アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

本を出しました。詳しくは右の「カテゴリー」にある「ブログ主からのお知らせ」をご覧下さい。
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 マリア Maria という名前があるが、これをナワトル語で Malintzin という。後ろについた -tzin というのはいわば丁寧語の接尾辞で、日本語で言えば「お」だろうか。江戸時代に例えば「シマ」という名前の女性を「おシマさん」と呼んだようなものだ。-in は多分ナワトル語の音韻か形態素を整える働きだろうから、つまり Maria は Malia。要するにナワトル語は l と r の区別をしないのである。日本語やアイヌ語と同じだが、流音が一つしかない言語は別に珍しくはなく、東アジアの言語は韓国語から中国語からモンゴル語から皆そうだ。太平洋の向こう側ではナワトル語の他にケチュア語もこのタイプである。
 さらにナワトル語にはソナント以外には有声子音がない。b、d、g、z がないのである。ないというより無声子音と有声子音の音韻対立がないといったほうが正確だろう。ナワトル語には無気と帯気の対立もないから、「l と r の区別がない」と言う点ではお友達であった中国語、韓国語とは袂を分かつ。日本語には無気と帯気の区別がない点ではお友達だが、その代わりb、d、g、z などの有声子音を区別する。するはするがこれら有声音は本来の日本語には存在しなかったのではないかと言う言語学者は少なくない。これらの音は中国語の影響によって後から生じたというのである。それが証拠にb、d、g、z などの音は「ば・だ・が・ざ」というように元の文字「は・た・か・さ」に濁音を付加して表す。無声子音の方がデフォなのだ。だから日本語も昔はナワトル語とお友達だったのかもしれない。
 これらの「流音が一つ」、「無声と有声の対立がない」「無気と帯気の対立がない」という特徴を今に至るも保ち続けている言語はアイヌ語だ。それでふとナワトル語とアイヌ語はすごいお友達なのではないかと思った。スケールの大きな話だ。それだけに一掃アイヌ語が消滅寸前なのが残念でならない。
 ところがさらにナワトル語の入門書を読み進んで文法に行くと、両言語の類似点は「ふと」どころではなさそうなことがわかる。どちらもいわゆる抱合語 polysynthetic languages で、動詞の語幹を核にして人称表現、時表現などがベタベタ頭や尻にくっつき、動詞が肥大するのである。「いわゆる」と言ったのは、この抱合語という用語の意味が毎度のことながら言語学者によって少しずつ違うので、細かくこだわりだすと先に進めなくなるからだ。ここでは一般に把握されている意味での抱合語という大雑把な把握でお許し願いたい。
 前にもちょっと述べたが、ナワトル語は動詞に人称接頭辞がついて「語形変化」する。まずバレンツ価1,つまり主語だけを要求する ēhua(「出発する」)という自動詞を見てみたい。
Tabelle1-213
â という表記は母音の後ろに声門閉鎖音が続くという意味で(『200.繰り返しの文法 その1』参照)、複数形のマーカーである。接頭辞として付加される人称形態素だけとりだすと以下のようになることがわかる。3人称では単複共にゼロマーカーとなる。
Tabelle2-213
(i) と母音を括弧に入れて挿入したのは、動詞が子音で始まる場合は i が挿入されるからだ。ナワトル語は語頭には連続子音を許さないからである。例えば miqui(「死ぬ」)という動詞は次のようになる。
Tabelle3-213
二人称複数形に i がついていないのは mm という子音連続が語頭に立たないからだ。
次にバレンツ価2,主語と目的語を取る他動詞だが、主語を受け持つ接頭辞に目的語を表す接頭辞をつける。ということは主語マーカーと動詞との間にさらなる人称接頭辞が挟まってくることになる。今度はまず最初に人称形態素だけ取り出して表にしてみよう。
Tabelle4-213
主語と目的語が一致する場合は普通の人称接頭辞とは別の再帰接頭辞を使うので n(i)- +-nēch-、t(i)- + -mitz- などの組み合わせはあり得ない。3人称だけは「彼が彼を」と言う場合、主語の彼と目的語の彼は違う人物であり得るのでOKだ。itta(「見る」)という動詞で見ると:
Tabelle5-213
ここでは主語が単数の場合のみ示したが、複数主語の場合は上で見たように動詞の最後に声門閉鎖音が入るから、「彼らが彼を見る」は quittâ、「彼らが彼らを見る」は quimittâ。また「彼」は「彼女」でもあり得るのだが、面倒くさいので「彼」に統一した。
 では主語や目的語が代名詞でなく普通の名詞の場合はどうするのか。例えば「その男が死ぬ」などである。そういうときは動詞の外側に拡張子(?)として名詞を立てる。動詞の接頭辞と名詞とが呼応することになる。

ø-miqui in tlācatl
3.sg-die + the + man
その男が死ぬ

動詞の現在形は英語で言う現在進行形の意味にもなれるので、「その男が死んでいっている、死にそうだ」ともとれる。3人称の主語が単複共にゼロマーカーをとることは上で述べた。「その男たちが死ぬ」なら名詞と動詞が複数形(『200.繰り返しの文法 その1』参照)になる(太字)。

ø-miquî in tlācâ
3.pl-die + the + men
その男たちが死ぬ

自動詞なら拡張名詞が必要になるのはゼロマーカーの3人称のときだけだから、語順を除けば the man dies や the men die といった英語などと一見並行しているように見えるが、文構造の本質は全く異なる。他動詞では3人称の目的語が拡張名詞と接頭辞が呼応することになる(太字)。比較のためまず主語が接頭辞のみの一人称の例をみてみよう。

ni-qu-itta in calli
1.sg-3.sg-see + the + house
私が家を見る。

主語も目的語も3人称になると当然拡張名詞が二つになる。

Ø-qu-itta in cihuātl in calli
3.sg-3.sg-see + the + woman + the house
その女が家を見る。

基本語順は VSO なのがわかるが、目的語が不定名詞だと目的語が前に来てVOSになる。

Ø-qui-cua nacatl in cihuātl
3.sg-3.sg-see + meat + the + woman
その女が肉を食べる

さらにトピック化した名詞(主語でも目的語でも)は動詞の前に来たりするのでややこしいが、どちらの名詞も不定形だったり逆に双方定型だったりして意味があいまいになるそうなときは主語名詞が先行するのが普通だ。もっともどうしようもない場合もある。

Ø-qui-tlazòtla in pilli
3.sg-3.sg-love  + the + child

は「彼がその子を愛する」なのか「その子が彼を愛する」なのかわからない。文脈で判断するしかない。
 動詞接頭辞としてはこれらの人称代名詞のほかにも someone、something を表すものや再帰接頭辞、また方向を表現するものなどあって順番も決まっているのだがここでは省く。

 さて上で述べたようにアイヌ語も動詞に人称を表す接頭辞がつく。以下はちょっと資料が古いのだが、金田一京助、知里真志保両氏による。まず主語マーカーを見てみよう。上のナワトル語と比べてほしい。
Tabelle6-213
アイヌ語には雅語と口語の二つのパラダイムがあり、口語では一人称複数形に包含形と除外形の区別がある(『22.消された一人』参照)。日本語なら文語と口語の違いだろうが、文語、ファーガソンの言うHバリアントは必ずしも「書き言葉」とは限らない。文字を持たない言語にも古い形が口伝えで保存され、場所を限って使われ続けることがあるのだ。「口承の文語」というわけだが、いろいろな言語でその存在が確認されている。どちらにせよ形態素の形そのものがナワトル語とは全然違うので両言語間のいわゆる「親族関係」やらを云々することはできまい。だが、3人称はゼロマーカーという点が全く同じで感動する。次に目的語の接頭辞だが、目的語についても3人称がゼロマーカーになる点が上のナワトル語と異なる。
Tabelle7-213
まず主語、目的語の両方を持つ他動詞の構造を見てみよう。主語の接頭辞の次に目的語接頭辞が続き、最後の動詞語幹が来る。ナワトル語にそっくりだ(繰り返すが似ているのは構造だけで形態素そのものの形は全く似ていない)。kore(「与える」)という動詞で見ると:
Tabelle8-213
「彼が彼(ら)に与える」の形は資料にはなかったので私が再構築したものである。次に口語だが雅語と比べてイレギュラーな点がいくつかある。
Tabelle9-213
「私があなたに与える」は資料では確かにこの表のようになっていたのだが、e-kore の誤植かもしれない。事実 e-kore-ash という方言形があるそうだ。「彼が彼(ら)に与える」は上と同様私の勝手な判断である。大きく目を引く点は、主語が一人称で目的語が2人称の場合は一人称主語が脱落する。しかしここには出さなかったがその2人称目的語が尊敬形、-i- だと主語は脱落しない。この一人称は別の所でもおかしな挙動をし、例えば自動詞ではナワトル語と違って一人称主語マーカーが後置される。つまり接頭辞でなく接尾辞になるのだ。それで「入る」という動詞 ahun の雅語一人称単数「私が入る」は ahun-an。口語だと定式通りku-ahun である。ではこの一人称主語接尾辞は雅語だけの現象かと言うとそうではなく「私が笑う」は mina-an、nina が「笑う」だ。
 次に3人称の主語や目的語が普通の名詞だったらどうなるのか。アイヌ語も拡張子がつく。「私が酒を飲む」は:

sake a-ku
sake + 1.sg-drink

「あなたが猫を追う」は:

meko e-moshpa
cat + 2.sg-hunt

主語も目的語も3人称の場合は動詞が裸になる。

Seta meko noshpa
dog + cat + ø-ø-hunt
犬が猫を追う

基本的にはナワトル語と同じだ。ただアイヌ語は語順がナワトル語よりやや厳しいらしく、拡張子もSOVの一点張りらしい。
 さて上の「与える」という動詞の例だが、ちょっと待てと思うのではないだろうか。「与える」はバレンツ価が3,主語と間接目的語の他に「何を」、つまり直接目的語がいるからだ。残念ながら金田一氏の本にはそこの詳しい説明がなかったのでちょっとこちらで勝手にナワトル語から類推して考えてみよう。
 上で見たようにナワトル語の(アイヌ語も)人称接頭辞や名詞には格を表す形態素がない。だから対格目的語も与格目的語も要するに目的語、形の上での区別はないが「目的語を二つとる動詞」はある。ナワトル語文法には bitransitive (二重他動詞?)という言葉が使ってあるが、その代表が「与える」 maca だ。「私があなたにそれを与える」という場合、「私」という接頭辞が先頭、次に「あなた」が来て3番目に3人称単数の接頭辞が来るはずなのだが、目的語接頭辞は二つつくことはできないという規則があり、3番目に来るはずだった目的語3人称の接頭辞は削除される。事実上「私-あなた-動詞」という形になるわけだ。与えられたものが名詞である場合は拡張子がつく。例えば

