アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:語順

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 前回の続きである。

 For a few dollars moreという映画だが、ロマンス語の他にゲルマン諸語その他でDVDのタイトルなどはどうなっているのか調べてみた。

ロマンス諸語 (前回の例を繰り返す)
イタリア語:        Per qualche dollaro in più
フランス語:          Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:     Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語   Por uns dólares a mais
本国スペイン語:      Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:      Por unos pocos dólares más

ゲルマン諸語
英語:                    For a few dollars more
ドイツ語:             Für ein paar Dollar mehr
スウェーデン語:             För några få dollar mer
ノルウェイ語:                For noen få dollar mer

スラブ諸語
ロシア語:               На несколько долларов больше
クロアチア語:               Za dolar više
                                        (a fewがなぜか省略されている)

アルバニア語
Pёr disa dollarё mё shumё

 問題はmoreの位置だ。上の例では本国ポルトガル語を除く総ての言語でmoreにあたる語が最後に来ている。ロマンス諸語は前回述べたが、英語以下、ドイツ語のmehr、スウェーデン語とノルウェイ語のmer、ロシア語のбольше、クロアチア語のviše、アルバニア語のmё shumёがそうだ。アルバニア語はさすがにちょっと他の印欧語と勝手が違っていてmё shumёと二語構成、文字通りにはmore manyだが、機能自体は他と同じだ。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)やein paar (a few)がDollarの前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for - a few - dollars - more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここでmehr (more)をDollarの前に持ってきた構造
 
?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけてのNG宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のようにmehr (more)をein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの*印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more booksあるいはsome more booksという語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員For a few more dollarsはOKだと言った。For a few dollars moreのほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱりNG宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でもmás(more)はdólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

もしかしたらドイツ語と同じくスペイン語でもPor unos cuantos más dólaresという語順のほうがPor más unos cuantos dólaresより「マシ」なのかもしれないが、いきなり初対面のスペイン人を根掘り葉掘り変な質問攻めにするのは気が引けたのでそれ以上突っ込めなかった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 ところが前回私がひっかかったようにポルトガル語、特に本国ポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順が可能だ。maisというのがmoreである。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかはまだ未調査)

 前回で述べたいわゆるp-組のフランス語ではスペイン語と同じく、moreが名詞の前、ましてやa fewの前には出られない。a few more booksがフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some - books - of - more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques (de) plus dollars
*Pour (de) plus quelques dollars

の二つはどちらも「おえー」と言って却下した。
 同じくp-組のイタリア語ではpiù (more)が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a - few - more - of  - books

ただしこのイタリア語と上のポルトガル語に関してはちょっとそこら辺にネイティブがころがっていなかったので(?)インフォーマントの確認はとっていない。

全体としてみるとmoreがa fewの前にさえ出られる本国ポルトガル語はかなり特殊だと思う。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。 

最後に日本語だが、これは一見moreの位置が印欧語より自由そうには見える。

1.あともう少しのドルのために
2.ドルをあともう少しのために
3.あとドルをもう少しのために
4.*あともう少しのドルをために
5.*ドルのあともう少しをために
6.???あともう少しをドルのために

1,2,3はOKだろう。3はちょっと「うっ」とは思うが。しかしよく見れば、1では「ドル」は助詞の「の」に支配される属格、2と3では「ドル」には「を」という対格マーカーがついていて、シンタクス構造そのものが違うことがわかる。単なる語順の問題ではないのだ。4,5,6はどれもNGだが、4と5がそもそも日本語になっていないのに対し、6はシンタクス構造そのものはOKだが意味が全然合っていない。仮に「ドル」というのが人の名前かなんかだったら成り立つかもしれないので、「限りなくNGに近い」という意味で???を付加。「駄目」にもいろいろなレベルがあるのだ。

 こういう事象の分析は例のミニマリストプログラムや最適理論とかいう現在の生成文法の専門家が大喜びしそう、というよりすでに実際に研究論文があるのかもしれないが、私はそんなものを探しているといつまでたっても映画が見られないのでパスさせてほしい。


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 一応前置が基本ではあるが、ロシア語は形容詞が被修飾名詞の前後どちらにも付くことができる。それで例えば「愛しい友よ」は

милый друг
dear + friend
(my dear friend)


とも、

друг милый
friend + dear

とも言うこともできる。形容詞が後置されたдруг милый(ドゥルーク・ミィリィ)は感情のこもった言い方で、こう言われると本当に親しい、愛しい感じがするそうだ。

 ちょっと文法書を見てみたら形容詞が後置されるのは:1.被修飾名詞が人とか物・事など意味的にあまり実体がなく、主要な意味あい、伝えたい情報は形容詞の方が受け持つ場合、2.文学的・詩的な表現である場合など、とある。つまり後置形容詞はいわゆる「有標」表現なわけだ。
 特に1の説明は、「情報価の高い要素ほど右(後ろ)に来る」というプラーグ学派のcommunicative dynamism、いわゆるテーマ・レーマ理論を踏襲した極めて伝統的なスラブ語学の視点に立っている感じでいかにもロシア語の文法書らしい説明ではないだろうか。

 しかし私はこれをシンタクス的に別解釈することも可能だと思う。形容詞が後置される形は同格、つまり名詞句NPが二つ重なった構造であって、前置構造の場合と違って形容詞が名詞にかかる付加語ではない、という解釈も可能だと。 つまり、上の形容詞が前置されているмилый друг(ミィリィ・ドゥルーク)は

[NP [A {милый} ] [N {друг} ] ]

だが、друг милый(ドゥルーク・ミィリィ)はNP(A + N)ではなく

[NP [NP1 [N {друг} ] ]  [NP2 [A {милый} ]  [N {ZERO} ] ] ]

というダブル名詞句構造というわけ(ここでZEROとあるのは形としては表面に現われて来ない要素である。本チャンの生成文法では別の書き方をしていたような気がするが調べるのが面倒なのでここではこういう表記をしておく)。それが証拠に、というとおかしいが「イワン雷帝」、

