アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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 前に一度書いたように(『170.自動詞か他動詞か』参照)、私は文語に義理立てして現在日本語の構造を無視し、「読ん」と「読み」、「書き」と「書い」を連用形と言う同じカテゴリーに放り込む学校文法に疑問を持っている。その点ではこれらを別の形として「て形」、「ます形」と呼ぶ日本語教師文法(せめて外国人用の日本語といってくれ)のほうが優れているだろうが、これはこれで動詞の語幹のパラダイムに不純物の助動詞をくっつけた形、つまり二語いっしょにした不正確な命名だから文法記述としてはあまりいただけない。また外国人用の日本語では動詞を3つのグループに分ける。それ自体は学校文法より記述的に優れていると思うが、どうしてそこで第一グループ、第二グループ、第三グループなどという意味不明の命名をするのか。それぞれ素直に「子音語幹活用」、「母音語幹活用」、「不規則活用」としてはいけないのか。つまり外国人用の文法というのは「子音」「母音」「語幹」という言葉さえ知らない人でも楽しく日本語が学べるように工夫された文法、言語学の用語(子音、母音なんて全然専門用語でもないだろうに)を目の敵にした文法だということか。もっとも昨今のこの傾向は日本語ばかりではなく、ドイツ語だって主格、属格、与格、対格を一格、二格、三格、四格などと呼ばせている教科書がある。
 外国人用の日本語には他にもいくつかわかりやすさのために言語学的事実をゆがめている既述があるが、その一つが動詞の「辞書形」とかいう用語である。これは本末転倒ではないのか?「何をもって辞書形、あるいは見だし形となすか」ということをまず最初に定義しておくのが辞書である。ロシア語ならば「動詞の不定形を辞書形となす」「形容詞は男性単数形を見出し語とする」などと最初にきちんと告げてある。名詞なら単数主格の形だ。それでは変化形がはっきりしない場合もあるので単数生格もついでに併記したりする。いずれにしても語形の一つを選んで辞書形にするのであって、最初から辞書形などという語形が文法パラダイム内に存在するのではない。「辞書形を辞書形となす」では完全なトートロジーだ。
 用語それ自体が不適切なばかりではない。ちょっと手元にある(外国人のための)日本語の教科書には「日本語を話すことができます」「新聞を読むとき眼鏡をかけます」「まっすぐ行くと銀行があります」などの例の「話す」「読む」「行く」といった動詞を辞書形としてある。つまり学校文法で言う終止形と連体形がいっしょくたになっている。この点に関しては学校文法に軍配をあげざるを得ない。上の例のうち、最初の二つは連体形Attributiv 、最後のは終止形 Konklusiv で、これらは表面上は同じ形だが、語形パラダイムとしての区別は現在日本語においてもまだ保たれている。
 確かに現在の日本語では動詞とイ形容詞では連体形、つまり名詞を修飾する形と終止形、つまり文の終わりをマークする形は同じだ。上の例での被修飾語「こと」「とき」は品詞としては名詞である(ついでに「山田さんがロシア語を話すのを知っていますか?」などの「の」やその崩れた形「ん」も名詞だ)。上の「まっすぐ行くと…」の例文の「と」は名詞ではなく接続詞だから、動詞の「行く」は終止形で連体形と同形だ。だから「日本語を話す」「新聞を読む」と、文を動詞で終らせたり、逆に「行く」を名詞に修飾させて「この先で工事していますからこの道をまっすぐ行くことはできません」などと言っても動詞の形は変わらない。この現象はイ形容詞もそうで、「4月でも寒いことがあります」「暑いときはビールをガンガン飲みます」「女の人が賢いと昭和脳おじさんは面白くないねえ」の最初の2つは連体形、最後の昭和脳は終止形だが、これを「4月なのに寒い!」「四月なのにクソ暑い!」「女の人が賢い国は発展する」と文構造を変えても形容詞の形はそのままだ。要するに動詞、イ形容詞では連体・終止は同形なのだ。
 しかしナ形容詞とコピュラは連体・終止の区別を保持している。まずナ形容詞だが「山田さんは時々馬鹿なことを言います」「上司が馬鹿なときは部下に尻ぬぐいさせてください」「大統領が馬鹿だと国民は大変だ」と比べてみればわかる通り、連体形は「馬鹿な」、終止形は「馬鹿だ」である。しかしこの終止形は辞書形ではない。ナ形容詞は形容詞の語幹、つまり「馬鹿」が見出し語だ。見出し語が終止形である動詞やイ形容詞と整合がとれていないが、まあそれくらいなら「動詞、イ形容詞は終止形、ナ形容詞は語幹を見出し語とする」と最初に断っておけば済むだろう。問題は学習者がどうしてですかと聞いてきた場合だ。まさかそういう決まりなんですなどという無責任な答えをかますわけにはいかない。
 ナ形容詞の語幹を除いたいわば「活用部」(印欧語と違って形容詞は曲用でなく活用する、『198.日本語の形容詞』参照)は中立形コピュラ、俗に言う断定の助動詞「だ」とほぼ同じである。そのためか語幹と「コピュラ様語尾」が、動詞やイ形容詞と違って完全にアマルガム化していない。それでも終止形以外、馬鹿ダロ・馬鹿ダッ/馬鹿デ・馬鹿ナ・馬鹿ナラなどの形は助動詞や名詞など他の要素が後続しないかぎり文を完結することができないためいわば繋ぎの要素としてアマルガムっぽい雰囲気になるからいいが、終止形は別だ。語幹にコピュラを特に付加された形、つまり二つの単語である感がアップする。それで「私は学生だ」のように、実際に二語である名詞+コピュラとの類推が働いて語幹表示になるのではないだろうか。またコピュラにせよ変化語尾にせよ「だ」は疑問文を作る「か」とは共存できない。動詞やイ形容詞なら「こんな本読むか?」「そっちは寒いか?」など、終止形に「か」がつくのにナ形容詞だと「あいつは馬鹿か?」であって、「あいつは馬鹿だか?」は非文である。これはコピュラも同じで「*あいつは学生だか?」とは言えない。そんなこんなでナ形容詞の終止形は動詞やイ形容詞と文法上の振舞いが違うのでいっしょにはできん、ナ形容詞の見出し語は語幹にしようということになったのだろう。一応これが先の「どうしてですか?」への答えである。

 さて上でコピュラとナ形容詞の変化語尾はほぼ同じと言ったのは2点ほど双方が一致しない点があるからだ。一つは用法の連用形の違いである。コピュラもナ形容詞の変化語尾も~デ/~ダッという二つの形があるが(前述のようにこれは別の形とするべきだと私は思っている)、ナ形容詞にはもう一つ~ニという連用形がある。「きれいになる」という文の「きれいに」は「きれい」の連用形だ。これに対してコピュラ、例えば「雨になる」の「雨に」はN+格マーカー(向格)との解釈も可能である。可能であるというよりいわゆる学校文法ではコピュラの連用形としてニを認めていないので、それに従えば名詞の向格(あるいは与格)と解釈せざるを得ない。つまり「きれいに」の「に」は変化語尾、「雨に」の「に」は格マーカーというちょっと不統一な説明になってしまう。やろうと思えばそれを避けるために「雨に」の「に」をコピュラの連用形だと押し通せないこともないが、まあ別にそんな義理もないので格マーカーということで手を打とう。
 さてもう一つの違いは、形容詞の命名の根拠になっているナ形容詞の連体形~ナで、名詞を修飾するときは必ず使われる最も使用頻度の高い形であるが、これに相当するコピュラの連体形~ナは非常に使用範囲が限られていることだ。名詞が別の名詞を修飾する場合は基本両名詞間のシンタクス関係に関わらず属格の「の」が使われる(『152.Noとしか言えない見本』参照)。「きれいな車」を「ドイツの車」と比べてみるとわかるように後者はN1+N2の構造だから属格の「の」が来る。属格マーカーが修飾機能を引き受けてしまうのでコピュラの連体形~ナはほとんど出番がない。ほとんどないがあるはある。被修飾名詞が疑似的に接続詞、英語文法で言う complementizer (例えばthat節の that)の機能を受け持っているときだ。ちょっと見てみよう。まずナ形容詞。

リナックスが案外便利なことを知っていますか?

「こと」というのは品詞的には名詞だから定式通り連体形の~ナになっている。一方「こと」は具体的な指示対象のない抽象的な名詞で、ここでは complementizer のような働きをしているので「名詞が名詞を修飾するときは最初の名詞が属格」と言う基本図式にならない。私の感覚では属格だと「うーん」である。

?? 山田さんが学生のことを知っていますか?
山田さんが学生なことを知っていますか?

言い換えると「である」で言い換えられる場合はコピュラの連体形~ナを使うということだ。もう一つの疑似complementizer の名詞、「の」では属格は「うーん」どころではなく完全にボツだ。

*山田さんが学生のを知っていますか?
山田さんが学生なを知っていますか?

これは名詞の「の」が、元来属格マーカーだったのが後続の名詞の機能を吸収して発生したものであるため(つまりN+の+N → N+の+ø)、「のの」では同じ不変化詞が連続してしまうから盛大にブー音が鳴る。また complementizer っぽくはあっても「の」や「こと」以外の名詞だとこのコピュラの連体形はちょっと使いにくくなる。

??山田さんが学生な事実を知っていますか?
*山田さんが学生の事実を知っていますか?

