前に一度書いたように(『170.自動詞か他動詞か』参照)、私は文語に義理立てして現在日本語の構造を無視し、「読ん」と「読み」、「書き」と「書い」を連用形と言う同じカテゴリーに放り込む学校文法に疑問を持っている。その点ではこれらを別の形として「て形」、「ます形」と呼ぶ日本語教師文法(せめて外国人用の日本語といってくれ)のほうが優れているだろうが、これはこれで動詞の語幹のパラダイムに不純物の助動詞をくっつけた形、つまり二語いっしょにした不正確な命名だから文法記述としてはあまりいただけない。また外国人用の日本語では動詞を3つのグループに分ける。それ自体は学校文法より記述的に優れていると思うが、どうしてそこで第一グループ、第二グループ、第三グループなどという意味不明の命名をするのか。それぞれ素直に「子音語幹活用」、「母音語幹活用」、「不規則活用」としてはいけないのか。つまり外国人用の文法というのは「子音」「母音」「語幹」という言葉さえ知らない人でも楽しく日本語が学べるように工夫された文法、言語学の用語(子音、母音なんて全然専門用語でもないだろうに)を目の敵にした文法だということか。もっとも昨今のこの傾向は日本語ばかりではなく、ドイツ語だって主格、属格、与格、対格を一格、二格、三格、四格などと呼ばせている教科書がある。
外国人用の日本語には他にもいくつかわかりやすさのために言語学的事実をゆがめている既述があるが、その一つが動詞の「辞書形」とかいう用語である。これは本末転倒ではないのか?「何をもって辞書形、あるいは見だし形となすか」ということをまず最初に定義しておくのが辞書である。ロシア語ならば「動詞の不定形を辞書形となす」「形容詞は男性単数形を見出し語とする」などと最初にきちんと告げてある。名詞なら単数主格の形だ。それでは変化形がはっきりしない場合もあるので単数生格もついでに併記したりする。いずれにしても語形の一つを選んで辞書形にするのであって、最初から辞書形などという語形が文法パラダイム内に存在するのではない。「辞書形を辞書形となす」では完全なトートロジーだ。
用語それ自体が不適切なばかりではない。ちょっと手元にある(外国人のための)日本語の教科書には「日本語を話すことができます」「新聞を読むとき眼鏡をかけます」「まっすぐ行くと銀行があります」などの例の「話す」「読む」「行く」といった動詞を辞書形としてある。つまり学校文法で言う終止形と連体形がいっしょくたになっている。この点に関しては学校文法に軍配をあげざるを得ない。上の例のうち、最初の二つは連体形Attributiv 、最後のは終止形 Konklusiv で、これらは表面上は同じ形だが、語形パラダイムとしての区別は現在日本語においてもまだ保たれている。
確かに現在の日本語では動詞とイ形容詞では連体形、つまり名詞を修飾する形と終止形、つまり文の終わりをマークする形は同じだ。上の例での被修飾語「こと」「とき」は品詞としては名詞である(ついでに「山田さんがロシア語を話すのを知っていますか?」などの「の」やその崩れた形「ん」も名詞だ)。上の「まっすぐ行くと…」の例文の「と」は名詞ではなく接続詞だから、動詞の「行く」は終止形で連体形と同形だ。だから「日本語を話す」「新聞を読む」と、文を動詞で終らせたり、逆に「行く」を名詞に修飾させて「この先で工事していますからこの道をまっすぐ行くことはできません」などと言っても動詞の形は変わらない。この現象はイ形容詞もそうで、「4月でも寒いことがあります」「暑いときはビールをガンガン飲みます」「女の人が賢いと昭和脳おじさんは面白くないねえ」の最初の2つは連体形、最後の昭和脳は終止形だが、これを「4月なのに寒い!」「四月なのにクソ暑い!」「女の人が賢い国は発展する」と文構造を変えても形容詞の形はそのままだ。要するに動詞、イ形容詞では連体・終止は同形なのだ。
