アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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 世界中でどんどん使用地域を広げ他の言語を駆逐していっている印欧語だが、話されている地域が過去に大幅に後退したところがある。中央アジアの天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタリム盆地だ。
 現在はこのあたり、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンの南部、中国領の新疆ウイグル自治区は言語が皆テュルク諸語、トルコ語の親戚だ。ロシア国内のタタール語もアゼルバイジャン語もこれである。しかし昔はここら辺はペルシャ帝国やその同盟国の領内で、言語も東イラニアン語派、つまりモロ印欧語だった。「モロ」というのはこのペルシャから中東にかけての言語が現在印欧語の代表者面をしているドイツ語やスペイン語よりむしろ本来の印欧語だからである。いわゆる西域、東トルケスタン(中国領新疆ウイグル自治区)をも含むタリム盆地・タクラマカン砂漠周辺も言語的文化的にはやはり印欧語・アーリア人の生活圏だった。当時の中国の記録では西域の住民のことを「深目・高鼻」と描写してあるそうだ。現在の住人のようなアジア顔とは明確に違っていたのだ。
 つまり中央アジアでは極めて大規模な言語転換、住民の入れ替えが起こっているのである。歴史学者の松田壽男氏はこれを「木に竹を継いだような歴史」と言っているが、転換前、かつて印欧語・アーリア人地域であった名残りは小規模ながら今もそこここに残っていて、中央アジアのタジク語、コーカサスのオセチア語は東イラニアン語派の印欧語だ。オセチア語についてはスキタイ語の末裔だという説を見かけたが、このスキタイ語も結局印欧語。他にタジキスタンで使われているヤグノブ語、新疆ウイグル自治区他で話されているワハン語などの小言語も東イラニアン。テュルク語に駆逐された印欧語が全滅を逃れてわずかに生き残ったのだ。

タクラマカン砂漠という大砂漠があるタリム盆地。ウィキペディアから。
taklamakan

 先史時代のことはひとまず置いておくが、今の東西トルケスタンは遅くとも紀元前550年のアケメネス朝ペルシャの頃は印欧語の地域になっていた。『160.火の三つの形』でも述べたように拝火教のアーリア人だ。その頃サマルカンドやブハラを中心にソグディアナという国(中国語で粟特)があって、のちにペルシャの直轄領になったが、この言語ソグド語ももちろんイラニアン語派の印欧語である。
 その後紀元前334年に例のアレクサンドロス大王が攻め込んで来てアケメネス朝は滅亡、さらにバクトリア地方がギリシャ化し、イラン・ペルシャとインドの間に言語的にクサビが打ち込まれることになった。そのバクトリアの地に紀元前250年ごろギリシャ人が独立王国を建てていたそうだ。高校の世界史で習った、漢の武帝の命令で張騫が派遣された大月氏国というのはこのバクトリアにあったらしい。ただしギリシャ人のバクトリア王国そのものはすでに滅んでいたそうだ。
 さらにこれもやはり紀元前250年ごろ元のアケメネス朝の地にパルティア人がアルサク帝国を建てた。これが中国人の呼ぶ安息である。このパルティア人もイラニアン語派の印欧語を話していたと見られる。最初ヘレニズム文化であったのが、しばらくするうちにそこから離れてペルシャ文化に戻ってしまった。クテシフォンという都市を築いたのもこの国で、これはササン朝ペルシャの首都として引き継がれた。こうして「ペルシャ戻り・イラニアン戻り」をしたササン朝がローマや北のテュルク勢力と拮抗しつつ、3世紀から7世紀まで、つまり中国の唐の時代まで存続する。この言語が中世ペルシャ語だ。アケメネス朝の言葉は古代ペルシャ語(『160.火の三つの形』参照)である。
 このころの中央アジアのタリム盆地のあたりがどんな様子になっていたかについては幸い中国側の資料がたくさん残っている。例えば漢が設立した西域都護府が前60年に行なった報告によるとタリム盆地には多数のオアシス国家が存在していたそうだ。さらに晋の僧法顕(4~5世紀)が『仏国記』で当地の砂漠の凄まじさを描写し、7世紀に完成した北周書異域伝にはそのころの西域のオアシス都市アールシイ(下記)では仏教の他に拝火教も行われていたことが記録されている。7世紀には唐僧玄奘の報告もある。アールシイ(阿耆尼または焉耆、カラシャフルとも呼ばれる)、クチイ(屈支または亀茲)、クスタナ(コータン、瞿薩旦那または于闐)といったオアシス国家の生活文化を描写しているが、その際コータンの言語が他国と異なっていると告げている。また文字はインドの文字を改良したものであると述べている。これは19世紀の終わりから20世紀にかけてスヴェン・ヘディンやオーレル・スタインなどが発掘した遺跡から出てきた死語の資料を解読して得られた結果と一致している:タクラマカン砂漠には3つの言語群があった。中心となるオアシス都市の名をとってアールシイ語、クチイ語、コータン語と名付けることができるが、アールシイとクチイは天山南道、つまりタクラマカン砂漠の北側にある。ところがコータンは崑崙山脈の北、タクラマカン砂漠の南端だ。前の二つは互いに似通った言語だが、コータンは砂漠を隔てていただけあって前者とは明確に違った言葉が話されていた。もっとも上の玄奘のいうコータン語が違っているという「他国」がアールシイなどを指しているとは限らない。玄奘がアールシイ、クチャについて記述しているのは『大唐西域記』の第一巻、コータンについての話は遠く離れた第一二巻だから、コータン語が周りのソグド語か中世ペルシャ語と違っているという意味かもしれないからだ。とにかく現在はアールシイの言語はトカラ語A,クチイはトカラ語Bと呼ばれる。
 トカラ語が印欧語族であることは1907年にはすでに判明していた。ギリシャ語やアルバニア語同様印欧語族の独立した一派で東イラニアン語派のコータン語とは語派が違う。上記の松田教授はアールシイとクチイの言葉を印欧語でイタロ・ケルティックに近い言語としているが、実はこれは間違いではない。現在では否定されているが前は本当にそういう説があったのだ。ギリシャ語やバルト語派・スラブ語派との関係が云々されたこともあった。Adamsという学者は言語の親近度を語彙などで測定して、ゲルマン語派と近いという結果を出している。ケルト語にせよゲルマン語にせよ、つまり言語的には印欧語の北西グループの特徴を示しイラニアン語派とは全く異質ということだ。

 どうしてそんなに離れたところにそんな印欧語があるのか。Adamsはギリシャ語やゲルマン語派との親近性はトカラ語がゲルマン・ギリシャ語とズバリ同系だからではなく、トカラ人が元いた場所から移動してタクラマカン砂漠に至る際、ギリシャ語やゲルマン語と接触し影響を受けたからだとしている。つまりトカラ人はヨーロッパから移住してきた(半)遊牧民ということになる。別の説ではトカラ人はヒッタイト人級に古く印欧祖語から分岐したものだという。ヒッタイト語は印欧語ではなく「印欧祖語の兄弟言語」という見方もあるくらいだから、つまりヒッタイト語、印欧(祖)語、トカラ語がさらに共通の祖語から分かれたという見解だ。
 どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかは考古学の領域に入ってしまうのでここではパスするが、東イラニアン語派が中央アジアに入ってきたときにはすでにトカラ語の話者がそこにいたらしい。トカラ語祖語の時代は紀元前千年以前などという議論も行われているそうだが、発掘されたトカラ語の文書は紀元5世紀から8世紀(別の資料では紀元4世紀から12世紀)ごろの新しいものしかないので実証が難しい。しかしトカラ語の単語を他の、(話されていた時代がわかっている)印欧語と比べて音韻対応を検討すればある程度言語の歴史はわかる。ロマニ語(『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)の成り行きもそうやって言語学的に解明されたのだ。
 このトカラ語がAとBに分かれているのはダテではなく、両者は互いに通じなかったのではないかと思われるほど差があるそうだ。さらにトカラ語Aはアールシイの、Bはクチャで話されていた言語と単純にも行かないらしい。第一にタリム盆地は古くから交易の地で人の移動が激しく、文書が発見されたからと言ってそこの住民がその言語を話していたということにはならない。これは下で述べる敦煌でもそうだ。第二にAが見つかった処ではBも見つかっている上にB文書の数の方がずっと多い。ここからBが実際の話し言語で、Aはその時点ですでに死語、宗教儀式や詩などの限られたコンテクストでのみ使われて日常では用いられていなかったのではないかという疑いも起こる。
 面白いことにトカラ語では印欧祖語より名詞格が増えて10(呼格をいれれば11)の格を区別する。しかしそのパラダイムを見れば、トカラ語では印欧語としてのもとの語形が一旦減少し、しかる後に膠着語的接尾辞を付加して格変化させるやり方が発達したことが見て取れる。ロマニ語(『65.主格と対格は特別扱い』参照)や非印欧語のダゲスタンのアグール語と同じパターンだ。トカラ語をぐるりと囲む膠着タイプの諸言語の影響なのだろうか。ちょっと「馬」という語形変化をみてみよう。

             トカラ語 A                   トカラ語 B
            単数         複数                単数               複数    
主格    yuk            yukañ             yakwe            yakwi
属格    yukes        yukāśśi           yäkwentse     yäkweṃts
斜格    yuk            yukas              yakwe            yakweṃ
具格   yukyo         yukasyo           -----                ------    
通格   yukā           yukasā            yakwesa         yakwentsa
共格   yukaśśäl    yukasaśśäl      yakwempa     yakweṃmpa
向格    yukac        yukasac          yakweś(c)       yakweṃś(c)    
奪格    yukäṣ        yukasäṣ          yakwemeṃ     yakweṃmeṃ
処格    yukaṃ       yukasaṃ         yakwene         yakweṃne
因格    -----            -----                yakweñ            yakweṃñ

