センテンスのトピック、不変化詞の「は」のついた名詞は格については中立で、指示のステータスとも本来無関係ということを『175.私は猫です』で強調した。その際印欧語が母語の奴はそこんとこがわかってないからトピックと見ると主格だと自動解釈しやがってと暗に罵ってしまったが、そんなことしやがるのは日本人にも結構いる。それが証拠に「ハとガの違い」などと平気で言う。この二つの不変化詞は機能の点でもシンタクス上の振舞いの点でも全く別物で本来比べるべきものではない。格の中立性ということがわかっていないのである。
指示のステータスとトピックを混同するのも困る。そういう人は文を見ると自動的にその文のトピックはどれかいなと探しはじめてしまう。例えば次の二番目の文を見てほしい。
私アメリカに行ってた友だちがいるのよ。その友だちが昨日うちに遊びに来たの。
ここで、「その友だち」が二番目の文のトピックだとチョンボ解釈する人は少なくない。「友だち」という指示対象のステータスが高いからだ(『181.フォルダの作り方使い方』参照)。日本語ならまだ「その友だち」に「は」がついていないからチョンボから踏みとどまれるが、これに対応する英語・ドイツ語の文では言語学者でさえ自動的に「その友だち」をトピックだと言い出す人がいる。下の文との違いをどう説明してくれるのか。
私アメリカに行ってた友だちがいるのよ。その友だちは昨日うちに遊びに来たの。
ここでは「その友だち」はトピックマークされているから本当にトピックだ。それに対して上の文はトピックを持たないのである。Kuroda という学者がこの区別を明確に指摘している。
まずトピック持ちの文から見て行こう。この文はトピックとトピックでない部分との二つに分けることができる。トピックでない部分とはつまりトピックに関連して伝えたい情報だ。この情報部は「コメント部」と名前でよく呼ばれているが、ちょっと色分けしてみよう。黄色がトピック、水色がコメントである。
その友だちは昨日うちに遊びに来たの。
トピックマークされていない上の文は、文全体がコメント部となる。
その友だちが昨日うちに遊びに来たの。
Kurodaはトピック付きで二部構成の文を categorical judgment、全コメント文を thetic judgment と呼んでいるが、この言葉自体はギリシャ哲学の時代から存在している。次のような文も定型的な「全コメ文」「トピなし文」である。
あっ、アヒルがいる!
では二部構成になっている文の構成要素は必ずトピックとコメントなのかというとそうではない。「誰が来たんですか?」という問いへの答えとして「田中さんが来ました」と発話した場合、「田中さん」は変数(疑問代名詞)「誰が」に代入されるべき定数、つまり求められた情報だが、「来ました」の方はそれがないと答えの文がブッキラボウな省略文になってしまうため、言い換えると答えの文のシンタクス構造を整えるために当該情報にくっ付けられたいわばシッポというか包み紙みたいなものである。文字を色分けしてみよう。
田中さんが来ました。
この赤い部分、核心情報の部分を「フォーカス」あるいは「焦点」、緑色の包み紙を「バックグラウンド」あるいは「背景」と呼んでいる。もし同じ質問に対して「田中さん!」と答えたらその文は背景部のない前フォーカス文ということになる。
田中さん!
疑問代名詞の代入ばかりでなく、元の文の一部を訂正する場合もこのフォー・バク構造(長すぎるので縮めてしまいました)となる。
A:山田さん、来ましたね!
B;いや、田中さんが来たんですよ!
この場合は包み紙たるバックグランドがないと通じにくい。
さらに見ていくとこのフォーカス・バックグランド文も全フォーカス文も同時に全コメ構造である。どちらもトピックがないからだ。色を上乗せして図示してみよう。
田中さんが来ました。
田中さん!
