アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:記号

 時々、というよりよく相手に向かって馬鹿だろゴキブリだろという言葉を使い、それを咎められると「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレる人がいるが、もしこの人が本当に何が悪いのかわかっていないとしたらこの人の方こそ真正の馬鹿だ、と私がここでいったら「そんな馬鹿な」と言われるだろうか。

 そこでこういう人たちのどこが馬鹿なのかちょっと考察してみたい。

 彼らは言語の機能は単に指示対象を指し示すことだけではない、ということがわかっていないのである。『78.体系とは何か』でも述べたように言語の単語というのは当該言語内で体系をなしていて、その指示対象や純粋な意味内容より当該単語の言語体系内での位置のほうが重要になってくることがあるのだ。指示対象は同じでも機能が違うのである。そして人間の言語の言語たるところはまさにその体系構造の複雑さにあるのだから、「馬鹿」と「理解が遅い」、「ババア」と「老婦人」が全く同じに見えるという人、つまり同じ対象を別の言い方で表現すれば言語内での機能が違ってくるということがわからない人はホモサピエンスの頭を持っていないということになる。「目の不自由な方」などと表現するのは「偽善・きれいごと」、そこで「メクラ」というのが「正直」だという類の主張をしている人(ネットなどに結構いる)を見るといつも、この人は生まれつき言語取得能力に欠陥があるのか、それとも成長の過程で何かしらの障害を負い言語の発達が阻害されたか、それとも単に捨てゼリフを吐いているだけなのか考える。
 最後のカテゴリー、つまり捨てゼリフ組は言語能力そのものは備わっているのだからいいじゃないか、と言われるかもしれないが問題なしとしない。なぜなら彼らは論理的に自己矛盾をおかしているからである:彼らが人をゴキブリと呼ぶとき、自分自身でもこの言葉の持つ機能をきちんと意識している、つまり本人も罵倒のつもりで使っているのである。そして相手が「その言葉使いはなんだ」と咎める時、矛先が向いているのは語の意味そのものではなくその機能である。だからここまででは相手はきちんと発話者のメッセージを理解している。しかしそこで発話者が「ゴギブリをゴキブリといって何が悪い」と返すとき、話題は機能でなく語の純粋な意味にすりかえられている。最初自分の方から機能面を前面に押し出しておきながら、相手がそれを正しく受け取ると今度は意味面に話題を摩り替える。自ら談話を打ち切っているのだ。これもやはり意味と機能をはっきりとは区別できていない馬鹿ではないだろうか。「話す」という行為、発話行為の何たるかがよくわかっていないのある。

 その発話行為(speech actまたは Sprecheakt)は階層をなしていて、例えばサールSearleは一つ一つの発話行為は次の4つの行為に分解できるとしている。

1.発語行為(utterance actまたはÄußerungsakt):意味のある言語音声を現実に発生する行為。この発語行為の基準は文法性、つまり当該言語音姓がまともな発音でまともな文章になっているかということである。
2.叙述行為(propositional actまたはProposionaler Akt)で実現されるのは世界についての叙述である。サールはこの行為の基準として当該命題真であるか偽であるかを問題にしていたそうだが、そもそも真偽を云々できない事象というのもあるし、例えば「花子はもう来たよ」と命題内容が等価な「花子はもう来たのか?」はその真偽そのものを問うているわけだからもちろん真偽判断は下せない。とにかく意味のある何らかの叙述を行なっていればこの叙述行為である、ということでいいと思う。
3.発話内行為(illocutionary actまたはillokutionärer Akt)では発語された命題の機能が問題になってくる。当該命題は発語された言語環境とのかかわりの中で初めて意味を持ってくる。つまりその発言による話者の意図である。文法性とか意味のある叙述かということではなくその意図が伝わったかどうかが基準となるのである。全く同じ命題でも環境によって単なる供述なのか警告なのか脅しなのか推薦なのか、全く意味機能が違ってくるからだ。この意図はイントネーションや語の選択などによって積極的に表現することもできる。
4.発語媒介行為(perlocutionary act またはperlokutionärer Akt)は相手が話者の発言によって話者の意図した通りの状態になれば成功したと言える。警告によって相手が「そうか危ないな」と思ったり、相手がビビったりしてくれれば発語媒介行為がうまく行ったのである。

