasとsestaisは古プロイセン語のustsとはそもそも語源が違い、単純に音韻対応での比較をすることはできないそうだ。šẽštas・sestaisは一目瞭然に他の印欧語と同じ。古プロイセン語だけ変な形になっている。この3つは古プロイセン語の中での方言差を示しているがその一つがwuschts となっていて、prothetisches V (『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのが面白い。実は基数の1は古プロイセン語ではains なのだが、これがリトアニア語ではvíenas、ラトビア語ではviênsでprothetisches V が現れる。V の等語線が東バルト語から西バルト語側にちょっとはみ出している感じなのか。さらに古プロイセン語のains は印欧祖語の*oinos 直系でゴート語のains やラテン語のūnusと同じだが、リトアニア語。ラトビア語のvíenas・ viêns は*eino- という形を通しており、古教会スラブ語のjedinъの -ino- と共通している。上の「第3」、「第6」、「第9」にしても東バルト語派はスラブ語と共通している。古プロイセン語だけがスラブ語と違うということで、バルト語派とスラブ語派はもともとはもっと離れていたのが、時代が下るにつれて近づいていったのではないかという説もある(下記参照)所以である。
 このほか古プロイセン語の「この」(the、 this)が stas なのに対してリトアニア語、ラトビア語は tàs 、tas というのも「東西の頭の差」の例だろうが、もう一つ、古プロイセン語の「雪」はsnaygis で、リトアニア語の sniẽgas、ラトビア語の sniegs とは複母音の方向が逆になっている。後者はロシア語と共通。またリトアニア語の「雪片」という言葉には古形の -ay-  が保持されていてsnaigẽ 。ついでにこの印欧祖語形は *snóygʷʰos である。
 音韻上ばかりでなく、東西バルト語派間には構造上の違いがいろいろある。その一つが古プロイセン語は文法カテゴリーとして中性名詞を保持していることだ。特にエルビングの語彙集ではそれが顕著である。対して東バルト語派には男性・女性の二性しかない(リトアニア語には僅かながら中性の残滓が残っている)。中性名詞は男性名詞に吸収されてしまった。もっとも古プロイセン語でも子音語幹の中性名詞は男性化傾向が見られ、例えば小教理問答では「名前」をemmens といって本来 n-語幹であったのに男性名詞的な語尾 –s が付加されている。 対応するロシア語 имя もラテン語 nōmen も中性。u-語幹の中性名詞は比較的明瞭に「中性性」が保たれ、「蜂蜜」は meddo(-o で終わっていても u-語幹)、「蜂蜜酒」は alu。リトアニア語・ラトビア語ではこれらはそれぞれ medús・medus、alùs・alusというどれも男性名詞である。ただし「蜂蜜酒」のほうは現在では「ビール」の意味になっている。
 さらに外来語が中性名詞として借用された例もある。mestan 「都市」がそれで、リトアニア語ではmiẽstas で男性名詞。ポーランド語miastoからの借用である。『5.類似言語の恐怖』でも述べたようにこれは本来「場所」という意味で、スラブ祖語の*mě̀sto、ロシア語のместо と同源だ。ラトビア語の「都市」はpilsēta で別単語になっているが、これは女性名詞。

 さて、頻繁に議論の対象になるのがバルト語派とスラブ語派の関係である。この二つの語派は地理的にも近いし似ている点も多いので、もともとは一つの語派だったのではないかとする人も多く、以前は「バルト・スラブ語派」といった。今でも時々この名称を聞く。しかし研究が進むにつれてバルト語派とスラブ語派には言語構造、特に動詞の形態素構造に本質的な違いがあることがわかってきて今ではバルト語派とスラブ語派は分けて考えることが多い。
 もっともこの、バルト語派とスラブ語派は一つの語派から別れたものだという考え方にはすでにアントワーヌ・メイエが疑問を提示している。両語派は元から別語派で、平行して発展してきたというのがメイエの主張であった。そこからさらに発展して、バルト語派とスラブ語派間の共通性は「言語連合」(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)によるものだと唱える人たちも現れたが、バルト語派・スラブ語派間の類似性は、古典的な言語連合、例えばバルカン半島の諸言語の場合とは質的な違いがあり、一般に受け入れられるには到っていない。
 
 その動詞の変化パラダイムを比較していくと、スラブ語派は東部の印欧諸語と共通性があり、バルト語派はゲルマン語派、ケルト語はやイタリック語派とともに西ヨーロッパの印欧語に所属させたほうがいいと思わせるそうだ。ただし印欧諸語を単純に西と東に分けること自体に問題があるから、バルト・スラブ間に東西印欧諸語の境界線が走っていると主張することはできない。
 そのバルト語・スラブ語間の形態素の違いについていろいろと指摘できる点はあるそうだが、ガチの印欧比較言語学理論は残念ながら私には理解できないから(どうもすみません)、個人的に面白いと思った点を勝手に列挙させていただくことにする。
 まず、バルト語派の動詞には3人称に単数・複数の区別がない。この点でゲルマン語派ともスラブ語派とも大きく違っている。ゲルマン語でもスラブ語でも助動詞で例えば一人称単数と3人称単数が同形になったり(ドイツ語のich magとer mag < mögen 「~が好きだ」)、一人称単数と3人称複数が同形になったり(クロアチア語の ja mogu とoni mogu < moći「~ができる」。クロアチア語で一人称単数と3人称複数が同じになるのはこの助動詞だけ)することは稀にあるが、3人称の単複同形というのは特殊である。
 また未来系を助動詞の付加でなく(analytic future)動詞の語形変化そのものによって作る(synthetic future)。s-未来と呼ばれ、古プロイセン語のpostāsei(「~になるだろう」2人称単数)がそれ。対応するリトアニア語はpastōsi。さらにリトアニア語の「坐っている」sėdėti の未来形は sedesiu (一人称単数)、 sedesi (二人称単数)、 sedes (三人称単・複)、sedesime(一人称複数)、 sedesite (二人称複数)となる。ラトビア語の「話す」runāt はrunāšu (一人称単数)、 runāsi(二人称単数)、  runās (三人称単・複)、runāsim (一人称複数)、  runāsit/runāsiet (二人称複数)。スラブ語派は助動詞で作る未来形 analytic future しかない。ドイツ語英語も印欧語本来のsynthetic future を失ってしまった。ただし古プロイセン語の小教理問答には動詞の能動態過去分詞にwīrst あるいは wīrstai を付加して作るanalytic future が見られる。もちろんドイツ語の影響である。
 上述のラトビア語の「話す」もそうだが、ちょっとバラバラと動詞を見ていくと語そのものがスラブ語と全く違っているものが目立つ。スラブ諸語は『38.トム・プライスの死』でも書いたように基本の語彙が似ているというより「共通」なので新聞の見出しなど類推で意味がわかってしまうことが多いが、バルト語派相手だとこの手が全然効かない。リトアニア語の「話す」はkalbėtiで、さらに別単語となっているがスラブ語とはやはり遠い。「話す」のほか、たとえばリトアニア語の「書く」はrašyti、「聞く」がgirdė́ti。pjautiは「飲む」か「歌う」かと思うとそうではなくて「切る・刈る」。
 もちろんバルト・スラブ語派というものが取りざたされるほどだから確かに似た形の単語もある。上の「坐っている」がそう。ロシア語の сидеть とそっくりだ。他にも「与える」の古プロイセン語一人称単数が dam 、古リトアニア語が dúomi、現リトアニア語 dúodu (不定形 duoti)、ラトビア語 dodu(不定形dot)古教会スラブ語 damь(不定形 дати)、ロシア語 дам (不定形дать)。リトアニア語を見るとバルト語派内で –m から –du の転換があったようだが、とにかく似ている。しかし一方この語はバルト語派とスラブ語派だけが似ているのではなくて他の印欧語もいっしょなのである。古典ギリシャ語がdidōmi、サンスクリットでdadāmi、ラテン語のdō もこれ。まさにみんなで渡れば怖くないだ。
 また「住む、生きる」の古プロシア語三人称複数形は giwammai でリトアニア語でのgyvẽname あるいはgyvẽnam と同源。ロシア語の живём と子音が違うようだが、これがラトビア語になると dzīvojam でロシア語やクロアチア語の živimo と立派につながっている。印欧祖語では*gʷeyh₃-だそうだ。つまり「与える」も「生きる」もバルト語派とスラブ語派が近いから似ているというより両方とも印欧語だから似ているだけの話なのである。

