ドイツはクリスマス時から正月にかけてTVによくマカロニウエスタンが流れてくる。どういう神経なのかよくわからない部分はあるが、大抵テレンス・ヒルとバッド・スペンサーのコメディ路線映画なのでまあ「クリスマスは家族で楽しく」という方針なのだろう。もっともドサクサに紛れて時々レオーネやコルブッチも出てきたりするが。例えば今年2026年の正月から2日にかけての深夜にさる公営放送局で『殺しが静かにやって来る』をやっていた。私個人はこの作品はマカロニウエスタンの最高峰の一つだとは思っているが、絶対正月に流したりしてはいけない。新年早々こんなのを見たらその年一年間ドツボりそうだ。
というわけで私は見なかったが(私はモリコーネレベルに早寝早起きなので深夜放送と言うのはそもそも超苦手なのである)、その代わりと言っていいのか、何だかまたちょっと見たくなったので昼間にジュリオ・ペトローニの映画を2本連続で見ていた。『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』Da uomo a uomo と『復讐無頼・狼たちの荒野』Tepepa である。この2つはペトローニの代表作と言っていいと思う。ストーリーや作品の雰囲気は全然違うが復讐をモチーフにしている点だけは共通している。もっとも「復讐」はそもそもほぼ全てのマカロニウエスタン作品に共通するテーマなので当たり前と言えばあまりにも当たり前だが。
『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』(Da uomo a uomo、1967)は見ているとどうもトニーノ・ヴァレリの『怒りの荒野』(I giorni dell'ira、1967)(『193.トニーノ・ヴァレリの西部劇』参照)と比べてしまう。それこそ共通点が多いからだ。どちらも若いガンマンと中年のガンマンの話で、どちらも中年の方をリー・バン・クリーフが演じている。若者の方は前者がジョン・フィリップ・ロー、後者がジュリアーノ・ジェンマで、つまり双方イケメンで売っている俳優だ。そのイケメンの若者が復讐に燃えている。 フィリップ・ローは家族を皆殺しにされた恨みを、ジェンマの方は自分を蔑んでいる町の人たちに対して(下記)。若者が燃えているのに対して中年の方はあまりカッカしていない。『新・夕陽のガンマン』のリー・バン・クリーフは別の個人的理由でフィリップ・ローと同じ人物(4人いる)への復讐を狙っているがあくまで冷静、『怒りの荒野』のオッサン(だんだん呼び方が雑になる)は復讐ではなく町を掌握してボスに収まろうという冷たい目的のために淡々とジェンマをたぶらかすというやっぱり冷静な人である。
もっとも結末は正反対で、『怒りの荒野』ではジェンマが下剋上(違)でリー・バン・クリーフを倒すが、『新夕陽』は友情が本物へと昇華する。私は後者の方が好きだ。ジュリアーノ・ジェンマは今見るとどうも「毒」が足りない。もっともそこがジェンマのいい点なのだろうが、リー・バン・クリーフはただつっ立っているだけで雰囲気がある。バッド・スペンサーやテレンス・ヒルも何も始めない前から「待ってました」と声をかけたくなる。ジョン・フィリップ・ローも童顔なのに(?)イケメンで、決して名優とは言えないだろうが時々シブい表情をすると思った。ジェンマにはいま一つこれがない気がする。しかし繰り返すがもちろん氏はカッコいいし映画もちゃんと面白い。
さて『新夕陽…』の脚本はルチアーノ・ヴィンチェンツォーニである。レオーネの『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』を担当した人だ。何かのインタビューで話していたが、レオーネは両親が年を取ってからの一人っ子だったので兄弟とか男同士の友情に憧れていたんだそうだ。西部劇で描きたかったのもそれだと自分で言っていた。『夕陽のガンマン』などまさにその路線。ヴィンチェンツォーニがレオーネの注文でそういうストーリーの脚本を書いたのか、それともヴィンチェンツォーニはそういう男同士の友情を描くのが上手いとレオーネが知っていたから氏に白羽の矢を立てたのかわからないが、とにかくレオーネだけでなくペトローニ監督の『新・夕陽…』も若者とその父親くらいの年齢の中年男との交流の話となっている。一度リー・バン・クリーフがフィリップ・ローに向かって「俺に息子がいないのが残念だ。いつか俺がくたばったら仇を取ってくれただろうに」とボソッと呟くシーンがあり、これがこの映画のキーワードだなと思った。もしかしたら『新・夕陽…』は『怒りの荒野』ではなく『夕陽のガンマン』と比べたほうがいいのかもしれない。