次に「昨日は誰が来ましたか?」という質問に対して「昨日は山田さんが来ました」と答えた場合だが、これはトピ・コメとフォー・バクの二重の二部構成になる。
昨日は山田さんが来ました。
これらトピック、コメント、フォーカス、バックグラウンドは「文の情報コンポーネント」と呼ばれるが、そのコンポ分けの仕方に2通りある。第一は今まで見てきたようにトピ・コメとフォー・バクという二種の二項分けをそれぞれ独立に適用するやり方だ。もう一つはこの二つを統合してしまって、文の情報構造を3つのコンポーネントに分けるものである。カタロニアの Vallduví という言語学者がこの立場だったが、文をリンク link、フォーカス focus、テール tail という3つの情報部に分けていた。リンクはトピックのことで、これがいわばフォルダの働きをすることを考えれば(『181.フォルダの作り方使い方』参照)、むしろ「トピック」という名称より適切かもしれない。フォーカスは上のフォーカスと同じ意味で、文のしかるべき部分に代入すべき情報部である。テールはまさに尻尾、上の用語でいうとコメントかつバックグラウンドの部分だ。つまりトピック(リンク)に関してはフォー・バク二分割はを不問にするわけである。このやり方だと非常に情報構造がすっきりと現せる。上の「昨日は山田さんが来ました」をこの3分割で現してみよう。せっかく旧来の用語をリンク、テールと上手い用語で言い換えたのだからこの際「フォーカス」も言い換えて「アップデート」と命名しようと思う。リンクが黄色、アップデートが空色、テールが薄赤。
昨日は山田さんが来ました。
文字そのものの色を変えずに背景色だけですっきりと表せる。今までの他の例文もこれで表してみよう。
その友だちは昨日うちに遊びに来たの。
その友だちが昨日うちに遊びに来たの。
あっ、アヒルがいる!
田中さんが来たんですよ!
田中さんが来ました。
田中さん!
Vallduví はさらにそこで、あり得る文の情報構造は1.リンク・アップデート(フォーカス)、2.全アップデート、3.アップデート・テール、4.リンク・アップデート・テールの4つしかないと主張した。上でその全パターンが出そろっているが、言い換えると、1.アップデートのない文はあり得ない、2.リンクは(登場するとしたら)必ず文頭に、テールは文末に来る、の2点に絞られる。この結論は英語とカタロニア語を詳細に検討して出したものだが、アメリカの Van Valin という学者もこの原則を踏襲している。ちょっとこれを引き続き日本語で検討してみよう。「山田さんは昨日どこへ行きましたか?」という質問に対して「山田さんは昨日東京へ行きました」と答えた場合情報構造はどうなるのか。ダブル二重構造方式でなら:
山田さんは昨日東京へ行きました。
統合方式だと次のようにならざるを得ない。
山田さんは昨日東京へ行きました。
「行きました」はテールだからきちんと(?)素通りしてもらえるが、改めて書き換える必要のない「昨日」は「東京へ」と共にアプデ部だから上乗せで書き換えられるという解釈になる。統合方式では情報コンポがバラけて配置されることを許さないので、以下のような情報構造は認められないからだ。
*山田さんは昨日東京へ行きました。
ある意味では「昨日」と「東京へ」の違いを昨日東京へという風に文字の色を違えて表せる上のダブル二重方式のほうが便利とも言えるが、一方でダブル方式だと「昨日」も「行きました」もそれぞれ昨日、行きましたと全く同じ色合いになってしまう。しかしこれらは省略されたときの違和感の程度が全く異なる。「山田さんは東京へ行きました」なら上の質問の答えとして完全にOKだが、「山田さんは昨日東京へ」と言って「行きました」を省略すると日本語の文としての許容度が一気に下がる。やはりこの二つは異なる情報コンポと見たほうがいい。テールは単に文脈から再建可能なだけでなく、何らかのシンタクス機能を背負っているのだ。言い換えると文の情報構造は指示のステータスとは独立ということで、『181.フォルダの作り方使い方』で議論した結論とも整合する。
さて次に同じ問いに「昨日山田さんは東京へ行きました」と答えた場合と「昨日は山田さんは東京へ行きました」と回答した場合との違いは何か。一見双方同じ情報構造になる。
昨日山田さんは東京へ行きました。
昨日は山田さんは東京へ行きました。
だが、二番目の文はVallduvíが「リンク・チェーン」、リンクの鎖と呼んでいる、リンクが複数ある構造である。次のように表すとわかりやすい。
