アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:言語学の歴史

 戦争だろ暴力団の抗争などで「敵の敵は味方」とみなされることがある。また独裁者や技量の狭い政治家が味方以外は敵、つまり自分にヘイコラしてこない者は敵と見て粛清したりする。こういうものの見方をしてうまく行ったためしはない。前者の場合抗争が終わると、いや抗争中からすでに友人のはずの敵の敵から牙を向けられる(いわゆる「寝返る」というやつである)可能性大だし、後者では粛清の度がすぎて「そして誰もいなくなった状態」になり、自分の足元が崩れ落ちることが多いからだ。
 実際面ばかりでなく、こういう考え方は理論上も欠点がある。二項対立binäre Oppositionには等価対立äquipolente Opposition と欠如的対立privative Oppositionという2種があるが、この違いを考えていないのだ。

 「二項対立」の考え方はもともと音韻論から発展してきたもので、最初に提唱したのはニコライ・トゥルベツコイである。その後プラーグ学派のヤコブソンなどがこれを構造主義的な言語学の柱とし、ヤコブソンから氏と交流のあったレヴィ・ストロースあたりを通して言語学外にまで流れ出して世間にドッと広まった。ただし広まったのは二項対立の観念のみでその考え方のいわば発生源となった音素Phonemだろ弁別素性(そせい)distinktives Merkmalだろという用語は全然広まらなかったのが残念だ。知られていないのは用語ばかりではない。二項対立という観念の起源がトゥルベツコイだということさえ忘れられがちで義憤に耐えない。
 ここで怒っていても仕方がないから話を続けると、音素というのは当該言語の語の意味を変えることのできる最小単位だが、どういう音が同じ音素と見なされるかは当然言語ごとに違っている。例えば例のlとrの違いであるが、日本語ではこれら2音はアロフォン、つまり同一音素の2つの表現形で、「理科」を[ɾɪka] といおうが [lɪka] と発音しようが意味に変化はない。だがこれを英語に持ち込んでriceを liceと言ってしまうと大変なことになる。だから英語やドイツ語(だけではないが)が母語の人が見ると日本人は r と l の音が「区別できない」ように見えるのである。逆にドイツ語では [s] と[z] がアロフォンなので、ドイツ人は「さしすせそ」と「ざじずぜぞ」の区別が出来ない者がいる。「山田さん」が「山田ざん」、「寿司」が「図示」、「石膏」が「絶交」になる。もちろん日本語のざじずぜぞは摩擦音でなく破擦音だから石膏と絶交の差は正確にはs対zではないが、いずれにせよ、zushiと発音されたら意味が通らない。私たちから見ると石膏と絶交が同じに聞こえるなんて耳が悪いか頭が悪いかのどちらかだと思うが、向こうだって気を抜くとLichtungとRichtungを間違える日本人を馬鹿かと思っているはずだ。また逆に私が「日本語のらりるれろの子音は本来 l でも r でもなく、言って見ればその中間音のはじき音ですが、まあ l でも r でもいいです」というと「l でも r でもいいなんて馬鹿なことがあるか。どっちかに決めてくれ」と言い出すものが時々いてその石頭ぶりに驚くが、音素という観念を知らないとこういう羽目になるのである。
 音素が一つだけ違っている2つの単語をミニマル・ペアといい、ドイツ語のLichtung「(森の中の)空き地」対 Richtung「方向」、tanken「給油する」対danken「感謝する」、 kalt「冷たい」対 galt「通用した(動詞過去形)」、 Tal 「谷」対Zahl (h は黙字、ドイツ語でz は英語の ts)「数」、 Pappe「ボール紙」対 Kappe「縁のない帽子」などがそれぞれミニマル・ペアであるが、子音が一つだけ違っているのがわかるだろう。違っている子音音素はそれぞれ/l : r/、/t : d/、/k : g/、/t : ts/、/p : k/という二項対立になっている。
 しかしさらによく見ると一方で/t : d/と/k : g/、他方で/l : r/、/t : ts/、/p : k/とでは二項対立でも性質が違っていることの気づく。まず/t : d/だが、これらの子音は双方歯茎閉鎖音で、前者は無声後者が有声という点が違っている。/k : g/も調音点・調音方法が同じ(軟口蓋閉鎖音)でやはり有声か無声かの違いがあるだけ。ところが/l : r/ではどちらも有声だが、調音点も調音方法も違う(それぞれ歯茎流音と口蓋吸垂ふるえ音)。/t : ts/は無声であることと調音点(歯茎)が同じだが、調音方法が違う(前者は閉鎖音、後者は破擦音)。/p : k/では逆に無声と調音方法(破裂音)が同じで調音点が異なる(前者が両唇、後者は軟口蓋)。
 つまり最初のグループでは二項の違いが特定の性質(これを言語学では素性(そせい)と呼ぶ)、ここでは声のあるなし、言い換えると声門の震えのあるなしに帰せるのに対し、二番目のグループでの二項は何があるかないかではなく調音点または調音方法が違うのであり、例えば違っている調音点、「両唇」と「軟口蓋」とは等価である。前者はA 対-Aの対立、後者はA対Bの対立といえる。前者のAかAでないかの対立が欠如的対立privative Opposition、後者のA対Bタイプが等価対立äquipolente Oppositionである。

欠如的対立
Schema1-geschn
等価対立
Schema2Geschn
 また、欠如的対立の二項を分ける素性(そせい)、上の例では有声か無声かという要素を弁別的素性(そせい)distinktives Merkmalといい、それぞれ[+ voiced]、[- voiced]と表す。さらにこの素性(そせい)を持っている項、ここでは [+ voiced] を「有標」、持っていない [- voiced] のほうの項を「無標」というが、このプラス・マイナス何たらという図式はヤコブソンからハレ&チョムスキーなどが英語の音韻論で展開していたから知っている人も多いだろう。言語学内の意味論、シンタクス理論ではもちろん、上述のように言語学外にもこの何たら図式は使われている。
 どんな特性が弁別的素性(そせい)になるかは言語ごとに違っており、日本語や英語では[voiced]という素性(そせい)が弁別的に働くのでこのプラスマイナスの違いで別音素になるが、中国語韓国語では有声無声の差が音素を分けない。このようにある素性が当該言語で弁別的に機能しないのを特に強調したい場合はゼロまたはプラス・マイナス両方の記号を使って [0 voiced] あるいは [+/- voiced] と表したりする。「どっちで発音しようが意味は変わりません」という意味だ。だから中国語が母語の人に時々「かきくけこ」と「がぎぐげご」の区別が怪しくなる人がいるのである(『126.Train to Busan』参照)。ドイツ語でもこの弁別差が全ての環境では機能していないことは上で述べた。その代わり(?)息を伴うか伴わないか、「+帯気」と「-帯気」かで語の意味が違ってくる言語が結構ある。中国語もそうだが、印欧語も本来はこの区別を持った言語であった。英語やドイツ語に多くある、古典ギリシャ語起源の単語でph 、th と書かれている部分はそれぞれ帯気の p、帯気の t だったが、現在の英語ドイツ語では帯気が弁別機能を持たないため、本来の音とはかけ離れた妙な音で代用されてしまった。ロシア語には「+口蓋化」「-口蓋化」という弁別素性(そせい)がある。

 欠如的対立と等価対立との重要な違いは、前者では理論的に当該二項以外は存在せずAでないなら自動的に-A,また-Aでないなら元に戻って必ずAであるのに対し(「Aではないが、かといってAでなくもない」などというのは禅問答の知恵比べでもない限り設定できない)、後者ではAやBのどちらでもない存在、または第3第4の項、例えばC、Dが否定できないことだ。上の例でも調音点として両唇、歯茎、軟口蓋の3項をあげてあるが、そのほかにも硬口蓋だろ口蓋垂だろ声門だろいろいろある。調音方法にしても閉鎖音、摩擦音、破擦音、接近音などあって、閉鎖音でないからすなわち接近音ということにはならないのである。

 「味方」対「敵」というのは等価対立である。敵から見て敵だからといってそれがリターンして自分の友人として帰ってくるとは限らない。Aを味方、Bを敵とすると「敵の敵」は-(-A)=Aではなくて第3の項Cだからだ。また「-味方」=「敵」とみなしてしまうと、-A&-Bという無関係な罪のない部分が粛清されてしまう。
 さて、このCだが、A、つまり味方集団との間には1.完全に重なる、2.部分的に重なる、3.全く重ならないという3つのパターンが考えられる。1のパターン、「敵の敵は味方」というのも確かに可能性の一つではあるのだ。ただ論理的必然性がないのである。ここで面白いのは2だ。等価対立では素性(そせい)の設定のしかたによっては「どちらでもない」もののほかに「どちらでもある」部分が生じてしまうことを示しているからだ。
1.完全に重なる
Schema3-1Geschn

2.部分的に重なる
schema3-2Geschn

3.全く重ならない
schema3-3Geschn
 ギリシャの時代から西欧思想に深く根付いている「自然」対「人工」という二項対立も等価だが、これらは決して互いに排除するものでない、とKellerというドイツ語学者が書いていたのを読んだことがある。重なる部分があると。例えば公園の芝生の上に獣道ならぬ人道、多くの人に踏み固められて道筋ができることがある。これは人々がなるべく近道をしようとして急いだためにできたいわば人口の産物である一方、誰もそんな道を作ろうと思って作ったわけではない、作った人間の最初の意図とは無関係になんとなく形成されてしまったという意味で自然の産物でもあるのだ。事実、こういう道筋の形成パターンを計算できるコンピュータープログラムなどいくらもある。
 「共通項」や「どちらでもない項」の可能性がさらにはっきりしているのは
『121.復讐のガンマンからウエスタンまで』の項でも述べた『夕陽のガンマン』のセリフにあった二項対立である。「人間には2種類ある。一方はライフルを持っているし、他方は穴を掘る」というセリフだが、大抵の人たちは穴も掘らないしライフルももっていまい。また逆にライフル所有者が何かのきっかけで穴を掘り出す機会などいくらでもあるだろう。
 ついでに言えば私は国籍とやらも等価対立だと思っている。日本国籍を持っているからといって他の国の国籍はない、ということにはならないと。もちろん私は政治や法律の問題にまで口を出す気はないからそう決めたいのならそれでもいいが、本来A国の国籍を取ったらB国の国籍を捨てなければいけないという論理性はない。

