アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:言語学の歴史

 人からちょっと聞かれたことがあって大学図書館から古教会スラブ語の教科書を借り出したことがある。何気なく筆者の名前を見たらアウグスト・レスキーン(A. Leskien)だったのでびっくりした。ドイツ青年文法学派(Junggrammatiker)の主要メンバーだった人だ。

 19世紀に比較文法理論が花開いてから1930年代のプラーグ学派活動期まで、言語学の中心はヨーロッパにあった。それも大陸部が強かった。ドイツ語の授業でも教わるが、「青年文法学派」というのはそこで1870年ごろドイツのライプチヒを中心としていた一派だ。つまりレスキーンはそのころの人。この教科書も初版は1905年、1910年の第五版へレスキーンが書いた「始めに」などもまだしっかり載っている。彼は生まれが1840年だから、この「始めに」はレスキーン70歳の時のものになるわけか。
 レスキーンの名はたいていの「言語学者事典」に載っている。たまたま家にある大修館の「言語学入門」の第八章「歴史・比較言語学」の10.「研究の歴史」にも出ていた。そういう本がいまだに学生の教科書として通用しているのが凄い。しかもこれを1990年に再出版したハイデルベルクの本屋(出版社)はなんと創業1822年だそうだ。

 さらについでに図書館内を見まわしてみたら音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイが『古教会スラブ語文法』という本を出している。出版は1954年ウィーンだが、原稿自体は1920年代にすでにトゥルベツコイがドイツ語で書いて脱稿してあったのだそうだ。夫人と氏の同僚たちが残された原稿を整理して死後出版した。トルベツコイは1938年にウィーンで亡くなっている。

 こういうのを見ると言語学の歴史を肌で感じているような気がして畏敬の念に打たれる。なんだかんだ言ってヨーロッパの学問文化は重みというか蓄積があるな、とヒシヒシと感じてしまうのはこんな時だ。

 トゥルベツコイや構造主義言語学のヤコブソンなどコスモポリタンな一般言語学者というイメージが定着しているので、トゥルベツコイが古教会スラブ語の本を書いているのを見たり、ヤコブソンが「ロシア語аканье(アーカニエ。ロシア語で母音oがアクセントのない位置でaと発音される現象。『6.他人の血』の項参照)について」などというタイトルの論文を書いてるの見たりするとむしろ「えっ、この人たちこんなローカルな話題の論文も書くの?!」とむしろ意外な気がする。さらにトゥルベツコイがロシア語で書いているのを見て「そうか、トゥルベツコイやヤコブソンってロシア語も出来るのか…」とか馬鹿なことで感動したり。話が逆だ。ロシア語のほうが彼らの母語である。
 トゥルベツコイは妥協を許さない、いい加減なことができない人物だったらしく、当時の言語学者のひとりから「言語学会一の石頭」と褒められた(?)という。レスキーンはどういう人だったのだろう。ヤコブソンもそうだが、ド・ソシュールやチョムスキーなど、言語学者はイメージとしてどうも厳しそう、というか怖そうな人が多い。日本の服部四郎博士には私の指導教官の先生が一度会ったことがあるそうだが、「物腰の柔らかい、親切な紳士だった」と言っていた。でも一方で、東大で博士の音声学の授業に参加した人は、氏が「音声学ができないのは耳が悪いからではなく頭が悪いからだ」と発言したと報告している。やっぱり怖いじゃないか。

 「言語学者」の範疇には入らないかもしれないが、ミュケーナイの線文字Bを解読したマイケル・ヴェントリスの人物に関しては次のような記述がある。線文字Bで書かれているのはギリシア言語の知られうる最も古い形、ホメロスのさらに700年も前に話されていた形だが、ヴェントリスはそれを解読した。その経歴はE. Doblhoferの書いたDie Entzifferung alter Schriften und Sprachen(古代の文字および言語の解読)という本に詳しいが、その人生の業績の頂点にあった時、交通事故によりわずか34歳の若さで世を去った氏を悼んだ同僚J.チャドウィックの言葉が述べられている(280-281ページ):

Es war bezeichnend für ihn, daß er keine Ehrungen suchte, und von denen, die er empfing (...) sprach er nicht gern. Er war stets bescheiden und anspruchslos, und sein gewinnendes Wesen, sein Witz und Humor machten ihn zu einem überaus angenehmen Gesellschafter und Gefährten. Er scheute keine Mühle für andere und stellte seine Zeit und Hilfe großzügig zur Verfügung. Vielleicht werden nur die, die ihn kannten, die Tragödie seines frühen Todes ganz ermessen können.

「彼の彼らしかった点は、世の賞賛を集めよう、などとはまったくしようとしなかったこと、そして受け取ってしまった賞賛の話を(…)するのは嫌がったことだ。常に謙虚で無欲で、人を魅了せずにはおかないその人となり、ウィットとユーモアで、本当に付き合うのが楽しい人だった。面倒な顔もせずにいつでも他人のために時間をさいてくれ、手助けをしてくれるのにやぶさかではなかった。ひょっとしたら、彼を知っていた者達だけが、その早い死が如何に大きな損失かを本当に理解できるのではなかろうか」

 ヴェントリスは本業が建築家で、言語学は趣味だった。チャドウィックはバリバリの本職言語学者だったが、「素人」のヴェントリスと互角の言語学者として付き合い、「解読の先鞭をつけたのはヴェントリス、私は歩兵のようなもので、単に地をならし、橋を架けて進みやすいようにしただけだ」と言っている。チャドウィックの謙遜・無欲も相当なものだ。
 すると言語学者が「怖い」のはいい加減に知ったかぶりでものをいう人に対してだけで、きちんとした知識のある研究者に対しては腰も低く親切だということか。やっぱり私にとっては怖いじゃないか。

 それにしても、私が死んだら私の友人は何と言ってくれるか、想像するだけでそれこそ怖い。

「彼女の彼女らしかった点は、目立ちたがりで、たまに誉められたりするとすぐ図に乗ってひけらかしたことだ。出しゃばりで、注文が多く、鼻をつままれるその人となり、下品なギャグと笑えない冗談で、できれば避けたい人だった。何か頼まれるとすぐ渋い顔をし、しつこく手助けの恩を着せたがった。ひょっとしたら、彼女を知っていた者は、本当に死んで良かったと胸をなで下ろしているのではなかろうか」

 ヴェントリスとは差がありすぎる…。

 ところで私はあの、泣く子も黙る大言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールと誕生日が一日違いなのだが、この一日の差が死を招いてしまったのだと思っている。たとえばチンパンジーとホモ・サピエンスはたった1パーセントくらいしかDNAが違わないそうだが、後者が月まで行けたのに対し、前者はちょっと大きな川があるともう越えることができずにボノボという亜種を発生させてしまうほど差が開いてしまった。私とソシュールもたった一日の差で向こうは大言語学者に、こちらは言語学的サルになってしまったのだと思っている。そしてさすがサルだけあって私は長い間フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の名をフェルディナンド・ソシュールかと思っていたのであった。


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 一般言語学の教授が一度国粋主義・民族主義を嫌悪してこんなことを言っていたことがある。

「ナチスがヨーロッパのユダヤ人やロマを「浄化」したが、彼らの母語イディッシュ語やロマニ語がどんなに言語融合現象の研究やドイツ語学にとって重要な言語だったか彼らにはわかっているのか(わかってなかっただろう)。そんな貴重な言語のネイティブ・スピーカーをほとんど全滅させてしまった。惜しんでも惜しみきれない損害。」

さらにいわせて貰えばプラーグ学派の構造主義言語学が壊滅してしまったのもトゥルベツコイが早く亡くなったのもヒトラーやスターリンのせいである。ネイティブスピーカーばかりでなく研究者までいなくなっては研究は成り立たない。それまでは世界の言語学の中心はヨーロッパだったが以後は優秀な学者が亡命してしまったためと、国土が荒廃して言語学どころではなくなったため、中心がアメリカに移ってしまった。

 そもそもナチスがやたらと連発した「アーリア人」という名称は実は元々純粋に言語学の専門用語で、人種の民族のとは本来関係ないのである。「アーリア人」という用語を提唱したフリードリヒ・ミュラーという言語学者本人が1888年にはっきりと述べているそうだ。

「私がアーリア人という場合、血や骨や髪や頭蓋のことなど考えているのではないと、何度も繰り返してはっきりと言ってきた。私はただ、アーリア語系の言語を話す人々のことを言っているにすぎないのだ。アーリア人種とか、アーリアの血、アーリアの眼、アーリアの髪などという民俗学者は、私には、短頭の文法などという言語学者とまったく同じ罪人のように思われる。」