トカラ語Bの複数通格は yakwentsa ではなく yakweṃtsa になるはずではないのかと思うが確認できなかった。とにかくAには因格形がなくBには具格がない。またBでは呼格を区別することがある。例えばこの「馬」は yakwa という単数呼格形を持っているそうだ。さらによく見ると印欧語的な「曲用」によって造られるのは主格、属格、斜格の3つだけで、具格以下は斜格形をベースにしてその後ろに接尾辞(太字)をつけるというロマニ語そっくりのパターンで形成されているのが見て取れる。単数を見るとすでに属格でこのパターンを踏襲しているようにも見えるが、Bで「父」の単数主・属・斜格をそれぞれpācer、pātri、pātärといい、立派に語形変化しているのがわかる。この2層になった語形変化をGruppenflexion「グループ活用」というドイツ語で呼んでいる。
 タリム盆地の北クチャやアールシイのトカラ語ABの他に、紀元前から紀元3世紀ごろまで砂漠の南側で栄えたクロライナ王国(中国語で楼蘭)の言語もトカラ語だったのではないかという説がある。紀元前77年に漢に押されて王国としては滅んだが、都市としてはそのあと何百年も存続した。すでに1937年にBurrowという人がその可能性に言及し、その後もこれをトカラ語Cとする学説が時々流れたが実証には至っていない。最近でも2018年にKlaus T. Schmidtがクロライナ語=トカラ語C説を唱えたが、他のトカラ語学者からコテンパンに論破されたそうだ。考古学的にもこの説には無理があるらしく、発掘品から見てクチャとアールシイは同じ文化圏に属していたが、クロライナからの発掘品はそれとは違う、つまりABとC(というものがあれば)では話者の民族が違うらしい。しかし一方完全にC説が否定されたわけではないので、今後の研究待ちということだ。

いわゆるトカラ語Cの存在はまだ実証はされていないので注意。
1920px-Tocharian_languages.svg

 トカラ語ほどは一般人のロマンを掻き立てないが、コータン語やソグド語を無視するわけにはいかない。
 ソグド語は古い形をよく保ち(言語自体が古いので当然か)、特に名詞の変化パラダイムはほとんど保持していた。紀元1~2世紀から文献が残っており(ソグド人の存在自体については紀元前6~4世紀にはすでに記録がある)、敦煌の西でも4世紀に書かれた手紙が残っている。敦煌はさすが漢が紀元前1世紀に建てた都市だけあって発掘された文書は中国語が多いが、中国の重要な関所となってから西域から人や物が集まってきていたので中国語の他、コータン語やクチイ語、ソグド語、サンスクリット、西夏語、チベット語、果てはヘブライ語の文書まで見つかったそうだ。特にソグド商人の隊商活動がさかんだったらしい。敦煌付近には5世紀前後から大規模なソグド人の植民地というか居住地があった。7世紀ごろもソグド人についての中国の記録がたくさん残っているが、非常に利にさとかったそうで上述の松田教授によると玄奘などもずっと西のスイアブのあたりでテュルクの支配を受けていたオアシス群には西方の国からやってきた商人が雑居し、住人は意気地なしで薄情で、詐欺と貪欲の塊であり、親子で銭勘定にあけくれていると書いているとのことだ。敦煌だけでなくそもそもタリム盆地全体に植民地を築いていたので、トルケスタンでも事実上の商業言語はソグド語だったらしい。トルファン周辺にも5世紀前後からソグド人が大勢住んでいたそうだ(下記)。
 そういえば則天武后の下で秘密警察を取り仕切り住民を恐怖に陥れた索元礼という拷問の専門家も「胡人」だった。唐の時代には胡人という言葉はペルシャ人を指していたはずだが、この「ペルシャ人」というのはつまり「イラン系の人」の意味、言い換えるとソグド人もその中に入っていたということはないのだろうか?索元礼もペルシャ人ではなくソグド人だったということは考えられないのだろうか。実際6世紀にアルタイ・テュルク系の阿史那氏に中国(西魏)の使者として使わされてのはブハラの商人だったそうだ。ブハラもソグディアナの都市である。
 ソグド語はソグド文字という独自の文字を持っていた(まれにブラーフミー文字で書かれた文献もある)が、これはアラム文字から造られたのだそうだ。そのソグド文字からさらにウイグル文字が作り出された。中央アジアの大言語だったのだが、11世紀ごろの文献を最後に交易言語としての地位を失っていった。ペルシャ語、アラビア語、テュルク語、中国語に押されてしまったのだ(下記)。上記のヤグノブ語はソグド語の子孫。
 ソグド語同様コータン語(上記)も古い形をよく残しているが、名詞格は6つであった。近くのトムシュクで発見された言語とコータン語をいっしょにしてサカ語と呼ばれることもある。スキタイ人の言語が関連付けられている。上記のワハン語はコータン語の生き残りである。

敦煌で発見されたソグド語の文書。https://sogdians.si.edu/sidebars/sogdian-language/から
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 そうやって唐の時代までタリム盆地は印欧語の世界だった。ソグド語、コータン語、トカラ語などの文献は5世紀ごろまでは多くがカロシュティー文字で、以降はブラーフミー文字で書かれていたし、内容的にも仏教関係の文書が多い。拝火教も行われていたそうだから、要するにインド・イランの文化圏だったのである。
 唐以降この状況がひっくり返る。もともとは天山山脈の裏側のステップ地域にいたアルタイ・テュルク(中国語で突厥)が6世紀半ばに力を伸ばし、タリム盆地を支配しだしたからである。テュルク支配下でも最初は住民そのものはアーリア人であり、少なくとも唐の間はシルクロードは文化的にはイラニアン系だったが、徐々に住民レベルでもテュルク人が優勢になっていった。ただその時点でもテュルクはまだイスラム化してはいなかった。
 イスラムが入ってきたのは西から、イランからである。イラン化されたイスラム勢力のウマイヤ朝、後アッバース朝が西からタリム盆地に来て、そこでテュルク民族とぶつかったとき、イスラム側(=イラン人側)には強力なテュルクと全面的に武力衝突するか、テュルクを懐柔・改宗させて自分たちの仲間にしてしまうかの選択に迫られ、後者を選んだのだ。懐柔したはいいが、11世紀になってからイスラム化してさらに強力になったセルジューク・トルコ(後オスマン・トルコ)が本国のイランの支配権をもぎ取ってしまったのは皮肉なことであった。とにかくタリム盆地を支配したテュルクは最初からイスラム教ではなかった。こんにちの眼で見るとテュルク=イスラムとつい安直に結びつけてしまいがちだが、テュルク化とイスラム化とは分けて考えなければいけないということだろう。ついでに民族と人間そのものも必ずしもイコールではないところが面白い。テュルク民族は本来私たちと同じ顔をしたアジア人である。事実民族の発祥の地に近い中央アジアではテュルク語話者はアジア顔だ。カザフ人、ウイグル人、タタール人など日本人だと言われても通じる。自慢ではないが私も一度カザフ人と間違えられた事がある。ところが現在のトルコの人々は全然アジア顔をしていない。顔貌的にはイランのあたり、まさに中国人から「深目・高鼻」と言われそうな容貌だ。カザフ人と民族的にはごく近いのに、人間そのものは全く異なるのである。
 
 この中央アジアでの人間の入れ替わりのプロセスについてはステップの反対側でも記録に残っている。ロシアであるが、ここは歴史上少なくとも8回は東からやってきた異民族に国土を荒らされた。最初に来たのがスキタイ人で、ギリシャ人の記録に残っている。紀元前7世紀ごろのことだが、上にも書いたようにこのスキタイ人は印欧語系の遊牧民である。2番目に来たサルマティア人というのもおそらく印欧語を話す民族だったと思われる。次がフン族で、紀元5世紀ごろ。このフン族については所説あるが、とにかく言語が印欧語ではなかったことは確実らしく、また「フン族」と一括りにはしがたいほど諸民族混成軍隊だったと思われる。その次、6世紀にアヴァール人というのが来たが、これはテュルク系の言葉を話していたらしい。このアヴァール人は現在コーカサスにいるアヴァール人とは別の人たちとみられる。その後にハザール人(ユダヤ教に改宗したことで有名)、続いてペチェネーグ人、さらに続いてポロヴェツ人がやってきた。11世紀のことである。ロシア文学史上燦然と輝く叙事詩『イーゴリ軍記』はこのポロヴェツ人とロシア人との戦いを描いたものだ。最後にダメ押しで侵攻してきたのが13世紀のモンゴル人だが、支配層はモンゴル人でも実際に兵士として押しかけて来たのはテュルク人であったことは明らかで、それだからこそこれを「タタールのくびき」というのだ。現在ロシアに残っているタタール語、アゼルバイジャン語などは皆テュルク系。またモンゴル帝国の支配者ティムールは全然モンゴル人などではなく、サマルカンドの近く出身のテュルク人である。しかし肖像画から判断するとティムールはアジア顔であり、上でも述べたように現在のトルコ人とは違っている。
 とにかくロシア側から見ても中央アジアのステップの支配民族は最初アーリア人(印欧語属の話者)だったのが、比較的短い期間にテュルクと入れ替わっているのがわかる。

