アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:語順

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 前回の続きである。

 For a few dollars moreという映画だが、ロマンス語の他にゲルマン諸語その他でDVDのタイトルなどはどうなっているのか調べてみた。

ロマンス諸語 (前回の例を繰り返す)
イタリア語:        Per qualche dollaro in più
フランス語:          Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:     Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語   Por uns dólares a mais
本国スペイン語:      Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:      Por unos pocos dólares más

ゲルマン諸語
英語:                    For a few dollars more
ドイツ語:             Für ein paar Dollar mehr
スウェーデン語:             För några få dollar mer
ノルウェイ語:                For noen få dollar mer

スラブ諸語
ロシア語:               На несколько долларов больше
クロアチア語:               Za dolar više
                                        (a fewがなぜか省略されている)

アルバニア語
Pёr disa dollarё mё shumё

 問題はmoreの位置だ。上の例では本国ポルトガル語を除く総ての言語でmoreにあたる語が最後に来ている。ロマンス諸語は前回述べたが、英語以下、ドイツ語のmehr、スウェーデン語とノルウェイ語のmer、ロシア語のбольше、クロアチア語のviše、アルバニア語のmё shumёがそうだ。アルバニア語はさすがにちょっと他の印欧語と勝手が違っていてmё shumёと二語構成、文字通りにはmore manyだが、機能自体は他と同じだ。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)やein paar (a few)がDollarの前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for - a few - dollars - more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここでmehr (more)をDollarの前に持ってきた構造
 
?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけてのNG宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のようにmehr (more)をein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの*印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more booksあるいはsome more booksという語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員For a few more dollarsはOKだと言った。For a few dollars moreのほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱりNG宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でもmás(more)はdólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

もしかしたらドイツ語と同じくスペイン語でもPor unos cuantos más dólaresという語順のほうがPor más unos cuantos dólaresより「マシ」なのかもしれないが、いきなり初対面のスペイン人を根掘り葉掘り変な質問攻めにするのは気が引けたのでそれ以上突っ込めなかった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 ところが前回私がひっかかったようにポルトガル語、特に本国ポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順が可能だ。maisというのがmoreである。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかはまだ未調査)

 前回で述べたいわゆるp-組のフランス語ではスペイン語と同じく、moreが名詞の前、ましてやa fewの前には出られない。a few more booksがフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some - books - of - more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques (de) plus dollars
*Pour (de) plus quelques dollars

の二つはどちらも「おえー」と言って却下した。
 同じくp-組のイタリア語ではpiù (more)が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a - few - more - of  - books

ただしこのイタリア語と上のポルトガル語に関してはちょっとそこら辺にネイティブがころがっていなかったので(?)インフォーマントの確認はとっていない。

全体としてみるとmoreがa fewの前にさえ出られる本国ポルトガル語はかなり特殊だと思う。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。 

最後に日本語だが、これは一見moreの位置が印欧語より自由そうには見える。

1.あともう少しのドルのために
2.ドルをあともう少しのために
3.あとドルをもう少しのために
4.*あともう少しのドルをために
5.*ドルのあともう少しをために
6.???あともう少しをドルのために

1,2,3はOKだろう。3はちょっと「うっ」とは思うが。しかしよく見れば、1では「ドル」は助詞の「の」に支配される属格、2と3では「ドル」には「を」という対格マーカーがついていて、シンタクス構造そのものが違うことがわかる。単なる語順の問題ではないのだ。4,5,6はどれもNGだが、4と5がそもそも日本語になっていないのに対し、6はシンタクス構造そのものはOKだが意味が全然合っていない。仮に「ドル」というのが人の名前かなんかだったら成り立つかもしれないので、「限りなくNGに近い」という意味で???を付加。「駄目」にもいろいろなレベルがあるのだ。

 こういう事象の分析は例のミニマリストプログラムや最適理論とかいう現在の生成文法の専門家が大喜びしそう、というよりすでに実際に研究論文があるのかもしれないが、私はそんなものを探しているといつまでたっても映画が見られないのでパスさせてほしい。


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 一応前置が基本ではあるが、ロシア語は形容詞が被修飾名詞の前後どちらにも付くことができる。それで例えば「愛しい友よ」は

милый друг
dear + friend
(my dear friend)


とも、

друг милый
friend + dear

とも言うこともできる。形容詞が後置されたдруг милый(ドゥルーク・ミィリィ)は感情のこもった言い方で、こう言われると本当に親しい、愛しい感じがするそうだ。

 ちょっと文法書を見てみたら形容詞が後置されるのは:1.被修飾名詞が人とか物・事など意味的にあまり実体がなく、主要な意味あい、伝えたい情報は形容詞の方が受け持つ場合、2.文学的・詩的な表現である場合など、とある。つまり後置形容詞はいわゆる「有標」表現なわけだ。
 特に1の説明は、「情報価の高い要素ほど右(後ろ)に来る」というプラーグ学派のcommunicative dynamism、いわゆるテーマ・レーマ理論を踏襲した極めて伝統的なスラブ語学の視点に立っている感じでいかにもロシア語の文法書らしい説明ではないだろうか。

 しかし私はこれをシンタクス的に別解釈することも可能だと思う。形容詞が後置される形は同格、つまり名詞句NPが二つ重なった構造であって、前置構造の場合と違って形容詞が名詞にかかる付加語ではない、という解釈も可能だと。 つまり、上の形容詞が前置されているмилый друг(ミィリィ・ドゥルーク)は

[NP [A {милый} ] [N {друг} ] ]

だが、друг милый(ドゥルーク・ミィリィ)はNP(A + N)ではなく

[NP [NP1 [N {друг} ] ]  [NP2 [A {милый} ]  [N {ZERO} ] ] ]