被修飾名詞の抽象性が薄くなるとコピュラは使えなくなるので、その代わりに動詞を使った「~である」や、疑似でなく本物の complementizer 「と」と動詞「いう」を使った「~という」構造で代用する。「山田さんが学生である事実」「山田さんが学生だという事実」、または両方使った「山田さんが学生であるという事実」などだが、ここで導入された動詞「ある」「いう」は当然終止形でなく連体形だ。
 さてその「と」だが、これは今言ったように文(センテンスでなくクローズのほう)を導くcomplementizer なので、先行する動詞は終止形だ。「学生だという事実」の「だ」はコピュラの、「学生であるという事実」の「ある」は動詞のそれぞれ終止形である。これに対して「学生である事実」の「ある」は連体形だからごっちゃにしてはいけない。私の手元にある日本語教師文法ではこのcomplementizer に先行する動詞、イ・ナ形容詞の形を「普通形」などとワケわかんない名称で呼んでいる。つまり「山田さんは明日来るといいました」の「来る」は普通形、「山田さんは明日来る」の「来る」は辞書形というわけだ。この普通形というのはデス・マス体ではないという意味らしいが、それなら「普通」と言うべきではないのか。語形変化パラダイムの一つとしてそういう形があるわけではないのだから。間接話法の動詞、形容詞、コピュラはパラダイムとしてはあくまで終止形である。
 とにかくどうして日本語教師文法では終止・連体という区別を執拗に避けるのか正直よくわからない。「~ようだ」と「~そうだ」の区別なども、前者は連体形支配、後者は終止形支配とすれば一発でスッキリわかるのに、辞書形、普通形などという言葉で説明したら混乱の極みだ。まずこの二つを使った文をくらべてほしい。「~そうだ」は連用形もとるが(「リナックスは便利そうだ」など)、ここではそっちのほうはひとまず置いておく。

明日は雨が降るようだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利なようだ。
山田さんは学生のようだ。
?山田さんは学生なようだ。

明日は雨が降るそうだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利だそうだ。
山田さんは学生だそうだ。
*山田さんは学生なそうだ。

これを見れば一目瞭然で、「~ようだ」は連体形支配、「~そうだ」は終止形支配なのである(私の言語感覚では「山田さんは学生なようだ」はギリチョンでOKだ)。こんな簡単なことなのに辞書形の普通形のという用語なんかで説明したら余計わかりにくくなる;

「ようだ」に先行するのは辞書形の動詞とイ形容詞、名詞にかかる形のナ形容詞、名詞に「の」をつけたもの。「~そうだ」ではやはり動詞とイ形容詞は辞書形、しかしながらナ形容詞とコピュラは普通形。

終止・連体をパラダイムとして区別すれは以下のような説明になる。どちらがわかりやすいかはまあ趣味の問題ではある:

「ようだ」に先行するのは動詞、形容詞、コピュラとも連体形、「そうだ」は同普通体終止形。ただし前述のようにコピュラの連体形は機能が限られているため「ようだ」に名詞が先行するときは属格マーカーの「の」を使うことが普通。

 実はここまで書いてきたら以前ふと抱いた邪推が復活してしまった(『127.古い奴だとお思いでしょうが…』参照)。日本語教師文法のこういうやり方、形態素や語の厳しい分析を避けて、て形、ない形などと複数の語をいっしょくたにしてあたかも動詞の変化語尾であるかのように提示し、辞書形、普通形、第一グループなどと妙に言語構造の本質を避けるような言い回しを使うのは、学習者がわかりやすいようにではなく教える側が言語の素人(に毛の生えた程度の人)でもできるようにとの配慮なのではないかという我ながらヤな邪推である。いや私だってそんなことは思い出したくなかったが一旦復活した暗雲は簡単には退散してくれない。医者の白衣は患者のためではなくて自分自身を守るためだそうだが方向的にはそれと同じ、こういう文法は素人の講師を学習者のツッコミからプロテクトするためでは?だってそうだろう。子音語幹活用などと本当のことを言ってしまったら、まともな神経の学習者が必ず「買う」「会う」がどうして子音語幹なんですか、「う」という母音語幹じゃないんですかと聞いてくる。そう聞かれたら講師は「買う」が実は kaɸ-u という両唇摩擦音で終わる子音語幹だったのに子音が消失してしまったこと、音そのものは消失しても子音終わりというパラダイム意識は残っていること、だから助動詞ナイがついた形「買わない」では子音 w が現れること、その「買わない」は本来 kaɸ-a-nai であること、それが kaw-a-nai になっているのはɸ の摩擦性が弱まり接近音になったからであることなどを延々と説明しなければいけない。その説明も日本語でやるわけにはいかない、相手は日本語の初心者だから日本語の説など理解できないからだ。少なくとも英語、できれば学習者の母語でこういう面倒な解説をする羽目になるからできれば突っ込んでほしくないというのが本音なのではないだろうか。講師がそういう羽目に陥るのを未然に防ぐべく、第一グル―プなどと言って事実を隠蔽するのでは?どうして第一グループとか第二グル―プとか言うんですかという質問くらいはさすがに誰でも答えられる。そこに属する動詞の数が一番多いからだ。
 それで思い出したが、それこそ素人に毛の生えたような、いやその毛さえ生えていなさそうなヘッポコスラブ語学の私が例によってヘラヘラ日本語を教えていたらコピュラの否定形過去「~ではありませんでした」という形を見た学生がどうしてたかが否定がそんなに長いんですか、それ、一つの形態素なんですか、それ以上分解できないんですかと突っ込んできたことがある。私が一瞬冷や汗をかきながら~デ・ハ・アリ・マセ・ン・デシ・タと分解して(この分解の仕方でいいのか?)一つ一つこれは助動詞の某でこれはトピックマーカーと説明していったら学生はうるさがるどころか、じゃあそのマセというのはマスやマシと同じ語の別変化形ですねと一発で飲み込んだには驚いた。あなたより日本語分析のできない日本人なんてウジャウジャいますがな。
 またある時は開口一番「日本語にはいくつ格があるんですか?」。こういう質問はラテン語など古典印欧語をやったことのある人に多い。この答えも結構長くなる:日本語の格は印欧語のように名詞や冠詞の語形変化で表すんじゃなくて名詞の後ろに不変化詞(日本語文法で格助詞)を付加してマークするんです。なので極端に言えば人によって数え方が違ってくるんです。それでもまあ私が勘定したら13格ありました(『152.Noとしか言えない見本』参照)。
 ゲスの勘繰りがさらにパワーアップするが、そういえば直説教授法とやらも表向きは学習者が当該言語にさらに密接にふれられるようにとの配慮ということだが、実は講師側の労力の軽減が主目的なのではないのか?直説法なら講師のほうは外国語を勉強する必要がないからだ。講師側が学習者のほうに降りていかなくてもいい。自分は外国語ができないくせに人にだけ外国語(日本語)をやらせて、しかもそれをありがたがって貰えるというオイシイメソッドじゃん。とか思ってしまう私はきっと自分があんまり外国語で泣いたから見方がひねくれたのだろう。
 しかし例えば『158.アヒルが一羽二羽三羽』でも述べた数詞の位置だが、これを floating quantifier という言葉を使わずに説明する方法を私は知らない。こんなのを直説法で伝授しろと言われたら私はお手上げだ。 
 とにかく母語を教えるとき何が怖いと言って学習者からの鋭い質問ほど怖いものはない。センスのいい人ほど言語構造についての突っ込んだ質問をしてくる。それに答えられるためにはそれ相当のディスカッションがこなせるくらいに向こうの母語を話せないといけない。それじゃあ講師が困るから学習者の関心を下手に言語構造や文法の方に向けさせないように、つまり目くらましのために実践重視の名目のもとにオウムの調教のような楽しい授業をする。しかし語学の最終目的である「非母語である言語を内在化させる」ためにこの調教メソッドは従来の文法重視の方法より本当にそれほど優れているのだろうか?もちろん昨今はその路線でやらないと客が来ないから私もそれに付き合い、できる限りまじめにやってはいるが、私は何をやっているんだという葛藤は常に感じている。

 さて、連体形と終止形の話に戻るが、これを考えるときいつもラテン語の呼格のことを思い出す。『90.ちょっと、そこの人!』でも書いたようにラテン語は曲用形としての呼格があるが、それは -us で終わる男性名詞の、しかも単数のみである。その他の曲用タイプの名詞、 -us でも複数形では呼格は主格と同形だ。つまり大部分の名詞には曲用形としての呼格を区別しないのである。それでも呼格と主格を分ける。日本語の連体・終止の区別だって似たようなものだ。動詞やイ形容詞、つまり大部分の用言では形の区別がないが、ナ形容詞とコピュラにはある。そして話者のパラダイム意識としてははっきりとこの区別があると思うのだ。