 全体としてバルト諸語とスラブ諸語は確かにいっしょにされるのも一理あるはあるのだが、かといってでは問答無用で一括りにできるかというとそうでもない、いわばつかず離れず状態と言えよう。せっかくそうやってゲルマン諸語にもスラブ諸語にもベッタリになることなく上手く立ち回ってきた古プロイセン語だが、ドイツ語に押されて18世紀初頭にはすでに死滅してしまっていたと思われる。残念なことである。

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前に書いた記事の図表を画像に変更しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるようなので)。ついでに文章も一部直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 人を魅了してやまないヨーロッパの言語といえばやはりバスク語(『103.新しい家』参照)とエトルリア語ではないだろうか。有史以前の古い時代からヨーロッパで話されていながらズブズブに印欧語化された周囲から完全に浮いている異質の言語。バスク語はヨーロッパ文明圏の周辺部で話されていた上その地も山がちで外部との交流があまりなかったせいかよく保持されて今でも話者がいるが、エトルリア語は文明が早く開花したイタリア半島のど真ん中、しかも交通の便のいい平原に位置していたので紀元一世紀ごろにはラテン語に吸収されて滅んでしまった。しかし一方生き残ったバスク語・バスク人のほうからはヨーロッパに与えた部分が小さいのに対し、死んでしまったエトルリア語・エトルリア人がヨーロッパ文化に与えた影響は大きい。「大きい」というよりヨーロッパ文化の基礎となった部分の相当部をエトルリア人が負っている。ローマがエトルリア文化を吸収しているため、エトルリア文化はある意味ではローマを通じて今日のヨーロッパ文化の基礎にもなっているといえるからだ。さらにローマがギリシャ文化を取り入れた際、文字などその相当部は直接ギリシャ人からではなくエトルリア人を通したからだ(下記参照)。ずっと時代が下ってから考案されたゲルマン民族のルーン文字にもエトルリア文字の影響が見られる。

 中央イタリア、現在トスカーナと呼ばれる地域には多くの碑を残すエトルリア語を話す人々の存在は既に古代ギリシャ人の注意を引いていた。ギリシャ人は彼らをティレニア人とも呼んだ。鉄器時代、紀元前1200年ごろから彼らはそこに住んでいたらしい。時代が下ったローマの文書にもエトルリア人に関する記述がある。どの記述を見ても彼らが洗練された高度な文化をもっていたことがわかる。ギリシャ人のように非常に早くから、紀元前8世紀頃にはすでに高度に発展した都市国家をいくつもイタリアの地に築いていた。一説によるとラテン語などの「エトルリア」という呼び名は turs- という語幹に遡れ、ギリシア語の tyrsis、ラテン語のtrurrisと同じ、つまり「塔」から来ているという。高度な文化を築いていた当時のエトルリア人の家々が(掘っ立て)小屋住まいのローマ人から見ると塔に見えたので「塔を立てる人々」の意味でTursciまたはTyrsenoiと呼ばれたのでは、ということだ。面白い説だが証拠はない。

エトルリア人はローマが勃興する以前にイタリアに多くの都市国家を築いていた。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 2 から

Etrusk3#

 エトルリア語で書かれた文書は紀元前7世紀から紀元前一世紀にわたっているが、言語そのものはもちろん文字で表される前から当地で話されていただろうし、文字化も最古の碑が作られた時代より以前から始まっていたにちがいない。起源前7世紀か8世紀ごろにはすでに言語が文字化されていた、ということはラテン語の文字化、つまりローマ字の発生に先んずる。事実ローマ人がアルファベットを取り入れたのは直接ギリシャ人からではなくてギリシャ文字をいち早く改良して使っていたエトルリア人(つまりエトルリア文字)を通してだ。そのギリシャ文字ももともとはフェニキア文字を改良したもので、もちろん最初のころは表記が結構バラバラだった。エトルリア人が採用したのは「西ギリシャ文字」だが、それもギリシャ文字の非常に早い時期を反映しているそうだ。またギリシャ語の名前もエトルリア語を経由してからラテン語にはいったと思われる例が多い。たとえばギリシャの冥界の女神Περσεφόνη(ペルセポネー)がローマ神話ではプロセルピナProserpinaになっているのはそのエトルリア語バージョンPhersipnaiまたはPhersipneiを経由したからと思われる。ギリシャ語のφは紀元後何世紀かまではph、つまり帯気音の p だったから f で表されていないのである。ラテン語にはおそらくギリシア語から直輸入されたPersephoneという形もあるが、これはProserpinaより後のものではないだろうか。
 およそ13000もの文書や碑が出土しているが、有名なものをあげるとまずVetulonia 近くのMarsiliana d’Albegnaで見つかった碑というか象牙の文字盤。紀元前675年から650年ごろのもので、エトルリア・アルファベットの原型26文字が最も完全な形で保持されている。この原始エトルリア文字26のうち、文字化が進むにつれて使われなくなったものもあり、結局この中の22文字が残った一方、f を表す文字が新たに発明された。