 等価対立と欠如的対立を併用して、例えばドイツ語の /p と /z/ をそれぞれ [- voiced] [両唇] [閉鎖]、[+ voiced] [歯茎] [摩擦]と記述するとちょっと表記の統一性に欠け、当該項をビシリと描写できないからか、トゥルベツコイの後を引き継いだヤコブソン、ハレなどの構造主義言語学者は、音素をいくつかの欠如的対立項からなる「弁別素性の束」に分解して記述している。ヤコブソンは音素をユニバーサルに記述できるように12くらい(「くらい」と書いたのは氏の著作間でも、これをひきついだ言語学者の間でも少し揺れがあるからだ)の「素性(そせい)の束」を設定したが、Ramersという人は10の素性(そせい)を使って上述の/p/と/z/を次のように記述している。比較のために/p/と調音点が同じ /m/、/z/ の無声バージョン /s/、/s/ と調音点が同じだが、調音方法の違う /d/、これらの音とちょっと調音点の離れている無声音 /k/ を上げる。

p
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[+ labial]
[- coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[- voiced]

m
[+ consonantal]
[+ sonorant]
[- back]
[- high]
[+ labial]
[- coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[+ nasal]
[+ voiced]

z
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[- labial]
[+ coronal]
[+ continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[+ voiced]

s
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[- labial]
[+ coronal]
[+ continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[- voiced]

d
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[- labial]
[+ coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[+ voiced]

k
[+ consonantal]
[- sonorant]
[+ back]
[+ high]
[- labial]
[- coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[- voiced]

この素性(そせい)の束をマトリックス表にしてあるのもよく見かけるが、とにかくこのようにすると例えば摩擦音と閉鎖音の違いをきっちり [+ continuant]  対 [- continuant] で表わせて便利だし、また逆に調音方法が違う音同士の共通点などがはっきりしてくるだろう。[- labial](唇音性)、つまり唇音であることが欠如対立の素性(そせい)になっているところに注目。
 この方法を応用して[敵性] [味方性]という素性(そせい)を設定すれば「敵」対「味方」という等価対立を分解してA:[- 敵性] [+ 味方性]、 B: [+ 敵性] [- 味方性]、 C: [+ 敵性] [+ 味方性]、D:[- 敵性] [- 味方性]という4つの項に分けられることになる。Cの中には寝返り予備軍もいるだろうが単に敵にもある程度の理解を示す人たちも含まれるだろう。対立者を「敵ながらアッパレ」と評価している政治家は多い。Dは全く中立な第三者、傍観者である。このグループを粛清などしてはいけない。

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  何度か書いたように、言語連合という言葉はロシアの言語学者ニコライ・トゥルベツコイが提唱したものである。トゥルベツコイというと普通真っ先に思いつく、というよりそれしか思いつかないのはその著作『音韻論の原理』だろう。ちょうどド・ソシュールの「代表作」『一般言語学講義』が氏の死後出版されたように(ただしこれはド・ソシュール自身の手によるものではない。『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)、『音韻論の原理』もトゥルベツコイの死後出版されたものである。また、ド・ソシュールと聞くと大抵の人はラング・パロールなど構造主義の言語学や記号学しか思い浮かばず、それに優るとも劣らない業績、喉音理論にまで気を回す人はあまりいないように、トゥルベツコイも音韻論の有名さに比べると「言語連合」のほうは思い出す人は少ない。さらに理不尽なことに、言語連合という用語そのものは結構使われているのに、その言い出しっぺがトゥルベツコイであることを知らない人も相当いる。「喉音理論」と言えば一応名前を思い出してもらえるド・ソシュールとの違いはそこだ。
 なぜそんなことになったかというと、言語連合という言葉が最初に使われたのがロシア語の、しかも論文というよりエッセイといったほうがいい著作だったからだ。1923年にブルガリアのソフィアで発表されたВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』というテキストである。以下が言語連合を定義してある箇所だが、タイトルからもわかるようにロシア語である上にプーシキンみたいな旧仮名遣い・旧文法だ(現代の正書法に直したテキストをネットで見られる)。

Но кромѣ такой генетической группировки, географически сосѣдящіе другъ съ другомъ языки часго группируются и независимо отъ своего происхожденія. Случается, что нѣсколько языковъ одной и той же географической и культурноисторической области обнаруживаютъ черты спеціальнаго сходства, несмотря на то, что сходство это не обусловлено общимъ происхожденіемъ, а только продолжигельнымъ сосѣдствомъ и параллельнымъ развитіемъ. Для такихъ группъ, основанныхъ не на генетическомъ принципѣ, мы предлагаемъ названіе «языковыхъ союзовъ».

しかしこういった系統によるグループ分けのほかに、地理的に互いに隣接した諸言語をその系統とは関係なくグループとしてまとめられる。そこでは地理的にも歴史文化的にも同じ一つの圏内にあるいくつかの言語が特徴的な類似点を示すことがある。その類似は共通の起源から発生したものではなく、あくまで長期間にわたる隣接関係とそれぞれ言語内部の並行した発展の結果であるにもかかわらずである。このような、親族関係という原則によらない言語群を呼ぶのに「言語連合」という名称を提案する。

この「言語連合」という部分には注がついていて、代表的な例としてバルカン半島を挙げている。またこの箇所はJindřich Tomanという人がMITで出したThe Magic of a common language(1995)という本で英語に訳しているのだが、下線の箇所が微妙に違っている。私の読解が間違っているか、向こうが間違ったかである。それとも私の参照した原本バージョンとTomanの1987年のとはこの部分が違っているのかもしれない。87年にモスクワで出版された「トゥルベツコイ選集」Избранные труды по филологииという本を見かけたらちょっと調べてみてほしい。

...besides such generic grouping, languages which are geographical neighbors also often group independently of their origin. It happens that several languages in a region defined in terms of geography and cultural history acquire features of a particular congruence, irrespective of whether this congruence is determined by common origin or only by an [sic.] prolonged proximity in time and parallel development. We propose the term language union [jazykovyj sojuz] for such groups which are not based on the generic principle.
 
 これを発表して何年か後、やっと1928年になってからトゥルベツコイはプラハで行われた第一回国際言語学者会議で自説を発表し、Sprachbund (言語連合)とSprachfamilie(語族)の観念的な違いを明確にした。そこでも何人か指摘しているが、この言語連合という考え方そのものはトゥルベツコイの創作ではない。以前にも書いたようにバルカン半島の言語状況についてはすでに1829年にスロベニアのコピタルKopitarという学者が報告しているし、当時「バルカン学」の研究はすでに相当進んでいたのである。トゥルベツコイはこの言語接触による類似性、「言語連合」を一般言語学の用語として確立したのだ。
 それを受けてプラーグ学派の面々がこのテーマで研究を開始した。例えばロマン・ヤコブソンは1931年にそのテーマで本を出し、『58.語学書は強姦魔』で名前を出したイサチェンコIsačenkoも1934年に論文を発表しているそうだ。ところが言い出しっぺのトゥルベツコイ自身はごく短い論文をチョチョッと書いただけ。この辺が後の誤解というか無知を生んだ原因だろう。
 また、やはり1920年代から文化交流による言語の混交問題に興味を持っていたHenrik Beckerという人が1948年にズバリDer Sprachbundという本を出版している。時々「言語連合という言葉はドイツ語のSprachbundの訳」と誤解しязыковый союзを完全に無視している人を見かけるのはこれが原因だろう。しかもこのBeckerはMeistersprache「支配言語」など、トゥルベツコイが嫌悪した言語の順位付け思想や西欧中心の世界観・学問観(下記参照)に基づく用語も提唱しているから氏も浮かばれまい。
 とにかくトゥルベツコイは専ら一つの祖語からの分岐としてとらえられていた「印欧語」というものにもこの「文化・地理上の隣接による言語の統合」というアスペクトを適用して、当該言語が印欧語と見なされるには6つの基準を満たさねばならないと提案した。この6つの構造条件を全部満たしていれば印欧語であり、言語の構造が変化してどれか一つの条件でも満たさなくなればいくら共通の単語を引き継いでいても印欧語ではなくなる、というのである。Мысли об Индоевропейской проблеме『印欧語問題に関する考察』という論文で論じている。
 1.母音調和の欠如。
 2.語頭と語尾の子音群に特別な関係があること(語頭に立ち得る子音群のほうが語の内部や語尾よりも制限が厳しい)。
 3.いかなる条件下でも語が語幹だけで始まることがない。
 4.母音交代(アプラウト)の存在。
 5.形態素内で子音が交代する。
 6.能格でなく主格・対格の格システム。

