アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 以前にも書いたが、構造主義を発達させたのは言語学、特に音韻論である。「音素」という観念がすでに大発見だと思うが、それをさらに分割した最小単位「弁別的素性(そせい)」というアプローチが構造主義が広がる出発点となった。ヤコブソン、トゥルベツコイなどがあくまで言語学用に確立したこの観念を人類学・民族学者などがちゃっかり(?)拝借して応用し、そこから一般に広まった。民族学などの本の方がギチギチの理論詰めで書かれている無味乾燥なトゥルベツコイの『音韻論概説』なんかよりよっぽど読みやすくて面白いからだ。
 しかしロシア語を勉強した者ならふと疑問に思う人も多かろう:構造主義の先頭を走っていたロシア・ソビエトの学者はその後どこへ行ってしまったんだ?フォルトゥナートフがモスクワで、ボドゥアン・ド・クルトネがカザンで構造主義の先鞭を付けていたはずだが、その鞭は今何処にあるんだ?ド・クルトネについてはスラブ語学者の千野栄一氏もエッセイで強調しているが、ソシュールより30年も前にすでに構造主義言語学の基本的な考えに到達していたのである。プラーグ学派がナチにつぶされ、ユダヤ人のヤコブソンがアメリカに亡命してそこでアメリカ構造主義の発展の一因になったことはまだわかる。しかしナチに打ち勝った本家ソビエト・ロシアの構造主義はどうなったんだ?と。実際私たちのように外部にいるものには、1930年ごろから1960年ごろまで、こちらで構造主義やらソシュール言語学やらが花開いていた時期のソ連の業績がほとんど伝わって来ない。
 幸い、といっていいのかどうか、今では少なくともその暗黒時代の原因については皆に知られている。スターリンの御用学者のマールという言語学者だ。この人が1925年あたりからソ連言語学を牛耳り、自身の死後もスターリンの後押しでその言語学は影響力を失わず1950年代まで君臨し続けたからである。その言語学は一言でいうとイデオロギーを完全優先させたもので、言語の発展や変化の過程を階級闘争の一環として把握しようとする。印欧語学も構造主義の言語学も「ブルジョア脳」が生み出したものとして排除された。どうしてスターリンが言語学などというマイナーな分野に口を入れたのかよくわからないが、マールがグルジア人だったので同胞のよしみということなのかもしれない。また構造主義言語学がブルジョア言語学に見えたのは、当時の学者はド・クルトネにしてもソシュールにしてもトゥルベツコイ侯爵にしても貴族や裕福な家庭の出、つまりええとこのボンが多かったので、その思想も階級の敵という扱いになったのではないだろうか。1950年代にスターリンが突然掌を返してマールの説を放棄し、50年代中ごろからソ連でも構造主義がリバイバルするが、30年近く発展を阻まれてた言語学者の被害は甚大、いわばせっかく自分たちで築き上げた成果を民族学にさらわれる前に自分たちで滅茶滅茶に踏みにじったのである。
 このブランクのため50年代後半に構造主義言語学にOKが出てもしばらくはもたついていたようだ。構造主義への批判もあった。「構造主義は言語という人間の営みを非人間化している」と言う声もあったそうだが、そういえば一見人間の実際の生活や文化から遊離しているかに見える抽象的な理論に対しすぐ生活の役に立つの立たないのとケチをつけだす小学生が『身体検査』というソログープの短編に出ていた。大人になっても言語理論が一見日常会話言語と乖離し、言語学をやっても全く語学には役立たない(『34.言語学と語学の違い』参照)、こんなアプローチをやって何になるのかという懐疑を持っている人は多い。
 しかし一方かつて世界をリードしていたロシアの伝統はさすがに消えはせず、土台は残っていたので(その土台に立っていた建物はマールが焼き払っていたにせよ)そこからまた言語学の建設が始まった。チョムスキーの Syntactic Structures などいち早く紹介され、そのモデルをロシア語に応用した独自の変形文法理論などもすぐに出た。その一人がS.K.シャウミャン Себастиан Константинович Шаумян である。1965年に Структурная  Лингвистика(『構造主義言語学』)というズバリなタイトルの本を出して独自の生成モデルを展開し、それを「適用文法」と名付けて1974年にАппликативная грамматика как семантическая теория естественных языков(『自然言語の意味理論としての適用文法』)という論文(本)で集大成している。前者は1971にさる言語学のシリーズの一巻としてドイツ語訳が出ていて、そのシリーズ全般を監修したのがコセリウである。後者は1978年に『適用文法入門』というタイトルで出た日本語訳がある。
 時期的にはチョムスキーの変形生成文法がいわゆる(拡大)標準理論だったころで、もちろんその影響を強く受けている、というよりこれはチョムスキー標準理論のロシア語版である。いわゆる「言語ユニバーサル」という考え方が前面に出ていて、あらゆる言語を共通のモデル、共通の公式化で文法記述できる、少なくともそういうユニバーサルな公式化を目ざすという姿勢が顕著だ。英語やロシア語はその手始めなのである。さらに文法というのは既に発話された言語データの説明記述ではなく、その生成のメカニズムの再現であるべきだという考え。演繹面の強調である。言語構造を認識するためには統計的な手法は役に立たないとはっきりと述べている、また言い間違いや言語状況に左右される不純物を除いた理想的な言語あるいは「潜在的な言語」という想定もチョムスキーそのままだ。さらに、小さなことだが、名詞に付加された形容詞は関係節文を圧縮した結果とする見方も懐かしいというか当時の変形生成文法そっくりだ。
 
シャウミャンの別の論文にはチョムスキー式の樹形図が出ている。Структурная  Лингвистикаのドイツ語訳から。
StLingu213
 違う点はシャウミャンではそもそもそのタイトルからもわかるように文の生成の出発点からすでに語の意味(特に格の意味)や動詞のバレンツ構造が大きな意味を持つことである。当時の変形生成文法ではシンタクスと意味部門は別モジュールになっていて、共起制限の発動や格の意味(後にΘ役割とか呼んでませんでしたか?)の添加はシンタクス構造がある程度固まってから、少なくともシンタクス構造生成の過程で行われていたが、適用文法では格や動詞の意味が文生成の出発点だ。言い換えると適用文法では統語と意味を区別しないのである。格変化のパラダイムを全てと言っていいほど失った英語と、それをまだ豊かに持っているロシア語との違いという他はない。
 21世紀も20年通過した今になってこういうものを出すと、昭和ノスタルジーに駆られてウルウルするおじさんおばさんがいそうだが、変形生成文法の最初の一歩はこんな感じではなかったろうか。

1. S →  NP + VP
2. NP → N
3. N → {John}
4. VP → NP + V
5. NP → N
6. N → {duck}
7.  V → {see}

もちろんこの他にも duck の不定冠詞の a がついたり動詞に三人称 -s が付け加えられる細かい作業があるが、最終的に John sees a duck という文が生成されることになる。1のNPは主語、4と5のNPは目的語だから格が違うが、それは不問にされる。英語では形が全く同じだからである。対してシャウミャンでは出発点から深層格が顔をだす。ごく簡単に一例を見てみよう。

Raplo T1 T2 T3 T4

Rは人称に応じて変化する形式的述語、まあ大雑把に動詞のことである。その後ろにくっ付いているa、p、l、oというのが動詞のバレンツだが、注意すべきはこれがいわば深層格であって表面上に出てくる(つまり辞書に載っている)動詞の支配する格構造とは違うということだ。あくまで抽象的な深層の格構造であって、実際に具体的な発話として実現される際は別個の格になったり前置詞がくっついて来たりする。シャウミャンは格を「状況関与成分が演じている役割の呼び名」と定義していて、「役割」という言葉がチョムスキーとよく似ている。a は奪格 аблатив、p は通格 пролатив、l は向格 аллатив、o は対象格 объектив といい、それぞれ運動の起点、運動の通過点、運動の終点、動いている点そのものを表わすが、その際純粋に物理的な運動ばかりでなく、例えば