しかしナ形容詞とコピュラは連体・終止の区別を保持している。まずナ形容詞だが「山田さんは時々馬鹿なことを言います」「上司が馬鹿なときは部下に尻ぬぐいさせてください」「大統領が馬鹿だと国民は大変だ」と比べてみればわかる通り、連体形は「馬鹿な」、終止形は「馬鹿だ」である。しかしこの終止形は辞書形ではない。ナ形容詞は形容詞の語幹、つまり「馬鹿」が見出し語だ。見出し語が終止形である動詞やイ形容詞と整合がとれていないが、まあそれくらいなら「動詞、イ形容詞は終止形、ナ形容詞は語幹を見出し語とする」と最初に断っておけば済むだろう。問題は学習者がどうしてですかと聞いてきた場合だ。まさかそういう決まりなんですなどという無責任な答えをかますわけにはいかない。
ナ形容詞の語幹を除いたいわば「活用部」(印欧語と違って形容詞は曲用でなく活用する、『198.日本語の形容詞』参照)は中立形コピュラ、俗に言う断定の助動詞「だ」とほぼ同じである。そのためか語幹と「コピュラ様語尾」が、動詞やイ形容詞と違って完全にアマルガム化していない。それでも終止形以外、馬鹿ダロ・馬鹿ダッ/馬鹿デ・馬鹿ナ・馬鹿ナラなどの形は助動詞や名詞など他の要素が後続しないかぎり文を完結することができないためいわば繋ぎの要素としてアマルガムっぽい雰囲気になるからいいが、終止形は別だ。語幹にコピュラを特に付加された形、つまり二つの単語である感がアップする。それで「私は学生だ」のように、実際に二語である名詞+コピュラとの類推が働いて語幹表示になるのではないだろうか。またコピュラにせよ変化語尾にせよ「だ」は疑問文を作る「か」とは共存できない。動詞やイ形容詞なら「こんな本読むか?」「そっちは寒いか?」など、終止形に「か」がつくのにナ形容詞だと「あいつは馬鹿か?」であって、「あいつは馬鹿だか?」は非文である。これはコピュラも同じで「*あいつは学生だか?」とは言えない。そんなこんなでナ形容詞の終止形は動詞やイ形容詞と文法上の振舞いが違うのでいっしょにはできん、ナ形容詞の見出し語は語幹にしようということになったのだろう。一応これが先の「どうしてですか?」への答えである。
さて上でコピュラとナ形容詞の変化語尾はほぼ同じと言ったのは2点ほど双方が一致しない点があるからだ。一つは用法の連用形の違いである。コピュラもナ形容詞の変化語尾も~デ/~ダッという二つの形があるが(前述のようにこれは別の形とするべきだと私は思っている)、ナ形容詞にはもう一つ~ニという連用形がある。「きれいになる」という文の「きれいに」は「きれい」の連用形だ。これに対してコピュラ、例えば「雨になる」の「雨に」はN+格マーカー(向格)との解釈も可能である。可能であるというよりいわゆる学校文法ではコピュラの連用形としてニを認めていないので、それに従えば名詞の向格(あるいは与格)と解釈せざるを得ない。つまり「きれいに」の「に」は変化語尾、「雨に」の「に」は格マーカーというちょっと不統一な説明になってしまう。やろうと思えばそれを避けるために「雨に」の「に」をコピュラの連用形だと押し通せないこともないが、まあ別にそんな義理もないので格マーカーということで手を打とう。
さてもう一つの違いは、形容詞の命名の根拠になっているナ形容詞の連体形~ナで、名詞を修飾するときは必ず使われる最も使用頻度の高い形であるが、これに相当するコピュラの連体形~ナは非常に使用範囲が限られていることだ。名詞が別の名詞を修飾する場合は基本両名詞間のシンタクス関係に関わらず属格の「の」が使われる(『152.Noとしか言えない見本』参照)。「きれいな車」を「ドイツの車」と比べてみるとわかるように後者はN1+N2の構造だから属格の「の」が来る。属格マーカーが修飾機能を引き受けてしまうのでコピュラの連体形~ナはほとんど出番がない。ほとんどないがあるはある。被修飾名詞が疑似的に接続詞、英語文法で言う complementizer (例えばthat節の that)の機能を受け持っているときだ。ちょっと見てみよう。まずナ形容詞。
リナックスが案外便利なことを知っていますか?
「こと」というのは品詞的には名詞だから定式通り連体形の~ナになっている。一方「こと」は具体的な指示対象のない抽象的な名詞で、ここでは complementizer のような働きをしているので「名詞が名詞を修飾するときは最初の名詞が属格」と言う基本図式にならない。私の感覚では属格だと「うーん」である。
?? 山田さんが学生のことを知っていますか?
山田さんが学生なことを知っていますか?