だからもしアメリカ生まれの日本人が英語を母語として育てば立派なアーリア人だし、そもそもロマはドイツ人なんかよりよっぽど由緒あるアーリア人である。
 上で述べた教授も、「ナチスのせいで本来中立な言語学の用語であった「アーリア語族」という用語が悲劇的な連想を誘発するようになってしまい、使えなくなった」と嘆いていた。だいたい「印欧語」という折衷的な名称は(ドイツで以前使われていた「インド・ゲルマン語族」は論外)不正確な上誤解を招くのでできることなら使わないほうがいいのだ。これだと「インド」と「ヨーロッパ」との間に一線画せるような間違った印象を抱かせる上、インドで話されているのは印欧語だけではないからこの名称は本来全く意味をなさない。普通の神経を持っている者ならヒッタイト語やトカラ語を「インド・ヨーロッパ語族」などとは呼びたくないだろう。「アーリア語族」という名称が使えれば全て丸く収まるのである。
 その、本来最適であった中立的名称を使えなくしてしまったのは言語学ドシロートの国粋主義者である。もっとも「母語」、「民族」、「国籍」という全く別の事象を分けて考えられない人は結構いるのではないだろうか。

 さて言語学者が嫌うのは特定の言語話者を低く見ることばかりではない。その逆、特定の言語を他言語より優れたものと見なして自己陶酔する民族主義者も嫌悪する。
 時々、安易に「日本語は世界でも特殊な言語だ」とか「優れた言語だ」と言って喜んでいる人がいる。不思議なことにそういう、「日本語の特殊性」と無闇に言いだす人に限ってなぜか比較対照にすべき外国語をロクに知らなかったり、ひどい場合は日本語を英語くらいとしか比較していない、いやそもそも全く外国語と比較すらしていない場合が多い。難しいの珍しいのなどといえるのは日本語を少なくとも何十もの言語と比べてみてからではないのか?日本語しか知らないでどうやって日本語が「特殊」だとわかるのだろう。例えば日本語を英語と比べてみて違っている部分を並べ立てればそりゃ日本語は「特殊」の連続だろうが、裏を返せば英語のほうだって日本語と比べて特殊ということになるのではないだろうか。そもそも特殊でない言語なんてあるのだろうか。
 以前筑波大学の教授だったK先生が、この手のわかってもいないのに得意げに専門用語を振り回す者(例えば私のような者とか)に厳しかった。私は直接授業は受けたことはないが、書いたものを読んだことがある。どこの馬の骨ともわからない者の書いたエッセイ(例えばこのブログとか)とか評論、時によると小説などを鵜呑みにして「日本語は特殊で世界でも珍しい言語だ」とかすぐ言い出す人々を先生は、Japan-is-unique-syndromeと揶揄、つまりビョーキ扱いしていた。いったい日本語のどこが珍しいのかね? 母音は5つ、世界で最もありふれたパターンだ。主格・対格の平凡きわまる格シスム。「珍しい」と自称するなら能格くらいは持っていてから威張ってほしいものだ。

 確かにこれら言語学者たちの言葉はヒューマニストのものとして響く。そこに共通しているのは人間を肌の色や民族で差別することに対する怒りだからだ。しかし私はこれを「ヒューマニズム」と呼んでいいのか、と聞かれると無条件で是とは答え得ないのである。意地の悪い見方をすれば上の教授が痛恨がったのは言語の消滅であって人間の消滅ではないからだ。
 たしかに実際問題として言語はネイティブスピーカーという人間なしでは存在しえないし、「言語」は人間として本質的なものだ。「人類は言語によって他の動物から区別される」「言語がなかったら文明も文化も、つまり人類の創造物はすべて存在し得なかった」と本に書いてあるのを何回も見た。だから言語と人間は不可分なわけで、その意味では上の言語学者は結果としてヒューマニストである。その怒りは事実上人間を差別したり、自分たちを特殊な存在と考えたりすることへの嫌悪なのだが、いわゆるヒューマニズムとは完全にはイコールでないような気がしてならない。

 言語学者にあるのは、未知の現象と遭遇しえた喜び、あるいは話には聞いていた・理論としては知っていたが実際には見たことがなかった現象(言語)を実際にこの眼で目撃しえたという純粋な喜びだ。確かにこういう純度の高い喜びの前では国籍の民族の肌の色の眼の色のなどという形而下の区別など意味をなさないだろう。
 実は私もさる言語学の教授を狂喜させたことがある。私の母語が日本語だとわかると、教授は開口一番、「おおっ、では無声両唇摩擦音をちょっと発音してみてくれませんか?」と私に聞いてきた。そんなのお安い御用だから「ふたつ、ふたり、ふじさん」と「ふ」のつく単語を連発してみせたら、「うーん、さすがだ。やっぱりネイティブは違う」と感動された。後にも先にもこの時ほど人様が喜んてくれたことはない。
 でもこれを「ヒューマニズムの発露」と受け取っていいかというと大変迷うところだ。

 しかし一方ヒューマニズムという観念自体定義が難しいし、「やらぬ善よりやる偽善」という言葉もあるように「結果としてヒューマニズム」「事実上のヒューマニズム」というのもアリなのではないかとは思う。最初に抽象度の高いヒューマニズムという観念が与えられて各自がそれを実行・実現する、という方向とは逆に、最初に各自それぞれ人間という存在に何かしら具体的な尊厳を感じ取って守る。言語学者は言語がそれだが、他の人はまた人間の別の要素に犯しがたい崇高なものを感じ取る、そういう、各自バラバラに感じ取った神聖不可侵感をまとめあげ積みかさねていったものが「ヒューマニズム」という観念として一般化・抽象化される、そういう方向もアリだと。


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 人工言語あるいは計画言語として知られているのものには、草案段階のものから完成したものまで含めると1000言語くらいあるそうだ。17世紀頃からすでにいろいろな哲学者や自然科学者が試みている。言語学者のイェスペルセンによるノヴィアルNovial、哲学者ブレアらによるインターリングアInterlingua、カトリック僧のシュライヤーによるヴォラピュークVolapükなどが知られているが、なんと言っても有名なのはポーランドの眼科医ザメンホフ(日本語では「ザメンホフ」と「メ」にアクセントを置いて発音しているがこれは本当は「ザ」に強調して「ザーメンホフ」というのが正しいような気がするのだが)によるエスペラントEsperantoだろう。実用段階まで完成を見た計画言語はこのエスペラントだけだ。後にこれを改良したイドIdo(エスペラントで「子孫」の意味)という言語をイェスペルセンらが唱えたが、エスペラントに取って変わることは出来なかった。
 エスペラントは1887年に発表されたが、20世紀の前半には世界中に受け入れられて「エスペラント運動」として広まった。日本でも有島武雄や宮沢賢治がこの言語をやっていたそうだ。二葉亭四迷もエスペラントについての論評を書いている。この言語が発表された直後いち早く運動が広がったのはロシアだったそうだから二葉亭はロシア語経由でエスペラントの存在を知ったのだろうか。しかし一方この運動は、特定の民族が非支配民族に押し付けた言語ではない、世界のあらゆる民族が対等の立場で使える共通言語としてのエスペラントを掲げ、反ナショナリズム、あらゆる民族の平等・連帯、世界平和という理想を目指した一種の社会運動だったから、当然ナチスドイツには弾圧されたし軍国主義の日本でも白い目で見られた。下手をすると現在の日本にもエスペランティストを「お花畑」の「人権屋」の「ブサヨ」のといって罵る人がいるかも知れない。
 残念ながらと言っていいのかどうか、二次大戦後は英語が事実上の世界共通語となってしまったため、世界共通語としてのエスペラントはややその存在意義を失ってしまったが、1980年代には日本でもまだ結構盛んに学習されていた記憶がある。
 そういえば当時、あまりエスペラントを研究している言語学者がいないと指摘する声を聞いたことがある。「君子エスペラントに近寄らず」という言語学者間での暗黙の了解でもあるのか、と誰かが何処かで書いていた。ドイツでも私が学生であった期間、エスペラントが授業やワークショップでテーマになったことは一度もないし、何年か前にはなんと「エスペラント」という言語の存在を知らない学生に会ったことがある。確かに「未知の言語の構造を解き明かし記述する」のが仕事の人にはエスペラントは研究対象にはなりにくいだろうが、社会言語学とか、言語の獲得、ニ言語間の干渉問題が専門の人ならば十分研究対象になるだろう。「エスペラントは母語になりうるか」とか「使用者の母語によってエスペラントは違いを見せるか」なんてテーマはとても面白そうだし、実際に地道に研究している人もいるらしい。先日の新聞でも最近エスペラント学習者が増えつつある、という記事を見かけた。言語学者から特に冷たく扱われているということはなさそうだ。第一ウィキペディアにもエスペラントが使われているし電子辞書の類も多い。コンピューター時代を迎えて、再び「人工言語」というものへの関心が強まったのだろうか。
 もっともこの計画言語が発表された当時は当時言語学の主流であった比較言語学の大家ブルークマンやレスキーン(『26.その一日が死を招く』の項参照)から完全に継子扱いされたらしい。「こんなものは言語学ではない」というわけか。しかし肯定的にみる言語学者もいた。アントワーヌ・メイエやボドゥアン・デ・クルトネなどは肯定的だったそうだ。後にアンドレ・マルティネもまたエスペラントを擁護している。大物言語学者が結構支持しているのである。