Иван нанёс  рану Петру ножом
Ivan主格 + bore/carried + a wound対格 + to Peter 与格+ with a knife造格
イワンがピョートルにナイフで傷を与えた


では、イワンが a、傷が o、ピョートルが l、ナイフが p だ。さらに次のような文の成分も深層格は上と同じだが、表層格は全く違う。前置詞を伴ったりもする(太字)。

Нанесена Иваном ножом Петру рана
is born/carried + by Ivan造格 + with a knife造格 + to Peter与格 + a wound主格

Рана нанесена Петру Иваном с помощью ножа
a wound主格 + is born/carried + to Peter与格 + by Ivan造格 + with the help of a knife生格

また動詞がバレンツ項目を吸収して意味の圧縮が起こることもある。例えば

Иван ранил  Петру ножом
Ivan + wounded + Peter + with a knife
イワンがピョートルを傷つけた

ではRo が一つの動詞に圧縮されている。
 Tは深層格を担う成分で、数字の順番通りにa、p、l、oの格役割を割り振っていき、T が a、T2 が p、T3 が l、T4 が oとなる。ここら辺は当時のチョムスキーなら

T1 → Ta
T2 → Tp
T3 → Tl
T4  →  To


とか何とか書きそうだが、シャウミャンはこれを次のように表わしている。
Schema1-168
Tの番号を見れば深層格も自動的にわかるので必ずしも必要ではないが、語順変換規則を適用した後などこんがらがりやすい時は明確にしておくためTにさらに格記号をつけることもある。T1a、さらに最初の番号を取ってしまって Ta などと書いたりもする。最終的にはこの T にさらに具体的な語彙素が代入される。これが構造の具現化である。上で出した懐かしの公式にある { } のようなものだ。

Raplo Иван  нож  Пётр  рана

 話が前後するが、実はこの Raplo T1 T2 T3 T4 というの4項構造がそもそもさらにいくつかの2項からなる原初構造(シャウミャンは「公理の型」と呼んでいる)から派生されたもので、全くの出発点ではない。だから前述の Иван нанёс рану Петру ножом などの文も直接 Raplo T1 T2 T3 T4 から導き出されたのではないと言う理屈になる。Raplo T1 T2 T3 T4 が生成された過程は以下のように図示できる。

Rao T1 (Rpo T2 (Rlo TT4))
Rao Иван (Rpo  нож (Rlo  Пётр рана))

( )はちょうど掛け算より足し算を先にするときに使うようなもので、括弧内部の処理をしてから外の計算(?)をかけろという意味だ。これがいわば深層構造でここに様々な変形規則を適用する。ちょっとごく簡単な例をみてみよう。

Он обрабатывает деталь
he + is processing + a/the part
彼が部品を加工している。


という文の出発点は次のような公理であり、

Roa (Rlo T1l T2o) T3a

この文の意味の深層構造は

* Он каузирует, (чтобы) деталь была в обработке
* he + causes, +  (that) + a/the part + was + in + a/the process
 
となる。 he が T3a、a/the part が T2o、a/the process がT1l であることがわかる。この基本形に二段階の演算処理が施される。

1. Roa (Rlo T1l T2o) T3a ------- (A)
2. B Roa (Rlo T1l ) T2o T3a --- (B)
3. Poa  T2o T3a ------------------ 融合規則 1.8

2の頭についている B というのは「意味規則」と言われるものの一つで処理の優先順位を変える。Aは(私の理解した限りでは)「絶対的被演算子」と呼ばれる、つまり始めの一歩だ。意味規則の他に融合規則と言うのがあり(3)、その1.8は

B Roa (Rlo T1l ) →  Poa

と図式化され、Pは「基本的述語」、シャウミャンの言葉でいうと「任意の複合の度合いを持った辞項の代表」である。上で述べた「意味の圧縮」を念頭に置くとわかりやすいと思うが、ここでは (Rlo T1l )が独自にまとまって

находится в обработке
is situated + in a/the process
加工中である


という意味単位を作る。

 さてこの文の受動表現のほうは別の公理から出発し、4段階の演算を経て次のように生成される。

Деталь  обрабатывается им
a/the part + is being processed + by him
部品が彼によって加工されている


1. Rao T1a (Rlo T2l T3o) ------------- (A)
2. C Rao (Rlo T2l T3o) T1a ---------- (C)
3. B (CRao) (Rlo T2l) T3o T1a ------ (B)
4. C (B (CRao) (Rlo T2l)) T1a T3o -- (C)
5. Pao T1a T3o ------------------------- 融合規則 1.1

この文の公理は  Rao T1a (Rlo T2l T3o) だから、その深層意味構造は

* (То, что) деталь в обработке, каузируется им
that + a/the part + in a process + is caused + by him

である。融合規則 1.1というのは

C (B (C Rao) (Rlo T1)) → Pao

というもの。
 これらは単純な文だからまだ付き合えるが(付き合うついでに誤植ではないかと思われる部分があったので勝手に直しておいた)、埋め込み文だの関係節だのになるとこんなもんじゃなく文一つ作るのに延々と演算が続く。また最初の絶対的被演算子が同じでもそこにかます演算の種類や順番が違うと非常に異なったアウトプットになる。さらにここからまた形態素の変換規則、それをまた音韻に変換する規則がたくさん続くから、まだ実際の発話となって出てくるまで道は遠い。

 まあこのように変形生成文法標準理論のロシア語版なのだが、一つエラく気になった部分があった。いわゆる「主題(トピック)」という観念の把握だ。シャウミャンは絶対的被演算子 としての文構造の最後に来る基項を「意味的に一番重い」とし、これを「主題」と名付けている。表面層ではこの主題が文頭に立つのだが、この考え方はそれこそプラーグ学派のテーマ・レーマ議論から一歩も出ておらず、しかも一部混同している。プラーグ学派で「意味的に一番重い」、つまり「情報価が高い」とされたのはテーマでなくレーマのほうだ。いわゆる「新情報」だからである。しかし当該指示対象が既知か未知か、既知だったらどれほど既知かという度合いをreferential status 指示のステータスというが、これと主題・述部といった文の情報構造とは理論的には互いに独立、無関係であるということはチョムスキー側ではそれこそ既知となった。私の覚えている限りでは1981年にイスラエルの言語学者ターニャ・ラインハルトが(言葉は違うが)そういうことを言っているし、なによりチョムスキー側には1960年代から日本の言語学者が多数参加し、「主題」を表わす特別な形態素を持っている日本語を議論に加えたことが大きいと私は考えている。日本の言語学者が世界レベルで果たした貢献であると。
 つまりプラーグ学派のテーマ・レーマ理論は「古い」のである。もちろん1960代当時は英語学側でもまだ議論が進んでいなかったから、その後の発展と比較してシャウミャン側を云々するのはフェアではないし、未だに日本語の授業で助詞の「は」は既知の情報を表わすなどというアンポンタンな説明をする人もいるから、こちらもあまり大きな顔はできまい。

一般化された語彙的意味を持つ深層語形から具体的な語彙的意味を持つ深層語形への変換。『適用文法入門』から。
234


深層の名詞語形を表層の名詞語形に変換する規則。これも『適用文法入門』から。
240

名詞の語形変化をその音韻表示に変換する規則。同上
244

「与える」という意義を持つコミュニケーション動詞の断片的な転換意味の場の生成の例(のごく一部)。同上
252


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 記事を二つ一時非公開にしました。目次の当該箇所をクリックすると「このブログは存在しません」とかいう恐ろしいメッセージが出て自分でもビビりますが、単に引っ込めただけで削除はしていません。

63.首相、あなたのせいですよ!
161.雨上がりのジャンゴ

 別にヤバいことが書いてあったわけではなく、以下の事情によります。
 今まではブログ元のライブドアがJASRACと契約を結んでいて、JASRACが著作権を管理している作品は歌詞が引用できました。4月1日に(エイプリル・フールかよ)その契約が切れるそうで、歌の歌詞などを引用している記事は著作権違法になる可能性があります。上の記事では『続・荒野の用心棒』のテーマ曲の歌詞を数行引用しそれに分析まで付け加えていたんで念のため引っ込めます。