トゥルベツコイが後に発展させた音韻論を髣髴とさせるようだし、特に5はいかにもロシアの言語学者らしく、今日でも(少なくとも私の年代の者は)ロシア語の学習者が必ずやらされる音韻形態論Morphonologieの視点が見えて非常に興味深いが、単純に一つ疑問がわいてくる。もし、地球上のどこかで偶然この条件をすべて満たす言語が現れたら印欧語とみなされてしまうのかということだ。トゥルベツコイはこの質問になんとYesで答えている。印欧語学者の高津氏が攻撃したのもこの点で、トゥルベツコイの定義した印欧語を「空論」とまで言っている:まず第一にこのような特徴を並べても印欧祖語再建にはなんらの貢献もしない。第二に印欧語ばかりでなく、言語には根底に横たわる実体がある。印欧語の場合、諸言語の語彙や形態素の規則的な対応から帰納してもわかるように、その根源となる実体がある。借用によって、その根源を同じくするにもかかわらず言語が印欧語でなくなるなどという定義、構造的な特徴による語族の決定は、高津氏らのような形態の対応から帰納する語族の決定とは両立しえない。私は高津氏が「借用」という用語の持ち出しているところにすでに純粋要素と外来要素の区別、つまりある意味では差別を感じるのだが、当該言語間の語の音韻対応を考慮に入れない「印欧語」にも確かに「うーん」とは思う。
 なお、どうでもいい話ではあるが、ここで高津氏が参照したのは原文のロシア語ではなくドイツ語翻訳である。
 
 実はもちろんトゥルベツコイは「語族」というアプローチを否定しているわけではない。言語の変化を追うには分岐と統合という二つのアスペクトが必要なことを強調しているにすぎない。印欧語学=言語学であった時代からすでに言語の地理的連続性に注目し、波動説を唱えたSchmidtなどの学者はいたのだ。印欧祖語は本当に一つの言語だったのだろうか。印欧語発生地には最初の最初から複数の言語が話されていたのではないのか?それら地理上隣接していた言語が統合されて一つのまとまりを見せているのではないのか?そもそも一つの言語というのは何か。日本語と琉球語、本国ドイツ語とスイスのドイツ語を一つの言語とみなす客観的根拠はどこにもないのだ(『111.方言か独立言語か』参照)。
 このことは印欧祖語を再現しようとした者も心の隅では感じていたことで、「祖語再構」というのは言語を再現するのが目的ではなく、あそこら辺の諸言語を網羅する理論上の言語を創造することが目標であった。この姿勢はド・ソシュールに顕著である。つまり理論のための理論なのだ。そしてこの分岐アプローチに待ったをかけたのも、何も印欧言語学にコペルニクス展開を起こしてやろうとしたからではない、別の見方を示して議論を深めようとした、言い換えればprovocationそのもの、まさに高津氏のいう「空論」がトゥルベツコイの狙いだったのではなかろうか。

 もうひとつ、当時の権威ある印欧比較言語学にトゥルベツコイが待ったをかけた、いや明確にNoを突き付けたのが、当時の印欧語学者の中に言語や文化の優劣を言い出す人が少なからずいたということである。有名なのがアウグスト・シュライヒャーAugust Schleicherで、1850年の論文で、印欧語のような屈折語は言語の最も発達した状態であり、膠着語はその前段階、孤立語は最も未開な言語状態と主張した。それを言ったら名詞の屈折をほとんど失っている英語はロシア語より未開言語なのかとツッコミを入れたくなる。面白いことに上述の高津氏もこのシュライヒャーなどが印欧語学に価値判断・言語発展度などが持ち込んだのを遺憾としている。こういった西欧中心主義(トゥルベツコイは頻繁に「ロマンス・ゲルマンの自己中心主義」という言葉を使っている)をトゥルベツコイは嫌悪した。学問上ばかりでなく文化的にも西欧は無神経に自分たちの基準を押し付けていると見て反論した。氏のこういう思想はその経歴と固く結びついている。

 トゥルベツコイはロシアの公爵家に生まれた。名門で、私は確認していないがトルストイの『戦争と平和』にも大貴族として一家の名前が出てくるそうだ。父も祖父も親戚も大学教授を務めたりした社会的にも教養的にもエリート中のエリートである。そこに生まれたトゥルベツコイも知的に早熟で15歳のころからすでに論文を発表していたという。最初は民俗学が専攻だったが、じきに言語学に転向した。
 言語学者としての業績はフィンランド語のカレワラやコーカサスの言語の研究から始めた。上の条件6にコーカサスの言語を熟知していることが見て取れる。それらの「アジアの言語」の中にロシア語と通ずる要素をみたのである。ロシア語やロシア文化の中にはアジアと根を共にする要素がある、と感ずるようになった。後の「文化や言語に優劣はない」という見方、また言語が「発展する」とか「未発達である」という類の価値付けに対する反発の芽がすでに見て取れるではないか。
 もちろん、当時の言語学者として印欧言語学もきちんと身につけていた。サンスクリットもできたし、1913年から14年にかけてライプチヒに滞在し、カール・ブルクマンKarl Brugmannやアウグスト・レスキーンAugust Leskien(『26.その一日が死を招く』参照)らと席を並べて勉強している。
 1917年に革命が起こった時、トゥルベツコイは療養のため北コーカサスのキスロヴォーツクКисловодск という町にいたが、大貴族でレーニンに嫌われていたため危険すぎてモスクワに帰れなくなった。二年ほどロシア国内(の大学)を転々とした後国外亡命して1920年にまず当時のコンスタンチノープルに逃れ、そこからさらにブルガリアのソフィアに行き、1922年まで大学で教鞭をとった。上述の『バベルの塔と言語の混交』はその時書かれたものである。1922年にはウィーン大学に招聘されて亡くなる1938年までそこで教えていた。そのウィーンから有名なプラーグ学派の言語学サークルに通っていたのである。
 
 当時ソフィアにはロシアからの亡命者が大勢おり、いわゆる「ユーラシア主義・ユーラシア運動」の発生地となった。トゥルベツコイはその中心人物である。この運動はすでに19世紀にロシアの知識人の間に起こったスラボフィル、スラブ主義運動に根ざしているが、非西欧としてのロシアのアイデンティティを確立していこうというものである。この精神を引き継いだユーラシア主義は両大戦間のロシア(知識)人の間に広がっていた。トゥルベツコイが1920年に著したЕвропа и человечесгво『ヨーロッパと人類』はその代表作だ。面白いことにここでは「アジア」や「ロシア」という言葉が使われておらず、西欧対非西欧という対立で論じられている。私は確認していないが(ちゃんと確認しろ!)この著作はいち早く日本語に訳されたという。
 そうやって「アジアとつながったロシア」としての文化的・政治的アイデンティティが模索されていった。トゥルベツコイは皇帝は廃止すべきという立場だったが、ボリシェビキにも反対だった。共産主義は所詮「西欧」の産物だったからである。民主主義にも懐疑的だった。もっともロシアにふさわしいのは民衆から選出された代表が政治を行うのでなくて、教養的にも文化的にもエリート層がまず国としてのイデオロギーを確立して、その路線にのっとって国を作っていく、というものだったらしい。民衆側の機が熟していないのに外来から民主主義を取り入れたら行きつくところは衆愚制だと考えていたのかもしれない。
 トゥルベツコイは敬虔な正教徒だったし、ロシアのアイデンティティを上滑りな西欧からの輸入思想、例えばコスモポリタン思想に受け渡すつもりはなかったのだ。

 この思想は氏の言語観にも反映している。ユーラシア運動そのものについては、のちに何人かボリシェビキ寄りになったりロシア国粋主義に傾いたりしていったので距離をとるようになったが、「ユーラシアとしてのまとまり」という視点は保たれた。この言語観に立って、印欧語も枝分かれして発展していく樹形図としてではなく、連続する鎖(цепьまたцѣпь)のイメージで把握したのだ。コーカサスの言語、印欧諸語、地中海・中東のセム語などがこの地上で鎖のようにつながっている、それぞれの輪の間には必ず重なりあう部分がある、言語が統合している部分がある。文化も言語も上から下に流れるのではない、横につながっているのだ、として言語相対主義・文化相対主義を強調した。
 
 トゥルベツコイのこの思想は当然ナチスには目の敵にされ、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると早速案の手を伸ばし、ゲシュタポがウィーン大学にあった氏の研究論文を押収し自宅まで捜索した。すでに心臓に問題のあったトゥルベツコイはそのため病状が悪化して亡くなった。氏の代表作『音韻論の原理』は家族がなんとか保持していた書き散らしの原稿を言語学者の同僚や学生が校正して死後出版されたものだ。

