アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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 前にもちょっと触れたが、マカロニウエスタンには二つの源泉がある(『69.ピエール・ブリース追悼』『155.不幸の黄色いサンダル』参照)。一つが当時の西ドイツで何作も制作された西部劇で、原作はカール・マイの(軽い)冒険小説。どの映画もヴィネトウという名のネイティブ・アメリカンが主人公でそれをフランス人のピエール・ブリースが務め、その友人の白人役をアメリカ人のレックス・バーカーがやっている。この一連のヴィネトウ映画は未だに年中ドイツのTVで流している。人気ぶりではテレンス・ヒル、スペンサー組の西部劇と肩を並べるだろう。監督もスタッフもドイツ人だが制作にはドイツ、イタリア、あとユーゴスラビアの三国が関与していて、俳優もドイツ(含オーストリア)やアメリカだけでなくイタリアやユーゴスラビアからも参加している。ロケ地もユーゴスラビアだ。例えばシリーズの第一作目1963年の Winnetou 1. Teil(「ヴィネトウ第一部」)にはウォルター・バーンズやマリオ・アドルフなど後のマカロニウエスタンでお馴染みの顔が見える。「ヴィネトウ第二部」Winnetou 2. Teil(1964)にはクラウス・キンスキー、テレンス・ヒルが登場、やはり一連の一つ Unter Geiern(「ハゲタカの下で」、1964)にはジークハルト・ルップ、ウォルター・バーンズ、テレンス・ヒルが勢ぞろいしていてすでにマカロニウエスタン臭プンプンだ。この Unter Geiern という作品は下で改めて述べるが、割とキーポイントになる作品である。しかしまだある。これも一連映画の一つ、1964年の Old Shatterhand(「シャターハンドおじさん」?)の音楽を担当したのはリズ・オルトラーニだ!どうだ参ったか。
 この一連のヴィネトウ映画に端役で出演していたゴイコ・ミティッチ Gojko Mitić というセルビア、当時のユーゴスラビアの俳優はその後東ドイツに渡ってスターになった。偶然かそれとも西ドイツに対抗してワザとやったのか、60年代後半ごろには東ドイツでも盛んにネイティブアメリカンを主人公にした映画が作られ、ミティッチがその主人公を引き受けたからだ。
 さてマカロニウエスタンのもう一つの源泉はイタリアのサンダル映画である。マカロニウエスタンの監督や俳優には元々サンダル映画を取っていた人が実に多い。そもそもレオーネだって監督第一作目はサンダル映画である。ドゥッチョ・テッサリだってそうだ。

 西ドイツのヴィネトウ映画とイタリアのサンダル映画、この二つが合流してマカロニウエスタンが生まれたわけだが製作面、つまり資金面で西ドイツがかなり関与していたためかマカロニウエスタンでもユーゴスラビアとの関係が続いた。例えばセルジオ・コルブッチが初めて監督を(一部)引き受けた Massacro al Grande Canyon(「グランド・キャニオンの大虐殺」、ドイツ語タイトル Keinen Cent für Ringos Kopf、「リンゴーの首には一セントも出せない」)という西部劇。残念ながら超つまらない作品だがロケ地はユーゴスラビアである。マカロニウエスタンには俳優でもユーゴスラビア生まれの者が流れ込んだ。最も有名なのはクロアチア出身のジャンニ・ガルコ(『130.サルタナがやって来た』参照)だろうが、ガルコは地理的にはクロアチア出身でも政治的にはイタリアの出だ。出生地のザダル市が当時イタリア領だったからだ。しかもこれも前にも言った通りそもそもユーゴスラビアのアドリア海沿岸は何百年もベネチア共和国領で宗教もカトリックだから文化的にもイタリアに近く、ガルコもまあ半分以上イタリア人のようなものだ。
 しかしガルコの他にもう一人、マカロニウエスタンで主役まで行ったユーゴスラビアの出身の俳優がいる。アンソニー・ギドラ Anthony Ghidra という芸名を使っていたドラゴミル・ボヤニッチ Dragomir Bojanić である。『拳銃のバラード』Ballata per un pistolero などの主役を務めた俳優だ。この人はガチのユーゴスラビア人、ギリシャ正教のセルビアのクラグイェヴァツの生まれだ。1933年生まれだから当時は「ユーゴスラビア王国」である。マカロニウエスタンを撮る前からすでにセルビアで俳優としての地位を築いており、主役ではないが出演した1965年の Tri(「3」)という映画は当時のアカデミー外国語映画賞にノミネートされている。最初からイタリアで全キャリアを築いたガルコやそのままドイツで活躍し続けたミティッチと違ってマカロニウエスタン出演のあともイタリアには留まったりせず、セルビアに帰って俳優業を続けた。セルビア側では「イタリアで映画に出ていたことある」とあくまで軽く冷たく紹介されている。要するに正真正銘のセルビア人俳優なのである。
 そのイタリアでの第一作『拳銃のバラード』は、アルフィオ・カルタビアーノ Alfio Caltabiano というスタントマン出身の俳優兼監督で、レオーネやコルブッチ、ヴァレリなどと違って「その他大勢の監督」のカテゴリーに入れられがちだが、複数の西部劇を作っている。『拳銃のバラード』が一番出来がいいという評価だ。この映画はストーリーもテーマもまあマカロニウエスタンの定式通りだし、特に派手でもなく物珍しさもないが非常に堅実な作りで結構面白く、好感の持てる作品だ。マルチェロ・ジョンビーニの音楽も良かった。ジョンビーニは『西部悪人伝』のあの耳にやたらとこびりつくスコアを作曲した人だ。
 悪漢兄弟が徒党を組んで輸送金を狙う。定番通りこの二人にはたんまり懸賞金がかかっていて、これも定番通り謎めいた若い賞金稼ぎ(イタリア人俳優アンジェロ・インファンティ)がこれを追う。その悪漢ボスの兄の方を監督自らが演じている。その若い賞金稼ぎと同時にもう一人の謎めいたガンマンが登場するが、これがアンソニー・ギドラことボヤニッチだ。こちらも兄弟を追っているが金のためではなく復讐が目的だ。そしてまたまたマカロニウエスタンの法式に従って追うほうの二人が微妙にコンビを組んで協力し最後には悪漢二人を倒すのだが、最後になって実はこちらの方も兄弟だったと(観客に)わかる。アシメトリーな兄弟と言う、これもマカロニウエスタンの定番だ。さらに定番としてボヤニッチの主人公は一度敵方の手に落ちて拷問を受ける。
 この『拳銃のバラード』はコルブッチの『グランド・キャニオンの大虐殺』と同じくロケ地がユーゴスラビア。またロケ地ばかりでなく、ギャング団の手下や酒場の客などの小さな役は皆ユーゴスラビア人の俳優が演じている。ロケをするついでに俳優も現地調達したのかもしれない。やはり撮影地がユーゴスラビアだった上述西ドイツのヴィネトウ映画シリーズでも独伊墺俳優に交じってユーゴスラビアの俳優が相当活躍している。そのユーゴスラビア人俳優の名前がヴィネトウ映画と『拳銃のバラード』で結構被っているのが面白い。ボヤニッチもヴィネトウ映画の一つ、上記の Unter Geiern という作品にノンクレジットで出演している。『グランド・キャニオンの大虐殺』でもユーゴスラビアの俳優が小さな役をこなしているが、やはりヴィネトウ映画に出ていた人である。西ドイツの西部劇とマカロニウエスタンの間には浅からぬ繋がりがあるのだ。そもそも『拳銃のバラード』の脚本と製作を担当したのはエルンスト・リッター・フォン・トイマー Ernst Ritter von Theumer というオーストリア人だが、『殺して祈れ』Requiescant の製作もこの人だ。
 しかしたとえ本国ですでに名があったとはいえ、そして映画人たちの間に繋がりがあったとはいえ、ドラゴミル・ボヤニッチはなんでマカロニウエスタンなんかに流れて来たのか、ユーゴスラビアの俳優をいきなり主役につけようという発想は誰が出したのか実に気になる。ジャンニ・ガルコはそもそも俳優としての修業をイタリア映画界で開始しているから何もおかしくないが、ユーゴスラビアの奥の方から来てイタリアで主役というのは相当の縁と言うか偶然が働いているはずだ。推測するしかないのだが上で見たように西ドイツの西部劇を通してやって来たとしか思えない。ひょっとしたらヴィネトウ映画を機にしてセルビア人のミティッチが東ドイツで成功していくのを見て、西ドイツ&イタリア側がじゃあ俺たちはこっちのセルビア人だとの対抗意識からボヤニッチに白羽の矢でも立てたか。とにかくマカロニウエスタンの背後にチラチラしている(マフィアの黒幕かよ)西ドイツ映画の影響を感じる。その西ドイツ西部劇とマカロニウエスタンの繋ぎと言う意味で Unter Geiern という作品は興味深い。映画自体は面白くないのが残念だ。
 さてそのボヤニッチだが、例えばジャン・マリア・ヴォロンテやジュリアーノ・ジェンマ、あるいはジョージ・ヒルトンのような派手な作りの顔ではないし、クラウス・キンスキー、リー・ヴァン・クリーフのように一度見たら忘れられないような強烈なご面相でもない、かといってまたフランコ・ネロ、テレンス・ヒルのような端正な顔でもないのだが、精悍でドスの効いた面構えで画面を引き締めている。完全にマカロニウエスタンとして絵になっていて違和感が全くない。ヴァレリの『さすらいの一匹狼』のクレイグ・ヒルはその点少しハマりきっていない雰囲気があった(『193.トニーノ・ヴァレリの西部劇』参照)。