Ni-mitz-maca in xōchitl
1.sg.-2.sg-give + the + flower(s)

は「私があなたに花をあげる」という意味になる。「花」という名詞(太字)は動詞内に呼応する要素を持たない。また花の受け取り手が「その女性」である場合は本来「私-彼女-それ-動詞」だが、「私-彼女-動詞」になり、拡張子が二つつく。

Ni-c-maca in cihuātl in xōchitl
1.sg.-3.sg-give + the + woman + the + flower(s)

「その女性」だけが動詞内に呼応要素を持ち、「花」は相変わらず宙に浮く。また3人称が主語のときは主語がゼロマーカーだから、目的語接頭辞が一つつくだけ。

Qui-maca in Pedro cōzcatl in cihuātl
ø-3.sg-give + the + Pedro + jewellery + the + woman
ペドロがその女性に宝石をあげる。

拡張子が3つ付加されているが、「宝石」は不定形だから「その女性」の前に来る。
 実は3人称の目的語が複数だった場合は複数マーカーだけ残ったりするのだが、もうこれで十分だと思うので(すでにゲップが出ている)それは無視し、基本の「2番目の目的語接頭辞は削除される」という原則にのっとってアイヌ語の「与える」kore の使い方を類推してみよう(アイヌ語ではそもそも3人称は常にゼロマーキングだが)。主語が一人称単数だと「私があなたに酒をあげる」は口語ではこうなるのではないだろうか。

Sake echi-kore

前述のように一人称単数主語は口語ではイレギュラーだが、雅語だと接頭辞が二つ、拡張子はつくが動詞内に呼応する要素がないという原則通りの形になるだろう。

sake a-e-kore

「あなたが私に酒をくれる」ならこうなりそうだ。

sake e-en-kore

問題は拡張子が二つ以上重なったらどうなるかだ。例えば「パナンペが私に酒をくれる」「パナンペが美智子に酒をあげる」はそれぞれ

Panampe sake en-kore
Panampe Michiko sake kore

とでも言うのだろうか。知っている人がいたら教えてほしい。

 前に松本克己教授が日本語、アイヌ語、さらに太平洋の向こう側のナワトル語、ケチュア語も含めた環太平洋の諸言語には一定のまとまりがあり、これによって日本語とアルタイ語は明確に袂を分かつと主張していたが、こういうのをみるとなるほどと思う。

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「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いを考えついたので追加しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 数詞というか数の数え方というか、例えば1から10までを何というのかなどは挨拶の仕方と同じく語学の授業の最初に基本単語として習うことが多いから日本語の場合も字もロクに読めないうちから数を覚えたがる人が結構いる。グッドモーニング、グッドバイときたら次はワン・ツー・スリーに行くのが順序という感覚だ。嫌な予感を押し殺しつつ仕方なく10くらいまで教えると、案の定「にひと」「さんアヒル」とか言い出す。それぞれtwo men、three ducks のつもりなのだ。それではいけない、単なる数字を勘定に使うことはできない、人とアヒルは数え方が違うのだ、人間も鳥も自動車も皆同じくtwo なら two を使えるほど日本語(や中国語)は甘くない、などという過酷な事実をそもそもまだ「私は学生です」という文構造さえ知らない相手に告げるのは(これは確か夏目漱石が使っていた表現だが)徒に馬糞を投げてお嬢様を驚かすようなことになりかねない。もっとも英語やドイツ語にだって例えば a cup of teaなど日本語や中国語に近い数え方をすることがある。日本語ではただそれが広範囲で全名詞にわたっており、単語を覚えるたびに数え方をチェックしておかなければならないというだけだ。ドイツ語で名詞を覚えるたびにいちいち文法性をチェックしておかなければならないのと同じようなもの。基本的に大した手間ではない。中国人だと中国語と日本語では数え方が微妙に違っているのでかえって面白がる。『143.日本人の外国語』でもちょっと言ったように、これしきのことでいちいち驚くのは構造の全く違う言語に遭遇したことがない印欧語母語者に多い。ただ、後になってから初めて「さんアヒル」と言えないと知らせて驚かすのも気の毒なので最近は数字を聞かれた時点で「これらの数字はただ勘定するときだけにしか使えず、付加語としての数詞は名詞によって全部違うから、後でまとめてやります」と言っておくことにしている。ついでに時々、「日本語は単数・複数の区別がなくて楽勝だと思ったでしょう?そのかわり他のところが複雑にできていて帳消しになってるんですよ。どこもかしこもラクチンな言語なんてありませんよ」と言ってやる。
 印欧語の母語者にとってさらに過酷なのは、普通日本語では数量表現が当該名詞の付加語にはならない、ということである。例えば英語なら

Two ducks are quacking.

で、two は ducks の付加語で duck というヘッド名詞の内部にあるが(つまり DP [two ducks])、日本語では数量表現が NP の外に出てしまう:

アヒルが二羽鳴いている。

という文では二羽という要素は機能的には副詞である。これに似た構造は幸いドイツ語にもある。量表現が NP の枠の外に出て文の直接構成要素(ここでは副詞)に昇格するのだ。いわゆるfloating numeral quantifiers という構造である。

Die Enten quaken alle.
the +  ducks + are quacking + all
アヒルが鳴いている。


Wir sind alle blöd.
we + are + all + stupid
我々は馬鹿だ。

ドイツ語だと副詞になれる量表現は「全部」とか「ほとんど」など数がきっちりきまっていないものに限るが、日本語だと具体的な数表現もこの文構造をとる。違いは数詞は付加語でなく副詞だから格マーカーは名詞のほうにだけつけ、数詞の格は中立ということだ。しかしここで名詞と「副詞の数詞」を格の上で呼応させてしまう人が後を絶たない。

アヒルが二羽が鳴いている
池にアヒルが二羽がいる
本を四冊を読みました

とやってしまうのだ。確かに数詞のほうに格マーカーをつけることができなくはないが、その場合は名詞が格マーカーを取れなくなる。

アヒルØ二羽が鳴いている。
本Ø四冊を読みました。

これらは構造的に「アヒルが二羽鳴いている」と似ているようだが実は全然違い、格マーカーのついた「二羽」「四冊」は主格名詞と解釈できるのに対し格マーカーを取らない「アヒル」や「本」は副詞ではない。それが証拠に倒置が効かない。

アヒルが二羽鳴いている。
二羽アヒルが鳴いている。

アヒル二羽が鳴いている。
*二羽がアヒル鳴いている。(「アヒルが二羽鳴いている」と比較)

数詞が名詞になっている後者の場合、「アヒル二羽」が一つの名詞、合成名詞とみなせるのではないだろうか。「ドイツの料理」という二つの名詞が合体して「ドイツ料理」という一つの合成名詞をつくるのと同じである。シンタクス構造が違うからそれが反映されるのか、意味あいも違ってくる。あるまとまりを持った集団に属するアヒルたちというニュアンスが生じるのだ。「アヒルが二羽」だと池のあっち側とこっち側で互いに関係ない他人同士、いや他鳥同士のアヒルがそれぞれ勝手に鳴いている雰囲気だが、「アヒル二羽が」だと、アヒルの夫婦か、話者の飼っているアヒル、少なくとも顔くらいは知っている(?)アヒルというイメージが起こる。ドイツ語や英語で言えば前者は不定冠詞、後者は定冠詞で修飾できそうな感じだ。この「特定集団」の意味合いは「二羽のアヒル」という言い回しでも生じる。