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 私は英語、ドイツ語、ロシア語などに出てくる再帰代名詞とか言うアレが苦手だ。存在意義が今一つつかめない。機能も玉虫色というか、言語ごとに異なっていてよくわからない。
 もちろん自分の行った行為が自分に跳ね返ってくる場合に再帰表現を使うのはわかる。日本語にもそういう場合用に「自分」あるいは「自身」、ときには二つともくっ付けて「自分自身」という言葉がある。「鏡で自分をよく見てみろこの馬鹿」とか「悪い事をすればいずれ自分に帰ってくる」などだ。もう一つ、英語のように、主語も目的語も3人称だと目的語が主語と同じ人物なのか別の人なのかわからないから、主語と同一人物の場合は代名詞に -self をつけるというのもわかる。He saw himself in a mirror だと鏡で見たのは自分の姿だが、He saw him in a mirror なら他の誰かが鏡に映っていたのだ。主語が1人称や2人称ならばこういう区別をする必要がないから I … me、we… us、または人称代名詞なしの I … self、we… self でいいような気がするのだが、myself、ourselves とダブルにしなくてはいけない。ロシア語では主語と目的語が同じ対象である場合1,2,3人称とも再帰代名詞が単独で用いられ、I … self、we… self のパターンになる: я смотрела себя(「私は自分を見た」I saw self)、мы смотрели себя(「我々は自分を見た」we saw self)。ここで人称代名詞を使って я смотрела меня(「私は私を見た」I saw me)、 мы смотрели нас(「我々は我々を見た」we saw us)とやるとはねられる。また英語は目的語では主語との一致・非一致を細かく気にしてダブルまでやるくせに所有名詞だと急にいい加減になる。所有名詞には再帰形がないからだ。だから He saw his son は自分の息子を見たのか他人の息子を見たのかわからない。もちろん own を追加してはっきりさせることはできるがオプショナルである。1、2人称では人称代名詞だけを使って I saw my son、we saw our son になる。ロシア語は所有代名詞にも再帰形があるから I saw self’s son、we saw self’s son といい(それぞれ я смотрела своего сына、 мы смотрела своего сына)、人称代名詞を使って I saw my son、we saw our son(それぞれ я смотрела моего сына、 мы смотрела нашего сына)とやるのは間違いということになっている。「なっている」というのはダメと言われている人称代名詞をネイティブが使ってしまっているシーンを見たことがあるからだ。前に名前を出した Yokoyama 氏は、主語が1,2人称の所有代名詞に人称形を使うのは実は間違いではなく、人称代名詞を使った場合と再帰代名詞を使った場合との間にはニュアンスの差があるとしている。3人称では英語のようなオプショナルでなく、主語の息子なら He saw self’s son、他人の息子なら He saw his son(それぞれ он смотрел своего сына と он смотрел его сына)と区別をつけなければいけない。 とにかくロシア語のほうが英語よりつじつまの合う構造になっていることは確かだ。
 それでも英語の再帰代名詞はまだ論理的で、何のために使うのか理由がクリアだ。これがドイツ語の再帰代名詞になるととにかくウザい。パラダイムは不完全なくせにやたらと出しゃばって来る。「不完全」というのは再帰代名詞と言う独自の形としては3人称しかないからだ。himself もthemselves も人称表現ナシのsich である。1、2人称では再帰代名詞の代わりに普通の人称名詞を使って、Ime/ my son、weus/ our son という(ドイツ語で ichmich/ meinen Sohn、wiruns/ unseren Sohn)。ロシア語でボツを喰らったやり方だ。とにかくパラダイムとしては不完全なんだから大人しく隅に引っ込んでいればいいのに声高にしゃしゃり出てくるから腹が立つ。コンプレックスの裏返しなのかもしれない。中でも一番ウザい登場場面はこいつが他動詞にくっついて動詞の意味を自動詞みたいにすることだ。そんな手で誤魔化すくらいなら動詞の方を素直に自動詞にすればいいのに。世の中には ambitransitiv な動詞(「自他両動詞」とでも訳せばいいのか)なんてどの言語にもあるんだ。誤魔化しの最たる例が「思い出す」というドイツ語動詞だ。sich erinnern an etwas といい、 erinnern は「思い出させる」という他動詞、an etwas は on somerhing で、思い出す内容だ。例えば「田中さんが私に昨日の約束を思い出させる」といいたい場合は Herr Tanaka erinnert mich an die Verabredung gestern で、日本語と比べるとわかるように動詞の意味素にすでに使役が含まれているのがすでに癪に障るが、さらにこれが他動詞であるため「思い出す」は「自分自身に思い出させる」になる。素直に「思い出す」という自動詞を作れ馬鹿。そしてその自動詞の方を起点にして他動詞の方を使役形の「思い出させる」にした方がよっぽどロジカルだろよ。もう一つ。「座る」という自動詞がなく、日本語の「座る」は「自分自身を座らせる」になる。それで「私は座る」は ich setzte mich。この動詞は「思い出させる」よりタチが悪く、「座る」という自動詞はないが、「座っている」という自動詞はある(sitzen)。だから「私は座っている」は再帰代名詞ナシの ich sitze。これへの類推もあるからつい「座る」の方も再帰代名詞を抜かして  ich setzte とだけやってブー音を喰らう。こちらがおちょくられているとしか思えない。
 ドイツ語にはこの他にもワケわかんない再帰表現がたくさんあるが、未だに付き合うのが苦手である。

 さて上で見たようにロシア語は再帰代名詞は所有形も備えているし、格変化のパラダイムも完全で、人称代名詞なんかの助けを借りない。その点は立派なのだが、その代わり語形変化の点でも機能の点でもさらに複雑さ・微妙さが増す。まずロシア語には再帰代名詞に二系統あって、ドイツ語の sich や英語の himself にあたる、語としての独立性を保った再帰代名詞と、形が短縮されて形態素のレベルにまで落ちぶれた再帰代名詞との2種に分けられるのだ。
 語のほうの再帰代名詞は語形変化を保持しているが、主格形がない。これは当然だろう。指示対象が主格と同じであることを示すのが再帰代名詞の機能なのだから、その起点だけはどうしても人称代名詞か普通名詞できちんと最初に確保しておかなければいけない。ここが日本語の「自分」との大きな違いで、「自分」は立派に主語に立てる。「自分がやります」などだが、私は一人称単数を「自分」というこういう言い方は少し下品な気がして嫌いである。さらにロシア語の再帰代名詞は単数形と複数形の区別もなく、あるのは格変化だけ:主格-なし、生格- себя、与格- себе、対格- себя、造格- собой、собою、前置格- себе。使い方は英語などとよく似ていて、特に3人称の場合、普通の人称代名詞との差がはっきり出る。これも日本語の「自分」は「自分たち」と複数形が作れるが、所詮日本語には人称代名詞と言うものは存在せず、「自分」も「私」も品詞的には普通の名詞なのだからまあ比べても仕方がないだろう。

Он любит себя.
he + loves + self
He loves himself.

Он любит его.
he + loves + him
He loves him.(愛する方と愛される方は別の人物)

ロシア語にはさらに再帰代名詞の所有形、ドイツ語でいえば sichs にあたる言葉がある。英語で時々見かけてしまう hisself は所有形ではない。主格の息子を表すのに he … hisself son だの er … sichs Sohn だのとは言わない。それぞれ he … his own son、er … seinen eigenen Sohn  である。つまり所有形は人称代名詞を使うしかない点がロシア語と明確に違う。ロシア語主有再帰代名詞は名詞に対する付加語なので当然ながら被修飾語にくっついて思い切り語形変化する。
Tabelle-214
使い方は上の себя と似たようなもので、特にわかりにくいことはない。

Я убила своего мужа.
I + killed + self’s + husband
I killed my (own) husband.

Она убила своего мужа.
she + killed + self’s + husband
She killed her (own) husband.

Она убила её мужа.
she + killed + her + husband
She killed her husband. (殺したのは別の人の亭主)

 もうひとつの短縮形再帰代名詞だが、これがナリは形態素並みに小さいくせに上のドイツ語の sich erinnern an … の sich と同様動詞の意味と癒着しているから語としての再帰代名詞よりむしろ曲者度がアップしている。元の動詞の意味を変えてしまったり、そもそも「再帰動詞」という、代名詞なしの形が存在しない動詞まで存在するのだ。
 この再帰形態素は動詞の語末に付加されてまるで語尾変化の一部のようになるのだが、付加される動詞の部分が母音で終わっていれば -сь、子音であれば -ся という形をとる。例えば上で罵倒したドイツ語の「座る」 sich setzen にあたるロシア語の不完了体動詞は садиться といってドイツ語同様再帰代名詞がつくが(こいつらはグルなのか?)、これは不定形で、動詞本体が -ть と子音で終わっているから -ся  。現在形3人称単数も子音終わりで садится 。一方現在形一人称単数や2人称複数などで本体が母音で終わるからそれぞれ сажусь、садитесь と最後が -сь になる。見ての通り形としては動詞とベッタリ癒着している。
 この癒着野郎は機能に点でもドイツ語の sich と被る部分もあり、「互いに」という意味を表すのはこれである:sich umarmen、обниматься(「互いに抱き合う」)。しかし「鏡で自分を見る」などという場合はドイツ語では sich でやるが、ロシア語では上のように себя のほうを使うから、違っている点も多い。大きな相違点の一つは、ロシア語の癒着再帰代名詞が受動態を作る点だろう。ロシア語動詞が完了体・不完了体のペアになっていることは前にも述べたが、それら動詞が受動表現を取る際、完了体動詞はコピュラに受動態分詞をつけるが(英語の be killed と同じだ)、不完了体が再帰代名詞を用いた形になるのだ。「建設する」はстроить(不完了体)と построить(完了体)だが、これらの受動態3人称複数形過去はそれぞれ строилися、 были построены。были がコピュラである。素直に現在形で比較しなかったのは完了体には現在形が存在しないからだ。英語の受動態に出てくるいわゆる by-agens は造格で表される。