完全にマカロニウエスタンに溶け込んでいるセルビア人ドラゴミル・ボヤニッチ。『拳銃のバラード』から
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『拳銃のバラード』。ドラゴミル・ボヤニッチ(左)とアンジェロ・インファンティ
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 『拳銃のバラード』のすぐ後に別の監督で L’ultimo killer(「最後の殺し屋」、ドイツ語タイトル Rocco – Ich leg’ dich um「ロッコ、貴様を殺してやる」)という作品が続いたが、ここではボヤニッチが映画そのものを救っている感があった。『拳銃のバラード』と違ってこれは俳優も(ボヤニッチ以外は)全部イタリア人で、ロケ地もイタリアである。主役はジョージ・イーストマン(本名ルイジ・モンテフィオーリ Luigi Montefiori)だが、いくらなんでもこれはミスキャストだったと思う。どうしてこの人を引っ張り出したりしたのだろう。監督のジュゼッペ・ヴァリ Giuseppe Vari はその直前の Un poker di pistole(ドイツ語タイトル Poker mit Pistolen、「ピストルでポーカー」)という映画でイーストマンを使っているから、その引き続きかもしれない。しかしこの映画でのイーストマンの役は貧乏なメキシコ農民の息子である。身長206cmもある上にあの特異な容貌の者に虐げられたメキシコ人の若者をやらせるのは無理があり過ぎだ。この若者は映画のしょっぱなに悪漢に滅茶苦茶に殴られるが、殴るほうはせいぜい身長180cm、イーストマンの顔をぶん殴るには背伸びするかジャンプしないと届かない。そこを何とか撮影でそれらしく切り抜けているが、イーストマンの方が殴らせてやっている感がぬぐい切れていない。また倒れている息子を父親が見つけて助け起こすが、二人並んで馬車に乗っている後ろ姿を見ると息子の背中の頑丈そうな面積が父親の倍くらいあり、助けたのはどっちだよと思う。イーストマンにはやはりちょっとサイコな役をやってもらった方がいい。バルボーニの Ciakmull (『208.バルボーニのカンフル剤』参照)でのこの人はすごく良かった。とにかくこのキャラがあまりにも浮いているので最初いま一つ映画にのめりこめない上に音楽もサンダル映画調で時々急に画面に不釣り合いなファンファーレがかかる。「なんだこれは」と嫌気がさしかけていたのだが、ボヤニッチが登場したら雰囲気が変わった。引き締まったのである。そのハマりぶりによってイーストマンの浮いている感が緩和された感じだ。
 ストーリーはこれもマカロニウエスタンの定番で、メキシコ人の弱小農民の土地をアメリカ人の大牧場主が奪い取ろうと画策する。借金をカタに土地をよこせという日本の時代劇にもよくあるパターンである。メキシコ農民の他にも大企業牧場から嫌がらせを受けている中小規模のアメリカ人たちもいて、その大ボスを始末しようとする。アメリカ人たちはそのメキシコ人親子も誘うが、父親は暴に暴をもって制することを否定して仲間に加わらない。襲撃を受けた大ボスは当然カンカンに怒って生意気な中小企業のやつらに復讐するが、真っ先にその矛先になったのは暴動には加わらなかったメキシコ人の父親で、家を焼かれ父親を殺されたイーストマンが復讐のために立つ。
 その大ボスと言うのがまた大タヌキで、自分に従わない共同経営者や部下を消そうとして殺し屋を雇う。この殺し屋がボヤニッチである。イーストマンがひょんなことからこの殺し屋が後ろから撃たれるのを阻止した代わりに自分は大怪我をしたのを殺し屋が拾って(?)傷の手当てをし、銃の撃ち方を伝授する。
 言われた目的をすべて殺した殺し屋が引退しようとした矢先に、イーストマンが大ボスの一味を射殺したため、大ボスは殺し屋を引き留めて「もう一回だけ」と仕事を頼む。目的はガンマンに成長したイーストマンである。二人は対決して、ボヤニッチを撃ち殺し自分も傷を受けたたイーストマンが大ボスも殺す。『怒りの荒野』かよ。
 さて上でついこき下ろしてしまったキャスティングだが、逆に農民の息子役をイーストマンでなく普通の俳優がやっていたらどうなっていただろう。チクハグ感はなくなるかもしれないが客寄せ要素も消える。監督もそこを考えて多少違和感があってもいいからとにかく目立つ人を前面に持ってこようとしたのかもしれない。

身長206mのイーストマンと189cmのボヤニッチ
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 他にもボヤニッチは何人かの監督の下で何作かマカロニウエスタンを撮った。その一つがやはりジュゼッペ・ヴァリの Un buco in fronte(ドイツ語タイトル Ein Loch in der Stirn「額の穴」、1968)だが、これも全く平均的なマカロニウエスタンである。
 大金の在処が3枚のトランプにバラバラに記してある。全部そろわないと判読できないのだがカードをそれぞれ別の人が持っていてそれらが奪い合い、殺し合いをするという実にありがちなストーリーだ。ボヤニッチの役はそのうちの一人の委託を受けたガンマンで、敵側につかまって(定式通り)拷問を受けるがなんとか逃げ出して金の居所をつきとめるというスタンダートと言えばあまりにもスタンダードな展開。もちろんカードの持ち主は全員撃ち殺される。とにかくやたらと人が死ぬ。隠し場所はさる僧院だったが、あおりを食って罪もない僧侶たちもやはり虐殺される。ボヤニッチはその大金を生き残った僧侶たちに与えて去る。
 途中でボヤニッチが機関銃をぶっ放すシーンもあるし、とにかく他のマカロニウエスタンの寄せ集めのような感じで、今の時代ならこんな脚本それこそAIで書けるのではないだろうか。無くても別に誰も困らない映画ともいえようが、ただB級ではあっても駄作ではないことは強調しておきたい。定番マカロニウエスタンと言う安定性はあるからつい惰性で見てしまい、見終わっての感想も「ああつまらなかった」とはならない。例えばコルブッチの『グランド・キャニオンの大虐殺』より遥かに面白いことは私が保証する。

相変わらずドスの効いたUn buco in fronteでのボヤニッチの面構え。
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機関銃のないマカロニウエスタンなんてクリープを入れないコーヒーのようなもの(若者には通じない)
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  以上の三作ではボヤニッチは要するにクールな主役キャラだがあとの二つは違う。1968年の…E venne il tempo di uccidere(「殺しの時がやって来た」ドイツ語タイトルEinladung zum Totentanz「死の舞踏への招待」)では落ちぶれたアル中保安官を、同じく1968年のChiedi perdono a Dio… non a me(「俺でなく神に許しを乞え」、ドイツ語タイトルDjango – den Colt an der Kehle「ジャンゴ、コルトを喉に」)では敵役、悪役を演じている。スタッフも俳優もマカロニウエスタンでお馴染みの顔で、例えば前者には後でジュリオ・ペトローニの『復讐無頼・狼たちの荒野』に出ていた子役のルチアーノ・カサモニカ、後者には善玉の相棒役としてペドロ・サンチェスが登場する。さらに前者のスコアはフランチェスコ・デ・マージの作曲で、それを歌うのはもちろんラウールだ。後者では最後にやっぱり機関銃も登場し(ただし撃つのはサンチェス)、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思うくらいバッタバッタと人が死ぬ。しかしどちらも上の3作と同じく「マカロニウエスタンとしてはまあ合格、主役はきちんと渋く役をこなしている作品」である。特に…E venne il tempo di uccidereが印象的で、主役は外からやって来た若い保安官助手、この人がイニシアチブをとって酒飲みのダメ保安官にカツを入れて町の悪漢たちを退治するのだが、金髪碧眼でイケメンの主役俳優をボヤニッチが食ってしまっている。これの英語タイトルは「テキーラ・ジョー」Tequila Joeというのだが、これはボヤニッチ演じたダメ保安官の名前で、つまり主役として把握されてしまっているのだ。そういえば『殺しが静かにやって来る』はドイツでは主演クラウス・キンスキー、助演トランティニャンと把握されているがそれと似たようなものだ。

…E venne il tempo di uccidere。やる気のない飲んだくれ保安官(左)とやる気満々の若い助手
BojanicTotentanz

 さてボヤニッチは…E venne il tempo di uccidere をとった後セルビアに帰った。当時はまだマカロニウエスタンがまだ勢いを失っていなかったからもう少しイタリアに留まっても良かったんじゃないかとも思うが、まあ1968年が潮時だったのかもしれない。セルビアに帰った後はもうイタリア映画には出たりせずに本国で堅実に地位を築いていった。セルビアのベスト俳優とかいう類のリストにはたいてい入っている。1993年、ユーゴスラビア紛争の真っ最中にベオグラードで60歳で亡くなった。

本国セルビアでのボヤニッチ。当然ながら全部セルビア語。

https://www.youtube.com/watch?v=4zV6gd6ffT8

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 以前バルボーニの話をしていたときに思い出したことがある。バルボーニの風来坊シリーズは客足が遠のきかけていた映画ジャンル(マカロニウエスタン)でコメディ路線を打ち出して観客層を広げることに成功し、本来のハード路線を凌駕さえしてしまった。成功の秘訣は男性だけでなく女子供(差別用語)を観客に引っ張りこんだことだが、そういえば似たようなことが昭和の日本でもあったなと思い出したのだ。
 
 昔日本映画には時代劇という人気ジャンルがあったそうだ。「そうだ」と書いたのは私が物心ついたころには時代劇は事実上テレビに移行してしまっていてわざわざ映画館まで出向いて見るものではなくなっていたからだ。時代劇どころか日本映画そのものが衰退していて、邦画といえばピンクかヤクザ。男性ならともかく、とても女性や、ましてや子供が楽しめるものではなかった。それで邦画と聞くと自動的にパスする癖がついてしまい、映画館でみるのは専ら洋モノだった。時代劇映画なんてものはおじさんのみるものだと思っていた。
 だからいわゆる時代劇映画の俳優で顔と名前が一致するのはたった二人だ。「いわゆる」とわざわざ断ったのは時代劇映画を専門にしていた俳優と言いたかったため。現代劇も普通にこなす俳優が時代劇にも出たからと言って「時代劇俳優」とは呼べまい。だから三船敏郎はこのカテゴリーには属さない。その時代劇俳優だが、時々人の口(もっぱらおじさん連中の口)に上るので名前のほうはどこかで耳にした(ような気がする)が顔は知らない、あるいはその逆というわけで、誰が誰なのかわからない。そういう意味で時代劇俳優は二人しか知らない。一人が『201.我が孫よ、日本語に呼格はあるか』でも出した萬屋錦之介で、もちろんTVシリーズ『子連れ狼』でである。映画は見たことがないのだから中村錦之助のほうは全く知らない。もう一人が近衛十四郎。これもテレビの素浪人シリーズで覚えている。最初が『素浪人月影兵庫』という番組で『素浪人花山大吉』がそのあとに続いた。これらはバルボーニが西部劇をパロったのと同じく時代劇のコメディ版で、とにかくムチャクチャ人気を博した。バルボーニの風来坊と同じく家族全体、特に子供を観客層に引っ張り込めたからだ。「親が見ていたのでお相伴で見た」というパターンである。さらに双方主人公は一人ではなくデュオ、お笑いコンビであることも共通している。一方ではバッド・スペンサーとテレンス・ヒル、一方では近衛と品川隆二の二人組だ。