Иван грозный
Ivan + terrible

は、英語ではterrible IvanでなくIvan the terribleと定冠詞をつけて同格風に訳す。

 つまり後置形容詞は統語上の位置が単なるNの附加語の地位からグレードアップしてNP1枠から脱獄(?)し、披修飾語NP1と同じ位置まで持ち上がって来るのだから(NP2)、形容詞の意味内容が重みを持って来る、つまり情報価が高くなることの説明もつく。言い換えると、後置形容詞は「情報価が高いから」後置されるのではなくて、むしろ逆に後置されることによって、つまりシンタクス上の位置が変わることによって情報価が高まるのではないだろうか。

 さて文法書などの「同格」(ロシア語でприложение、プリロジェーニエ)の項を見ると同格を、「修飾の特殊な形態。複数の名詞で表され、さらに詳しい情報を提供したり補足したりする」と定義されている。例として

старик-отец
old man + father
「老父」


とか
мать-старушка
mother + old woman
「老母」


などが上がっているだけで形容詞を使った言い回しは上がっていない。どこにも例としては載っていなかったが私がソ連旅行をした際(『3.噂の真相』の項参照)当時のレニングラートの駅にデカデカと立っていた看板город-герой(「英雄都市」)も同格表現と見ていいだろう。ちなみに上のмать-старушка(マーチ・スタルーシカ)の例を普通に形容詞を付加語的に使った構造で表現すると

старая мать
old + mother

である。
 一方どの文法書も「品詞間の移動」、「形容詞の名詞化」についてかなりページを割いているし、もともと印欧語は形容詞と名詞の移動が相当自由なので、次の例などは「形容詞の名詞化による同格表現」と解釈しても「そんな無茶な」とは言われないだろう(と思う)。

Что ж ты, милая, смотришь искоса?
what + on earth + you + dear + look at + askance
(What on earth do you, my dear, look at askance?)


それと同じく、旧ソ連の国歌の歌詞

Союз нерушимый республик свободных
union(対格) + not to be overthrown + republics(生格) + free

も、

The unoverthrowable Union of the free republics

とあっさり訳すより、同格っぽく

The union, our unoverthrowable union, of the republics, of our free nations

とかなんとかやった方が原文の感じがでると思う。もっともこれらは最初にあげたように単に「文学的な表現」としてあっさり片付けてしまえそうな気もするが。

 それで思い出したが、英語やドイツ語では同格表現でof(ドイツ語でvon)を使うことがある。

The united states of America

は、「アメリカの合衆国」ではなくて「アメリカという合衆国」という意味で、名前つまり詳しい付加情報を付加している同格構造である。もっとも日本語でも

глупый Иван
stupid + Ivan

は、「馬鹿なイワン」だが、形容詞後置の同格的表現

Иван глупый
Ivan the stupid

は、「イワンの馬鹿」とofにあたる「の」を使って表現できる。「太朗の馬鹿野郎」なども「太朗=馬鹿」という図式の同格表現であろう。

 あと、話はそれこそ前後するが、この同格は文法書では「名詞」の項ではなくてシンタクス現象として本のずっと後ろのほうにでてくるのが面白い。
 もう一つ面白いと思ったのは、上の「老父」と「老母」の例で双方の名詞の順序が逆になっているということだ。老父では「年寄り」という名詞が「父」の先に来ているが、「老母」では「母」が先で「年寄り」が後に来ている。つまり名詞句NPの順番はどっちでもいいということだ。こういうところからも同格構造は最終的に一つの名詞句である、つまりあくまで一つのシンタクス上の単位であることがわかる。これがセンテンスやテクストレベルになると、つまり二つの名詞句間になるととそうは行かないからだ。
 代名詞を使わずに名詞句で同一の指示対象を指し示すことがあるが、その場合、2番目の名詞句NP2が意味的に最初の名詞句NP1より包括的でないと、対象指示がうまく機能しないのだ。例えば、

フェリーが座礁した。はたちまち沈んでしまった。

というテクストではNP2の「船」はNP1の「フェリー」より意味が包括的だからこの「船」というのは最初に出てきたフェリーのこと、つまりNP1とNP2はco-referential、指示対象物が同一である。しかしここでNP1とNP2を入れ替えて

が座礁した。フェリーはたちまち沈んでしまった。

というとNP2の意味がNP1より狭くなるため、この二つがco-referentialであるという解釈が難しくなる。船が2隻沈んだ感じになるのである。これを「父」と「老人」に当てはめてみると、

が何十年ぶりに帰ってきた。でも老人には僕がわからなかった。



老人が何十年ぶりに帰ってきた。でもには僕がわからなかった。

になり、後者の例だと帰ってきた老人が父であることがわかりにくい。「父」のほうが指示対象の範囲が狭いからだ。これはレヴィンソンという言語学者が指摘している現象である。

 そういえば、話はそれるが以前ちょっと話に出たwendisch-slawischenという表現(『71.トーマス・マンとポラーブ語』の項参照)。これは名詞でなく形容詞のダブル構造なのでもちろん同格ではないが、この二つの形容詞の意味関係も考えてみると面白い。日本語の訳者はこれを明らかに「ヴェンド人というスラブ民族」と解釈しているが、トーマス・マンは「ヴェンド人、すなわちスラブ人」というつもりだったのではないだろうか。


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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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 日本で比較的よく知られている少数言語のひとつにネズ・パース語というのがある。米国アイダホ州で主に話されている先住民の言語で、同州北部のKamiah、 Lapwaiにある保留地と西ワシントン州の Colville 保留地にもその上流方言を話す人がおり、オレゴン州の Umatilla 保留地に下流方言の話者がいる。話者がいるといっても1980年代の調査時点で500人と言っていたからその時点では『108.マッチポンプの悲劇』で述べたアンダマン語といい勝負だったが、先日ユネスコの発表した危機に瀕した言語のリストを見たらすでに話者20人とあった。米国政府も危機に瀕した先住民の言語を復活させようとプログラムを組んだりしているらしいが予断を許さない状態だ。アンダマン語の方は2007年の時点で話者5人だった。今はもう消滅しているかもしれない。