 さて、私はレスキーンでもメイエでもない単なるおバカな野次馬であるが、話を聞くとなにやら面白そうな言語なのでちょっと近寄ってみた。例えばこういう文章だが:

羊と馬たち

もう毛のない羊が馬たちを見た。
そのうちのあるものは重い車を引き、
あるものは大きな荷物を、
あるものは人をすばやく運んでいくのを。

羊は言った:
心が痛む。人間が馬たちを駆り立てるのを見ている私には。
馬たちは言った:
聞け羊よ。心が痛む、こういうことを知っている私たちには。
主人である人間が羊の毛を自分のために暖かい衣服にしてしまう。
それで羊には毛がない。

これを聞いて羊は野へ逃げて行った。

このテキストを無謀にも私がエスペラントに訳すと次のようになった。そこら辺の辞書だろ文法書だろをちょっと覗いてみただけなのでエスペランティストの人が見たら間違っているかもしれない。請指摘。

La Ŝafo kaj la Ĉevaloj

Ŝafo, kiu jam ne havis neniun lanon, vidis ĉevalojn,
unu el ili tiri (tirante?) pezan vagonon,
unu porti (portante?) grandan ŝarĝon,
unu (porti/ portante) viron rapide.

La ŝafo diris al la ĉevaloj:
La koro doloras al mi, kiu mi ridas homon peli (pelante?) ĉevaloj.
La ĉevaloj diris:
Aŭskultu, ŝafo, la koroj doloras al ni, kiu ni scias tion ĉi:
homo, la mastro, faras la lanon de ŝafoj je varma vesto por li mem.
Kaj la ŝafo ne havas lanon.

Aŭdinte tion, la ŝafo fuĝis en la kampon

関係節でkiu mi (who I/me)のように関係代名詞と人称代名詞を併記したのは故意である。ドイツ語のich, die ich kein Afrikaans kann, (アフリカーンス語が出来ない私、英語に直訳すればI, who I cannot Afrikaans)などの構文に従ったため。どうも二種の代名詞を併記したほうがすわりがいいような気がしたのである。また、前置詞の選択に困ったときはjeを使いなさいと文法書で親切に言ってくれていたので、さっそく使ってしまった。「毛を暖かい服にする」の「に」、この文脈で使うドイツ語のzuをどう表現したらいいかわからなかったのである。

 人工言語・計画言語ではアプリオリな計画言語、アポステオリな計画言語、それらの混合タイプの3種類を区別するそうだ。アプリオリな計画言語とは自然言語とは関係なく哲学的・論理学的な原理に従って構築されたもの、アポステオリな計画言語は一つあるいは複数の自然言語をベースにしたもの、混合タイプはその中間である。しかし考えるとこれは「計画言語を3種のカテゴリーに分ける」というより純粋なアプリオリタイプと純粋なアポステオリタイプを両極として、その間に様々な段階の計画言語が存在する、つまり連続したつながりと見たほうがいいだろう。
 いわゆる標準語とか共通語などはある意味人工的に設定された計画言語だが、これらは「限りなく自然言語に近い計画言語」、極致的にアポステオリな計画言語と言えるのではないだろうか。もっともこういう共通語が上述の1000言語の中に勘定されているとは思えないが。対してエスペラントは文法規則や単語など確かに様々な自然言語から持ってきているが、出所不明の部分、つまりザメンホフが純粋に頭の中で考えだした要素も少なくないから、ずっとアプリオリ寄りである。

 エスペラントよりはアポステオリ寄りだが共通語よりはアプリオリ寄りという計画言語として私が思いつくのは例の「印欧祖語」というアレである。これも上の1000言語には入っていそうもないが、過去から現在までの様々な言語を徹底的に調べたデータから論理的に帰納した(普通は印欧語「再建」と言っているが)立派な計画言語ではないだろうか。
 最初にこの「再建」を試みたのはアウグスト・シュライヒャーで、上に挙げたわざとらしい文章は実はシュライヒャーが自分で再建した印欧祖語で書いた寓話を訳したのである。一般に「シュライヒャーの寓話」として知られているテキストで、1868年に発表された。

Avis akvāsas ka

Avis, jasmin varnā na ā ast, dadarka akvams,
tam, vāgham garum vaghantam,
tam, bhāram magham,
tam, manum āku bharantam.

Avis akvabhjams ā vavakat:
kard aghnutai mai vidanti manum akvams agantam.
Akvāsas ā vavakant:
krudhi avai, kard aghnutai vividvant-svas:
manus patis varnām avisāms karnauti svabhjam gharmam vastram avibhjams
ka varnā na asti.

Tat kukruvants avis agram ā bhugat.

 シュライヒャーの祖語はサンスクリットに似ていたが、その後研究が進んで、サンスクリットはそれなりに印欧祖語からは離れていたはずだということが次第にはっきりしてきたため、シュライヒャーのほぼ70年後、1939年に再び祖語再建を試みたヘルマン・ヒルトのバージョンは特に母音構成が大きく違っている。

Owis ek’wōses-kʷe

Owis, jesmin wьlənā ne ēst, dedork’e ek’wons,
tom, woghom gʷьrum weghontm̥
tom, bhorom megam,
tom, gh’ьmonm̥ ōk’u bherontm̥.

Owis ek’womos ewьwekʷet:
k’ērd aghnutai moi widontei gh’ьmonm̥ ek’wons ag’ontm̥.
Ek’wōses ewьwekʷont:
kl’udhi, owei!, k’ērd aghnutai vidontmos:
gh’ьmo, potis, wьlənām owjôm kʷr̥neuti sebhoi ghʷermom westrom;
owimos-kʷe wьlənā ne esti.

Tod k’ek’ruwos owis ag’rom ebhuget.

 さらに2013年にもアンドリュー・バードAndrew Byrdが再建している。

H₂óu̯is h₁éḱu̯ōs-kʷe

 h₂áu̯ei̯ h₁i̯osméi̯ h₂u̯l̥h₁náh₂ né h₁ést, só h₁éḱu̯oms derḱt.
só gʷr̥hₓúm u̯óǵʰom u̯eǵʰed;
só méǵh₂m̥ bʰórom;
só dʰǵʰémonm̥ h₂ṓḱu bʰered.

h₂óu̯is h₁ékʷoi̯bʰi̯os u̯eu̯ked:
dʰǵʰémonm̥ spéḱi̯oh₂ h₁éḱu̯oms-kʷe h₂áǵeti, ḱḗr moi̯ agʰnutor.
h₁éḱu̯ōs tu u̯eu̯kond:
ḱludʰí, h₂ou̯ei̯! tód spéḱi̯omes, n̥sméi̯ agʰnutór ḱḗr:
dʰǵʰémō, pótis, sē h₂áu̯i̯es h₂u̯l̥h₁náh₂ gʷʰérmom u̯éstrom u̯ept,
h₂áu̯ibʰi̯os tu h₂u̯l̥h₁náh₂ né h₁esti.

tód ḱeḱluu̯ṓs h₂óu̯is h₂aǵróm bʰuged.