 そこでこれらを思い出したついでに両者を比較して(バッド・スペンサーと近衛十四郎との比較がそもそも成り立つとしての話だが)家族単位で好かれる二人組の条件は何かちょっと考えてみよう。
 まず二人が全くタイプの違うキャラであるということ。同じような人ならそもそもコンビを組む必要がない。それぞれ一人でやればよろしい。デュオを組むからには両キャラが互いに補いあう、色彩学で言う補色、無理やり言語学の用語をもってくるならば(無理しなくていいよ)相補的分布 komplementäre Distribution(『162.書き言語と話し言語』参照)、あるいは補充形 Suppletion的な、異なる要素が組んでガッチリとした全体を構成しているような関係でないといけない。問題はどう違うのかということで、スペンサー&ヒル組は二人の外見が徹底的に不均衡。前者は髭面、頭はボサボサ、縦にもデカイがとにかく横に大きい。差別用語を使ってよければつまり無骨なデブである。これに対して相棒のテレンス・ヒルはスマートでほっそりしたイケメン。ドッシリと構えたスペンサーの周りをチョロチョロする。そういえば大昔に大成功したお笑いデュオ、オリバー・ハーディとスタン・ローレルもこのデブヤセのパターンだった。またテレンス・ヒルのキャラはドッシリスペンサーと違って性格もチャラく、綺麗な姉ちゃんをみるとすぐデレデレしだすがいわゆる女たらしではない。フラれ専門である。これが他のマカロニウエスタンの男性主人公たちと明確に違う点で、女をモノにするのを誇るマッチョではないのである。私はここが家族受けするかしないかの重要な分岐点だと思っている。
 『素浪人』の近衛&品川組は体つきでなく身分で差をつけた。前者は侍、後者は渡世人で、服装や髪型はもちろん歩き方まで全然違う。俳優の年齢も20歳ほど差がある。年かさの近衛の侍が頼りになるタイプで、品川隆二演ずる渡世人、焼津の半次はチャラくて騒々しく姉ちゃんに弱いがフラれ専門と言う点でテレンス・ヒルと一致する。
 次の点はコンビの結束が確かだということだ。上で相補的分布と言ったのはこの点で、これが危なっかしくては子供は安心して見ていられない。マカロニウエスタンには「二人組」そのものはいくらでもいて、上の「二人は違ったタイプ」という上の条件は満たしていることが多いのだが、この第二点ではねられる場合が大半だ。くっ付いている理由に裏がありそう、互いに相手を利用しあっていそうで、いつ何時どちらかが裏切らないとも限らないという雰囲気が漂いすぎる。まさにそれがマカロニウエスタンの「クールさ」なのだろうが、安心感に欠けては健全な家族の娯楽にはなりにくい。その点でレオーネの作品に出てくるコンビは全部不合格、『怒りの荒野』のジュリアーノ・ジェンマとリー・ヴァン・クリーフもダメ、さらに『新・夕陽のガンマン』の二人も「裏」を感じさせるからこれも不安、『血斗のジャンゴ』のヴォロンテとミリアンはもう論外だろう。喧嘩はするがコンビの結びつきに裏がない風来坊シリーズの二人組がやっぱり一番安定している。
 売れる第三点はコンビが「強い」ことだ。最終的には二人総合で無敵に強ければいいのだが、東西ではその配分が違っていて、近衛品川組では品川も弱い訳では決してないが近衛の剣が一方的に強い。素手戦ではまあ互角に近いだろう。スペンサー、ヒルではその逆で素手戦はスペンサーが文句なく強いが、銃の腕前は完全に互角である。しかしどちらも二人合わさると無敵な点は同じだ。子供は(大人だってそうだろう)強い者に憧れる。強い者には憧れるが強がる者は本能的に見抜いて嫌悪感を抱く。「強がる」と「強い」の最大の違いは強がり屋は内心自分が強くないのをよく承知しているということではないだろうか。そのコンプ抑圧が主たる目的になるからどうしても余裕に欠け、他人に対して優しさがなくなる。ドッシリとした安定感が感じられなくなるのだ。こういうタイプは絶対に女子供には好かれない。品川隆二の演ずるキャラは喧嘩早くてすぐ売り出しにかかるが、別にコンプ解消のためではなく、慌て者なだけだからこの強がりにはあたらない。事実子供にも非常に好かれている。
 第四点。コンビが「正しい人」であることだ。俗に言う「弱きを助け強きを挫く」タイプでないといけない。近衛品川側はこの点が非常にはっきりしている。まさに江戸文学の「人情もの」に沿っているわけだ。スペンサー、ヒルは「売春婦の息子たちで職業は馬泥棒」というヒドイ設定なので一見正義の味方感が漂ってこないが、風来坊第一作『風来坊/花と夕日とライフルと…』の冒頭を見れば弱きを助け路線は明かだ。まずスペンサー演じる偽物保安官は無実の嫌疑をかけられたメキシコ人に妙に優しい。態度はブッキラボウだが親切だ。それに対して有力者の後ろ盾を笠に来たチンピラにやはり牢屋中の仲間を釈放しろと迫られたのには銃でお答えする。その仲間と言うのは強姦の嫌疑なのだが、それを釈放しろと言うヤクザ者にスペンサーは言う;「いいか、あいつは選ぶメンドリを間違ったんだ。誰を選ぼうと人の勝手だが、当のメンドリの方がいやだと言ったらそれは強姦と言う犯罪だ。釈放できんね」。正義感あるじゃん。テレンス・ヒルの方も牧場主に苛められている開拓者たちの味方をする。また二人とも子供には優しい。いくら剣や銃が達者でも弱い者いじめしたり金もうけに汲々としているような輩は子供の憧れの対象にはならない。
 第五点。双方「清く」なければいけない。「色と金」への欲望がないのである。さらに露骨に言うと双方モテない。この、いわゆる「色」を感じさせないというのが家族単位で愛されるかどうかのポイントである。これを勘違いしているプロデュ―サーが当時の映画界には多く、事実東映は観客を引っ張り込もうと色と欲、ついでに暴力満載のヤクザ映画を量産した。日本映画ばかりでなく欧米でもストーリーに関係なく唐突に裸の女を登場させたりしていた。しかし観客層は誰が脱いだの脱がないのということしか頭にない盛りのついた雄ゴリラのような男性だけでは決してない。女性や子供、またその子供のよきパパ層はその何倍もいるのだ。冒頭でも述べたように、この「何倍」を取り込んだほうが興行的には成功する。
 双方コンビの若い方はモテようと必死ではないか、色欲があるではないかと反論する人がいるかもしれないが、よく見て欲しい。テレンス・ヒルも品川も相手に好かれようと必死になるだけで女性を支配しようとか意のままにしようという気は全くない。それが証拠に東西風来坊とも金で商売女を買うことは一度もない。また上でも書いたが双方たまにモテてもすぐフラれる。向こうにフラれなくてもこちらから怖気を感じて逃げる。観客はそうやってすぐフラれるのがわかっているから安心して見ていられる。下手に成就して色恋沙汰が発生してはいけないのである。また向こうが嫌がっているのに金や権力でモノにしようとする定番男はマカロニウエスタンにもよく出てくるが、そのタイプの男は素浪人シリーズでは必ず「色キチガイ」と近衛に罵られている。
 私自身は読んでいないが調べたところによると南條範夫の原作では主人公の月影兵庫は若くて色白の美男子でしかも恋愛相手がいるそうだ。TVのプロデューサーがそれでは売れないことを見抜き(慧眼だ)、主人公を40過ぎの中年男にして女の代わりに渡世人を相棒にした。これが的中した。子供には自分のお父さんくらいの年齢の優しくて強いおじさんの方が絶対受ける。惚れた腫れたで騒ぐようなストーリーは好かれない。しかしついに原作から乖離しすぎると作者の南條からクレームが入り設定を変えて新スタートするハメになった。それが途中から「花山大吉」と新シリーズになった原因だそうだ。
 双方「色」にも縁がないが、さらに金にも縁がない。縁もないが欲もない。金がない、金が欲しいといつもピーピー泣いているわりにはたまに金が入ると困っている人に寄付してしまったり(近衛品川組)、強盗をしようとしたら向こうが生活に困っていることを知ってこちらから金を恵んでしまったり(スペンサー、ヒル組)、まあとにかく欲とは無縁な風来坊ぶりである。
 大当たりの第六点は、コンビがいわゆるエスタブリッシュメント側に属しておらず、かつダサいということだ。そしてコンビの一方が自分のダサさを棚に上げて他方のダサさをあげつらうという展開にする。社会地位や金、権力があってはいけないのは当然だが(だから東西共に宿なし風来坊という設定になっている)、一方反エスタブリッシュメントだからと言って「民衆を導く自由の女神」的な高貴さが醸し出されてもいけない。普通にダサくなくてはいけないのである。上品だったり威厳があったりしたら子供には好かれない。しかしまさにここがさじ加減が必要な部分で本当は強いのにそれを隠していることを見る方が露骨に感じるとかえって嫌味になる。謙遜してはいけない、わざと弱そうに見せたりしてはいけない。それは不正直につながり、ある意味コスイからだ。上で「普通に」ダサいと書いたのはこのためだ。子供はそこらへんを敏感に感じ取るから強がるのと同様弱がるのも好かれない。
 スペンサー&ヒルは双方格好が見事に薄汚くてショボい。生家(?)は掘っ立て小屋で母親は売春婦だ。その二人が互いに相手を汚いのマナーを知らないのといがみ合う。どっちもどっちとはこのことだ。そして互いに相手の邪魔になっている。そのやり取りが実に下らない。確かバルボーニ第二作の『風来坊II/ザ・アウトロー』だったと思うがこんなシーンがあった:例によってチンピラと悶着を起こしたテレンス・ヒルにスペンサーが「また喧嘩をやったのか(影の声:お前だっていつもやるだろ)。本当にしょうがない奴だ」と言うとヒル「だってあいつら俺たちの母ちゃんを年寄りの売春婦とか言いやがったんだぜ」、スペンサー「何?(一瞬間が開いて)しかしその通りじゃないか」、ヒル(これも一瞬詰まって)「しかし母ちゃんはまだ年寄りと言うほどの歳じゃないじゃんかよ」、スペンサー(ちょっと考えて)「確かにそうだな」。このナナメ上というかそこじゃない感というか、とぼけた味が作品中に漂っている。
 近衛品川組は西のマカロニウエスタンよりずっと言葉の芸に重点が置かれ(江戸文学や落語の伝統と引いているのかもしれない)、キツイ掛け合いのオンパレードだ。いつか品川隆二がインタビューで話していたが、素浪人の脚本はセリフの応酬だけでト書きが全然なかったんだそうだ。近衛が品川に「その首の上についている頭は何のためにあるんだ。少しは考えろ」、しかしまた別の時は「無理して頭使うなよ。考えても無駄だ」。品川は品川で「いつもオレの金にたかりやがるが今日はそうは行かないぞ。オレは今スッテンテンのオケラなんだ。どうだ参ったか、ザマアみやがれ」。ロジックになっていない。また近衛は品川を「この騒々しいおっちょこちょいはオレの相棒でなあ」、品川は近衛を「このむさ苦しいのはオレの友だちだ」と悪口をいいながら人に紹介する。これらの掛け合いだけで十分目糞鼻糞感が漂うが、素浪人ではこのうえにさらに双方のキャラにシュールなウィークポイントを付加されて互いにそこをつつきあうからたまらない。抱腹絶倒の域に達している。例えば月影兵庫は猫が怖い。普通の人なら思わず撫でたくなるような可愛い子猫でも出ると叫び声を上げへっぴり腰になって逃げる。その度に品川がブツブツ言いながら猫を追っ払ってやる。その品川は蜘蛛が怖い。蜘蛛を見るとこれも絶叫して逃げ、これもその度に近衛が取り去ってやる。双方「世話が焼けるねえ」と愚痴入りだ。何度か猫と蜘蛛がほぼ同時に出没したことがあるが、二人そろっての絶叫シーンに見る方は「イヨッ、待ってました!」と声をかけたくなった。もう一つの近衛キャラ花山大吉は驚くとシャックリの発作が起きて腰に下げた瓢箪の酒を飲まない限り止まらない。また酒の肴にオカラを出されると理性を失う。酒を入れ忘れた近衛のために品川が酒を買いに走り、ベロンベロンの近衛を見て「いじましいねえ」と呆れる。誰が考え出したのか知らないがほとんど天才的なアイデアだ。大酒のみは月影兵庫も同様で「真の侍なら正気を失うほど酔いはせぬ」とたしなめた『七人の侍』の勘兵衛からそれこそ「このバカタレが」とお叱りを受けそうだ。
 また上でも言ったがスペンサーも素浪人も別に自分の強さを隠しているわけではない。双方ゲンコツや剣の技を変に出し惜しみはせず、バンバン見せてくれる。モッタイをつけて能ある鷹は爪を隠すを気取ったりしないのだ。クサい自慢や売り出しも双方日常茶飯事。子供に好かれたかったらこのようなパーッとした明るさは不可欠だ。
 そのパーッと明るい二人組が突っ込みあう。単独ではこういう絶妙なバランスがとれない。それが補色の関係たるデュオである意味だ。スペンサーとヒルはマカロニウエスタン衰退の後、舞台を現代に移してコンビ映画を撮り続け興行的にある程度の成功を見せた。素浪人の方は逆に『花山大吉』終了後、キャラ的にはその路線を引き継いでコミカルな時代劇、『素浪人天下泰平』『いただき勘兵衛 旅を行く』に移行したが人気は出なかった。コンビの片割れ近衛だけしか出演せず、相棒を品川隆二とは別の俳優が務めたからである。後者は相棒役を近衛の息子の目黒祐樹がやるなど話題性には欠けていなかったはずだが、むしろそれが裏目に出たのかもしれない。私はこの番組を見ていないが、こういうのを元来のデュオに対する不実な裏切り行為ととる視聴者は少なからずいるからである。もう一つ、近衛品川の『素浪人花山大吉』の後半から後の番組にかけてデュオの他に三人目のレギュラーが入った。しかもそれが女性であったので上で述べたようなデュオとしての安定度がぐらついた。『花山大吉』では近衛の病気が悪化し番組そのものの存続のために近衛の負担を軽減するという仕方がない理由があったことと(もっとも私はあそこで若い女なんかより気のいい爺さんでも持ってきた方が子供には好かれたと思う)、近衛品川コンビがそれ以前に不動の地位を築いていたので多少の不要分子は入れる余地があったのだろうが、品川の出ない後続シリーズは違う。デュオが弱いところへ不必要な要素まで加わったら煩雑なだけだ。残念だった。
 さて、『素浪人月影兵庫』には第一シリーズと第二シリーズがある。大ブレークしたのは原作と乖離した第二シリーズの方で、私も第一の方はその存在さえ知らなかった。この歳になって東映の公式サイトで第一シリーズを見たのだが、第二とキャラの雰囲気が全く違う。月影兵庫はあくまで豪放磊落、相棒の焼津の半次もいなせな旅ガラスで、第二でのご両人、たかが二十文三十文に汲々とし、酒をタダで飲めるとなると目の色を変えるようなみみっちさ、さもしさが全くない。トレードマークの蜘蛛や猫なども第二シリーズからの登場である。この第一を見て近衛と品川の持つコメディとしてのポテンシャルを見破り、そちらに路線変更した人(多分プロデューサーだろう)は大した目の持ち主だと思う。そういう意味で『素浪人月影兵庫』の第一シリーズはマカロニウエスタンで言えばジュゼッペ・コリッツィの三部作(『173.後出しコメディ』参照)に対応するのではないだろうか。コリッツィ作品ではスペンサー、ヒルは「普通の」マカロニウエスタンキャラを演じていたのである。そのコリッツィの西部劇は今ではバルボーニ映画のブレークの影に隠れてしまっているが、月影兵庫の方もコメディ転換せず第一の路線のままで番組を続けていたらどうだっただろう。第一シリーズは映画で鍛えた東映時代劇のノウハウがそのまま注ぎ込まれたようで非常に面白かったが、第二シリーズほど人気が爆発しただろうか。
 またこれは余談だが、第二に入って原作者からクレームが来る前にも制作者側に「こりゃ原作と離れすぎだな」という自覚と言うか多少の罪の意識があったのではなかろうか。第二のさるエピソードで、キャラの一人が剣の腕を披露したとき、兵庫が「見事な上段霞切り」と褒めるのである。この「上段霞切り」というのは南條の原作『月影兵庫』の巻の一つで青年(!!)兵庫と腰元とのエピソードが描かれ、上で述べたようにプロデューサーからバッサリ切り捨てられた部分である。散々ストーリーが乖離してきたあとになって取って付けたように原作の用語を持ち出す。ひょっとしたらこの時すでに「このままではそのうち原作者から突っ込まれるな」という嫌な予感があって「原作忘れてませんよ」とアリバイ工作したのかもしれない。あるいはこの時点ですでに南條から水面下で抗議が行っていたのか。