ネズ・パース語が話されている地域。ウィキペディアから
800px-Nezperce01

 このネズ・パースという名前はフランス語のnez percé (ネ・ペルセ)から来ていて「ピアスした鼻」という意味である。フランス系のカナダ人が名前をつけたからだ。そのもとになったのは19世紀初頭にこの地にやってきてこの部族を発見(ちなみにこちらの人の感覚では日本人もポルトガル人によって「発見」されたのである)したヨーロッパ人の観察で、この人たちは鼻中隔に穴をあけて貝のピアスをしていたという。しかしすでにほぼ同時期に「この人たちは別に鼻にピアスなどしていない」という報告もあり、ネズ・パースにはそんな習慣などそもそもなく、鼻ピアスについては近隣の部族と混同されたのではないかという疑いが濃厚だそうだ。また最初は素直に英語の Pierced Noses という名称も使われていたそうで、これがフランス語になりさらにそのフランス語を英語読みにして命名したところに、英語話者が大陸の文化語フランス語に対して抱いている微妙な劣等感を感じ取ってしまうのは私だけだろうか。とにかく命名のプロセスからしてすでに面白い話題を提供している。いずれにせよこの名は後から来たヨーロッパ人が勝手につけた名前で、本人たちは自分のことを nimi:pu: と呼んでいる。 pu: が人々または人間という意味で、nimi: という形態素のほうは常に pu: とコンビでしか使われないそうだ。いくつかバリエーションがあって numipu、nimapuなどの形も報告されている。もともと"the walking people" あるいは "we, the people" という意味とのことだ。そういわれてみるとイヌイットやアイヌもそうだが、民族の自称に「人々」「人間」という意味が入っているケースが目立つ。

 さて、冒頭にこの言語が日本で比較的よく知られていると書いたのは、この言語の研究の第一人者が日本人だからである。青木晴夫教授と言い、昔私が学生のころよく日本の言語学者の話題になっていた(このブログは最近完全に「昔話ブログ」と化していて面目ない)。教授は1972年にネズ・パース語研究の過程を報告した『滅びゆくことばを追って』という本を三省堂から出しているが、言語学者たちがこぞって褒めていたにも関わらず当時絶版になっていて非常に手に入りにくかった。私がたびたびここでもボヤいているように(『138.悲しきパンダ』『51.無視された大発見』参照)、言語学というのは非常にマイナーな分野でどんな名著でも一歩外の世間に出ると無視される運命にあるらしい。私もこの本を持っていないし読んでいない。最近検索してみたら1990年代に岩波書店から復刊されているし、初版も買おうと思えばアマゾンで買える。が、こちらからわざわざ注文するのがおっくうだったのと、英語版の自伝が(タダで)見られるのでそちらをみることにした。セコい。
 青木氏は1930年に当時日本領だった韓国のクンサン(群山)生まれということで自伝には日本占領当時の韓国・朝鮮の様子や戦争直後の日本の状態など描写してあって興味深い。雑誌のインタビューなどでもそのころの話をしているが、教授が子供時代を過ごした群山の住民構成は半分が朝鮮・韓国人(もちろん当時は朝鮮と韓国の区別がなかったが)が半分、残りの半分は大部分を中国人と日本人で占めていたが、ロシア人もいたそうだ。皆混じってゴチャゴチャと住んでおり、自分がいったい何語で遊んでいたのか覚えていないというから面白い。また各民族国の祝日には各々門の前に国旗を掲げるので、その日に国旗の上がっている家に遊びに行けば御馳走にありつけたそうだ。
 朝鮮内で何回か引っ越したそうだが中学3年の時予科練に入って日本に送られたところで戦争が終わり、朝鮮の両親のところには戻れなくなってしまった。もうそこは日本ではなくなったからである。それで一回しか行ったことがなく、場所の記憶さえ怪しい父方の故郷の早見(長崎のあたり)にたった一人で出かけて行った。場所をよく覚えていないからとにかく諫早まで行って降り、一週間ほど早見という地名はないか探して回ったという。結局無事に実家がみつかったそうだが、この行動力には驚く。何もかもお膳立てしてもらわないと怖くて旅行ができない私には奇跡にしか見えない。しばらくそこにいるとやがて大陸から家族が引き上げてきて一緒になれた。とは言ってもお父様は仕事の関係で山口の方に住み実家には時々帰ってくるだけだったそうだ。
 広島高等師範学校に受かってそこに通っているとき、1949年に新学制が敷かれて広島大学が創設された。青木氏ら旧制師範学校生は試験を受けて広島大学に編入するか、試験を受けずにあくまで師範学校生として卒業するかの選択があり、氏は試験を受けて(落ちても師範学校卒で何の不都合もないから)合格し、広島大学に移った。広島大学としての卒業一期生だそうだ。そこで英語を専攻したが学部卒業時にまた選択肢があった。大学院に残るかフルブライトの奨学金を貰ってアメリカに行くかだ。フルブライトの試験に堕ちたら大学院に進んで、学生時代が伸びている間に教職の話でもあればそちらに着こうと思っていたが試験に受かってしまったのでアメリカに行き、4週間ほどワシントンでオリエンテーションを受けてからUCLAに回された。そこで1953に修士号を取得し、そのころは同大学にはまだ(一般)言語学学部がなかったので、言語学のあるバークレー校に移って研究員をしているときにネズ・パース語研究の機会が与えられたのである。そこで書いたネズ・パース語文法が博士論文である。一時日本に帰っていた時期もあったそうだが、結局以来基本的にはずっとアメリカで暮らしを続けている。最終職はカリフォルニア大学バークレー校の教授である。
 ネズ・パース語との出会いだが、1960年にアイダホ州の歴史学会が州立100年の記念事業としてネズ・パース語の記述を思い立ち、最初イェール大学に当たった、適当な記述言語学者がおらず、バークレーにお鉢が回ってきた。ある夏の日青木氏の研究室のデスクに先住民言語の専門家であるマリー・ハースMary Haas教授がやってきて突然ネズ・パース語をやってみる気はないかと聞かれたそうだ。その言語はどこで話されているのか聞いたらアイダホの居留地ということで、フィールドワークの開始は一か月後だという。それを聞いて青木氏がまずやった「準備」は運転免許をとることだった。同僚の一人が親切にも自分の由緒あるシトロエンを練習台として提供してくれた。その同僚の名前がJames Allen Koichi Moriwaki Sayといって父が韓国人、母が日系アメリカ人だった。さて運転免許の試験であるが、一回目のチャレンジの時は白人の試験官だったが、まず何より先にシトロエンの古色蒼然ぶりにイチャモンをつけられて試験は落ちた。二回目の試験官は黒人であった。この人は青木氏がすでに30歳であることを知っている(はず)なのに、氏をティーンエイジャー呼ばわりし、「まったくティーンはヒドイ運転をしやがる」とかなんとかこきおろされて動揺しやっぱり落第。これじゃ出発までに間に合わんと青木氏がやや焦りだしたところで3人目の試験官は中国系の人だった。その人は青木氏の書類を見て気さくに「あなたは2週間のうちに3回も試験受けてますが、どうしてそんなに急いでいるんですか」と聞いてきたそうだ。車をボロ車扱いもせず、青木氏を非行少年呼ばわりすることもなく、まともに普通の大人として扱ってくれたため、リラックスできて合格した。若く見えるので欧米人から子ども扱いされて苦々しい思いをする、というのは私も含めた東アジア人は大半が経験しているのではないだろうか。