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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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 隣でプルターク英雄伝の初期新高ドイツ語訳を読んでいた者が突然「アレクサンドロス大王の馬の名前を知ってるか?」と聞いてきたので即座に「ブケファロス」と答えてやったら、向こうは大いに驚いて「どうしてそんなこと知ってるんだ?!」というから「日本人なら誰だってそのくらい高校の世界史でやっとるわ。悔しかったら紀元前3世紀の中国の名将項羽の馬の名前言ってみろ」と返しておいた。告白すると私がそんな変なことを知っていたのはその前に偶然どこかで「アレクサンドロス大王はインド遠征時に愛馬ブケファロスを失った」とかなんとかいう文章を読んでいたからである。そこで馬の名前がなぜか頭に残っていた。「覚えていなくてもいいのになぜか頭にこびりつく」ことは誰にでもあるのではないだろうか。その代わりに肝心の覚えなければいけない事項のほうは忘れている。例えば私は若かりし頃大学受験勉強をしていたとき、「試験に出る英単語」略称「でる単」なるもので英語の単語を暗記しようとしたが、いざ模擬試験などでそこに載っていた英単語に出くわすと、「あっ、この単語は確か「でる単」の右ページの一番上にあったな」とかそういう余計なことは思い出すのに肝心の意味が出て来ないという間抜けな経験を何度もした。まあそういう間抜けがたまにこの程度の法螺を吹いても地獄に落ちることはあるまい。
 もっとも向こうも別にブケファロスの話をしたかったわけではなく、単にそのテキストで「馬」がPferdtと綴ってあるのを見せに来たに過ぎない。現代ドイツ語の正書法では単にPferdと書き、d を t と読むが、これがドイツ語のAuslautverhärtung語末音硬化と呼ばれる現象である(『47.下ネタ注意』参照)。有声子音が語末、時には形態素の終わりにくると有声性を失って調音点と調音方法はそのまま変わらず対応する無声子音になる。d が t になるほか、g がk 、z がs 、b がp 、w (英語の v )が f になる。Hund 「犬」の単数は [hʊnt] だが、複数はHunde [hʊndǝ]、 Tag 「日」[taːk] が複数になるとTage [taːɡə] 、Staub 「埃」は [ʃtaʊ̯p] だが、「埃っぽい」という形容詞になるとstaubig [ʃtaʊ̯bɪç]で、当該子音が語末に立たないときは有声である。ドイツ語を習い始めると第一日目に練習させられる発音現象でこのAuslautverhärtungをきちんと発音しているかどうかでドイツ語の勉強の程度がバレるから誰もが一生懸命練習する。
 だが「一生懸命練習する」というのはつまり意識的に発音するということだ。 g で言えばその音素が語末に立っているのを見たら「えーっとこれの調音点は軟口蓋、調音方法は閉鎖音だな」とまずよく考え、さらに声門に震えが出ないように気をつけて口に出す。 g マイナス声イコールk と意識的に計算(?)しているのだ。言い換えると g と k が別音素であることは常に認識している。
 そうやってずっとこのAuslautverhärtungを意識的・理論的なプロセスととらえていたところ、先日ネイティブにはこの過程を無意識に行っていると知って非常に驚いた。もっともその無意識的・意識的の差がまさにL1とL2との違いなのだから当たり前で今更驚く私がおかしいのかもしれないが。さるネイティブにHeidelbergを片仮名で書いてみろと言ったら「ハイデルベルグ」と書いた。そこで「字にとらわれずに発音通り書いてみなさい、ハイデルベルクになるでしょが。最後の音は硬化してるんですから」と説明したところ向こうはその意味が全然理解できなかったのだ。彼には[haɪ̯dl̩bɛʁɡ] と  [haɪ̯dl̩bɛʁk] が「全く同じに聞こえる」そうだ。語末ではそうやって全く区別がつかないのに、これらが語頭に立つとしっかりわかる。だからgönnen [ɡœnən] 「喜んで許す」と können  [kœnən]「できる」を混同することはない。語末音硬化はネイティブにとっては意識してやるプロセスではなくて脳内認知レベルの現象なのかと思い知って新鮮に驚いた。
 しかし一方でこの人はひょっとしたら文字にとらわれているだけなのではないかとも思った。すぐ理解してくれるネイティブも多いし、中高ドイツ語では語末音硬化を文字にしていたからだ。硬化現象が生じたのは古高ドイツ語から中高ドイツ語への移行期だから中高ドイツ語ではすでに語末音が無声化していたので、今のTag「日」をtac、「子ども」をkintと綴ったりしていた。これらの属格はそれぞれtages、kindesで有声音になっている。
 つまりc (k)とg 、d と t はそれぞれ別音素であることを話者ははっきり聞き分けていたのだ。その後新高ドイツ語になってから例えばPferdと綴り上では有声音で表す、いわば「揺り戻し」が起こった。だから上記の初期新高ドイツ語の折衷的な綴りPferdtは面白いと思う。これは「ここは t と発音しますが本来は d ですよ」というシグナルともとれるからだ。-dt のほかに「日」がtagk、「去って」をwegkと書かれていた初期新高ドイツ語のテキストを見たことがある。こんにちではそれぞれTag、wegである。-bp という綴りは見たことがないが、-dtは現在でもドイツ人の苗字で頻繁に目にする。Feldt、Rindt、Mundt、Kindtなどでこれらを普通に書くとそれぞれFeld「野」、Rind「雄牛」、Mund「口」、Kind「子供」となるが、最後の子音は無声発音である。初期新高ドイツ語時代の綴りの名残なのか、実は全然別のところに理由があるのか(そういえば「町」は今でもStadtと綴るがこれがstatt(「~の代わりに」)と区別するためだと思う)私は知らないが面白いとは思っていた。その折衷綴りの -dt はまさにトゥルベツコイ始めプラーグ学派の提唱したArchiphonem「原音素」という言葉(下記参照)を髣髴させるからだ。
 そこで新めてトゥルベツコイのGrundzüge der Phonologie『音韻論概説』を引っ張り出してArchiphonemについて論じている章を見てみたらしょっぱなに次のようなことが書いてあり、上で私が今更驚いたり考え込んだりしたことなどトゥルベツコイは20世紀の初めにすでにお見通しであったと知ってまた驚いた。

  Der psychologische Unterschied zwischen konstanten und aufhebbaren phonologischen Oppositionen ist sehr groß. Die konstanten phonologischen Gegensätze werden selbst von phonetisch ungeschulten Mitgliedern der Sprachgemeinschaft deutlich wahrgenommen und die Glieder einer  solchen Opposition als zwei verschiedene „Lautindividuen“  betrachtet. Bei den aufhebbaren phonologischen Gegensätzen ist die Wahrnehmung schwankend:  in den Relevanzstellungen werden beide Oppositionsglieder deutlich auseinandergehalten, in den Aufhebungsstellungen ist man dagegen oft außerstande anzugeben, welches von beiden man eben gesprochen oder gehört habe.

不変の音韻対立と解消可能な音韻対立では心理的な差が非常に大きい。不変対立なら当該言語の共同体の一員は音声学の訓練を受けていない者でもはっきり認知でき、対立している双方の項を異なる二つの「音の個体」とみなすが、解消可能な音韻対立だとその認知が怪しくなる;有義位置Relevanzstellungでは双方の対立項の区別がはっきりとわかるが、解消位置Aufhebungsstellungでは二つのうちのどちらの項を発音したり聞いたりしたのか自分でも言えない場合が多い。

 私は硬化という言葉が嫌いで「中和」といっているが(再び『47.下ネタ注意』参照)、それはこの現象がドイツ語ばかりにみられるわけではないからだ。だからドイツ語学でしか通用しないVerhärtungよりNeutralisierungという一般言語学の名称のほうが適当だと思う。トゥルベツコイはこれをAufhebung der Opposition 「対立の解消」またはaufhebbare Opposition「解消可能な対立」とも呼んでいるが、こちらの用語のほうがカッコいい。 ロシア語もこの中和現象が顕著でやはり語学の時間の最初のほうで発音練習させられる。город  [ˈɡorət](「町」・単数主格)⇔ городом [ˈɡorədəm](単数造格) 、мороз [mɐˈros](「寒さ」・単数主格)⇔морозы [mɐˈrozɨ](複数主格)、гриб [ɡrʲip](「茸」・単数主格)⇔ гриба [ɡrʲɪˈba](単数生格)。ロシア語はさらに半母音やソナントまで無声化するのを時々見る(聞く)。例えば красивый「美しい」は本来 [krɐˈsʲivɨj] だが、ゆっくり発音してくれというと語末のいわゆる半母音が無声化して [krɐˈsʲivɨj̊] になり、その際さらについ力が入って接近音のはずが舌根が向こうの壁に触れてしまい無声摩擦音 [ç] にまでなることがある。これはドイツ語のいわゆるIch-Laut、イッヒ音だ。またцарь「皇帝」は本来 [t͡sarʲ] だが語末のソナントが無声化して [t͡sar̥ʲ] になるのを見た。この例のように口蓋化しているソナントは無声化しやすいのではないかという印象だ。хор [xor]「合唱(団)」のように非口蓋のソナントは無声化しているのはあまり見かけないからである。もっともあくまで「印象」である。
 『137.マルタの墓』で述べたマルタ語にも語末で有声子音が中和される現象があり、これが現代マルタ語の特徴となっている。まだ正書法が確立されていなかった頃、例えば18世紀にDe Soldanisが集めたテキストでは(原文は17世紀にFrancesco Bonamico、マルタ語でFranġisk Bonamicoが書いたものだという)「寒い」がbart と表記してあるが、現代マルタ語の正書法だとbard と書いて、ドイツ語と同じように中和されない前の子音を記することになっている。 d と書いて t と発音するのだ。昔は発音通りに t と書いていたのに今は音韻面を重視して d にしているあたりも中高ドイツ語から現代ドイツ語への正書法の移行といっしょである。それで「まだ」というマルタ語はgħad と書くが [ɐːt] である。 għ は事実上黙字。b、g、b も語末は無声化する。

 トゥルベツコイはこのように特定の位置(解消可能位置)で当該音素が持っていた弁別素性(そせい)の束の一つが弁別機能を失う現象を論ずる際、Archiphomen「原音素」という用語を提唱した(上記)。t とd で言えば、この二つの音素はどちらもさらにその上位音素の表現型である、としたのである。 その上位音素をArchiphonemと名づけ、大文字の /D/ で表すことにした。t とd ばかりではない、k とg が交代する場合はArchiphonemは /G/ である。『音韻論概説』ではこれが次のように説明・定義されている。

… In den Stellungen, wo ein aufhebbarer Gegensatz tatsächlich aufgehoben ist, verlieren die spezifischen Merkmale eines Oppositionsgliedes ihre phonologische Geltung, und jene Züge bleiben relevant, die beiden Gliedern gemein sind (d.i. die Vergleichsgrundlage der betreffenden Opposition). In der Aufhebungsstellung wird somit ein Oppositionsglied zum Stellvertreter des „Archiphonemes“ des betreffenden Gegensatzes – wobei wir unter Archiphonem die Gesamtheit der distinktiven Eigenschaften verstehen, die zwei Phonemen gemeinsam sind.