西の風来坊、バッド・スペンサーとテレンス・ヒル
SpencerHill
東の近衛十四郎と品川隆二。互いに相手の懐を当てにして居酒屋で酒を食らったはいいが、実は両方ともスカンピンだったという定番な展開。
TsukikageHyogo
『素浪人』は何作か東映時代劇の公式サイトで見ることができる。『月影兵庫』第二シリーズ後半から『花山大吉』の前半にかけてが何といっても絶頂期だろう。



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 私はガルシンと言うロシアの小説家の作品が好きだ(『10.お金がないほうが眠りは深い』参照)。ガルシンは33歳で夭逝(自殺)したうえ精神を病んでいたので長編小説は書いていない。発表された作品の数も少ない。同じく若くして死んだプーシキンやレールモントフ、またはゴーゴリと違ってロシア近代文学を切り開いたりはしなかったし、トルストイ、ドストエフスキイ、トゥルゲーネフと違って世界中の人々をロシア文学に釘付けにしたりはしなかった。言い変えるといわゆる「ロシア文学の金字塔」にはならなかったのである。その作品はどれも繊細でつつましく、ロシア語は平坦で変にひねった言い方やこれ見よがしの表現などもなく、また大仰に人生哲学を繰り広げたり人間の業の深さをギューギュー突き詰めたりもしない。無理解な人、鈍感あるいは不愛想な人は登場するが本当に意地の悪い人、真正の悪人は出て来ない。ガルシンをもし他の誰かと比べるとするならチェーホフだろう。
 『あかい花』Красный цветок と言う作品が特に有名だが、これは癲狂院(死語か)に入れられた患者の話である。主人公は現実との接触をほとんど失っており、頻繁に狂躁の発作に襲われているが、何かの折には一瞬正気が戻る。そういう精神疾患の患者の心の内部描写の正確さが精神医学者からも絶賛された。狂躁に襲われた主人公は夜も眠らず、昼はあちこち動き回って体力を消耗し、体重も減って命の危機に至る。そうやって衰弱していく中で患者はふと病院の庭に咲いている赤いケシの花を見つけ、それを悪の象徴と思い込む。世の中のため、人のためにと花を一つ一つつぶしていくのだが、病院の看護人には赤い花は邪悪の象徴などではないから、患者がむやみやたらに綺麗な花をムシリとっているとしか見えない。当然のことながらそれをやめさせようとする。それでも患者は「悪との戦い」を止めない。とうとう最後の花をもぎ取ってそれを手にしたまま衰弱死する。その死に顔は安らかで満足感に満ちていた。
 私はこれを読んだとき何か厳粛な気持ちになったのだが、その理由の一つが、上でも言ったように作品には嫌な奴が一人もおらず、基本的には皆この患者に親切だということだ。19世紀ロシアの癲狂院のことだからもちろん脳のCTスキャンもないし、抗うつ剤もない、現在の目から見れば間違った治療をしているかもしれない。だが医者は患者のために当時としてはそれなりのことをする。患者が狂躁のため衰弱し、命の危険が生じると、「徘徊を止めさせないと死んでしまう。暴力には訴えたくないのだが、やむを得ない、縛ろう」と躊躇しつつ患者を縛る。この縛るというのはもちろん江戸時代の捕り物のように後ろ手に縄でギリギリ縛ることではなく、狭窄衣を着せるという意味である。治療の時も上から目線で患者に対したりしない。看護人たちも患者たちをウザがって放置したり、わざとつらく当たったり、自分の権力を振り回したりは全くせず、まあ良心的だ。『カッコーの巣の上で』のあの看護婦とはエライ違いだ。なんというか、作品のトーンが全体的に清らかなのである。私はこの清浄ぶりがまさにガルシンだと思っている。
 ガルシンはロシア帝国南部のエカテリノスラーフ県、現ウクライナ領のドニエプロあたりの生まれで、作品中には時々その故郷の言葉、つまりウクライナ語がでてくる。例えば『あかい花』でも癲狂院で働いている人のなかにウクライナ語の話者がいる。狭窄衣を着せられた主人公がそこから抜け出て暴れはじめたとき、看視人が駆けつけてくるシーンはこうなっている。

__ О, щоб, тоби!.. __ закричал вошедший сторож. __ Який тоби бис помагае! Грицко! Иван! Идите швидче, бо вин развязавсь.

「うわっ、こりゃお前…」、入ってきた看視人は叫んだ。「どんな悪魔がお前を手伝ったんだ!グリツコ!イワン!はやく来い、奴が抜け出たんだぞ!」

地の文はロシア語だが、看視人の発言はウクライナ語(太字)である。ウクライナ語だがロシア語の正書法で表記してある。現在のウクライナ語の正書法では次のようになる。黄色の部分が「ロシア語表記のウクライナ語」と違っている箇所。

О, щоб, тобі!.. … Який тобі біс помагаэ! Грицко! Иван! Ідіть швидче, бо він розв'язавсь.
 