JASRAC委託作品のリストをみたら本当にLuis Enrique BACALOV(z が抜けてる気がしますが)の Django がしっかり載っていたんで驚愕しました。JASRAC怖い… うっかり公開し続けて著作権違反と判断され、罰金を取られたりしたら恐ろしいので引いた方が無難と判断しました。誰も見てないこんな辺境ブログの、しかも一部のフリークしか知らないような歌の歌詞のそのまたほんの一部くらい大丈夫なんじゃないかとは思ったんですが、念のため。

というわけで、そのうちこれくらいなら著作権に触れないとはっきりするか、あるいは件の記事を変更するかしたら再公開するつもりです。(って誰も読みたくないでしょうが、こんな記事)

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 私はリアルタイムで覚えている(とかバラすと年がバレる)のだが昔『子連れ狼』という劇画があった。水鴎流の達人拝一刀の陰惨な復讐劇だが、最終回でその一刀が深手を負ったまま宿敵柳生烈堂と対決し、とうとう力尽きて倒れたあと、三歳の息子大五郎が脇に落ちていた槍をとって烈堂に突進し、腹に一突き入れる。烈堂はそれを避けることなく両手を広げて自分の腹を突かせ、あまっさえそこで大五郎を槍ごと抱きしめて切先をさらに深く自分の体に突き入れるのである。その際烈堂は大五郎に向かって「我が孫よ」というのだが、この意味については二通りの解釈がある。一つ目は「大五郎は実は烈堂の孫だった」というもので、一刀の妻薊が烈堂の娘ということになるが、私は個人的にちょっと無理がありすぎると思っている。そうだとすると烈堂が自分の娘を惨殺させたということになるからだ。もちろん「草」と呼ばれる柳生配下の忍びの者のその後の行動をみれば自分の子を殺すくらいやるだろうとは思うが、一方で烈堂は自分の子供たちはそれなりに皆可愛がっており、臨月の実の娘の斬殺までやるかというと疑問が残る。宿敵拝一刀などの所に嫁いだ罰だというのなら、じゃあなぜそもそも娘をそんなところに嫁にやったのか解せない。念のためこの際原作28巻をすべて読んでみたが、「薊は烈堂の娘」などとは暗示さえする場面もない。この解釈はどうも根拠がないと思う。もう一つの解釈は不倶戴天の敵同士とはいえ一刀と烈堂は腕でも根性でも同等なので、烈堂は一刀を自分の息子と見なし、その子大五郎を孫と呼んだというもの。大雑把にはしょると「敵ながらあっぱれ」という烈堂から死んだ一刀に向けてのメッセージだ。私は自然にこちらの解釈をとった。もっとも技量と精神力は同等かもしれないが、その行動・目的にブレなく心に曇りなく、生き方もストイックな点で人間としては一刀のほうが上だろう。ひょっとしたら烈堂もその点で敗北を感じたから自分の腹に槍を突きさせたのかもしれない。
 その一刀は片手に大五郎を抱いてキメたポーズが有名だが、その際常に左手で子を抱いているのがさすがだ。そういえば野球のピッチャーも子供を抱き上げるときは必ず球を投げないほう、つまり利き腕ではないほうで抱いたそうだが、それと同じだろう。剣を持たないほうの手で子を抱くのである。

拝一刀と言えば何といってもこのポーズ。必ず左手で子供を抱く。
小池一夫・小島剛夕、1972~1976年、『子連れ狼』、第8巻、66ページ、東京:双葉社

8-66

同第13巻、92ページ
13-92

『子連れ狼』の最終回を読んでいる時読者はほとんど全員こういう気持ちでいたに違いない。
同第28巻、151ページ
28-151
 もうひとつ「我が孫よ」で気になるのはそこで使われている不変化詞「よ」である。前に日本語の格は13あると書いたが(『152.Noとしか言えない見本』参照)、実はその時不変化詞「よ」を付加して表される「ブルータスよ」などの形を「呼格」として一つの格と見るべき、つまり「よ」を格助詞とみるべきなのではないかと迷った。最終的には否定の方に傾いたのだが、完全にズバッと却下できたわけではない。この機会にちょっと見直してみたい。
 まず「よ」も他の格助詞も頻繁に省略はされる。されるのだがされた際のニュアンスに大きな違いがある。例えば

山田さん来た!
山田さん来た!

あるいは

もうその本読みましたか?
もうその本読みましたか?

のどちらがそれぞれ「正しいか」と聞けば皆最初の方だと答えるだろう。二番目の文では本来あるべきものが省略されていることを明確に感じるのだ、それに対し

ブルータス、お前もか。
ブルータス、お前もか。

のどちらの文が「正しいか」という質問に最初の文の方が正しいと答える人はあまりいまい。「どちらも正しい」「この二つの文はそもそもニュアンスが違うから正しい正しくないなどとは決められない」などという答えが返ってくると思う。ではどんな「ニュアンスの差」かというとこれも割と簡単で、「よ」は明らかに文語調である。だから「烈堂よ、お主も老いたな」とは言えるが「山田さんよ、あなたも年を取りましたね」とは言えない。また下でも述べるように口語の「おいおいお前よぉ」の「よぉ」とこの疑似呼格「よ」とは別単語であると私は思っている。
 そういえば『子連れ狼』は当時萬屋錦之介主演でTVシリーズ化されたが、その最終回での烈堂のセリフは「おお、我が孫よ」といって感嘆詞がついていた。この感嘆詞はあくまで「おお」であって「おう」ではない。「おお」と「おう」では発音は全く同じだが、ニュアンス的に明確な差があり「おお」の方が格調が高い。だから「おう、我が孫よ」だとおかしいし、逆に「おお、この桜吹雪が見えねえか」は文体的にギクシャクしている。「おう、この桜吹雪が見えねえか」でないと座りが悪い。

 この、名詞につく「よ」は文語的というのが第一の注意点だが、口語文法では時々終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」を分けている。「我が孫よ」の「よ」は間投助詞だ。辞書によっては終助詞の「よ」でも間投助詞の「よ」でも「文末の種々の語に付く」と全く同じ説明がしてあってイライラする。終助詞は動詞形容詞の終止形、間投助詞は名詞につくとズバリと言いきっていけないことはないと思うが(中に間投助詞の例として 「君だよ、そこの君。」という文をあげているのがあった。こういうRight Dislocationを持ち出すのは反則だろうし、そもそも「君だよ」の「よ」はコピュラの終止形についているから終助詞ではないのか)、とにかく「よ」ではNPに付くのとCP(またはS)レベルにつくのを区別する。いわゆる体言止めの文でもCPと見なす。たとえば次の文ではそれぞれ二番目の文で動詞に「の」がついて文全体が名詞化されているのでウルサク言えば名詞に接続しているはずだが間投助詞ではなく終助詞とみなす。

昨日東京に行ったよ。
昨日東京に行ったよ。

山田さんは馬鹿だよ。
山田さんは馬鹿なよ。

ここで「山田さんは馬鹿よ」という場合は「馬鹿」の品詞が違う。「馬鹿なのよ」馬鹿はナ形容詞だが、「馬鹿よ」の馬鹿は「馬鹿者」という意味の名詞である。「馬鹿だよ」についてはナ形容詞、名詞の二通りの解釈が可能だ。
 つまり間投助詞は文語時代には普通に使われていたが口語では廃れてしまい、それを使った表現はいわば有標、それに対して終助詞の「よ」は完全に口語体系内に根を下ろしているということになる。それが証拠に終助詞の「よ」を使うと間投助詞の「よ」と逆に格調が下がるのだ。