 さてそうやって始まったアイダホでのフィールドワークの過程は自伝に詳しく記されている。まず適当な母語者を見つけ、コンタクトを取り、やがてその部族全体とかかわるようになる。その人間同士の付き合いぶりの話がすでに面白いが、やはり圧巻なのは言語記述の過程の描写だろう。記述言語学、いやそもそも言語学というものはどんなものなのかよくわかる。「単なる基礎でいいから音韻論・音声学の知識を持っていない言語学者なんて言語学者じゃない」と言っていた人を私は何人も見ているが、それは音韻論・音声学なしには言語の記述ができないからである。

 言語調査のしょっぱな第一日目に数詞を調査した。『81.泣くしかない数詞』で述べた話題とも重なって面白いのでここで紹介してみよう。まず1から10までがネズ・パース語では次のようになる。

1  ná:qc
2  lepít
3  mitá:t
4  pí:lept
5  pá:xat
'oylá:qc
'uyné:pt
'oymátat
9   k'úyc
10  pú:timt

IPAを使っていないのはこれが「音声記述」でなくて「音韻記述」だからである。またアメリカには当然先住民の言語記述の長い伝統があるわけで、他のネイティブ言語の記述の蓄積からある程度アルファベットの使い方が決まっているのだろう。例えば子音についているコンマ「'」は、その子音が放出音ejective であるという印である。放出音というのは、閉鎖音についていえばだいたい次のようにして出す音だ。1.まず当該子音の調音点と声門とを同時に閉鎖する。2.続いて喉頭を持ち上げて口腔内の気圧を高める。3.そうしておいて当該調音点の閉鎖を解く、4.最後に声門閉鎖を解く。つまり肺からの息を用いないで出す音で、閉鎖音、破擦音ならまだなんとかギリギリ発音できるかもしれないが、摩擦音、流音の放出音となるととても自分には無理だと思う。
 「1」で出てくる子音qは「9」の k より明らかに調音点が後ろにあり、別の音素である。アラビア語を知っているものならすぐ納得できるだろう。さらに「9」では k の放出音が現れるので、ここの例では見られないがネズ・パース語は音韻体系にq の放出音と、逆に k の非放出音も持っているのではないかという類推が働く。また「2」と「4」では母音 i の長さが明確に違い、長母音が弁別的に機能していることが見て取れた。
 続いて「1」と「6」、「2」と「7」、「3」と「8」を比べると後者はそれぞれ前者の前に同じ前綴り(下線部参照)がついたかのような形になっている(太字の部分参照)。おやこの言語の数体系は5進法なのかなと思うが、その考察に進む前に「6」、「7」、「8」の前綴りが'oy- と 'uy- の2種あることに注目。これは別の形態素なのか同一形態素の異形なのか?そこで「7」を 'uyné:pt でなく 'oyné:pt と言えるかどうか聞くとネイティブからNoをもらった。ではこの二つは別形態素なのかというと形があまりにも酷似している。最も説明力の強い仮説は「この言語には母音調和がある」ということだろう。実際「6」と「8」では広母音、「7」では狭母音が後続している。
 さらに「1」と「6」を比べると「1」の ná:qcが「6」では lá:qc と変形し、n 対 l の音韻交代が見られる。同パターンが「2」と「7」でも見られるところを見ると(それぞれ lepít と -né:pt)、この交代劇は今後どこか別のパラダイムでも出てくるのではないかという推理が働く。事実上流方言に鷹の一種を指すpí:tamyalonという言葉があるが、これが下流方言ではpí:tamyanonになるそうだ。もう一つ「3」mitá:tと「8」の後半部-mátatで母音 i と a が交代しているのにも注目すべきである。
 青木氏は博士論文では放出音ejectiveという言葉を使わず、声門化音glottalized という分類を使ってこのネズ・パース語の音韻体系を記述しているが、のちのバージョンでは閉鎖音には放出音という言葉を使い、摩擦音、破擦音では声門化音と名付け、さらにソナントのカテゴリーを特に分けて、そこでも声門化音としている。つまり鼻音は閉鎖音でも放出音とせず、声門化音となっている。音素をどういうカテゴリーで分けるかは本当に神経を使う作業で日本語でさえ見解は一致していないからここら辺の不一致ぶりは非常によくわかる。

青木氏の博士論文から。放出音という言葉が使われていないし、母音の長短は超音節の問題だとしている。
Aoki, Haruo.1965. Nez Perce Grammar, Berkeley. p.1から

phoneme5

後のバージョン。放出音という言い回しが登場。また母音の長短は母音音素そのものに帰する要素となっている。ウィキペディアから
phoneme3
phoneme4
 話を戻してネズ・パース語は何進法なのかということだが、周りの言語、たとえば中央アメリカ、マヤ語やナワトル語などは20進法なのだそうだ。そこでインフォーマントに他の数をいろいろ聞いてみると次のようになった。フィールドワーク第二日目の調査である。

11     pú:timt wax ná:qc
12     pú:timt wax lepít
13     pú:timt wax mitá:t
20     le'éptit
21     le'éptit wax ná:qc
30     mita'áptit
31     mita'áptit wax ná:qc
40     pile'éptit
99     k'uyce'éptit wax k'uyc
100   pu:te'éptit
400   pilepú:sus
1000 pu:tmú:sus