言い換えると「である」で言い換えられる場合はコピュラの連体形~ナを使うということだ。もう一つの疑似complementizer の名詞、「の」では属格は「うーん」どころではなく完全にボツだ。
*山田さんが学生ののを知っていますか?
山田さんが学生なのを知っていますか?
??山田さんが学生な事実を知っていますか?
*山田さんが学生の事実を知っていますか?
被修飾名詞の抽象性が薄くなるとコピュラは使えなくなるので、その代わりに動詞を使った「~である」や、疑似でなく本物の complementizer 「と」と動詞「いう」を使った「~という」構造で代用する。「山田さんが学生である事実」「山田さんが学生だという事実」、または両方使った「山田さんが学生であるという事実」などだが、ここで導入された動詞「ある」「いう」は当然終止形でなく連体形だ。
さてその「と」だが、これは今言ったように文(センテンスでなくクローズのほう)を導くcomplementizer なので、先行する動詞は終止形だ。「学生だという事実」の「だ」はコピュラの、「学生であるという事実」の「ある」は動詞のそれぞれ終止形である。これに対して「学生である事実」の「ある」は連体形だからごっちゃにしてはいけない。私の手元にある日本語教師文法ではこのcomplementizer に先行する動詞、イ・ナ形容詞の形を「普通形」などとワケわかんない名称で呼んでいる。つまり「山田さんは明日来るといいました」の「来る」は普通形、「山田さんは明日来る」の「来る」は辞書形というわけだ。この普通形というのはデス・マス体ではないという意味らしいが、それなら「普通体」と言うべきではないのか。語形変化パラダイムの一つとしてそういう形があるわけではないのだから。間接話法の動詞、形容詞、コピュラはパラダイムとしてはあくまで終止形である。
とにかくどうして日本語教師文法では終止・連体という区別を執拗に避けるのか正直よくわからない。「~ようだ」と「~そうだ」の区別なども、前者は連体形支配、後者は終止形支配とすれば一発でスッキリわかるのに、辞書形、普通形などという言葉で説明したら混乱の極みだ。まずこの二つを使った文をくらべてほしい。「~そうだ」は連用形もとるが(「リナックスは便利そうだ」など)、ここではそっちのほうはひとまず置いておく。
明日は雨が降るようだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利なようだ。
山田さんは学生のようだ。
?山田さんは学生なようだ。
明日は雨が降るそうだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利だそうだ。
山田さんは学生だそうだ。
*山田さんは学生なそうだ。
これを見れば一目瞭然で、「~ようだ」は連体形支配、「~そうだ」は終止形支配なのである(私の言語感覚では「山田さんは学生なようだ」はギリチョンでOKだ)。こんな簡単なことなのに辞書形の普通形のという用語なんかで説明したら余計わかりにくくなる;
「ようだ」に先行するのは辞書形の動詞とイ形容詞、名詞にかかる形のナ形容詞、名詞に「の」をつけたもの。「~そうだ」ではやはり動詞とイ形容詞は辞書形、しかしながらナ形容詞とコピュラは普通形。
終止・連体をパラダイムとして区別すれは以下のような説明になる。どちらがわかりやすいかはまあ趣味の問題ではある:
「ようだ」に先行するのは動詞、形容詞、コピュラとも連体形、「そうだ」は同普通体終止形。ただし前述のようにコピュラの連体形は機能が限られているため「ようだ」に名詞が先行するときは属格マーカーの「の」を使うことが普通。
実はここまで書いてきたら以前ふと抱いた邪推が復活してしまった(『127.古い奴だとお思いでしょうが…』参照)。日本語教師文法のこういうやり方、形態素や語の厳しい分析を避けて、て形、ない形などと複数の語をいっしょくたにしてあたかも動詞の変化語尾であるかのように提示し、辞書形、普通形、第一グループなどと妙に言語構造の本質を避けるような言い回しを使うのは、学習者がわかりやすいようにではなく教える側が言語の素人(に毛の生えた程度の人)でもできるようにとの配慮なのではないかという我ながらヤな邪推である。いや私だってそんなことは思い出したくなかったが一旦復活した暗雲は簡単には退散してくれない。