間投助詞
ブルータス、お前もか。
終助詞
ブルータス、お前もか

だから「ブルータスよ、そなたもか」とは言えるが「ブルータス、そなたもかよ」とは言えない。「ブルータスよ、お前もかよ」は「よ」が二回ついてウザいという以前に二つの「よ」が文体的に相反して互いに排斥しあうのでやはりNGである。
 終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」はシンタクスの面でも機能の面でも異なり、しかも相互排除しあうという点で、完全に別単語だ。さらに「ブルータスよぅ、お前もか」の「よぅ」はそもそも助詞ではなく感嘆詞だろう。「よぅ、ブルータス」の「よぅ」が後置されたものだと思う。文の品が急降下するが「ブルータスよぅ、お前もかよ」という文は問題なく成り立つ。感嘆詞の「よぅ」と間投助詞の「よ」が文体レベルで同類項だからだ。ここでは最後の「よ」は助詞だが、「ブルータスよぅ、お前もかよぅ」だと最後の「よぅ」は感嘆詞で、シンタクス構造が違う。とにかく終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」、感嘆詞の「よ(ぅ)」は別単語であろう。

 さて上述のように文語では間投助詞の「よ」が普通に(つまり無標表現として)使われていたのなら、では文語には「格としての呼格」があったと見なすべきだろうか。例えばロシア語で oh my god を боже мой というが、この боже という形は「神」бог の呼格形だ。ロシア語では語形変化のパラダイムとしての呼格は失われてしまったが、昔あった呼格の名残がまだそこここに残っているのであるわけだ。現代日本語の「よ」もそんな感じなのだろうか。だがこればかりはネイティブを捕まえてその言語感覚にたよるほかはない。つぎの文のどちらが「正しい」と感ずるか、昔の人に聞いてみるしかないのである。

少納言。直衣着たりつらんは、いづら。
少納言、直衣着たりつらんは、いづら。

そこで相手が最初の文が本来正しいと答えたら呼格の存在が濃厚、単なるニュアンスの差と答えたら「よ」は単なる間投助詞ということになろうが、何といっても文語のネイティブはとっくに死に絶えているから調査のしようがない。私はどうも昔の人も今と同様「ニュアンスの差」と答えるような気がするのだが、それはあくまで私の勝手なフィーリングである。
  そのようなわけで私は口語でも文語でも、つまり日本語には呼格という格はない、という見解に傾いてはいるのだが、一つ引っかかる点がある、文語には「よ」という正真正銘の格助詞が存在したということだ。現在の「より」と同じく奪格を表していたが、上代では具格も引き受けていた。今でいう「で」である。

浅小竹原腰なづむ空は行かず足行くな

奪格や具格と呼格では機能が違いすぎるし、いくら形が同じだからと言って間投助詞の「よ」と格助詞の「よ」を同単語あるいは同起源と見るのは乱暴すぎるだろう。第一呼格が吸収される場合は(少なくとも印欧語に限っては)例外なく主格が呼格を飲み込む。対格や奪格、具格などの斜格が呼格を吸収した例はない。斜格が呼格の機能を担うようになるなど前代未聞である。しかし奪格・具格の「よ」とは完全に別単語ならそれでもいいから、間投助詞の「よ」のほうもほうとしてひょっとして太古の昔は何らかの格意識を担っていたりはしなかったのかな、という想いが心の隅の隅でまだしつこく燻っている。もっともそれを言い出すと格とは何ぞや、日本語にそもそも格はあるのかという大問題に発展しそうで私の手に負えなくなるだろうから、あまりこれ以上つつかずにそのまま燻っていて貰うほうが無難だが。

 「我が孫よ」の考察が一段落したところで本題の『子連れ狼』に戻るが、この作品が漫画アクションに連載されていたのは1970年から1976年まで。日本映画界が崩壊し、黒澤明が自殺未遂にまで追い込まれ、そこからまた立ち直って『デルス・ウザーラ』を撮った時期と重なる。
 黒澤監督は漫画を嫌い「手塚治虫以外の漫画は子供には読ますな。特に少女漫画はいけない」と言っていたそうだ(当時の分類に従えば『子連れ狼』は「漫画」ではなく「劇画」だが)。またテレビへの対抗処置として手っ取り早く観客をおびき寄せるため「性と暴力」路線に墜ちてかえって崩壊の速度を高めた当時の映画界とは「断固戦う」とまで言明していたくらいだから、監督が『子連れ狼』の原作を読んでいたということはないだろう。いわんや監督がこの作品の「ファン」だったなどとは絶対あり得ないと思っている。一方また監督も家でTVそのものは結構見ていたようだし、晩年はジブリのアニメなども好きだったらしいので、萬屋の『子連れ狼』のほうは見ていたかも、少なくともこの作品は知っていたかもしれない。
 なぜ私がここまで黒澤明が『子連れ狼』を見た見ないにこだわるかと言うと、実は私は『乱』の一文字秀虎を見てつい柳生烈堂を思い出してしまったからである。そりゃあ妄想がひどすぎると言われればまあそうかもしれないが、逆方向、黒澤から『子連れ狼』への影響のほうははっきりしている。例えば第11巻の十三弦というエピソードでは困窮して当然標準価格の一殺五百両など出せない百姓の頼みを一膳の飯で引き受ける。『七人の侍』そのものだ。この一刀というキャラは生きざまと言い、死にざまと言い、冷酷なようで実は非常に慈悲深い人格と言い、そもそも拝一刀などという名前と言い、文句のつけようがないまさに理想の侍ではないだろうか。『七人の侍』の久蔵をベースに『隠し砦の三悪人』の真壁六郎太を小さじ一杯ほど加え凄みを効かせたような感じ。ただ黒澤はその理想の侍を「刺客」という設定にすることは絶対あるまい。黒澤のヤクザ嫌い、無法者嫌いは有名だ。
 もうひとつ黒澤映画の侍たちと違うのはその死に方だろう。黒澤は理想の侍を銃で死なせた。監督自身「野武士との斬りあいなどで殺させたくはなかった。道端で惨めた死にざまを晒させたくなかった。バーンと撃たれて死んだ方が潔い」と言っていたそうだ。潔く花と散る散華の死に方をさせたかったと。子連れ狼・拝一刀の死に場所はさすがに「道端」などではなかったが延々と続く斬り合いで血を流し、いわばボロボロになりながらも最後まで倒れずに立ったまま死ぬ。確かに凄惨すぎて「花と散る」というイメージではない。一方これはあくまで私の個人的な考えだが、せっかく剣で鍛えたのに結局は飛び道具でイチコロという展開より侍は侍らしく剣で死ぬ方がむしろ散華と言えるのではないだろうか。自分が斬り殺されるわけではないから無責任なことを言って恐縮だが。
 とにかく『子連れ狼』を読んでいると他にも黒澤の時代劇のあの場面・この場面がチラチラする。例えば第3巻16話では千秋実と稲葉義男(『七人の侍』)と藤田進(『隠し砦の三悪人』)を合計して3で割ったような感じの侍が一刀に「刺客なんかを止めろ」と説く。もっともこれらは小池一夫(原作)あるいは小島剛夕(画)が意識的に借用したというより(上述の一膳の飯の場面だけは意識的だろうが)、時代劇を作ろうと思ったら黒澤映画を避けて通ることはできなかったといったほうがいいだろう。何をどう描写しようが黒澤時代劇の中に似たようなキャラが見つかってしまうのである。そういえば『子連れ狼』の連載が始まる前年、1969年には『七人の侍』などの黒澤作品が初めてTV放映もされているから劇場公開で見逃してこの時初めて見たという人も多かったに違いない。
 またこれは徹底的にどうでもいい話だが、小島剛夕は黒澤がただ一人「読むに足る漫画家」と認めた手塚治虫と誕生日が全く同じなんだそうだ。