ロシア語に直すとさらにこうなるが、気になる点がいくつかある。

О, чтобы, тебе!.. … Какой тебе бес  помагает! Грицко! Иван! Идите быстрее, ибо он развязался.

まず「来い」、つまり「来る」あるいは「行く」の命令形2人称複数、一番上の例(ロシア語表記のウクライナ語)で  Идите(下線)となっている形だが(不定形はそれぞれ идти と іти )、これをそのままウクライナ語表記にすれば Ідіте(下線)となるはずだ。ところがウクライナ語ではіти の複数命令形がロシア語と違うので語末が母音ではなく子音の ть になる。言い換えるとガルシンの原語ではこの部分は「ロシア語表記のウクライナ語」ではなくガチのロシア語、つまり話者が言語転換しているのである。 Идите を太字にしなかったのはそういう理由だ。もうひとつ、ウクライナ語の  розв'язавсь、「ガルシン表記」の развязавсь(「ふりほどく」)だが、これを見るとウクライナ語では単数男性の過去形はロシア語のような -л(-l)でなくまるで分詞形のような -в(-v)をつけて作ることがわかる。 調べてみたら女性単数や中性単数、複数の過去形はウクライナ語でもロシア語と同じく -л(-l)が現れるそうだ:それぞれрозв'язала、розв'язало、розв'язали。さらに最後尾の再帰代名詞だが、ガルシンでは -сь(-s’)とあるが、先行の音が -в(-v)、つまり子音なのだからここは -ся(-sja)がついて развязався、ウクライナ語正書法で  розв'язався となるはずなのではないか、これは誤植ではないかと思って別のテキストに当たってみたがやっぱり развязавсь とある。ではこれはガルシン自身のウクライナ語が間違っていたのかとしつこく追及してみると驚くなかれ、ウクライナ語では先行音が子音だろうが母音だろうが  -сьでも -ся でもいいそうだ。ということは例えば過去形女性単数にрозв'язалась だけでなく розв'язалася という形も許されているということだ。ロシア語だったらここは -сь 一本鎗である。そうしてみると上で私が「ロシア語だ」と言った Идите  についても使用例は見つけられなかったが実はウクライナ語でもІдіть の他に Ідіте という形も許されているのかもしれない。
 なおこのウクライナ語の部分を名訳で知られた神西清は次のように訳している。

「ひゃあ、このやつがれ!…」と、はいって来た看視人がわめきたてた、「なんたる悪魔が助(す)けおったぞな?グリッコやい、イヴァンやい! いそぎ来(こ)うよう、抜け出おったがな。」

ウクライナ語は南スラブの語の影響を受ける以前の東スラブ語に特徴的な古い部分を残している。それで少し古風な感じのする言い回しで訳したのだろうが、まさに名人芸という他はない。

 とにかく客観的に見ればこの主人公は全く役にも立たないことに命をかけて無駄死にしたことになる。「死をかけた努力が結局何にもならなかった、または無駄な目的のために命をかける」、これが『あかい花』の主モチーフだが、ガルシンがその3年前に発表した『アッタレア・プリンケプス』Attalea princeps (ロシア人はアッタレア・プリンツェプスと発音する)でもそのモチーフが扱われている。
 『アッタレア・プリンケプス』はメルヘン風の作品で。舞台は町の植物園、その温室の中の草や木が登場人物(?)だ。主人公はその木々の中でもずば向けて背の高い棕櫚の木で、その学名がアッタレア・プリンケプスというのだ。アッタレアは背が高いだけに温室のガラス天井を通していつも空がよく見え、ガラスを通してでなく自分の目でその青い空が見たくてたまらない。故郷ブラジルでのように直接外の空気に触れあたたかい雨に打たれてみたくてたまらない。実際あるときブラジルから客が来てアッタレアを見てまるで同郷人に遭ったように懐かしがり、アッタレアを「本名」で呼んでいく。本名と言うのは勝手にヨソからきた学者がつけていったラテン語の名前でなく、現地の人が現地の言葉で呼んでいた名前である。
 そこでアッタレアは天井に届くまで背を伸ばし、さらに幹や葉でガラスを押し割って外に出ようとする。アッタレアは周りの草木たちにも「いっしょにやろう」と誘うが皆は温室の生活に満足しきっており、誰も同調しないばかりか、自由になろうとするアッタレアを гордячка(「高慢な女」)とののしる。ただ一人、温室の地面を隠すためだけに植えられていたみじめなつる草がアッタレアを応援するが、いっしょに行動を起こす力も勇気もない。
 アッタレアはあらゆる力をふり絞って背を伸ばし、痛いのをこらえて傷だらけになりながらとうとうガラス天井をぶち破って外に頭を出すが、そこは凍えそうに寒く(ロシアの秋ですからね)、まわりの景色も陰気で何もいいことなどない。アッタレアは только-то?「これだけのことだったのか」と後悔するが元に戻るすべもない。根元から斬り倒されて植物園の裏庭に捨てられてしまう。唯一の友だちのつる草もいっしょに引っこ抜かれて廃棄される。
 主人公の名前 Attalea princeps はキリル文字でなくラテン文字で記されている。-a で終わっているから女性名詞扱いということになるし、さらにロシア語で「ヤシ、棕櫚」は пальма  で幸い女性名詞だからアッタレアという名前と文法性が整合するので誰がどう見てもこの主人公は女性である。それはいいのだが、ロシア語では普通名詞ばかりでなく固有名詞も格変化する。Attalea という名前も格変化させられているのか、それともラテン文字表記だから格変化は勘弁してもらっているのか。そこをちょっとチェックしてみると、まずアッタレアは大抵の場合主格で出てくる。例えば繋辞文の述部あるいは主部や、動詞の主語としてである。

Это — Attalea princeps.
this + (is) + Attalea princeps-主
これはアッタレア・プリンケプスだ。

… отвечала Attalea.
answered + Attalea-主
…とアッタレアは答えた。

そもそも Attalea という形はラテン語女性単数の主格だし、ロシア語でもそうだからこれをモロに使って問題ない。問題は Attalea が斜格になる場合だ。例えば「AをBと名付ける」という文ではAは対格、Bは造格になる。次のような例があるが、Attalea は造格のはずだ。

… ботаники называют ее Attalea
… botanist + name + her-対 + Attalea- 造
植物学者はそれ(その棕櫚)をアッタレアと呼ぶ。

つまりラテン語表記の Attalea は形としては主格のままで格変化していない。本来ならばここで造格語尾をとり、Attaleей  という形になるはずだからだ。
 ところが生格、対格、与格では格語尾が変化している。

 Она могла  только ... обвить-ся около ствола Attaleи
she + could + only … entwine-herself + around + trunk + Attalea-生
彼女(つる草)は…アッタレアの幹の周りに絡みつくことしかできなかった

все  … начали доказывать Altaleе, что ... 
all  … + began + prove + Attalea-与 + that … 
皆アッタレアに…ということを証明しようとし始めた。

но все-таки сердили-сь на Attale'ю ... 
but+ nevertheless+ anger-themselves + on + Attalea-対
けれど(皆)アッタレアに腹を立てていた。

造格だけ語尾変化しなかったのは「名付ける」という動詞のせいだろう。上で述べたように「AをBと名付ける」という場合、確かにBは造格が基本だが固有名詞、特に外国語っぽい名前の時は主格になることもないではないからだ。面白いことにこれもちょっと他のテキストをあたってみたらここで引用したテキスト以外は皆語尾変化から解放されて一律 Attalea になっていた。語尾変化させているほうがガルシンの原語に近いと思うのだが、どうだろう。