医者の白衣は患者のためではなくて自分自身を守るためだそうだが方向的にはそれと同じ、こういう文法は素人の講師を学習者のツッコミからプロテクトするためでは?だってそうだろう。子音語幹活用などと本当のことを言ってしまったら、まともな神経の学習者が必ず「買う」「会う」がどうして子音語幹なんですか、「う」という母音語幹じゃないんですかと聞いてくる。そう聞かれたら講師は「買う」が実は kaɸ-u という両唇摩擦音で終わる子音語幹だったのに子音が消失してしまったこと、音そのものは消失しても子音終わりというパラダイム意識は残っていること、だから助動詞ナイがついた形「買わない」では子音 w が現れること、その「買わない」は本来 kaɸ-a-nai であること、それが kaw-a-nai になっているのはɸ の摩擦性が弱まり接近音になったからであることなどを延々と説明しなければいけない。その説明も日本語でやるわけにはいかない、相手は日本語の初心者だから日本語の説など理解できないからだ。少なくとも英語、できれば学習者の母語でこういう面倒な解説をする羽目になるからできれば突っ込んでほしくないというのが本音なのではないだろうか。講師がそういう羽目に陥るのを未然に防ぐべく、第一グル―プなどと言って事実を隠蔽するのでは?どうして第一グループとか第二グル―プとか言うんですかという質問くらいはさすがに誰でも答えられる。そこに属する動詞の数が一番多いからだ。
それで思い出したが、それこそ素人に毛の生えたような、いやその毛さえ生えていなさそうなヘッポコスラブ語学の私が例によってヘラヘラ日本語を教えていたらコピュラの否定形過去「~ではありませんでした」という形を見た学生がどうしてたかが否定がそんなに長いんですか、それ、一つの形態素なんですか、それ以上分解できないんですかと突っ込んできたことがある。私が一瞬冷や汗をかきながら~デ・ハ・アリ・マセ・ン・デシ・タと分解して(この分解の仕方でいいのか?)一つ一つこれは助動詞の某でこれはトピックマーカーと説明していったら学生はうるさがるどころか、じゃあそのマセというのはマスやマシと同じ語の別変化形ですねと一発で飲み込んだには驚いた。あなたより日本語分析のできない日本人なんてウジャウジャいますがな。
またある時は開口一番「日本語にはいくつ格があるんですか?」。こういう質問はラテン語など古典印欧語をやったことのある人に多い。この答えも結構長くなる:日本語の格は印欧語のように名詞や冠詞の語形変化で表すんじゃなくて名詞の後ろに不変化詞(日本語文法で格助詞)を付加してマークするんです。なので極端に言えば人によって数え方が違ってくるんです。それでもまあ私が勘定したら13格ありました(『152.Noとしか言えない見本』参照)。
ゲスの勘繰りがさらにパワーアップするが、そういえば直説教授法とやらも表向きは学習者が当該言語にさらに密接にふれられるようにとの配慮ということだが、実は講師側の労力の軽減が主目的なのではないのか?直説法なら講師のほうは外国語を勉強する必要がないからだ。講師側が学習者のほうに降りていかなくてもいい。自分は外国語ができないくせに人にだけ外国語(日本語)をやらせて、しかもそれをありがたがって貰えるというオイシイメソッドじゃん。とか思ってしまう私はきっと自分があんまり外国語で泣いたから見方がひねくれたのだろう。
しかし例えば『158.アヒルが一羽二羽三羽』でも述べた数詞の位置だが、これを floating quantifier という言葉を使わずに説明する方法を私は知らない。こんなのを直説法で伝授しろと言われたら私はお手上げだ。
とにかく母語を教えるとき何が怖いと言って学習者からの鋭い質問ほど怖いものはない。センスのいい人ほど言語構造についての突っ込んだ質問をしてくる。それに答えられるためにはそれ相当のディスカッションがこなせるくらいに向こうの母語を話せないといけない。それじゃあ講師が困るから学習者の関心を下手に言語構造や文法の方に向けさせないように、つまり目くらましのために実践重視の名目のもとにオウムの調教のような楽しい授業をする。しかし語学の最終目的である「非母語である言語を内在化させる」ためにこの調教メソッドは従来の文法重視の方法より本当にそれほど優れているのだろうか?もちろん昨今はその路線でやらないと客が来ないから私もそれに付き合い、できる限りまじめにやってはいるが、私は何をやっているんだという葛藤は常に感じている。