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 同じ語や形態素、シラブルなどを二回繰り返して意味を強調するという文体上の作戦はどの言語にもある。例えば日本語では「うわっ、こりゃ危ない危ない」、「山田さん、怒った怒った」など。シンタクス機能も含めて単語を丸ごと繰り返すもので、語の反復というより発話の反復といったほうがいいかもしれない。これはどちらかというとくだけた口語文脈で使われることが多いのではないだろうか。前者では「危ない」の代わりに「危ねえ」と言った方がマッチする感じ。もし文章で使われるとしたら主に口承文学、童話や昔話など「語りかけ」の要素が強いジャンルでだ。「ジャックが種を蒔くと豆の木は大きく大きくなりました」、「おじいさんが捕まえた魚はきれいなきれいな金の魚でした」など語尾も「ですます」のほうが合う。これをモロ文章体にして「おじいさんが捕まえた魚はきれいなきれいな金の魚だった」とやるとあきらかに座りが悪い。
 ロシア語で「とても悲しい」を грусно- грусно と「悲しい」を二つ重ねているのをみたことがある。これも確か童話のテキストだった記憶があるので日本語の「きれいなきれいな」と同じメカニズムかと思うが、よく見てみるとこれはあくまで単語あるいは語幹の繰り返しで、発話の反復とは質が違う。だからなのか大人用の(?)文学でも頻繁に見かける。『33.サインはV』参照)であげたベラルーシ語の з давён-даўна も別に特にくだけた表現というわけではなさそうだし、イリフとペトロフの有名なユーモア小説『12の椅子』でも мало-помало(「ほんの少し」)という表現が出てくる。これらは「大きく大きく」のように文法語尾も含めて全部繰り返すのではなくて語幹だけの繰り返しでシンタクス機能を担う з や по- などの形態素は反復しない。昔話の出だし、「昔々」という言い回しも発話でなく語の反復だと思うが、意味の強調というより単に口調を揃えるためだろう。
 
 「強調」についてはあとでもう一度見てみたいと思うが、日本語では語の反復によって複数を表現することも多い。「人々」が典型だが「村々」「国々」「山々」「木々」「家々」などいくらもできる。当然のことながら不可算名詞にはこの作戦は使えない。「海々」「空々」「川々」という言葉はない。川や海は英語などでは不可算名詞扱いされていないが、島国日本では水は皆繋がっているから川も海も結局一つの水という感覚があるのかもしれない。空も一つだから反復が効かないが、「星々」はOKである。また外来語や漢語にはこれができない。「町々」はいいが「都市々々」はダメ、「村々」がよくて「村落々々」はNG、「家々」は大丈夫なのに「ビルビル」や「建物々々」がありえないのはそのためだろう。さらに見ていくと、ある程度上位の観念、言い換えるとある程度包括的な意味の名詞しか繰り返せないようだ。「木々」はいいが、「松々」「桜々」が許されないのは「松」や「桜」は意味が狭すぎるからだと思う。
 教えてきてくれた方がいるが、米原万里氏のエッセイにこんなエピソードがあったそうだ:日本語を話すロシア人が何人も平気で(?)「話々」という言葉を使うの
で,氏がいぶかって出所を調べたら、いやしくもモスクワ大学の日本語学の教授が「話々」という表現を「反復による複数表現」として「人々」と同列に置いていたとわかったそうだ。ではその教授はいったいどこからそんな例を持ち出してきたのかが気になる。「話」は不可算名詞だから反復は効かない。
 実は反復で表されるのは単なる複数ではない。その際明らかに distributive、分配態的な意味を(『194.動作様態とアスペクト その1』参照)帯びてくる。each あるいは every のニュアンスだ。「日々これ平安」の「日々」は「毎日、日ごと」だし、「月々の生活費」も毎月毎月必ず出ていくから苦労するのだ(ちなみにここの毎月毎月という表現は最初に述べたような発話の繰り返しだろう)。「口々に叫ぶ」も皆が一斉にコーラスしたのではない、各自バラバラに大声を上げるから不協和音MAXとなる。
 「隅々まで点検する」「言葉の端々に感じ取れる」「ところどころに誤字がある」などの表現にも distributive なニュアンスはあきらかだ。さらに元の、繰り返さない前の形態素の意味がすっかり薄れ反復形でしか存在しない言葉もあるが、その場合でも distributive な意味合いだけはしっかり保持されている:時々、たまたま、しばしば、もろもろ、さまざまなど。
 つまり反復によって表される意味は「分配態的複数性」なのである。

 実は日本語と太平洋を渡った対岸にある(あった?)古典ナワトル語(以下単にナワトル語と呼ぶ)も反復による分配態的複数性表現がある。ただしナワトル語は語幹や形態素でなく語の最初のシラブルを繰り返す。つまり繰り返しが文法に組み込まれているので「繰り返し」だの「反復」だのという語レベルの日常用語でなく Reduplication という専門用語を使ってハクをつける。日本語では「畳音」あるいは「重字」と訳されている。ナワトル語はややこしいことに普通の(つまり分配性のない)複数形を畳音で作ることがある。「ことがある」というのはナワトル語では複数形のパターンがいくつかあるからで、畳音を使うのはその中の二つだ。それぞれ /R-’/、/R-tin/と表されるパターンで、Rというのが Reduplication、畳音のことだ。最初のタイプは頭のシラブルを繰り返し、語幹の後に声門閉鎖音を追加する。第二のタイプは、頭を重ねた後 -tin という接尾辞をつける。これら複数形パターンは分配態的複数(下記)とは畳音のしかたが違っている。まず、単なる複数形を見てみよう。
Tabelle4-200
単数形の語尾の -tl は絶対格マーカーといい、「ナワトル」 nahuatl の「トル」もこれだ。この音はしかし日本語の「トル」でないことはもちろんだが tl でさえない。測音破擦音という一つの音なので誤解を避けるために λ で表すことがある。母音に後続すると -tl、子音の後だと -tli だが、先行子音が l だと l になるので本来 piltli になるはずの「子供」が pilli という形をしている。稀にこの絶対格がつかない名詞もある(「魚」、「星」)。ローマ字はスペイン語読みが基本で、cu は ku、ci は si、(ここには出てこないが)qui は ki、z は s。さらに uc、cu はどちらも円唇の kw だが、前者は子音の後(「首長」)または語尾、後者は母音の前で綴られる。同様に uh、hu はどちらも w で、前者が子音の前と語尾、後者が母音の前。âなど語尾の母音に屋根がついているのはその後に声門閉鎖音が来るという意味で、語中の母音の後の声門閉鎖が来る場合は ù、à など逆向きアクセント記号(?)で示す。ìtoa(「言う」)など。また複数形があるのは基本人間や動物など生物に限られ、石だの木(厳密にいえば生物ですけどね)だのには単数形しかないが、例外として「人格化された非生物」が生物扱いされて複数形を作れるも名詞がある。上の「山」「星」などがそれだ。
 ナワトル語の畳音は複雑な音韻規則がなく母音や子音の変化なしで素直に頭のシラブルが繰り返されることがわかる。ただし母音は長母音になる。
 もう一つ、敬意あるいは親愛の情を表すために -tzin という形態素を名詞の語幹と絶対格マーカーの間に挟むことがある。それで「愛しい子」は piltzintli(最後の音が n という子音になるので前対格は -tli)。これを複数にすると語幹とその形態素の頭が両方ダブって pīpiltzitzintin となる。複数マーカーの -tin はそのままだ。
 母音が長母音になるのでこのパターンの畳音を CV: 型畳音と呼ぶが、これが名詞でなく数詞につくと分配態意味になる。 every、each の意味だ。「2」は ōme だが、これに畳音をつけてみよう。

Ca ō-ōme-ntin in to-pil-huān in Pedro
(there + R:-two-pl + the + 2.pl-child-pl + the Pedro)

これは「ペドロも私もそれぞれ2人子供がいる」という意味だ。さらに「1」(cē)を畳音化した cēcem-  という形態素を接頭辞をして「日」「月」「年」(それぞれilhuitl、mētztli、xihuitl)という語につけるとそれぞれ「毎日」「毎月」「毎年」の意味になる。「日」の例だが、次の2文を比べてほしい。わかりやすいように形態素の境目にハイフンを入れてみた。