昨日は 山田さんは 東京へ 行きました。
最初の文はリンクが一つである。
昨日山田さんは 東京へ 行きました。
このリンクの鎖は生成文法でマルチトピックと呼ばれているもので、英語学者にすら(?)存在を確認されている極めてありふれた情報構造である。ああそれなのに、ある時私が日本語でものを書いているとき一つの文に「は」を二回入れたら文法チェックの下線が入った。つまりこれは「要注意」の構造と言うわけか。誰だ、こんなチェック機構をプログラムに組んだのは。多分規範文法意識過多(『170.自動詞か他動詞か』参照)の国語の先生か語学教師の入れ知恵か。道理で「トピックは既知の情報」とかこの21世紀に未だに大ウソの説明をしだす人が散見されるはずだ(まあまあそう怒るなよ)。以前に「トピックは格や指示のステータスとは理論的に無関係」と描いたが、数に関しても原則的にはセンテンス内の制限はないのだ。次の文なんかには「は」が三回出てくるが、私の言語感覚では完全にOKである。
昨日は東京ではコンサートはなかった。
情報構造というテーマについては構造主義言語学の創成期、プラーグ学派ですでに議論され、チョムスキーに代表される生成文法にも引き継がれた。そこでワーワー議論されているところに登場したのが日本語で、この言語は英語なんかと違ってイチコロでトピックが見分けられる。「昨日山田さんは」と「昨日は山田さんは」の違い、つまりシングルリンクとマルチリンクの違いなんかも英語だと当該単語のシンタクス上の位置や発音など学者が一生懸命に議論検討しないといけないが、日本語だとネイティブスピーカーならどんな馬鹿でも一発で区別できる。「は」がついているいないでわかるからだ。このメリットのため当時の情報構造ネタの論文では必ずと言っていいほど日本語に言及されていた。私はこの「トピック」というテーマは日本語が世界の言語学に大きく貢献した部分だと思っている。日本人がその足を引っ張ってどうするんだ。
トピックが馬鹿でも見分けられることばかりではない、もう一つ日本語母語者が情報構造論者にできる貢献がある。致命的な彼らの誤謬を指摘できるのだ。実は私は15年以上前から至る所でこれをギャーギャー叫んでいるのだが悲しい哉、叫ぶ場所があまりにも閉じた空間過ぎて誰の耳にも届かず「すみません、私が間違っていました」とこちらに謝ってきた言語学者はまだいない。いないが彼らの「アップデート部のない文はあり得ない」という主張は間違いだ。全リンク文は存在するんですなふふん。
まず Van Valin は次のロシア語会話での Виктра?という部分を「全アップデート」、Kuroda の言葉で言えば Tethic と解釈している。なんだこれはという変な会話だが、Van Valin がアップデート(フォーカス)と解釈した部分を空色で表してみよう。
А: Максим убивает Алексея.
В: А Виктра?
А: Виктра Максим защищает.
A: Maksim kills Aleksey.
B: And Victor?
A: Victor, Maksim protects (him).
Виктра? は本当に全アプだろうか?これに対応する日本語の会話は以下のようになる。
A:マキシムはアレクセイを殺す。
B:じゃあヴィクトルは?
A:ヴィクトルは守るよ。
どうだ、見たか。「は」が付くんだっての。つまりこの文はまさに全リンクなのだ。
A: Maksim kills Aleksey.
B: And Victor?
A: Victor, Maksim protects (him).
統合方式、ダブル二重方式に関わらず、欧米系の情報構造論者が全員「ない」と言っている構造が日本語だとラクチンに見つかるのである。確か奥津敬一郎教授が出していた例だったと記憶しているが、自分の机の上に見知らぬ小包を発見したとき、日本人なら誰でも「これは?」とトピックマーカーをつけて聞く。「あれ、山田さんは?」など全リンク文なんて枚挙にいとまがない。
それに対して次のような文脈で発話された Victor? は全アップデートである。英語だと上の文と非常に区別が付きにくいが日本語にしてみると一発だ。
A: Maksim kills Aleksey.
B: Victor?
A: No, It’s Maksim kills Aleksey.
A:マキシムはアレクセイを殺す。
B:えっ、ヴィクトルが?