さて、連体形と終止形の話に戻るが、これを考えるときいつもラテン語の呼格のことを思い出す。『90.ちょっと、そこの人!』でも書いたようにラテン語は曲用形としての呼格があるが、それは -us で終わる男性名詞の、しかも単数のみである。その他の曲用タイプの名詞、 -us でも複数形では呼格は主格と同形だ。つまり大部分の名詞には曲用形としての呼格を区別しないのである。それでも呼格と主格を分ける。日本語の連体・終止の区別だって似たようなものだ。動詞やイ形容詞、つまり大部分の用言では形の区別がないが、ナ形容詞とコピュラにはある。そして話者のパラダイム意識としてははっきりとこの区別があると思うのだ。
外国人用の日本語には他にもいくつかわかりやすさのために言語学的事実をゆがめている既述があるが、その一つが動詞の「辞書形」とかいう用語である。これは本末転倒ではないのか?「何をもって辞書形、あるいは見だし形となすか」ということをまず最初に定義しておくのが辞書である。ロシア語ならば「動詞の不定形を辞書形となす」「形容詞は男性単数形を見出し語とする」などと最初にきちんと告げてある。名詞なら単数主格の形だ。それでは変化形がはっきりしない場合もあるので単数生格もついでに併記したりする。いずれにしても語形の一つを選んで辞書形にするのであって、最初から辞書形などという語形が文法パラダイム内に存在するのではない。「辞書形を辞書形となす」では完全なトートロジーだ。
用語それ自体が不適切なばかりではない。ちょっと手元にある(外国人のための)日本語の教科書には「日本語を話すことができます」「新聞を読むとき眼鏡をかけます」「まっすぐ行くと銀行があります」などの例の「話す」「読む」「行く」といった動詞を辞書形としてある。つまり学校文法で言う終止形と連体形がいっしょくたになっている。この点に関しては学校文法に軍配をあげざるを得ない。上の例のうち、最初の二つは連体形Attributiv 、最後のは終止形 Konklusiv で、これらは表面上は同じ形だが、語形パラダイムとしての区別は現在日本語においてもまだ保たれている。
確かに現在の日本語では動詞とイ形容詞では連体形、つまり名詞を修飾する形と終止形、つまり文の終わりをマークする形は同じだ。上の例での被修飾語「こと」「とき」は品詞としては名詞である(ついでに「山田さんがロシア語を話すのを知っていますか?」などの「の」やその崩れた形「ん」も名詞だ)。上の「まっすぐ行くと…」の例文の「と」は名詞ではなく接続詞だから、動詞の「行く」は終止形で連体形と同形だ。だから「日本語を話す」「新聞を読む」と、文を動詞で終らせたり、逆に「行く」を名詞に修飾させて「この先で工事していますからこの道をまっすぐ行くことはできません」などと言っても動詞の形は変わらない。この現象はイ形容詞もそうで、「4月でも寒いことがあります」「暑いときはビールをガンガン飲みます」「女の人が賢いと昭和脳おじさんは面白くないねえ」の最初の2つは連体形、最後の昭和脳は終止形だが、これを「4月なのに寒い!」「四月なのにクソ暑い!」「女の人が賢い国は発展する」と文構造を変えても形容詞の形はそのままだ。要するに動詞、イ形容詞では連体・終止は同形なのだ。
しかしナ形容詞とコピュラは連体・終止の区別を保持している。まずナ形容詞だが「山田さんは時々馬鹿なことを言います」「上司が馬鹿なときは部下に尻ぬぐいさせてください」「大統領が馬鹿だと国民は大変だ」と比べてみればわかる通り、連体形は「馬鹿な」、終止形は「馬鹿だ」である。しかしこの終止形は辞書形ではない。ナ形容詞は形容詞の語幹、つまり「馬鹿」が見出し語だ。見出し語が終止形である動詞やイ形容詞と整合がとれていないが、まあそれくらいなら「動詞、イ形容詞は終止形、ナ形容詞は語幹を見出し語とする」と最初に断っておけば済むだろう。問題は学習者がどうしてですかと聞いてきた場合だ。まさかそういう決まりなんですなどという無責任な答えをかますわけにはいかない。