モチーフが復讐であること、主人公が敵につかまって拷問されることなどマカロニウエスタンの定式で、これ見よがしのウリはないが堅実で好感度の高い作品だと思う。ジャンル全体がまだ若かったころでマンネリにも陥っていない。『怒りの荒野』や『夕陽のガンマン』ほど知名度がないのが残念だ。
映画はさる家族が強盗団に皆殺しされるシーンで始まる。たった一人生き残った子供は強盗団のメンバー1人1人の特徴を覚えていていつか復讐しようと臥薪嘗胆する。その15年後の若者がフィリップ・ローである。一方その強盗団は仲間の一人を当局側に売り渡して、罪を全部おっかぶせ刑務所に送り込む。そうして自分たちは素知らぬ顔をして町の有力者に成りすましていたが、15年後、刑期を終えたその仲間が出所してくる。復讐戦は必至。これがリー・バン・クリーフである。昔の仲間は当然自分たちの命の危険を感じ、先手を打って刺客を出所者に差し向けるのだが、もちろん刺客の方が殺される。それを検分した保安官がフィリップ・ローの知り合いで、殺された方のブーツについていた拍車が、フィリップ・ローが家族を殺した者の手がかりとして保管しておいた拍車と同じものであることを見て、フィリップ・ローに教えてくれる。当然そいつらに狙われたほう(リー・バン・クリーフ)は皆殺し犯人に関わり合いのある人物に違いないという事で、フィリップ・ローは旅を続けるリー・バン・クリーフについて行こうとする。つまりフィリップ・ローとリー・バン・クリーフは同じ目標を追うことになるのだから素直に協力しあえばいいものを、双方絶対自分自身で相手を殺したいと思っているから何とか相手を出し抜こうと必死。まあマカロニウエスタンの定番な展開だ。結果的には(しぶしぶ)手を貸しあって相手方を全滅させるという復讐劇だが、モリコーネのスコアには文句のつけようがない。
たった一つ気にかかったのは、最後二人がさるメキシコの村の男たちを総動員して敵の一味と銃撃戦になるのだが、村人があまりに唐突に全滅する点だ。急に主人公の二人以外誰もいなくなる。画面の展開から全滅と察することはできるが、もうちょっと人がバタバタ死ぬシーンを入れたほうが良かったんじゃないかという気はした。映画の出来を損ねるほどではないからまあいいかも思ったが。
復讐に燃える童顔のイケメン、ジョン・フィリップ・ロー
毎度のことながら決まったポーズのリー・バン・クリーフ
二年後の1969年に制作された『復讐無頼・狼たちの荒野』Tepepa は『新・夕陽…』とは全く違ったモチーフで、メキシコ革命を題材にしている。脚本はイヴァン・デラ・メア Ivan Della Mea とフランコ・ソリナス Franco Solinas で、前者は本業はシンガーソングライターで政治的にも活動し、イタリア共産党の党員だったそうだ。ソリナスは言わずと知れた本職の脚本家兼作家で、フランチェスコ・ロージ監督の『シシリーの黒い霧』(Salvatore Giuliano、1963)、コスタ・ガヴラスの『戒厳令』(État de siège、1972)の脚本はこの人だが、何といっても有名なのは1966年の『アルジェの戦い』La battaglia di Algeri だろう。1969年のオスカー脚本賞にノミネートされている。ガチの社会派である。マカロニウエスタンにも手を出していて(『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』、『91.Quién sabe?』参照)このペトローニの『復讐無頼』だけでなくダミアノ・ダミアーニの『群盗荒野を裂く』(Quién sabe?、1966)、セルジオ・ソリーマの『復讐のガンマン』(La resa dei conti、1967)、セルジオ・コルブッチの『豹/ジャガー』(Il mercenario、1968)の原作や脚本もソリナスの筆だ。マカロニウエスタンのメキシコ革命モノを総ナメしている感じだが、レオーネの『夕陽のギャングたち』(Giù la testa、1971)は違って、脚本はヴィンチェンツォーニとセルジオ・ドナーティだった。考えすぎかもしれないが、そう言えば『夕陽のギャングたち』もある意味男の友情物語だった。ソリナスのほうは『復讐無頼』を最後にマカロニウエスタンから離れて世界各地の植民地独立戦争を描いた映画の方に移っていっていたから、『夕陽のギャングたち』は時期的に遅すぎたのかもしれない。