 さて『アッタレア・プリンケプス』も『あかい花』も「無駄死に」を描いているのだが、物語の構造と言うか登場人物設定では正反対ともいえる点がある。
 まず『アッタレア・プリンケプス』の主人公は周りの住人(?)から抜きんでている存在だ。背は高く美しく、道徳的にも毅然としている。だから周りからは妬まれる。『あかい花』の主人公、精神病院の患者は全く逆で、周りから蔑まされるとまでは行かないが(患者が蔑まされてはいない、という点にガルシンらしさを感じたことは上で述べたとおりである)、少なくとも周りと同等には見られていない。いわば周りより下に位置する存在だ。
 そして「皆より上」なアッタレアが命をかけてでも得ようとした目的、「自由」は結局自分のためである。自分の目で空が見たかった、外に出たかったのだ。もちろん自由は自分のためだけではない、他人もそれで幸せになると思ったから周りにも誘いをかけたので、決して自分のためだけ考えていたわけではない。わけではないが、第一の動機は自分であった。そういえば「死んでもいいから自分自身の目で見てみたい」と望んでやっぱり死んでいった人はもう一人いる。『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーで、氏も生命維持装置を外せば死ぬとわかっていながら、最期に機械を通さず自分の目でルークを見たがった。
 話を戻すが、自分の望みのために命をかけたアッタレアに対し『あかい花』の患者は自分のことなど少しも考えていない。あくまで世のため人のため、周りを救うために自分の命を犠牲にしようという意図だった。もちろん社会が邪悪から解放されれば結果として自分も解放されるが、第一の動機は他者の幸福である。
 第三の違いは、目的達成の後アッタレアは後悔しながら死んでいくが、患者の方は自分に満足した安らかな死だったという点だ。
 ではガルシンは「他のために自分を犠牲にすれば満足して死ねる」と言いたかったのか。そうとは思えない。生きていることがそもそも苦しみでしかなく、短い生涯を通じて必死に生存の意味を問い続けたガルシンがそういう安直な答えを打ち出すはずがない。自己犠牲を貫徹して安らかに死んだのは狂人なのだ。現実を認識する力がない。アッタレアが後悔した、というより後悔「できた」のは自分の目的が実はトンチンカンであったと把握するだけの認識能力があったからだ。つまり前者の安らかな死はいわば「知らぬが仏」である。それならガルシンは「自分の死の無意味さを知らないまま安らかに死ぬのと、無意味さを正しく把握して後悔して死ぬのとどちらがいいか」という問いを投げているのか。回りくどくて申し訳ないが、どうもそうとも思えない。
 確かにガルシンの作品には何も考えずにじっと我慢の子で人生の重みを背負っていく人たち、誠実に必死に生きている人たちがよく登場し、優しく描かれている。『10.お金がないほうが眠りは深い』で出した『信号』の主人公もそのタイプだし、『あかい花』や『アッタレア・プリンケプス』と共に代表作とみなされている『4日間』に出てくる兵士たちも皆そんな感じだ。主人公は祖国のために命を捧げる気で戦場に赴き、大怪我をして4日間も動けずに戦場に横たわる。隣には自分の殺した敵兵の死体が横たわっている。主人公はそこで故郷のこと、敵兵への同情、自分が殺人者となってしまった事への後悔など様々思いをめぐらすのだが、最後には味方の部隊が見つけてくれて病院に送られる。その衛生兵、医者などの親切で誠実なこと、読んでいるほうまで心底胸をなでおろす。さらにもう一つの作品『従卒と士官 』の従卒も人生の重みに黙々と耐えている。それらガルシンの描く市井の人々には何というか、気高ささえ感じるほどだ。しかしそれらの人々は幸せなのか。否である。逆に理想を抱いて無駄死にするアッタレアや病人は不幸な人生だったのか。これも否である。つまりガルシンはどちらの生き方が幸福か、どちらが人間のあるべき人生かという類の(説教臭い)問いを発しているわけではないのである。
 ガルシンは(神西清の言葉によれば)「異常にとぎすまされた道徳的敏感さ」によって善良な人たちが幸せでないのを見て取ったが、その良心の持って行き場がない。誰一人として理解してくれる者がいないのである。社会も微動だにしない。かといって良心のほうを捨て去ることはガルシンにはできなかった(それをする人は世の中にはゴマンといる。私も人のことは言えないが)。結局そのために自分が破滅するしかない。これも神西清のことばだが、ガルシンは「その病身の身をもってあの窒息せんばかりの空気のなかに、一点の弱々しくはあるが曇りない良心の灯をよく守り通した」のである。


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前に書いた記事の内容に大分補足を加えました。属格、つまり名詞が別の名詞を修飾する構造はとにかく昔から解釈や説明がいろいろ難しいです。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 『84.後ろか前か』で同格についてちょっと触れ、同格名詞(NP1+NP2)はあくまで全体として一つの名詞であってNP1とNP2間にはシンタクスやテクストレベルと違い「NP2が意味的にNP1より包括的でないとうまく機能しないというレヴィンソンの規則は適用されない」と安直に述べてしまったが、その後よく考えてみると「適用されない、はいオシマイ」では終わらせられないことに気がついた。
 まず助詞の「の」を使う同格表現であるが、

太郎の馬鹿野郎
馬鹿野郎の太郎

を比べてみると私の感覚では最初のほうが遥かに座りがいい。まさに同格という感じがする。それに比べて後者の方はNP1がNP2の修飾語であるという感じがぬぐい切れない。この修飾語感覚はNP1が「な形容詞」にもなりうる語だと益々はっきりする。

1.太郎の馬鹿  NP1 + NP2
2.馬鹿の太郎  NP2 + NP1  
3.馬鹿な太郎  Adj. + NP1

1が一番同格性が強く、3は完全にNPが一つ、つまり単なる普通のNPで、2がその中間、NPが他のNPの修飾語になっている、まあ特殊な構造である。「特殊」と言ったのはNPというのはシンタクス上で普通修飾語としては働かず、基本的にはされる側だからである。2ではNP1の方が意味が狭くなっている。「意味」というよりreferential status指示性のステータスが高いといったほうがいいかもしれないが。言い換えると指示対象物を同定できる度合いが強いということだ。とにかく太郎という一個人のほうが馬鹿という人間のカテゴリーより意味が狭くて指示対象がはっきりしている。これは前に述べたレヴィンソンの規則では、NP1とNP2の指示対象が同じものだとは考えにくくなるパターンだ。逆にそれだからこそ、先に来たNP2のほうをNP1の修飾語と考えないとNP1とNP2がバラバラになってしまう。1ではレヴィンソンの言う通り、後続のNP2の方が意味が広いからすんなりとNP1=NP2と解釈することができる。要するにここではしっかりレヴィンソンの図式が当てはまっているようだ。次に

4.ハイデルベルクの町 NP1 + NP2
5.町のハイデルベルク NP2 + NP1

を比べてみよう。ここでも同格と見なしうる4では「太郎の馬鹿」と同じくNP2の方が意味範囲が広い。5はNP2は明らかにNP1「ハイデルベルク」の修飾語・限定語でNP1の意味を狭めている。例えば会話の場(でなくてもいいが)にハイデルベルクさんという人がいて、ハイデルベルク市の話をしているのかハイデルベルク氏について話しているのかはっきりさせたい場合は「町の(ほうの)ハイデルベルク」というだろう。氏は「人のハイデルベルク」である。ここでもレヴィンソンの図式が当てはまる。
 しかしその「NP1とNP2の意味範囲の法則」が名詞句内で当てはまるのはそこまでで、NP2が職業名だとなぜかこの図式が適用できない。

6.佐藤さんのパン屋 NP1 + NP2
7.パン屋の佐藤さん NP2 + NP1

では、同格とみなせるのは7、意味的に狭いほう、指示対象を特定できる度合いが強いほうが後に来ている。図式と逆である。またこの場合の「パン屋の佐藤さん」は「町のハイデルベルク」と違ってそばに会社員の佐藤さんがいなくても、つまり佐藤さんの意味を特に狭める必要がなくても使える。言い換えると普通に同格なのである。6はNP1(佐藤さん)がNP2(パン屋)の所有者、あるいは佐藤さんがいつも言っているパン屋、つまり属格解釈しか成り立たない。さらに

8.おじさんの医者 NP2 + NP1
9.医者のおじさん NP1 + NP2

を比べてみよう。同格とみなせるのは9の方である。その際9では「おじさん」の意味が「両親の兄弟」つまり話者の親戚かよく知っている近所の(でなくてもいいが)中年男性となる。これに反して8では「おじさん」が単なる「中年男性」の解釈となる。話者の知り合いでもなんでもない、カテゴリーとしての中年男性という意味になるから、NP2(「おじさん」)はNP1(「医者」)の修飾語である。つまりここでもNP2の方が指示対象を特定できる度合いが強い構造のほうが同格なのだ。またここでは8も9も上の6と同じく属格解釈ができる、8は「おじさんがいつもかかっている医者」、9は「その医者にはおじさんがいる」である。つまりN2が固有名詞だと属格解釈ができないということだ。

では次に

10.アメリカ人の友だち

はどうか。「友だち」は固有名詞ではないから属格解釈ができる。「アメリカ人のそのまた友だち」だ。しかしまあ同格と見る方が自然だろう。つまり同じ指示対象を別の言葉で言い換えてあるということ。「アメリカ人である友だち」、言い換えれば「そのアメリカ人=友だち」、ドイツ語で言えば

mein Freund, der Amerikaner ist
my + friend + who + American + is

となる。「アメリカの国」も同じ理屈で「アメリカ」と「国」は同格である。上の4と同じだ。面白いことにこういうとき英語の of が同格を表すことがある。the state of California はまさに「カリフォルニアという州」「その州=カリフォルニア」という同格だ。英語の of に対応するドイツ語の von は英語ほどは同格表現の力がないらしく、同格は文字通り名詞を並立させて表す。ドイツ語の学習者にはここで修飾語を属格にしてしまう者が跡を絶たない。例えば「ドイツ連邦共和国」をBundesrepublik Deutschland でなく Bundesrepublik Deutschlands とやってしまうのだ。私も以前「シュレーダー政権」と言おうとして Regierung Schröders  とやったら先生にまたかという顔をされ、「多いですねぇ、そう間違う人。これはその政権の名前がシュレーダーだという意味でシュレーダーの所有する政権じゃありません。だから属格にしちゃダメです。Regierung Schröder です」と諭された。そう言われて考えてみると、英語もアポストロフィとs で表す属格では同格を表現できない。the state of California は California’s state ではない。

 もうちょっと見てみよう。NP1、つまり意味の広い方が漢語だと助詞の「の」で同格が作れない。同じ意味の和語では可能なことが漢語相手だとできないのである。だから

11.ドイツの国

はいいが

12.ドイツの連邦共和国

は同格にならない。この場合は「ドイツ連邦共和国」と「の」抜きの完全な合成語にしないといけない。これは大学の場合も同じで、

13.筑波の大学

とは言えず、

14.筑波大学

と言わなければいけない。「筑波の大学」だと「つくば市の大学」ということになり、あのデカイ国立大学だけとは限らず、私立のつくば国際大学も指示対象になりうる。ローカルな話になって恐縮である。
 さらに「ハイデルベルクの町」(上述)という同格構造は成り立つが、「ハイデルベルクの市」とは言えない。合成語にして「ハイデルベルク市」とするしかない。
 それに対して英語だと「共和国」とか「合衆国」とか「大学」いう固い言葉とでも「の」にあたる前置詞、上で述べた of を使って同格構造が形成できる。

15.Federal Republic of Germany
16.University of Tsukuba

日本語ではこれらはそれぞれ「ドイツ連邦共和国」、「筑波大学」という合成名詞でしか表現できない。しかし一方で合成名詞を構成している各名詞の関係は「の」のつく構造と必ずしも並行しないから一旦観察しだすと止まらなくなる。例えば次のような例だ。

17.裁判官おばさん
18.おばさん裁判官

18は「おばさんの裁判官」「おじさんの医者」などの「の」がつく構造と同じで中年女性の裁判官という意味になるが、17は「裁判官のおばさん」という意味にはならない。私の言語感覚では、すぐに「サイバンカーン」と絶叫するのを芸にしている中年女性のピン芸人(こういう絶叫が芸と呼べるかどうかはこの際不問にすることにして)などが「裁判官おばさん」である。
 このタイプの合成名詞はロシア語では各名詞をハイフンでつなぐが(『84.後ろか前か』参照)、ドイツ語では日本語と同じように名詞を裸でくっつける。そしてここでも名詞の順番によって同格になったりならなかったりする。