ナ形容詞の語幹を除いたいわば「活用部」(印欧語と違って形容詞は曲用でなく活用する、『198.日本語の形容詞』参照)は中立形コピュラ、俗に言う断定の助動詞「だ」とほぼ同じである。そのためか語幹と「コピュラ様語尾」が、動詞やイ形容詞と違って完全にアマルガム化していない。それでも終止形以外、馬鹿ダロ・馬鹿ダッ/馬鹿デ・馬鹿ナ・馬鹿ナラなどの形は助動詞や名詞など他の要素が後続しないかぎり文を完結することができないためいわば繋ぎの要素としてアマルガムっぽい雰囲気になるからいいが、終止形は別だ。語幹にコピュラを特に付加された形、つまり二つの単語である感がアップする。それで「私は学生だ」のように、実際に二語である名詞+コピュラとの類推が働いて語幹表示になるのではないだろうか。またコピュラにせよ変化語尾にせよ「だ」は疑問文を作る「か」とは共存できない。動詞やイ形容詞なら「こんな本読むか?」「そっちは寒いか?」など、終止形に「か」がつくのにナ形容詞だと「あいつは馬鹿か?」であって、「あいつは馬鹿だか?」は非文である。これはコピュラも同じで「*あいつは学生だか?」とは言えない。そんなこんなでナ形容詞の終止形は動詞やイ形容詞と文法上の振舞いが違うのでいっしょにはできん、ナ形容詞の見出し語は語幹にしようということになったのだろう。一応これが先の「どうしてですか?」への答えである。
さて上でコピュラとナ形容詞の変化語尾はほぼ同じと言ったのは2点ほど双方が一致しない点があるからだ。一つは用法の連用形の違いである。コピュラもナ形容詞の変化語尾も~デ/~ダッという二つの形があるが(前述のようにこれは別の形とするべきだと私は思っている)、ナ形容詞にはもう一つ~ニという連用形がある。「きれいになる」という文の「きれいに」は「きれい」の連用形だ。これに対してコピュラ、例えば「雨になる」の「雨に」はN+格マーカー(向格)との解釈も可能である。可能であるというよりいわゆる学校文法ではコピュラの連用形としてニを認めていないので、それに従えば名詞の向格(あるいは与格)と解釈せざるを得ない。つまり「きれいに」の「に」は変化語尾、「雨に」の「に」は格マーカーというちょっと不統一な説明になってしまう。やろうと思えばそれを避けるために「雨に」の「に」をコピュラの連用形だと押し通せないこともないが、まあ別にそんな義理もないので格マーカーということで手を打とう。
さてもう一つの違いは、形容詞の命名の根拠になっているナ形容詞の連体形~ナで、名詞を修飾するときは必ず使われる最も使用頻度の高い形であるが、これに相当するコピュラの連体形~ナは非常に使用範囲が限られていることだ。名詞が別の名詞を修飾する場合は基本両名詞間のシンタクス関係に関わらず属格の「の」が使われる(『152.Noとしか言えない見本』参照)。「きれいな車」を「ドイツの車」と比べてみるとわかるように後者はN1+N2の構造だから属格の「の」が来る。属格マーカーが修飾機能を引き受けてしまうのでコピュラの連体形~ナはほとんど出番がない。ほとんどないがあるはある。被修飾名詞が疑似的に接続詞、英語文法で言う complementizer (例えばthat節の that)の機能を受け持っているときだ。ちょっと見てみよう。まずナ形容詞。
リナックスが案外便利なことを知っていますか?
「こと」というのは品詞的には名詞だから定式通り連体形の~ナになっている。一方「こと」は具体的な指示対象のない抽象的な名詞で、ここでは complementizer のような働きをしているので「名詞が名詞を修飾するときは最初の名詞が属格」と言う基本図式にならない。私の感覚では属格だと「うーん」である。
?? 山田さんが学生のことを知っていますか?
山田さんが学生なことを知っていますか?
言い換えると「である」で言い換えられる場合はコピュラの連体形~ナを使うということだ。もう一つの疑似complementizer の名詞、「の」では属格は「うーん」どころではなく完全にボツだ。
*山田さんが学生ののを知っていますか?
山田さんが学生なのを知っていますか?
これは名詞の「の」が、元来属格マーカーだったのが後続の名詞の機能を吸収して発生したものであるため(つまりN+の+N → N+の+ø)、「のの」では同じ不変化詞が連続してしまうから盛大にブー音が鳴る。また complementizer っぽくはあっても「の」や「こと」以外の名詞だとこのコピュラの連体形はちょっと使いにくくなる。
??山田さんが学生な事実を知っていますか?
*山田さんが学生の事実を知っていますか?