-cem-ihuitl ni-yauh tiyānquiz-co
(R:-one-day + 1.sg-go + market-to)
私は毎日市場へ行く。

Cen-yohual cem-ilhuitl ō-ni-coch
(one-night + one-day + perfect-1.sg-sleep.Past)
私は一昼夜眠り続けた。

畳音がつかないと「毎~」という意味にならない。

 ナワトル語には CV: 型畳音の他に CV’ 型というパターンがあって、これが(数詞でなく)名詞について分配態的複数を表す。’ というのは畳音の母音の後ろに声門閉鎖音が来るという意味だ。CV: 型と違って母音は伸びない。ちょっと次の文を比較してほしい。二番目の文では chāntli(「住まい」)という名詞に畳音が現れている。

Īn-chān ō-yà-quê
(3.pl-home + perfect-went-3.pl)

Īn-chá-chān ō-yà-quê
(3.pl-R'-home + perfect-went-3.pl)

最初の文は「彼らは彼らの(一軒の)家に行った」という意味だが、二番目のは「彼らはそれぞれ自分の家に行った」である。この分配態的複数は普通の複数形が作れない非生物でもOKなのがわかる。もう一つ。

Qui-huīcâ in tiyàcā-huān in ī-chì-chīmal
(3.sg-bring.pl + the + warrior-pl + the + 3.pl-R'-shield)

これは戦士たちが単に盾を複数持ってきたのではなくて「それぞれめいめい」盾を抱えていたという意味だ。
 この CV’ 型畳音は名詞ばかりでなく形容詞にも付加できる。例えば「大きい」は huēyi だが、これにCV’ 型畳音を重ねてみよう。

Huè-huēyi in cuahuitl
(R'-big + the + tree.sg)

これによって形の上では単数の「木」が複数の意味合いを帯びる。「これらの木々は皆大きい」で、一本一本の木が視野に入っているあたり、やはり分配的だ。さらに日本語の「日々」にあたる「毎~」というニュアンスも形容詞の CV’ 型畳音で表せる。

Ni-tlāhuāna in huè-huēyi ilhui-tl ī-pan
(1.sg-get drunk + the + R'-big + day-Abs + 3.sg-on)

「大きな日」というのは「祝日」のことで、この文は「私は祝日になると毎回酔っぱらう」、I get drunk on every holiday で、上の文より分配性がより鮮明だ。

この項続きます。続きはこちら

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 『172.デルス・ウザーラの言語』で述べたが1975年の黒澤明以前、1961年にソ連の監督アガシ・ババヤンが『デルス・ウザーラ』を映画化している。この2本を比べてみると結構面白い。
 まず単純に長さだが、黒澤のが2時間21分、ババヤンのが1時間26分で前者が一時間近く長い。これは黒澤版が二部構成になっているからだ。
 黒澤映画ではデルスがアルセーニエフの探検に二度同行する。最初の探検の後アルセーニエフは一旦デルスと分かれ、5年後に再びウスリー江領域を訪れて再会を果たす。再会のシーンが感動的だ。その2回目の探検の後アルセーニエフは少し年を取って体も衰えていたデルスをハバロフスクの自宅に引き取るがデルスは町の生活になじめず結局タイガに帰っていく。この二度目の別れの後アルセーニエフに電報が来て、森で死んでいたゴリド人が名刺を持っていたから人物確認してくれと言ってくるのだ。ラストシーンは呆然として埋葬されたデルスの脇にたたずむアルセーニエフの悲痛な姿である。デルスの死後再びその地を訪れたが墓の場所が見つからず、それをまた悼む姿がファーストシーン。1910年とテロップに出る。
 ババヤンでは探検は一回のみ。だから再会シーンがない。構成も一重で、1908年にアルセーニエフのところに使いが来て、死んだ人が名刺をもっていましたと言って見せる。それが自分がかつてデルスに渡した名刺と気づき、デルスを回想し始める。ラストは日本海岸に出て目的に達した探検隊とデルスの別れで、アルセーニエフはそこでいつでも気が向いたとき訪ねてきてほしいといって名刺に住所を書いてデルスに渡す。つまりハバロフスクのシーンはババヤンにはない。
 まとめてみると黒澤の映画が「死を回想→出会い→別れ→再会→二度目の別れ→死の知らせ→追悼」という構成なのに対し、ババヤンでは「死の知らせ→出会い→別れ」と単純なものになっている。さらにうるさく言えば回想の対象も両者では異なっていて、黒澤映画で回想されるのは「死」(死んだデルス)である一方ババヤンのアルセーニエフが想いを馳せるのは「生」(生前のデルス)である。双方デルスとの別れがラストではあるのだが、ババヤンのデルスはアルセーニエフと別れる時もちろんまだ生きている。対して黒澤のラストは永遠の別れで、デルスはもうこの世にはいない。映画製作当時、ババヤンは40歳、黒澤は65歳。40歳といえば黒澤のほうは『七人の侍』映画を撮っていた頃でまさに壮年期だ。さらに『デルス・ウザーラ』を作った時の65歳というのもただの65歳ではない。自殺未遂の直後である。この辺を考えると黒澤は死に想いを馳せ、ババヤンは生を描いたという差がわかる気がする。

ババヤンの『デルス・ウザーラ』の冒頭。使いが知らせを持ってくる。
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黒澤明の『デルス・ウザーラ』の冒頭で友の墓の場所がわからず、悲嘆にくれるアルセーニエフ。
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ババヤンのラストシーン。デルスとの別れ。デルスは(まだ)生きている。
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黒澤では「永遠の別れ」がラスト。デルスはもうこの世にいない。
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 構成もだが描かれるエピソードもかなり異なっている。原作は同じでもそこから取捨選択し、あるいは付け加え、どう再構成するかに監督の個性や思想が出るのだからこれはまあ当たり前と言えば当たり前だろう。それでも両者に共通するシーンがいくつかあって非常に比べ甲斐(?)がある。
 まずデルス登場の場面だ。兵士らが「熊か」と構えるところにデルスが「撃つな、人間だ。」といいながら近づいてくる。画面の構図はよく似ているしそこで交わされる会話もほとんど同じだ。違うのは邂逅場面にいたるまでの経過で、黒澤はとにかくあらゆるシーンにじっくりと時間をかけて自然を描写し、アルセーニエフの心情を描き出して「準備」を整える。ババヤンはそこでアルセーニエフ一行が探検している地方の「地図」を画面に出すのだ。史実は確かにわかりやすくなるが、自然の神秘性そのもの、あるいは脅威感は薄れ、人間が自然を克服した感が前面に出る。全体的にババヤンの映画は自然描写・心情描写よりもエピソードの描写が主になっている感じだ。出来事の説明である。だから地図も出す。アルセーニエフがデルスと出会う前に実はすでに別の人物が案内役として雇われていたがデルスの登場と前後して道がわからないから家族のところへ帰りたいと言い出し、アルセーニエフがガイド料を半分やって(旅はまだ始まったばかりでこの人は半分の仕事さえしていないんじゃないかと思うが)引き取らせる。そこでデルスに案内を頼むことになるのだが、ババヤンではこういうエピソード語りが「準備」である。また下でも述べるがババヤンには黒澤に比べて自然開発ということへのポジティブ感が漂う。

ガイドが辞めたいというので、アルセーニエフは料金の半額をやって帰らせる。
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 同行の兵士の一人が現れたデルスにいろいろ質問するが、ババヤンではその兵士はトルトィーギンといい、旅の間中デルスをちょっと上から目線で扱う。ここでも質問の仕方がまるで尋問だ。黒澤ではこれがずっと若い兵士で、口調は馴れ馴れしいが見下げている感じはない。ロシア人とは毛色の違ったデルスに興味津々だ。この兵士はオレンチエフといってトルトィーギンではない。上でも述べたように黒澤では探検は2度行われるが、トルトィーギンなる人物は第二回目の探検に参加しているメンバーなので、この最初の旅には出てこないのだ。ババヤンでは複数の旅が一回にまとめられているのでトルトィーギンが最初から登場しているのである。