エトルリア文字は少しバリエーションに幅がある。
Pfiffig, Ambros J.. 1969. “Die Etruskische Sprache”. Graz: p.19-20 から
Etrusk1#

Etrusk2#

 さらにPyrgiで1964年に金に刻まれた文書が3枚みつかったが、これはフェニキア語とエトルリア語のバイリンガル文書で、同じ出来事が両言語で記述してある。紀元前500年くらいのころのものと思われるのでまあポエニ戦争のずっと前だ。

エトルリア文字が刻まれた金版
ウィキペディアから
EtruscanLanguage2

あまりの金ピカぶりに目がくらんで読めないという人のために図版も用意されている。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 64 から
Etrusk4#

 しかしなんと言ってもスリルがあるのは現在クロアチアのザグレブに保管されているLiber linteus Zagrebiensisという布切れだろう。18世紀の中ごろにクロアチア人の旅行者がエジプトでミイラを手に入れたが、そのミイラを包んでいた包帯にエトルリア語が書いてあったのである。その亡くなったエジプト人(女性)の親族には新品の布を買うお金がなく、エトルリア人が捨てていった反古布を拾って使ったのだといわれている。なぜそんなところにエトルリア人がいたのかとも思うがローマ(含エトルリア)はアフリカ・エジプトと関係が密だったことを考えるとこれはそんなに不思議でもない。それよりその遺族が故人をミイラにするお金はあったのになぜ布代なんかをケチったとのかという方が私個人としてはよほど不思議だ。そんなに貧乏ならそもそもミイラ代も出せなかったのではないだろうか。とにかく謎だらけのこの布はおそらく紀元前150年から100年くらいの「作」。発見者の死後、1862にその布はザグレブに移されて今もそこの博物館にある。もちろん布ばかりでなくミイラそのものも安置されている。このテキストは今まで見つかったエトルリア語の中で最も長いそうだが、ミイラ本体より包帯の方に学問界の注目が行ってしまったというのも皮肉といえば皮肉である。

重要視されているのは中身のミイラよりその包帯のほう
ウィキペディアから
Lanena_knjiga_(Liber_linteus_Zagrebiensis)

 エトルリア語で書かれた文書だけでなく、ローマの歴史書などにもエトルリアについての記述がある。ローマの力がイタリア全土におよんだのはだいたい紀元前3世紀ごろだが、支配下に入った都市はその後も結構長い間自治都市であった。エトルリア人の都市国家も紀元前1世紀頃までは事実上独立した都市国家であったらしい。上でも述べたようにエトルリアはローマに先んじて洗練された文化を展開していたため、その影響はローマの貴族層、ハイソサエティ層に顕著だったようだ。例えばSpurinnaという、名前からみて明らかにエトルリア人と見られる占い師がカエサルに3月15日にヤバいことがおこるぞと警告していたそうだ。さらにあの、ネロの母親アグリッピナと4回目の結婚をしたばかりに最終的な人生のババを引いてしまったクラウディウス帝は歴史家リヴィウスといっしょにエトルリアの歴史を勉強して自分でも12巻の本を著したと言われている。またエトルリアの知的財産が忘れられることがないよう気を配ったとも。帝の最初の妻Plautina Urgulaniaはエトルリア人で、帝にその伝統・習慣などを伝授したものと思われる。
 しかしエトルリア語という言語そのものは当時すでに話されなくなってしまっていたとみられる。紀元前2世紀から言語転換が始まり、最後のエトルリア語文書が書かれたアウグストゥス(紀元前64~紀元14年)時代には話者はほとんどいなくなっていたそうだから、クラウディウスの時はその「ほとんど」さえ消失して事実上ゼロだったろう。ウルグラニアもエトルリア人の血をひいていはいてもエトルリア語は話せなかったのではなかろうか。ただ僅かに宗教儀式などに残った単語などは伝わっていたから言語についての片鱗は知っていた。だからこそリヴィウスもクラウディウスも失われていく文化への郷愁でエトルリア史を書き残そうとしたのかもしれない。

 またエトルリア語の文書は紀元前7世紀から紀元直前直後までの長いスパンにわたっているのでその間のエトルリア語の音韻変化を追うことさえ出来る。方言差があったこともわかっている。Fiora とPagliaという(小さな)川を境に南エトルリア語と北エトルリア語に分けられるそうだ。ラテン語への吸収は南エトルリア語が早く、北ではやや遅くまで言語が保持された。エトルリア人が自分たちをRasennaと呼んでいたことも伝わっている。また通時的にも初期エトルリア語と新エトルリア語を区別でき、前者はだいたい紀元前7世紀から6世紀にかけて、後者は紀元前5世紀から一世紀にかけての時期であった。分ける基準になっているのは母音変化で、初期の母音が次第に弱まって新エトルリア語では消失していたらしく、紀元前5世紀以降の碑では母音が記されなくなっている。上で述べた自称も最初Rasenna だったものが時代が下るとRasnaになった。消失するほかにもa が u と弱まっている例が見られる。
 文書の量の点でも、当時イタリア半島で話されていたラテン語以外のロマンス語、ウンブリア語、オスク語、ヴェネト語などとくらべるとエトルリア語の文書は格段に数が多い。上でも述べたように万の単位に達しているのだ。それに比べて例えばウンブリア語のはせいぜい数百に過ぎない。いかにエトルリア人が文明化されていたかわかるだろう。