Лекция читается профессором.
lecture + read(不完了体)-再帰代名詞 +  by professor
講義が教授によって読まれる(なされる)。

動詞が不完了体なのでこれは現在形。もうひとつ、

Поезд останавливался машинистом.
train + stopp(不完了体)-再帰代名詞 + by train driver
列車は運転手によって止められていた。

これに対して動詞が完了体だと受動態は be 動詞+分詞という形になる。

Она была убита им.
she + was + killed(不完了体) + by him
彼女は彼に殺された。

 再帰代名詞で受動を表す言語は私の知る限りもう一つある。メキシコのナワトル語だ。ナワトル語にも動詞に受動形という形があるが、これを使うのは主語が生物の場合だけで、主語が無生物のときは能動体動詞(つまりデフォの形)に再帰代名詞をつけて表す。
 『213 太平洋のあちらとこちら』でも書いたが、ナワトル語はアイヌ語に似て、動詞の頭に接頭辞をつけて(「接頭辞」に決まってるだろ。頭に接尾辞がつくかよ)人称表現をするのだが、その接頭辞は主語→目的語の順番になる。何言っていることがわからない?具体例を見れば割と簡単なのである。例えば「見る」は itta というが、「私があなたを見る」は nimitzitta。頭の ni- というのが「一人称単数の主語」、その後ろに続くもう一つの接頭辞 -mitz- が「二人称単数の目的語」だ。「私が彼を見る」なら niquitta。qui はナワトル語表記で発音は ki だから、-k-(スペイン語読みで -c-)が「3人称単数の目的語」だ。また3人称(単数でも複数でも)が主語に立つ場合はゼロマーカー、つまり何もつかず、「彼が私を見る」は nēchitta。nēch- が「一人称単数の目的語」である。もちろん自動詞は目的語がないから主語マーカーのみ付加:nimiqui は「私が死ぬ」で、miqui が動詞である。
 そこで目的語が主語と一致するときは再帰代名詞、というより「再帰接頭辞」がつくが、
一人称単数が -no-、同複数が -to-、二人称単数 -mo-、同複数 -mo-、3人称単数 -mo-、同複数 -mo- で、要するに一人称以外は皆 -mo- だ。「私が自分を見る」という場合はこの再帰形を使うから nimitzitta ではなく ninotta となる。-no- に続く動詞が i で始まりその後に子音が二つ続くときは i が脱落しているのがわかる。
 では普通の名詞が主語に来る場合はどうなるのか。文が拡張するのだ。「私がペドロを見る」は  niquitta in Pedro で、in は英語の the にあたるが、-qu-(-c-)と in Pedro が呼応する。「マリアがペドロを見る」は quitta in Malinzin in Pedro で拡張要素が重なる。主語が先に来るのが基本なのでマリアが主語解釈されるが、理論的には「ペドロがマリアを見る」という解釈が全く不可能ではなく、この文は意味が二重に取れる。
 さていよいよ受動態だ。受動は動詞の後ろに -lo または -hua をつけて作る。その際本体の動詞がちょっと音を変えることがあるが、-lo、-hua の方も時制、数によって語形変化を起こす。 -lo の例だけちょっと見てみよう。

tlazòtla(「愛す」):
nitlazòtlalo(「私が愛される」)
titlazòtla(「我々が愛される」)
nitlazòtlalōz(「私が愛されるだろう」)

lô は母音の後に声門閉鎖音が来るという意味だがこの声門閉鎖音が現在形複数のマーカー、lōz の -zは未来形単数である。もうひとつ、piya(「護衛する」)という動詞の受動態形:

piyalo in malli(「捕虜が護衛される」)
piya in māmaltin(「捕虜たちが護衛された」)
piyalōyâ in māmaltin(「捕虜たちが護衛されていた」)

上の「私がペドロを見る」の例と同様、拡張語が入っているのがわかる。malli が「捕虜」の単数形、 māmaltin が /R-tin/ というタイプの複数形である(『200.繰り返しの文法 その1』参照)。lo とlô は上で見たようにそれぞれ現在形単数、現在形複数、最後の lōyâ は未完了形複数だ。
 これら受動形は主語が人間の場合に使われる。このナワトル語受動形はちょっと不便なところがあった、英語、ドイツ語、ロシア語、それに日本語のように受動態では動作主を表すことができない。「私が彼に殴られた」のように「彼に」(英語の by him、ドイツ語の von ihm、ロシア語の им)を表すことができないのである。またモノが主語だとこの受動形を使わず、先に述べたように再帰表現を使う。つまり動詞は能動態のままになるのだ。例えば「彼が見られる」(日本語ではまず使わない言い方だが)なら主語が人間だから itta(「見る」)を受動形にして ittalo というが、「これはまだ見られたことがない」は主語がモノだから再帰形を使って

ca ayāic motta in
(statement marker) + never + 再帰接頭辞-see + this
This has never yet been seen.

「見る」itta の i が削除されるメカニズムについては上で述べた通りだ。せっかくだからもう少し例を見てみたい。「知る」 mati という動詞の受動形は macho という不規則な形になる。

Nicān àmo timacho
here + not + 2.sg.-known
You(sg.) are’nt known here.

Macho
3.sg.-known
He is known.

最初の例の主語マーカー ti- は上で出した「我々」と同じ形をしているが、ここでは動詞が単数形なので  ti- が「我々」ではなく単数の you だとわかる。下の例は3人称単数だから主語マーカーがない。It’s not known だと主語が人間ではないから再帰形で表現される。

Àmo momati in àzo ōmic,  ànozo  àmo.
not +  再帰接頭辞-know + that + perhaps + has died, + or + not

in àzo …  ànozo  àmo はちょうど英語の whether or not だが、in(「それ」)が関係節を受け持つ形式上の主語で、この文の意味は It’s not known whether he has died or not。もちろん形式主語ばかりでなく、実体のあるモノが主語の場合も再帰形が使われる。

 Monamacaz xochitl.
再帰接頭辞-3.sg.will sell + flowers
「花が売られるだろう」

maca が「売る」という動詞、動詞の後ろの形態素 -zは未来形単数を表す(上記)。主語の「花」xochitl が拡張語として動詞の外に出る構造は上でも何回か出した。ナワトル語はモノには複数形がないので、 xochitl は flower とも flowers ともとれる。どちらにせよ動詞は単数形になるわけだ。

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 マリア Maria という名前があるが、これをナワトル語で Malintzin という。後ろについた -tzin というのはいわば丁寧語の接尾辞で、日本語で言えば「お」だろうか。江戸時代に例えば「シマ」という名前の女性を「おシマさん」と呼んだようなものだ。-in は多分ナワトル語の音韻か形態素を整える働きだろうから、つまり Maria は Malia。要するにナワトル語は l と r の区別をしないのである。日本語やアイヌ語と同じだが、流音が一つしかない言語は別に珍しくはなく、東アジアの言語は韓国語から中国語からモンゴル語から皆そうだ。太平洋の向こう側ではナワトル語の他にケチュア語もこのタイプである。
 さらにナワトル語にはソナント以外には有声子音がない。b、d、g、z がないのである。ないというより無声子音と有声子音の音韻対立がないといったほうが正確だろう。ナワトル語には無気と帯気の対立もないから、「l と r の区別がない」と言う点ではお友達であった中国語、韓国語とは袂を分かつ。日本語には無気と帯気の区別がない点ではお友達だが、その代わりb、d、g、z などの有声子音を区別する。するはするがこれら有声音は本来の日本語には存在しなかったのではないかと言う言語学者は少なくない。これらの音は中国語の影響によって後から生じたというのである。それが証拠にb、d、g、z などの音は「ば・だ・が・ざ」というように元の文字「は・た・か・さ」に濁音を付加して表す。無声子音の方がデフォなのだ。だから日本語も昔はナワトル語とお友達だったのかもしれない。
 これらの「流音が一つ」、「無声と有声の対立がない」「無気と帯気の対立がない」という特徴を今に至るも保ち続けている言語はアイヌ語だ。それでふとナワトル語とアイヌ語はすごいお友達なのではないかと思った。スケールの大きな話だ。それだけに一掃アイヌ語が消滅寸前なのが残念でならない。
 ところがさらにナワトル語の入門書を読み進んで文法に行くと、両言語の類似点は「ふと」どころではなさそうなことがわかる。どちらもいわゆる抱合語 polysynthetic languages で、動詞の語幹を核にして人称表現、時表現などがベタベタ頭や尻にくっつき、動詞が肥大するのである。「いわゆる」と言ったのは、この抱合語という用語の意味が毎度のことながら言語学者によって少しずつ違うので、細かくこだわりだすと先に進めなくなるからだ。ここでは一般に把握されている意味での抱合語という大雑把な把握でお許し願いたい。
 前にもちょっと述べたが、ナワトル語は動詞に人称接頭辞がついて「語形変化」する。まずバレンツ価1,つまり主語だけを要求する ēhua(「出発する」)という自動詞を見てみたい。
Tabelle1-213
â という表記は母音の後ろに声門閉鎖音が続くという意味で(『200.繰り返しの文法 その1』参照)、複数形のマーカーである。接頭辞として付加される人称形態素だけとりだすと以下のようになることがわかる。3人称では単複共にゼロマーカーとなる。
Tabelle2-213
(i) と母音を括弧に入れて挿入したのは、動詞が子音で始まる場合は i が挿入されるからだ。ナワトル語は語頭には連続子音を許さないからである。例えば miqui(「死ぬ」)という動詞は次のようになる。
Tabelle3-213
二人称複数形に i がついていないのは mm という子音連続が語頭に立たないからだ。
次にバレンツ価2,主語と目的語を取る他動詞だが、主語を受け持つ接頭辞に目的語を表す接頭辞をつける。ということは主語マーカーと動詞との間にさらなる人称接頭辞が挟まってくることになる。今度はまず最初に人称形態素だけ取り出して表にしてみよう。
Tabelle4-213
主語と目的語が一致する場合は普通の人称接頭辞とは別の再帰接頭辞を使うので n(i)- +-nēch-、t(i)- + -mitz- などの組み合わせはあり得ない。3人称だけは「彼が彼を」と言う場合、主語の彼と目的語の彼は違う人物であり得るのでOKだ。itta(「見る」)という動詞で見ると:
Tabelle5-213
ここでは主語が単数の場合のみ示したが、複数主語の場合は上で見たように動詞の最後に声門閉鎖音が入るから、「彼らが彼を見る」は quittâ、「彼らが彼らを見る」は quimittâ。また「彼」は「彼女」でもあり得るのだが、面倒くさいので「彼」に統一した。
 では主語や目的語が代名詞でなく普通の名詞の場合はどうするのか。例えば「その男が死ぬ」などである。そういうときは動詞の外側に拡張子(?)として名詞を立てる。動詞の接頭辞と名詞とが呼応することになる。