hにいろいろ数字がついているのはいわゆる印欧語の喉音理論を反映させたのであろう(『24.ベレンコ中尉亡命事件』の項参照)。いかにも現代の言語学者らしく、音声面に重きをおいていることがわかる。
 まあこうやって見ている分にはゾクゾクするほど面白いが、この印欧祖語はエスペラントのように実際の言語使用には耐えないだろう。名詞は多分8格あって、数は単・双・複の3つ、動詞の変化も相当複雑なことになっていたろうし、ちょっと学習できそうにない。さらにエスペラントはその体系の枠内で新しい単語を作り出すことが出来るが、印欧祖語はあくまで「再建」だから造語力というものがない。再建した学者本人たちもまさかこれをラテン語や英語の代わりに世界語として使おうとは思っていなかっただろう。特に2013年のバージョンを見るとそれこそ「近寄るべからず」と言われているような気になる。


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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 いつだったかTVでニュースを見ていたら、イタリアの政治家に、名前が-xiで終わっている人がいたのでおやと思った。これはアルバニア語の名前である。-ajで終わっている名前の俳優を一度マカロニウエスタンで見かけたことがあるが、これもアルバニア語だ。どちらも語尾にばかり気をとられて名前そのものは忘れてしまった。メモでもとっておけばよかった。
 『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』の項で述べたようにイタリアは実は多民族国家で、その有力な少数民族の一つが南イタリアのギリシャ人だが、アルバニア人も多い。アルバニア語も少数言語として正式にイタリア政府に承認されている。もっともイタリア人よりも前からイタリア半島に住んでいたギリシャ人と違ってアルバニア人は比較的新しい時代になってから移住してきたのだそうだ。もっとも新しい時代といっても14世紀から15世紀のことだから日本で言えば室町時代、十分古い話ではある。もちろん世界がグローバル化するはるか以前である。
 南イタリアのほかにシチリアにもアルバニア語・アルバニア人地域がある。上述の項で紹介した元マフィアの組員も、自分の家族はギリシャ人、つまりギリシャ語を話すイタリア人だが、近所にはアルバニア人も多くいて両グループ間の抗争が絶えなかったそうだ。地図を見ると確かに両民族の居住地が重なっている。
 アルバニア人はもともとキリスト教徒だった。畢竟ローマ・カトリックのイタリア(当時はイタリアという統一国家はまだなかったが)と精神文化の面で繋がりが強かったらしく、例えば印刷された最古のアルバニア語文献は1555年にジョン・ブズクGjon Buzukuという僧が聖書を訳した188ページのテキストで、一部破損しているが原本がバチカン図書館に保管されているそうだ。言語そのものの断片的な記録はもうすこし古い時代のものが残っているらしいが、他の印欧語と比べるとアルバニア語はあまり時代を遡れない。
Bozukuによるアルバニア語テキスト。ウィキペディアから。
Buzuku_meshari

 トルコの支配下に入ってからはアルバニアにはイスラム教が広まったが、現在でも人口の20%はギリシャ正教、カトリックも10%ほどいるとのことだ。その10%の中からあの聖女マザー・テレサが出たわけである。
 20世紀になってからもイタリアの皇帝ビットリオ・エマヌエレ3世がアルバニアの皇帝もかねたりしていたから、距離の近いアルバニアからはさらにイタリアへの移住が増えたことだろう。これもいつだったか、ニュースを見ていたら、今日びはイタリアのいわゆる開発の遅れたアプーリア地方の人たちが新天地を求めて逆にアルバニアに渡り、そこで事業を起こしたり工場を建てたりする例が増えているそうだ。人件費が安いからだろう。

 アルバニア語はギリシャ語と同じく一言語で一語派をなしているが、二大方言グループ、ゲグ方言とトスク方言がある。以前にも書いたように(『39.専門家に脱帽』参照)これらの間には音韻的な差があって、トスク方言では r である部分がゲグ方言では n になる。上述の項でも例を挙げたがその他にも「ワイン」という言葉がそれぞれvenë (ゲグ方言)とverë(トスク方言)となっている。さらに元は鼻母音だったâがトスク方言ではシュワーのëになって、コピュラのâshtë(ゲグ方言)がトスク方言ではështë。文法にもいろいろ違いがあるそうだ。イタリアのアルバニア語は本来トスク方言に属するが、長く本国を離れていたため独自の発展を遂げた部分も多く、これを第三の方言と見なす人もいる。面白いことに上述のカトリック僧Buzukuは北アルバニアの出身で訳に使った言語はゲグ方言である。

 また「ギリシャ」という名称がギリシャ本国でなく元来イタリアのギリシャ人を呼ぶものであったのと同様(本国では「ヘラース」、再び『83.ゴッドファーザー・PARTⅠ』参照)、「アルバニア」という名称も実はイタリアやギリシャのアルバニア人のことである。彼らが自分たちをアルバレシュalbëreshëとよんでいたので、イタリアでアドリア海の向こう側の本国まで「アルバニア」と呼び出したのだ。アルバニアではアルバニアのことを「シュキプタール」という。
 アルバニア語はいわゆるバルカン言語連合(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)の中核をなす言語である。早くから言語学者の興味を引いていたようで、1829年にバルカン言語学誕生の発端となった論文を書いたスロベニアの学者コピタルもアルバニア語に言及している。Albanische, walachische und bulgarische Sprache(アルバニア語、ワラキア語、ブルガリア語について)というタイトルの論文だが、すでにバルカン言語連合の中核3言語の相似性を見抜いている。この三言語がシンタクスなどの面でnur eine Sprachform, aber mit dreyerlei Sprachmaterie(言語の形は一つなのに言語素材は三つ)であることを発見したのはコピタル。ついでに言うとこの論文からも判る通り、当時の言語学の論文言語はドイツ語が中心だった。
 そうやって印欧語学者がこの言語をよく知っている、少なくともこれがどういう構造の言語なのかくらいは皆心得ている一方で、アルバニア人やアルバニア文化そのものについての関心は薄く、私も未来系の作り方とか後置定冠詞とかどうでもいいことは授業で教わったがアルバニア人はどういう人たちなのかという肝心なことについては全く無知であった。今でも無知である。この調子だから私はヒューマニストにはなれないのだ(『54.言語学者とヒューマニズム』参照)。
 
 ところが先日、ドイツの大手民放がヴィネトゥ映画3部作(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)をこれも3部作のTV映画としてリメイクした。元の映画でオールド・シャターハンドをやったレックス・バーカーもヴィネトゥのピエール・ブリースもすでになくなっていたし、生きていても年をとりすぎていてあのアクション活動は無理だったろうから、現在のドイツの俳優を持ち出してきた。シャターハンドをやったヴォータン・ヴィルケ・メーリングWotan Wilke Möhringは顔は確かによく見かけるまあ有名俳優なのだろうが、バーカーに比べると容貌がショボすぎる感じで「こんなのがあのシャターハンド?!」と一瞬思ってしまったが(ごめんなさいね)、ヴィネトゥ役をやった人はブリースとはまた違ったカリスマ性があり、若くハンサムで正直驚いた。私はドイツのTV番組は基本的に公営放送のニュースやドキュメンタリー番組と、民放ではマカロニウエスタンしか見ないので、確かに人気俳優などは余り知らない。しかし知らないと言っても顔はどこかで見たことがあるのが普通だったが、このヴィネトゥ役の俳優は全く顔さえ見たことがなかった。どうしてこんなイイ男に気づかなかったんだろうといぶかっていたら、それもそのはず、アルバニアのニク・ジェリライNik Xhelilajという俳優だった。名前にXh という綴りが入りajで終わっているあたり、これ以上望めない程アルバニア語である。ジェリライ氏は本国ではスターだそうだ。
リメイク映画「ヴィネトゥ」から。右がドイツの俳優メーリング
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これも「ヴィネトゥ」から
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普通の格好(?)をしたジェリライ氏 http://diepresse.comから
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ニク・ジェリライという俳優は日本ではあまり知られていないだろうからこの際紹介の意味でもう一つオマケの写真
http://media.gettyimages.com
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 氏は顔がイケメンである上に声も涼しげないい声だったが、さらにしゃべるドイツ語がまた良かった。「うまい」というのではない、逆に本物のタドタドしいドイツ語だったのである。それはこういうことだ:
映画などで「外国人」あるいは「当該言語を完全にはしゃべれない」という人物設定にする際、その「不完全な言葉」というのがいかにもワザとらしくなるのがもっぱらである。どう見ても、どう聞いても本当はペラペラなのに意図的にブロークンにしゃべっていることがミエミエなのだ。一番「それはないだろう」と憤慨するのが文法・言い回しなどには取ってつけたような「外国人風の」間違いがあるのに発音は完璧というパターン。あるいはl とrを混同するなどのステレオタイプな発音のクセを 時おり挿入して外国人に見せるという姑息な手段。その際lとrは間違えてもCVCCやCCVCのシラブルの方はなぜかきちんと発音が出来、絶対CVVCVCVやCVCVVCVなどにはならない。本当はしゃべれるのにワザとブロークンにやっていることが一目瞭然だ。
 あるいは逆に俳優に訓練を施す余裕がなかったか、俳優に語学のセンスがなくて制作側がサジを投げたか、俳優が大物過ぎて監督が遠慮しデタラメな発音でもOKを出してしまったかして当該言語としてはとうてい受け入れられないような音声の羅列になるとか。そういう場合でもセリフそのものはネイティブの脚本家が書いたものだから発音はク○なのに言い回しは妙にくだけた話し言葉という、目いや耳を覆いたくなるような結果になる。名前は出さないがジェームス・ボンド役として有名なさる俳優がさる映画でしゃべっていたいわゆる日本語なんかも憤死ものだった。
 いずれにせよ、完全な不完全さ、自然な不完全さをかもし出すのは結構難しいのだ。ところが、このジェリライ氏のドイツ語は本当にブロークン、文法も初心者・耳で聞いて言葉を覚えた者がよくやる語順転換、変化語尾の無視などが現れていかにも自然な不完全さなのである。それでいて耳障りではない。顔のハンサムさや声のよさより私はこっちの方に感心した。もっともこれはジェリライ氏の業績・俳優としての技量もさることながら、スタッフの業績でもあるのかもしれないが。
 とにかく「ヴィネトゥ役にアルバニアのスターを起用」ということが珍しかったせいか、結構メディアでも報道されていた。そういえば以前「ヨーロッパで一番ハンサムが多いのは実はバルカン半島」と主張している女性がいたが、このジェリライ氏を見てなるほどと思ったことであった。