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 ロシア語にлишний человек(余計者)という言葉がある。本来文学用語だが、単なる語学辞書にも載るほど「普通の」言葉になっている。例えば手元の博友社の露和辞典のлишнийの項には「лишние люди:余計者(19世紀のロシア文学の典型的な一群の人物)」とある。лишние люди という形はлишний человекの複数形だ。どういう風に典型的なのか、岩波文庫の旧版ロシア文学案内を見ると「善意と才能を持ちながら、それを国民のために役立てることができずに、なすこともない生活のなかに悩む人々」と定義されている。さらに「彼らは貴族社会のなかでの個人的成功のための、客観的な条件をそなえているが、そのような成功には心をひかれないで、国民のために役立つような生活の道を歩もうとする。しかし彼らは農奴制的専制政治のもとで、この道を見いだすことができない」。またこのタイプの代表的人物とされるプーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』のように、「上流社会の虚飾や偽善にあきはてて、くらい懐疑におちいっている」のも特徴とされる。
 オネーギンの他にタイプの典型例とされるのは、レールモントフの『現代の英雄』の主人公ペチョーリン、トゥルゲーネフの『父と子』のバザーロフ、ゴンチャロフの『オブローモフ』のオブローモフが定番だが、ゲルツェンの『誰の罪か?』のベリトフ、ドストエフスキイの『悪霊』のスタヴローギン、同『罪と罰』のラスコーリニコフ、トルストイの『戦争と平和』のベズーホフなどもよくあげられる。特にドストエフスキイ、トゥルゲーネフは他の作品も余計者の形象で満ち満ちている。スタヴローギンとオブローモフがこのタイプとして同じカテゴリーにくくられている事で、この形象の範囲の広さ、深さがわかる。
 そこでロシア語側の文学事典などを見てみると、だいたい次のように定義・説明されている:

Лишний человек:19世紀の20年代から50年代にかけてのロシア文学の特徴的なタイプ。その主な特徴としてロシアの公的生活や自分が生まれ育った社会層(普通貴族層)から遠ざかっていること、その際教養・知性点でもモラルの点でも自分のほうが周りの者より優れていると思っていることがあげられる。しかし同時に精神的に疲労し、深い懐疑に陥り、言葉と行動が乖離し、社会に対しては受動的な態度をとることになる。Лишний человек(「余計者」)という名称はトゥルゲーネフのДневник лишнего человека『余計者の日記』(1850年)以来広く使われるようになったが、タイプそのものはそれ以前から見られる。

この定義によれば核となるのは19世紀の20年代から50年代ということだが、さらに詳しい説明で「19世紀の後半全般から20世紀の初頭に至るまでこのタイプは広がっている」とあるから、上のドストエフスキイやトルストイの登場人物をこのタイプとして勘定するのは間違いではないわけだ。
 さらにこれに近いタイプはそもそも19世紀初頭の西欧文学、バンジャマン・コンスタンやド・ミュッセの作品に見いだされるそうだ。古い硬直した社会体系が崩れ、自由主義・個人主義が台頭する過程ではどうしても個人とその所属社会との間で齟齬が生じる。この過程は西洋ではある程度時間をかけて成熟したが、ロシアではその変化が急激であったために、西欧より像が鮮明で時期的にも限られた人物像として文学に現れたわけである。当時のロシアの教養人としてフランス文学に精通していたプーシキンはそこで「精神的にはすでに老成している」若者がよく登場することに気付いていたそうだが、この「精神的に早熟」というのも余計者の重要な特徴だろう。
 さらにこじつけて言えば西欧だけでなく、日本文学にも「高等遊民」という人たちが登場し、ある程度の相似性を持っている。なぜ「こじつけて」なのかと言うと、発生のメカニズムが正規の余計者とは全く違うからである。高等遊民は自分と自分の属する社会との齟齬に苦しんでいるのではなく、単に遊離しているだけだ。遊離しているというより「ついていけてない」と言った方がいいかも知れない。彼らが乖離しているのは自分たちが本来属する社会層、ひいては自己そのものではなく「周りの通でない奴ら」だから、その齟齬が自分の存在意義に対する根源的な疑問には繋がらない。疑問や悩みがあるとすれば「俺たちより劣っている周りの奴らに同調しないと生きていけない苦しさ」であって、自分そのものは全然傷ついていない。このいわば上から目線性は自分たちの方を「高等」などと名付ける神経からもわかる。まあ周りについていけない悩みというのも決して浅い苦悩ではなかろうが、余計者の方が苦しみ・自己破壊の度合いはずっと深いだろう。高等遊民と余計者の類似性はあくまで表面上に過ぎないと私は思う。

 さて、その名付け親となったトゥルゲーネフのДневник лишнего человекаはタイトル通り日記形式の短編で、生きるのを止めようと決心した30歳の主人公がその死の二週間前から書き始めた記録である。その3月23日に主人公はなぜ自分自身を「余計者」と呼ぶに至ったか、心境を述べている。Лишний человекの他に сверхштатный человек という言葉も使っているがどちらも「余計な人物」。

自分の事をЛишний человекと名付けた日記の箇所(赤線部)。言葉自体はすでに前日、22日に現れている。
lisnijCelovek

 まず余計者というのは単にその人が居なくなっても世の中は別に困らない人、代わりがいくらでもいる人のことではない。それを言ったら世界のあらゆる人間は「別にその人がいなくても宇宙は立派に廻る」からだ。ところが余計者たる自分はその発生・出現を自然が勘定に入れていなかったので、何もかもが自分を避けて通る、まるでまさか来るとは思わなかった呼ばれざる客のような存在だ。人生常にその調子で自分の場所はいつもすでにふさがっている。多分あるべきところでその場所を探さなかったからかもしれないが、そもそもその場所探しの感覚が完全に欠如している。
 そうやっていつもいつも場所探しが失敗に終わったためか、それとも生まれ持った性格のためか、自分は感情と思考との間にどうしても乗り越えられない障壁があって、それを超えよう、何か外に出そうとすると、顔は引きつり硬直し、態度は不自然になり、苦悩を背負っているような様相を呈してきてしまう。呈するばかりでなく本当に苦しいのだ。何も行動ができない。自分の内部にこもるしかない。これじゃ人が妙に自分を避けるのは当然だ。皆自分に会うと、困ったような顔をして不自然にフレンドリーな挨拶をする。

 日記ではこの主人公がいわば失恋のエピソードを物語るが、それが特に死への引き金になったわけではなく、「常にこの調子」の一つの例として語られる。「いわば」と書いたのはその出来事がそもそも失恋でさえないからだ。
 主人公はさる令嬢に想いを寄せ、最初は令嬢にもその気があると思っているがやがて向こうでは自分のことなど何とも思っていないことが「わかってしまう」。時を同じくして首都からバリバリの若い公爵がやってきて、令嬢は公爵と恋に落ちる。公爵は町中の人気者となり、誰が見てもこの二人は将来結婚するように見えた。特に令嬢の父親が公爵との結婚に乗り気である。収まらない主人公は、公爵を侮辱して決闘することになるが、公爵は自分は頭に怪我を負いながらも主人公に対しては弾を上に向けて発砲し、「こちらは殺す気はない」、つまり道徳的には自分のほうが優れていることを示す。
 人気者の公爵に怪我をさせた主人公は町中の人からつまはじきにされるが、やがて公爵が令嬢に結婚の申し込みも何もせず、突然町を去ってしまうと今度は「首都から来て令嬢をたぶらかした公爵と戦った人」として名誉挽回、出入り禁止を食らっていた令嬢の(両親の)家にも再び招待されるようになる。主人公はここで、令嬢は今度こそ自分の真心が通じるだろうと思って期待しているが、それがまたトンチンカンな誤算で、偶然立ち聞きしてしまうが、令嬢は「いつまでも公爵を愛している。公爵は自分をたぶらかしてなどいない。一度だって結婚を言い出したことなどなかった。自分はそれで十分、公爵の妻になれないことなど最初からわかっていたからだ。今自分が望むのは公爵が都でふさわしい人を見つけ、幸せな家庭を築いてくれること、そして時々は自分の事を思い出してくれること、それだけだ」。さらに「あの〇〇(主人公)が嫌でたまらない。あの人の手は公爵の血で汚れている」。そして令嬢はやはりいつも令嬢家を訪問していた「何もかも知っていてそれでも私を愛してくれた」別の人と結婚してしまう。
 主人公は自問する。自分はいったい何だったのかと。この出来事は仮に自分がいなくても全く同じ結果になったはずだ。それどころか自分がいなければもっとすんなり流れたはずだ。自分はここでも完全に余計者、呼ばれざる客でしかなかったのだ、と。


 次にやはり余計者の例として必ず引き合いに出されるレールモントフの Герой нашего времени『現代の英雄』(1837-1840)の主人公ペチョーリンはこんなことを言っている:
 自分が死んだって世界の損失などには全然ならない。自分のほうだってすでに死ぬほどこの世界に退屈している。まるで舞踏会であくびが出て早く家に帰って寝たいのに、馬車が来ないから仕方なく残っているようなもの。迎えがやっと来ればむしろ万歳だ。
 そもそも自分はなんで生きているのか。何の目的で生まれてきたのか。もともとは何か高い目的が定められていたことはわかっている。そういう強い力を心に感じている。でもその定めがなんなのかどうしてもわからない。行き所を失った激情は結局自分自身を破壊していき、今はとにかく何をやってもただ退屈でたまらない。