『復讐無頼』は脚本ソリナスと聞けば全て納得してしまうような作品である。もっとも監督のペトローニ自身もムソリーニ時代には抵抗運動に加わり、共産主義思想を支持していたそうだ。マカロニウエスタンの監督にはそういう人が多い。あのレオーネも自分の事を「夢破れた共産主義者」と定義していたのを見たことがある。さてその主役はトマス・ミリアンで、この役は氏のベストオブだと思う。脇役にオーソン・ウェルズも出ていて貫禄抜群。ストーリーも何というか緻密でいてしかも無駄がない。観客をアッと言わせたりモッタイをつけるためだけの変な伏線脱線の類いがないのである。妙にビヨーンと伸ばしたシーンもない。
さるメキシコの町にジョン・スタイナー演ずる英国人の医師が車でやって来る。そこの刑務所では革命軍の指揮者の一人トマス・ミリアン(役名ヘスス・マリア・モラン)が死刑にされるところだったが、間一髪でスタイナーに救われる。ではスタイナーなメキシコ革命軍の一味かと言うとそうではなく、大地主の娘だった恋人をミリアンに強姦され自殺に追い込まれたため、自分の手でミリアンを殺して復讐しようと救い出したのである。この辺『新・夕陽…』といっしょだ。タイトルのテペパ Tepepa というのはミリアンの役の愛称である。ミリアンを死刑にしようとする政府軍のカスコロ大佐をオーソン・ウェルズがやっている。
さてそういうスタイナーの事情をウェルズは知らないから当然ミリアンを助け出した氏を革命軍の仲間だと思って二人を追跡する。それに邪魔されてスタイナーはミリアンを殺す最初のタイミングを失っているうちにかえって二人で行動を共にする羽目になり、最後のクライマックスを迎えるのだが、そこに至るまでの社会派ストーリーが面白い。
まずミリアンは自分への死刑宣告を大統領のマデロ(マドゥロじゃありません)が許可したとは信じられない。大統領は元革命軍の同志で、その指令を伝えるためにミリアンの父は命を落としている。内戦は革命軍側の勝利に終わり、大統領となった同志マデロの命令に従ってミリアンたちは武器を置いた。しかし新大統領の横には以前まさに自分たちが戦った政府軍が同じメンツで控えていた。ミリアンの頭には一抹の疑惑が生じたが、それでも氏は同志大統領の言葉を信じて銃を置いたのである。
しかし蓋を開けてみると社会は全く変わらなかった、というよりさらにひどく、変わる気配があったのにそれが消えて完全に革命以前に逆行してしまった。以前自分たちを搾取した大地主ウェルズが戻ってきて、小作農には何の発言権もない。ミリアンはウェルズに反抗し、捕まって死刑判決を受けた。大統領が承諾の署名をしたという。前述のようにギリギリのところで救い出されたミリアンはまずその真偽を問いただすために仲間のアジトに戻ってそこから大統領に一筆したためようとする。
しかしこの「一筆したためる」ことがミリアン自身にはできない。氏は文盲だからだ。以前の仲間で唯一読み書きができた者は盗みを働いて両手を切り落とされていた。もう一人字が書けた知り合いの神父はまさに「ミリアンの知り合い」ということで拷問され殺された。仕方なくミリアンはスタイナーに手紙を書かせる。ウソをかいていないかどうか手のない仲間が見張った(今は書くことはできないが読めはするのである)。
すると大統領から「会って話がしたい」という知らせが来た。手無しがその知らせを持って帰って来たのだが、実はそれは裏切りで、来いと言われた会見場所には大統領でなく政府軍兵士が銃を持って手ぐすね引いていた。ミリアンはすでにピーンと来ていてまず手無しを殺す。手無しの懐には大統領から貰った大金があった。兵士たちも片づけてアジトに帰ると仲間が大勢政府軍に斬殺されていた。生き残った仲間の一人が「俺たちを売ったのはあの手無しか?」と聞くとミリアンは応える;いや裏切者はあの手無しじゃない、大統領だ。
そうして今度は大統領が敵となった。まず右腕のウェルズを消すことだ。ミリアンはまた革命軍を組織する。しかしそれにはたくさんの武器がいる。その武器はひょんなことから手に入った。
ミリアンはスタイナーに「お前の探しているテペパは俺じゃない、そういうあだ名の奴は他にもいる」と言いくるめてスタイナー(恋人が強姦されるのを自分の目で見たわけではなかった。「犯人はテペパ」と」聞いただけである)をぐらつかせ、復讐戦の方は休戦状態になっていた。そして例の手無しには息子がいて、まだ子供だった。手無しはその養育費のためにとミリアンを売ったのだが、この子供が非常にミリアンになついている。なついているが子供では戦闘員にならない。そこで軍隊再編成時にスタイナーが去っていく際、子供も連れて行くことになったのである。スタイナーにも結構なついていたのだ。