 さてそのアルバニア語は、どこかの言語学者も言っていたように、「語学というより言語学的な興味で始める人が多かろう」。印欧語の古いパラダイムをよく残している非常に魅力ある言語である。例として以下に çoj (take away, send) という動詞の変化パラダイムの一部を挙げるが、アオリストや希求法などがカテゴリーとしてしっかり残っており、これと比べるとドイツ語やロシア語などチョロイの一言に尽きる。たかがロシア語の不規則動詞ごときにヒーヒー言っていたり(私のことだ)、変化形を覚えたと言って鼻の穴を膨らませて自慢しているような輩(これも私のことだ)などは、ジェリライ氏に恥じろ。繰り返すが、これは動詞変化のごく一部、動詞部分が直接変化するパラダイムのそのまた一部である。これにまた接続法一連、完了体など助動詞や不変化詞による動詞パラダイム(アオリスト2もそれ)やそもそも受動体(これにもまた直説法現在形、接続法現在形などのパラダイムがオンパレード)などがガンガン加わってくるから、ここに示したのは動詞の変化形全体の10分の一にも満たない。もちろんこれは最も簡単な動詞で、他に不規則動詞も当然ある。ラテン語や現在のロマンス諸語より強烈なのではなかろうか。

直説法現在
             単数    複数
一人称  çoj            çojmë
二人称  çon           çojni
三人称  çon           çojnë

直説法未完了過去
             単数     複数
一人称  çoja           çojnim
二人称  çoje           çojnit
三人称  çonte         çojnin

アオリスト1
             単数   複数
一人称  çova           çuam
二人称  çove           çuat
三人称  çoi              çuan

アオリスト2
             単数       複数
一人称  pata çuar           patëm çuar
二人称  pate çuar           patët çuar
三人称  pati çuar            patën çuar

希求法現在
             単数    複数
一人称  çofsha         çofshim
二人称  çofsh           çofshi
三人称  çoftë            çofshin

意外法現在
             単数    複数
一人称  çuakam       çuakemi
二人称  çuake          çuakeni
三人称  çuaka          çuakan

命令法
単数  ço
複数  çoni

「意外法」というのはAdmirativのことである。まだ定訳がないようだが、法(Modus)の一種で、当該事象が愕いたり意外に思うようなことだった場合、この動詞形で表す。アルバニア語はバルカン現象のほかにこのAdmirativを動詞変化のパラダイムとして持っていることでも知られているようだ。
 また現在のロマンス諸語では強烈なのは動詞だけで、名詞の方は語形変化がないに等しいくらい簡略だがアルバニア語は名詞の格変化も思い切り保持している。悪い冗談としか思えない。

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 また昔話で恐縮だが1998年のサッカーのW杯の時、スペインチームに「エチェベリア」という名の選手がいたのでハッとした。これは一目瞭然バスク語だからだ。そこでサッカーそのものはそっちのけにして同選手のことを調べてみたら本当にバスク地方のElgóibarという所の生まれでアスレチック・ビルバオの選手だった。この姓は現在ではバスク語の正書法でEtxeberriaと書くがこれをスペイン語綴りにしたEchaverríaという姓もある。メキシコ人にもこういう名前の人がいる。スペイン語ではbとvとを弁別的に区別せず、どちらも有声両唇摩擦音[​β]で発音するからバスク語のbがスペイン語でvとなっているわけだ。

 日本の印欧語学者泉井久之助氏もこんな内容のことを書いていた。

第二次大戦の前、当時日本の委任統治領であったミクロネシアの言語を調査するため現地に赴いた。そのときサイパンの修道院を訪問したが、ここはかつてスペイン領だったのでカトリックの人は皆スペインから来た人であった。するとそこで隣の尼僧院の院長の名が「ゴイコエチェア」Goikoecheaだと知らされた。これはまさにバスク語である。

 泉井氏によればGoikoは「高い」という意味の形容詞でecheaが「家」だから、この名は「高家」とでも訳せる。goikoはさらにgoi-と-koに形態素分析でき、 goi-が形容詞の本体、-koは接尾辞である。バスク語は本来形容詞が名詞のあとに来るから、echegoikoになりそうなものだが、この-koという接尾辞がつくと例外的に形容詞は文法上属格名詞扱いされ、形容される名詞の前に立つそうだ。Goikoecheaの最後のaは定冠詞とのことである。つまりバスク語はいわゆる膠着語タイプの言語なのだ。
 面白半分でさらに調べてみたら1994年のW杯のスペイン代表にJon Andoni Goikoetxeaという名の選手がいたのでまた驚いた。この選手は所属チームはFCバルセロナだが、パンプローナの生まれだそうだ。見事に話の筋が通っている。このetxe- あるいはecheのつく名前はバスク語ではよくあるのかもしれない。上のEtxeberriaはEtxe-berri-aと形態素分析ができ、Etxe-が「家」(上述)、-berri-が「新しい」、最後の-aは定冠詞だからこの名前の意味はthe new houseである。

 日本人から見ればバスク語など遠い国の関係ない言語のようだが、実は結構関係が深い。日本にキリスト教を伝えた例のフランシスコ・ザビエルというのがバスク人だからである。一般には無神経に「スペイン人」と説明されていることが多いが、当時はそもそもスペインなどという国はなかった。
 ザビエル、あるいはシャビエルはナバーラ地方の貴族で、Xavierというのはその家族が城の名前。ナバーラはバスク人の居住地として知られる7つの地方、ビスカヤ、ギプスコア、ラブール(ラプルディ)、スール(スベロア)、アラバ、低ナバーラ、ナバーラの一つで、ローマの昔にすでにバスク人が住んでいたと記録にあり、中世は独立国だった。もっともフランス、カスティーリャ、アラゴンという強国に挟まれているから、その一部あるいは全体がある時はフランス領、またある時はカスティーリャの支配下になったりして、首尾一貫してバスク人の国家としての独立を保っていたとは言い切れない。例えば13世紀後半から14世紀前半にかけてはフランスの貴族が支配者であったし、1512年にはカスティーリャの支配下に入った。その後フランス領となり、例えばカトリックとプロテスタントの間を往復運動したブルボン朝の祖アンリ4世の別名はナヴァール公アンリといって、フランス国王になったときナバーラ王も兼ねた。ただしアンリはパリの生まれだそうだ。
 とにかくヨーロッパの中世後期というのは、どこの国がどこに属し、誰がどこの王様なのかやたらと複雑で何回教えて貰ってもいまだに全体像がつかめない。