きれいな10進法である。すでに上で「9」を'uypí:lept とかなんとか言わなかった時点で5進法にはやや疑問が出ていたろうが(私が勝手に感じただけだが)、これで決まりだ。もっとも時々数詞に変な名称が紛れ込んでくるのはロシア語の「40」が четыредцать とも четырдесять とも言わないで突然сорокとなることなど例が少なくないのではあるが、「5」と「10」も関係ない形をしているし、5進法とは言えまい。また「20」と「30」の後半の形態素、それぞれ-éptit、 -áptit を見ればこの言語に母音交代があることが確実となる。

数詞を教えてくれたインフォーマントのHary とIda Wheelerさん。
Aoki, Haruo. 2014. Srories from my life. Berkeley. p.181から
informant1

 このようにして音素抽出から始まって、形態素の抽出、語と形態素の区別を通ってシンタクスの規則発見に至るまで一歩一歩緻密な作業を積み上げて文法書が完成したわけだが、中でもこの言語の動詞の恐ろしさは格別だ。さすが北アメリカの先住民の言語らしく、イヌイットやある意味ではアイヌ語などに見られるような抱合語的polysyntheticな構造で、動詞がいわばセンテンスになっているからだ。
 動詞の語根に接辞が前後からバーバーくっ付くが、その接辞には内接辞と外接辞の区別があって、内接辞は動詞の意味に新たに意味要素を添加していわば動詞の新たな語幹となるもの、外接辞は数、人称、時制など文法機能を受け持つ。数と人称を表す外接辞は動詞の前、時制の外接辞は動詞の後ろに付加されるそうだ。例えばʔiná:tapalayksaqa という動詞形は

ʔiná:      + ta       + palay  + k         + saqa
外接辞     + 内接辞  + 語根         +  内接辞   + 外接辞
私自身を  + 口で     +   迷う       + 使役       +   近過去

という構造で「私はしゃべっているうちに自分の話していることが正しいのかどうかわからなくなってしまった」という意味である。繰り返すがこれはあくまで一つの動詞である。
 
もう一人の重要なインフォーマント、リズおばさんことElizabeth Wilsonさんと青木氏
Aoki, Haruo. 2014. Srories from my life. Berkeley. p.243から

informant2

ヨーロッパから来た人たちがネズ・パースと接触したのは1804年のことだからもちろん青木氏以前からその言語は記述されてはいた。1890年にラテン語で書かれた文法書もでているそうだ。しかし言語学的に使い物になる正確な記述文法は青木氏の本が最初だろう。例えば青木氏以前の記述では放出音あるいは声門化音について述べているものがなかったそうだ。事実様々な言語事典のネズ・パース語の項には必ず氏の著作が重要参考文献として挙げてある。氏の著作をパイオニア、ベースとしてネズ・パース語研究はその後も発展していくが、一つ面白いのは主語と目的語についてである。
 ネズ・パース語では名詞の格は日本語の格助詞にも似て後ろに接尾辞をつけて表し、青木氏は10個の格接辞によって表される11の格を区別しているが、主語と目的語のマーカーについては次のように説明している:拡張のない主語はオプションとして接辞 -nim がつき、拡張のない目的語はオプションとして -ne がつく。主語に -nim がつくのは動詞のほうに主語が3人称であることを示す接辞の hi- あるいは主語と目的語が非特定の人や物であることを表すpe- が添加される場合で、その他はゼロ接辞。同様に目的語に -ne をつけるのは動詞が、目的語が話者と関係の薄い全くの第三者か話者の所有物でもなんでもない全くの第三物(?)であることを示す接辞 'e- または上のpe- をとる場合で、その他は -ne はつかない。
 この現象は後の研究、たとえばAmy Rose Deal 氏は能格性で説明されている。つまりゼロ接辞の主語は自動詞の主語であり、-nim 付き主語は他動詞の主語だというのだ。例として:

自動詞
sík’em Ø+ hi-wleke’yx-tee’nix + háamti’c.
horse + 3SUBJ-run-HAB.PL + fast
‘Horses run fast.’

他動詞
sik’ém-nim + kúnk’u + pée-wewluq-se + timaaníi-ne.
horse-ERG + always + 3/3-want-IMPERF + apple-OBJ
‘The horse always wants an apple.’

HABという略語がどうも見慣れないが habitual aspect という意味だそうだ。自動詞の例は hi-という接辞がついているのに、主語はノーマークなわけで(他動詞の例では青木氏の言う通りpée-がついている)青木氏の主張と異なる。Deal氏は最終的に、ネズ・パース語は単純に能格-絶対核の2対立ではなく、自動詞の主語、他動詞の主語、他動詞の目的語の格が全部違う3分割言語、tripartite language であるとしている。単なる能格言語なら自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ形になるはずだからだ。

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 『84.後ろか前か』で同格についてちょっと触れ、同格名詞(NP1+NP2)はあくまで全体として一つの名詞であってNP1とNP2間にはシンタクスやテクストレベルと違い「NP2が意味的にNP1より包括的でないとうまく機能しないというレヴィンソンの規則は適用されない」と安直に述べてしまったが、その後よく考えてみると「適用されない、はいオシマイ」では終わらせられないことに気がついた。
 まず助詞の「の」を使う同格表現であるが、

太郎の馬鹿野郎
馬鹿野郎の太郎

を比べてみると私の感覚では最初のほうが遥かに座りがいい。まさに同格という感じがする。それに比べて後者の方はNP1がNP2の修飾語であるという感じがぬぐい切れない。この修飾語感覚はNP1が「な形容詞」にもなりうる語だと益々はっきりする。