スタイナーと子供がいざアメリカへ出発しようとした矢先にウェルズが追いつき、ミリアンの一味として逮捕する。その際ウェルズはスタイナーに、氏の探しているテペパはミリアンであること、証拠も揃っていることを告げる。スタイナーは逮捕者というステータスのままミリアン追跡に協力することになる。それを盗み聞きした子供は自分の有り金を持って逃げだす。偶然以前に手無しともども入れられていた刑務所で知り合った怪しげな中国人の武器商人にあい、武器を大量に購入してミリアンたちのアジトへ向かう。なぜ子供がそんな大金を持っていたのかと言うと、ミリアンが手無しを殺してポケットに大金を見つけたとき、これはお前の金だからと全部その子に渡していたのである。
武器を手にしたミリアンたちは、わざとウェルズが自分たちを追うように仕向け(中国人がウェルズにチクることを想定してその裏をかく)、おびき出して途中の道で攻撃を開始する。
政府軍は全滅、ウェルズもミリアンに囚われたが、ウェルズの放った一発がミリアンの胸に命中して重症を負う(ウェルズはミリアンに射殺される)。ミリアンはスタイナーに怪我の手当てを頼むが、傷でうなされてながらスタイナーの恋人を死に追いやったのは自分だと告げてしまう。そこで懺悔して許しを乞えばどうにかなったかもしれないが、「男が誰でも女にやっていることをやっただけだ。革命と言う偉業の前には女なんてなんだ」的に口を滑らせてしまい、というより本音を出してしまい、それを聞いたスタイナーがメスをミリアンの心臓に付きたてる。
ミリアンを心配して外に集まって来た仲間には「死んだ。助けられなかった」といい、ほぼ全員それを信じるが、一人例の子供だけはスタイナーがミリアンを殺したことを見抜いて医者を撃ち殺す。
ラスト・シーンで革命がまだ続いていくこと、ミリアンの精神が死んではいないことが暗示され、モリコーネの曲をクリスティが歌って〆る。そういえば歌で思い出したが、ラストシーン近くに囚われたウェルズを歩かせながらミリアンが口笛を吹く。そのメロディがモリコーネのスコアそのままだった。映画音楽がBGMでなくストーリーそのものの中に入っているのだ。文学理論をやっている人などにはこういうところを面白がるのではないだろうか。
とにかく『復讐無頼』はいい映画だと思ったし、ペトローニ自身も自分が作った西部劇の中ではこれが一番好きだと言っている。なのにあまり有名でなく、しかもIMDBなどでの評価が意外なほど低い。なぜだろうと考えたのだが、一つにIMDBがアメリカのサイトだということがある。言っちゃ悪いがアメリカ人は共産主義とか革命とかいうものに対してちょっと病的なくらいのアレルギーを持っている人が多い。それが響いてヨーロッパで作られたメキシコ革命モノと聞いただけで拒否反応が起こったのかもしれない。もう一つはこの映画がいわばあまりマカロニウエスタンらしくないことだ。凄腕ガンマンも出てこないし、シュールな決闘シーンも、見ただけでこちらまで破傷風になりそうな拷問シーンもない。つまりまともすぎるのである。セルジオ・ソリーマの作品もまともな映画だったが、それでも待ってました的な決闘シーンはあった。『復讐無頼』はそれがないからつまらなく見えたのかも知れない。
この映画の撮影地はスペインだが、『拳銃のバラード』(『218.マカロニウエスタンとユーゴスラビア』参照)の場合と同じく俳優やエキストラを現地調達している。メキシコ人役のエキストラとしては現地のロマの人々を起用したそうだ。映画の中でメキシコ農民役を例えばアメリカ人俳優にやられたりするといつもステレオタイプでトンチンカンになるので、メキシコ本国人は怒っているとペトローニに伝わってきていたらしい。そこでロマ起用となった。キューバ出身で英語にもスペイン語訛があるトマス・ミリアンによるメキシコ農民役はメキシコ人にも気に入ってもらえたそうだ。
メキシコ人からOKを貰ったトマス・ミリアンのメキシコ人ぶり

もう一人出演者で注目すべきは、手無しの息子、最後にスタイナーを撃ち殺した子供を演じたルチアーノ・カサモニカ Luciano Casamonica である。この子役はなんとマフィアのボス、ヴィットリオ・カサモニカVittorio Casamonicaの甥だそうで、 …E venne il tempo di uccidere(『218.マカロニウエスタンとユーゴスラビア』参照)など他にもいくつかマカロニウエスタンに出演している。『復讐無頼』にはルチアーノの兄弟のアルマンド・カサモニカArmando Casamonicaも撃たれ役のエキストラ出演しているそうだ。ルチアーノと違ってアルマンドの映画出演はこれ一本だけとのことである。
マフィアのボスの甥、ルチアーノ・カサモニカ
この後すぐ殺される若きメキシコ革命家たち。左がアルマンド・カサモニカかな?