19.Muttertier
            mother + animal
20.Tiermutter
            animalmother

19は同格で「おかあさん動物」、例えば後ろにヒヨコを従えて横断歩道を渡る「おかあさんアヒル」である。そのまま合成名詞として日本語にできる構造だ。ところが20は同格にならないし、そもそもそのまま日本語に「動物おかあさん」「アヒルおかあさん」とは合成名詞変換できない。では「の」をつけて「動物のおかあさん」「アヒルのおかあさん」と翻訳できるかというとこれがそうではない。「アヒルのおかあさん」は「おかあさんアヒル」と同様自分自身もアヒルであるが、 Tiermutterではmother は人間で「怪我をした動物を家に連れてきて献身的に世話をする女性」というニュアンスで、とにかく動物の世話をしている(優しい)女性という解釈になる。これはネイティブ確認を取った。日本語の「アヒルのおかあさん」もそういう女性を表せないこともないが、同格になりうる度合いが遥かにドイツ語より強い。

 名詞と名詞が合体すると、シンタクス上の構造ばかりでなくその名詞自身の意味や、直接の意味内容には入っていないいわゆるニュアンスなどもかかわってくるから騒ぎが大きくなるようだ。さらに大騒ぎになるのが当該名詞が上述のように単なるNでなくそれ自身すでにNPである場合である。

21.山田さんの知り合いの任天堂の社員
22.任天堂の社員の山田さんの知り合い

「山田さん」をNP1、「知り合い」をNP2、「任天堂」をNP3、「社員」をNP4とすると21は事実上{NP1(属格)+NP2} = {NP3(属格)+NP4}、言い換えるとNP1とNP2が一つの単位、NP3とNP4がまた別の単位、つまり「山田さんの知り合い=任天堂の社員」という同格解釈しか成り立たないが、名詞の順番を変えた22では21に対応する構造 {NP3(属格)+NP4} = {NP1(属格)+NP2}、「任天堂の社員=山田さんの知り合い」の他に {NP3(属格)+NP4= NP1(属格)} +{NP2} と言う解釈、つまり「任天堂の社員である山田さんのそのまた知り合い」という解釈もなりたってしまう。中括弧の位置が変わっているのが見えるだろうか。これは「山田さん」が固有名詞、意味が非常に限られている名詞なので、意味がより一般的な名詞句、ここでは「任天堂の社員」が先行した場合その名詞句全体をまとめて自分の同格と解釈させる力を持っているということだろう。やはり名詞の意味を完全に排除してシンタクスだけで言語構造を論じるのは無理があるようだ。

 だんだん収集がつかなくなってきたのでこの辺で止めさせてもらうが、昔生成文法でもごく最初の頃に名詞と名詞の結びつき、属格構造を導き出す変形をシンタクス上で説明しよう、つまり属格構造がD構造ではセンテンスであったと説明しようとしていて、直に放棄したようなおぼろげな記憶がある。

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 前に一度書いたように(『170.自動詞か他動詞か』参照)、私は文語に義理立てして現在日本語の構造を無視し、「読ん」と「読み」、「書き」と「書い」を連用形と言う同じカテゴリーに放り込む学校文法に疑問を持っている。その点ではこれらを別の形として「て形」、「ます形」と呼ぶ日本語教師文法(せめて外国人用の日本語といってくれ)のほうが優れているだろうが、これはこれで動詞の語幹のパラダイムに不純物の助動詞をくっつけた形、つまり二語いっしょにした不正確な命名だから文法記述としてはあまりいただけない。また外国人用の日本語では動詞を3つのグループに分ける。それ自体は学校文法より記述的に優れていると思うが、どうしてそこで第一グループ、第二グループ、第三グループなどという意味不明の命名をするのか。それぞれ素直に「子音語幹活用」、「母音語幹活用」、「不規則活用」としてはいけないのか。つまり外国人用の文法というのは「子音」「母音」「語幹」という言葉さえ知らない人でも楽しく日本語が学べるように工夫された文法、言語学の用語(子音、母音なんて全然専門用語でもないだろうに)を目の敵にした文法だということか。もっとも昨今のこの傾向は日本語ばかりではなく、ドイツ語だって主格、属格、与格、対格を一格、二格、三格、四格などと呼ばせている教科書がある。
 外国人用の日本語には他にもいくつかわかりやすさのために言語学的事実をゆがめている既述があるが、その一つが動詞の「辞書形」とかいう用語である。これは本末転倒ではないのか?「何をもって辞書形、あるいは見だし形となすか」ということをまず最初に定義しておくのが辞書である。ロシア語ならば「動詞の不定形を辞書形となす」「形容詞は男性単数形を見出し語とする」などと最初にきちんと告げてある。名詞なら単数主格の形だ。それでは変化形がはっきりしない場合もあるので単数生格もついでに併記したりする。いずれにしても語形の一つを選んで辞書形にするのであって、最初から辞書形などという語形が文法パラダイム内に存在するのではない。「辞書形を辞書形となす」では完全なトートロジーだ。
 用語それ自体が不適切なばかりではない。ちょっと手元にある(外国人のための)日本語の教科書には「日本語を話すことができます」「新聞を読むとき眼鏡をかけます」「まっすぐ行くと銀行があります」などの例の「話す」「読む」「行く」といった動詞を辞書形としてある。つまり学校文法で言う終止形と連体形がいっしょくたになっている。この点に関しては学校文法に軍配をあげざるを得ない。上の例のうち、最初の二つは連体形Attributiv 、最後のは終止形 Konklusiv で、これらは表面上は同じ形だが、語形パラダイムとしての区別は現在日本語においてもまだ保たれている。
 確かに現在の日本語では動詞とイ形容詞では連体形、つまり名詞を修飾する形と終止形、つまり文の終わりをマークする形は同じだ。上の例での被修飾語「こと」「とき」は品詞としては名詞である(ついでに「山田さんがロシア語を話すのを知っていますか?」などの「の」やその崩れた形「ん」も名詞だ)。上の「まっすぐ行くと…」の例文の「と」は名詞ではなく接続詞だから、動詞の「行く」は終止形で連体形と同形だ。だから「日本語を話す」「新聞を読む」と、文を動詞で終らせたり、逆に「行く」を名詞に修飾させて「この先で工事していますからこの道をまっすぐ行くことはできません」などと言っても動詞の形は変わらない。この現象はイ形容詞もそうで、「4月でも寒いことがあります」「暑いときはビールをガンガン飲みます」「女の人が賢いと昭和脳おじさんは面白くないねえ」の最初の2つは連体形、最後の昭和脳は終止形だが、これを「4月なのに寒い!」「四月なのにクソ暑い!」「女の人が賢い国は発展する」と文構造を変えても形容詞の形はそのままだ。要するに動詞、イ形容詞では連体・終止は同形なのだ。
 しかしナ形容詞とコピュラは連体・終止の区別を保持している。まずナ形容詞だが「山田さんは時々馬鹿なことを言います」「上司が馬鹿なときは部下に尻ぬぐいさせてください」「大統領が馬鹿だと国民は大変だ」と比べてみればわかる通り、連体形は「馬鹿な」、終止形は「馬鹿だ」である。しかしこの終止形は辞書形ではない。ナ形容詞は形容詞の語幹、つまり「馬鹿」が見出し語だ。見出し語が終止形である動詞やイ形容詞と整合がとれていないが、まあそれくらいなら「動詞、イ形容詞は終止形、ナ形容詞は語幹を見出し語とする」と最初に断っておけば済むだろう。問題は学習者がどうしてですかと聞いてきた場合だ。まさかそういう決まりなんですなどという無責任な答えをかますわけにはいかない。
 ナ形容詞の語幹を除いたいわば「活用部」(印欧語と違って形容詞は曲用でなく活用する、『198.日本語の形容詞』参照)は中立形コピュラ、俗に言う断定の助動詞「だ」とほぼ同じである。そのためか語幹と「コピュラ様語尾」が、動詞やイ形容詞と違って完全にアマルガム化していない。それでも終止形以外、馬鹿ダロ・馬鹿ダッ/馬鹿デ・馬鹿ナ・馬鹿ナラなどの形は助動詞や名詞など他の要素が後続しないかぎり文を完結することができないためいわば繋ぎの要素としてアマルガムっぽい雰囲気になるからいいが、終止形は別だ。語幹にコピュラを特に付加された形、つまり二つの単語である感がアップする。それで「私は学生だ」のように、実際に二語である名詞+コピュラとの類推が働いて語幹表示になるのではないだろうか。またコピュラにせよ変化語尾にせよ「だ」は疑問文を作る「か」とは共存できない。動詞やイ形容詞なら「こんな本読むか?」「そっちは寒いか?」など、終止形に「か」がつくのにナ形容詞だと「あいつは馬鹿か?」であって、「あいつは馬鹿だか?」は非文である。これはコピュラも同じで「*あいつは学生だか?」とは言えない。そんなこんなでナ形容詞の終止形は動詞やイ形容詞と文法上の振舞いが違うのでいっしょにはできん、ナ形容詞の見出し語は語幹にしようということになったのだろう。一応これが先の「どうしてですか?」への答えである。

 さて上でコピュラとナ形容詞の変化語尾はほぼ同じと言ったのは2点ほど双方が一致しない点があるからだ。一つは用法の連用形の違いである。コピュラもナ形容詞の変化語尾も~デ/~ダッという二つの形があるが(前述のようにこれは別の形とするべきだと私は思っている)、ナ形容詞にはもう一つ~ニという連用形がある。「きれいになる」という文の「きれいに」は「きれい」の連用形だ。これに対してコピュラ、例えば「雨になる」の「雨に」はN+格マーカー(向格)との解釈も可能である。可能であるというよりいわゆる学校文法ではコピュラの連用形としてニを認めていないので、それに従えば名詞の向格(あるいは与格)と解釈せざるを得ない。つまり「きれいに」の「に」は変化語尾、「雨に」の「に」は格マーカーというちょっと不統一な説明になってしまう。やろうと思えばそれを避けるために「雨に」の「に」をコピュラの連用形だと押し通せないこともないが、まあ別にそんな義理もないので格マーカーということで手を打とう。
 さてもう一つの違いは、形容詞の命名の根拠になっているナ形容詞の連体形~ナで、名詞を修飾するときは必ず使われる最も使用頻度の高い形であるが、これに相当するコピュラの連体形~ナは非常に使用範囲が限られていることだ。名詞が別の名詞を修飾する場合は基本両名詞間のシンタクス関係に関わらず属格の「の」が使われる(『152.Noとしか言えない見本』参照)。「きれいな車」を「ドイツの車」と比べてみるとわかるように後者はN1+N2の構造だから属格の「の」が来る。属格マーカーが修飾機能を引き受けてしまうのでコピュラの連体形~ナはほとんど出番がない。ほとんどないがあるはある。被修飾名詞が疑似的に接続詞、英語文法で言う complementizer (例えばthat節の that)の機能を受け持っているときだ。ちょっと見てみよう。まずナ形容詞。

リナックスが案外便利なことを知っていますか?