A:いや、マキシムが殺すんだ。
あまり英語になっていない酷い文で恐縮だが、とにかく日本語ではここで「ヴィクトルが?」を「ヴィクトルは」にすることはできない。上の Victor?とここの Victor?は全く別の情報コンポーネントであることが、日本語にしてみると本当に馬鹿でもわかる。
「全リンク」という構造を上で述べた「あり得る文の情報構造パターン」の5として付け加えるべきだと私は思っている。
この項続きます。
指示のステータスとトピックを混同するのも困る。そういう人は文を見ると自動的にその文のトピックはどれかいなと探しはじめてしまう。例えば次の二番目の文を見てほしい。
私アメリカに行ってた友だちがいるのよ。その友だちが昨日うちに遊びに来たの。
ここで、「その友だち」が二番目の文のトピックだとチョンボ解釈する人は少なくない。「友だち」という指示対象のステータスが高いからだ(『181.フォルダの作り方使い方』参照)。日本語ならまだ「その友だち」に「は」がついていないからチョンボから踏みとどまれるが、これに対応する英語・ドイツ語の文では言語学者でさえ自動的に「その友だち」をトピックだと言い出す人がいる。下の文との違いをどう説明してくれるのか。
私アメリカに行ってた友だちがいるのよ。その友だちは昨日うちに遊びに来たの。
ここでは「その友だち」はトピックマークされているから本当にトピックだ。それに対して上の文はトピックを持たないのである。Kuroda という学者がこの区別を明確に指摘している。
まずトピック持ちの文から見て行こう。この文はトピックとトピックでない部分との二つに分けることができる。トピックでない部分とはつまりトピックに関連して伝えたい情報だ。この情報部は「コメント部」と名前でよく呼ばれているが、ちょっと色分けしてみよう。黄色がトピック、水色がコメントである。
その友だちは昨日うちに遊びに来たの。
トピックマークされていない上の文は、文全体がコメント部となる。
その友だちが昨日うちに遊びに来たの。
Kurodaはトピック付きで二部構成の文を categorical judgment、全コメント文を thetic judgment と呼んでいるが、この言葉自体はギリシャ哲学の時代から存在している。次のような文も定型的な「全コメ文」「トピなし文」である。
あっ、アヒルがいる!
では二部構成になっている文の構成要素は必ずトピックとコメントなのかというとそうではない。「誰が来たんですか?」という問いへの答えとして「田中さんが来ました」と発話した場合、「田中さん」は変数(疑問代名詞)「誰が」に代入されるべき定数、つまり求められた情報だが、「来ました」の方はそれがないと答えの文がブッキラボウな省略文になってしまうため、言い換えると答えの文のシンタクス構造を整えるために当該情報にくっ付けられたいわばシッポというか包み紙みたいなものである。文字を色分けしてみよう。
田中さんが来ました。
この赤い部分、核心情報の部分を「フォーカス」あるいは「焦点」、緑色の包み紙を「バックグラウンド」あるいは「背景」と呼んでいる。もし同じ質問に対して「田中さん!」と答えたらその文は背景部のない前フォーカス文ということになる。
田中さん!
疑問代名詞の代入ばかりでなく、元の文の一部を訂正する場合もこのフォー・バク構造(長すぎるので縮めてしまいました)となる。
A:山田さん、来ましたね!
B;いや、田中さんが来たんですよ!
この場合は包み紙たるバックグランドがないと通じにくい。
さらに見ていくとこのフォーカス・バックグランド文も全フォーカス文も同時に全コメ構造である。どちらもトピックがないからだ。色を上乗せして図示してみよう。
田中さんが来ました。
田中さん!