 なおオースチンAustinも同じような分類をしているが、オースチンでは1と2がいっしょにされて、発語行為(locutionary act またはlokutionärer Akt)としてまとめられている。つまりここでは発話行為が3階層になっているわけだ。
 だいたいサールやオースチンにことさら言われなくても本能的に誰でもわかっていることだが、発話で重要な意味を持ってくるのは発話の命題内容そのものより3や4の点、これが発話された具体的なコンテクストにおける機能である。だから自分が馬鹿と言われたり人が馬鹿と言われているのを見て抗議するのは「侮辱されたと感じる」という肝心な機能をきちんと把握する人間としての言語能力が備わっている証拠である。発話の命題内容だけで機能を理解することができず、ここで「何が悪い」と聞く人は「今何時かわかりますか?」と聞かれると時間を言わずに「わかりますよ」とだけ答えるのだろうか。そういう人はこの発話の目的が「時間を知る」ことであるのがわからず、「わかりますか?」という言葉どおりのイエス・ノー・クエスチョンと把握するからである。
 また「本当の事をいって何が悪い」というタイプの質問形式をとってくる人もいるが、こういう人は「本当のこと」、つまり真偽判断のみが発話行為の目的だと思っているわけだから、まさに上で述べた叙述行為より先には思考が進めないということで、いわばサールに図星を付かれていることになる。

 さて「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレてくる馬鹿にはどういう対応をしたらいいのだろうか。上記のようにサールやオースチンの発話行為理論を丁寧に説明してやって、発話の命題の外にある発話の機能というものを感知できない点が悪いんですよ、と教えてあげる以外にはあるまい。
 もっとも捨てゼリフでこういうことを言っている人からは、「あなたはこの発話の機能、捨てゼリフということを理解せず発話の命題そのもの、「何が悪い」という質問形式にだけ対応した」と抗議されるかもしれない。まあそもそもそういう議論が出来る人が「ゴキブリをゴキブリといって何が悪い」などという言い回しは使いそうもないが、万が一そう返されたら「発話に捨てゼリフという機能を持たせたいのだったら他に言い回しがたくさんある。時間を聞いたり蔑称として社会的に既に因習となっている言葉を用いたりする場合と違って捨てゼリフの形式というのはまだ十分に因習化されていない。それあるに誤解される危険性のある質問形式をとってそこに捨てゼリフの機能を持たせようとしたあなたの言語戦略は詰めが甘い。言い換えると発話内行為が不成功に終わったのは発話を言葉どおりにとった相手の所為でなく、発話者の戦略がまずかったからだ。つまりあんたが悪い。」と言い返してやればいい。

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 いわゆる忌み言葉というものがある。結婚式の祝辞で「切れる」の「別れる」のと言ってはいけないし、普段の会話でもうっかり変なことを口走ると「縁起でもないことを言うな」と怒られる。昔は「言霊」ということを言った。
 こういう「縁起でもないことを言うと縁起でもないことがおこる」「ポジティブな言葉を唱えると事象がポジティブになる」といういわゆる言霊思想が「非科学的」であるということには誰も異を唱えないだろう。非科学的であることは十分わかっているのだが、他人の気分を害してまで科学や論理に義理立てする必要もないから、結婚式で別れる切れるを連発したり、言霊を信じていた昔の日本人を「本当に非論理的だな。だから日本人は精神年齢12歳とマッカーサーから言われるんだ」などとこき下ろしたりはまずしない。私もしない。そのくらいの非科学性なら喜んで付き合う、気持ちはわかる、という人が大半ではないだろうか。そもそもこういう発想は多かれ少なかれどこの民族だってやっているのだ。