実はペトローニはこの二つの復讐劇と同時期、1968年にジュリアーノ・ジェンマとマリオ・アドルフとで『暁のガンマン』…E per tetto un cielo di stelle という西部劇を撮っている。「コメディ路線の西部劇」と紹介されることが多い。ジェンマが仇としてその兄と父親(どちらも悪漢)に狙われて避けている(逃げているのではなく、もうこれ以上人を殺したくないからと避けている)道中で気のいい金鉱掘りのアドルフと知り合い、いわばドタバタ珍道中になる話だ。アドルフはドジでやることなすこと裏目に出るのがまあ喜劇調といえるのだろうが、結構残酷なシーンもあってどうも印象がチグハグだ。またジェンマがモテるのはいいのだが、出てくる女性がいわゆるお引きずり的な、言ってよければ尻軽女ばかりでこれも雰囲気が良くない。コンビそのものには結構味があるし、駄作・失敗作というのとはほど遠いのだが、上の二作と比べると劣ることは否めまい。
『暁のガンマン』のジュリアーノ・ジェンマとマリオ・アドルフ。コンビ自体は結構いい味を出しているのだが…
というわけで私は見なかったが(私はモリコーネレベルに早寝早起きなので深夜放送と言うのはそもそも超苦手なのである)、その代わりと言っていいのか、何だかまたちょっと見たくなったので昼間にジュリオ・ペトローニの映画を2本連続で見ていた。『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』Da uomo a uomo と『復讐無頼・狼たちの荒野』Tepepa である。この2つはペトローニの代表作と言っていいと思う。ストーリーや作品の雰囲気は全然違うが復讐をモチーフにしている点だけは共通している。もっとも「復讐」はそもそもほぼ全てのマカロニウエスタン作品に共通するテーマなので当たり前と言えばあまりにも当たり前だが。
『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』(Da uomo a uomo、1967)は見ているとどうもトニーノ・ヴァレリの『怒りの荒野』(I giorni dell'ira、1967)(『193.トニーノ・ヴァレリの西部劇』参照)と比べてしまう。それこそ共通点が多いからだ。どちらも若いガンマンと中年のガンマンの話で、どちらも中年の方をリー・バン・クリーフが演じている。若者の方は前者がジョン・フィリップ・ロー、後者がジュリアーノ・ジェンマで、つまり双方イケメンで売っている俳優だ。そのイケメンの若者が復讐に燃えている。 フィリップ・ローは家族を皆殺しにされた恨みを、ジェンマの方は自分を蔑んでいる町の人たちに対して(下記)。若者が燃えているのに対して中年の方はあまりカッカしていない。『新・夕陽のガンマン』のリー・バン・クリーフは別の個人的理由でフィリップ・ローと同じ人物(4人いる)への復讐を狙っているがあくまで冷静、『怒りの荒野』のオッサン(だんだん呼び方が雑になる)は復讐ではなく町を掌握してボスに収まろうという冷たい目的のために淡々とジェンマをたぶらかすというやっぱり冷静な人である。
もっとも結末は正反対で、『怒りの荒野』ではジェンマが下剋上(違)でリー・バン・クリーフを倒すが、『新夕陽』は友情が本物へと昇華する。私は後者の方が好きだ。ジュリアーノ・ジェンマは今見るとどうも「毒」が足りない。もっともそこがジェンマのいい点なのだろうが、リー・バン・クリーフはただつっ立っているだけで雰囲気がある。バッド・スペンサーやテレンス・ヒルも何も始めない前から「待ってました」と声をかけたくなる。ジョン・フィリップ・ローも童顔なのに(?)イケメンで、決して名優とは言えないだろうが時々シブい表情をすると思った。ジェンマにはいま一つこれがない気がする。しかし繰り返すがもちろん氏はカッコいいし映画もちゃんと面白い。
さて『新夕陽…』の脚本はルチアーノ・ヴィンチェンツォーニである。レオーネの『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』を担当した人だ。何かのインタビューで話していたが、レオーネは両親が年を取ってからの一人っ子だったので兄弟とか男同士の友情に憧れていたんだそうだ。西部劇で描きたかったのもそれだと自分で言っていた。『夕陽のガンマン』などまさにその路線。ヴィンチェンツォーニがレオーネの注文でそういうストーリーの脚本を書いたのか、それともヴィンチェンツォーニはそういう男同士の友情を描くのが上手いとレオーネが知っていたから氏に白羽の矢を立てたのかわからないが、とにかくレオーネだけでなくペトローニ監督の『新・夕陽…』も若者とその父親くらいの年齢の中年男との交流の話となっている。一度リー・バン・クリーフがフィリップ・ローに向かって「俺に息子がいないのが残念だ。いつか俺がくたばったら仇を取ってくれただろうに」とボソッと呟くシーンがあり、これがこの映画のキーワードだなと思った。もしかしたら『新・夕陽…』は『怒りの荒野』ではなく『夕陽のガンマン』と比べたほうがいいのかもしれない。