胡散臭げにデルスを見ながら話しかけるババヤンのトルトィーギン
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黒澤映画では一回目の旅で最初デルスに話しかけるのはトルトィーギンでなくオレンチエフという若い兵士(右)。
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 もう一つ気づいた点はデルス登場の際アルセーニエフが名前を聞くシーンで、黒澤ではアルセーニエフは最初に「私はアルセーニエフと言う名前だ」と名乗ってからデルスに名を尋ねる。ババヤンのアルセーニエフはこの自己紹介をしない。もちろんアルセーニエフのその後のデルスに対する感服ぶりを見れば、別にこれは上から目線なのでも何でもなくちょっとした脚本の違いに過ぎないことは明白だが考えてみると結構意味深い。

ババヤンのデルス登場シーン。ちょっと暗くて見にくいが真ん中でデルスが「撃つな」と手を振っている。
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黒澤での登場シーン
Kurosawa-Auftritt
 他の箇所でもそうだが、黒澤の描く自然は美しさと共に怖さや冷酷さが鮮明だ。ババヤンもそれはある。ババヤンだっていやしくも Заслуженный артист Российской Федерации(「ロシア連邦功労芸術家賞」)を受けたりした手腕のある監督だ。氏の『デルス・ウザーラ』も IMDB での評価は低くないし、決してツーリスト会社の宣伝ビデオみたいな甘い自然描写にはなっていない。黒澤との違いはババヤンがその冷酷で恐ろしい自然と戦って打ち勝つ人間の勇敢さが前面に出ている点だろう。黒澤からは「人間は決して自然に打ち勝つことなどできない」というメッセージが透けて見える。

黒澤明の凄まじいまでの自然描写。
Kurosawa-blackSun
 もう一つ共通なのが、デルスがパイプを失くして探しに戻った際虎の足跡に気付いて自分たちが跡をつけられていることを知り、虎に対して「自分たちはお前の邪魔をする気はないからあっちへ行け」と話しかける場面だ。ババヤンではここで虎がちゃんと(?)姿を現す。黒澤では出てこない。周りには濃い霧がかかり、虎の姿は見えない。しかしデルスには虎がどこにいるかはっきりと察知して霧の中のその方向に呼びかけるのである。闇もそうだが、霧も人間にとっては怖い。これのおかげで遭難や難破して命を落とした人間は数えきれない。人間は「目を見えなくするもの」が怖いのである。デルスはその闇や霧を怖がらない。それらと共存しているからである。そういう、いわば霧中や闇夜でも目が見えるデルスと比べると、ちゃんと足跡があるのにそれを見逃し嵐になるぞと風が大声で報せてくれているのに気付かない兵士など(もちろん私などもその最たるものだ)イチコロだ。現にデルスも兵士たちの目の節穴ぶりに呆れて「それじゃ一日だってタイガではやっていけないぞ」と溜息をつく。ごもっとも。
 そのデルスが闇を怖がるようになる。探検隊が森の中で新年を迎えるシーンだ。このシーンは双方にあるが、黒澤とババヤンではまったく取り上げ方が違っている。黒澤ではこの夜デルスは虎の幻影を見る。虎が自分を殺しに来るという恐怖に怯える。デルスが森を怖がり、闇を怖がったのはこれが初めてだ。そしてアルセーニエフとハバロフスクに行くことを承知、というより懇願するのである。デルスの悲劇の始まりだ。これには伏線があって、その前にデルスは不本意にも虎に発砲してしまい「虎を殺せば森の神が怒る。そして自分が死ぬまで虎を送ってよこす」と信じこむ(これがデルスの宗教だ。アニミズムである)。恐れに囚われるようになり「デルスは変わってしまった。ゴリド人の魂に何がおきたのか」とまでアルセーニエフに言わせている。虎への発砲シーンでは本当の虎が登場するが、評論家の白井芳夫の話によると最初ソ連側はそのためにサーカスの虎を連れて来たそうだ。すると黒澤は「こんな飼育された虎じゃダメだ、野生の虎を連れてこい」と言い出した。そうしたらソ連側は本当に探検隊を組織してマジに野生の虎を捕まえて来たというから驚く。しかしそこでソ連のさる監督が「オレが鹿を十頭捕まえてくれと頼んだときは無視したくせになんで黒澤にだけは虎なんだ」と怒った。それに対し当時のモスフィルムの所長ニコライ・シゾフ氏はあわてず騒がず、「あんたも黒澤くらいの映画を撮ってみなさい。そうすれば鹿なんて100頭でも捕まえてやるぞ」と言い放ったという。その怒ったソ連の監督とは誰なのかが気になる。まさかババヤンではないと思うが。
 話が逸れたが、ババヤンでは探検記をつけていたアルセ―ニエフがその夜が一月一日である事に気づき、兵士の一人が「じゃあ今日は祝日だ」という。原始林の中で祝日も何もないもんだが、デルスはロシアではその日が祝日なと聞いて「では」とばかりに「特別食」を作って兵士に提供する。しかし兵士の一人は疲労困憊の極致に陥っており、探検の続行を拒否しようとする。その折も折、別の兵士が暗い空をカモメが飛んでいるのを見つける。カモメがいる、ということは海が近いのだ。探検はその目的地に達したということである。こうしてギリギリのところで救われたのだが、ここで私はつい旧約聖書にあるノアの箱舟の話を思い出してしまった。いつまでも水が引かないので絶望しかけていた最後の瞬間、放っておいた鳩がオリーブの小枝をくわえて戻って来たというアレだ。唐突な連想のようだが、私がここで聖書を想起したのには訳がある。ババヤンの『デルス・ウザーラ』にはそれまでにいくつもキリスト教のモチーフが登場していたのだ。
 これもどちらの映画にも出てくるが、一行が森小屋をみつけるシーン。デルスが小屋を修繕し後から来る(かもしれない)者のために米と塩とマッチを残していく。「会ったこともなく、今後も会うことはないであろう見知らぬ人のため」に当たり前に見せるデルスの思いやりにアルセーニエフは感銘を受ける。ここは両者に共通だが、ババヤンではその直前に同行のトルトィーギンが「心のいい人物だが神を信じていない。キリスト教徒ではないから魂がない。」と言い切り「オレはれっきとしたクリスチャンだが奴は何だ」と威張る。トルトィーギンの周りに座っていた兵士らもあまりその発言に同調していなさそうな雰囲気だが、デルスの見知らぬ人への献身を見たアルセーニエフは明確にトルトィーギンの姿勢に根本的な疑問を抱く。しかしそのトルトィーギンも最後の最後、別れていくとき自分がいつも首にかけていた十字架をデルスに渡すのだ。あなたをクリスチャンと少なくとも同等の者と見なすという意味だろう。いいシーンだとは思うが結局「キリスト教徒」というのが人間として最上の存在という発想から抜け切れてはいない。
 念のため繰り返すが、この森小屋のエピソードは一回目の探検のときであり、黒澤ではトルトィーギンはまだいない。二回目の旅では黒澤でもトルトィーギンというキャラが登場するが外見は似ていても少し印象が違い、デルスといっしょに写真を撮ってもらう際自分の帽子を相手にかぶせておどけるなどずっと気さくそうな感じだ。十字を切ったりクリスチャン宣言する宗教的な場面は一切ない。

「キリスト教ではないから魂がない」と主張するトルトィーギン(左端)。周りの兵士はあまり同調していない感じ。
Babayan-christ2
気さくそうな黒澤のトルトィーギン。
Kurosawa-Tortygin
 しかし実はこのトルトィーギンばかりではない、ババヤンではそもそもの冒頭、上で述べたようにアルセーニエフのところに来た使いも「タイガで殺された иноверец が見つかりましたが、閣下の名刺を持っておりました」と伝えるのだ。иноверец というのは「異教徒」「非キリスト教」という意味で、つまり非クリスチャンが撃たれて死んでいたということ。黒澤のラストで死体の発見を使える電報には異教徒などといっしょくたにされることなく、きちんとゴリド人と民族名が書いてある。