 こういう人物は外から見ると冷たく、モラルがなく、高慢に映る。顔は笑ってはいても目が全然笑っていない。だが鋭い観察者が見抜いていうには、「こういう顔をする人は悪人か、大きな苦悩を背負った人かのどちらかだ」。

 この小説は5つの物語から構成されているが、そのうちの一つが日記形式でトゥルゲーネフの『余計者の日記』と内容的にも明らかに並行している。Княжна Мери『公女メリー』という章だ。
 主人公ペチョーリンは友人が公女メリーに恋しているのを見て、いろいろ策を試みて公女が自分を愛するようにしむける。この友人が実は自分を嫌っていることは主人公はもとからお見通して、双方嫌いあいながら友人付き合いをしているのだ。公女もその母親も主人公との結婚が目に入るようになる。収まらないのは友人だ。主人公を侮辱して決闘に持ち込む。友人側はそこで本当に主人公を殺す気はなく足でも撃って怪我をさせる程度にしようと策を弄するのだが(主人公側の銃には弾を込めず、自分にも当たらないように細工する)、それを立ち聞きして知っていた主人公は、怪我をさせられたら怪我で終らないで絶対に自分が死ぬような方法を提案、さらに弾の入っていない自分の銃を改めて充填し本当にどちらかが死ぬか生きるか待ったなし状態にする。主人公はそもそも人生に退屈しているので死ぬことなど怖くもないから平気で堂々と相手の銃の前に立つが、そこまで根性のない相手は主人公に銃を放つことができない。自分を撃つ勇気が無かった相手を主人公は馬鹿にして煽り、向こうが「殺せ」と言うしかない状況に持って行く。そして「殺せ」と言われたから本当に相手を殺す。
 その後、結婚を望む公女には「全然あなたのことなど愛していない。そもそも誰とも結婚なんてしたくない」と本当のことを冷たく言い放って町を去る。
 この主人公は何となく『悪霊』のスタヴローギンを想起させるが、上のトゥルゲーネフの『余計者の日記』では公爵がこれに対応する感じだ。殺される友人がトゥルゲーネフでは主人公である。


 実は私は最初この『現代の英雄』も原語で読もうと思ってツンドクしてあった本を引っ張り出してきていた。が、『余計者の日記』を読みおわった時点でロシア語疲れしてしまい、翻訳に逃げた。その駆け込み先の翻訳は悪い翻訳というのでは全くなかったがちょっと不親切なところがあって、例えばこの作品も当時のロシア文学の例にもれず登場人物が時々フランス語を話すのだがその部分が全く訳されていない。仕方がないから原文に当たった。ロシア語原文でももちろんそこはフランス語で書いてあるが、ページの下に注を加えて意味が訳してあるので、それを見てから訳に戻る。その原文版というのは『151.Роман с кокаином』で取り上げた小説と同じ出版社から出ていたペーパーバック版で、何とprinted in Parisだ。フランス発行の本でフランス語の部分が訳してあるのにドイツ発行だと訳がないのはなぜだ。
 また翻訳ではロシアの特殊な事物を表わす言葉が全く訳されずに音を写し取っただけの外来語になっていることが多かった。例えばTschichir、 Jessaul という言葉が出てくるが、これは何ですか?当然ドイツ語の辞典には載っていない。再び仕方なく原語にあたるとそれぞれчихирь、есаулで、どちらも普通のロシア語辞書にしっかり載っている。前者がkaukasischer Rotwein (コーカサス地方の赤ワイン)、 後者がKosakenrittmeister(コサックの騎兵大尉)である。翻訳論として面白い問題提起だとは思うが、これらをそれぞれ単に「赤ワイン」、「コサック将校」とでもするかせめて括弧にでもいれて注をつけるわけにはいかなかったのだろうか。もっとも用意した原語版が無駄、それこそ余計本にならなかったからかえってよかったのかもしれないが。

「参照」しただけに終った『現代の英雄』の原語版
geroj

フランス語ができないと読めないドイツ語訳の『現代の英雄』
held

 
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 確かタランティーノの『パルプ・フィクション』にこんな内容の会話があった。

A: Are you OK? Say something!
B: Something.

Bをいったのはウマ・サーマンと記憶している。ドイツ語版ではここが

A: Sind sie OK? Sagen Sie etwas!
B: Etwas.

で、監督の意図通りうちでは皆ここで素直に笑ったが、これを日本語で言うと

A: 大丈夫ですか?うんとかすんとか言いなさい。
B: すん。

となり結構使い古されたギャグである。しかし語用論レベルでは同じ機能であっても言語構造そのものはドイツ語あるいは英語と日本語では決定的な違いがある。ドイツ語バージョンを直訳してみるとよくわかる。

A:大丈夫ですか?何か言ってください。
B:何か。

BはAへのリアクションとしては不正確だ。ギャグになっていない。まあその意図を組んで笑ってあげる人もいるだろうが、「うん」と「すん」の場合より笑いだすのが何分の一秒か遅れ、しかも浅くなる。おかしさが本来のものでないからだ。なぜか。
 一言でいうと日本語では指示対象、ド・ソシュールの用語でいうと、シニフィエが普通に当該単語以外の事象かシニフィアンである当該言語そのものが同時にシニフィエであるかを引用符なしでも明確に区別できるからである。例えば

1.何かと言ってください
2.何か言ってください

との違いをドイツ語では表すことができない。だからこそわざと上のように誤解釈させてギャグにすることができるのだ。日本語はこの区別が下手にできてしまうために2と言ったら「何か」という語そのものでなく本当に何か言語外に指示対象のある語を発せよということになり、「アヒル」とか「山」とか「川」とか言わなけれないけない。シニフィアン≠シニフィエだ。逆に1では指示対象がまさに何かという語そのもの、シニフィアン=シニフィエだから、「何か」というしかなく、誤解釈させてギャグにすることができない。そこで「うん」や「すん」のような意味のない、からのシニフィアン(?)を持ち出して「たとえ話」にするしかないのである。言い換えるとドイツ語や英語での笑いは、指示対象を誤解釈したため生じるものだが、日本語ではたとえ話・言葉のあやをマに受けたマヌケさ(まあわざとやっているわけだが)に対する笑いだ。出所がまったく違う。まあ要は笑えればいい、言い換えると発語媒介行為(『118.馬鹿を馬鹿と言って何が悪いという馬鹿』参照)を写し取ればいいわけだ。
 この、シニフィアン≠シニフィエとシニフィアン=シニフィエを引用符を使わずに区別できるというのは日本語のセールスポイントの一つだと思うのだが、日本語の授業などでは割とないがしろにされている。だから学習の進んだ者でも次の区別がつかない。

3.山田さんは嘘をいいました。
4.山田さんは嘘といいました。

4では山田さん自身は嘘を言っていない。他の人の発言が嘘だと判断したのである。もちろん山田さん本人が昔やった自分の発言を「あれは嘘だよ」と白状した場合にも使えるが、当該発言が嘘であるか否かということは命題の内容そのものには入っていない。ここで4に

山田さんは嘘だといいました。

と、コピュラの助動詞を添加すれば学習者はよくわかるようになるが、そうなると今度は勢い余って3の方にも「だ」をつけて

山田さんは嘘だをいいました。

とか言い出す。要するに指示対象のレベルの違いが呑み込めていないのである。もしかしたら「山田さんは嘘だといいました」は

Herr Yamada sagte, dass es eine Lüge war.

「山田さんは嘘だをいいました」は

Herr Yamada sagte, es sei eine Lüge.

で、要するに意味内容は同じだと思っているのかもしれない。同じじゃないっての。

 これは決して些末な問題ではない。信じたくない話を聞かされ、必死の懇願で

どうか嘘と言ってくれ

と言うかわりに

どうか嘘を言ってくれ

などと言ったら頭を疑われかねない。また

馬鹿を言うな

でなく

馬鹿というな

と言ったりしたら帰ってくる返事は「別にお前のことを馬鹿だなんて言ってないだろ」とかであろう。相手のキョトンとした顔が見えるようだ。
 面白いことにシニフィアンとシニフィエが別のものであれば、そのどちらもが単語、つまり言語外に指示対象がなくても対格の「を」が使える。例えば冒頭のセリフを描写する場合、私の感覚では

5.Somethingを言ったのはウマ・サーマンだ。
6.Somethingと言ったのはウマ・サーマンだ。

のどちらもOKだ。6がOKなのは当然だが、どうして5が可能なのか。これは今私がここで述べているSomething(シニフィアン)が映画でサーマンが過去に言ったSomethingを指している、言い換えると映画の中の発言がシニフィエと解釈できる、つまり厳密にいうとシニフィアンとシニフィエが一致しないからである。日本語の本文のなかに英単語が組み入れられていることによってそのことが強調されている。これがもし下手に翻訳して

何かをいったのはサーマンだ。

と言ってしまうと、サーマンがうんとかすんとか言った、つまり「何か」とは言わなかったという解釈しかできない。またこれを強調文でなく普通の文にして

サーマンがSomethingをいった。

とすると5と違って「うんとかすんとか」という解釈以外はしにくくなる。シニフィアンもシニフィエも言語である場合not equal解釈に持って行くのは不可能ではないが難しいテクがいるようだ。

 さてこの不変化詞「と」だが、ここの「と」が共格Komitativの「と」(『152.Noとしか言えない見本』参照)や並列の「と」、さらに「銀行は右に曲がるとすぐ前にあります」のような接続助詞とは異なる語であることは明らかだ。上でもちょっと暗示したように機能的に英語のthat やドイツ語の dass に近い。

山田さんが高橋さんはマヌケだといいました。
Mr. Yamada said that Mr. Takahashi was an idiot.
Herr Yamada sagte, dass Herr Takahashi ein Idiot war.