というダブル名詞句構造というわけ(ここでZEROとあるのは形としては表面に現われて来ない要素である。本チャンの生成文法では別の書き方をしていたような気がするが調べるのが面倒なのでここではこういう表記をしておく)。それが証拠に、というとおかしいが「イワン雷帝」、

Иван грозный
Ivan + terrible

は、英語ではterrible IvanでなくIvan the terribleと定冠詞をつけて同格風に訳す。

 つまり後置形容詞は統語上の位置が単なるNの附加語の地位からグレードアップしてNP1枠から脱獄(?)し、披修飾語NP1と同じ位置まで持ち上がって来るのだから(NP2)、形容詞の意味内容が重みを持って来る、つまり情報価が高くなることの説明もつく。言い換えると、後置形容詞は「情報価が高いから」後置されるのではなくて、むしろ逆に後置されることによって、つまりシンタクス上の位置が変わることによって情報価が高まるのではないだろうか。

 さて文法書などの「同格」(ロシア語でприложение、プリロジェーニエ)の項を見ると同格を、「修飾の特殊な形態。複数の名詞で表され、さらに詳しい情報を提供したり補足したりする」と定義されている。例として

старик-отец
old man + father
「老父」


とか
мать-старушка
mother + old woman
「老母」


などが上がっているだけで形容詞を使った言い回しは上がっていない。どこにも例としては載っていなかったが私がソ連旅行をした際(『3.噂の真相』の項参照)当時のレニングラートの駅にデカデカと立っていた看板город-герой(「英雄都市」)も同格表現と見ていいだろう。ちなみに上のмать-старушка(マーチ・スタルーシカ)の例を普通に形容詞を付加語的に使った構造で表現すると

старая мать
old + mother

である。
 一方どの文法書も「品詞間の移動」、「形容詞の名詞化」についてかなりページを割いているし、もともと印欧語は形容詞と名詞の移動が相当自由なので、次の例などは「形容詞の名詞化による同格表現」と解釈しても「そんな無茶な」とは言われないだろう(と思う)。

Что ж ты, милая, смотришь искоса?
what + on earth + you + dear + look at + askance
(What on earth do you, my dear, look at askance?)


それと同じく、旧ソ連の国歌の歌詞

Союз нерушимый республик свободных
union(対格) + not to be overthrown + republics(生格) + free

も、

The unoverthrowable Union of the free republics

とあっさり訳すより、同格っぽく

The union, our unoverthrowable union, of the republics, of our free nations

とかなんとかやった方が原文の感じがでると思う。もっともこれらは最初にあげたように単に「文学的な表現」としてあっさり片付けてしまえそうな気もするが。

 それで思い出したが、英語やドイツ語では同格表現でof(ドイツ語でvon)を使うことがある。

The united states of America

は、「アメリカの合衆国」ではなくて「アメリカという合衆国」という意味で、名前つまり詳しい付加情報を付加している同格構造である。もっとも日本語でも

глупый Иван
stupid + Ivan

は、「馬鹿なイワン」だが、形容詞後置の同格的表現

Иван глупый
Ivan the stupid

は、「イワンの馬鹿」とofにあたる「の」を使って表現できる。「太朗の馬鹿野郎」なども「太朗=馬鹿」という図式の同格表現であろう。

 あと、話はそれこそ前後するが、この同格は文法書では「名詞」の項ではなくてシンタクス現象として本のずっと後ろのほうにでてくるのが面白い。
 もう一つ面白いと思ったのは、上の「老父」と「老母」の例で双方の名詞の順序が逆になっているということだ。老父では「年寄り」という名詞が「父」の先に来ているが、「老母」では「母」が先で「年寄り」が後に来ている。つまり名詞句NPの順番はどっちでもいいということだ。こういうところからも同格構造は最終的に一つの名詞句である、つまりあくまで一つのシンタクス上の単位であることがわかる。これがセンテンスやテクストレベルになると、つまり二つの名詞句間になるととそうは行かないからだ。
 代名詞を使わずに名詞句で同一の指示対象を指し示すことがあるが、その場合、2番目の名詞句NP2が意味的に最初の名詞句NP1より包括的でないと、対象指示がうまく機能しないのだ。例えば、

フェリーが座礁した。はたちまち沈んでしまった。

というテクストではNP2の「船」はNP1の「フェリー」より意味が包括的だからこの「船」というのは最初に出てきたフェリーのこと、つまりNP1とNP2はco-referential、指示対象物が同一である。しかしここでNP1とNP2を入れ替えて

が座礁した。フェリーはたちまち沈んでしまった。

というとNP2の意味がNP1より狭くなるため、この二つがco-referentialであるという解釈が難しくなる。船が2隻沈んだ感じになるのである。これを「父」と「老人」に当てはめてみると、

が何十年ぶりに帰ってきた。でも老人には僕がわからなかった。



老人が何十年ぶりに帰ってきた。でもには僕がわからなかった。

になり、後者の例だと帰ってきた老人が父であることがわかりにくい。「父」のほうが指示対象の範囲が狭いからだ。これはレヴィンソンという言語学者が指摘している現象である。

 そういえば、話はそれるが以前ちょっと話に出たwendisch-slawischenという表現(『71.トーマス・マンとポラーブ語』の項参照)。これは名詞でなく形容詞のダブル構造なのでもちろん同格ではないが、この二つの形容詞の意味関係も考えてみると面白い。日本語の訳者はこれを明らかに「ヴェンド人というスラブ民族」と解釈しているが、トーマス・マンは「ヴェンド人、すなわちスラブ人」というつもりだったのではないだろうか。


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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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