モチーフが復讐であること、主人公が敵につかまって拷問されることなどマカロニウエスタンの定式で、これ見よがしのウリはないが堅実で好感度の高い作品だと思う。ジャンル全体がまだ若かったころでマンネリにも陥っていない。『怒りの荒野』や『夕陽のガンマン』ほど知名度がないのが残念だ。
映画はさる家族が強盗団に皆殺しされるシーンで始まる。たった一人生き残った子供は強盗団のメンバー1人1人の特徴を覚えていていつか復讐しようと臥薪嘗胆する。その15年後の若者がフィリップ・ローである。一方その強盗団は仲間の一人を当局側に売り渡して、罪を全部おっかぶせ刑務所に送り込む。そうして自分たちは素知らぬ顔をして町の有力者に成りすましていたが、15年後、刑期を終えたその仲間が出所してくる。復讐戦は必至。これがリー・バン・クリーフである。昔の仲間は当然自分たちの命の危険を感じ、先手を打って刺客を出所者に差し向けるのだが、もちろん刺客の方が殺される。それを検分した保安官がフィリップ・ローの知り合いで、殺された方のブーツについていた拍車が、フィリップ・ローが家族を殺した者の手がかりとして保管しておいた拍車と同じものであることを見て、フィリップ・ローに教えてくれる。当然そいつらに狙われたほう(リー・バン・クリーフ)は皆殺し犯人に関わり合いのある人物に違いないという事で、フィリップ・ローは旅を続けるリー・バン・クリーフについて行こうとする。つまりフィリップ・ローとリー・バン・クリーフは同じ目標を追うことになるのだから素直に協力しあえばいいものを、双方絶対自分自身で相手を殺したいと思っているから何とか相手を出し抜こうと必死。まあマカロニウエスタンの定番な展開だ。結果的には(しぶしぶ)手を貸しあって相手方を全滅させるという復讐劇だが、モリコーネのスコアには文句のつけようがない。
たった一つ気にかかったのは、最後二人がさるメキシコの村の男たちを総動員して敵の一味と銃撃戦になるのだが、村人があまりに唐突に全滅する点だ。急に主人公の二人以外誰もいなくなる。画面の展開から全滅と察することはできるが、もうちょっと人がバタバタ死ぬシーンを入れたほうが良かったんじゃないかという気はした。映画の出来を損ねるほどではないからまあいいかも思ったが。
復讐に燃える童顔のイケメン、ジョン・フィリップ・ロー
毎度のことながら決まったポーズのリー・バン・クリーフ
二年後の1969年に制作された『復讐無頼・狼たちの荒野』Tepepa は『新・夕陽…』とは全く違ったモチーフで、メキシコ革命を題材にしている。脚本はイヴァン・デラ・メア Ivan Della Mea とフランコ・ソリナス Franco Solinas で、前者は本業はシンガーソングライターで政治的にも活動し、イタリア共産党の党員だったそうだ。ソリナスは言わずと知れた本職の脚本家兼作家で、フランチェスコ・ロージ監督の『シシリーの黒い霧』(Salvatore Giuliano、1963)、コスタ・ガヴラスの『戒厳令』(État de siège、1972)の脚本はこの人だが、何といっても有名なのは1966年の『アルジェの戦い』La battaglia di Algeri だろう。1969年のオスカー脚本賞にノミネートされている。ガチの社会派である。マカロニウエスタンにも手を出していて(『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』、『91.Quién sabe?』参照)このペトローニの『復讐無頼』だけでなくダミアノ・ダミアーニの『群盗荒野を裂く』(Quién sabe?、1966)、セルジオ・ソリーマの『復讐のガンマン』(La resa dei conti、1967)、セルジオ・コルブッチの『豹/ジャガー』(Il mercenario、1968)の原作や脚本もソリナスの筆だ。マカロニウエスタンのメキシコ革命モノを総ナメしている感じだが、レオーネの『夕陽のギャングたち』(Giù la testa、1971)は違って、脚本はヴィンチェンツォーニとセルジオ・ドナーティだった。考えすぎかもしれないが、そう言えば『夕陽のギャングたち』もある意味男の友情物語だった。ソリナスのほうは『復讐無頼』を最後にマカロニウエスタンから離れて世界各地の植民地独立戦争を描いた映画の方に移っていっていたから、『夕陽のギャングたち』は時期的に遅すぎたのかもしれない。
『復讐無頼』は脚本ソリナスと聞けば全て納得してしまうような作品である。もっとも監督のペトローニ自身もムソリーニ時代には抵抗運動に加わり、共産主義思想を支持していたそうだ。マカロニウエスタンの監督にはそういう人が多い。あのレオーネも自分の事を「夢破れた共産主義者」と定義していたのを見たことがある。さてその主役はトマス・ミリアンで、この役は氏のベストオブだと思う。脇役にオーソン・ウェルズも出ていて貫禄抜群。ストーリーも何というか緻密でいてしかも無駄がない。観客をアッと言わせたりモッタイをつけるためだけの変な伏線脱線の類いがないのである。妙にビヨーンと伸ばしたシーンもない。