二羽のアヒルが鳴いている。

ここでの「二羽」はシンタクス上での位置が一段深く、上の「アヒルが二羽」のように動詞に直接支配される副詞と違って、NP内である。属格の「の」(『152.Noとしか言えない見本』参照)によって「二羽」がヘッド名詞「アヒル」の付加語となっているからだ。先の「アヒル二羽」は同格的でどちらが付加語でどちらがヘッドかシンタクス上ではあまりはっきりしていないが(まあ「二羽」がヘッドと解釈していいとも思うが)、「二羽のアヒル」なら明らか。いずれにせよどちらも数詞は NP内で副詞の位置にいる数詞とはシンタクス上での位置が違う。そしてこれも「アヒルが二羽鳴いている」と比べると「アヒル二羽」のイメージに近く、つがいのアヒルが鳴いている光景が思い浮かぶ。もっともあくまで「思い浮かぶ」であって、「アヒルが二羽」はバラバラのアヒル、「二羽のアヒル」ならつがいと決まっているわけではない。また後者でもそれぞれ勝手に鳴いている互いに関係ないアヒルを表せないわけではない、あくまでもニュアンスの差であるが、この辺が黒澤明の映画のタイトルが『七人の侍』であって『侍(が)七人』とはなっていない理由なのではないだろうか。あの侍たちはまさにまとまりをもった集団、固く結束して敵と戦うのだ。
 逆に集団性が感じられない、英語ドイツ語なら冠詞なしの複数形になりそうな場面では副詞構造の「アヒルが二羽」「アヒルを二羽」が普通だ。在米の知り合いから聞いた話では、これをそのまま英語に持ち込んでレストランでコーラを二つ注文するとき Coke(s) two といってしまう人がよくいるそうだ。Two Cokes が出てこない。さらにその際 please をつけないからネイティブをさらにイライラさせるということだ。
 さて、確かに二羽以上の複数のアヒルについては「集団性」ということでいいだろうが、単数の場合はどう解釈すればいいのか、つまり「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いである。これも私の主観だが、「一羽のアヒル」というと他の有象無象のアヒルから当該アヒルを区別しているというニュアンス、いわば当該アヒルが他の有象無象に対して自分のアイデンティティを確立しているニュアンスになる。「アヒルが一羽」だとそういう「このアヒル」というアイデンティティがあまり感じられず、有象無象の一員に過ぎない。実はこれが集団性の本質ではないだろうか。単数複数に関わりなく、当該人物(当該アヒル)対他者とを区別すれば集団なのである。そして既述する側が当該対象にこの集団性を持たせたいときには「一羽の」や「七人の」などの付加語形式を使う。

 それで思い出したが、ロシア語には普通の数詞(単純数詞、простые числительные)の他に集合数詞(собирательные числительные )というものがある。その名の如く複数の当該事象を一つのまとまりとして表す数詞、と説明されている(しかし集合数詞という名称がおかしい、という声もある。下記参照)。
Tabelle1-158
形としては一応10まであるが、9と10の集合数詞は事実上もう使われなくなっているそうだ。この集合数詞は単純数詞と語形変化の仕方が違う。全部見るのは面倒くさいので「3」と「5」の単純数詞と集合数詞の変化を比べると次のようになる。集合数詞と単純数詞はそもそも品詞そのものが違うことがみてとれるだろう。
Tabelle2-158
Tabelle3-158
数詞の被修飾語の名詞のほうは『65.主格と対格は特別扱い』『58.語学書は強姦魔』でものべたように、主格と対格では複数生格、その他の格では数詞と呼応する形が来る。
 日本語では数詞は語形は変わらずシンタクス上の位置が違ってくるが、ロシア語のほうは語そのものが違いシンタクス上の位置は変わらない。だから、というのもおかしいが使い方・意味合いも日本語の「アヒルが二羽」と「二羽のアヒル」と違い、なんとなく別のニュアンスなどというあいまいなものではなく使いどころが比較的きっちりと決まっている。例えば次のような場合は集合数詞を使わなければいけない。
1.ロシア語には形として単数形がなく複数形しかない名詞があるがそれらに2~4がついて主格か対格に立つとき。なぜなら2~4という単純数詞には単数生格(本当は双数生格、『58.語学書は強姦魔』参照)が来るのに、その「単数形」がないからである。

двое суток (主格はсутки で、複数形しかない)
two集合数詞 + 一昼夜・複数生格

трое ворот (ворота という複数形のみ)
three集合数詞 + 門・複数生格

четверо ножниц (同様ножницы という複数形のみ)
four集合数詞 + はさみ・複数生格

2.дети(「子供たち」、単数形はребёнок)、ребята(これもやはり「子供たち」、単数形はребёнокだがやや古語である)、люди(「人々」、単数形は человек)、лицо(「人物」)という名詞に2~4がついて主格か対格に立つとき。

двое детей
two集合数詞 + 子供たち・複数生格

трое людей
three集合数詞 +人々・複数生格

четверо незнакомых лиц
four集合数詞 + 見知らぬ・複数生格 + 人物・複数生格

3.数詞の被修飾語が人称代名詞である場合。

Нас было двое.
we.属格 + were + two集合数詞
我々は二人だった。


Он встретил их троих.
He + met + they. 属格 + tree.集合数詞
彼は彼ら3人に会った。



その他は基本的に単純数詞を使っていいことになるが、「も」も何もそもそも単純数詞の方がずっと活動範囲が広いうえに(複数形オンリーの名詞にしても、主格対格以外、また主格対格にしても5から上は単純数詞を使うのである)、集合数詞は事実上8までしかないのだがら、集合数詞を使う場面の方がむしろ例外だ。集合数詞、単純数詞の両方が使える場合、全くニュアンスの差がないわけではないらしいが、イサチェンコ(『58.語学書は強姦魔』『133.寸詰まりか水増しか』参照)によるとтри работника (3・単純数詞 + 労働者・単数生格)とтрое работников(3・集合数詞+ 労働者・複数生格)はどちらも「3人の労働者」(または労働者3人)という完全にシノニムで、трое などを集合数詞と名付けるのは誤解を招くとのことだ。歴史的には本来この形、例えば古スラブ語の dvojь、 trojь は distributive 分配的な数詞だったと言っている。distributive などと言われるとよくわからないがつまり collective 集合的の逆で、要するに対象をバラバラに勘定するという意味だ。チェコ語は今でもこの意味合いを踏襲しているそうだ。

 そうしてみると日本語の「アヒルが3匹」と「3匹のアヒル」の違いとロシア語の集合数詞、単純数詞の違いはそれこそ私がワケもなく思いついた以上のものではなく、構造的にも意味的にも歴史的にもあまり比較に値するものではなさそうだ。そもそも単数にはこの集合数詞が存在しない、という点で日本語とは大きく違っている。まあそもそも印欧語と日本語の構造を比べてみたって仕方がないと言われればそれまでだが。

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 異分析と言う言葉がある。英語で metanalysis(a が一つしかないのは誤植ではない)または resegmentation といい、単語に誤った形態素分析を食らわすことである。試しに英語の言語学事典で metanalysis を引くと metanalysis (hist) A word deriving from a word-boundary error: となっているのでもわかる通り、本来歴史言語学の用語だ。言語変化の主要要因となる現象だ。ただ、この異分析は非常に頻繁に見られ、時に「間違って」ではなくワザとやったりする場合もあるので歴史言語学どころか、言語学の範囲も逸脱して普通の言葉(?)として使われている。専門用語性が薄れてしまったのか、統一でなくバラバラな言葉で表現される。英語は上の二つの他に rebracketing という言い方があるそうだ。ドイツ語でも Metanalyse、Gliederungsverschiebung などいろいろな言い方がある。おかしなことに手元のドイツ語言語学事典にはどれも載っていない。もっともダテに「いろいろな言い方」があるわけではなく、metanalysis はあくまで語レベルの誤分析のみで、文レベルでの誤分析の resegmentation (「再分析」)と区別するそうだ。まあここではあまりうるさく分けないで全部「異分析」と呼んでおこう。
 
 上記の英語事典では a naddre → an adderという例がのっていた。naddre というのは蛇(の一種)で、西ゲルマン祖語では * nadrā、現在のドイツ語ではNatter といい、本来 n- で始まる言葉だった。この頭が中期英語の頃から冠詞の一部と御解釈されてしまい、近代英語ではan adder、つまり adderと語形変化してしまったのである。このn の脱落は純粋な音韻規則では説明できない。面白いのは西ゲルマン語派内の n- の分布状況で、近代英語はn- ナシだが、方言によってはn- つきの nedder という形が残っているらしい。大陸へ飛ぶと、中期低地ドイツ語は nâder とn- があったのが、現在の低地ドイツ語ではAdder になってしまった。オランダ語も中期に n- つきとn- ナシが混在しはじめ、現代オランダ語ではn- ナシのadder が標準。アフリカーンスも同様である。高地ドイツ語でもやっぱり中期に n- ナシ形が現れはしたが、上記のように現在ドイツ語、新高ドイツ語では本来の n- つきを使っている。高地ドイツ語でもルクセンブルク語(『174.三度目の驚き』参照)とその隣のリンブルク方言(南部下フランケン語)では Adder だ。一方で低地ドイツ語のフリースランド語は n- つきである。これをボーッと見た限りでは n- ナシ形は16世紀ごろの英語あるいは中期低地ドイツ語で発生しそこから大陸に広まったが、高地ドイツ語では今一つ押しが足りず、元の形を語変換させるまでには至らなかったという図になりそうだ。アフリカーンスがオランダ語から分離し始めたのは16世紀ごろだから、つまりオランダ語でこの変化が起こってからの分離ということになり計算は合っている。英語以外の西ゲルマン諸語では 不定冠詞がa という形でなく ein(ドイツ語)、een(オランダ語)など子音の前でも n- がついているから a naddre → an adder という図式はそのままでは当てはまらないが、ちょっと変更して een nadder → eenn adder という風に考えればまあ当てはまる。問題は低地ドイツ語のくせになぜフリースランド語に n- がついているのかということだが、英語の一部の方言形と同様、これも波動説で説明可能だ。つまり文化的辺境地には言語のイノベーションが浸透せず古形が残りやすいという理屈だ。
 いろいろ思索は尽きないが、要するに異分析というのは本来歴史言語学の用語であるということが言いたかっただけである。