 さてそのようにギリシャ人やローマ人によって注目され書きとめられ、文書も残っているならエトルリア語の解読など楽勝だろうと思うとこれが大きな間違い。古今から一流の言語学者がよってたかって研究しているのにいまだにこの言語は完全には解読されていない。言語の所属さえわかっていない。16世紀にPier Francesco Giambulariという学者がヘブライ語との親族関係を問うたのを皮切りに現在まで、ある時はフィン・ウゴール語、あるときはテュルク・タタール語と、ある時はコーカサスの言葉と結び付けられ、その間にもこれは実は印欧語であるという説がひっきりなしに浮上しては否定されるというルーチンができあがった。イタリック諸語、アルメニア語、ヒッタイト語などとの親族関係が取りざたされたのである。面白いことにヒッタイト語を解読したフロズニーHrozný(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)が1929年にEtruskisch und die „hethitischen“ Sprachen.「エトルリア語とヒッタイト語」という論文を書いて、エトルリア語の属格 –l (-al) とヒッタイト語の属格形態素 -l 、–il、 –alとを比べている。ただしフロズニーはこの共通性を以ってエトルリア語印欧語説は唱えていない。むしろはっきりとエトルリア語とヒッタイト語との相違、共通点の少なさを強調している。そう思っているのならなぜ共通っぽい部分をあげたのかと思うが、ヒッタイト語の第一人者としての手前何か結び付けなければ論文にならなかったからかもしれない。20世紀初頭まではそうやっていろいろ結論を急いだ感があったが、やがて所属関係はひとまず棚上げにしてとにかく地道にエトルリア人・エトルリア語を観察研究していこうということになった。目下は「孤立した言語で(おそらく)非印欧語」とされているが、ここに来るまでにいろいろな人が言いたい放題の説を唱えては消えていった様子を見ていると日本語の状況を彷彿とさせる。しかしこうなってしまったのには理由があるのだ。
 まず文書や碑が名前の羅列や宗教儀式の呪文ばかりで、同じフレーズの繰り返しが多く、13000もの文書がありながら出てくる単語は255くらいに過ぎない。だから基本単語なのにわからないものがある。例えば「妻」はわかっているが「夫」という言葉がみつかっていない。Brotherはわかるがsisterがわからない。またラテン語やフェニキア語とのバイリンガル文書にしても翻訳があまりにも意訳過ぎて、語レベルでの言語対応がつかみ切れないので解読できない単語も少なくない。つまり素材が少なすぎるのである。
 第二にあまりにも異質すぎて周りの言語とくらべようがない。林檎と梨なら比べようがあるが、バナナとブドウを出されて共通点をあげろといわれたら途方に暮れるだろう。基本単語をラテン語やギリシャ語などとちょっと比べてみただけでまさにバナナとブドウ状態なのがわかる。
Tabelle1-122
数詞は次のようになっている。
Tabelle2-122
もちろん印欧語内でだって細かい相違はあるが全体としてみると素人目にも共通性がわかるし、形が全く違っている場合はその原因がはっきりしていることが多い(例えばラテン語の「娘」は明らかに「息子」から派生されたから他の言語の「娘」と形が違うのである)。さらに今日の英語、ドイツ語、ロシア語などと比べてみてもよく似た言葉が容易にみつかる(サンスクリットのbrātāなど)。それに比べてエトルリア語のほうは取っ掛かりというものが全然感じられない。わずかに「7」と「9」を見て一瞬おっと思うが、そういうのに限って「?」マークがついている。
 単語だけではない。音韻組織の面でもエトルリア語は周りの言語からかけ離れている。まず母音は4つで、o がない。だからギリシャ語やラテン語から語を借用する際のo を u で転写している。ラテン語と同じイタリック語派のウンブリア語は文字をエトルリアから取り入れたため、o という字がないそうだ。音そのものはもちろんあったわけだから相当不便だったのではないだろうか。
 次に有声閉鎖音がない。g、d、b がないのである。初期にはこれらの文字そのものはあって、ギリシャ語やラテン語からの借用語に使われていたが、音がないのだからやがてこれらの文字は使われなくなった。さらに f という音がある。f の音なんて別にかけ離れていないじゃないかと思うとさにあらず。印欧語には本来この音がなかったのである。現在の印欧語にはこの音があるがこれは時代が下ってから二次的に生じてきたもの。古典ギリシャ語、サンスクリットなど古い時期の印欧語はこれを欠いている(古典ギリシャ語のφは現代ギリシャ語のような f ではなく帯気音の p だった)。当時のケルト語にもない。ラテン語にもローマ以前には存在せず、この音が生じたのはエトルリア語と接触したためと思われる。その意味で紀元前7~8世紀からすでに f を持っていたエトルリア語は周辺の言語と非常にかけ離れていたのだ。

 その別世界言語からラテン語に借用されそこからさらに現在の印欧語に受けつがれて現在まで使われている単語がある。例えばラテン語のpersona(「仮面」)、英語の personはエトルリア語のphersu から借用されたものといわれている。なるほどエトルリア語のほうには o がない。また「書くこと・書いたもの」というラテン語litterae、もちろん現在のletter、literature だが、これもギリシア語のdiphthera が一旦エトルリア語を経由してラテン語に入ったと思われる。元々の意味は「羊や山羊の皮」だった。その上に字が書かれたから意味が変遷して文学だろ字だろそのものを表すようになったのである。

 エトルリア人・エトルリア語は自身は死滅してしまったが、文化面でも言語の面でも後のヨーロッパに大きな遺産を残していった。まさに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」である。

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 ウクライナ語とロシア語、ベラルーシ語はどれも東スラブ語派の一員、いわば兄弟である。ロシア語が他の二言語に比べて圧倒的に強力であるため、大学で「東スラブ語学専攻」というのは事実上ロシア語学専攻のことだが(『5.類似言語の恐怖』参照)полногласие (「充音現象」,『56.背水の陣』『145.琥珀』参照)など典型的な東スラブ語の特徴をより明確に保持しているのはむしろウクライナ語のほう。ウクライナ語はロシア語より南スラブ語の影響が弱い、ということはつまり純粋な東スラブ語形を保持している。例えばロシアのプーチン氏とウクライナのゼレンスキイ氏は皮肉なことに同じ名前だが前者はヴラジーミル Владимир、後者はヴォロディミル Володимир という形で、この -la- 対  -olo- がそれぞれ南スラブ語形と東スラブ語形である。南スラブ語名の Владимир を取り入れたロシア語もその愛称形はヴォロージャ Володя となり本来の東スラブ語が現れる。それなら始めからウクライナ語のように東スラブ語形の Володимир を使えばいいのに。とにかくある意味ではウクライナ語のほうが正統な東スラブ語だ。これを譬えるとウクライナ語はイギリス英語、ロシア語はアメリカ英語といったところか。もちろん両言語の距離は英語と米語のそれより遥かに大きいが。
 もっとも英米語より距離があると言っても東スラブ諸語そのものが分離してまだ間もないからお互いに非常によく似ているのも事実だ。ロシア文学史などには「ロシア古代文学」としてキエフ・ルーシ時代の古典『イーゴリ戦記』、『子らの教え』、『過ぎし歳月の物語』などの作品が上がっているが、この頃はまだロシア語とウクライナ語(ベラルーシ語も)が分離していなかったから、これらはウクライナ文学の古典でもある。決定的な分離が始まったのはキエフ公国がタタールにやられて滅んだ1240年以降だが、それ以前に既にキエフ公国は衰退しており1169年にはキエフが北東、つまり現在のロシアから来た公に破壊されたりしていた。諸侯分裂の時代だったわけで、そこへまたステップの遊牧民がジワジワ圧力を強めていくにつれてドニエプル中流の住民が移動を始め、スラブ人ははっきりと二つの地域に分かれていった。北東と南西、つまり大ロシアと小ロシアとの分割の開始である。言語的にも方言分化が始まっていて、11世紀のキエフ(キーウ)、チェルニゴフ(チェルニヒウ)、12世紀のガリツィアの資料ではすでに現在のウクライナ語としての特報が現れていた。いずれにせよロシア語とウクライナ語は鎌倉時代に分離しはじめたのである。
 しかもタタールの圧力の下でこの北東部(大ロシア)と南西部(小ロシア)との間にはわずかしか交流がなく、小ロシア・ウクライナは独自の歴史を歩むことになった。大雑把に言うとウクライナは西のヨーロッパ文化圏に属すことになったのだ。ウクライナがタタールの下にあった時期はたった100年ほど。ロシアより遥かに短い。1300年以降は南西部ではタタールの影響は衰退していき、代わりにポーランドとリトアニアが当地に勢力を伸ばしてきた。12世紀から14世紀にかけてウクライナ西部にガーリチ・ボルイニ公国というのがあったが、これはハンガリー、ポーランド、リトアニア同様「ヨーロッパの国」だった。1350までには政治的にもポーランドの支配下に入っている。さらに1400年までにはリトアニア人が広大な公国を建て、ウクライナとベラルーシを支配下においた。このリトアニア領での公用語はベラルーシ語と教会スラブ語のミックス的「西部東スラブ語」だったが、私的な文書などの言語にはウクライナ語の特徴がはっきりと見て取れるそうだ。
 その後、1569年、ポーランドとリトアニアが合体してルブリン連合となり、ウクライナはポーランド領となった。以来ポーランドがロシア、プロシア、オーストリアに分割される1772年までウクライナはポーランドの支配下であり続ける。ウクライナ語が決定的にロシア語と別言語のステータスを獲得したのはこの時期で、政治や文化的にロシアと離れていただけでなく言語もポーランド語からの影響をタップリ受けた。一言でいうとここでウクライナ人はロシア人とは別の民族になったのである。長い間「アジア人」の支配下に置かれていたロシア人と、いち早くヨーロッパの一員になっていたウクライナ人とではメンタリティ的にも相当違いがあるだろうことは容易に理解できる。
 