次に「昨日は誰が来ましたか?」という質問に対して「昨日は山田さんが来ました」と答えた場合だが、これはトピ・コメとフォー・バクの二重の二部構成になる。
昨日は山田さんが来ました。
これらトピック、コメント、フォーカス、バックグラウンドは「文の情報コンポーネント」と呼ばれるが、そのコンポ分けの仕方に2通りある。第一は今まで見てきたようにトピ・コメとフォー・バクという二種の二項分けをそれぞれ独立に適用するやり方だ。もう一つはこの二つを統合してしまって、文の情報構造を3つのコンポーネントに分けるものである。カタロニアの Vallduví という言語学者がこの立場だったが、文をリンク link、フォーカス focus、テール tail という3つの情報部に分けていた。リンクはトピックのことで、これがいわばフォルダの働きをすることを考えれば(『181.フォルダの作り方使い方』参照)、むしろ「トピック」という名称より適切かもしれない。フォーカスは上のフォーカスと同じ意味で、文のしかるべき部分に代入すべき情報部である。テールはまさに尻尾、上の用語でいうとコメントかつバックグラウンドの部分だ。つまりトピック(リンク)に関してはフォー・バク二分割はを不問にするわけである。このやり方だと非常に情報構造がすっきりと現せる。上の「昨日は山田さんが来ました」をこの3分割で現してみよう。せっかく旧来の用語をリンク、テールと上手い用語で言い換えたのだからこの際「フォーカス」も言い換えて「アップデート」と命名しようと思う。リンクが黄色、アップデートが空色、テールが薄赤。
昨日は山田さんが来ました。
文字そのものの色を変えずに背景色だけですっきりと表せる。今までの他の例文もこれで表してみよう。
その友だちは昨日うちに遊びに来たの。
その友だちが昨日うちに遊びに来たの。
あっ、アヒルがいる!
田中さんが来たんですよ!
田中さんが来ました。
田中さん!
Vallduví はさらにそこで、あり得る文の情報構造は1.リンク・アップデート(フォーカス)、2.全アップデート、3.アップデート・テール、4.リンク・アップデート・テールの4つしかないと主張した。上でその全パターンが出そろっているが、言い換えると、1.アップデートのない文はあり得ない、2.リンクは(登場するとしたら)必ず文頭に、テールは文末に来る、の2点に絞られる。この結論は英語とカタロニア語を詳細に検討して出したものだが、アメリカの Van Valin という学者もこの原則を踏襲している。ちょっとこれを引き続き日本語で検討してみよう。「山田さんは昨日どこへ行きましたか?」という質問に対して「山田さんは昨日東京へ行きました」と答えた場合情報構造はどうなるのか。ダブル二重構造方式でなら:
山田さんは昨日東京へ行きました。
統合方式だと次のようにならざるを得ない。
山田さんは昨日東京へ行きました。
「行きました」はテールだからきちんと(?)素通りしてもらえるが、改めて書き換える必要のない「昨日」は「東京へ」と共にアプデ部だから上乗せで書き換えられるという解釈になる。統合方式では情報コンポがバラけて配置されることを許さないので、以下のような情報構造は認められないからだ。
*山田さんは昨日東京へ行きました。
ある意味では「昨日」と「東京へ」の違いを昨日東京へという風に文字の色を違えて表せる上のダブル二重方式のほうが便利とも言えるが、一方でダブル方式だと「昨日」も「行きました」もそれぞれ昨日、行きましたと全く同じ色合いになってしまう。しかしこれらは省略されたときの違和感の程度が全く異なる。「山田さんは東京へ行きました」なら上の質問の答えとして完全にOKだが、「山田さんは昨日東京へ」と言って「行きました」を省略すると日本語の文としての許容度が一気に下がる。やはりこの二つは異なる情報コンポと見たほうがいい。テールは単に文脈から再建可能なだけでなく、何らかのシンタクス機能を背負っているのだ。言い換えると文の情報構造は指示のステータスとは独立ということで、『181.フォルダの作り方使い方』で議論した結論とも整合する。
さて次に同じ問いに「昨日山田さんは東京へ行きました」と答えた場合と「昨日は山田さんは東京へ行きました」と回答した場合との違いは何か。一見双方同じ情報構造になる。
昨日山田さんは東京へ行きました。
昨日は山田さんは東京へ行きました。
だが、二番目の文はVallduvíが「リンク・チェーン」、リンクの鎖と呼んでいる、リンクが複数ある構造である。次のように表すとわかりやすい。
昨日は 山田さんは 東京へ 行きました。
最初の文はリンクが一つである。
昨日山田さんは 東京へ 行きました。