ドイツ語の文法だと dass は接続詞 Konjunktionに分類されている。確かに用法が「と」より広く、

Er ist dermaßen blöd, dass er nicht einmal seinen eigenen Namen kennt.
(He ist so stupid that he does not know even his own name.)

というような構造にも使えるからKonjunktion なのだが、ちょっともの足りない。英文法ではthat や dass をComplementizer と呼ぶがこっちの方が適切ではないだろうか。私も「と」は日本語の Complementizer だよと説明している。ただ日本語のComplementizerは中身が文でなくても使えると注はつける。つまりドイツ語では

Er sagte, dass es eine Lüge war.
He said that it was a lie.

とdass の後に文が来ないといけないが、日本語だとここで

*Er sagte dass eine Lüge.
*He said that a lie.

というドイツ語では許されない構造が可であると。
 もっとも今調べたらドイツ語の ob(英語のwhether )もComplementizer 扱いされている。そこから考えると日本語の「お前がマヌケ(どうか)俺が知っているさ」の「か」もComplementizer かなと考えてしまいそうになるが、「か」はあくまで「質問文マーカー」であってCompとは言えまい。第一にここでの「お前がマヌケ(どうか)」はシニフィアン≠シニフィエ、つまり文は言語外の命題そのものを指示しているし、第二にマヌケ文そのもの、つまりシニフィエが指示対象になる場合は「と」がつく。

山田さんがお前はマヌケか聞いていました。

「と」を抜いた形は本当は引用符付きの別構造だろう(下記15参照)

山田さんが「お前はマヌケか」聞いていました。

もちろん普通の叙述文と違って「か」がつくと「と」が省略されうる、ということは心にとめておかねばいけないだろうが。

 さてこのComplementizer 君だが、格表現を取らない。上の例4、「山田さんは嘘といいました」の「嘘」は「言う」という他動詞の直接目的語だから対格のはずだが、表層では表現されない。格表現してしまうと非文になる。

*山田さんは嘘とをいいました。

さらに7でもComp氏は対格、8では主格である。

7.山田さんが禁煙といっていた。
8.ここに禁煙とある。

これらをそれぞれシニフィアン≠シニフィエの「普通の」構造と比べてみると格構造がはっきりする。

9.禁煙を守れ
10.禁煙が決まりだ

9の「守る」は10の「言う」と同じく他動詞、10はコピュラ文、8の「ある」
は自動詞だから「禁煙」はどちらも主語で主格である。
 この「主格と対格を表現するとNG」という現象は次のように主題表現の際も見られるが(『65.主格と対格は特別扱い』参照)、上の2のようなもともとの疑問代名詞に「か」をつけて作る「何か」「誰か」のような表現もそうで、主格と対格は表さない。

誰か来ましたか?
誰か見ましたか?
何かたべましょう。
何かありますか?
何処か開いてますか?

これらの「~か」構造に格表現を持ち込むと明らかに許容度が減る。少なくとも有標表現にはなる。

誰かが来ましたか?
誰かを見ましたか?
何かをたべましょう。
何かがありますか?
何処かが開いてますか?

「誰かがきっと待っていてくれる」「何かを求めて」など「~か」主・対マーカーをつけた表現は歌の歌詞とか「失われし時を求めて」のような書き言葉的な言い方で、口語としては有標だ。それぞれ「あそこに誰かいますよ。」と「あそこに誰かいますよ。」、「何かお探しですか」と「何かお探しですか」を比べてみると、どちらが自然な日常生活表現か考えてみるとわかる。
 主格・対格以外ではこれもまた『65.主格と対格は特別扱い』で見たように有標性をあげることなく(?)格マーカーがつけられる。

11.誰かこのことを話しませんでしたか。
12.その時誰か会いませんでしたか。
13.その時誰か見かけませんでしたか。

比較のために文のパターンをそろえてみたが、私の感覚では13だけ格マーカーがないのとあるのとで明らかに有標性に違いがある。

 これに対してCompの「と」はいかなる格マーカーも許さない。さらに主格対格以外の解釈を許さない。シニフィアン=シニフィエが主・対以外の格になる場合は引用符がいる。

14.この文章は嘘でいっぱい。
15.この文章は「嘘」でいっぱい。
16.*この文章は嘘とでいっぱい。

14はこの文章はフェイクまみれということだが、15はこの文章にはやたらと嘘と書いてあるという意味である。引用符が不可欠で、「と」で嘘という言葉自体を表すことができない。

 日本語でも語の指示対象とシニフィアンとしての語そのものの区別が常に引用符なしでできるわけではないようだ。さらに言語の構造云々でなく言葉の指示対象あるいは言葉で表される命題と言葉そのものを区別できないというのがいる。例えば以前私は話者の視点が文の構造にどのように反映されるかを調べようとして次のような文が許容できるかどうか何人か人に聞いてみたことがある。

太郎の奥さんが自分の夫に殴られた。

私が期待していたのは「最初に太郎の奥さんと言っておきながら同じ文で太郎を自分の夫などと表現するのはおかしい。論理的におかしいからボツ」というような答えだった。実際大部分の人はその方向の答えをしてくれたが、一部「自分の妻を殴るなんて許せないからボツ」というレベルの議論を持ち出す人がいて困ってしまった。なぜ困ったかというとそこでさらに「こんな不道徳なことを言うなんて」と説教までされたからである。私は文(の論理構造)が許容できるかどうか聞いただけでその文が表す事象が許容できるかどうか聞いたのではない。

 とにかくたかがSay something如きのセンテンスでも実に様々な事象が絡みあっているものだ。

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(URL設定を https に変えたらフェイスブックやブックマークのカウントが全部ゼロになってしまいました(涙)。うえーん、細々とあったのに~)

 これまでに何度か口にしたダイグロシアという言葉だが、これは1959年に社会言語学者のチャールズ・ファーガソンCharles A. Fergusonがその名もズバリDiglossiaという論文で提唱してから広まった。ダイグロシアという言葉そのものはファーガソンの発明ではないが、学術用語としてこれを定着させたのである。時期的にチョムスキーのSyntactic Structuresが出たころと重なっているのがおもしろい。生成文法のような派手さはなかったがダイグロシアのほうもいわゆる思想の多産性があり、60年代から90年代に至るまで相当流行した。
 事の発端はアラビア語圏、ハイチ、現代のギリシャ、ドイツ語圏スイスの言語状況である。これらの地域では書き言葉と話し言葉が著しく乖離していて、文体の差というより異なる二つの言語とみなせることにファーガソンは気づいた。書き言葉と話し言葉というより書き言語と話し言語である。アラビア語圏での書き言葉は古典アラビア語から来たフスハーで『53.アラビア語の宝石』『137.マルタの墓』でも述べたように実際に話されているアラビア語とは発音から文法から語彙からすべて違い、とても同じ言語とは言えない。ハイチでは書かれる言葉はフランス語だが、話しているのはフランス語クレオールでフランス語とは全く違う。ギリシャも実際にギリシャ人が言っているのを聞いたことがあるが、「古典ギリシャ語?ありゃあ完全に外国語だよ」。しかしその「完全に外国語」で書く伝統が長かったため今でもその外国語を放棄してすんなり口語を文章語にすることが出来ず、実際に会話に使われているバージョン、デモティキDimotiki(δημοτική)と古典ギリシャ語の系統を引く文章語カサレヴサKatharevousa(Καθαρεύουσα)を併用している。デモティキは1976年に公用語化されたが、いまだに文章語としての機能は完全に果たせていない。アラビア語と似た状態だ。なお念のため強調しておくが上でフスハーを「古典アラビア語から来た」、カサレヴサを「古典ギリシャ語の系統を引く」とまどろっこくしく書いたのは、どちらも古典語をもとにしてはいるがいろいろ改良が加えられたり変化を受けたりしていて完全に古典言語とイコールではないからである。ある意味人工的な言語で、話す言葉と著しく乖離しているという点が共通している。スイスのドイツ語も有名でドイツではたいていスイス人の発言には字幕がでる(『106.字幕の刑』参照)。話されると理解できないが書かれているのは標準ドイツ語だから下手をするとドイツ人はスイス旅行の際筆談に頼らなければならないことになる。もっともスイス人の方は標準ドイツ語が理解できるのでドイツ人が発した質問はわかる。しかしそれに対してスイス・ドイツ語で答えるのでドイツ人に通じないわけだ。最近は話す方も標準ドイツ語でできるスイス人が大半だからまさか筆談などしなくてもいいだろうが、スイス人同士の会話はさすがのドイツ人にもついていくのがキツイのではないだろうか。
 これらの言語状況をファーガソンはダイグロシアと名付けた。ダイグロシア内での二つの言語バリアントはLバリアント、Hバリアントと名付けられたがこれは本来それぞれLowと Highを意味し、Lは日常生活で口にされている言葉、Hがいわゆる文章語である。しかしLow、Highという言い回しは価値観を想起させるということで単にLバリアント、Hバリアントと起源をぼかす表現が使われるようになった。チョムスキーのD構造、S構造もそうで、本来のDeep structure、Surface structureという語は誤解を招くというワケで頭だけ取ってDとSになったのである。