 しかしポーランドのウクライナ支配は要するに異民族支配だったから、ウクライナ住民にしてみれば他人に頭を抑えられている状態で、不満も強かった。そこでザポリージャのコサック、ボフダン・フメリニツキイ Богдан Хмельницький の下にウクライナ東部がポーランドに対して蜂起した。1648年ロシア皇帝モスクワ大公アレクセイに援助を要請しそれによってポーランドの支配から逃れたのだが、ここで歴史家の見解が分かれるそうだ。ウクライナにしてみればロシアはあくまで「同盟国」であり、ウクライナはロシアと同等、一歩譲ってロシアを宗主国とするにしてもウクライナとロシアは別国家、少なくとも別民族のつもりであった。当時はすでに言語の面でも歴史の面でもウクライナ人はロシア人とははっきり分かれていたのだから。支配者と住民が別民族・別言語などということは西欧ではデフォである。スペインとオランダがいっしょくたにハプスブルク家の支配下にあったこともその一例だ。だがロシア人はウクライナ人をあくまで「ロシア人の亜種」と考えたかったようだ。それでもしばらくはウクライナは少なくとも自治領のステータスではあった。イヴァン・コトリャレーウシキー Іван Котляревський(1769-1838)によるウクライナ語による文学創作の試みがなされたのもこの時期、18世紀後半のことだ。
 1772年に「本国」ポーランドがロシアに食われてウクライナが完全にロシア領になった後もウクライナ語の文章語を確立しようという活動はさかんに続けられた。記事の冒頭で述べたような南スラブ語要素を意識的に排除する動きが出てきたのもこの時期である。 コトリャレーウシキーや農奴出身の詩人タラス・シェウチェンコ Тарас Шевченко(1814-61、下記)などの作品は最初ロシア語綴りで出版されたが、やがてウクライナ語独自の正書法への模索が始まった。ミハイロ・マクシモヴィッチ Михайло Максимович(1804-1873)という学者が正書法を考案したがあまり普及せず、パンテレイモン・クリッシュ Пантелеймон Куліш (1819-97)の綴りがクリシフカ Кулішівка と呼ばれて広く使われるようになった。1857年にはウクライナ語の文法書がでている。
 こうして見てみると、18世紀から19世紀にかけてロシア語の文学言語確立の時期にウクライナでも同時に独自の文学言語が確立されていったことがわかる。マルコ・ヴォフチョークのようなロシア文学とウクライナ文学の両方に貢献したバイリンガルの作家もいる。また、自由な精神の発動としての文学が支配者にとっては目の上のタンコブだったのもロシア・ウクライナ共通で、上のシェウチェンコなどは皇帝ににらまれて10年間も流刑生活を送っている。
 文学活動どころか1863年にはウクライナ語の使用自体が学校で禁止され、1873年には出版その他、ロシア帝国内での言語使用そのものが禁止された。ウクライナのインテリ層がこぞって国外逃亡したのもむべなるかな。逃亡先は当時まだオーストリア・ハンガリー帝国領、つまり外国であったリヴィウ Львів だった。ここで東部ウクライナ人もポーランド語の影響をタップリ受けたウクライナ語に接し、それがウクライナ全体に持ち込まれたのである。その後1905年に幸い禁止が解かれ、文化の中心はキーウに戻った。直後の1907年にはボリス・フリンチェンコ Борис Грінченко(1863-1910)によるウクライナ・ロシア語辞典が出版された。ウクライナ語が特にロシア語に対して独立言語として確立するための確実な一歩である。
 さらにソ連政権下で正書法の整備が進んだ。まず1928年にソ連邦ウクライナ共和国の言語学者で正書法が決められたが1933年にソ連の横やりが入り一部改良した。例えばそこで ґ という文字は使用しないことになり、普通の г に統一させられたそうだ。ウクライナ語では元は g(有声軟口蓋閉鎖音)であった г の音が変化し、13世紀前半に有声軟口蓋摩擦音 [ɣ] となり、そこからさらに16世紀ごろ有声声門摩擦音の [ɦ] になった。これは h の有声バージョンである。前に書いたが、ベラルーシ語では г は [ɣ] と教わったが、実際に聞いてみたら h にしか聞こえなかった。もしかしたらベラルーシ語でも [ɦ] と発音する場合が多いのかもしれない。さらに私にはそれが無声に聞こえた。つまり h で、ウクライナ語の г をラテン文字では h で写し取るそのままである。つまりベラルーシ語やウクライナ語では声門摩擦音では有声・無声に弁別的機能がないということだ。さらに両言語には g という音がない。これは不便だ。g などという音はそこら中の言語が持っている。g がなくてはそれらの言語から借用ができない、ということで特に g という音を表すためにウクライナ語では ґ という文字が使われていた。それを禁止されたのでプロパガンダがプロパハンダとなってしまった。
 なぜロシア側はこんな変な横やりを入れたのか。ロシア語では г は g だが、その代わり h の音がない。外国語の h は г で写し取る。だからヨコハマはヨコガマに、ハンブルクはガンブルクになる。こんな妙ちきりんな変換をされた側の言語話者がロシア語に対してブーたれたり、こんな音韻対応しかできないロシア語を馬鹿にするのを一度ならず目撃した。ウクライナ語はその逆だが、h と g が区別できない点ではロシア語と同じである。ウクライナ語がそれを改良しようと外来語用に特に g を設定したら、笑われるのはロシア語だけになってしまう。「我々は運命共同体だ。いっしょに笑いものになれ。抜け駆けはゆるさん」というサインだったのかもしれない。人にはそういう強制をしておいて、自分ではちゃっかりその後外国語の h はなるべく g でなく х [x] で写し取るようになってしまったからロシア語はこすい。これだと確かに横浜がヨコハマと聞こえるようになる。そのお返しというわけでもないだろうが、ソ連崩壊後独立国になった際ウクライナのほうは ґ という文字を復活させた。ただあまり使用はされていない。
 この1933年、独立後の1993年の他に1960年にも少し正書法の改訂が行われている。