 ロシア語でも異分析によって語の形が変化する例がある。今ちょっと思いつくのは зонт(「傘」)という語で、これは元来は зонтик という形だった。これはオランダ語の zonnedek からの借用語である。ドイツ語で言えば Sonne-deck で「日覆い」、要するに雨傘・日傘の区別なく「傘」である。ここまでは無事だったのだが、そのうち зонтик の後部 -ик がロシア語の縮小辞 -ик (『97.拡大と縮小』参照)と混同されて зонт-ик と異分析されるようになってきた。本当は зон-тик のはずなのだ。おかげで зонтик は「小さい зонт」と誤解釈され、「小さい」なんて失礼だから(?)とっぱらって本体だけにしろということになり、зонт になってしまった。元のオランダ語が泣いているぞ。  
 もう一丁思いつくのがこれもロシア語の рельс という言葉だ。「線路」という意味で、英語からの借用である。借用であるがどういうわけか複数形 rails を取り入れてしまった。さらにそこで最後の -s が複数マーカーだと意識されず -s のついたまま単数形扱いになったからたまらない。本来の複数形がロシア語ではさらに複数になる。変化形を見てみよう。全形ウザく(本来複数形の) -c-(-s-)が入っている。フツーで面白味に欠ける語形変化だ。
Tabelle1-212
もしここで rail と正しく単数形を借用していればいわゆる軟音変化になるから次のような美しいパラダイムになっていたはずだ。返す返すも残念だ。
Tabelle2-212
 日本語の例としては「あかぎれ」がそこら中で挙げてある。これは新語あるいは新しい形の形成までは行かず、単に誤解釈されている段階だが、この「あかぎれ」を「あか+ぎれ」と解釈する人が後を絶たない(すみません。私もやってしまいました)。しかし本当は「あ+かぎれ」であって、「あ」が「足」、「かぎれ」は本当は「かがれ」で、「ひびがきれる」だそうだ。「あ・かぎれ」を知っていた人は「あか・ぎれ」解釈した人を無知呼ばわりするかもしれない。しかし待って欲しい。「あか・ぎれ」解釈には理由があるのだ。まず足を表す「あ」と言う言葉も、ひびがきれるという意味の「かかる」も共時的には、つまり現在日本語には存在しない。「あ」を足の意味で使っていたのなど上代であるのに加えて、現在では足ばかりでなく手にできても「あかぎれ」で、足との関連性がさらに薄くなっている。つまり「あ」も「かぎれ」あるいは「かがれ」もとっくの昔に廃れた言葉であり、今の私たちにとっては外国語と同じ。そういう意味不明な言語音が並んだ場合はどうしても現在日本語の音韻解釈のメカニズムが働く。『204.繰り返しの文法  その2』でも述べたように日本語はフットと言う単位があり、2モーラでまとまりやすい。その2モーラがまた倍になって4モーラになる。倍々解釈だといわゆる語呂がいいのだ。だから略語など4モーラのものが圧倒的に多いのである。パソコン、あけおめ、ことよろなど皆2モーラ+2モーラの4モーラ構造だ。例えば「非英語」などは形態素の意味がはっきりわかっているから誰も「ひえ・いご」などと分析することはないが、形態素の意味がわからない古代語や外国語など、この語呂追及メカニズム(?)が働いて2+2モーラ解釈になるのは自然なことだ。
 悔し紛れで申し訳ないが「あ・かぎれ」ができたからといって威張っている(失礼)そこの人が「ウラジオストーク」をどう分析するか興味がある。実は私は夏目漱石だったか田山花袋だったかの小説で「浦塩」という表現を見た。つまりウラジオ・ストークと分析しやがった人が少なからずいるということだ。つまり最初の4モーラがまとまったのである。もちろんこれはウラジ・オストーク(ヴラジ・ヴォストーク)が「正しい」のだが、外国語が一旦日本語に入った以上、日本語のリズムや語呂感覚に支配されるのは当然なことだ。
 要するに異分析にはそれなりの理由があるので、必死にそれを矯正しようとしたり知らなかった人に対してベロベロバーしたりしてもあまり意味がない。黙ってその発生メカニズムを調べればそれでいいのである。確かにいわゆる民間語源にはスリルのありすぎる説も多いがそれはそれで味があるのではないだろうか。

 間違った分析をする人が多数派になるとその間違いが正しい方を押しのけて定着してしまい、言語そのものが変化する原動力になる。まさにみんなでやれば怖くないだが、そのように強力に表面上に現れなくても水面下と言うか、個人レベルというか、単発で起こる異分析も日常頻繁にみられる。
 例えばドイツで子供が親に「Abschauer って何?」と聞いてきたことがあるそうだ。そんな言葉はドイツ語にはない。動詞の abschauen ならあるが、これは方言形で標準ドイツ語では absehen(「見て取る」)だ。-er は英語と同じく「~する人、~するもの」だから理屈としては Abschauer という造語は可能ではある。が、その子供は周りで誰かが使っているのを見て意味を聞いてきたのだから自分でそういう「造語」をしたわけがない。一方その子はそんな事実上存在しない語が使われるような特殊な言語環境にはいない。聞かれた親は非常に面喰ってどこでそんな言葉を聞いたのか尋ねてみたら、その子はTVで誰かがAb und zu Schauer と言っていたと答えたそうだ。これは「時々雨」という意味で多分その時天気予報か何かをやっていたのだろう。 Ab und zu は熟語で「時々、折によって」という副詞。Schauer は英語の shower だ。これを Ab- und Zuschauer と異分析したのだ。ドイツ語では(英語やロシア語だってそうだ)後部形態素が同じの単語を並べる場合、エネルギー節約のため共通要素は最後に一回だけ表示、言い換えると最初の単語では違っている部分だけ書いてハイフンでつなく。例えば「国内および国外」は In- und Ausland。これは Inland und Ausland の省略形で、共通形態素 Land(「国」)を最後に一回だけ出す。だからこの子はAb und zu Schauer を Abschauer und Zuschauer と勘違いしたのだ。 Zuschauer という言葉はある。映画や演劇の観客のことで、使用頻度の非常に高い語だ。子供でも知っているだろう。残る Abschauer を知らなかったのだ。知らないはずだ、そんな言葉はないんだから。
 しかしこうやって異分析のメカニズムを追ってみると、異分析(勘違い)ができるためには結構高度な言語能力が必要なことがわかる。まずドイツ語の省略規則をマスターしていなければいけないし、Zuschauer など普通の単語は知っていなければいけない。やっと定冠詞の変化を覚えた程度の初心者などそもそも間違えることさえできないのだ。同様に「あ・かぎれ」を「あか・ぎれ」、「ウラジ・オストーク」を「ウラジオ・ストーク」とやるためには日本語の音韻を完璧にマスターしていなければいけない。「52」と「ご自由に」、「病院」と「美容院」がゴッチャになるような発音の悪い学習者にはできるワザではない。繰り返すが馬鹿には異分析はできないのである。

 子供で思い出したが、そういえば日本語には都市伝説となっている異分析がある。「重いコンダラ」だ。昔流行った『巨人の星』というアニメのテーマソングに「思い込んだら試練の道を」というフレーズがある。ここの画面が主人公星飛雄馬がグラウンド地ならしのローラーを引くものであったためにそれを聞いた子供が地ならし器具を「コンダラ」というのかと勘違いしたというものだ。確かにあのローラーは重いから「重いコンダラ」というわけだ。しかし上で「都市伝説」とはっきり書いたように私はこの話の信憑性には大いに疑問があると思っている。まず私の記憶によればそのフレーズが流れる時ローラーなど出てこない。第二にあの器具は当時小学生でも皆「ローラー」と呼んでいた、つまり誰でも名前を知っていたから仮にどこかに言葉を知らない子供がいて「コンダラ」と思い込んだとしても速攻で周りから修正されて表の話になど出てこなかったはずだ。第三に私がこの話を聞いたのはすでに大人になってからだ。もしこの異分析が本当に当時の子供発祥なら大人になるまでのどこかで当該器具を「コンダラ」と呼んでいたクラスメートに遭遇していたか少なくともそういう子がいると聞いていたはずだ。そんな子はただの一人もいなかったしそんな話も一度も聞いていない。
 だからこれは実はしばらく経ってから大人が小話としてこの異分析を考えつき、話を面白くするために架空の子供をでっち上げたに違いない。新語が子供の間違い、異分析から広まることなど滅多にない。大人が集団で間違えるから言語変化につながるのだ。

この物体の名称はローラーかコンダラか。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/94/Kondara_J09_01.jpg から
Kondara_J09_01
 それに異分析を言葉遊びとしてワザとやるのは決して珍しい事ではない。というより言葉遊びの主要テクの一つである。少し前にロシア語でこんな例をみかけた。
 ウクライナ戦争が始まったころ、爆撃された町で中年の女性がインタビューされていた。戦争中だからいくら外国のTV局のインタビューでも服装なんかに構っていられない、まさに普段着、着の身着のままのTシャツ姿であった。その着の身着のままのTシャツの柄がいくらなんでもあまりにも状況にそぐわず、視聴者の目を射たのである。ラバーダックというのか、黄色い可愛いゴムのアヒルが行列行進している絵に работаю сутками の文字のある白いTシャツだった。あまりにも可愛すぎる、あまりにも平和すぎる図柄だ。これほど状況にそぐわない服装はない。その文字 работаю сутками を私は自動的に работаю с утками と解釈した。 работаю が「働く」という動詞の一人称単数、 с は英語の with で「~と共に」、утками は утка(「アヒル」)の複数造格で、全体では「私はアヒルといっしょに働く」。どうも発話状況が想像しにくい文である。ところがこれはアヒルの絵につられた私の目の錯覚で、よく見ればTシャツに書いてあったのは上記のように работаю сутками だ。с とутками の間にスペースはない。スペースなしの сутками は名詞の сутки (「一昼夜」)の複数造格だ。「複数」と書いたが、この語には単数形がないのでどうせ複数形しかない。それが造格になっているのは場所や時間を表す名詞は造格で副詞化し「~を通って、~の間(中)」という意味を担うことができるからだ。例えば英国の歌手が勝手にパクったため(?)理不尽にも原曲は西欧の曲だと勘違いされることが多い『悲しき天使』という流行歌だが、この原曲はトロイカの旅をモチーフにしたロシア語で、その歌詞には造格名詞がガンガン登場する(inst というのが造格)。