被修飾名詞の抽象性が薄くなるとコピュラは使えなくなるので、その代わりに動詞を使った「~である」や、疑似でなく本物の complementizer 「と」と動詞「いう」を使った「~という」構造で代用する。「山田さんが学生である事実」「山田さんが学生だという事実」、または両方使った「山田さんが学生であるという事実」などだが、ここで導入された動詞「ある」「いう」は当然終止形でなく連体形だ。
さてその「と」だが、これは今言ったように文(センテンスでなくクローズのほう)を導くcomplementizer なので、先行する動詞は終止形だ。「学生だという事実」の「だ」はコピュラの、「学生であるという事実」の「ある」は動詞のそれぞれ終止形である。これに対して「学生である事実」の「ある」は連体形だからごっちゃにしてはいけない。私の手元にある日本語教師文法ではこのcomplementizer に先行する動詞、イ・ナ形容詞の形を「普通形」などとワケわかんない名称で呼んでいる。つまり「山田さんは明日来るといいました」の「来る」は普通形、「山田さんは明日来る」の「来る」は辞書形というわけだ。この普通形というのはデス・マス体ではないという意味らしいが、それなら「普通体」と言うべきではないのか。語形変化パラダイムの一つとしてそういう形があるわけではないのだから。間接話法の動詞、形容詞、コピュラはパラダイムとしてはあくまで終止形である。
とにかくどうして日本語教師文法では終止・連体という区別を執拗に避けるのか正直よくわからない。「~ようだ」と「~そうだ」の区別なども、前者は連体形支配、後者は終止形支配とすれば一発でスッキリわかるのに、辞書形、普通形などという言葉で説明したら混乱の極みだ。まずこの二つを使った文をくらべてほしい。「~そうだ」は連用形もとるが(「リナックスは便利そうだ」など)、ここではそっちのほうはひとまず置いておく。
明日は雨が降るようだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利なようだ。
山田さんは学生のようだ。
?山田さんは学生なようだ。
明日は雨が降るそうだ。
明日は寒いそうだ。
リナックスは便利だそうだ。
山田さんは学生だそうだ。
*山田さんは学生なそうだ。
これを見れば一目瞭然で、「~ようだ」は連体形支配、「~そうだ」は終止形支配なのである(私の言語感覚では「山田さんは学生なようだ」はギリチョンでOKだ)。こんな簡単なことなのに辞書形の普通形のという用語なんかで説明したら余計わかりにくくなる;
「ようだ」に先行するのは辞書形の動詞とイ形容詞、名詞にかかる形のナ形容詞、名詞に「の」をつけたもの。「~そうだ」ではやはり動詞とイ形容詞は辞書形、しかしながらナ形容詞とコピュラは普通形。
終止・連体をパラダイムとして区別すれは以下のような説明になる。どちらがわかりやすいかはまあ趣味の問題ではある:
「ようだ」に先行するのは動詞、形容詞、コピュラとも連体形、「そうだ」は同普通体終止形。ただし前述のようにコピュラの連体形は機能が限られているため「ようだ」に名詞が先行するときは属格マーカーの「の」を使うことが普通。
実はここまで書いてきたら以前ふと抱いた邪推が復活してしまった(『127.古い奴だとお思いでしょうが…』参照)。日本語教師文法のこういうやり方、形態素や語の厳しい分析を避けて、て形、ない形などと複数の語をいっしょくたにしてあたかも動詞の変化語尾であるかのように提示し、辞書形、普通形、第一グループなどと妙に言語構造の本質を避けるような言い回しを使うのは、学習者がわかりやすいようにではなく教える側が言語の素人(に毛の生えた程度の人)でもできるようにとの配慮なのではないかという我ながらヤな邪推である。いや私だってそんなことは思い出したくなかったが一旦復活した暗雲は簡単には退散してくれない。医者の白衣は患者のためではなくて自分自身を守るためだそうだが方向的にはそれと同じ、こういう文法は素人の講師を学習者のツッコミからプロテクトするためでは?だってそうだろう。子音語幹活用などと本当のことを言ってしまったら、まともな神経の学習者が必ず「買う」「会う」がどうして子音語幹なんですか、「う」という母音語幹じゃないんですかと聞いてくる。