 では一方ナバーラは二つの強国に挟まれたいわゆる弱小国・辺境国であったのかというとそうも言い切れないらしい。まずフランスやカスティーリャの支配といってもボス(違)はパリだろなんだろの遠くにいて王座には坐っているだけ、実際に民衆を支配し政治を司ったのは地元のバスク人貴族である。さらにどこの国の領土になろうが社会的にも経済的にもバスク人同士の結びつきが強かったようだ。ザビエルの生まれた頃に当時のカスティーリャの支配になった後も、ナバーラばかりでなくその周辺の地域に住むバスク人には民族としての習慣法が認められるなどの、カスティーリャ語でFueroという特権を持ち一種の自治領状態だったらしい。民族議会のようなものもあり、カスティーリャの法律に対して拒否権を持っていたそうだ。独自の警察や軍隊まで持っていた地域もあったそうだから、統一国ではないにしろ、いわば「バスク人連邦」的なまとまりがあったようだ。
 経済的にも当時この地域は強かった。14世紀・15世紀には経済状況が厳しかったようだが、16世紀になるとそれを克服し、鉄鉱石の産地を抱え、造船の技術を持ち、地中海にも大西洋にも船で進出し、今のシュピッツベルゲンにまでバスク人の漁師の痕跡が残っているそうだ。また、地理的にも北にあったためアラブ人支配を抜け出た時期も早く、イベリア半島の他の部分がまだアラブ人に支配されていた期間にナバーラ王国の首都パンプローナはキリスト教地域であった。カトリック国としては結構発言力があったのではないだろうか。
 
 ザビエルがバスク人だったと聞くと「どうしてバスク人なんかがわざわざ日本まで出てくるんだ」と一瞬不思議に思うが、中世後期のバスク地方のこうした状況を考えるとなるほどと思う。1536年にイエズス会を創立したイグナチウス・デ・ロヨラもまたバスク人だった。ただしナバーラでなく北のギプスコアの出身である。ザビエルはパリ大学でロヨラと会い、イエズス会に参加したのだ。バスク人同士のよしみということではなかったのだろうか。
 もちろんザビエルらが普段何語を使っていたかについての記録は残っていないが、おそらく少なくともカスティーリャ語あるいはフランス語とバスク語のバイリンガルだったのではないかと思われる。「少なくとも」と言ったのはバスク語が優勢言語だったかもしれないからだ。今日のバスク地方では300万人の住人のうちバスク語を話すのは22%だが、主に老人層とはいえバスク語モノリンガルがいまだに存在する。20世紀になってスペイン語話者がどんどん流入し、政治的にも内戦やフランコによる弾圧を経験してもバスク語は壊滅していない。ザビエルの時代にはずっとバスク語人口、しかもモノリンガル人口が多かったに違いない。
 もっともバスク語はずっと「話し言葉」だった。統一したバスク語文語の必要性はすでに17世紀頃から主張されていたが、この「共通バスク語」(バスク語でEuskera Batua)が実現を見たのはやっと20世紀になってからである。1918年にバスク語アカデミー(Euskaltzaindia)がギプスコアに創立されて第一歩を踏み出した。第一次世界大戦の最中だが、スペインは参戦していなかったから、隣国フランスへの特需などもあって当時はむしろ経済的には好調だったようだ。そのあと辛酸を舐めたが現在では言語復興運動もさかんで正書法も確立されている。

 さてザビエルの名前、Xavierであるが、これはもともとバスク語の名前がロマンス語化されたもので、もとのバスク名は驚くなかれEtxeberri。後ろに-aがないのでthe new houseではなく a new houseであるが、どちらも「新しい家」。サッカーの選手と同じ名前なのだ。このXavierあるいはJavierという名前は現在のスペイン語、カタロニア語、フランス語、ポルトガル語、つまりイベリア半島のロマンス語のみに見られ、イタリア語とルーマニア語にはこれに対応する名前がない。イタリア語、ルーマニア語はバスク語と接触しなかったからである。
 さらに驚いたことに私が今までスペイン語の代表的な名前だと思っていた「サンチョ」Sanchoはバスク語起源だそうだ。これはラテン語のSanctus(後期ラテン語では Sanctius)のバスク語バージョンで、905年にナバーラのパンプローナにバスク人の王国を立てた王の名前がSancho Garcés一世という。パンプローナ国の最盛期(1000-1035)に君臨していたこれもサンチョ三世という名前の大王は別名を「全てのバスク人の王」といったとのことだ。

 バスク語のことをバスク語でEusikera またはEusikaraというが、この謎の言語は16世紀からヨーロッパ人の関心を引いていた。これに学問的なアプローチをしたのがあのヴィルヘルム・フォン・フンボルトで、1801年に言語調査をしている。その後19世紀の後半にシューハルトがバスク語をコーカサスの言語と同族であると主張したりした。
 私のような素人がバスク語と聞いてまず頭に浮かべるのはこの言語が能格言語である、ということだろう(『51.無視された大発見』参照)。それだからこそバスク語はコーカサスの言語と同族だと主張されたりしたのだ。ロールフスという学者が北インドのやはり能格言語ブルシャスキー語と比較していたことについては以前にも述べた(『72.流浪の民』)。今日びでは能格言語を見せられても誰も驚いたりしないだろうが、フンボルトの当時はこういう印欧語と全く異質な格体系は把握するのに時間を要したに違いない。事実フンボルトはその1801年から1803年にかけて執筆したバスク語文法の記述にあくまで「主格」という言葉を使って次のように説明している。

Eine, die ich in keiner anderen Sprache kenne, ist, ist das c, welches der Nominativ an sich trägt, sobald das Subject als handelnd vorgestellt wird. Alle andern, mir bekannte Sprachen bezeichnen den Unterschied des verbi neutri und actiui nur an dem verbum selbst; die Vaskische deutet ihn schon vorher am Subject selbst an, indem sie demselben im letzteren Fall ein c anhängt. In den beiden Phrasen also: Gott lebt u. Gott schaft wird Gott in der ersten durch Jainco-a, in der letzteren durch Jainco-a-c ausgedrückt. Denn dies c wird, wie alle Praepositionen hinter den Artikel gesetzt;

筆者が他の言語では見たことのない前置詞のひとつがこの c で、主語が何らかの行為を行なうものとして表されると主格そのものがこれを担う。筆者の知る限り他の言語では全て中動態と能動態を区別をただ動詞自体の形によってのみ行なうが、バスク語ではこの区別をすでにそれより前、主語自体がつけているのである。それで主語が行為の主体であった場合は -c が付加される。例えば次の2例、Gott lebt (「神は生きている」)と Gott schaft(「神は創造する」)では、「神」が前者では Jainco-a、後者ではJainco-a-cと表現される。前置詞が全てそうであるように、この -c も定冠詞の後に付加されるからである。

Jainco-aは絶対格だが、-a は後置冠詞だから、細かく言えば絶対格の格マーカーはゼロ形ということになる。一方Jainco-a-c(またはJainco-a-k)は能格だから、-c は実は単なる格マーカーである。しかしフンボルトはこれを「主格マーカー+(特殊な)前置詞」と分析している。うるさく言えば(本当にうるさいなあ)後置詞というべきだろうが、いずれにせよ -a-c を「主格の特殊形」と見なすやりかたは1810頃の、ビルバオの言語を基にした言語記述でも引き継いでいる。さすがのフンボルトも「主格・対格」の枠組みを離れるのには苦労したようだ。能格言語の絶対格と能格の区別の本質そのものは理解しているからなお面白い。さらに例文にあげたGott lebt対Gott schaftで、後者の他動詞構文で目的語を抜かしてあくまで印欧語では主格に立つ主語だけを比較している。このGott schaftにあたるバスク語では目的語がGott lebtの場合のGottと同じ形になるはずだが、それは論じられていない。今なら「能格言語では他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格をとり、一方他動詞と自動詞では主語の格が違う」の一言ですむ簡単な事象でさえ、理解するのには先人の長い思索があったのだ。これは自然科学もそうだが、現在では小学生でも知っている事もそれを発見した当時最高級の頭脳の努力の賜物なのだということを思わずにはいられない。