Ехали на тройке …
drive-past.3.pl + on + troika-sg.prep …
Дорогой длинною, да ночкой лунною,
road-sg.inst + long-sg.inst + and + night-sg.inst + moonlit-sg.inst
(遠い道を通り、月明かりの夜をついで、トロイカに乗っていく)

形容詞まで造格形になっているのは修飾先の名詞と呼応しているからだが、その際語尾が名詞と少し違う形をしている(下線)。この語尾は古い形いわば文語形で、名詞につくこともある。だからここでは口語と文語が混ざっているわけだ。スタイル上の工夫だろう。これと比べると件の文は大分文学性に欠けるが、造格の働きは同じだ。

работаю сутками
work-1.sg + day and night-pl.inst
(私は何昼夜もぶっ続けで働く)

発話の文脈など考える必要もない、実にすっと理解できる文だ。

アヒルのTシャツは現在でも発売中。
https://mayki.kz/product/774682/manlong から

sutkami
 これに本来全く無関係なアヒルの絵を付加すれば誰でも目の錯覚を起こしてработаю с утками と異分析してしまう。つまりこのTシャツの柄は異分析を誘発する言葉遊びなのだ。非常に上手い。しかもその後調べてみるとこの「アヒルと働く図」は結構ポピュラーらしく、いろいろな製造元からTシャツばかりでなくこの図柄のマグカップなども出ている。中にはスペースを入れた異分析形の работаю с утками の方をフレーズにしているものも多くみられた。
 なお、работаю сутками  с утками とすれば「私は何昼夜もアヒルといっしょに働く」という意味になる。

スペースをきちんと入れたバージョンもあります。
https://www.ozon.ru/product/futbolka-stavart-921043582/ から

utkami

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肝心なことを言い忘れていたので付け加えました。「規範文法」と「記述文法」との争い(?)はまあ毎度のことですが…

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。


 日本語には「語学」とかいう奇妙な言葉があるので言語学者が大迷惑していることは前にも書いたが(『34.言語学と語学の違い』、どうして素直に「外国語」と言わずに「語学」などというのだろう)、「国語」という言葉のおかしさも相当なものだ。実質同じ言語でもネイティブの人が学校でやると国語と呼ばれ、外国人がやると日本語になる。日本の大学で日本語の研究をすると国語学と呼ばれ、ハーバード大学で同じことをすると日本語学になる。では、小学校に日本語のネイティブでもなく日本国籍でもない子供がいたらどうなるのか。その子と日本人のクラスメートとではいっしょに同じ授業を受けていても対象言語の呼び名が違うのか?。それとも「国語」というのはあくまで学校の科目の名前であって、言語そのもの、つまり日本語は二次的に指示しているだけなのか。日本語は「学校の国語という授業で教わる内容」、日本の大学の「国語学」という学科で扱う言語ということか。でもどうして日本国内でだけいちいち「授業の名前」と「その内容」を分けるのだろう?ネイティブ非ネイティブの区別なく、一律「日本語」「日本語学」にしてはいけない理由はなんだろう。現に他の国では小学校の科目は「ドイツ語」「英語」「フランス語」、それを研究する学問は日本人が勉強しようがドイツ人が勉強しようが「ドイツ語学」「英語学」「フランス語学」である。それとも国語とは日本の土着の言語を国内でという意味か?ではアイヌ語も国語なのか?
 とにかく、この国語という言葉は気持ちが悪いし(失礼)研究も国際的になった昨今不便なので当時の筑波大学などでは「国語学」「国文学」という学科名を使わず、日本人がやっても「日本語学」「日本文学」と言っていた。もっともこれが命名だけの問題なら実際に害があるわけでもないからどうでもいいといえばいいのだが、困るのは「国語学」と「日本語学」では日本人の学者が日本でやっても内容が微妙に違い、研究者の顔ぶれから用語から論文に掲げてある参考文献から変に分かれてしまっているということだ。「日本語学」の学者は一般言語学をやっているからチョムスキーの樹形図を使って文の構造を図示したりする。別に生成文法が専門でなくてもあの図はわかりやすいからだ。また助詞という言葉を使わず不変化詞 particle あるいは後置詞 postposition と呼ぶことが多い。ごく大雑把に言って「国語学」というのは明治以前にすでに蓄積されていた言葉の研究・文献学の伝統、特にその用語を踏襲し、「日本語学」は明治以降西洋から入ってきた言語学の一環として日本語を分析する学問だといっていい。問題はその二つの分野がまだ完全に統合して例えば「ドイツ語学」のような明確な一つの分野になっていない、変な譬えでいえば水と油がまだ十分に攪拌されていないのでなめらかなクリーム状になっておらず、水の部分と油の部分がはっきりわかり、ちょっと食べにくそうな様相を呈していることだ。
 その「国語」と「日本語」の戦いが最も泥沼化しているのがいわゆる「学校文法」ではないだろうか。国語学で発展した文語の記述方法を無理やり現在の日本語に当てはめる。だからパラダイムが実際の言語に合致していない。全くの同形を終止形と連体形という二つのカテゴリーに分ける一方明確に異なる形をそれぞれ未然形、連用形という一範疇に放り込む。あまり整合性がとれていない。五段活用、上一段・下一段、カ・サ行変格活用などの用語も「国語」からそのまま持ってきたもので、古語から現代日本語へのパラダイムの変化が掴めるという利点はあるが、共時オンリーの外国人用の日本語ではそれぞれ第一グループ、第二グループ、第三グループとよりわかりやすくスッキリしたグループ分けになっている。古語文法の由緒ある命名を捨てたくない気持ちはわからないでもないが学校の国語の授業でもこちらを取って悪いことはあるまい。もっとも第一、第二、第三という名前もちょっとイメージがわかないのでそれぞれ「あいうえお活用」「いいえ活用(動詞語幹が「い」か「え」で終るから)」、「来る・する活用」とかもっと楽しそうに命名したらどうだろう。

 さらに「国語」でやらされる学校文法は規範性を持っている。「学習者にはこう説明しなければいけない」「こういうことになっている」という指示が上から来る。学習要綱がガッチリ決められている。念のため言っておくが私はこの規範性を全面否定する気はない。義務教育の子供たちが相手ならむしろこれは必要だろう。何処でも誰からでも安定して統一的な内容の説明がなされ、ある程度「こうしなさい」と言ってもらわないと子供は混乱する。だがすでに思考力の発達した大人にこれをやるのには私は懐疑的だ。文法というのは本来話者によって一人一人違う。ネイティブは皆自己の中に自分だけの文法体系を持っているといっていい。だから言語にはいろいろと揺れがあり、二言目には「私の言語感覚では」という言葉が出てくるのだ。文法とはその言語感覚を客観的に偏見なく説明記述したものだ。ネイティブAとネイティブBはむしろ違った説明、違ったやり方であるほうがいいと私は思っている。「おやこの説明は前の人と違う」と気付けば、それらの違った説明間の共通点・分母は何かを自分で見つけ出す。説明の仕方は違っても言っていることは同じだと気付く部分がある。ネイティブ誰もが同じことを言っている部分、いわば最重要点とそうではないまあそんなに神経を使わなくていい(できれば使ってほしいが)部分の違いが実感としてわかり、当該言語に対する理解が深まるからだ。私はそれが大人の語学だと思っているので、問答無用でやたらと構文を暗記させるオウムの調教のようなやり方はどうも好きになれない。前にも書いたが、自分の使っている語学の教科書に書いてあることを「これは素人が混乱しないように苦し紛れにやっているウソの説明だ」と初心者の私たちに堂々とチクったロシア語の先生に好感を持った。自分たちが大人扱いされたような気がしたのである。
 もっとも大人の学習者の中にも理論や深い理解なんかどうでもいい、手っ取り早く通じればそれでいいという人もいる。それはそれでその人の考えだから批判する気は全くない。また大人相手にそういう授業をする人にイチャモンを付けるつもりも全然ない。ただ日本語に興味をもってやってくる人の中には「こんにちは・さようならなんて挨拶はどうもいい。それより日本語の音素の数を教えてください」とか言ってくる人が実際にいるのだから、そういう人用の授業をやる人がいても害にはなるまい。問題はこうしろタイプの人が学習者でもなく部下でもない他の教え方をしている人に対しても「それではいけない」と言ってきたりすることだ。文法は規範であるという意識がしみついていて、「どちらがより頻繁に使われるか」でなく、二言目には「どちらが正しいか」と言い出すタイプ。これにはさすがに「うっ」と思わざるを得ない。
 