そう聞かれたら講師は「買う」が実は kaɸ-u という両唇摩擦音で終わる子音語幹だったのに子音が消失してしまったこと、音そのものは消失しても子音終わりというパラダイム意識は残っていること、だから助動詞ナイがついた形「買わない」では子音 w が現れること、その「買わない」は本来 kaɸ-a-nai であること、それが kaw-a-nai になっているのはɸ の摩擦性が弱まり接近音になったからであることなどを延々と説明しなければいけない。その説明も日本語でやるわけにはいかない、相手は日本語の初心者だから日本語の説など理解できないからだ。少なくとも英語、できれば学習者の母語でこういう面倒な解説をする羽目になるからできれば突っ込んでほしくないというのが本音なのではないだろうか。講師がそういう羽目に陥るのを未然に防ぐべく、第一グル―プなどと言って事実を隠蔽するのでは?どうして第一グループとか第二グル―プとか言うんですかという質問くらいはさすがに誰でも答えられる。そこに属する動詞の数が一番多いからだ。
それで思い出したが、それこそ素人に毛の生えたような、いやその毛さえ生えていなさそうなヘッポコスラブ語学の私が例によってヘラヘラ日本語を教えていたらコピュラの否定形過去「~ではありませんでした」という形を見た学生がどうしてたかが否定がそんなに長いんですか、それ、一つの形態素なんですか、それ以上分解できないんですかと突っ込んできたことがある。私が一瞬冷や汗をかきながら~デ・ハ・アリ・マセ・ン・デシ・タと分解して(この分解の仕方でいいのか?)一つ一つこれは助動詞の某でこれはトピックマーカーと説明していったら学生はうるさがるどころか、じゃあそのマセというのはマスやマシと同じ語の別変化形ですねと一発で飲み込んだには驚いた。あなたより日本語分析のできない日本人なんてウジャウジャいますがな。
またある時は開口一番「日本語にはいくつ格があるんですか?」。こういう質問はラテン語など古典印欧語をやったことのある人に多い。この答えも結構長くなる:日本語の格は印欧語のように名詞や冠詞の語形変化で表すんじゃなくて名詞の後ろに不変化詞(日本語文法で格助詞)を付加してマークするんです。なので極端に言えば人によって数え方が違ってくるんです。それでもまあ私が勘定したら13格ありました(『152.Noとしか言えない見本』参照)。
ゲスの勘繰りがさらにパワーアップするが、そういえば直説教授法とやらも表向きは学習者が当該言語にさらに密接にふれられるようにとの配慮ということだが、実は講師側の労力の軽減が主目的なのではないのか?直説法なら講師のほうは外国語を勉強する必要がないからだ。講師側が学習者のほうに降りていかなくてもいい。自分は外国語ができないくせに人にだけ外国語(日本語)をやらせて、しかもそれをありがたがって貰えるというオイシイメソッドじゃん。とか思ってしまう私はきっと自分があんまり外国語で泣いたから見方がひねくれたのだろう。
しかし例えば『158.アヒルが一羽二羽三羽』でも述べた数詞の位置だが、これを floating quantifier という言葉を使わずに説明する方法を私は知らない。こんなのを直説法で伝授しろと言われたら私はお手上げだ。
とにかく母語を教えるとき何が怖いと言って学習者からの鋭い質問ほど怖いものはない。センスのいい人ほど言語構造についての突っ込んだ質問をしてくる。それに答えられるためにはそれ相当のディスカッションがこなせるくらいに向こうの母語を話せないといけない。それじゃあ講師が困るから学習者の関心を下手に言語構造や文法の方に向けさせないように、つまり目くらましのために実践重視の名目のもとにオウムの調教のような楽しい授業をする。しかし語学の最終目的である「非母語である言語を内在化させる」ためにこの調教メソッドは従来の文法重視の方法より本当にそれほど優れているのだろうか?もちろん昨今はその路線でやらないと客が来ないから私もそれに付き合い、できる限りまじめにやってはいるが、私は何をやっているんだという葛藤は常に感じている。
さて、連体形と終止形の話に戻るが、これを考えるときいつもラテン語の呼格のことを思い出す。『90.ちょっと、そこの人!』でも書いたようにラテン語は曲用形としての呼格があるが、それは -us で終わる男性名詞の、しかも単数のみである。その他の曲用タイプの名詞、 -us でも複数形では呼格は主格と同形だ。つまり大部分の名詞には曲用形としての呼格を区別しないのである。それでも呼格と主格を分ける。日本語の連体・終止の区別だって似たようなものだ。動詞やイ形容詞、つまり大部分の用言では形の区別がないが、ナ形容詞とコピュラにはある。そして話者のパラダイム意識としてははっきりとこの区別があると思うのだ。