…対立が解消可能位置で実際に解消される際、対立項の片方が持つ特有なメルクマールは音韻的効力を失うが、双方の項が共通に持っている特徴のほうは有義性(当該対立項を他と区別するための基本となる特性)を保持する。解消可能位置では対立項の一方が当該対立の「原音素」として両項とも具現するのである。そこでこの原音素を二つの音素が共通に持っている弁別的素性(そせい)の総体とみなす。

トゥルベツコイはさらに論を進めて、解消可能な位置で原音素の表現型となる音素のパターンには次の4つが考えられると唱えた。
1.表現型が原音素のどちらの項でもない場合。一瞬「へ?」と思うが、例えばロシア語で唇音が口蓋歯音の前にくると口蓋化・非口蓋化の音韻対立が解消されるが、その際その「原音素表現型」は非口蓋音でも口蓋音でもない、いわば「半口蓋音」になるそうだ。中間の発音になるのである。
2.表現型が原音素のどちらかの項と同じになる場合。これが私たちが「中和」と言われて普通想像するパターンだが、この2のケースでは対立解消が「外部要因によって」、つまり前後の音声環境によって誘発される。ロシア語の例では、非口蓋歯音の前では子音の口蓋・非口蓋の対立が解消されるが、表現型は1で述べた例と違って非口蓋音になる。
3.表現型が原音素のどちらかの項と同じになるのは2のケースと同じだが、中和が周りの音声環境などの外部要因でなく内部の要因に誘発されるもの。解消可能な位置で現れる原音素の表現型では素性(そせい)の一つが弁別性を失うのに対し、重点位置では当該素性(そせい)は重要性を保っているわけだ。言い換えると前者は「原音素+ゼロ」、後者は「原音素+α」。いわゆる「無標・有標」の対立である。
 またこの2者の対立がきっぱりと欠如的privative(『128.敵の敵は友だちか』参照)でなくてグラデーションを帯びることがある。例えばロシア語ではアクセントのない位置で o と a の区別が解消されるが、その表現型は[ʌ] または[ǝ]。本来の o から見れば「狭音性」という素性(そせい)がミニマルになっている。逆に a から見れば「広音性」がやはりミニマルで、どちらも「重点位置では当該素性がミニマル以上」ということだ。うーむ… トゥルベツコイ自身は言っていないが、つまりこの原音素はそれぞれ /a/ および /o/ ということになるのか?
 4.解消可能な位置で原音素の表現型となるのがどちらのメンバーでもありうる場合。例えば日本語ではe とi の前で子音の「口蓋・非口蓋」という対立が解消される、つまり e と i の前が解消可能な位置なのであるが、その際 e の前では非口蓋音が、i の前では口蓋音がそれぞれ原音素の表現型となる。トゥルベツコイが日本語に言及しているのを見て感激した人食いアヒルの子がおせっかいにも噛み砕いて言うと、例えば m は a、u、o の3母音の前でのみ「ま対みゃ」、「む対みゅ」、「も対みょ」という対立がある。ところが「み」と「め」には対応する拗音がない:「み対?」、「め対?」。つまり e と i の前では口蓋性が中和されるのだが、「み」では子音が口蓋化しているのに対し([mʲi])「め」の m は非口蓋音 [me] だ。この観察は本当に鋭いと思うのだが、するとつまり日本語の子音は y を除いて皆原音素ということになるのか?
 
 その後チャールズ・ホケットCharles F. Hocketがこの原音素という観念を批判し、音韻レベルの話を形態論に持ち込んだものであるとしたが、その根本にあったのは原音素などを設定しまうと音素の数が徒に増える上、その配列パターンも崩れるといういかにも構造主義者らしい考えである。もっとも構造主義というのならトゥルベツコイやプラーグ学派のほうが「元祖」だと思うが。
 さらにアダムスM. Adamusという人も「原音素は異形態素を音韻論の観念と交換しようとする試み」と批判したそうだが、この「音韻論と形態論のクロスオーバー」というのはまさにトゥルベツコイがロシア語学で発達させたMorphonologie形態音韻論(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)という分野だ。もちろん他の言語でも見られるが、ロシア語(他のスラブ語も)では異形態素間に現れる音韻交代が特に規則的なのでこういうアプローチが発達したのだろう。形態素内の音韻構造、特に異形態素間の音韻交代のパターンを研究する分野だ。ロシア語の授業では最も頻繁にみられる代表的な音韻交代パターンを暗記させられる。例えば:
с – ш: писать – пишу – пишущий 「書く」、不定形-1人称単数-分詞
к – ш: далёкий – дальше 「遠い」、原級-比較級
г – з(ь) – ж: друг – друзья – дружба 「友人」、単数主格-複数主格-「友情」
к – ч – ц: казак – казачий, казацкий、「コサック」-「コサックの」-「コサックの」
т – щ: осветить – освещу – освещённый、「照らす」、不定形-1人称単数-分詞
ст – щ: простой – проще、「簡単な」、原級-比較級
ск – щ: искать – ищу – ищущий、「探す」、不定形-1人称単数-分詞
д – ж – жд: родить – рожу – рождённый、「生む」、不定形-1人称単数-分詞
б – бл: любить – люблю 「愛する」、不定形-1人称単数
в – вл: ловить – ловлю 「捕まえる」、不定形-1人称単数

この他にも交代パターンがたくさんある。私は当時は単位欲しさだけのために意味も分からず暗記したが、今考えると(今頃にならないと気づかない…)、この音素交代がしっかり頭に入っていれば知らない動詞や形容詞が出てきたときカンが働いて、辞書を引かなくてもそれらがどういう語形変化をするかある程度予想できるようになると思う。


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 長い間気にかかっているのに改めていろいろ調べるのはおっくうだということで放置している事柄というのは誰にでもあるのではないだろうか。例えば私は森鴎外のエリスという名前がそうだった(『131.エリスという名前』参照)が、他にもある。
 ロシア語で「火」をогонь(アゴーニ)というと聞いて驚いた。実ははるか昔にサンスクリットというのをほんの短期間だけ勉強したが内容そのものはほぼ完全に忘れ、残っているのは当時買った教科書だけという状態である。なぜ「ほぼ」かというと単語がわずかに3つだけ記憶に残っているからであるが、その3つの単語の中に「火」があって、アグニというのだ。「火」というより火の神様の名前である。これとロシア語の形があまり似ているので驚いたのだ。もっともあまりにも似すぎているのでこれは偶然か借用かもしれないとも思った。しかしその後ラテン語で「火」を ignisということを知った。英語の ignition の冒頭部もこれで、中世フランス語を通して入ってきたものだ。微妙に母音が違っていたりするあたり、むしろこっちの方がサンスクリットのアグニと同源っぽい。そこで最近になってやっと調べてみたらこの3つ、サンスクリットのアグニ agní、ロシア語の огонь、ラテン語の ignisは本当に同じ単語から派生してきたものだった。印欧祖語の再現形では*hxn̥gʷnis あるいは*h₁n̥gʷnis (資料によって再現形に差がある)といい、ラテン語、ロシア語、サンスクリットの他にリトアニア語の ignis、ラトビア語の uguns もこれである。ロシア語の形が「似すぎている」のはスラブ祖語から音韻変化してくる際に母音の音価がいわば元に戻ったからで、古教会スラブ語では ognĭ、つまり母音は o だった。だからこそロシア語でも綴りがогоньとなっているわけで、アーカニエ(『6.他人の血』『26.その一日が死を招く』参照)のため a にはなっているが、音韻レベルでは o なのだ。アクセントが後ろに移動している点も(『56.背水の陣』参照)東スラブ語の図式通りである。
 これらに対してドイツ語では「火」をFeuer といって、もちろん英語の fire、オランダ語の vuur と同源だ。中高ドイツ語では viur、viwer、viuwer、fiur などと書いていた。v とは書いても無声子音だったようだ。古典ギリシャ語の πῦρ (pûr)も一緒で、印欧祖語形は*péh₂ur̥ 。第一時音韻推移で祖語の閉鎖音*p がゲルマン語派では調音点はそのままで摩擦音 f になっているわけである。アルメニア語の հուր (hur)、ヒッタイト語の paḫḫur、古プロイセン語の panno、ラテン語の兄弟ウンブリア語の pir、トカラ語Aの por、トカラ語Bの puwar もこの語が起源である。さすがアルメニア語の音韻推移だけは他と離れてアサッテの方を向いている。バルト語派、スラブ語派は上述のように*h₁n̥gʷnis(あるいは*hxn̥gʷnis。上記参照)形が基本だが、チェコ語に*péh₂ur̥ 起源の pýř という語があり「灰」である。「火」そのものはチェコ語でも oheňと*hxn̥gʷnis 形だ。