ø-miqui in tlācatl
3.sg-die + the + man
その男が死ぬ

動詞の現在形は英語で言う現在進行形の意味にもなれるので、「その男が死んでいっている、死にそうだ」ともとれる。3人称の主語が単複共にゼロマーカーをとることは上で述べた。「その男たちが死ぬ」なら名詞と動詞が複数形(『200.繰り返しの文法 その1』参照)になる(太字)。

ø-miquî in tlācâ
3.pl-die + the + men
その男たちが死ぬ

自動詞なら拡張名詞が必要になるのはゼロマーカーの3人称のときだけだから、語順を除けば the man dies や the men die といった英語などと一見並行しているように見えるが、文構造の本質は全く異なる。他動詞では3人称の目的語が拡張名詞と接頭辞が呼応することになる(太字)。比較のためまず主語が接頭辞のみの一人称の例をみてみよう。

ni-qu-itta in calli
1.sg-3.sg-see + the + house
私が家を見る。

主語も目的語も3人称になると当然拡張名詞が二つになる。

Ø-qu-itta in cihuātl in calli
3.sg-3.sg-see + the + woman + the house
その女が家を見る。

基本語順は VSO なのがわかるが、目的語が不定名詞だと目的語が前に来てVOSになる。

Ø-qui-cua nacatl in cihuātl
3.sg-3.sg-see + meat + the + woman
その女が肉を食べる

さらにトピック化した名詞(主語でも目的語でも)は動詞の前に来たりするのでややこしいが、どちらの名詞も不定形だったり逆に双方定型だったりして意味があいまいになるそうなときは主語名詞が先行するのが普通だ。もっともどうしようもない場合もある。

Ø-qui-tlazòtla in pilli
3.sg-3.sg-love  + the + child

は「彼がその子を愛する」なのか「その子が彼を愛する」なのかわからない。文脈で判断するしかない。
 動詞接頭辞としてはこれらの人称代名詞のほかにも someone、something を表すものや再帰接頭辞、また方向を表現するものなどあって順番も決まっているのだがここでは省く。

 さて上で述べたようにアイヌ語も動詞に人称を表す接頭辞がつく。以下はちょっと資料が古いのだが、金田一京助、知里真志保両氏による。まず主語マーカーを見てみよう。上のナワトル語と比べてほしい。
Tabelle6-213
アイヌ語には雅語と口語の二つのパラダイムがあり、口語では一人称複数形に包含形と除外形の区別がある(『22.消された一人』参照)。日本語なら文語と口語の違いだろうが、文語、ファーガソンの言うHバリアントは必ずしも「書き言葉」とは限らない。文字を持たない言語にも古い形が口伝えで保存され、場所を限って使われ続けることがあるのだ。「口承の文語」というわけだが、いろいろな言語でその存在が確認されている。どちらにせよ形態素の形そのものがナワトル語とは全然違うので両言語間のいわゆる「親族関係」やらを云々することはできまい。だが、3人称はゼロマーカーという点が全く同じで感動する。次に目的語の接頭辞だが、目的語についても3人称がゼロマーカーになる点が上のナワトル語と異なる。
Tabelle7-213
まず主語、目的語の両方を持つ他動詞の構造を見てみよう。主語の接頭辞の次に目的語接頭辞が続き、最後の動詞語幹が来る。ナワトル語にそっくりだ(繰り返すが似ているのは構造だけで形態素そのものの形は全く似ていない)。kore(「与える」)という動詞で見ると:
Tabelle8-213
「彼が彼(ら)に与える」の形は資料にはなかったので私が再構築したものである。次に口語だが雅語と比べてイレギュラーな点がいくつかある。
Tabelle9-213
「私があなたに与える」は資料では確かにこの表のようになっていたのだが、e-kore の誤植かもしれない。事実 e-kore-ash という方言形があるそうだ。「彼が彼(ら)に与える」は上と同様私の勝手な判断である。大きく目を引く点は、主語が一人称で目的語が2人称の場合は一人称主語が脱落する。しかしここには出さなかったがその2人称目的語が尊敬形、-i- だと主語は脱落しない。この一人称は別の所でもおかしな挙動をし、例えば自動詞ではナワトル語と違って一人称主語マーカーが後置される。つまり接頭辞でなく接尾辞になるのだ。それで「入る」という動詞 ahun の雅語一人称単数「私が入る」は ahun-an。口語だと定式通りku-ahun である。ではこの一人称主語接尾辞は雅語だけの現象かと言うとそうではなく「私が笑う」は mina-an、nina が「笑う」だ。
 次に3人称の主語や目的語が普通の名詞だったらどうなるのか。アイヌ語も拡張子がつく。「私が酒を飲む」は:

sake a-ku
sake + 1.sg-drink

「あなたが猫を追う」は:

meko e-moshpa
cat + 2.sg-hunt

主語も目的語も3人称の場合は動詞が裸になる。

Seta meko noshpa
dog + cat + ø-ø-hunt
犬が猫を追う

基本的にはナワトル語と同じだ。ただアイヌ語は語順がナワトル語よりやや厳しいらしく、拡張子もSOVの一点張りらしい。
 さて上の「与える」という動詞の例だが、ちょっと待てと思うのではないだろうか。「与える」はバレンツ価が3,主語と間接目的語の他に「何を」、つまり直接目的語がいるからだ。残念ながら金田一氏の本にはそこの詳しい説明がなかったのでちょっとこちらで勝手にナワトル語から類推して考えてみよう。
 上で見たようにナワトル語の(アイヌ語も)人称接頭辞や名詞には格を表す形態素がない。だから対格目的語も与格目的語も要するに目的語、形の上での区別はないが「目的語を二つとる動詞」はある。ナワトル語文法には bitransitive (二重他動詞?)という言葉が使ってあるが、その代表が「与える」 maca だ。「私があなたにそれを与える」という場合、「私」という接頭辞が先頭、次に「あなた」が来て3番目に3人称単数の接頭辞が来るはずなのだが、目的語接頭辞は二つつくことはできないという規則があり、3番目に来るはずだった目的語3人称の接頭辞は削除される。事実上「私-あなた-動詞」という形になるわけだ。与えられたものが名詞である場合は拡張子がつく。例えば

Ni-mitz-maca in xōchitl
1.sg.-2.sg-give + the + flower(s)

は「私があなたに花をあげる」という意味になる。「花」という名詞(太字)は動詞内に呼応する要素を持たない。また花の受け取り手が「その女性」である場合は本来「私-彼女-それ-動詞」だが、「私-彼女-動詞」になり、拡張子が二つつく。

Ni-c-maca in cihuātl in xōchitl
1.sg.-3.sg-give + the + woman + the + flower(s)

「その女性」だけが動詞内に呼応要素を持ち、「花」は相変わらず宙に浮く。また3人称が主語のときは主語がゼロマーカーだから、目的語接頭辞が一つつくだけ。

Qui-maca in Pedro cōzcatl in cihuātl
ø-3.sg-give + the + Pedro + jewellery + the + woman
ペドロがその女性に宝石をあげる。

拡張子が3つ付加されているが、「宝石」は不定形だから「その女性」の前に来る。
 実は3人称の目的語が複数だった場合は複数マーカーだけ残ったりするのだが、もうこれで十分だと思うので(すでにゲップが出ている)それは無視し、基本の「2番目の目的語接頭辞は削除される」という原則にのっとってアイヌ語の「与える」kore の使い方を類推してみよう(アイヌ語ではそもそも3人称は常にゼロマーキングだが)。主語が一人称単数だと「私があなたに酒をあげる」は口語ではこうなるのではないだろうか。