 日本語では例えば「渡る」「走る」「登る」「飛ぶ」といった動詞が「~を」を取ることがある。「アメリカに渡る」対「橋を渡る」、「公園で走る」対「先頭を走る」または「マラソンで走る」対「マラソンを走る」、「富士山に登る」対「富士山を登る」、「月まで飛ぶ」対「空を飛ぶ」などである。これを私は今まで単純に「動詞によっては自動詞と他動詞のどっちにもなるものがあるんですよ」と説明してきた。こういう現象は他の言語にもある。例えばドイツ語の lesen(「読む」)なら

Ich lese jetzt. (私は今読書している)
I + be reading + now

は自動詞だが

Ich lese jetzt das Buch. (私は今その本を読んでいる)
I + be reading + the book + now

は他動詞。sterben(「死ぬ」)など自動詞でしかあり得なさそうな動詞も

Er starb einen schrecklichen Tod
he + died + a + terrible + death
(彼は恐ろしい死を死んだ→彼は恐ろしい死に方をした)

と、他動詞になることがある。またドイツ語では動詞の前にbe-という形態素がつくと意味は変わらないままバレンツだけ変化して自動詞が他動詞になることがある。steigen(「登る」)は自動詞だが、

Sie steigen auf den Berg.
they + climb + up + the + mountain

これにbe-がつくと前置詞がつかず、「山」が対格の直接目的語になる、つまり他動詞に変化するのだ。

Sie besteigen den Berg.
they + climb + the + mountain-対格

英語ではどちらも climb 、つまり動詞が自動詞にも他動詞にもなるわけで、日本語の「山に登る」と「山を登る」に対応している。「同じ動詞に他動詞的用法と自動詞的用法がある(ことがある)」、この説明でまずいことがあるのだろうか?そもそも世の中には他動詞、自動詞の両機能を持つ動詞を表すambitransitive verb(「両義動詞」とでも訳したらいいのか)という言葉が立派に存在するのだ。

 ところが前にそんな雑談をしたら日本語の語学教師をしている人から「そういう説明ではいけない」と言われたことがある。曰く:国文法では「登る」や「飛ぶ」、「泳ぐ」は自動詞だから、「空を飛ぶ」「山を登る」の空や山を対格・直接目的語とは説明しないことになっている。この場合は「~を」は対格ばかりでなく場所も表わすのだと言わないといけない。は?つまり「~を」は対格ばかりでなく処格をも表わすと説明しろということか。定義の方向が私と正反対だ。私は(というより普通は)バレンツ構造によって動詞を定義する、言い換えると「「~を」という対格を取るから他動詞、取らないから自動詞」なのに対し件の人は動詞を最初に定義してからバレンツを決め「他動詞だからこの「~を」は対格、自動詞だからこの「~を」は別の格」と決める理屈になる。この発言に対して私が言いたいことは次の2点である。
 第一に「~を」のつく対格というのは主格と同様非常に安定した格で、シンタクス上の振舞いもはっきりしている。トピックマーカーや連体格の「~の」との共存は不可(『152.Noとしか言えない見本』参照)、また日常会話では頻繁に省略される。例えば

君、この本もう読んだ?

などの文であるが、これは主格と対格の動詞のバレンツ要素としての力が極めて安定しているからだ。「~に」になるとこうはいかない。与格、奪格、向格、存在処格の4つの格を想定しなければシンタクス上の特徴が説明できない。存在処格の「~に」は省略できるが他はできない。また「~の」との共存も不可能だ。また他の言語を見ても主格と対格には特別なステータスがあることが多い。種々の言語で他の斜格を対格から派生させるメカニズムを持っているのがいい例だ(『65.主格と対格は特別扱い』『169.ダゲスタンの言語』参照)。つまり対格は安定度が大きく、この対格を基準にして、それを目的語にする動詞を特に他動詞と名付けるのは理屈が通っている。現に英語の辞書を見ても同じ動詞の項に v.i と v.t と分けて意味が列挙してある。さらに同じ動詞でも自動詞としての用法と他動詞としての用法はごっちゃにならない。例えば「飛ぶ」ならば、

空を飛ぶ (他動詞)



月に飛ぶ (自動詞)

のどちらかで、

* 空を月に飛ぶ。

とは言えない。それを言いたければ

空を飛んで月に行く。

あるいは

空を通り抜けて月に飛ぶ。

と、バラさなければいけない。要するに両立を許さないような二つの機能が一つの動詞に共存しているということだ。これらは少なくとも機能上では別の動詞といっていい。その機能の全く異なる動詞を無理やり一緒にして他動詞か自動詞かのどちらかに固定しそれを基準にして文要素の格を決めろというのは本末転倒だ。
 第二にそもそも他動詞・自動詞という用語は西欧の文法の(ということはもともとはラテン語文法だろうが)の transitive、intransitive の訳語だ。ドイツ語の辞書や言語学事典には transitiv を「対格目的語をとる動詞」とはっきり定義してある。事実上格変化パラダイムを失った英語では受動態が形成できるか否かなども基準に持ってきているが、「対格目的語を取る動詞を他動詞と名付ける」という根本は変わらない。ところがこの最初の明確な定義、これが翻訳語であるということが国語辞典ではないがしろにされ、「他動詞」の項を見ると「他動を表わす動詞」という必殺なトートロジー定義がしてある。私の持っている辞書ではそこにさらに「英語などでは、目的語を必要とする動詞」と付け加わっている。まるで他動詞という用語が本来国語学発祥で、英語などの文法での定義の仕方のほうが邪道ででもあるかのようだ。別の意味でこれも本末転倒である。

 その辞書では自動詞は「その語の表わす作用が他に及ばず、目的語をとらない動詞」とあるが、この作用云々というファジーな定義は他でも見かけた。『問題な日本語』という本では他動詞を「その表わす動作・作用が、直接他に及ぶ意味を持つ動詞」、自動詞は「その表わす動作・作用が、直接他に及ばないで、主体の動きや変化として述べられる動詞」としてある。対格目的語という言葉は定義には全く現れない。ではモロ他動詞の「読む」という動詞を使った「本を読む」という動作で、いったいどういう作用が本に及んだのだ説明してもらいたい。なぜ「本を読む」が他動詞で「読書する」が自動詞なのか説明してもらいたい。「映画を見る」もそうだ。見られることで映画が何かの影響を被ったのだろうか?これらは考えようによれば「主体の動きや変化」ではないのか?それによって主体はひとつ賢くなったからである。
 そこではさらに「~ヲと言えても、対象を表さず、①移動する場所(道を歩く)、②相対的位置(先頭を走る)、③経過する時間(不遇の一生を送る)、④基準となる境界線(土俵を割る)、⑤離脱点(学校を卒業する)、⑥不在の場所(学校を休む)などを表わすものは自動詞」としてある、だから「街道を行く」は自動詞なのだそうだ。上述の語学教師と言っていることが同じところを見るとこれが国語をもとにした語学教育のコンセンサスなのだろうか。これに対して私の言いたいことは次の3点である。
 まずここでは⑥までしかないが、いくらでもこれを意味分けしてさらに項目を増やすことが容易、つまりいつまで経っても定義が終らない。そのうえ例えば「一生を送る」や「土俵を割る」が自動詞で「荷物を送る」や「お皿を割る」が他動詞という差がひとえに名詞の意味の取り方にかかっていて基準が恣意的だ。
 これは多分「対象」というこれもまた訳語の意味をハズしたからではないだろうか。これは object のつもりだろうが、ここの話題は言語の文法なのだから、object は「対象」あるいは「モノ」ではなくて「目的語」である。これを「対象」と理解するからいわゆる(手で掴めない?)モノでないものは「対象ではない」と考えたのだろう。時間だの基準だの場所だのは「対象」ではないかもしれないが、目的語であるという事実は変わらない。
 さらに第3点として「~を」のほうをいじり、格の観念を無視して「~を」が「対象」(繰り返すがここは「目的語」というべきだ)を表わさないことがあると言い切ってしまうと「山に登る」と「山を登る」の意味の差がうまく説明できない。『問題な日本語』では別の個所で「山に」は到着点を表わすので、前者は頂上に着いたという意味、後者は山麓から頂上に至る移動の地点を表わす、とある。上の①に相当するということなのだろう。しかし「山を登る」の「山を」と上で挙げた「道を歩く」の「道を」は意味的に大きく違う。後者には明確な出発点も到達点もない。さらになぜ「頂上まで山を登る」、「頂上まで山に登る」がOKで「頂上に山を登る」がダメなのか説明できない。理屈から言えば「頂上まで山に登る」は到達点の表示がダブっているから冗長となり、許容度が落ちるはずだが、私の感覚ではこの文は全く問題がない。逆に「頂上まで山を登る」と「頂上に山を登る」は文の意味は同じはずなのに(どちらも頂上が到達点)後者だとなぜダメなのか?対象の意味を細分化して説明しようとすればするほど「あちらをたてればこちらが立たず」的になっていく。
 一方これを動詞のバレンツから説明すれば実にスッキリ行く。「頂上まで山を登る」の「登る」は他動詞的用法で、「山を」が直接目的語である。動詞のバレンツはすでに満たされているが「頂上まで」は補足語だからバレンツ核には触れず、「山を」と共存できる。「頂上まで山に登る」の「登る」は自動詞で向格目的語がバレンツに含まれる。それで先の他動詞と同様バレンツは全てふさがっているがそこにさらに補足語(「頂上まで」)が加わることには何ら問題がない。しかし「山を頂上に登る」や「頂上に山を登る」は別だ。「山を」は他動詞のバレンツ、「頂上に」は自動詞のバレンツで、二つの違ったバレンツ要員、つまり共存不可な要素がセンテンス内でカチあってしまっている。だからこれだけボツなのである。上で挙げた「空を月に飛ぶ」と同じだ。また「頂上まで山を登る」、「頂上まで山に登る」のほうがそれぞれ「山を頂上まで登る」、「山に頂上まで登る」より自然な理由もバレンツで説明できる。動詞とそのバレンツ要素はできるだけくっ付いていた方がいい、間に邪魔者が入らないほうがいいからだ。「田中さんと東京へ行く」のほうが「東京へ田中さんと行く」より自然、「コンビニでおにぎりを買う」のほうが「おにぎりをコンビニで買う」より自然なのも同じ理由。「東京へ」や「おにぎりを」は動詞が要求するバレンツ要素であるのに対して「田中さんと」や「コンビニで」はなくても文が成立するオプショナル要素で、この「いなくてもいいお邪魔虫」がバレンツ間にしゃしゃりこむと自然度が落ちる。一方「頂上に山を登る」と「山を頂上に登る」では「山を」「山に」の双方がバレンツ要素なので自然度の差などなくどちらも一律にボツなのだ。実に簡単な理屈だ。「自動詞」に固執してしまうとこんな簡単な説明さえできない。
 さらに「プールで泳ぐ」がOKなのに「山で登る」がいけない理由もバレンツを出発点にすれば説明できる。自動詞としての「泳ぐ」は主語以外の要素がバレンツに含まれない、バレンツ価1の動詞だが、自動詞の「登る」はバレンツ価2,つまり向格が必須である。「山で登る」はその必須の向格が満たされていないのにそれを差し置いて補足語の処格が来ているからNGなのである。