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 私と誕生日が一日違いの(『26.その一日が死を招く』参照)言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの名は言語学外でも広く知られている。その「代表作」Cours de linguistique générale『一般言語学講義』以来、氏が記号学の祖となったからでもあろう。ラング、パロール、シニフィアン、シニフィエ云々の用語を得意げに(失礼)使っている人も多い。オシャレに響くからだろう。私も得意げに使っているので、大きな事はいえないが。
 が、これもよく知られていることだがその『一般言語学講義』はド・ソシュール自身が書いたものではない。ド・ソシュールの講義を受けたセシュエやバイイなどの学生が自分たちのノートを基にしてまとめたものである。あまり知られていないのがCours de linguistique généraleが世界で最初に外国語に翻訳されたのは日本語が最初であることだ。1928年小林英夫氏の訳である。私はこれを聞いた当時日本人の言語学への先見の明・関心が高かったためかと思って「さすが日本人」と言いそうになったが、これは完全に私の思慮が浅かった。Coursが他の国でそんなにすぐ翻訳されなかったのは、当時のヨーロッパではその必要がなかったからである。つまりフランス語などまともな教養を持っている者なら誰でも読めたからだ。現に当時の言語学の論文の相当数がフランス語で書かれている(下に述べるKuryłowiczクリウォヴィチの論文もフランス語である)。これは今でもそうで、例えば大学で論文を書くときドイツ語・英語・フランス語の引用文は訳さなくていい、という暗黙の了解がある。論文ではないがトーマス・マンの『魔の山』(『71.トーマス・マンとポラーブ語』参照)にも何ページもベッタリフランス語で書いてある部分がある。つまりCoursが真っ先に日本語に訳されたのは日本人が言語学に熱心だったからではなくて単に日本人の一般的語学力が低かったからに過ぎない。ずっと遅れはしたが日本語の次にCoursが翻訳された言語が英語だったことを考えるとさらに納得がいく。現在のヨーロッパの国ではイギリスがダントツに「外国語が最もできない国民」である、というアンケートの結果を見たことがあるのだ。

 その、ド・ソシュールの手によるものでない『一般言語学講義』が言語学外でもやたらと知られている一方、まぎれもなく氏本人の手による『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚書』Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennesという論文はあまり騒がれてもらえていない。言語学者としてのド・ソシュールの名前を不動のものとしたのはむしろMémoireのほう、俗に印欧語のソナント理論、後に喉音理論と呼ばれるようになった理論の方ではないかと思うのだが。ド・ソシュールが1879年に21歳で発表した印欧比較言語学の論文である。

 印欧語はご存知のように俗に言う屈折語で、語中音、特に母音が交代して語の意味や品詞、またシンタクス上の機能を変える。例えば「死ぬ」というドイツ語動詞の不定形はsterbenでeという母音が来るが、現在形3人称単数はstirbt と i になり、過去形3人称単数はstarb でa、接続法2式はstürbeで ü 分詞でgestorben と母音はoになる。子音は変わらない。祖語の時代からそうだったことは明らかで、19世紀の後半からメラーMøllerなど何人もの言語学者がセム語族と印欧語族とのつながりを主張していたのもなるほど確かにと思う。
 さてその印欧比較言語学の最も重要な課題の一つが印欧祖語の再建であったことは『92.君子エスペラントに近寄らず』の項でも書いたとおりである。基本的には印欧祖語の母音はa, e, i, o, u の5母音とその長音形ā,、ī、,ō、ē、ū と「印欧語のシュワー」と呼ばれる ə というあいまい母音と見なされている。最初から研究が進んでいた印欧語族、現在の印欧語や古典ギリシャ語、サンスクリットなどのデータを詳細に調べて導き出されたのだが、印欧祖語の母音組織についてはいまだに諸説あり最終的な結論は出ていない。i と u はむしろ半母音、つまりソナント(下記参照)、そして ī とū はei、oi、eu、ou などの二重母音の弱まった形だとされることもあるが、ā、ō、ē の3つの長母音は印欧祖語本来のものとみなすのが普通であった。これらの母音が上述のように語中で交代して意味や文法機能を変える。その母音交代現象(Ablaut、アプラウト)は祖語時点ですでに共時的に行なっていたのが、祖語がバラけるにつれて通時的にも母音が変化したから、交代のパターンをきっちり確定するのが難しくなっているわけである。
 様々な母音交代パターンがあるが、大きく分けると量的母音交代(quantitativer Ablaut,またはAbstufung)と質的母音交代(qualitativer AblautまたはAbtönung)の2群に分けられる。後者については印欧祖語にはe 対o またはō 対ē の交代があったと思われ、例えば古典ギリシア語のpatera (「父」、単数対格)対apatora(「父のいない」、単数対格)、patēr (「父」、単数主格)対apatōr(「父のいない」、単数主格)がこれを引き継いでいる。クラーエKraheという人はさらに a とo の交代現象に言及しているがこちらのほうは「非常にまれにしか見出せない」と述べているし、私の調べた限りではその他の学者は全員「印欧祖語のqualitativer Ablaut」としてe 対o しか挙げていなかった。母音交代ではゼロ(ø)形も存在する。サンスクリットのas-mi (「~である」、一人称単数現在)、s-anti(同三人称複数現在)はそれぞれ*es-mi 、*s-entiという形に遡ると考えられるが、ここの語頭でe と ø が交代しているのがわかる。
 前者のquantitativer Ablautは短母音とそれに対応する長母音、または短母音と二重母音間の交代である。e 対 ē のようなわかりやすい対応ばかりでなく、ā、ō、ē 対 ə、ei 対 i、 eu 対 u のような複雑なものまでいろいろな形で現れる。ラテン語tegō(「覆う」、一人称単数現在)対 tēxī(一人称単数完了)に見られるわかりやすいe・ē交代の他、古典ギリシア語のleipō(「そのままにする、去る」、一人称単数現在)対elipon(同一人称単数アオリスト)もまたこのquantitativer Ablautである。この動詞の一人称単数完了形はleloipaだから、母音交代はei 対oi 対 i かと思うとこれは実はe~o~ø。つまり一見様々な量的母音交代は割と簡単な規則に還元できるんじゃないかと思わせるのである。ド・ソシュールがつついたのはここであった。

 このゼロ交代現象で重要な意味を持ってくるのが音韻環境によって母音にもなり子音にもなるソナントと呼ばれる一連の音で、この観念を確立したのがブルクマンBrugmannという印欧語学者である。例えば、英語のsing~sang~sung、ドイツ語の werden~ward (古語、現在のwurde)~gewordenは祖語では*sengh-~*songh-~*s n gh-、*wert-~*wort-~*wr̥t-という形、つまりe~o~øに還元できるが、そのゼロ形語幹ではそれぞれn、rが母音化してシラブルの核となっている。こういう、母音機能もになえる子音をソナントと呼ぶが、印欧祖語にはr̥、l̥、m̥、n̥ (とその長母音形)、w、y(半母音)というソナントが存在したと思われる。「母音の r̥ や」はサンスクリットに実際に現れるがm̥ とn̥ についてはまだ実例が見つかっていないそうだ。ここで私が変な口を出して悪いがクロアチア語も「母音の r」を持っている。言い換えるとクロアチア語には母音 r のと子音の r の、二つrがあるのだ。rad (「作品」)の r は子音、trg (「市場」)の r  は母音である。
 さらに上述の古典ギリシャ語leipō~eliponの語根だが、祖語では*lejkw-~*likw-となり前者では i が子音、半母音の j (英語式表記だと y )だったのが後者では母音化し、i となってシラブルを支えているのがわかる。同様にu についても、半母音・ソナントの w が母音化したものとみることができるのだ。円唇の k が p に変わっているのはp ケルトと同様である(『39.専門家に脱帽』参照)。

 さて、話を上述の印欧祖語のシュワーに戻すが、ブルグマン学派ではこのə をれっきとした(?)母音の一つと認め、ā、ō、ēと交代するとした。サンスクリットではこの印欧語のシュワーが i、古典ギリシャ語とラテン語では aで現れる。だから次のようなデータを印欧祖語に還元すると様々なアプラウトのパターンが現れるわけだ(それぞれ一番下が再現形):

サンスクリットda-dhā-mi(「置く、なす」一人称単数現在)~hi-tas (ḥ)(同受動体分詞)
ラテン語fē-cī(「なす」一人称単数能動完了)~fa-c-iō(同一人称単数現在)
*dhē-~*dhə-

サンスクリットa-sthā-t(「立てる、置く」3人称単数アオリスト)~sthi-tas(同受動体分詞)
ラテン語 stā-re(「立てる、置く」不定形)~sta-tus(同分詞)
*stā-~*stə

サンスクリットa-dā-t (「与える」3人称単数能動態アオリスト)~a-di-sta/ adiṣṭa (同反射態)
(これは松本克己氏からの引用だが、氏はここでa-di-taという形を掲げていた。その形の確認ができなかったので私の勝手な自己判断でadiṣṭaにしておいた)
ラテン語dō-num(「賜物」)~da-tus(「与えられた」)
古典ギリシャ語 di-dō-mi(「与える」一人称単数現在)~do-tos(同受動体過去分詞)
*dō-~*də-