 ただ、この「非科学性」がどのように非科学的・非論理的なのか、ということをもう少し考えてみると結構面白いと思う。記号論に関わってくるからである。

 いわゆる記号論・記号学は大学の「言語学概論」の類の授業で基礎だけはやらされる。言語というものが記号体系だからである。ではその「記号」とはいったい何かと聞かれると結構複雑だ。ちょっと当時の教科書Studienbuch Linguistik(「言語学概論」)(『43.いわゆる入門書について』の項参照)という本の埃をはらって覗いてみると、記号を

aliquid stat pro aliquo

と、厭味にもラテン語で定義してある。もちろんこの教科書はラテン語の怪しい無学な学生をも念頭においているものなので後で懇切丁寧に訳も解説もしてあり、記号の本質的な性質を

dass sie einem Zeichenbenutzer etwas präsent machen können, ohne selbst dieses etwas zu sein.

「その記号の使用者に対して、それ自体は当該事象ではないのにある事象を出現させられること」だと言っている。つまりある事象、あるモノが別の事象・モノの代わりをするわけだ。言語学では「記号」を一般に理解されているより少し広い意味で把握していることがわかる。もっとも英語やドイツ語で「記号」はそれぞれsignとZeichen、つまり普通に日常会話で使っている「しるし」という単語だから、そもそも元の言葉の意味範囲が日本語の「記号」ということばより意味が広いのだ。

 さて、この記号だが論理学者のパースPeirceは3つのタイプを区別している。インデックス記号(index)、アイコン記号(icon)、シンボル記号(symbol)である。
 インデックスは当該事象とそれを表すもの、つまり当該事象の代わりに立つものが因果関係にあるような記号である。記号をA,当該事象をBとすると、AとBとの間に「Aならば(あるいはAだから)B」という関係が成り立つ。煙は火事の、笑顔は幸せの、発熱は病気の、「じゃん」という語尾は南東京・横浜方言のそれぞれインデックス記号である。英語のsignという言葉ならこういう場合に使って「熱は病気のサイン」と言っても問題ないが、日本語の「記号」のほうは「じゃんは南東京方言の記号」という言い方で使うと相当無理がある感じだ。
 アイコンは当該事象の模写である。ピクトグラムなどがこの種の記号の代表例。パースのころはインターネットなどなかったからもちろん例にはあがっていないが、現在盛んにネットで使われている絵文字などもこれだろう。文字にもこのアイコン起源のものがある。シュメールの楔形もエジプトの象形文字も、何より漢字がもともとがアイコン記号であったのがしだいに抽象度を増していったのだ。
 さらにオノマトペはある意味では音声面でのアイコン記号と言える。「ある意味」といったのはオノマトペが純粋な意味でのアイコンとは言えず、むしろ下のシンボル記号に属すと考えたほうがいいからだ(下記参照)。
 インデックスもアイコンも指し示す事象Aと指し示される事象Bとの間に自然的な繋がりがあるわけだが、AB間にこの自然的つながりの全くないのがシンボル記号である。人間の言語はこの代表だ。AはBを指し示す、ということは社会規約で決められていてその協約を知らなかったら最後、いくら人生経験が多かろうが目や耳が良かろうがAを聞いてBを知る、あるいはAを見てBを想起する、ということが出来ない。
 例えばあのワンワン鳴いて尻尾を振る動物をある言語ではいぬ、またある言語ではHundという全く違った音声で指し示すのは音声と当該事象との間に自然的つながりのない良い証拠である。煙を見て「あっ、火事のサインだ」と感づいたり(インデックス)、スカートをはいた人物のマークを見て婦人用のトイレだと了解したり(アイコン)するのとは違い、いきなり[sɐbakə]という音を聞かされたりძაღლიという文字を見せられても犬が思い浮かんでくることはない。
 シンボル記号のこういう性質、指示されるものと指示対象物との間に自然の繋がりがないという性質をド・ソシュールは「言語の恣意性」と呼んだ。