ダイグロシア論争の発端となった1959年のファーガソンの論文から。ドイツ語圏スイス、アラビア語圏、ハイチ、ギリシャが例としてあげられている。
ferguson1

 ただ、この言いだしっぺ論文がトゥルベツコイのВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)にも似てどちらかというとエッセイに近い論文で、何をもってダイグロシアとなすかということがあまりきちんと定義されていなかったため、後にこの観念がいろいろ拡大解釈されたり誤解釈されたりしてダイグロシアという言葉自体がインフレーションを起こしてしまった感がある(後述)。なので話を進める前にちょっと私なりにファーガソンの言わんとした処を整理してみる。
 まず、書き言葉と話し言葉の乖離が典型的なダイグロシアだからと言って単純にHは文語、Lは口語と定義することはできない。Hバリアントが書かれることなく延々と口伝えで継承されることがあるからである。宗教などの儀式語がそうだが、誰もその言語を日常生活で使っていないから事実上母語者のいない外国語で、二次的にきちんと教えてもらわないと意味が分からない。重要なのはHとLがそれぞれどういう領域で使われているかということ自体でなく、その使用領域がkomplementäre Distribution相補分布をなしているということだ。どういうことかというと、Hが使用される場面では絶対にLが使われることがなく、逆にLを使う場面ではHは使われない。HとL,この二つが双方あって初めて一つの言語としての機能を果たすのである。例えばHが書き言葉として機能している場合、正式文書や文学などを口語で著すことがない。また日常生活では当然口語で生活し、誰も書き言葉で話したりしない。宗教儀式にHが使われている社会では、そのHを一部の人しかわからない状態で使い続け、普通にしゃべっている口語に置き換えたりは絶対しない。これがバイリンガルの言語共同体とは決定的に違う点である。バイリンガルは違う。バイリンガルでは言語Aで話して書いた後、言語Bに転換してそこでまた話したり書いたりする、つまりAもBもそれぞれ言語としての機能を全て満たしているのだ。
 この相補分布のためダイグロシアは非常に安定した言語状態で、1000年くらいは平気で持続する。それに対してバイリンガルは『154.そして誰もいなくなった』で述べたように不安定な状態でどちらかの言語が一方を駆逐してしまう危険性が常にある。さらにその相補分布のためその言語共同体内の人はHとLが実は別言語であるということに気付かない。別の言語だという感覚がないからHをLに、あるいはLをHに翻訳しようという発想が起こらない。このこともダイグロシアの安定性を強化している。
 さて、HとLの言語的関係についてはファーガソン自身は明確には述べていないが、挙げている例を見ても氏がHとLは親族関係にある言語であることが基本と考えていたことがわかる。フランス語⇔仏語クレオール、スイス・ドイツ語⇔本国ドイツ語、フスハー⇔口語アラビア語、カサレヴサ⇔デモティキと双方の言語が親戚関係にある例ばかりである。後者の二つは通時的な親戚、前者は共時的な親戚だ。この、HとLが下手に似ているというのもまた「別言語性」に気付かない要因の一つになっている。

 ここまで来れば皆思い当たるだろう。そう、言文一致以前の日本語もダイグロシア状態であったと私は思っている。本にもそう書いておいた(またまたどさくさに紛れて自己宣伝してすみません)。言文一致でそのダイグロシアが崩壊しH(文語)の機能をL(口語)が吸収した、というのが大筋だと思っているが、細かい部分でいろいろ検討すべき部分がある。
 まず口語と文語は明治になるまで本当に相補分布をなしていたのか、言い換えると日本は本当にダイグロシア状態であったのかということだ。というのは特に江戸期、さらにそれ以前にも口語で書かれた文章があったからである。江戸期の文学など登場人物の会話などモロに当時の話し言葉で表わされてそれが貴重な資料となっていることも多い。ではそれを持って文語と口語の使用領域が完全に被っていたと言えるのだろうか。私の考えはNoである。例えば会話が口語で書いてある式亭三馬や十返舎一九の作品を見てみるといい。会話部分は口語だが、地のテキストは文語である。言い換えるとそれらは口語「で」書かれていたのではなく口語「を」書いたのだ。実はこのパターンは明治時代に言文一致でドタバタしている時にも頻繁に見られる。地と会話部分のパターンは理論的に1.地が口語・会話が口語、2.地が文語・会話が文語、3、地が文語・会話が口語、4、地が口語・会話が文語の4通りが考えられるが、初期は2や3のパターンが専らで、1が登場するのは時期的にも遅く、数の上でも少ない。もちろん私の調べた文章などほんの少しだが、その少しの中でも4のパターンは皆無だった。文語と口語は機能的に同等ではない、相補分布をなしていたといっていいと私は思っている。
 次に言文一致以前の日本をダイグロシア社会と見なしているのは別に私だけではない、割といろいろな人がそう言っているのだが、海外の研究者に「中国語と日本語のダイグロシア状態であった」と言っている人を見かけたことがある。全く系統の違う2言語によるダイグロシアという見解自体はファーガソン以後広く認められるようになったので(下記参照)いいのだが、日本の言語社会を「中国語とのダイグロシア」などと言い出すのは文字に引っ張られた誤解と言わざるを得ない。漢文が日本では日本語で読まれている、つまり漢文は日本語であるという事実を知らなかったか理解できなかったのかもしれない。山青花欲然 は「やまあおくしてはなもえんとほっす」である。誰もshān・qīng・huā・yù・ránとか「さんせいかよくぜん」などとは読まない。日本をダイグロシアというのなら現在のフスハー対アラビア語に似て、あくまでに文語と文語の対立である。
 さて、上でも述べたがHの特徴の一つに「人工性」というのがある。二次的に構築された言語、当該言語共同体内でそれを母語としてしゃべっている人がいないいわば架空の言語なのだ。もちろん人工と言ってもいわゆる人工言語(『92.君子エスペラントに近寄らず』参照)というのとは全く違い、あくまで自然言語を二次的に加工したものである。母語者がいないというのも当該言語共同体内での話であって、ドイツ語標準語は隣国ドイツでは皆(でもないが)母語としてしゃべっているし、日本語の文語だって当時は実際に話されていた形をもとにしている。この人工性は「規範性」と分かちがたく結びついていて、ダイグロシアを崩壊させるにはLがこの架空性や特に「規範性」をも担えるようにならなければいけない。これが実は言文一致のまさにネックで、運動推進者の当事者までがよく言っているように具体性の強い口語を単に書いただけ、「話すままに書いただけ」ではそういう機能を得ることができない。Lの構造の枠内でそういう(書き言葉っぽい)文体や規範を設けないといけないのだ。相当キツイ作業である。そもそも「構造の枠内で」と言うが、まずその構造を分析して文法を制定したり語彙をある程度法典化しなければいけない。CodifyされているのはHだけだからである。
 書き言葉的言い回し、日本語では特に書き言葉的な終止形を何もないところから作り出すわけには行かない。そんなことをしたら「Lの構造の枠内」ではなくなってしまうからである。法典化されないままそこここに存在していたLの言い回しの中から適当なものを選び出すしかない。ロシア語の口語を文学言語に格上げしたプーシキンもいろいろなロシア語の方言的言い回し、文法表現、語彙などを選び出してそれを磨き上げたし、日本の言文一致でもそれをやった。例えば口語の書き言葉的語尾「~である」であるが(ダジャレを言ったつもりはない)、~であるという言い方自体は既に江戸時代から存在していた。オランダ語辞典ドゥーフ・ハルマでオランダ語の例文を訳すのに使われている。他の口語語尾「です」「だ」は江戸文学の会話部分で頻繁に現れる。これらの表現に新しい機能を持たせ、新しい使用領域を定めていわば文章語に格上げする、言い換えるとL言語の体系内での機能構成を再構築するわけで、よく言われているように、単に話すように書けばいいというものではない。
 面白いことに口語による文章語構築には二葉亭四迷のロシア語からの翻訳は大きな貢献をしたし、文語でなく「である」という文末形を使い、さらに時々長崎方言なども駆使して、後に口語が文章語になり得るきっかけを開いたドゥーフ・ハルマも通時たちによるオランダ語からの翻訳である。どちらも外国語との接触が一枚絡んでいる。さらに馬場辰猪による最初の口語文法は英語で書いてあった。まあ外国人向けだったから英語で書いたのだろうが、文法書のような硬い学術文体は19世紀中葉の当時はまだ口語では書けなかったのではないだろうか。だからと言ってじゃあ文語でというのも言文一致の立場が許さない。外国語で書くのが実は一番楽だったのかもしれない。

 話をファーガソンに戻すが、この論文のあと、ジョシュア・フィッシュマンJoshua A. Fishmanなどがダイグロシアの観念を、全く系統の違う2言語を使う言語共同体にも応用した。例えばボリビアのスペイン語・グアラニ語がダイグロシアをなしているという。さらに社会言語学者のハインツ・クロスHeinz Klossは系統の同じ言語によるダイグロシアを「内ダイグロシア」、系統の異なる言語によるダイグロシア(スペイン語・グアラニ語など)を「外ダイグロシア」と名付けた(『137.マルタの墓』参照)。
 もう一人ボリス・ウスペンスキーБорис А. Успенскийというロシア語学者が横っちょから出てきて(失礼)、HとLとの関係はバイリンガルでのような等価対立äquipolente Oppositionではなくて欠如的対立privative Oppositionとし(『128.敵の敵は友だちか』参照)、Hを有標、Lを無標バリアントとした。ウスペンスキーはプーシキン以前、古い時代のロシア語の言語共同体がロシア語(東スラブ語)と教会スラブ語(南スラブ語)のダイグロシアであったと主張したのだが、その際双方の言語の「欠如的対立性」を主張している。いかにもトゥルベツコイからヤコブソンにかけてのロシアの構造主義の香りがして面白い。またウスペンスキーはファーガソンの考えをむしろ忠実に踏襲し、あまり理論枠を広げたりはしていない。ただ氏の「ロシア語・教会スラブ語ダイグロシア説」にはいろいろ批判もあるようだ。