 それにしてもなぜ「火」などという基本単語がこのように祖語形から単語自体が真っ二つに割れているのだろう。普通印欧語内では「水」とか「母」「父」などのありふれた言葉はもともとの形は同じ一つの単語であることが多い。だからこそ音韻対応の規則が容易(でもないが)に見つけられたのだ。不思議に思って調べてみたら、*hxn̥gʷnis と*péh₂ur̥ とは火は火でも意味合いが違い、前者は男性名詞で人格化された火、いわば行動主体としての火で、サンスクリットのagní が火というより「火の神様」を表しているのもうなずける。現在のインドの言葉は皆この agní を受け継いでいて(プラークリットで agg)、ベンガル語 agun、ヒンディー語の āɡ、パンジャブ語の ag は当然この直系だが、ロヒンジャの言葉 ooin もこれ起源だそうだ。ロマニ語の jag も同源である。さらにこの言葉は近隣の非印欧語にも借用されていて、タミル語の akkiṉi、テルグ語の agni、タイ語の àk-ká-nii などあちこちに飛び火している。さらに本来 *péh₂ur̥ 系のヒッタイト語にも ak-ni-iš という形があるが、これはヴェーダの火の神様のことのみを指すあくまで固有名詞で、普通名詞としての機能はなかったらしい。この男性名詞の*hxn̥gʷnis に対し、*péh₂ur̥ は中性名詞、単なる自然現象、人格化などされていない物質あるいはモノとしての火だ。上でも述べたようにインド語派とロマンス語派以外の印欧語は基本的にこちらを使っている。
 『122.死して皮を留め、名を残す』でもちょっと名前をだしたBonfante はこの二つの形に言語地理学的なアプローチをして*péh₂ur̥ は「中央的」*hxn̥gʷnis は「周辺的」な分布を示す、つまり*hxn̥gʷnis の方が古い形であると見た。最初印欧(祖)語では「火」は*hxn̥gʷnis 形だけであった。しかしその後新しい形*péh₂ur̥ が文化的中心部に発生し、それが古形にとって代わっていったと。いわゆる波動説に従ったのである。斬新的な新しい形はまず文化の中心地に現れ次第に周辺部に広がっていくから中央部ではすでに新しい形が使われている時期でもまだ周辺部では古形が残っている場合が多い、という考えかただ(『105.茶飲み話』参照)。このボンファンテの説に対してはMalloryと Adamsが異を唱えている。まずヒッタイト語が*péh₂ur̥ である理由がわからない。このほとんど最古の印欧語がすでに新しい単語を使っている一方で、古いは古いがそれよりちょっと時代の下っているサンスクリットだろラテン語だろが「それより古い」形を使っているのはなぜか。さらにトカラ語などのどう見ても周辺言語が文化的中央語の*péh₂ur̥ である説明もつかない。もう一つ、各言語での*péh₂ur̥ 起源の語の活用のパラダイムなどを見てみると、こちらの方がむしろ古い印欧祖語の形を保持していて、*hxn̥gʷnis は形態素的に新しいタイプの語である。しかしそこまで言っておきながらマロリー&アダムズは「*péh₂ur̥ のほうが古い」という結論にまでは持って行っていない。私には「なるほど、じゃあ*péh₂ur̥ のほうが古いんじゃん」としか思えないのだが、M&Aによれば両方とも印欧祖語にもともとあった語で、印欧祖語民族は生物または魂を持つ実体と単なる物質としての火を言語上で区別していた、それが印欧祖語がいろいろな言語に分離してくる際、どちらか一方がもう一方を押しのける形で一つの単語に固定してしまったと。
 確かに古い印欧語は生物非生物の区別に敏感だったらしく、その形跡が今でもところどころに残っている。現にロシア語では生物非生物によって対格の形が違うし、ヒンディー語やヒッタイト語に見られる能格構造も元をただせばそのせいといえそうだ。たとえばアナトリア語派(ヒッタイト語もこれ)では中性名詞が他動詞の主語に立つときは主格とは異なる*-enti という語尾をとるようになった。これは本来中性のn-語幹名詞の奪格・具格形だったもので、非生物を表す中性名詞が生物のように主語に立つと居心地が悪い感じがしたからだ。現在の英語だったらThe fire burned the house と言っても何の差支えもないが、ヒッタイト人は引っかかったと見えて非生物が主語に立つ場合は奪格・具格を取っていわば (It) burned the house with fire 的な表現をした。これが固定して能格が生じたのである。日本語も非生物が主語に立つと非常に座りが悪い。「火が家を燃やした」とは普通の日本人ならいわないだろう。ヒッタイト語では*-enti は -anza として現れ、「火」の能格は paḫḫuenanza である。現在のヒンディー語にも能格があるが、これはまず動詞の形が変わり、そのバレンツに引っ張られて死体を別の格で表すようになったのが固定したそうで、アナトリア語派とはメカニズムが違うが、どちらも二次的に発生した能格である。

 さて、*hxn̥gʷnis のほうが新しい、という仮定をちょっと続けてみよう。この新語はどうやって生じたのか。印欧語を話す人々がインド亜大陸に入ってきたとき、すでに当地には先住民族がいた。おそらくドラヴィダ語を話す民族だったと考えられる。古代インド語がここから「火の神様」という語を借用したのか。しかしその後はドラヴィダ語のほうがサンスクリット、パーリ語などのインド語派に押されて影響を受け、上にも書いたように現在のドラヴィダ語群の「火」はサンスクリット語からの借用であることが明白だ。だから昔インド語の方がドラヴィダ語から取り入れたと考えたいのなら、ドラヴィダ語の「火」という単語の原本(違)は一旦消滅し、サンスクリットがそれを保持していたのを後からまた取り入れたということでなければならない。どうもこりゃ考えにくい。やはり印欧語が北からインドに入ってきたときはすでに印欧語側に*hxn̥gʷnis という単語があったとしか考えられない。
 その「北」、今のチグリス・ユーフラテス川の北には紀元前1600年ごろミタンニ王国というのがあった。そこに元々住んでいたのはフルリ人という非印欧語民族だったが、後からきた印欧語民族に支配され、紀元前1360年ごろヒッタイト人に滅ぼされた。そこでその言語についてのヒッタイト人の記録が残っている。それによればヴェーダやヒンドゥー教の神々の名前が被っているそうだ。火を神として崇める宗教自体も北の現地人たら取り入れたのだろうか。その地域も含めたインドの西北、現在のイラク、イランのあたりには火を神聖なものとして崇める宗教が広まっていた。ゾロアスター教などその典型だ。その当時当地にはフルリ人だけでなく非印欧語を話す民族がいろいろいたことはシュメール語、エラム語、アッカド語などの記録を見ても明らかだ。先住民がすでに持っていた拝火思想が後から来た印欧語民族に伝わり、ついでに「火の神様」「人格化・神格化された火」という単語*hxn̥gʷnis が印欧(祖)語に取り入れられたのかもしれないと最初考えた。だからサンスクリットで「火」が神様と結びついているのだと。一方拝火思想の影響を受けなかったヒッタイト語など「古い周辺層」には借用語の*hxn̥gʷnis が広まらず、本来の*péh₂ur̥ が残ったのだと。
 しかしこの解釈にも大きな問題がある。ゾロアスター教の経典言語アヴェスタ語とヴェーダの言語(サンスクリット)とでは「火」の形が全然違うのである。 第三の火だ。アヴェスタ語の「火」はātarš と言って印欧祖語では*h₂ehxtr̥ と再建されている。アヴェスタ語は紀元前二千年目の後半、つまり紀元前1500年から1000年くらい、リグ・ヴェーダのサンスクリットは紀元前二千年目の終わりごろ、紀元前1200年とかそのくらいの時期の言語で、時期的にほぼ同じであるばかりでなく言語的にも非常に近く、ちょっと音韻を変換すれば相互に転換できるそうだ。そのくらい近い言語なのに「火」が語源からして全く違う語になっているのはなぜだろう。
 アヴェスタ語は当時に書かれた原本というのが存在せず、儀式用の言語として口承されていたのがやっとササン朝ペルシャになってから文字化された。つまり紀元後3世紀から7世紀である。もちろんそのころはアヴェスタ語はとっくに死語になっていたからいろいろ伝承の間違いがある。しかもその最古のササン朝期の記録の原本というのが残っていない。現存する最古のテキストはそのコピペのコピペのさらにそのまたコピペの1288年のものである。これでは当時の言語が正確に伝わっているのかどうか心もとない。またアヴェスタ語より少し時代の下った古代ペルシャ語、これは例のベヒストゥン碑文にエラム語、アッカド語とともに使われていた言語だが、それを記録している楔形文字があまり正確にはその音韻状況を伝えていないらしい。そもそもアヴェスタ語も古代ペルシャ語も資料の量が少なく比較の材料をふんだんに提供しているとは言えない。そこで私の第二の妄想である。アヴェスタ語の「火」って本当にātarš だったの?実は途中のコピペで変な風に伝わっちゃっただけで本当は「アグニ」とかそういう形だったんじゃないの?ということだ。例えば古代ペルシャ語には「煉瓦」という意味のāğgur という語があったとみられているが考えようによれば「煉瓦」というのはその意味素に「火」を含んでおり、しかもこの形はなんかこう、アグニとアータルシュを足して二で割ったような感じである。気のせいか。
 しかしこれにも大きな問題がある(どうも問題発言(?)ばかりですみません)。*h₂ehxtr̥ 起源の言葉があちこちの印欧語に残っているのだ。しかも古い言語にたくさん残っている。またそれだからこそ*h₂ehxtr̥ という形を再建できたのである。アナトリア語派のパラー語に ḫa-a または ḫā, hā という「熱いこと」「熱いもの」を表す言葉があり、これは*h₂ehxtr̥ だそうだ。アナトリア語派にまであるということは*h₂ehxtr̥ は印欧語に元からあったとしか考えられない古さである。当然イラン語派ではこの形の「火」が使われていて、バクトリア語 aš、ソグド語 ātar、スキタイ語の再現形*āθr などは皆これ起源、現在でもパシュトゥー語の or「火」にこの形は残っている。さらにケルト語派にもこれ起源の語が広く使われている。アイルランド語の áith、ウェールズ語の odyn などだが、意味が変化していて皆「かまど」とか「炉」などを表す語だそうだ。イタリック語派にもある。ウンブリア語にatru という語があるがこれはモロ「火」である。さらにラテン語にも*h₂ehxtr̥ 起源の āter という語がある。「黒」という意味だが、火が燃えた後の色から来たのだろう。もし*h₂ehxtr̥ と*hxn̥gʷnisがもとは一つの単語だとしたらこれはありえない。ややこしいことに先のウンブリア語は「火」に2系あり、一つは上で述べた*h₂ehxtr̥ 起源の atru、もう一つが*péh₂ur̥ 起源の pir という語。ラテン語の火が*hxn̥gʷnisだからイタリック語派には3つの形が全部そろっている。これはやっぱりどれが新しいとかそういう問題ではなく、もともと印欧祖語には「火」に3形あったとしか思えない。そのうちの一つがだんだん他の形をおしのけて「火」として固定し、他は周辺部の意味に回されたと考えられるが、イタリック語派を見ると、これらの言語が一つにまとまっていたころ、つまりラテン語やウンブリア語に分化しかかることにはまだ3つが「火」の意味で共存していたということなのだろうか。