アルセーニエフにところに来た「撃たれて死んでいたゴリド人が貴兄の名刺を持っていた」という電報。下記参照
Kurosawa-telegramm
 ソ連では宗教活動が禁止されていたはずなのにこの宗教色がでているのはババヤンがアルメニア人だからかなと一瞬考えもしたが、別にそんな深い理由があるわけでもなく単に「帝政ロシア時代の風物詩」として描写しただけかもしれない。いずれにせよ黒澤の映画のほうにはキリスト教色が全く感じられない。

 もう一つババヤンにあって黒澤にないのが上でも述べた「自然開発や国の発展へのポジティブ思考」である。探検隊が密猟者の罠を見つけてそこにかかった鹿を助け、他の罠も全部撤去するシーンがどちらの映画にもある。黒澤では誰がやったかについては「悪い中国人だ」というデルスの発言があるだけで、罠の撤去そのものはロシア兵たちが行う。ババヤンでは犯人の中国人が実際に画面に登場し(残念ながらロシア人の俳優らしくあまり中国人に見えない)、その一味に対してアルセーニエフが「2日以内にこれらの罠を全て撤去しろ」と厳しく言い渡す。アルセーニエフにはその権限があるからだ。ここはロシア領、皇帝配下の将校は支配者なのだ。黒澤にはこういう支配者の側に立った視点、国家権力というものをポジティブに描く視点はない。
 また、これはババヤンの映画にだけだが、大規模な山火事が発生しデルスがアルセーニエフを救う場面がある。そこで動けないアルセーニエフを一旦安全な場所に運んだデルスは、アルセーニエフがいつもそばに置いていた航海記というか探検の記録ノートを置いてきたことに気付いてもう一度火の中に戻っていく。探検の報告書というのはつまりロシア政府がウスリー江畔開発の下調査として命じたもの、つまり国家発展・自然開発の一環だ。デルスは命をかけてこれを守る。そういうデルスを描くその心は「少数民族ながら国の発展に貢献するのはあっぱれ」ということで、さらに突き詰めればロシア国家万歳である。まあ「万歳」というのは大げさすぎるにしてもこれが黒澤には一切ない。ロシアだけではない。黒澤は日本政府も一切万歳したことがない。黒澤が万歳するのはあくまで(正直で誠実に生きる)人間で、『デルス・ウザーラ』でも吹雪のハンカ湖でデルスが救うのはアルセーニエフというあくまで一個人である。

ババヤンのデルス・ウザーラはアルセーニエフを山火事から救い出す。
Babayan-Brand
黒澤ではアルセーニエフは凍死から救われる。
Kurosawa-Wind
 もう一つババヤンのほうだけにあるエピソードがある。アルセーニエフが石炭鉱を見つけて「石炭が出る。ここに町が作れるぞ。そして発展していくだろう」と喜ぶのを見てデルスが「何なんだその汚い黒い石は」とワケが分からなそうな顔をするシーンだ。アルセーニエフは歓びのあまり手帳の地図に感嘆符つきで уголь!「石炭!」と記入する。ここでもババヤンが、「発展・開発」というものを肯定的に見ていることがわかる。そもそも史実としてもアルセーニエフの探検の目的はウスリー江地域の開発の下調べなのだから。デルスのような純粋な魂の持ち主に住むことを許さない町、その人を死に追いやるだけでは飽き足らず、墓の場所をわからなくして静かに永眠することさえさせない「開発」とやらに対して否定的感情を隠さない黒澤との大きな相違点だと私は思っている。

アルセーニエフが石炭鉱を見つけて喜ぶ。
Babayan-Ugol2
歓びのあまり感嘆符付きで石炭の出る箇所を記入。
Babayan-Ugol1
 このようにいろいろ相違点はあるのだが、それでも双方ソ連映画だけあって、あまり「興行成績」や「採算」、もっと露骨に言えば「儲け」にカリカリしていない、独特の上品さが漂っていると思った。もちろんまったく金のことを念頭から外すなど不可能で、一応予算枠はあったそうだ。しかしその枠というのがユルく、多少オーバーしても「黒澤監督の芸術性を最優先する」ということでしかるべき理由があればホイホイ(でもないが)追加を認めてくれたらしい。さらに「金に換算できない部分が非常に大きかった」と当時日本から同行したプロデューサーの松江陽一が語っている。上で述べた虎捕獲などもそうだが、探検隊が引き連れている馬。これらは全部モスクワから運んで来たそうだ。その際馬一匹に各々一人ずつ世話をする赤軍兵士が同行していたというから、もしそれらの兵士に報酬を払ったりしていたら物凄い額になっていたはずである。
 松江氏はさらに続けて、言葉も習慣も政治体制も全く違う国でも同じ映画人同士、監督の意向はうまく現地のスタッフに伝わった、ソ連側は非常に協力的だったと述べている。もちろんそこへ行くまでの特に松江氏本人の苦労は並大抵ではなかったろうが、ソ連側のプロダクション・マネージャー(つまり「映画人」だ)など管理者側の役人の目を盗むために尽力してくれたりしたそうだ。言い換えるとソ連映画界には黒澤監督の創造・芸術的判断と意向を実現されてやれるだけの技術的下地があったということである。上で「上品」と言う言葉を使ったが、映画が上品であるためには質もいい作品でなければいけない。その上品な映画を作れる底力がソ連映画界にはあったのだ。まあエイゼンシュテインやタルコフスキイを生み出した国なのだから今さらそんな当たり前のことを言い立てるほうがおかしいか。変な言い方だが黒澤がいなくてもあれだけの『デルス・ウザーラ』を撮れる国だったのだ。ババヤンの映画を見ていてそう思った。
 さて第二の共通点は非常に些末な話なのだが、どちらも画面に出てくるロシア語が旧かな使いであることだ。『159.プラトーノフと硬音記号』で書いたように子音の後ろに律儀に硬音記号が入れてある。ババヤンでアルセーニエフが最後にデルスに渡す名刺をよく見ると自分の住所ハバロフスクがХабаровскъ と硬音記号つきの綴りになっている。ハバロフスクについては黒澤にもテロップが出るが、これにも硬音記号がついていて芸が細かい。現在なら Хабаровск となる。さらに上でも述べたが黒澤のアルセーニエフのところに届いた電報も硬音記号や і という文字が使われていて、それこそ「帝政ロシア時代の風物詩」だ。映画の電報の文面は

ГОСПОДИНУ В К АРСЕНЬЕВУ
ПРИ УБИТОМЪ ГОЛЬДЕ НАИДЕНА ВАША
ВИЗИТНАЯ КАРТОЧКА ПРОСИМЪ ПРИБЫТЬ
ДЛЯ ОПОЗНАНIЯ ТРУПА ПОЛИЦЕЙСКАЯ
ЧАСТЬ СТАНЦIЯ КОРФОВСКАЯ

となっているが(該当箇所を赤にした)、現代綴りではこうなる。I の代わりに И の字。

ГОСПОДИНУ В К АРСЕНЬЕВУ
ПРИ УБИТОМ ГОЛЬДЕ НАИДЕНА ВАША
ВИЗИТНАЯ КАРТОЧКА ПРОСИМ ПРИБЫТЬ
ДЛЯ ОПОЗНАНИЯ ТРУПА ПОЛИЦЕЙСКАЯ
ЧАСТЬ СТАНЦИЯ КОРФОВСКАЯ

V. K. あるせーにえふドノ
コロサレタごりどジンノ イタイカラ キケイノ
メイシ ミツカル イタイノ カクニンニ 
オコシ ネガイタシ ケイサツショ
カンカツ こるふぉふすかや

ババヤン(上)でも黒澤でも「ハバロフスク」が旧綴り。
babayan-unterschrift
Kurosawa-Chabarovsk


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