さるメキシコの町にジョン・スタイナー演ずる英国人の医師が車でやって来る。そこの刑務所では革命軍の指揮者の一人トマス・ミリアン(役名ヘスス・マリア・モラン)が死刑にされるところだったが、間一髪でスタイナーに救われる。ではスタイナーなメキシコ革命軍の一味かと言うとそうではなく、大地主の娘だった恋人をミリアンに強姦され自殺に追い込まれたため、自分の手でミリアンを殺して復讐しようと救い出したのである。この辺『新・夕陽…』といっしょだ。タイトルのテペパ Tepepa というのはミリアンの役の愛称である。ミリアンを死刑にしようとする政府軍のカスコロ大佐をオーソン・ウェルズがやっている。
さてそういうスタイナーの事情をウェルズは知らないから当然ミリアンを助け出した氏を革命軍の仲間だと思って二人を追跡する。それに邪魔されてスタイナーはミリアンを殺す最初のタイミングを失っているうちにかえって二人で行動を共にする羽目になり、最後のクライマックスを迎えるのだが、そこに至るまでの社会派ストーリーが面白い。
まずミリアンは自分への死刑宣告を大統領のマデロ(マドゥロじゃありません)が許可したとは信じられない。大統領は元革命軍の同志で、その指令を伝えるためにミリアンの父は命を落としている。内戦は革命軍側の勝利に終わり、大統領となった同志マデロの命令に従ってミリアンたちは武器を置いた。しかし新大統領の横には以前まさに自分たちが戦った政府軍が同じメンツで控えていた。ミリアンの頭には一抹の疑惑が生じたが、それでも氏は同志大統領の言葉を信じて銃を置いたのである。
しかし蓋を開けてみると社会は全く変わらなかった、というよりさらにひどく、変わる気配があったのにそれが消えて完全に革命以前に逆行してしまった。以前自分たちを搾取した大地主ウェルズが戻ってきて、小作農には何の発言権もない。ミリアンはウェルズに反抗し、捕まって死刑判決を受けた。大統領が承諾の署名をしたという。前述のようにギリギリのところで救い出されたミリアンはまずその真偽を問いただすために仲間のアジトに戻ってそこから大統領に一筆したためようとする。
しかしこの「一筆したためる」ことがミリアン自身にはできない。氏は文盲だからだ。以前の仲間で唯一読み書きができた者は盗みを働いて両手を切り落とされていた。もう一人字が書けた知り合いの神父はまさに「ミリアンの知り合い」ということで拷問され殺された。仕方なくミリアンはスタイナーに手紙を書かせる。ウソをかいていないかどうか手のない仲間が見張った(今は書くことはできないが読めはするのである)。
すると大統領から「会って話がしたい」という知らせが来た。手無しがその知らせを持って帰って来たのだが、実はそれは裏切りで、来いと言われた会見場所には大統領でなく政府軍兵士が銃を持って手ぐすね引いていた。ミリアンはすでにピーンと来ていてまず手無しを殺す。手無しの懐には大統領から貰った大金があった。兵士たちも片づけてアジトに帰ると仲間が大勢政府軍に斬殺されていた。生き残った仲間の一人が「俺たちを売ったのはあの手無しか?」と聞くとミリアンは応える;いや裏切者はあの手無しじゃない、大統領だ。
そうして今度は大統領が敵となった。まず右腕のウェルズを消すことだ。ミリアンはまた革命軍を組織する。しかしそれにはたくさんの武器がいる。その武器はひょんなことから手に入った。
ミリアンはスタイナーに「お前の探しているテペパは俺じゃない、そういうあだ名の奴は他にもいる」と言いくるめてスタイナー(恋人が強姦されるのを自分の目で見たわけではなかった。「犯人はテペパ」と」聞いただけである)をぐらつかせ、復讐戦の方は休戦状態になっていた。そして例の手無しには息子がいて、まだ子供だった。手無しはその養育費のためにとミリアンを売ったのだが、この子供が非常にミリアンになついている。なついているが子供では戦闘員にならない。そこで軍隊再編成時にスタイナーが去っていく際、子供も連れて行くことになったのである。スタイナーにも結構なついていたのだ。
スタイナーと子供がいざアメリカへ出発しようとした矢先にウェルズが追いつき、ミリアンの一味として逮捕する。その際ウェルズはスタイナーに、氏の探しているテペパはミリアンであること、証拠も揃っていることを告げる。スタイナーは逮捕者というステータスのままミリアン追跡に協力することになる。それを盗み聞きした子供は自分の有り金を持って逃げだす。偶然以前に手無しともども入れられていた刑務所で知り合った怪しげな中国人の武器商人にあい、武器を大量に購入してミリアンたちのアジトへ向かう。なぜ子供がそんな大金を持っていたのかと言うと、ミリアンが手無しを殺してポケットに大金を見つけたとき、これはお前の金だからと全部その子に渡していたのである。
武器を手にしたミリアンたちは、わざとウェルズが自分たちを追うように仕向け(中国人がウェルズにチクることを想定してその裏をかく)、おびき出して途中の道で攻撃を開始する。