Sake echi-kore

前述のように一人称単数主語は口語ではイレギュラーだが、雅語だと接頭辞が二つ、拡張子はつくが動詞内に呼応する要素がないという原則通りの形になるだろう。

sake a-e-kore

「あなたが私に酒をくれる」ならこうなりそうだ。

sake e-en-kore

問題は拡張子が二つ以上重なったらどうなるかだ。例えば「パナンペが私に酒をくれる」「パナンペが美智子に酒をあげる」はそれぞれ

Panampe sake en-kore
Panampe Michiko sake kore

とでも言うのだろうか。知っている人がいたら教えてほしい。

 前に松本克己教授が日本語、アイヌ語、さらに太平洋の向こう側のナワトル語、ケチュア語も含めた環太平洋の諸言語には一定のまとまりがあり、これによって日本語とアルタイ語は明確に袂を分かつと主張していたが、こういうのをみるとなるほどと思う。

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「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いを考えついたので追加しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 数詞というか数の数え方というか、例えば1から10までを何というのかなどは挨拶の仕方と同じく語学の授業の最初に基本単語として習うことが多いから日本語の場合も字もロクに読めないうちから数を覚えたがる人が結構いる。グッドモーニング、グッドバイときたら次はワン・ツー・スリーに行くのが順序という感覚だ。嫌な予感を押し殺しつつ仕方なく10くらいまで教えると、案の定「にひと」「さんアヒル」とか言い出す。それぞれtwo men、three ducks のつもりなのだ。それではいけない、単なる数字を勘定に使うことはできない、人とアヒルは数え方が違うのだ、人間も鳥も自動車も皆同じくtwo なら two を使えるほど日本語(や中国語)は甘くない、などという過酷な事実をそもそもまだ「私は学生です」という文構造さえ知らない相手に告げるのは(これは確か夏目漱石が使っていた表現だが)徒に馬糞を投げてお嬢様を驚かすようなことになりかねない。もっとも英語やドイツ語にだって例えば a cup of teaなど日本語や中国語に近い数え方をすることがある。日本語ではただそれが広範囲で全名詞にわたっており、単語を覚えるたびに数え方をチェックしておかなければならないというだけだ。ドイツ語で名詞を覚えるたびにいちいち文法性をチェックしておかなければならないのと同じようなもの。基本的に大した手間ではない。中国人だと中国語と日本語では数え方が微妙に違っているのでかえって面白がる。『143.日本人の外国語』でもちょっと言ったように、これしきのことでいちいち驚くのは構造の全く違う言語に遭遇したことがない印欧語母語者に多い。ただ、後になってから初めて「さんアヒル」と言えないと知らせて驚かすのも気の毒なので最近は数字を聞かれた時点で「これらの数字はただ勘定するときだけにしか使えず、付加語としての数詞は名詞によって全部違うから、後でまとめてやります」と言っておくことにしている。ついでに時々、「日本語は単数・複数の区別がなくて楽勝だと思ったでしょう?そのかわり他のところが複雑にできていて帳消しになってるんですよ。どこもかしこもラクチンな言語なんてありませんよ」と言ってやる。
 印欧語の母語者にとってさらに過酷なのは、普通日本語では数量表現が当該名詞の付加語にはならない、ということである。例えば英語なら

Two ducks are quacking.

で、two は ducks の付加語で duck というヘッド名詞の内部にあるが(つまり DP [two ducks])、日本語では数量表現が NP の外に出てしまう:

アヒルが二羽鳴いている。

という文では二羽という要素は機能的には副詞である。これに似た構造は幸いドイツ語にもある。量表現が NP の枠の外に出て文の直接構成要素(ここでは副詞)に昇格するのだ。いわゆるfloating numeral quantifiers という構造である。

Die Enten quaken alle.
the +  ducks + are quacking + all
アヒルが鳴いている。


Wir sind alle blöd.
we + are + all + stupid
我々は馬鹿だ。

ドイツ語だと副詞になれる量表現は「全部」とか「ほとんど」など数がきっちりきまっていないものに限るが、日本語だと具体的な数表現もこの文構造をとる。違いは数詞は付加語でなく副詞だから格マーカーは名詞のほうにだけつけ、数詞の格は中立ということだ。しかしここで名詞と「副詞の数詞」を格の上で呼応させてしまう人が後を絶たない。

アヒルが二羽が鳴いている
池にアヒルが二羽がいる
本を四冊を読みました

とやってしまうのだ。確かに数詞のほうに格マーカーをつけることができなくはないが、その場合は名詞が格マーカーを取れなくなる。

アヒルØ二羽が鳴いている。
本Ø四冊を読みました。

これらは構造的に「アヒルが二羽鳴いている」と似ているようだが実は全然違い、格マーカーのついた「二羽」「四冊」は主格名詞と解釈できるのに対し格マーカーを取らない「アヒル」や「本」は副詞ではない。それが証拠に倒置が効かない。

アヒルが二羽鳴いている。
二羽アヒルが鳴いている。

アヒル二羽が鳴いている。
*二羽がアヒル鳴いている。(「アヒルが二羽鳴いている」と比較)

数詞が名詞になっている後者の場合、「アヒル二羽」が一つの名詞、合成名詞とみなせるのではないだろうか。「ドイツの料理」という二つの名詞が合体して「ドイツ料理」という一つの合成名詞をつくるのと同じである。シンタクス構造が違うからそれが反映されるのか、意味あいも違ってくる。あるまとまりを持った集団に属するアヒルたちというニュアンスが生じるのだ。「アヒルが二羽」だと池のあっち側とこっち側で互いに関係ない他人同士、いや他鳥同士のアヒルがそれぞれ勝手に鳴いている雰囲気だが、「アヒル二羽が」だと、アヒルの夫婦か、話者の飼っているアヒル、少なくとも顔くらいは知っている(?)アヒルというイメージが起こる。ドイツ語や英語で言えば前者は不定冠詞、後者は定冠詞で修飾できそうな感じだ。この「特定集団」の意味合いは「二羽のアヒル」という言い回しでも生じる。

二羽のアヒルが鳴いている。

ここでの「二羽」はシンタクス上での位置が一段深く、上の「アヒルが二羽」のように動詞に直接支配される副詞と違って、NP内である。属格の「の」(『152.Noとしか言えない見本』参照)によって「二羽」がヘッド名詞「アヒル」の付加語となっているからだ。先の「アヒル二羽」は同格的でどちらが付加語でどちらがヘッドかシンタクス上ではあまりはっきりしていないが(まあ「二羽」がヘッドと解釈していいとも思うが)、「二羽のアヒル」なら明らか。いずれにせよどちらも数詞は NP内で副詞の位置にいる数詞とはシンタクス上での位置が違う。そしてこれも「アヒルが二羽鳴いている」と比べると「アヒル二羽」のイメージに近く、つがいのアヒルが鳴いている光景が思い浮かぶ。もっともあくまで「思い浮かぶ」であって、「アヒルが二羽」はバラバラのアヒル、「二羽のアヒル」ならつがいと決まっているわけではない。また後者でもそれぞれ勝手に鳴いている互いに関係ないアヒルを表せないわけではない、あくまでもニュアンスの差であるが、この辺が黒澤明の映画のタイトルが『七人の侍』であって『侍(が)七人』とはなっていない理由なのではないだろうか。あの侍たちはまさにまとまりをもった集団、固く結束して敵と戦うのだ。
 逆に集団性が感じられない、英語ドイツ語なら冠詞なしの複数形になりそうな場面では副詞構造の「アヒルが二羽」「アヒルを二羽」が普通だ。在米の知り合いから聞いた話では、これをそのまま英語に持ち込んでレストランでコーラを二つ注文するとき Coke(s) two といってしまう人がよくいるそうだ。Two Cokes が出てこない。さらにその際 please をつけないからネイティブをさらにイライラさせるということだ。
 さて、確かに二羽以上の複数のアヒルについては「集団性」ということでいいだろうが、単数の場合はどう解釈すればいいのか、つまり「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いである。これも私の主観だが、「一羽のアヒル」というと他の有象無象のアヒルから当該アヒルを区別しているというニュアンス、いわば当該アヒルが他の有象無象に対して自分のアイデンティティを確立しているニュアンスになる。「アヒルが一羽」だとそういう「このアヒル」というアイデンティティがあまり感じられず、有象無象の一員に過ぎない。実はこれが集団性の本質ではないだろうか。単数複数に関わりなく、当該人物(当該アヒル)対他者とを区別すれば集団なのである。そして既述する側が当該対象にこの集団性を持たせたいときには「一羽の」や「七人の」などの付加語形式を使う。

 それで思い出したが、ロシア語には普通の数詞(単純数詞、простые числительные)の他に集合数詞(собирательные числительные )というものがある。その名の如く複数の当該事象を一つのまとまりとして表す数詞、と説明されている(しかし集合数詞という名称がおかしい、という声もある。下記参照)。
Tabelle1-158
形としては一応10まであるが、9と10の集合数詞は事実上もう使われなくなっているそうだ。この集合数詞は単純数詞と語形変化の仕方が違う。全部見るのは面倒くさいので「3」と「5」の単純数詞と集合数詞の変化を比べると次のようになる。集合数詞と単純数詞はそもそも品詞そのものが違うことがみてとれるだろう。
Tabelle2-158
Tabelle3-158
数詞の被修飾語の名詞のほうは『65.主格と対格は特別扱い』『58.語学書は強姦魔』でものべたように、主格と対格では複数生格、その他の格では数詞と呼応する形が来る。
 日本語では数詞は語形は変わらずシンタクス上の位置が違ってくるが、ロシア語のほうは語そのものが違いシンタクス上の位置は変わらない。だから、というのもおかしいが使い方・意味合いも日本語の「アヒルが二羽」と「二羽のアヒル」と違い、なんとなく別のニュアンスなどというあいまいなものではなく使いどころが比較的きっちりと決まっている。例えば次のような場合は集合数詞を使わなければいけない。
1.ロシア語には形として単数形がなく複数形しかない名詞があるがそれらに2~4がついて主格か対格に立つとき。なぜなら2~4という単純数詞には単数生格(本当は双数生格、『58.語学書は強姦魔』参照)が来るのに、その「単数形」がないからである。