 こうやって堂々巡りをしたあげく、「印欧祖語には火という単語が少なくとも3つあった」という出だしに戻ってきてしまった。私のそもそもの疑問「なぜ火などという大事な基本概念がいろいろの単語に割れているのか」というのが全然解決していない。もうこうなったら勝手に想像するしか手がないので考えたのだが、これは「大事な概念なのに」ではなく「大事な概念だから」語が細分化していたのではないだろうか。日本語でも、英語やドイツ語なら rice あるいは Reis 一語で表されている事象が「稲」「米」「飯」などやたらと細分化している。逆に日本語だと「牛」ひとつがドイツ語や英語では性別や去勢されているかいないかによって全く別の単語に分かれている。イヌイット語には「雪」という統一的な言葉がなく、降っている雪と積もったばかりの雪、積もって固くなった雪など多くに言葉に分かれているそうだ。そんな感じで印欧祖語を話していた民族にとって火が宗教上も生活上も非常に大切なものだったので単語が細分化していたのではないだろうか。時代が下るにしたがって拝火の習慣が薄れ、それにしたがって火が一つの単語で足りるようになり、そのうちの一つが他を押しのけて固定していったのかもしれない。が、印欧祖語の時代の*hxn̥gʷnis(*h₁n̥gʷnis)、*h₂ehxtr̥ 、*péh₂ur̥ 間に本来どういう意味の差があったのかはさすがに考えてみただけではわからない。


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 世界中でどんどん使用地域を広げ他の言語を駆逐していっている印欧語だが、話されている地域が過去に大幅に後退したところがある。中央アジアの天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタリム盆地だ。
 現在はこのあたり、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンの南部、中国領の新疆ウイグル自治区は言語が皆テュルク諸語、トルコ語の親戚だ。ロシア国内のタタール語もアゼルバイジャン語もこれである。しかし昔はここら辺はペルシャ帝国やその同盟国の領内で、言語も東イラニアン語派、つまりモロ印欧語だった。「モロ」というのはこのペルシャから中東にかけての言語が現在印欧語の代表者面をしているドイツ語やスペイン語よりむしろ本来の印欧語だからである。いわゆる西域、東トルケスタン(中国領新疆ウイグル自治区)をも含むタリム盆地・タクラマカン砂漠周辺も言語的文化的にはやはり印欧語・アーリア人の生活圏だった。当時の中国の記録では西域の住民のことを「深目・高鼻」と描写してあるそうだ。現在の住人のようなアジア顔とは明確に違っていたのだ。
 つまり中央アジアでは極めて大規模な言語転換、住民の入れ替えが起こっているのである。歴史学者の松田壽男氏はこれを「木に竹を継いだような歴史」と言っているが、転換前、かつて印欧語・アーリア人地域であった名残りは小規模ながら今もそこここに残っていて、中央アジアのタジク語、コーカサスのオセチア語は東イラニアン語派の印欧語だ。オセチア語についてはスキタイ語の末裔だという説を見かけたが、このスキタイ語も結局印欧語。他にタジキスタンで使われているヤグノブ語、新疆ウイグル自治区他で話されているワハン語などの小言語も東イラニアン。テュルク語に駆逐された印欧語が全滅を逃れてわずかに生き残ったのだ。

タクラマカン砂漠という大砂漠があるタリム盆地。ウィキペディアから。
taklamakan

 先史時代のことはひとまず置いておくが、今の東西トルケスタンは遅くとも紀元前550年のアケメネス朝ペルシャの頃は印欧語の地域になっていた。『160.火の三つの形』でも述べたように拝火教のアーリア人だ。その頃サマルカンドやブハラを中心にソグディアナという国(中国語で粟特)があって、のちにペルシャの直轄領になったが、この言語ソグド語ももちろんイラニアン語派の印欧語である。
 その後紀元前334年に例のアレクサンドロス大王が攻め込んで来てアケメネス朝は滅亡、さらにバクトリア地方がギリシャ化し、イラン・ペルシャとインドの間に言語的にクサビが打ち込まれることになった。そのバクトリアの地に紀元前250年ごろギリシャ人が独立王国を建てていたそうだ。高校の世界史で習った、漢の武帝の命令で張騫が派遣された大月氏国というのはこのバクトリアにあったらしい。ただしギリシャ人のバクトリア王国そのものはすでに滅んでいたそうだ。
 さらにこれもやはり紀元前250年ごろ元のアケメネス朝の地にパルティア人がアルサク帝国を建てた。これが中国人の呼ぶ安息である。このパルティア人もイラニアン語派の印欧語を話していたと見られる。最初ヘレニズム文化であったのが、しばらくするうちにそこから離れてペルシャ文化に戻ってしまった。クテシフォンという都市を築いたのもこの国で、これはササン朝ペルシャの首都として引き継がれた。こうして「ペルシャ戻り・イラニアン戻り」をしたササン朝がローマや北のテュルク勢力と拮抗しつつ、3世紀から7世紀まで、つまり中国の唐の時代まで存続する。この言語が中世ペルシャ語だ。アケメネス朝の言葉は古代ペルシャ語(『160.火の三つの形』参照)である。
 このころの中央アジアのタリム盆地のあたりがどんな様子になっていたかについては幸い中国側の資料がたくさん残っている。例えば漢が設立した西域都護府が前60年に行なった報告によるとタリム盆地には多数のオアシス国家が存在していたそうだ。さらに晋の僧法顕(4~5世紀)が『仏国記』で当地の砂漠の凄まじさを描写し、7世紀に完成した北周書異域伝にはそのころの西域のオアシス都市アールシイ(下記)では仏教の他に拝火教も行われていたことが記録されている。7世紀には唐僧玄奘の報告もある。アールシイ(阿耆尼または焉耆、カラシャフルとも呼ばれる)、クチイ(屈支または亀茲)、クスタナ(コータン、瞿薩旦那または于闐)といったオアシス国家の生活文化を描写しているが、その際コータンの言語が他国と異なっていると告げている。また文字はインドの文字を改良したものであると述べている。これは19世紀の終わりから20世紀にかけてスヴェン・ヘディンやオーレル・スタインなどが発掘した遺跡から出てきた死語の資料を解読して得られた結果と一致している:タクラマカン砂漠には3つの言語群があった。中心となるオアシス都市の名をとってアールシイ語、クチイ語、コータン語と名付けることができるが、アールシイとクチイは天山南道、つまりタクラマカン砂漠の北側にある。ところがコータンは崑崙山脈の北、タクラマカン砂漠の南端だ。前の二つは互いに似通った言語だが、コータンは砂漠を隔てていただけあって前者とは明確に違った言葉が話されていた。もっとも上の玄奘のいうコータン語が違っているという「他国」がアールシイなどを指しているとは限らない。玄奘がアールシイ、クチャについて記述しているのは『大唐西域記』の第一巻、コータンについての話は遠く離れた第一二巻だから、コータン語が周りのソグド語か中世ペルシャ語と違っているという意味かもしれないからだ。とにかく現在はアールシイの言語はトカラ語A,クチイはトカラ語Bと呼ばれる。
 トカラ語が印欧語族であることは1907年にはすでに判明していた。ギリシャ語やアルバニア語同様印欧語族の独立した一派で東イラニアン語派のコータン語とは語派が違う。上記の松田教授はアールシイとクチイの言葉を印欧語でイタロ・ケルティックに近い言語としているが、実はこれは間違いではない。現在では否定されているが前は本当にそういう説があったのだ。ギリシャ語やバルト語派・スラブ語派との関係が云々されたこともあった。Adamsという学者は言語の親近度を語彙などで測定して、ゲルマン語派と近いという結果を出している。ケルト語にせよゲルマン語にせよ、つまり言語的には印欧語の北西グループの特徴を示しイラニアン語派とは全く異質ということだ。