 そのウクライナ語はロシア語とどう違っているのか。語彙がいろいろ違うのは当然だが、そもそも語彙の違いというのは見た目が派手なわりには言語決定の基準としては極めて弱い。例えば日本語には中国語からの借用語(つまり漢語)がゴロゴロあるが、言語そのものは全く別だ。大切なのは言語構造、特に音韻体系のほう。これがウクライナ語とロシア語では違っている。g  や充音現象については上で述べたが、もう一つ目を引くのが母音 i 音の違いだ。ウクライナ語には学習者泣かせのロシア語音 ы  [ɨ] がない。и と і の二つの「イ」があるが、発音はそれぞれ [ɪ] と [i]、つまり英語やドイツ語でお馴染みの met と meet、bitten と bieten の違いである。しかしここで早合点して、じゃあロシア語の ы と и がウクライナ語ではそれぞれ и  [ɪ] と і  [i] になるんだなと思うとそれが違う。ロシア語の ы と и の音韻対立がなくなる、というのが正しい。つまり音韻体系そのものが違うのだ。ちょっと見てみただけでもウクライナ語の и がロシア語の ы と и 双方に対応していることがわかる。アクセントのあるなしには関係がない(下線部。太字はアクセント位置)。そしてウクライナ語の и は先行子音を口蓋化させない。だから Володимир はヴォロヂミルではなくヴォロディミルと日本語表記していい。
Tabelle1-185
і が対応するのはむしろロシア語の е である。
Tabelle2-185
ただ、こちらの方はアクセントが関わってきていて、上の例は全てアクセントのある母音である。「7」では語末の子音で口蓋化・非口蓋化の音韻対立が失われているが、この現象はベラルーシ語でも見られる。アクセントがない е はウクライナ語でも е で現れる。
Tabelle3-185
アクセントのあるロシア語の е とウクライナ語の е が対応する例もあるはあるが例が少なかった。私が見かけたのは次の2例だけである。
Tabelle4-185
前置詞の без は種々の合成語にも現れるが、その際はアクセントが語幹の方に移動し без 自体にはアクセントがなくなるので定式通り е である:бездарний「才能のない」、безжалісний「情け容赦のない」(ロシア語ではそれぞれ бездарный と безжалосный)など。
 逆にアクセントがないロシア語の е とウクライナ語の і が対応する例に сімсот(ロシア語で семьсот)などがあるが、これは元の「7」が持っている і を引き継いだに違いない。してみると上の бездарний も定式通りというより、単に元々の前置詞の形が保持されているだけなのかもしれない。
 さらにロシア語の и がウクライナ語の і となる場合もある:кони(「馬」、複数主格)対 коні(同。下記参照)。しかしこれも環境が限られているようだ。
 この、ウクライナ語の і は実は е であるということをふまえれば、一瞬驚愕するウクライナ語の母音交代 і 対 о もある程度納得がいく。ロシア語の о がウクライナ語では і で現れるというだけでなく、
Tabelle5-185
ウクライナ語内部のパラダイムでも і 対 о が交代する。кінь の変化を見てみよう。
Tabelle6-185
ウクライナ語が男性名詞単数で呼格をパラダイムとして持っていること(太字)、しかも母音が -u であることに何より熱血感動するが、とにかくここの і と о の交代を е と о のそれと見なすとロシア語との平行性が見えてくる。ロシア語でも е と о は密接に関係しており、例えば е か о で終わる名詞は双方中性名詞。また語形変化のパラダイム内でこの交代を示す単語も多い:сестра(「姉妹」、単数主格)→ сёстры(同複数主格)→ сестёр(同複数生格)。ё という字の母音は o で、常にアクセントを持つ。ウクライナ語の複数主格と生格はそれぞれ сестри と сестер または сестер だ。ウクライナ語には ё の文字がないので対応する音は先行子音に軟音記号をつけ、母音そのものは o と記す:ロシア語слёзы(「涙」複数主格)対ウクライナ語 сльози。単数主格はそれぞれ слеза と сльоза だから、「姉妹」の場合と е と о の関係が逆で、こちらはウクライナ語のほうが о になっている。だから完全に平行しているわけではないが、「平行性」は明確だ。
 
 前にクロアチア語の母語者がウクライナ語を聞いた感想として「聞いた感じがクロアチア語とよく似てるんで驚きました。どうもロシア語だけ他のスラブ語と全然響きが違いますね」と言っていたが、ひょっとしてその原因はこの「統一 i 音」にもあるのではないかと思っている。