двое суток (主格はсутки で、複数形しかない)
two集合数詞 + 一昼夜・複数生格

трое ворот (ворота という複数形のみ)
three集合数詞 + 門・複数生格

четверо ножниц (同様ножницы という複数形のみ)
four集合数詞 + はさみ・複数生格

2.дети(「子供たち」、単数形はребёнок)、ребята(これもやはり「子供たち」、単数形はребёнокだがやや古語である)、люди(「人々」、単数形は человек)、лицо(「人物」)という名詞に2~4がついて主格か対格に立つとき。

двое детей
two集合数詞 + 子供たち・複数生格

трое людей
three集合数詞 +人々・複数生格

четверо незнакомых лиц
four集合数詞 + 見知らぬ・複数生格 + 人物・複数生格

3.数詞の被修飾語が人称代名詞である場合。

Нас было двое.
we.属格 + were + two集合数詞
我々は二人だった。


Он встретил их троих.
He + met + they. 属格 + tree.集合数詞
彼は彼ら3人に会った。



その他は基本的に単純数詞を使っていいことになるが、「も」も何もそもそも単純数詞の方がずっと活動範囲が広いうえに(複数形オンリーの名詞にしても、主格対格以外、また主格対格にしても5から上は単純数詞を使うのである)、集合数詞は事実上8までしかないのだがら、集合数詞を使う場面の方がむしろ例外だ。集合数詞、単純数詞の両方が使える場合、全くニュアンスの差がないわけではないらしいが、イサチェンコ(『58.語学書は強姦魔』『133.寸詰まりか水増しか』参照)によるとтри работника (3・単純数詞 + 労働者・単数生格)とтрое работников(3・集合数詞+ 労働者・複数生格)はどちらも「3人の労働者」(または労働者3人)という完全にシノニムで、трое などを集合数詞と名付けるのは誤解を招くとのことだ。歴史的には本来この形、例えば古スラブ語の dvojь、 trojь は distributive 分配的な数詞だったと言っている。distributive などと言われるとよくわからないがつまり collective 集合的の逆で、要するに対象をバラバラに勘定するという意味だ。チェコ語は今でもこの意味合いを踏襲しているそうだ。

 そうしてみると日本語の「アヒルが3匹」と「3匹のアヒル」の違いとロシア語の集合数詞、単純数詞の違いはそれこそ私がワケもなく思いついた以上のものではなく、構造的にも意味的にも歴史的にもあまり比較に値するものではなさそうだ。そもそも単数にはこの集合数詞が存在しない、という点で日本語とは大きく違っている。まあそもそも印欧語と日本語の構造を比べてみたって仕方がないと言われればそれまでだが。

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 異分析と言う言葉がある。英語で metanalysis(a が一つしかないのは誤植ではない)または resegmentation といい、単語に誤った形態素分析を食らわすことである。試しに英語の言語学事典で metanalysis を引くと metanalysis (hist) A word deriving from a word-boundary error: となっているのでもわかる通り、本来歴史言語学の用語だ。言語変化の主要要因となる現象だ。ただ、この異分析は非常に頻繁に見られ、時に「間違って」ではなくワザとやったりする場合もあるので歴史言語学どころか、言語学の範囲も逸脱して普通の言葉(?)として使われている。専門用語性が薄れてしまったのか、統一でなくバラバラな言葉で表現される。英語は上の二つの他に rebracketing という言い方があるそうだ。ドイツ語でも Metanalyse、Gliederungsverschiebung などいろいろな言い方がある。おかしなことに手元のドイツ語言語学事典にはどれも載っていない。もっともダテに「いろいろな言い方」があるわけではなく、metanalysis はあくまで語レベルの誤分析のみで、文レベルでの誤分析の resegmentation (「再分析」)と区別するそうだ。まあここではあまりうるさく分けないで全部「異分析」と呼んでおこう。
 
 上記の英語事典では a naddre → an adderという例がのっていた。naddre というのは蛇(の一種)で、西ゲルマン祖語では * nadrā、現在のドイツ語ではNatter といい、本来 n- で始まる言葉だった。この頭が中期英語の頃から冠詞の一部と御解釈されてしまい、近代英語ではan adder、つまり adderと語形変化してしまったのである。このn の脱落は純粋な音韻規則では説明できない。面白いのは西ゲルマン語派内の n- の分布状況で、近代英語はn- ナシだが、方言によってはn- つきの nedder という形が残っているらしい。大陸へ飛ぶと、中期低地ドイツ語は nâder とn- があったのが、現在の低地ドイツ語ではAdder になってしまった。オランダ語も中期に n- つきとn- ナシが混在しはじめ、現代オランダ語ではn- ナシのadder が標準。アフリカーンスも同様である。高地ドイツ語でもやっぱり中期に n- ナシ形が現れはしたが、上記のように現在ドイツ語、新高ドイツ語では本来の n- つきを使っている。高地ドイツ語でもルクセンブルク語(『174.三度目の驚き』参照)とその隣のリンブルク方言(南部下フランケン語)では Adder だ。一方で低地ドイツ語のフリースランド語は n- つきである。これをボーッと見た限りでは n- ナシ形は16世紀ごろの英語あるいは中期低地ドイツ語で発生しそこから大陸に広まったが、高地ドイツ語では今一つ押しが足りず、元の形を語変換させるまでには至らなかったという図になりそうだ。アフリカーンスがオランダ語から分離し始めたのは16世紀ごろだから、つまりオランダ語でこの変化が起こってからの分離ということになり計算は合っている。英語以外の西ゲルマン諸語では 不定冠詞がa という形でなく ein(ドイツ語)、een(オランダ語)など子音の前でも n- がついているから a naddre → an adder という図式はそのままでは当てはまらないが、ちょっと変更して een nadder → eenn adder という風に考えればまあ当てはまる。問題は低地ドイツ語のくせになぜフリースランド語に n- がついているのかということだが、英語の一部の方言形と同様、これも波動説で説明可能だ。つまり文化的辺境地には言語のイノベーションが浸透せず古形が残りやすいという理屈だ。
 いろいろ思索は尽きないが、要するに異分析というのは本来歴史言語学の用語であるということが言いたかっただけである。

 ロシア語でも異分析によって語の形が変化する例がある。今ちょっと思いつくのは зонт(「傘」)という語で、これは元来は зонтик という形だった。これはオランダ語の zonnedek からの借用語である。ドイツ語で言えば Sonne-deck で「日覆い」、要するに雨傘・日傘の区別なく「傘」である。ここまでは無事だったのだが、そのうち зонтик の後部 -ик がロシア語の縮小辞 -ик (『97.拡大と縮小』参照)と混同されて зонт-ик と異分析されるようになってきた。本当は зон-тик のはずなのだ。おかげで зонтик は「小さい зонт」と誤解釈され、「小さい」なんて失礼だから(?)とっぱらって本体だけにしろということになり、зонт になってしまった。元のオランダ語が泣いているぞ。  
 もう一丁思いつくのがこれもロシア語の рельс という言葉だ。「線路」という意味で、英語からの借用である。借用であるがどういうわけか複数形 rails を取り入れてしまった。さらにそこで最後の -s が複数マーカーだと意識されず -s のついたまま単数形扱いになったからたまらない。本来の複数形がロシア語ではさらに複数になる。変化形を見てみよう。全形ウザく(本来複数形の) -c-(-s-)が入っている。フツーで面白味に欠ける語形変化だ。
Tabelle1-212
もしここで rail と正しく単数形を借用していればいわゆる軟音変化になるから次のような美しいパラダイムになっていたはずだ。返す返すも残念だ。
Tabelle2-212
 日本語の例としては「あかぎれ」がそこら中で挙げてある。これは新語あるいは新しい形の形成までは行かず、単に誤解釈されている段階だが、この「あかぎれ」を「あか+ぎれ」と解釈する人が後を絶たない(すみません。私もやってしまいました)。しかし本当は「あ+かぎれ」であって、「あ」が「足」、「かぎれ」は本当は「かがれ」で、「ひびがきれる」だそうだ。「あ・かぎれ」を知っていた人は「あか・ぎれ」解釈した人を無知呼ばわりするかもしれない。しかし待って欲しい。「あか・ぎれ」解釈には理由があるのだ。まず足を表す「あ」と言う言葉も、ひびがきれるという意味の「かかる」も共時的には、つまり現在日本語には存在しない。「あ」を足の意味で使っていたのなど上代であるのに加えて、現在では足ばかりでなく手にできても「あかぎれ」で、足との関連性がさらに薄くなっている。つまり「あ」も「かぎれ」あるいは「かがれ」もとっくの昔に廃れた言葉であり、今の私たちにとっては外国語と同じ。そういう意味不明な言語音が並んだ場合はどうしても現在日本語の音韻解釈のメカニズムが働く。『204.繰り返しの文法  その2』でも述べたように日本語はフットと言う単位があり、2モーラでまとまりやすい。その2モーラがまた倍になって4モーラになる。倍々解釈だといわゆる語呂がいいのだ。だから略語など4モーラのものが圧倒的に多いのである。パソコン、あけおめ、ことよろなど皆2モーラ+2モーラの4モーラ構造だ。例えば「非英語」などは形態素の意味がはっきりわかっているから誰も「ひえ・いご」などと分析することはないが、形態素の意味がわからない古代語や外国語など、この語呂追及メカニズム(?)が働いて2+2モーラ解釈になるのは自然なことだ。
 悔し紛れで申し訳ないが「あ・かぎれ」ができたからといって威張っている(失礼)そこの人が「ウラジオストーク」をどう分析するか興味がある。実は私は夏目漱石だったか田山花袋だったかの小説で「浦塩」という表現を見た。つまりウラジオ・ストークと分析しやがった人が少なからずいるということだ。つまり最初の4モーラがまとまったのである。もちろんこれはウラジ・オストーク(ヴラジ・ヴォストーク)が「正しい」のだが、外国語が一旦日本語に入った以上、日本語のリズムや語呂感覚に支配されるのは当然なことだ。
 要するに異分析にはそれなりの理由があるので、必死にそれを矯正しようとしたり知らなかった人に対してベロベロバーしたりしてもあまり意味がない。黙ってその発生メカニズムを調べればそれでいいのである。確かにいわゆる民間語源にはスリルのありすぎる説も多いがそれはそれで味があるのではないだろうか。