「こと」というのは品詞的には名詞だから定式通り連体形の~ナになっている。一方「こと」は具体的な指示対象のない抽象的な名詞で、ここでは complementizer のような働きをしているので「名詞が名詞を修飾するときは最初の名詞が属格」と言う基本図式にならない。私の感覚では属格だと「うーん」である。

?? 山田さんが学生のことを知っていますか?
山田さんが学生なことを知っていますか?

言い換えると「である」で言い換えられる場合はコピュラの連体形~ナを使うということだ。もう一つの疑似complementizer の名詞、「の」では属格は「うーん」どころではなく完全にボツだ。

*山田さんが学生のを知っていますか?
山田さんが学生なを知っていますか?

これは名詞の「の」が、元来属格マーカーだったのが後続の名詞の機能を吸収して発生したものであるため(つまりN+の+N → N+の+ø)、「のの」では同じ不変化詞が連続してしまうから盛大にブー音が鳴る。また complementizer っぽくはあっても「の」や「こと」以外の名詞だとこのコピュラの連体形はちょっと使いにくくなる。

??山田さんが学生な事実を知っていますか?
*山田さんが学生の事実を知っていますか?

被修飾名詞の抽象性が薄くなるとコピュラは使えなくなるので、その代わりに動詞を使った「~である」や、疑似でなく本物の complementizer 「と」と動詞「いう」を使った「~という」構造で代用する。「山田さんが学生である事実」「山田さんが学生だという事実」、または両方使った「山田さんが学生であるという事実」などだが、ここで導入された動詞「ある」「いう」は当然終止形でなく連体形だ。
 さてその「と」だが、これは今言ったように文(センテンスでなくクローズのほう)を導くcomplementizer なので、先行する動詞は終止形だ。「学生だという事実」の「だ」はコピュラの、「学生であるという事実」の「ある」は動詞のそれぞれ終止形である。これに対して「学生である事実」の「ある」は連体形だからごっちゃにしてはいけない。私の手元にある日本語教師文法ではこのcomplementizer に先行する動詞、イ・ナ形容詞の形を「普通形」などとワケわかんない名称で呼んでいる。つまり「山田さんは明日来るといいました」の「来る」は普通形、「山田さんは明日来る」の「来る」は辞書形というわけだ。この普通形というのはデス・マス体ではないという意味らしいが、それなら「普通」と言うべきではないのか。語形変化パラダイムの一つとしてそういう形があるわけではないのだから。間接話法の動詞、形容詞、コピュラはパラダイムとしてはあくまで終止形である。
 とにかくどうして日本語教師文法では終止・連体という区別を執拗に避けるのか正直よくわからない。「~ようだ」と「~そうだ」の区別なども、前者は連体形支配、後者は終止形支配とすれば一発でスッキリわかるのに、辞書形、普通形などという言葉で説明したら混乱の極みだ。まずこの二つを使った文をくらべてほしい。「~そうだ」は連用形もとるが(「リナックスは便利そうだ」など)、ここではそっちのほうはひとまず置いておく。

明日は雨が降るようだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利なようだ。
山田さんは学生のようだ。
?山田さんは学生なようだ。

明日は雨が降るそうだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利だそうだ。
山田さんは学生だそうだ。
*山田さんは学生なそうだ。

これを見れば一目瞭然で、「~ようだ」は連体形支配、「~そうだ」は終止形支配なのである(私の言語感覚では「山田さんは学生なようだ」はギリチョンでOKだ)。こんな簡単なことなのに辞書形の普通形のという用語なんかで説明したら余計わかりにくくなる;

「ようだ」に先行するのは辞書形の動詞とイ形容詞、名詞にかかる形のナ形容詞、名詞に「の」をつけたもの。「~そうだ」ではやはり動詞とイ形容詞は辞書形、しかしながらナ形容詞とコピュラは普通形。

終止・連体をパラダイムとして区別すれは以下のような説明になる。どちらがわかりやすいかはまあ趣味の問題ではある:

「ようだ」に先行するのは動詞、形容詞、コピュラとも連体形、「そうだ」は同普通体終止形。ただし前述のようにコピュラの連体形は機能が限られているため「ようだ」に名詞が先行するときは属格マーカーの「の」を使うことが普通。

 実はここまで書いてきたら以前ふと抱いた邪推が復活してしまった(『127.古い奴だとお思いでしょうが…』参照)。日本語教師文法のこういうやり方、形態素や語の厳しい分析を避けて、て形、ない形などと複数の語をいっしょくたにしてあたかも動詞の変化語尾であるかのように提示し、辞書形、普通形、第一グループなどと妙に言語構造の本質を避けるような言い回しを使うのは、学習者がわかりやすいようにではなく教える側が言語の素人(に毛の生えた程度の人)でもできるようにとの配慮なのではないかという我ながらヤな邪推である。いや私だってそんなことは思い出したくなかったが一旦復活した暗雲は簡単には退散してくれない。医者の白衣は患者のためではなくて自分自身を守るためだそうだが方向的にはそれと同じ、こういう文法は素人の講師を学習者のツッコミからプロテクトするためでは?だってそうだろう。子音語幹活用などと本当のことを言ってしまったら、まともな神経の学習者が必ず「買う」「会う」がどうして子音語幹なんですか、「う」という母音語幹じゃないんですかと聞いてくる。そう聞かれたら講師は「買う」が実は kaɸ-u という両唇摩擦音で終わる子音語幹だったのに子音が消失してしまったこと、音そのものは消失しても子音終わりというパラダイム意識は残っていること、だから助動詞ナイがついた形「買わない」では子音 w が現れること、その「買わない」は本来 kaɸ-a-nai であること、それが kaw-a-nai になっているのはɸ の摩擦性が弱まり接近音になったからであることなどを延々と説明しなければいけない。その説明も日本語でやるわけにはいかない、相手は日本語の初心者だから日本語の説など理解できないからだ。少なくとも英語、できれば学習者の母語でこういう面倒な解説をする羽目になるからできれば突っ込んでほしくないというのが本音なのではないだろうか。講師がそういう羽目に陥るのを未然に防ぐべく、第一グル―プなどと言って事実を隠蔽するのでは?どうして第一グループとか第二グル―プとか言うんですかという質問くらいはさすがに誰でも答えられる。そこに属する動詞の数が一番多いからだ。
 それで思い出したが、それこそ素人に毛の生えたような、いやその毛さえ生えていなさそうなヘッポコスラブ語学の私が例によってヘラヘラ日本語を教えていたらコピュラの否定形過去「~ではありませんでした」という形を見た学生がどうしてたかが否定がそんなに長いんですか、それ、一つの形態素なんですか、それ以上分解できないんですかと突っ込んできたことがある。私が一瞬冷や汗をかきながら~デ・ハ・アリ・マセ・ン・デシ・タと分解して(この分解の仕方でいいのか?)一つ一つこれは助動詞の某でこれはトピックマーカーと説明していったら学生はうるさがるどころか、じゃあそのマセというのはマスやマシと同じ語の別変化形ですねと一発で飲み込んだには驚いた。あなたより日本語分析のできない日本人なんてウジャウジャいますがな。
 またある時は開口一番「日本語にはいくつ格があるんですか?」。こういう質問はラテン語など古典印欧語をやったことのある人に多い。この答えも結構長くなる:日本語の格は印欧語のように名詞や冠詞の語形変化で表すんじゃなくて名詞の後ろに不変化詞(日本語文法で格助詞)を付加してマークするんです。なので極端に言えば人によって数え方が違ってくるんです。それでもまあ私が勘定したら13格ありました(『152.Noとしか言えない見本』参照)。
 ゲスの勘繰りがさらにパワーアップするが、そういえば直説教授法とやらも表向きは学習者が当該言語にさらに密接にふれられるようにとの配慮ということだが、実は講師側の労力の軽減が主目的なのではないのか?直説法なら講師のほうは外国語を勉強する必要がないからだ。講師側が学習者のほうに降りていかなくてもいい。自分は外国語ができないくせに人にだけ外国語(日本語)をやらせて、しかもそれをありがたがって貰えるというオイシイメソッドじゃん。とか思ってしまう私はきっと自分があんまり外国語で泣いたから見方がひねくれたのだろう。
 しかし例えば『158.アヒルが一羽二羽三羽』でも述べた数詞の位置だが、これを floating quantifier という言葉を使わずに説明する方法を私は知らない。こんなのを直説法で伝授しろと言われたら私はお手上げだ。 
 とにかく母語を教えるとき何が怖いと言って学習者からの鋭い質問ほど怖いものはない。センスのいい人ほど言語構造についての突っ込んだ質問をしてくる。それに答えられるためにはそれ相当のディスカッションがこなせるくらいに向こうの母語を話せないといけない。それじゃあ講師が困るから学習者の関心を下手に言語構造や文法の方に向けさせないように、つまり目くらましのために実践重視の名目のもとにオウムの調教のような楽しい授業をする。しかし語学の最終目的である「非母語である言語を内在化させる」ためにこの調教メソッドは従来の文法重視の方法より本当にそれほど優れているのだろうか?もちろん昨今はその路線でやらないと客が来ないから私もそれに付き合い、できる限りまじめにやってはいるが、私は何をやっているんだという葛藤は常に感じている。

 さて、連体形と終止形の話に戻るが、これを考えるときいつもラテン語の呼格のことを思い出す。『90.ちょっと、そこの人!』でも書いたようにラテン語は曲用形としての呼格があるが、それは -us で終わる男性名詞の、しかも単数のみである。その他の曲用タイプの名詞、 -us でも複数形では呼格は主格と同形だ。つまり大部分の名詞には曲用形としての呼格を区別しないのである。それでも呼格と主格を分ける。日本語の連体・終止の区別だって似たようなものだ。動詞やイ形容詞、つまり大部分の用言では形の区別がないが、ナ形容詞とコピュラにはある。そして話者のパラダイム意識としてははっきりとこの区別があると思うのだ。

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