ウスペンスキーの著書(のコピー)。ダイグロシアを有標のH、無標のLによる欠如的対立と見なしている。黄色いマーカーは当時私が引いたもの。
uspensky


 考えてみれば中世以前のヨーロッパもラテン語と各地の言語とのダイグロシア、少なくともそれに近い状態だったのではないだろうか。特にスペイン以外のロマンス語圏では「内ダイグロシア」だったろう(スペインを除外したのは当地では中世以前はフスハーも書き言語だったはずだからである。そうなると「外ダイグロシア」だ)。その後各々の民族言語が法典化され文法も整備されてラテン語は書き言語としての機能をそれらに譲ってしまった上、元々母語者のいない言語で普通の会話には用いられていなかったから現在ラテン語を読み書き(「書き」のほうは完全に稀)できるのは、単位とりに汲々としている高校生か、仕事でラテン語が必要な人たちだけだろう。そういえばちょっとダイグロシアから話はズレるが、昔テレビで『コンバット』というシリーズがあった。そこでこういうシーンがあった。米兵がヨーロッパでフランス人だったかドイツ人だったか(フランス人とドイツ人では立場が全然違うじゃないか。どっちなんだ)を捕虜にしたが、米兵はドイツ語もフランス語もできない、捕虜の方は英語ができない。困っていたがそのうち米兵の一人が捕虜と会話を始め、そばに立っていた米兵の一人が「なんだなんだ、こりゃ何語だ?!」と驚いたのを見て、もう一人の米軍兵士がボソッと「ラテン語だ」とその米兵に教えてやっていた。話しかけた米兵も捕虜も神学を勉強していたのである。ラテン語、少なくともそれがラテン語であると知っていた兵士の顔に浮かんだ尊敬の念と、ラテン語の何たるかさえ知らない兵士の無教養そうな表情が対照的だったので覚えている。H言語独特の高尚感がよく現れている。この「高尚性」もHの特徴としてファーガソンは重視している。

 再び話を戻して、とにかく論文の中でダイグロシアという用語を持ち出せば専門的なアプローチっぽくなった感があるが(私もやってしまいました)、私が追った限りでは「この言語社会はダイグロシアと言えるか言えないか」という部分に議論のエネルギーの相当部が行ってしまっていたようだ。あるいは当該言語共同体がどのようなダイグロシアになっているか描写する。しかし上述のようにダイグロシアという観念自体があまり明確に定義されておらず、各自拡大解釈が可能なのだから、「この言語共同体はダイグロシアである」と結論してみたところであまり新しい発見はないのではないだろうか。下手をするとダイグロシアでない言語社会の方が珍しいことにもなりかねないからだ。もっともバイリンガルとの明確な違いなどもあるので、ダイグロシアという用語自体を放棄することはできまい。
 だんだん議論が白熱、あるいは議論の収集が着かなくなってきたのでファーガソン本人が1991年にまたDiglossia revisitedという論文を発表して用語や観念の再考を促した。

ファーガソンの第二弾の論文のコピーもいまだに持っている。
ferguson2

 実は私はダイグロシアで一番スリルがあるのはその崩壊過程だと思っている。長い間安定し持続してきたダイグロシアが崩壊するきっかけは何か?外国語との接触自体は崩壊の直接のきっかけにはならない。他に政治的、歴史的な要因も大きい。そしてダイグロシアは一旦崩壊し始めると一気に行く。何百年も続いてきた日本のダイグロシアは明治のたかが数十年の間に崩壊してしまった。それ以前、江戸の文学など私は活字にしてもらっても(変体仮名、合略仮名など論外)読みづらくて全然楽しめない。それが明治時代から文学が突然読めるようになる。ロシアでも「プーシキンから突然文学が読めるようになる」と誰かが言っていたのを見たことがある。そのプーシキン以後、例えばトゥルゲーネフなどの原語のほうが十返舎一九なんかより私はよっぽどよくわかる。隣でドイツ人が17世紀の古典文学なんかを「ちょっと古臭いドイツ語だな。綴りも変だし」とか文句をいいつつもスコンスコン読んでいるのとはエライ違いだ。日本人が普通にスコンスコン読めるのはやはり20世紀初頭の文学からではないだろうか。

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 昔ソ連という国があったころ、こういうジョークを聞いたことがある。

フルシチョフ(なんて知っている人はもう少数派だろうなあ…)が中国を訪問して党大会か何かで演説を行った。まず氏が30分ほどロシア語で演説した後、通訳氏が立ってきてそれを中国語に言い換えた。たった一言。
「チン」(とフルシチョフには聞こえたのである)
割れるような拍手。フルシチョフ氏はロシア語だと30分かかる内容が中国語では一言でいい表せることに驚愕しながらも拍手に気をよくして続きの演説を行った。1時間ほどかかった。通訳氏がまた出てきて訳す。また一言。
「チン・ワン」
怒涛のような拍手。驚きを隠してフルシチョフはさらに二時間ほど話し続け、演説を締めくくった。通訳氏。
「チン・ワン・ラ」
会場が崩れるような拍手。フルシチョフは気をよくしながらも中国語が伝達できる情報量に驚いて、後のパーティー会場でそのことを別の中国人に告げた。するとその中国人が教えてくれた。
「いや、最初の「チン」は「たわごとだ」、次の「チン・ワン」は「ひどいたわごとだ」、最後の「チン・ワン・ラ」は「ひどいたわごとが終わった」と言ったんでさぁ」

私の聞いたのは「フルシチョフが」というバージョンだったが、これのスターリン・バージョンというのは成り立たないと思う。怖すぎるからだ。「フルシチョフが」なら笑えるが「スターリンが」だとその場で通訳から聴衆から大虐殺されたというオチになりそうでそれこそオチオチ聞いていられない。でもさらに考えてみるとたわごとだと言われても割れるような拍手をしなければならない、いや自動的に割れるような拍手をしてしまう聴衆の態度のほうもそれはそれでちょっと怖い。
 
 これはジョークだから本当に「チン」が30分ぶんのロシア語の情報量に匹敵したわけではないが、それほど極端でなくてもある言語では延々と単語を連ねなければ表現できない意味が別の言語では一言で済んでしまう、ということはよくある。『149.ピアスのない鼻』でも出したネズ・パース語の例だが、ʔiná:tapalayksaqa という一つの単語が日本語では「私はしゃべっているうちに自分の話していることが正しいのかどうかわからなくなってしまった」という意味になる。すごい情報量だが、いわゆる包括タイプの言語には似た例が多くていちいち感心する。包括語というより包括語的な言語といったほうがいいだろうがアイヌ語の動詞も凄い。金田一京助氏と知里真志保氏は次のような例を挙げている。
 まずshi-ram-sui-paという単語だが、shi-は「自身」、ram-は「心」、sui-paは「何回となく揺り動かす」という意味の形態素で、語全体の意味は「とつおいつ思いめぐらす」。これを起点としてさらに形態素を追加することができて、例えばyai-(「自身」)と追加してyai-ko-shi-ram-sui-pa となると「自らとつおいつ思いめぐらす」。ko-というのは日本語の助詞、英語の前置詞のような働きをする形態素(金田一氏は指相接頭辞と名付けている)で、「~とともに」「~をもって」「~によって」「~について」といったような意味で、それがここでは「自身」にかかってyai-ko-となり、「自分自身に対して→自ら」。ここでは「自身」も動詞内にあるからまだわかりやすいが、「~について」の内容が動詞の外にある場合でもこの ko-自体は動詞から出ていかない。日本語の格助詞や英語・ドイツ語の前置詞と大きく違う点だ。たとえば「そのことについてあなたが私に嘘をいう」は neampe  e-i-ko-sunke で、 neampe が「そのこと」である。しかし「~について」のほうはしっかり動詞の中に組み込まれている(太字)。また目的語が動詞の前に来ていることがわかる。それにしてもこれでPPなどという構造を設定できるのか心配だが、まあ余計なお世話だろうから「とつおいつ」の例に戻ると、「私がいろいろなことについてとつおいつ思いめぐらす」もusa-orushpe  a-e-yai-ko-shi-ram-sui-paと2語になってusa-orushpeが「いろいろなこと」である。ただ ko-がすでにyai-でふさがっているためか、「~について」を表す別の指相接頭辞 e-がさらに動詞に抱合されて(太字下線)usa-orushpeを受けている。またここで動詞の語頭に立つ形態素 a-は主語が一人称、つまり「私」であることを示している。上の「嘘を言う」e-i-ko-sunke ではこの部分が e-となっているが(太字)、これは主語が二人称だという印である。次の i-は目的語(いわゆる対格でない間接目的語も含む)が一人称であるというマーカーだ(下線)。例えば a-e-kore は a-が主語が一人称、e-目的語が二人称ということになるから、「私があなたに与える」、これが e-i-kore となると e-で「主語は二人称」、i-で「目的語が一人称」、つまり「あなたが私に与える」である。二人称は主語・目的語のマーキング時に位置を変えるだけで形そのものは変わらないが、一人称のほうは位置だけでなく形も変わっていることがわかる。3人称はゼロマーキングになるそうで、「私が彼に与える」は a-kore、「彼が私に与える」は i-kore。二人称が形の区別がないから「あなたが彼に与える」も「彼があなたに与える」もe-kore。念のため繰り返すが、これらはあくまで「動詞の活用」であって人称代名詞は他にちゃんと存在する。
 日本人がこういう動詞活用を見ると驚くが、ひょっとすると日本語の動詞形をドイツ語・英語の母語者から見るとこんな感じに見えるかもしれない。例えばドイツ語では種々の法や文のタイプの違いなどは本来独立単語の動詞を助動詞としてつけたり語順を変えたりして表すが、日本語だと自立性の極端に低い助動詞だろ助詞を動詞の後ろにベチャベチャくっつけるから動詞そのものが膨れ上がっているように見えるだろう。実際外国人向けの日本語の教科書などは助詞や助動詞をひっくるめて「動詞形」として説明されることが多い。