 間違った分析をする人が多数派になるとその間違いが正しい方を押しのけて定着してしまい、言語そのものが変化する原動力になる。まさにみんなでやれば怖くないだが、そのように強力に表面上に現れなくても水面下と言うか、個人レベルというか、単発で起こる異分析も日常頻繁にみられる。
 例えばドイツで子供が親に「Abschauer って何?」と聞いてきたことがあるそうだ。そんな言葉はドイツ語にはない。動詞の abschauen ならあるが、これは方言形で標準ドイツ語では absehen(「見て取る」)だ。-er は英語と同じく「~する人、~するもの」だから理屈としては Abschauer という造語は可能ではある。が、その子供は周りで誰かが使っているのを見て意味を聞いてきたのだから自分でそういう「造語」をしたわけがない。一方その子はそんな事実上存在しない語が使われるような特殊な言語環境にはいない。聞かれた親は非常に面喰ってどこでそんな言葉を聞いたのか尋ねてみたら、その子はTVで誰かがAb und zu Schauer と言っていたと答えたそうだ。これは「時々雨」という意味で多分その時天気予報か何かをやっていたのだろう。 Ab und zu は熟語で「時々、折によって」という副詞。Schauer は英語の shower だ。これを Ab- und Zuschauer と異分析したのだ。ドイツ語では(英語やロシア語だってそうだ)後部形態素が同じの単語を並べる場合、エネルギー節約のため共通要素は最後に一回だけ表示、言い換えると最初の単語では違っている部分だけ書いてハイフンでつなく。例えば「国内および国外」は In- und Ausland。これは Inland und Ausland の省略形で、共通形態素 Land(「国」)を最後に一回だけ出す。だからこの子はAb und zu Schauer を Abschauer und Zuschauer と勘違いしたのだ。 Zuschauer という言葉はある。映画や演劇の観客のことで、使用頻度の非常に高い語だ。子供でも知っているだろう。残る Abschauer を知らなかったのだ。知らないはずだ、そんな言葉はないんだから。
 しかしこうやって異分析のメカニズムを追ってみると、異分析(勘違い)ができるためには結構高度な言語能力が必要なことがわかる。まずドイツ語の省略規則をマスターしていなければいけないし、Zuschauer など普通の単語は知っていなければいけない。やっと定冠詞の変化を覚えた程度の初心者などそもそも間違えることさえできないのだ。同様に「あ・かぎれ」を「あか・ぎれ」、「ウラジ・オストーク」を「ウラジオ・ストーク」とやるためには日本語の音韻を完璧にマスターしていなければいけない。「52」と「ご自由に」、「病院」と「美容院」がゴッチャになるような発音の悪い学習者にはできるワザではない。繰り返すが馬鹿には異分析はできないのである。

 子供で思い出したが、そういえば日本語には都市伝説となっている異分析がある。「重いコンダラ」だ。昔流行った『巨人の星』というアニメのテーマソングに「思い込んだら試練の道を」というフレーズがある。ここの画面が主人公星飛雄馬がグラウンド地ならしのローラーを引くものであったためにそれを聞いた子供が地ならし器具を「コンダラ」というのかと勘違いしたというものだ。確かにあのローラーは重いから「重いコンダラ」というわけだ。しかし上で「都市伝説」とはっきり書いたように私はこの話の信憑性には大いに疑問があると思っている。まず私の記憶によればそのフレーズが流れる時ローラーなど出てこない。第二にあの器具は当時小学生でも皆「ローラー」と呼んでいた、つまり誰でも名前を知っていたから仮にどこかに言葉を知らない子供がいて「コンダラ」と思い込んだとしても速攻で周りから修正されて表の話になど出てこなかったはずだ。第三に私がこの話を聞いたのはすでに大人になってからだ。もしこの異分析が本当に当時の子供発祥なら大人になるまでのどこかで当該器具を「コンダラ」と呼んでいたクラスメートに遭遇していたか少なくともそういう子がいると聞いていたはずだ。そんな子はただの一人もいなかったしそんな話も一度も聞いていない。
 だからこれは実はしばらく経ってから大人が小話としてこの異分析を考えつき、話を面白くするために架空の子供をでっち上げたに違いない。新語が子供の間違い、異分析から広まることなど滅多にない。大人が集団で間違えるから言語変化につながるのだ。

この物体の名称はローラーかコンダラか。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/94/Kondara_J09_01.jpg から
Kondara_J09_01
 それに異分析を言葉遊びとしてワザとやるのは決して珍しい事ではない。というより言葉遊びの主要テクの一つである。少し前にロシア語でこんな例をみかけた。
 ウクライナ戦争が始まったころ、爆撃された町で中年の女性がインタビューされていた。戦争中だからいくら外国のTV局のインタビューでも服装なんかに構っていられない、まさに普段着、着の身着のままのTシャツ姿であった。その着の身着のままのTシャツの柄がいくらなんでもあまりにも状況にそぐわず、視聴者の目を射たのである。ラバーダックというのか、黄色い可愛いゴムのアヒルが行列行進している絵に работаю сутками の文字のある白いTシャツだった。あまりにも可愛すぎる、あまりにも平和すぎる図柄だ。これほど状況にそぐわない服装はない。その文字 работаю сутками を私は自動的に работаю с утками と解釈した。 работаю が「働く」という動詞の一人称単数、 с は英語の with で「~と共に」、утками は утка(「アヒル」)の複数造格で、全体では「私はアヒルといっしょに働く」。どうも発話状況が想像しにくい文である。ところがこれはアヒルの絵につられた私の目の錯覚で、よく見ればTシャツに書いてあったのは上記のように работаю сутками だ。с とутками の間にスペースはない。スペースなしの сутками は名詞の сутки (「一昼夜」)の複数造格だ。「複数」と書いたが、この語には単数形がないのでどうせ複数形しかない。それが造格になっているのは場所や時間を表す名詞は造格で副詞化し「~を通って、~の間(中)」という意味を担うことができるからだ。例えば英国の歌手が勝手にパクったため(?)理不尽にも原曲は西欧の曲だと勘違いされることが多い『悲しき天使』という流行歌だが、この原曲はトロイカの旅をモチーフにしたロシア語で、その歌詞には造格名詞がガンガン登場する(inst というのが造格)。

Ехали на тройке …
drive-past.3.pl + on + troika-sg.prep …
Дорогой длинною, да ночкой лунною,
road-sg.inst + long-sg.inst + and + night-sg.inst + moonlit-sg.inst
(遠い道を通り、月明かりの夜をついで、トロイカに乗っていく)

形容詞まで造格形になっているのは修飾先の名詞と呼応しているからだが、その際語尾が名詞と少し違う形をしている(下線)。この語尾は古い形いわば文語形で、名詞につくこともある。だからここでは口語と文語が混ざっているわけだ。スタイル上の工夫だろう。これと比べると件の文は大分文学性に欠けるが、造格の働きは同じだ。

работаю сутками
work-1.sg + day and night-pl.inst
(私は何昼夜もぶっ続けで働く)

発話の文脈など考える必要もない、実にすっと理解できる文だ。

アヒルのTシャツは現在でも発売中。
https://mayki.kz/product/774682/manlong から

sutkami
 これに本来全く無関係なアヒルの絵を付加すれば誰でも目の錯覚を起こしてработаю с утками と異分析してしまう。つまりこのTシャツの柄は異分析を誘発する言葉遊びなのだ。非常に上手い。しかもその後調べてみるとこの「アヒルと働く図」は結構ポピュラーらしく、いろいろな製造元からTシャツばかりでなくこの図柄のマグカップなども出ている。中にはスペースを入れた異分析形の работаю с утками の方をフレーズにしているものも多くみられた。
 なお、работаю сутками  с утками とすれば「私は何昼夜もアヒルといっしょに働く」という意味になる。

スペースをきちんと入れたバージョンもあります。
https://www.ozon.ru/product/futbolka-stavart-921043582/ から

utkami

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