1.太郎の馬鹿  NP1 + NP2
2.馬鹿の太郎  NP2 + NP1  
3.馬鹿な太郎  Adj. + NP1

1が一番同格性が強く、3は完全にNPが一つ、つまり単なる普通のNPで、2がその中間、NPが他のNPの修飾語になっている、まあ特殊な構造である。「特殊」と言ったのはNPというのはシンタクス上で普通修飾語としては働かず、基本的にはされる側だからである。2ではNP1の方が意味が狭くなっている。「意味」というよりreferential status指示性のステータスが高いといったほうがいいかもしれないが。言い換えると指示対象物を同定できる度合いが強いということだ。とにかく太郎という一個人のほうが馬鹿という人間のカテゴリーより意味が狭くて指示対象がはっきりしている。これは前に述べたレヴィンソンの規則では、NP1とNP2の指示対象が同じものだとは考えにくくなるパターンだ。逆にそれだからこそ、先に来たNP2のほうをNP1の修飾語と考えないとNP1とNP2がバラバラになってしまう。1ではレヴィンソンの言う通り、後続のNP2の方が意味が広いからすんなりとNP1=NP2と解釈することができる。要するにここではしっかりレヴィンソンの図式が当てはまっているようだ。次に

4.ハイデルベルクの町 NP1 + NP2
5.町のハイデルベルク NP2 + NP1

を比べてみよう。ここでも同格と見なしうる4では「太郎の馬鹿」と同じくNP2の方が意味範囲が広い。5はNP2は明らかにNP1「ハイデルベルク」の修飾語・限定語でNP1の意味を狭めている。例えば会話の場(でなくてもいいが)にハイデルベルクさんという人がいて、ハイデルベルク市の話をしているのかハイデルベルク氏について話しているのかはっきりさせたい場合は「町の(ほうの)ハイデルベルク」というだろう。氏は「人のハイデルベルク」である。ここでもレヴィンソンの図式が当てはまる。
 しかしその「NP1とNP2の意味範囲の法則」が名詞句内で当てはまるのはそこまでで、NP2が職業名だとなぜかこの図式が適用できない。

6.佐藤さんのパン屋 NP1 + NP2
7.パン屋の佐藤さん NP2 + NP1

では、同格とみなせるのは7、意味的に狭いほう、指示対象を特定できる度合いが強いほうが後に来ている。図式と逆である。またこの場合の「パン屋の佐藤さん」は「町のハイデルベルク」と違ってそばに会社員の佐藤さんがいなくても、つまり佐藤さんの意味を特に狭める必要がなくても使える。言い換えると普通に同格なのである。6はNP1(佐藤さん)がNP2(パン屋)の所有者という解釈しか成り立たない。さらに

8.おじさんの医者 NP2 + NP1
9.医者のおじさん NP1 + NP2

を比べてみよう。同格とみなせるのは9の方である。その際9では「おじさん」の意味が「両親の兄弟」つまり話者の親戚かよく知っている近所の(でなくてもいいが)中年男性となる。これに反して8では「おじさん」が単なる「中年男性」の解釈となる。話者の知り合いでもなんでもない、カテゴリーとしての中年男性という意味になるから、NP2(「おじさん」)はNP1(「医者」)の修飾語である。つまりここでもNP2の方が指示対象を特定できる度合いが強い構造のほうが同格なのだ。

 まだある。NP1、つまり意味の広い方が漢語だと助詞の「の」で同格が作れない。同じ意味の和語では可能なことが漢語相手だとできないのである。だから

10.ドイツの国

はいいが

11.ドイツの連邦共和国

は同格にならない。この場合は「ドイツ連邦共和国」と「の」抜きの完全な合成語にしないといけない。これは大学の場合も同じで、

12、筑波の大学

とは言えず、

13.筑波大学

と言わなければいけない。「筑波の大学」だと「つくば市の大学」ということになり、あのデカイ国立大学だけとは限らず、私立のつくば国際大学も指示対象になりうる。ローカルな話になって恐縮である。
 さらに「ハイデルベルクの町」(上述)という同格構造は成り立つが、「ハイデルベルクの市」とは言えない。合成語にして「ハイデルベルク市」とするしかない。
 面白いことに英語だと「共和国」とか「合衆国」とか「大学」いう固い言葉とでも「の」にあたる前置詞を使って同格構造が形成できる。

14.Federal Republic of Germany
15.University of Tsukuba

日本語ではこれらはそれぞれ「ドイツ連邦共和国」、「筑波大学」という合成名詞でしか表現できない。しかし一方で合成名詞を構成していると名詞の関係は「の」のつく構造と必ずしも並行しないから一旦観察しだすと止まらなくなる。例えば

16.裁判官おばさん
17.おばさん裁判官

だが、17は「おばさんの裁判官」「おじさんの医者」などの「の」がつく構造と同じで中年女性の裁判官という意味になるが、16は「裁判官のおばさん」という意味にはならない。私の言語感覚では、すぐに「サイバンカーン」と絶叫するのを芸にしている中年女性のピン芸人(こういう絶叫が芸と呼べるかどうかはこの際不問にすることにして)などが「裁判官おばさん」である。
 このタイプの合成名詞はロシア語では各名詞をハイフンでつなぐが(『84.後ろか前か』参照)、ドイツ語では日本語と同じように名詞を裸でくっつける。そしてここでも名詞の順番によって同格になったりならなかったりする。

18.Muttertier
            mother + animal
19.Tiermutter
            animalmother

18は同格で「おかあさん動物」、例えば後ろにヒヨコを従えて横断歩道を渡る「おかあさんアヒル」である。そのまま合成名詞として日本語にできる構造だ。ところが19は同格にならないし、そもそもそのまま日本語に「動物おかあさん」「アヒルおかあさん」とは合成名詞変換できない。では「の」をつけて「動物のおかあさん」「アヒルのおかあさん」と翻訳できるかというとこれがそうではない。「アヒルのおかあさん」は「おかあさんアヒル」と同様自分自身もアヒルであるが、 Tiermutterではmother は人間で「怪我をした動物を家に連れてきて献身的に世話をする女性」というニュアンスで、とにかく動物の世話をしている(優しい)女性という解釈になる。これはネイティブ確認を取った。日本語の「アヒルのおかあさん」もそういう女性を表せないこともないが、同格になりうる度合いが遥かにドイツ語より強い。

 名詞と名詞が合体すると、シンタクス上の構造ばかりでなくその名詞自身の意味や、直接の意味内容には入っていないいわゆるニュアンスなどもかかわってくるから騒ぎが大きくなるようだ。さらに大騒ぎになるのが当該名詞が上述のように単なるNでなくそれ自身すでにNPである場合である。