 どうしてそんなに離れたところにそんな印欧語があるのか。Adamsはギリシャ語やゲルマン語派との親近性はトカラ語がゲルマン・ギリシャ語とズバリ同系だからではなく、トカラ人が元いた場所から移動してタクラマカン砂漠に至る際、ギリシャ語やゲルマン語と接触し影響を受けたからだとしている。つまりトカラ人はヨーロッパから移住してきた(半)遊牧民ということになる。別の説ではトカラ人はヒッタイト人級に古く印欧祖語から分岐したものだという。ヒッタイト語は印欧語ではなく「印欧祖語の兄弟言語」という見方もあるくらいだから、つまりヒッタイト語、印欧(祖)語、トカラ語がさらに共通の祖語から分かれたという見解だ。
 どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかは考古学の領域に入ってしまうのでここではパスするが、東イラニアン語派が中央アジアに入ってきたときにはすでにトカラ語の話者がそこにいたらしい。トカラ語祖語の時代は紀元前千年以前などという議論も行われているそうだが、発掘されたトカラ語の文書は紀元5世紀から8世紀(別の資料では紀元4世紀から12世紀)ごろの新しいものしかないので実証が難しい。しかしトカラ語の単語を他の、(話されていた時代がわかっている)印欧語と比べて音韻対応を検討すればある程度言語の歴史はわかる。ロマニ語(『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)の成り行きもそうやって言語学的に解明されたのだ。
 このトカラ語がAとBに分かれているのはダテではなく、両者は互いに通じなかったのではないかと思われるほど差があるそうだ。さらにトカラ語Aはアールシイの、Bはクチャで話されていた言語と単純にも行かないらしい。第一にタリム盆地は古くから交易の地で人の移動が激しく、文書が発見されたからと言ってそこの住民がその言語を話していたということにはならない。これは下で述べる敦煌でもそうだ。第二にAが見つかった処ではBも見つかっている上にB文書の数の方がずっと多い。ここからBが実際の話し言語で、Aはその時点ですでに死語、宗教儀式や詩などの限られたコンテクストでのみ使われて日常では用いられていなかったのではないかという疑いも起こる。
 面白いことにトカラ語では印欧祖語より名詞格が増えて10(呼格をいれれば11)の格を区別する。しかしそのパラダイムを見れば、トカラ語では印欧語としてのもとの語形が一旦減少し、しかる後に膠着語的接尾辞を付加して格変化させるやり方が発達したことが見て取れる。ロマニ語(『65.主格と対格は特別扱い』参照)や非印欧語のダゲスタンのアグール語と同じパターンだ。トカラ語をぐるりと囲む膠着タイプの諸言語の影響なのだろうか。ちょっと「馬」という語形変化をみてみよう。
Tabelle-165
いかにもサンスクリットの「馬」aśva- とつながっていそうな語だ。 トカラ語Bの複数通格は yakwentsa ではなく yakweṃtsa になるはずではないのかと思うが確認できなかった。とにかくAには因格形がなくBには具格がない。またBでは呼格を区別することがある。例えばこの「馬」は yakwa という単数呼格形を持っているそうだ。さらによく見ると印欧語的な「曲用」によって造られるのは主格、属格、斜格の3つだけで、具格以下は斜格形をベースにしてその後ろに接尾辞(太字)をつけるというロマニ語そっくりのパターンで形成されているのが見て取れる。単数を見るとすでに属格でこのパターンを踏襲しているようにも見えるが、Bで「父」の単数主・属・斜格をそれぞれpācer、pātri、pātärといい、立派に語形変化しているのがわかる。この2層になった語形変化をGruppenflexion「グループ活用」というドイツ語で呼んでいる。
 タリム盆地の北クチャやアールシイのトカラ語ABの他に、紀元前から紀元3世紀ごろまで砂漠の南側で栄えたクロライナ王国(中国語で楼蘭)の言語もトカラ語だったのではないかという説がある。紀元前77年に漢に押されて王国としては滅んだが、都市としてはそのあと何百年も存続した。すでに1937年にBurrowという人がその可能性に言及し、その後もこれをトカラ語Cとする学説が時々流れたが実証には至っていない。最近でも2018年にKlaus T. Schmidtがクロライナ語=トカラ語C説を唱えたが、他のトカラ語学者からコテンパンに論破されたそうだ。考古学的にもこの説には無理があるらしく、発掘品から見てクチャとアールシイは同じ文化圏に属していたが、クロライナからの発掘品はそれとは違う、つまりABとC(というものがあれば)では話者の民族が違うらしい。しかし一方完全にC説が否定されたわけではないので、今後の研究待ちということだ。

いわゆるトカラ語Cの存在はまだ実証はされていないので注意。
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 トカラ語ほどは一般人のロマンを掻き立てないが、コータン語やソグド語を無視するわけにはいかない。
 ソグド語は古い形をよく保ち(言語自体が古いので当然か)、特に名詞の変化パラダイムはほとんど保持していた。紀元1~2世紀から文献が残っており(ソグド人の存在自体については紀元前6~4世紀にはすでに記録がある)、敦煌の西でも4世紀に書かれた手紙が残っている。敦煌はさすが漢が紀元前1世紀に建てた都市だけあって発掘された文書は中国語が多いが、中国の重要な関所となってから西域から人や物が集まってきていたので中国語の他、コータン語やクチイ語、ソグド語、サンスクリット、西夏語、チベット語、果てはヘブライ語の文書まで見つかったそうだ。特にソグド商人の隊商活動がさかんだったらしい。敦煌付近には5世紀前後から大規模なソグド人の植民地というか居住地があった。7世紀ごろもソグド人についての中国の記録がたくさん残っているが、非常に利にさとかったそうで上述の松田教授によると玄奘などもずっと西のスイアブのあたりでテュルクの支配を受けていたオアシス群には西方の国からやってきた商人が雑居し、住人は意気地なしで薄情で、詐欺と貪欲の塊であり、親子で銭勘定にあけくれていると書いているとのことだ。敦煌だけでなくそもそもタリム盆地全体に植民地を築いていたので、トルケスタンでも事実上の商業言語はソグド語だったらしい。トルファン周辺にも5世紀前後からソグド人が大勢住んでいたそうだ(下記)。
 そういえば則天武后の下で秘密警察を取り仕切り住民を恐怖に陥れた索元礼という拷問の専門家も「胡人」だった。唐の時代には胡人という言葉はペルシャ人を指していたはずだが、この「ペルシャ人」というのはつまり「イラン系の人」の意味、言い換えるとソグド人もその中に入っていたということはないのだろうか?索元礼もペルシャ人ではなくソグド人だったということは考えられないのだろうか。実際6世紀にアルタイ・テュルク系の阿史那氏に中国(西魏)の使者として使わされてのはブハラの商人だったそうだ。ブハラもソグディアナの都市である。
 ソグド語はソグド文字という独自の文字を持っていた(まれにブラーフミー文字で書かれた文献もある)が、これはアラム文字から造られたのだそうだ。そのソグド文字からさらにウイグル文字が作り出された。中央アジアの大言語だったのだが、11世紀ごろの文献を最後に交易言語としての地位を失っていった。ペルシャ語、アラビア語、テュルク語、中国語に押されてしまったのだ(下記)。上記のヤグノブ語はソグド語の子孫。
 ソグド語同様コータン語(上記)も古い形をよく残しているが、名詞格は6つであった。近くのトムシュクで発見された言語とコータン語をいっしょにしてサカ語と呼ばれることもある。スキタイ人の言語が関連付けられている。上記のワハン語はコータン語の生き残りである。

敦煌で発見されたソグド語の文書。https://sogdians.si.edu/sidebars/sogdian-language/から
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 そうやって唐の時代までタリム盆地は印欧語の世界だった。ソグド語、コータン語、トカラ語などの文献は5世紀ごろまでは多くがカロシュティー文字で、以降はブラーフミー文字で書かれていたし、内容的にも仏教関係の文書が多い。拝火教も行われていたそうだから、要するにインド・イランの文化圏だったのである。
 唐以降この状況がひっくり返る。もともとは天山山脈の裏側のステップ地域にいたアルタイ・テュルク(中国語で突厥)が6世紀半ばに力を伸ばし、タリム盆地を支配しだしたからである。テュルク支配下でも最初は住民そのものはアーリア人であり、少なくとも唐の間はシルクロードは文化的にはイラニアン系だったが、徐々に住民レベルでもテュルク人が優勢になっていった。ただその時点でもテュルクはまだイスラム化してはいなかった。
 イスラムが入ってきたのは西から、イランからである。イラン化されたイスラム勢力のウマイヤ朝、後アッバース朝が西からタリム盆地に来て、そこでテュルク民族とぶつかったとき、イスラム側(=イラン人側)には強力なテュルクと全面的に武力衝突するか、テュルクを懐柔・改宗させて自分たちの仲間にしてしまうかの選択に迫られ、後者を選んだのだ。懐柔したはいいが、11世紀になってからイスラム化してさらに強力になったセルジューク・トルコ(後オスマン・トルコ)が本国のイランの支配権をもぎ取ってしまったのは皮肉なことであった。とにかくタリム盆地を支配したテュルクは最初からイスラム教ではなかった。こんにちの眼で見るとテュルク=イスラムとつい安直に結びつけてしまいがちだが、テュルク化とイスラム化とは分けて考えなければいけないということだろう。ついでに民族と人間そのものも必ずしもイコールではないところが面白い。テュルク民族は本来私たちと同じ顔をしたアジア人である。事実民族の発祥の地に近い中央アジアではテュルク語話者はアジア顔だ。カザフ人、ウイグル人、タタール人など日本人だと言われても通じる。自慢ではないが私も一度カザフ人と間違えられた事がある。ところが現在のトルコの人々は全然アジア顔をしていない。顔貌的にはイランのあたり、まさに中国人から「深目・高鼻」と言われそうな容貌だ。カザフ人と民族的にはごく近いのに、人間そのものは全く異なるのである。
 
 この中央アジアでの人間の入れ替わりのプロセスについてはステップの反対側でも記録に残っている。ロシアであるが、ここは歴史上少なくとも8回は東からやってきた異民族に国土を荒らされた。最初に来たのがスキタイ人で、ギリシャ人の記録に残っている。紀元前7世紀ごろのことだが、上にも書いたようにこのスキタイ人は印欧語系の遊牧民である。2番目に来たサルマティア人というのもおそらく印欧語を話す民族だったと思われる。次がフン族で、紀元5世紀ごろ。このフン族については所説あるが、とにかく言語が印欧語ではなかったことは確実らしく、また「フン族」と一括りにはしがたいほど諸民族混成軍隊だったと思われる。その次、6世紀にアヴァール人というのが来たが、これはテュルク系の言葉を話していたらしい。このアヴァール人は現在コーカサスにいるアヴァール人とは別の人たちとみられる。その後にハザール人(ユダヤ教に改宗したことで有名)、続いてペチェネーグ人、さらに続いてポロヴェツ人がやってきた。11世紀のことである。ロシア文学史上燦然と輝く叙事詩『イーゴリ軍記』はこのポロヴェツ人とロシア人との戦いを描いたものだ。最後にダメ押しで侵攻してきたのが13世紀のモンゴル人だが、支配層はモンゴル人でも実際に兵士として押しかけて来たのはテュルク人であったことは明らかで、それだからこそこれを「タタールのくびき」というのだ。現在ロシアに残っているタタール語、アゼルバイジャン語などは皆テュルク系。またモンゴル帝国の支配者ティムールは全然モンゴル人などではなく、サマルカンドの近く出身のテュルク人である。しかし肖像画から判断するとティムールはアジア顔であり、上でも述べたように現在のトルコ人とは違っている。
 とにかくロシア側から見ても中央アジアのステップの支配民族は最初アーリア人(印欧語属の話者)だったのが、比較的短い期間にテュルクと入れ替わっているのがわかる。

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