政府軍は全滅、ウェルズもミリアンに囚われたが、ウェルズの放った一発がミリアンの胸に命中して重症を負う(ウェルズはミリアンに射殺される)。ミリアンはスタイナーに怪我の手当てを頼むが、傷でうなされてながらスタイナーの恋人を死に追いやったのは自分だと告げてしまう。そこで懺悔して許しを乞えばどうにかなったかもしれないが、「男が誰でも女にやっていることをやっただけだ。革命と言う偉業の前には女なんてなんだ」的に口を滑らせてしまい、というより本音を出してしまい、それを聞いたスタイナーがメスをミリアンの心臓に付きたてる。
ミリアンを心配して外に集まって来た仲間には「死んだ。助けられなかった」といい、ほぼ全員それを信じるが、一人例の子供だけはスタイナーがミリアンを殺したことを見抜いて医者を撃ち殺す。
ラスト・シーンで革命がまだ続いていくこと、ミリアンの精神が死んではいないことが暗示され、モリコーネの曲をクリスティが歌って〆る。そういえば歌で思い出したが、ラストシーン近くに囚われたウェルズを歩かせながらミリアンが口笛を吹く。そのメロディがモリコーネのスコアそのままだった。映画音楽がBGMでなくストーリーそのものの中に入っているのだ。文学理論をやっている人などにはこういうところを面白がるのではないだろうか。
とにかく『復讐無頼』はいい映画だと思ったし、ペトローニ自身も自分が作った西部劇の中ではこれが一番好きだと言っている。なのにあまり有名でなく、しかもIMDBなどでの評価が意外なほど低い。なぜだろうと考えたのだが、一つにIMDBがアメリカのサイトだということがある。言っちゃ悪いがアメリカ人は共産主義とか革命とかいうものに対してちょっと病的なくらいのアレルギーを持っている人が多い。それが響いてヨーロッパで作られたメキシコ革命モノと聞いただけで拒否反応が起こったのかもしれない。もう一つはこの映画がいわばあまりマカロニウエスタンらしくないことだ。凄腕ガンマンも出てこないし、シュールな決闘シーンも、見ただけでこちらまで破傷風になりそうな拷問シーンもない。つまりまともすぎるのである。セルジオ・ソリーマの作品もまともな映画だったが、それでも待ってました的な決闘シーンはあった。『復讐無頼』はそれがないからつまらなく見えたのかも知れない。
この映画の撮影地はスペインだが、『拳銃のバラード』(『218.マカロニウエスタンとユーゴスラビア』参照)の場合と同じく俳優やエキストラを現地調達している。メキシコ人役のエキストラとしては現地のロマの人々を起用したそうだ。映画の中でメキシコ農民役を例えばアメリカ人俳優にやられたりするといつもステレオタイプでトンチンカンになるので、メキシコ本国人は怒っているとペトローニに伝わってきていたらしい。そこでロマ起用となった。キューバ出身で英語にもスペイン語訛があるトマス・ミリアンによるメキシコ農民役はメキシコ人にも気に入ってもらえたそうだ。
メキシコ人からOKを貰ったトマス・ミリアンのメキシコ人ぶり

もう一人出演者で注目すべきは、手無しの息子、最後にスタイナーを撃ち殺した子供を演じたルチアーノ・カサモニカ Luciano Casamonica である。この子役はなんとマフィアのボス、ヴィットリオ・カサモニカVittorio Casamonicaの甥だそうで、 …E venne il tempo di uccidere(『218.マカロニウエスタンとユーゴスラビア』参照)など他にもいくつかマカロニウエスタンに出演している。『復讐無頼』にはルチアーノの兄弟のアルマンド・カサモニカArmando Casamonicaも撃たれ役のエキストラ出演しているそうだ。ルチアーノと違ってアルマンドの映画出演はこれ一本だけとのことである。
マフィアのボスの甥、ルチアーノ・カサモニカ
この後すぐ殺される若きメキシコ革命家たち。左がアルマンド・カサモニカかな?
実はペトローニはこの二つの復讐劇と同時期、1968年にジュリアーノ・ジェンマとマリオ・アドルフとで『暁のガンマン』…E per tetto un cielo di stelle という西部劇を撮っている。「コメディ路線の西部劇」と紹介されることが多い。ジェンマが仇としてその兄と父親(どちらも悪漢)に狙われて避けている(逃げているのではなく、もうこれ以上人を殺したくないからと避けている)道中で気のいい金鉱掘りのアドルフと知り合い、いわばドタバタ珍道中になる話だ。アドルフはドジでやることなすこと裏目に出るのがまあ喜劇調といえるのだろうが、結構残酷なシーンもあってどうも印象がチグハグだ。またジェンマがモテるのはいいのだが、出てくる女性がいわゆるお引きずり的な、言ってよければ尻軽女ばかりでこれも雰囲気が良くない。コンビそのものには結構味があるし、駄作・失敗作というのとはほど遠いのだが、上の二作と比べると劣ることは否めまい。
『暁のガンマン』のジュリアーノ・ジェンマとマリオ・アドルフ。コンビ自体は結構いい味を出しているのだが…


