サンスクリットbhavi-tum(「なる」不定形)~bhū-tas(同受動体過去分詞)
*bhewə-~*bhū

古典ギリシャ語 gene-sis        ~   gnē-sios        ~     gi-gn-omai
                         (「起源」)  (「嫡出の」)     (「生まれる」不定形)
 (γενεσις~ γνησιος~ γιγνομαι)
*genə-~*gnē-~*gn

サンスクリットでは原母音のā、ō、ēが全てāで現れているのがわかる。最後の二つは2音節語幹だが、とにかく母音交代のパターンも語幹の構造もバラバラだ。ド・ソシュールはこれらを一本化したのである。
 ブルグマンらによれば印欧祖語のソナントr̥、l̥、m̥、n̥ はサンスクリットではaとなるから、サンスクリットの語幹がtan-対 ta-と母音交代していたらそれは印欧祖語の*ten-~*tn̥-に帰するはずである。ド・ソシュールは上のような長母音対短母音の交代もシュワーでなくこのソナントの観念を使って説明できると考えた。
 そこでまず印欧祖語にcoéfficient sonantique「ソナント的機能音」という音を設定し、それには二つのものがあるとしてそれぞれA、O(本来Oの下にˇという印のついた字だが、活字にないので単なるOで代用)で表した。その際ド・ソシュール自身はそれらはどういう音であったかについては一切言及せず、あくまで架空の音として仮にこういう記号で表すという姿勢を貫いた。
 この二つの「ソナント的機能音」が短母音を長母音化し、さらにその色合いを変化させるため、e+A=ēまたはā、e+O=ō, o+A=ō, o+O=ōの式が成り立つ、いや成り立たせることにする。いわゆるゼロ形ではA、Oは単独で立っているわけである。例えば上のラテン語 stā-re~sta-tusは*stā-~*stəでなく*steA-~*stA-、古典ギリシャ語 di-dō-mi~do-tosは*dō-~*də-でなく*deO-~*dOとなる。これはブルクマンが元々唱えていた*sengh-~*sn gh-(上述)、さらにleipō~eliponの*lejkw-~*likw-(これも上記)と基本的なパターンが全く同じ、CeC-のe~ø交代となる。最終的にはド・ソシュールは母音としては e のみを印欧祖語に認めた。
 このド・ソシュールの「式」のほうがブルグマンより説明力が高い例として松本克己氏はbhavi-tum~bhū-tas(上述)の取り扱い方を挙げている。ド・ソシュールの説ではこれも*bhewA-~*bhwA-という単純なe~ø交代に還元でき、*bhewA-ではソナントAがw と t に挟まれた子音間という環境で母音化して祖語の ə つまりサンスクリットの i (上述)となり、*bhwA-ではソナント(半母音)wがbhと Aに挟まれた、これも子音間という環境で母音化してu になる。さらにこれがソナントAの影響によって長母音化して最終的にはūになるのである。見事につじつまが取れている。それに対してシュワーの ə を使うときれいなCeC-解釈ができない。この交代は*bhewə-~*bhwə-と見なさざるを得ず、後者の*bhwə-が「印欧祖語のəはサンスクリットの i」という公式に従ってbhvi-で現れるはずであり、bhū-という実際の形の説明がつかない。といってū-をそのまま印欧祖語の母音とみるやり方には異論がなくないことは上でも述べた。

 しかしド・ソシュールのこのアプローチは言語学で広く認められることとはならなかった。このような優れた点はあってもまだ説明できない点や欠点を残していたことと、当時のデータ集積段階ではブルグマンの母音方式で大半の説明がついてしまったからである。もっとも数は少なかったがド・ソシュールと同じような考え方をする言語学者もいた。例えば上述のメラーMøllerは既に1879年に印欧祖語のā、ō、ēは実はe+xから発生したものだと考えていたし、フランスのキュニーCunyもこの、「印欧祖語には記録に残る以前に消えてしまった何らかの音があったに違いない」というド・ソシュール、メラーの説を踏襲して、それらの音をド・ソシュールのA、Oでなく、代わりにə1、 ə2、 ə3という記号で表した。その際これらの音は一種の喉音であると考えた。キュニーはこれを1912年の論文で発表したが、基本的な考えそのものはそれ以前、1906年ごろから抱いていたらしい。さらにド・ソシュール本人も1890年代にはAを一種のh音と考えていたそうである。

 情勢がはっきり変わり、この「喉音理論」が言語学一般に認められるようになったのは1917年にフロズニーHroznýによってヒッタイト語が解読され、印欧語の一つだと判明してからである。
 ヒッタイト語にはḫまたはḫḫで表される音があるが、これを印欧祖語の子音が二次的に変化して生じたものと解釈したのでは説明がつかなかった。結局「この音は印欧祖語に元からあった音」とする以外になくなったのだが、この説を確立したのが上でも名前を出したポーランドのKuryłowiczクリウォヴィチである。1927年のことだ。その時クリウォヴィチはこのḫがまさにド・ソシュールの仮定したAであることを実証してみせたのである。ただし彼もキュニーと同じくə1、 ə2、 ə3の3つの記号の方を使い、e+ ə1= ē、 e+ə2= ā、 e+ə3=ōという式を立てた。つまりə2がド・ソシュールのAに対応する。
 例えば次のようなヒッタイト語の単語とその対応関係をみてほしい。左がヒッタイト語、右が他の印欧語。「ラ」とあるのはラテン語、「サ」がサンスクリット、「ギ」が古典ギリシャ語、括弧の中がシュワーを用いた印欧祖語再建形である。:

naḫšarjanzi (「恐れる」、3人称複数現在) ⇔  サnāire(「恥」) <* nāsrija
paḫšanzi(「守る」3人称複数現在) ⇔  ラpā(s)-sc-unt(「放牧する」3人称複数現在)
newaḫḫ-(「新しくする」語幹) ⇔  ラnovāre(同不定形)
šan-(「追い求める」不定形) ⇔  サsani-(例えばsanitar「勝者」)<*senəter-


最初の3例ではa+ḫ=āという式が成り立つことがわかる。そしてヒッタイト語のaを印欧祖語のeと見なせば、このa+ḫ=āはまさにド・ソシュールのe+A=ā 、クリウォヴィチのe+ə2= ā、つまりド・ソシュールが音価を特定せずに計算式(違)で導き出した「ソナント」または「ある種の喉音」が本当に存在したことが示されているのである。一番下の例ではこのソナントが子音の後という音韻環境で母音化してブルクマンらのいうシュワーとなり、サンスクリットで公式どおり i で現れているのだ。
 さらにクリウォヴィチはすべての印欧祖語の単語はもともと語頭に喉音があった、つまりCV-だったが、後の印欧語ではほとんど消滅して母音だけが残ったとした。ただ、アルバニア語にはこの異常に古い語頭の喉音の痕跡がまだ残っている、と泉井久之助氏の本で読んだことがある。

 もちろんこの喉音理論もクリウォヴィチが一発で完璧に理論化したわけではなく、議論はまだ続いている。同じ頃に発表されたバンヴニストの研究など、他の優れた業績も無視するわけにはいかない。そもそもその喉音とやらが何種類あったのかについても1つだったという人あり、10個くらい設定する説ありで決定的な解決は出ていない。それでもこういう音の存在を60年も前に看破していたド・ソシュールの慧眼には驚かざるを得ない。私はオシャレなラング・パロールなんかよりむしろこちらの方が「ソシュールの言語学」なのだと思っている。高津春繁氏は1939年に発表した喉音理論に関する論文を次の文章で終えている。

F.de Saussureの数学的頭脳によって帰結された天才的発見が六十年後の今日に到って漸く認められるに到った事は、彼の叡智を證して余りあるものであって、私は未だ壮年にして逝った彼に今二三十年の生を与へて、ヒッタイト語の発見・解読を経験せしめ、若き日の理論の確証と発展とを自らなすを得さしめたかったと思ふのである。彼の恐るべき推理力はCours de linguistique généraleにも明らかであるが、その本領はMémoireに於ける母音研究にあり、彼の此の問題に対する画期的貢献を顧りみて、今更の様に此の偉大なる印欧比較文法学者への追悼の念の切なるを覚える。

なるほど、あくまで「Cours de linguistique généraleにも」なのであって「Cours de linguistique générale」や「Mémoireにも」ではないのだ。

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