このリンクの鎖は生成文法でマルチトピックと呼ばれているもので、英語学者にすら(?)存在を確認されている極めてありふれた情報構造である。ああそれなのに、ある時私が日本語でものを書いているとき一つの文に「は」を二回入れたら文法チェックの下線が入った。つまりこれは「要注意」の構造と言うわけか。誰だ、こんなチェック機構をプログラムに組んだのは。多分規範文法意識過多(『170.自動詞か他動詞か』参照)の国語の先生か語学教師の入れ知恵か。道理で「トピックは既知の情報」とかこの21世紀に未だに大ウソの説明をしだす人が散見されるはずだ(まあまあそう怒るなよ)。以前に「トピックは格や指示のステータスとは理論的に無関係」と描いたが、数に関しても原則的にはセンテンス内の制限はないのだ。次の文なんかには「は」が三回出てくるが、私の言語感覚では完全にOKである。
昨日は東京ではコンサートはなかった。
情報構造というテーマについては構造主義言語学の創成期、プラーグ学派ですでに議論され、チョムスキーに代表される生成文法にも引き継がれた。そこでワーワー議論されているところに登場したのが日本語で、この言語は英語なんかと違ってイチコロでトピックが見分けられる。「昨日山田さんは」と「昨日は山田さんは」の違い、つまりシングルリンクとマルチリンクの違いなんかも英語だと当該単語のシンタクス上の位置や発音など学者が一生懸命に議論検討しないといけないが、日本語だとネイティブスピーカーならどんな馬鹿でも一発で区別できる。「は」がついているいないでわかるからだ。このメリットのため当時の情報構造ネタの論文では必ずと言っていいほど日本語に言及されていた。私はこの「トピック」というテーマは日本語が世界の言語学に大きく貢献した部分だと思っている。日本人がその足を引っ張ってどうするんだ。
トピックが馬鹿でも見分けられることばかりではない、もう一つ日本語母語者が情報構造論者にできる貢献がある。致命的な彼らの誤謬を指摘できるのだ。実は私は15年以上前から至る所でこれをギャーギャー叫んでいるのだが悲しい哉、叫ぶ場所があまりにも閉じた空間過ぎて誰の耳にも届かず「すみません、私が間違っていました」とこちらに謝ってきた言語学者はまだいない。いないが彼らの「アップデート部のない文はあり得ない」という主張は間違いだ。全リンク文は存在するんですなふふん。
まず Van Valin は次のロシア語会話での Виктра?という部分を「全アップデート」、Kuroda の言葉で言えば Tethic と解釈している。なんだこれはという変な会話だが、Van Valin がアップデート(フォーカス)と解釈した部分を空色で表してみよう。
А: Максим убивает Алексея.
В: А Виктра?
А: Виктра Максим защищает.
A: Maksim kills Aleksey.
B: And Victor?
A: Victor, Maksim protects (him).
Виктра? は本当に全アプだろうか?これに対応する日本語の会話は以下のようになる。
A:マキシムはアレクセイを殺す。
B:じゃあヴィクトルは?
A:ヴィクトルは守るよ。
どうだ、見たか。「は」が付くんだっての。つまりこの文はまさに全リンクなのだ。
A: Maksim kills Aleksey.
B: And Victor?
A: Victor, Maksim protects (him).
統合方式、ダブル二重方式に関わらず、欧米系の情報構造論者が全員「ない」と言っている構造が日本語だとラクチンに見つかるのである。確か奥津敬一郎教授が出していた例だったと記憶しているが、自分の机の上に見知らぬ小包を発見したとき、日本人なら誰でも「これは?」とトピックマーカーをつけて聞く。「あれ、山田さんは?」など全リンク文なんて枚挙にいとまがない。
それに対して次のような文脈で発話された Victor? は全アップデートである。英語だと上の文と非常に区別が付きにくいが日本語にしてみると一発だ。
A: Maksim kills Aleksey.
B: Victor?
A: No, It’s Maksim kills Aleksey.
A:マキシムはアレクセイを殺す。
B:えっ、ヴィクトルが?
A:いや、マキシムが殺すんだ。
あまり英語になっていない酷い文で恐縮だが、とにかく日本語ではここで「ヴィクトルが?」を「ヴィクトルは」にすることはできない。上の Victor?とここの Victor?は全く別の情報コンポーネントであることが、日本語にしてみると本当に馬鹿でもわかる。
「全リンク」という構造を上で述べた「あり得る文の情報構造パターン」の5として付け加えるべきだと私は思っている。
この項続きます。