ロシア語(上)とウクライナ語(下)の母音構成。i の音の違いが明確。ソ連時代の出版だが、それにしてももうちょっとどうにかした印刷はできないのか。
Букатевич, Р.И. Очерки по сравнительной грамматике восточнославянских языков. 1958. Одесса, p.34 から
phoneme-Uk-Ru-bearbeitet
 ではウクライナの言語構成はどうなっているのか。2017年のさる調査によると住民の64%はウクライナ語、17.1%がロシア語、17.4%が両言語、0.8%が「その他の言語」を母語としているそうだ。「その他」の内訳は書いていなかったが、トルコ語、タタール語、ギリシア語あたりだろう。ロシア語使用者は都市部に多いが、別の資料によれば2017年時に都市部でロシア語を日常的に使っているのは32.7%、ウクライナ語オンリーが45.5%、両方使うのが21.4%となっている。2006年の調査と比べるとロシア語使用者が減り、ウクライナ語オンリーの割合が増えている。ウクライナ語人口に地方差があるのも知られているが、東部ではロシア語オンリー65.3%、ウクライナ語オンリーが11.6%、双方同程度23%だ。比べて西部ではウクライナ語オンリーが90.6%、ロシア語オンリー2.9%、双方が5.3%。南部は構成が西部と似ており、北部と中央部は中間的だが、ウクライナ語オンリーがロシア語オンリーの倍以上から3倍近くいる。
 注意しないといけないのは、「自分はウクライナ人だと思っている」住民が90%だということで、つまり母語と民族・国籍が完全には一致していないのである。単純計算して10%の「自分はウクライナ人だと思っていない」グループが全員ロシア語母語者だとしても17.1%の残りの7.1%は「母語はロシア語だが自分はウクライナ人だと思っている」ということで、これはゼレンスキー氏やティモシェンコ氏がいい例だ。両者とも母語(第一言語)はロシア語で、ウクライナ語は後から習得したもの。ティ氏はそれでもウクライナ人だし、ゼ氏は母語(ロシア語)、国籍(ウクライナ)、民族(ユダヤ)が全部違っている。

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図表を画像に変更したりして一度記事を全面変更しましたが、その後今更英語にも包含と除外を区別する場合があることを安井稔教授が指摘しているのを見たのでさらに変更しました。再投稿します。言語と言うのは本当に驚くことばかりです。

内容はこの記事と同じです。

 セルジオ・レオーネ監督の代表作に Il Buono, il Brutto, il Cattivo(邦題『続・夕陽のガンマン』)というのがある。「いい奴、悪い奴、嫌な奴」という意味だが、英語ではちゃんと直訳されて The good, the bad and the ugly というタイトルがついている。この映画には主人公が3人いて三つ巴の絡み合い、決闘をするのだが、ドイツ語タイトルではこれがなぜか Zwei glorreiche Hallunken(「華麗なる二人のならず者」)となっていて人が一人消えている。消されたのは誰だ?たぶん最後に決闘で倒れる(あっとネタバレ失礼)リー・ヴァン・クリーフ演じる悪漢ではないかと思うが、ここでなぜ素直にdrei (3)を使って「3人の華麗なならず者」とせず、zwei にして一人減らしたのかわけがわからない。リー・ヴァン・クリーフに何か恨みでもあるのか。
 さらに日本でも I quattro dell’ Ave Maria、「アヴェ・マリアの4人」というタイトルの映画が『荒野の三悪党』になって一人タイトルから消えている。無視されたのは黒人のブロック・ピータースだろうか。だとすると人種差別問題だ。ドイツ語では原題直訳で Vier für ein Ave Maria。

 もっともタイトル上で無視されただけならまだマシかもしれない。映画そのものから消された人もいるからだ。レオーネと同じようにセルジオという名前の監督、セルジオ・ソリーマの作品 La Resa dei Conti(「行いの清算」というような意味だ。邦題は『復讐のガンマン』)は、『アルジェの戦い』を担当した脚本家フランコ・ソリナスが協力しているせいか、マカロニウエスタンなのに(?)普通の映画になっている珍しい作品だが、ここで人が一人削除されている。
 この映画はドイツでの劇場公開時にメッタ切り、ほとんど手足切断的にカットされたそうだ。25分以上短くされ、特に信じられないことに最重要登場人物のひとりフォン・シューレンベルク男爵という人がほとんど完全に存在を抹殺されて画面に出て来なくなっているらしい。「らしい」というのは私が見たのはドイツの劇場公開版ではなく、完全版のDVDだからだ(下記)。劇場版では登場人物を一人消しているのだから当然ストーリーにも穴が開き、この映画の売りの一つであるクライマックスでの男爵の決闘シーンも削除。とにかく映画自体がボロボロになっていた。ドイツ語のタイトルは Der Gehetzte der Sierra Madre でちょっとバッチリ決まった日本語にしにくいのだが、「シエラ・マドレの追われる者」というか「シエラ・マドレの追われたる者」というか(「たる」と語形変化させるとやはり雰囲気が出る)、とにかく主人公があらぬ罪を着せられて逃げシエラ・マドレ山脈で狩の獲物のように追われていく、というストーリーの映画のタイトルにぴったりだ。でもタイトルがいくらキマっていても映画自体がそう切り刻まれたのでは台無しだ。
 私はもちろんこの映画を1960年代のドイツでの劇場公開では見ていないが完全版のDVDを見ればどこでカットされたかがわかる。ドイツ語吹き替えの途中で突然会話がイタリア語になり、勝手にドイツ語の字幕が入ってくる部分が所々あるのだ。これが劇場公開で切られた部分である。件の男爵はドイツ語吹き替え版なのにイタリア語しかしゃべらない。つまり劇場版では全く吹き替えされていない、ということは出てきていないということだ。
 この切断行為も理由がまったくわからない。ソリーマ監督自身がいつだったかインタビューで言っていたのを読んだ記憶があるが、このフォン・シューレンベルクという登場人物は、ドイツ人の俳優エーリヒ・フォン・シュトロハイムへのオマージュだったそうだ。なるほど人物設定から容貌から『大いなる幻影』のラウフェンシュタイン大尉にそっくりだ。背後には『エリーゼのために』をモチーフにしたエンニオ・モリコーネの名曲が流れる。そこまで気を使ってくれているのによりによってドイツ人がそれをカットするとは何事か。
 
 ちょっと話が急カーブしすぎかもしれないがやはり「一人足りない」例に、私も大好きなまどみちおさん作詞の「1年生になったら」という童謡がある。「一年生になったら友達を100人作って100人みんなで富士山に登りたい」というストーリーだ。実は当時から子供心に疑問に思っていたのだが、友達が100人いれば自分と合わせるから富士登山する人数は合計で101人になるはずではないのか。一人足りないのではないか。
 この疑問への答のヒントを与えてくれたのがロシア語の мы с тобой(ムィスタヴォイ)という言い回しだ。これは直訳すると we with you なのだが、意味は「我々とあなた」でなく「あなたを含めた我々」、つまり「あなたと私」で、英語でも you and I と訳す。同様にこの友達100人も「私と君たち友達を含めた我々100人」、つまり合計100人、言語学で言う inclusive(包括的あるいは包含的)な表現と見ていいのではないだろうか。逆に富士山に登ったのが101人である場合、つまり話者と相手がきっちりわかれている表現は exclusive(排除的あるいは除外的)な表現といえる。
 