 以上の理由で私は対象の意味を細分化する説明はやや非科学的で本末転倒だと思うのだが、そういう説明の仕方をすること自体には全くイチャモンをつける気はない。先にも言ったようにいろいろな説明の仕方があっていいと思うからだ。ただ「一つの動詞が他動詞的用法と自動詞的用法に分かれることがある。「空を飛ぶ」は他動詞だ」と説明している人を「それじゃあダメだ」と上から目線するのは引っかかる。考えてみてほしい。動詞のバレンツから自動詞・他動詞を決めるタイプの講師に学習者が「この「~を」は対格じゃない、つまりこの動詞は自動詞だとしてはいけないんですか?」と質問してきた場合、こちらは上で挙げたような理論を展開して「それではいけないということはないが、こちらの説明の方が整合性がある」と主張できる。さらに他の言語の文法と互換性があるというボーナスまでついてくる。逆に自動詞→非対格タイプの人が「どうして一つの動詞に他動詞用法と自動詞用法がある、これはその他動詞用法だと考えてはいけないんですか?」と聞かれたらどう答えるのだろう。「そういうことになっている」とでも言うのだろうか。

 念のため言っておきたいが、私は決して西欧の文法方式や用語をそのまま鵜呑みにしろと言っているのではない。あくまで「どちらの説明方法が説得力があるか」を検討するべきで、頭ごなしに「そういうことになっている」では特に大人は納得しないだろうということだ。

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 人間の手の指の数を元にしているからだろうと思うが、アラビア数字など数の体系は十進法である。数そのものは10進法なのに数詞の方は10進法でないことが多々あり、いろいろ悶着が起きることは『81.泣くしかない数詞』でも書いた通りだ。12進法の名残が残っている言語も多い。3でも4でも割れるから本来12進法の方が便利なんじゃないかとも思うがまあ小数点や分数を使えば済むことだから別に10進法に反旗を翻す必要もあるまい。
 現代日本語の数詞は10進法とよくマッチしていて10まで数詞を暗記すれば99まで言える。11は10+1,12は10+2と1の位を10の後に言って順々に進み、20まで来たら今度は2の方を10の前につければいいからだ。英語の eleven、twelve などのように変な単語は出て来ないし、10は常に「じゅう」、2はいつも「に」で thirteen のように10が間延びしたり、twenty のように2が化けたりしない。10が10個あると「じゅうじゅう」とはならないで「ひゃく」という新しい単位になるが、これはそうやって時々更新せずにいつまでも10までの数詞で表現すると数が大きくなるにつれて収集がつかなくなり、コミュニケーションに支障がでるからだろう。「じゅうじゅう」くらいならまだいいが、1000になると「じゅうじゅうじゅう」、10000は「じゅうじゅうじゅうじゅう」で、言うのも大変だが聞く方も「じゅう」が何回出たかきちんと勘定していなければならない。「じゅう」を一回でも聞き違ったり言い違ったりすれば桁が違ってくるから常に緊張していなければならないから、本当に油断も隙もない。何桁目かで新しい数詞を入れて一息つける場所はどうしても必要だ。それで「ひゃく」という言葉が出れば200は20と同じメカニズム、100の前に2と言って表すから100という言葉を覚えれば999まで言うのに何の問題もない。100が10あると再び「じゅうひゃく」とはならず新しい「せん」という単位になる。その千が10あると「じゅうせん」でなく万となり、その後は4桁ごとに新しくなる。
 実は母語が英語やドイツ語の人に日本語の数詞を教えるとこの「1000からは4桁ごとに」という部分で躓く人が結構いる。英独語では1000からは3桁ごとに更新されるからだ。最初に「日本語では10×1000が新しい単位になる」と釘を刺し、4桁システムを図に書いて念を押してやっても、13000と書いて「これを日本語で言ってみろ」というと「じゅうさんせん」と答える輩が必ずいる。「じゅうせんという言葉はありません。10000は万というんですってば」というと3分くらい考えてから「じゅうさんまん」と答えたりする。「じゅう」という言葉が頭の中にこびりついて離れないのである。一種の言語干渉だ。そこで10000+3000と分け、「この2つの部分をバラバラに言ってみろ」と言ってやっても「じゅうまんさんぜん」などと外す人がいる。目の前に図がかいてあるのにである。そこでシビレを切らせて「いちまんさんぜんだろがよこのバカタレ」と怒鳴りつけると(嘘)、「そうなんだ!」とクイナの新種を発見したかのように感動される。たかが一万でこの調子だから十万、百万、千万、果ては億の単位になるとスリルが倍増する。しかもこれは数字を書いてそれを読ませているだけだからまだラクチンで、グレードアップして数字をドイツ語でいい、例えば「zwei und achzig Millionen(two and eighty millions、ドイツ語では一の位を十の位の前に言う)と日本語で言え」と言われてソラで答えられる人は少数派だ。大抵自動的に「はちじゅうに…」と直訳しだす。「安直に直訳すんな田吾作」と怒鳴ると(怒鳴らない)、そばの紙切れに数字を書いてゼロを勘定しだす。それでもまだ数え間違えて「はちおくにひゃくまん」と言ったり「はちまんにじゅうまん」と日本語がゲシュタルト崩壊したりいやもう面白いのなんの。自分は暗算が苦手と言う日頃のコンプレックスも吹っ飛ぶ面白さだ。中国人は桁取りが日本語と同じ(というより日本語が中国語と同じ)だから数字を見て日本語でいう分には楽勝なのだが、数字をドイツ語でいうとそのドイツ語のほうの数詞を把握するのに手間取る。これは私もそうだったから気持ちはよくわかる。私もミリオンとか言われても今一つ感覚がつかめなくて戸惑った。やはり「百万」と言ってもらわないと気分が出ない。
 
 今までそうやって「はっせんにひゃくまん」がスッと出ない人を見て己の暗算コンプを解消して嬉しがっていたら、バチが当たったらしくコンプの鉄槌が今度は私の頭上にやってきた。
 世の中には20進数を基本にして桁取りする言語も結構ある。両手両足の指の数である。有名なのがフランス語で、60までは正常(?)だが、70になると突然20進法が顔を出し、70は60+1、71は60+11、76は60+16、77になると17という一語がないので60+10+7。80はさらに露骨で4×20、81は4×20+1、90は4×20+10、91が4×20+11と言うので一瞬電卓に手が伸びかけるが、所詮それも100までだから一瞬伸びた手はすぐ引っ込む。1000を過ぎれば3桁ごとに新しくなり、1000で mille、10000が million、つまり英語ドイツ語と全く同じである。100までの数詞に少しくらい20進法が出てくるくらい可愛いもんだ。問題は100を過ぎても延々と20進数を貫くスゲー言語があることで、これはさすがに電卓か計算用メモ帳が必要になって来る。