Er möchte arbeiten. He wants to work.
(彼は)働きたい。
Er möchte nicht arbeiten. He does not want to work.
(彼は)働きたくない。
Er wollte arbeiten. He wanted to work.
(彼は)働きたかった。
Er wollte nicht arbeiten. He didʼnt want to work.
(彼は)働きたくなかった。
Er muss arbeiten. He must work.
(彼は)働かなければいけない。
Er braucht nicht zu arbeiten. He does not need to work.
(彼は)働かなくてもいい。
Er hätte gearbeitet. He would have worked.
(彼は)働いただろう。
Er wird arbeiten. Heʼll work.
(彼は)働くだろう。
Arbeitet er? Does he work?
(彼は)働きますか。
Wollte er nicht arbeiten? Didnʼt he want to work?
(彼は)働きたくなかったですか。
Er arbeitet doch! But Heʼs working!
(彼は)働いてますよ!
Er arbeitet, oder?! He is working, isnʼt he?
(彼は)働いてるんでしょ?

訳も例文自体もちょっと不自然だが、英語やドイツ語でキッチリ複数語になっているところが日本語だと(事実上)一単語、つまり動詞の「語形変化」で表されているのはわかる。向こうから見ると動詞が妖怪変化しているように見えるのではないだろうか。

 ここのドイツ語(や英語)のように当該単語の語形変化でなく、他の単語を補助につけて法や時制、シンタクス構造などを表す方法をanalytischer Satzbau 、分析的文構造という。文という部分(Satz )を太字にしたのはこのanalytischer という言葉が言語類型論に使われてanalytischer Sprachbau 「分析的言語」という言い回しが存在するのでそれと区別するためだ。分析的言語というのはいわゆる孤立語のことと考えていい。ドイツ語始め印欧諸語は逆である。分析的文構造の逆、法そのほかを語形変化自体で表すやりかたはsynthetischer Satzbau「統合的文構造」である。印欧語は本来このタイプが主流で(だから印欧語は「統合的言語」にタイプ分けされているのだ)動詞ばかりでなく、名詞の格、シンタクス上の機能も統合的に表していたが、時代が下るにつれて名詞や動詞の語尾が喪失していき当該単語のみではそれらが表現できなくなってきたのでそれを補うために別単語を持ち出してきたのである。例えばドイツ語は名詞自体ではもう格をマークすることができず、冠詞などというものをつけるようになった。今でも名詞だけでやっていける正統派のロシア語などと比べるとある意味腑抜けた言語である。

ドイツ語                      ロシア語
(分析的文構造)    (統合的文構造)
der Mann                    человек
des Mannes               человека
dem Mann                  человеку
den Mann                   человека
von/mit dem Mann      человеком

さらにドイツ語は具格表現ではそのフヌケ冠詞をつけてもまだ足りず、さらに前置詞まで持ち出して来なければならない。印欧語の風上にも置けない言語だ。しかし残念ながらそのロシア語も動詞は法や時制を表すのに分析的なやり方を取るばかりか、分詞を除いた動詞定形の変化形そのものの数が事実上過去、非過去(不完了体動詞は現在形、完了体動詞は未来形と呼ばれるが、この二つは同形である)、命令の3つだけになってしまった。同じスラブ語でもクロアチア語は直説法現在、非完了過去、アオリスト、命令をなどをまだ動詞変化パラダイムとして保持しているし、未来形の一つは助動詞をまるで膠着語のように動詞の後ろにつけるのでまるで語形変化のように見える:glȅdaću(一人称単数)、glȅdaćeš(2人称単数)、glȅdaće(3人称単数)、glȅdaćemo(1人称複数)、glȅdaćete(2人称複数)、glȅdaće(3人称複数)。クロアチア語から見たらロシア語が印欧語の風上に置いてもらえなくなるかもしれない。
 ラテン語もこの動詞の変化パラダイムをよく保持しているが、さらにさすがその子孫だけあって現在のロマンス諸語は(名詞変化の方はスカスカになっているくせに)動詞の活用形が複雑だ。例えばスペイン語は統合的な動詞変化形が8つある。上で述べたようにロシア語には3つ(例えば不定形взять(「取る」)、直説法非過去возьмёт、過去взял、命令возьми、どれも3人称単数、さらに過去形は男性形)、ドイツ語は直説法現在、過去形、接続法I式、接続法II式、命令の5つしかない(例えば不定形sterben(「死ぬ」)、直説法現在stirbt、過去starb、接続法I式sterbe、接続法II式stürbe、命令stirb、3人称単数)。比べてスペイン語は不定形amar(「愛する」)、直説法現在ama、直説法線過去amaba、直説法点過去amó、直説法未来amará、直接法過去未来amaría、接続法現在ame、接続法過去amara/amase、命令ameの8形。もちろんこの他に種々の助動詞を付加して作る分析的パラダイムがあるが、それがまた8つ、分詞が現在と過去の2つ(これはドイツ語やロシア語と同じだ)。面白いことに英語のような進行形があり、作り方もコピュラestar + 現在分詞で、構造的に英語と並行する。いや英語がロマンス語と並行しているといった方がいいかもしれない。ドイツ語では現在進行形は動詞の単なる現在形、ロシア語も不完了体動詞の現在形で作る。
 もっとも形は並行しているが、その使用範囲はスペイン語と英語では少し違うようで、例えば『続・荒野の用心棒』の主題曲の歌詞

Django, after the shower the sun will be shining.

がスペイン語では単なる未来形で訳されて

Después de la tormenta, el sol brillerá.

と一語になっているのを見かけた。原誠氏によると「スペイン語は英語ほどには進行形を使いたがらず、「彼らは到着しつつある」と言いたい場合でも、ふつうならlleganでよく、無理にestán llegando という現在進行形を用いる必要はない」とのことで、これもそれで説明できそうだ。スペイン語の直説法現在・直説法未来形は英語よりも意味の担当領域が少し広いのだろう。

ロッキー・ロバーツの英語の歌にスペイン語の字幕がついた『続・荒野の用心棒』のオープニング


 スペイン語(やイタリア語、フランス語、ルーマニア語)のお母さんのラテン語も法や時制などを動詞の統合的活用で表現するのでこれをドイツ語に訳そうとすると動詞一単語では済まない。法や時制ばかりでなく、ラテン語は人称による形の違いも明確なので代名詞の主語が抜けてもいい。英語やドイツ語だといちいちウザい主語を補って訳さないといけない。『12.ミスター・ノーボディ』でも述べように『殺して祈れ』という映画のタイトルの原題はRequiescant彼というラテン語の動詞だが、これはrequiescoという動詞の能動態接続法現在3人称複数形だ。requiescant in pace(安らかに眠りますように)というフレーズで墓碑に使われる動詞形で、希求法のニュアンスだ。その「接続法現在」はドイツ語では接続法I式に対応するが、requiescoにあたるドイツ語の動詞 ruhenでは複数3人称で直説法と接続法I式がどちらもruhenと同形になってしまっている上、接続法I式そのものが現在は間接話法を表すのが主機能で、接続法、ましてや希求法的意味合いはほとんど表現することができない。「ほとんど」と書いたのは「~万歳」という固定したフレーズで「生きる」leben の接続法I式を使うからである。例えば「レーニン万歳」は「レーニンが長生きしますように」で、lange lebe Leninである。lebe というのが接続法I式の3人称単数形。この決まりきった言い回し以外では単なる動詞の接続法I式で希求は表せない。そこで分析的なやり方をとり、別の本来「好む」という意味の動詞mögenを助動詞として持ってくる。この助動詞をまた接続法I式で使う。形の上ではmögenも複数3人称では同形となるのだが、この動詞の接続法い式は希求表現ができる。それで3人称に対する命令、要求、希望を表現するのによく使われるのだ。3人称に対しては命令法がないからだ。またそこでさらに念のため接続法であるということを強調するため動詞を文の最初に持って来る。クエスチョンマークがつかないから疑問文と間違えられることはない。さらにまたこれが祈りのフレーズであることを強調するため in pace にあたる部分を付加する。こうやってラテン語では動詞一つで済んでいるのを訳して出来上がったタイトルがMögen sie in Frieden ruh’nである。大変な手間だ。墓碑のrequiescant in pace のほうはずばり命令形を使ってLass sie ruhen in Frieden(let them rest in peace)というドイツ語になり、「させる」 lassenが単数命令形になっているが、これは神への呼びかけをduで行うからである。

懐かしや、その昔日本で使っていたラテン語の教科書の動詞変化表。だいぶ黄ばんでいる…
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