20.山田さんの知り合いの任天堂の社員
21.任天堂の社員の山田さんの知り合い

20は事実上「山田さんの知り合い=任天堂の社員」という同格解釈しか成り立たないが、21では山田さんが任天堂の社員であるという解釈もなりたってしまう。

 だんだん収集がつかなくなってきたのでこの辺で止めさせてもらうが、昔生成文法でもごく最初の頃に名詞と名詞の結びつき、属格構造を導き出す変形をシンタクス上で説明しよう、つまり属格構造がD構造ではセンテンスであったと説明しようとしていて、直に放棄したようなおぼろげな記憶がある。あくまでおぼろげな記憶である。

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 数詞というか数の数え方というか、例えば1から10までを何というのかなどは挨拶の仕方と同じく語学の授業の最初に基本単語として習うことが多いから日本語の場合も字もロクに読めないうちから数を覚えたがる人が結構いる。グッドモーニング、グッドバイときたら次はワン・ツー・スリーに行くのが順序という感覚だ。嫌な予感を押し殺しつつ仕方なく10くらいまで教えると、案の定「にひと」「さんアヒル」とか言い出す。それぞれtwo men、three ducks のつもりなのだ。それではいけない、単なる数字を勘定に使うことはできない、人とアヒルは数え方が違うのだ、人間も鳥も自動車も皆同じくtwo なら two を使えるほど日本語(や中国語)は甘くない、などという過酷な事実をそもそもまだ「私は学生です」という文構造さえ知らない相手に告げるのは(これは確か夏目漱石が使っていた表現だが)徒に馬糞を投げてお嬢様を驚かすようなことになりかねない。もっとも英語やドイツ語にだって例えば a cup of teaなど日本語や中国語に近い数え方をすることがある。日本語ではただそれが広範囲で全名詞にわたっており、単語を覚えるたびに数え方をチェックしておかなければならないというだけだ。ドイツ語で名詞を覚えるたびにいちいち文法性をチェックしておかなければならないのと同じようなもの。基本的に大した手間ではない。中国人だと中国語と日本語では数え方が微妙に違っているのでかえって面白がる。『143.日本人の外国語』でもちょっと言ったように、これしきのことでいちいち驚くのは構造の全く違う言語に遭遇したことがない印欧語母語者に多い。ただ、後になってから初めて「さんアヒル」と言えないと知らせて驚かすのも気の毒なので最近は数字を聞かれた時点で「これらの数字はただ勘定するときだけにしか使えず、付加語としての数詞は名詞によって全部違うから、後でまとめてやります」と言っておくことにしている。ついでに時々、「日本語は単数・複数の区別がなくて楽勝だと思ったでしょう?そのかわり他のところが複雑にできていて帳消しになってるんですよ。どこもかしこもラクチンな言語なんてありませんよ」と言ってやる。
 印欧語の母語者にとってさらに過酷なのは、普通日本語では数量表現が当該名詞の付加語にはならない、ということである。例えば英語なら

Two ducks are quacking.

で、two は ducks の付加語でduck というヘッド名詞の内部にあるが(つまりDP [two ducks])、日本語では数量表現が NP の外に出てしまう:

アヒルが二羽鳴いている。

という文では二羽という要素は機能的には副詞である。これに似た構造は幸いドイツ語にもある。量表現が NP の枠の外に出て文の直接構成要素(ここでは副詞)に昇格するのだ。いわゆるfloating numeral quantifiers という構造である。

Die Enten quaken alle.
the +  ducks + are quacking + all
アヒルが鳴いている。


Wir sind alle blöd.
we + are + all + stupid
我々は馬鹿だ。

ドイツ語だと副詞になれる量表現は「全部」とか「ほとんど」など数がきっちりきまっていないものに限るが、日本語だと具体的な数表現もこの文構造をとる。違いは数詞は付加語でなく副詞だから格マーカーは名詞のほうにだけつけ、数詞の格は中立ということだ。しかしここで名詞と「副詞の数詞」を格の上で呼応させてしまう人が後を絶たない。

アヒルが二羽が鳴いている
池にアヒルが二羽がいる
本を四冊を読みました

とやってしまうのだ。確かに数詞のほうに格マーカーをつけることができなくはないが、その場合は名詞が格マーカーを取れなくなる。

アヒルØ二羽が鳴いている。
本Ø四冊を読みました。

これらは構造的に「アヒルが二羽鳴いている」と似ているようだが実は全然違い、格マーカーのついた「二羽」「四冊」は主格名詞と解釈できるのに対し格マーカーを取らない「アヒル」や「本」は副詞ではない。それが証拠に倒置が効かない。

アヒルが二羽鳴いている。
二羽アヒルが鳴いている。

アヒル二羽が鳴いている。
*二羽がアヒル鳴いている。(「アヒルが二羽鳴いている」と比較)

数詞が名詞になっている後者の場合、「アヒル二羽」が一つの名詞、合成名詞とみなせるのではないだろうか。「ドイツの料理」という二つの名詞が合体して「ドイツ料理」という一つの合成名詞をつくるのと同じである。シンタクス構造が違うからそれが反映されるのか、意味あいも違ってくる。あるまとまりを持った集団に属するアヒルたちというニュアンスが生じるのだ。「アヒルが二羽」だと池のあっち側とこっち側で互いに関係ない他人同士、いや他鳥同士のアヒルがそれぞれ勝手に鳴いている雰囲気だが、「アヒル二羽が」だと、アヒルの夫婦か、話者の飼っているアヒル、少なくとも顔くらいは知っている(?)アヒルというイメージが起こる。ドイツ語や英語で言えば前者は不定冠詞、後者は定冠詞で修飾できそうな感じだ。この「特定集団」の意味合いは「二羽のアヒル」という言い回しでも生じる。