 たとえばナワトル語だ。ナワトル語には百という言葉がない。 5×20という。120は 6×20、200は10×20である。20×20の400になってやっと新しい単位になる。それでは20
までは全部違う名称で丸覚えかというと、そうではなく5、10、15で一息つけるようになっている。これは何も学習者が小休止できるようにサービスしているわけではなくて片手片足の指の数だろうが正直余計混乱する。20進法なら20進法でいいから全てそれでやってくれよもう。
 まず20まで見てみよう。
Tabelle1-211
基本的に5ごとにベースが変わり、6は5+1、7は5+2、11が10+1、12は10+2、15はそれ自体一つの単語だから16から19までは15+1、15+2、… 15+4という構造になっているのがわかる。「基本的に」といったのは5については数詞は mācuīlli、合成数詞を作る形態素のほうは chiuc と違う形をしているからだ。だが原則は変わらない。11から14、16から19までの1の位についている接頭辞 on- または om- は and  という意味である。
 なお、ここで使ったナワトル語の表記は広く流布している正書法より音韻記述が正確で長母音・短母音の違いがしっかり表示されているが、その元になっているのは17世紀にスペインの宣教師 (生まれはフィレンツェ)オラシオ・カロチ Horacio Carochi が著した文法書で、ローマ字を英語読みしてはいけない。ce、ci はそれぞれ se、si だし、co、ca、cu は ko、ka、ku、つまり c という同じ文字が違う子音を表すのである。では sa、su、so はどうなるのかというと z を使い za、zu、zo と書く。英語読み病にかかっていると z を有声音にしてざぜぞと読んでしまいそうになるが z は無声子音、英語のs である。だからs という字は使わない。では英語の z のような有声歯茎摩擦音はどうするんだと言うと心配はいらない。ナワトル語にはソナント以外の有声子音は存在しない、つまり英語の z の音はないからである。ke と ki はそれぞれ que、qui と表記する。またナワトル語に円唇子音 [ kʷ] があるがこれに母音が続く場合は c に u を続けて表す:cua、cue、cui。母音u と o は母音自体がすでに円唇音だからか、子音と両方円唇化するのは難しいのだろう、cuu、cuo は普通のcu、co となる。また円唇子音が子音の前か語末に来る場合は uc と書く。上述の chiuc の最後の子音がこれ。6で chicuacē とu とc  の位置が入れ替わっているのはここでは円唇子音に母音 a が後続するからだ。また ch は破擦音の[tʃ]、まあ英語の ch である。x は ks でなく[ʃ ]、英語の sh だ。hua、hui、hue は wa、wi、we。接近音の w が子音の前や語末に来ると先程の [ kʷ] のように u と h の位置を変えて uh とする。また ll などの重子音はスペイン語のように音価を変えずに律儀に [l:] と発音。さらに『200.繰り返しの文法 その1』でも少し述べたように tl は t と l のような子音連続ではない。二字使っているのはあくまで仕方なしにであって、これは ch と同じく一つの破擦音、流音と同時に舌で上あごの横っちょの隙間をこするである。文で説明すると難しそうだが発音自体は決して難しくはない。この流音破擦が l に続くと擦る部分が消えて単なる l になる:l+tl=ll。だから5 mācuīlli、15 caxtōlli、20 cempōhualli の最後尾についている lli という形態素は本当は ltli。tliというのは絶対格(能格対絶対格の絶対格とは意味が違うので注意)のマーカーで語幹につく。これらの単語は語幹が l で終わっているためマーカーが li になっているが、語幹が c でおわる10 màtlāctli では絶対格マーカーが本来通りtli で現れている。à と逆向きのアクセント記号がついているのか当該母音の後に声門閉鎖音が続くという意味なので à は [a?] だ。
 では発音がわかったところで被修飾語の名詞と数詞の順番についてだが、基本的には名詞の前に来る(太字)。

Ni-qu-itta ēyi cuahuitl
1.sg-3.sg-see + 3 + tree
I see three trees

さらに名詞に定冠詞がついていると数詞は動詞の前にさえ立てる。

Ēyi ni-qu-itta in cuahuitl
3 + 1.sg-3.sg-see + the + tree
I see the three trees

ナワトル語の数詞はシンタクス的には floating numeral quantifier 的(『158.アヒルが一羽二羽三羽』参照)なのかもしれないが、合成数詞(11~14と16~19)はなんと名詞を中に挟むことができる。

Ni-qu-itta màtlāctli omōme cuahuitl
1.sg-3.sg-see + 12 + tree

Ni-qu-itta màtlāctli cuahuitl omōme
1.sg-3.sg-see + 10 + tree + and-2

どちらも I see 12 trees である。

 さてこれからが本題である。20 cempōhualli は実は cem-pōhualli と形態素分析でき、cem- はcē、つまりcempōhualli は1×20である。21は上の11、16とメカニズムが同じで20+1、cempōhualli oncē、25は  cempōhualli ommācuīlli、26  cempōhualli onchicuacē でまあ日本語やドイツ語と同じだが、30は1×20+10、cempōhualli ommàtlāctli なのでそろそろ注意が必要になってくる。31は1×20+10+1だからcempōhualli ommàtlāctli oncē かと思うとそうではなくて、プラスが複数並列する場合は on あるいは om を連続させることを避けて二番目のプラスに īpan または īhuān を使い、cempōhualli ommàtlāctli īpan cē となる。38は1×20+15+3、 cempōhualli oncaxtōlli īpan ēyi。40は2×20で、以後20進法で次のように続く。
Tabelle2-211
だんだん20 pōhualli という単語を見るとゲップがでそうになってきたが、この調子で50は2×20+10、ōmpōhualli ommàtlāctli、75が3×20+15、ēpōhualli oncaxtōlli、125が6×20+5、chicuacempōhualli ommācuīlli。この辺はまだいい。220は(10+1)×20、màtlāctli omcempōhualli、340は(15+2)×20、caxtōlli omōmpōhualli だが、この220や340も11や17などの合成数詞が入っているからそれをバラしてそれぞれ10×20+1×20、màtlācpōhualli īpan cempōhualli、15×20+2×20、caxtōlpōhualli īpan ōmpōhualli ということもできる。これらは20で割り切れるからいいが端数の出る数字はややこしさが増し、330は(15+1)×20+10、caxtōlli oncempōhualli īpan màtlāctli、333が(15+1)×20+(10+3)、caxtōlli oncempōhualli īpan màtlāctli omēyi だ。ここで10+3をわざわざ括弧に入れたのはなぜ上の38と違って on- または om- の複数使用が許されるのかをはっきりさせたかったからで、プラスが階層構造になっていて単なる並列ではないという意味だ。
 この後やっと400、20×20になってtzontli という新しい単位となる。そしてそれがまた20倍になると20×(20×20)、8000 xiquipilli という単位になる。上の20と同じく、400と言う時も頭に1とつけて1×400と表現するから centzontli になる。以下ちょっと見てみよう。
Tabelle3-211
4800は màtlāctzontli īpan(または īhuān)ōntzontli ということもできる。実は参照した Michel Launey の入門書(Christopher Mackay 翻訳編集)には  màtlāctzontli īpan omōntzontli とあったが、これは誤植だと思う。4000×X+400×X、あるいは400×X+20×X という場合のプラス部は om-/on- でなく īpan を使うため500は centzontli  īpan nāuhpōhualli (1×400)+(5×20)、日本語だと「せん」の一語ですむ1000は2×400+10×20、ōntzontli īpan màtlācpōhualli と複雑なのに2000になると突然簡単になって5×20、mācuīltzontli。どうも調子が狂う。5000は再び20進法の本領発揮で(10+2)×400+10×20、màtlāctli omōntzontli īpan màtlācpōhualli。1482のように細かくなると3×400+(10+4)×20+2、ētzontli īpan màtlāctli onnāuhpōhualli īpan ōme、1519が3×400+15×20+(15+4)、ētzontli īpan caxtōlpōhualli īpan caxtōlli onnāhui、たかが736が1×400+(15+1)×20+(15+1)、centzontli īpan caxtōlli oncempōhualli īpan caxtōlli oncē という騒ぎ。おい電卓を持ってこい。
 おお、電卓が来たか。では少し先を見てみよう。上で述べた通り400の次に新しい単位になるのはそれがまた20倍になってから、つまり8000 cenxiquipilli あるいは cēxiquipilli になるまでお預けだ。28000は3×8000+10×400、ēxiquipilli īpan màtlāctzontli、141927は(15+2)×8000+(10+4)×400+(15+1)×20+7、caxtōlli omōnxiquipilli īpan màtlāctli onnāuhtzontli īpan caxtōlli oncempōhualli īpan chicōme。
 理屈から行けば8000の20倍、160000でまた新しい単位になりそうなもんだが、残念ながらというか幸いというか、そのまま8000 xiquipilli が使われ続け、(1×20)×8000、 cenpōhualxiquipilli になるらしい。3200000なら(1×400)×8000、 centzonxiquipilli である。

 ナワトル語の20進法ぶりのことは数学者の遠山啓氏も『数学入門』で言及しているが(ただしそこではナワトル語と言わずにアズテック(語)と呼んでいる)、遠山氏によるとマヤ語もこの方式なんだそうだ。もっともなにも太平洋を越えるまでもなくアイヌ語も20進法である。
 アイヌ語の数詞を見てみよう。アイヌ語はローマ字読みでいい。ナワトル語と違って「5」が登場してくることはないが、その代わり6から9までは10を基準にした引き算になっている。
Tabelle4-211
6の i- は ine と同じで4と言う意味。つまり6は10−4。同様に7の ar-  は3 re、つまり10−3。8 tup-e-san の tup は tu、e-san は「足りない」だから8は「二つ足りない」、同様に9は「一つ足りない」である。こりゃあナワトル語よりさらに油断がならない。11~19についている  ikashma は「余り」で、11、12はそれぞれ「とおあまりひとつ」「とおあまりふたつ」だが、一の位を十の位より先に言う点がドイツ語といっしょである。以下100まで見ていくとこうなる。
Tabelle5-211
30、50、70、90では−10の部分が先に来るので正確には−10+(x×20) だろう。そこの -e- という形態素(太字)は「で以って」「があれば」という接辞だそうで、30はつまり「あと10あれば40」という意味だ。参照した資料には残念ながら100までしか載っていなかったのだが、400や8000はアイヌ語ではどうなるか気になったのでちょっとネットを見てみたら、方言によって違いがあったり使用例が少なすぎたりしてどうもナワトル語のようにスカッと行かない。それでも200は10×20、wan hotne、400で新しい単位になり、600は(−10×20)+2×400と記している記事があった。8000はわからない。アイヌはメキシコ先住民のようには大きな数字を駆使して暦を作ったりしなかったから単位は400までで足りたのかもしれない。

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