 言語には複数1人称の人称表現、つまり英語の代名詞 we にあたる表現に際して包含的なものと除外的なものを区別する、言い換えると相手を含める場合と相手は含めない場合と2種類の we を体系的に区別するものが少なからずある。アイヌ語がよく知られているが、シベリアの言語やアメリカ先住民族の言語、あとタミル語、さらにそもそも中国語の方言にもこの区別があるらしい。「少なからず」どころか実はこの区別を持つ言語は世界中に広がっているのだ。南北アメリカやアジアだけでなく環太平洋地域、南インドやアフリカ南部の言語にも見られる。さらに足元琉球語の方言にもある。印欧諸語やセム語にはないが、話者数でなく言語の数でみると包含・除外の区別は決して「珍しい」現象ではない。ちょっと例を挙げてみると以下のような感じ。それぞれ左が inclusive、右が exclusiveの「我々」だ。
Tabelle1-22
あちこちの資料から雑多に集めてきたのでちょっと統一がとれていないが、とにかくアフリカ南部からアジア、アメリカ大陸に広がっていることがわかる。ざっと見るだけで結構面白い。
 ジューホアン語というのが見慣れないが、これがアフリカ南部、ナミビアあたりで話されている言葉だ。
 中国語は体系としてはちょっとこの区別が不完全で、「我們」は基本的に inclusive、exclusive 両方の意味で使われるそうだ。他方の「咱們」が特に inclusive として用いられるのは北京語も含む北方の方言。満州語の影響なのではないかということだ。そう言われてみると、満州語と同じくトゥングース語群のエヴェンキ語にもこの対立がある。満州語とエヴェンキ語は inclusive と exclusive がそれぞれmusə と mit、bə と bū だから形まで近い。
 問題はハワイ語やジューホアン語の双数・複数という分類だ。これらは安易にウィキペディアから持ってきた例だが、双数と言うのはつまり私が一人、あなたも一人の合計二人、複数ではこちら側かあちら側かにさらにもう一人いて3人以上、つまり複数なのかと思うとどうも事情は常にそう簡単ではないらしい。言語によっては双数とやらは実は単数あるいは非複数と解釈するべきで、それを「双数」などと言い出したのは、1.文法には数、人称というカテゴリーがあり、2.人称は一人称、二人称、三人称のきっちり三つであるという思考枠から出られない印欧語頭の犯した誤解釈だというのである。これは松本克己教授の指摘だが(もちろん氏は「印欧語頭」などという下品な言い回しは使っていない)、そもそも「一人称複数で包含と除外を区別」という言い方自体に問題があるそうだ。包含形に単・複両形を持つ言語は消して珍しくない。たとえば松本氏の挙げるニブフ語(ギリヤーク語)の人称代名詞は以下のような体系をなしている。
Tabelle2-22
人称は3つだけではないと考えさえすれば極めてすっきりした体系なのに、パンフィーロフ Панфилов В. З というソ連の学者は「1人称でも2人称でも3人称でもない人称」を見抜くことができず、話し手と聞き手が含まれているのだから単数とは見なせないと考えて、全くニブフ語の言語感覚を逸脱した「双数」という概念を藪から棒に一人称にだけ設定して次のように記述した。思い切りわかりにくくなっている。
Tabelle3-22
包含形を一人称複数の一種とせずに独立した一つの人称カテゴリー(包含人称あるいは一人称+二人称)とみなさざるを得ないのはアイマラ語も同じだ。アイマラ語は数のカテゴリーがないが、後に特殊な形態素を付けて増幅形をつくることができる。
Tabelle4-22
上のように hiwasa と naya-naka を比べても唐突すぎてよくわからないが、こうすれば体系をなしているのがよくわかる。さらに南太平洋のトク・ピシンも同じパターンなのが面白い。
Tabelle5-22
トク・ピシンというのは乱暴に言えばメラネシアの現地語の枠組みの上に英語が被さってできた言語だ。mi というのは英語の me、yu は you である。yumi で包含人称を表わすというのはまことに理にかなっている。トク・ピシンには本当に一人称双数形があるが、パンフィーロフ氏はこれをどうやって図式化するのだろう。不可能としか言いようがない。
 それではこれらの言語での包含人称とやらの本質は何なのか。例えばアイヌ語の(いわゆる)一人称複数包含形には1.一人称の間接表現(引用の一人称)、2.2人称の敬称、3.不特定人称の3つの機能があるそうだ。3番目がポイントで、他の言語とも共通している。つまり包含人称は1・2・3人称の枠から独立したいわば第4の人称なのである。「不特定人称」「汎人称」、これが包含形の本質だ。アメリカの言語学では初め inclusive の代わりに indefinite plural または general plural と呼んでいたそうだ。plural が余計なのではないかとも思うが、とにかく多くの言語で(そうでない言語もあるだろうが)包含対除外の単純な二項対立にはなっていないのである。
 そもそも一口に人称代名詞と言っても独立形か所有形(つまりある意味「語」でなく形態素)か、形の違いは語形変化によるのか膠着かによっても機能・意味合いに差が出てくるからまだまだ議論分析の余地が大ありという事だろう。
 
 ところで私の感覚だと、日本語の「私たち」と「私ども」の間にちょっとこの包含対除外のニュアンスの差が感じられるような気がするのだが。「私ども」というと相手が入っていない、つまり exclusive 寄りの意味が強いのではないだろうか。実はこの点を松本教授も指摘していて、それを読んだとき私は「おおっ、著名な言語学者を同じことを考えてたぞ私!」と万歳三唱してしまった。これは私だけの考えだが、この「私たち」と「私ども」の差は直接 inclusive 対 exclusive の対立というより、むしろ「ども」を謙譲の意味とみなして、謙譲だから相手が入っているわけがないと解釈、言い換えると inclusive 対 exclusive の対立的意味合いは二次的に派生してきたと解釈するほうがいいかもしれない。
 また上述のロシア語 мы с тобой 、つまりある意味では包含表現は単純に ты и я(you and me)やмы(we)というより暖かい響きがあるそうだ。 まどみちおさんも実は一人抜かしたのではなくて、むしろ暖かい友だち感を強調したかったのかも知れない。登場人物を映画やタイトルでぶった切るのとは逆である。
 さらに驚くべきことには安井稔氏が英語にも実は inclusive と exclusive を表現し分ける場合があることを指摘している:
Let's go.
Let us go.
という例だが、前者は単に後者を短く言ったものではない。意味と言うか会話上の機能が違う。前者は Shall we go?(さあ行きましょう)、後者は Let us be free! (私たちを行かせてください、自由にしてください)と同じ、つまり Let's の us は相手が含まれる inclusiv、Let us の us は相手が含まれない exclusive の we である。
 
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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