二羽のアヒルが鳴いている。

ここでの「二羽」はシンタクス上での位置が一段深く、上の「アヒルが二羽」のように動詞に直接支配される副詞と違って、NP内である。属格の「の」(『152.Noとしか言えない見本』参照)によって「二羽」がヘッド名詞「アヒル」の付加語となっているからだ。先の「アヒル二羽」は同格的でどちらが付加語でどちらがヘッドかシンタクス上ではあまりはっきりしていないが(まあ「二羽」がヘッドと解釈していいとも思うが)、「二羽のアヒル」なら明らか。いずれにせよどちらも数詞はNP内で副詞の位置にいる数詞とはシンタクス上での位置が違う。そしてこれも「アヒルが二羽鳴いている」と比べると「アヒル二羽」のイメージに近く、つがいのアヒルが鳴いている光景が思い浮かぶ。もっともあくまで「思い浮かぶ」であって、「アヒルが二羽」はバラバラのアヒル、「二羽のアヒル」ならつがいと決まっているわけではない。また後者でもそれぞれ勝手に鳴いている互いに関係ないアヒルを表せないわけではない、あくまでもニュアンスの差であるが、この辺が黒澤明の映画のタイトルが『七人の侍』であって『侍(が)七人』とはなっていない理由なのではないだろうか。あの侍たちはまさにまとまりをもった集団、固く結束して敵と戦うのだ。
 逆に集団性が感じられない、英語ドイツ語なら冠詞なしの複数形になりそうな場面では副詞構造の「アヒルが二羽」「アヒルを二羽」が普通だ。在米の知り合いから聞いた話では、これをそのまま英語に持ち込んでレストランでコーラを二つ注文するときCoke(s) two といってしまう人がよくいるそうだ。Two Cokesが出てこない。さらにその際pleaseをつけないからネイティブをさらにイライラさせるということだ。

 それで思い出したが、ロシア語には普通の数詞(単純数詞、простые числительные)の他に集合数詞(собирательные числительные )というものがある。その名の如く複数の当該事象を一つのまとまりとして表す数詞、と説明されている(しかし集合数詞という名称がおかしい、という声もある。下記参照)。

      普通の数詞                  集合数詞
2    два (m., n.), две (f.)     двое
3    три                               трое
4    четыре                         четверо
5    пять                             пя́теро
6    шесть                           шестеро
7    семь                             се́меро
8    восемь                         восьмеро
9    девять                          девятеро
10  десять                          десятеро

形としては一応10まであるが、9と10の集合数詞は事実上もう使われなくなっているそうだ。この集合数詞は単純数詞と語形変化の仕方が違う。全部見るのは面倒くさいので「3」と「5」の単純数詞と集合数詞の変化を比べると次のようになる。集合数詞と単純数詞はそもそも品詞そのものが違うことがみてとれるだろう。


               単純数詞           集合数詞
主格        три                    трое
生格        трёх                   троих
与格        трём                  троим
対格        три/ трёх           трое/ троих
造格        тремя                троими
前置格     трёх                   троих

5
               単純数詞            集合数詞
主格        пять                    пятеро
生格        пяти                    пятерых
与格        пяти                    пятерым
対格        пять                    пятеро/ пятерых
造格        пятью                 пятерыми
前置格     пяти                    пятерых

数詞の被修飾語の名詞のほうは『65.主格と対格は特別扱い』『58.語学書は強姦魔』でものべたように、主格と対格では複数生格、その他の格では数詞と呼応する形が来る。
 日本語では数詞は語形は変わらずシンタクス上の位置が違ってくるが、ロシア語のほうは語そのものが違いシンタクス上の位置は変わらない。だから、というのもおかしいが使い方・意味合いも日本語の「アヒルが二羽」と「二羽のアヒル」と違い、なんとなく別のニュアンスなどというあいまいなものではなく使いどころが比較的きっちりと決まっている。例えば次のような場合は集合数詞を使わなければいけない。
1.ロシア語には形として単数形がなく複数形しかない名詞があるがそれらに2~4がついて主格か対格に立つとき。なぜなら2~4という単純数詞には単数生格(本当は双数生格、『58.語学書は強姦魔』参照)が来るのに、その「単数形」がないからである。

двое суток (主格はсутки で、複数形しかない)
two集合数詞 + 一昼夜・複数生格

трое ворот (ворота という複数形のみ)
three集合数詞 + 門・複数生格

четверо ножниц (同様ножницы という複数形のみ)
four集合数詞 + はさみ・複数生格

2.дети(「子供たち」、単数形はребёнок)、ребята(これもやはり「子供たち」、単数形はребёнокだがやや古語である)、люди(「人々」、単数形は человек)、лицо(「人物」)という名詞に2~4がついて主格か対格に立つとき。

двое детей
two集合数詞 + 子供たち・複数生格

трое людей
three集合数詞 +人々・複数生格

четверо незнакомых лиц
four集合数詞 + 見知らぬ・複数生格 + 人物・複数生格

3.数詞の被修飾語が人称代名詞である場合。

Нас было двое.
we.属格 + were + two集合数詞
我々は二人だった。


Он встретил их троих.
He + met + they. 属格 + tree.集合数詞
彼は彼ら3人に会った。



その他は基本的に単純数詞を使っていいことになるが、「も」も何もそもそも単純数詞の方がずっと活動範囲が広いうえに(複数形オンリーの名詞にしても、主格対格以外、また主格対格にしても5から上は単純数詞を使うのである)、集合数詞は事実上8までしかないのだがら、集合数詞を使う場面の方がむしろ例外だ。集合数詞、単純数詞の両方が使える場合、全くニュアンスの差がないわけではないらしいが、イサチェンコ(『58.語学書は強姦魔』『133.寸詰まりか水増しか』参照)によるとтри работника (3・単純数詞 + 労働者・単数生格)とтрое работников(3・集合数詞+ 労働者・複数生格)はどちらも「3人の労働者」(または労働者3人)という完全にシノニムで、трое などを集合数詞と名付けるのは誤解を招くとのことだ。歴史的には本来この形、例えば古スラブ語のdvojь、 trojь はdistributive分配的な数詞だったと言っている。distributiveなどと言われるとよくわからないがつまりcollective 集合的の逆で、要するに対象をバラバラに勘定するという意味だ。チェコ語は今でもこの意味合いを踏襲しているそうだ。

 そうしてみると日本語の「アヒルが3匹」と「3匹のアヒル」の違いとロシア語の集合数詞、単純数詞の違いはそれこそ私がワケもなく思いついた以上のものではなく、構造的にも意味的にも歴史的にもあまり比較に値するものではなさそうだ。まあそもそも印欧語と日本語の構造を比べてみたって仕方がないと言われればそれまでだが。

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