 ただし、よく観察してみるとアイコンも実はある程度社会あるいは文化規約を知らないと解読することはできない。例えば女性がスカートを全く穿かない文化圏の人には女性トイレを見分けることは困難であるし、究極のアイコンである写真も、写真というものを全く見たことがない人は自分の写真を見せられても自分だという事がわからないそうだ。鏡では常に自分の顔を知っていても写真だとわからなくなるという。言い換えると写真による対象指示のメカニズムをある程度知っていないとアイコン記号は解読できないのである。絵文字にしても「意味」を誤解されたり理解されなかったりするのは珍しいことではない。例えば私もスマイルマークの絵文字など、こちらの意見をOKと言っているのかそれともせせら笑われているのかわからなくてイライラすることがよくある。
 そういう意味でアイコンも社会規約と無縁ではない。私ごとで恐縮だが、もう20年以上前こちらの「言語学概論」の期末試験に出た問題の一つが「アイコンはconventionalな記号であるか?」というものだった。答えはもちろんイエスである。
 
 もうひとつの微妙な問題は上でも述べたオノマトペである。これは一見音声のアイコン記号、つまりシンボル記号である言語内での例外現象のようだが、当該の自然音が記号化される言語によって全く違う形をとることが多い。例えば馬の泣き声は日本語ではヒヒーンだがロシア語だとイゴゴー、豚は日本語ではブーブー、ドイツ語ではオインクオインクまたはグルンツグルンツ。鳩の鳴き声などドイツ語でRuckediku-ruckedikuと表されているのを見たことがあるが、これでは「鳩ポッポ」という単語が成り立たない。しかしこれだけ違った描写をされているからと言ってドイツの鳩や豚がロシアや日本の同僚と全く別の声を出しているわけではない。つまりオノマトペの本質は「自然音を模写」することでなく、その言語の音韻体系内で当該事象の対応する要素を新しく作り出すことにあるのだ。あくまでシンボル体系内の出来事であるから事象AとBとの繋がりの恣意性は保たれているわけだ。(ということが一応オノマトペに対する言語学者の一致した見解だが、それでもこのオノマトペがアイコン寄りの位置にあることは頭に置いておいたほうがいいと私は思っている。このオノマトペというのはつきつめて考えていくと結構面白い現象であると。)
 それに対して動物学者が狼の鳴き声を正確に再現して群れを呼び寄せたりするのは、すでに人間の言語体系の外に出てしまっているからオノマトペとはいえない。

 言霊だろ忌み言葉だろと言い出す人たちはつまりこの言語の本質、つまり「言語がシンボル記号であること」や「言語の恣意性」がわかっていないことになる。シンボル記号である言語をインデックス記号と混同して、指示する側Aと指示対象Bとの間に自然的な繋がりを想定してしまっている。上のドイツ語の説明で、記号は何かをpräsent machen(「そこに出現させる」)という言い回しをしているが、この「出現させる」のは頭の中に出現させるということであるのに、自然界に実際に出現するかのように受け取ってしまっているのだ。その上AとBを逆にして、「AだからB」であるはずのところを「BだからA」と解釈しまっている。記号論上の根本的な誤りを二つも犯しているわけで、精神年齢12歳というお叱りを受けなければならないとしたらマッカーサーからでなく、むしろソシュールやパースからであろう。

 さて、この言霊・忌み言葉と似たようなものに呪文・まじないの類がある。祈祷師が意味不明のフレーズを唱えると雨が降ったり死人が生き返るというアレである。これは一見言霊思想と同じタイプの非論理性に基づいているようだが、よく考えてみると言霊とはメカニズムが違うような気がする。言霊は自分の言語、自分たちが使っているシンボル体系の記号性を誤解釈したものだが、呪文の言葉は自分たちのシンボル体系ではない。「意味不明のフレーズ」である。これは話しかける相手の言葉と自分たちの言葉が違うということを前提にして自然の支配者に話しかけている、言い換えるとこちらにはわからなくともあちらには通じているという前提なわけで、相手のシンボル記号を使っている(つもり)、つまりある意味では「言語の恣意性」ということがわかっているのだ。忌み言葉忌避より罪一等軽いから、ソシュールやパースは見逃してくれるのではないだろうか。

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