アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:英語

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 前回の続きである。

 For a few dollars moreという映画だが、ロマンス語の他にゲルマン諸語その他でDVDのタイトルなどはどうなっているのか調べてみた。

ロマンス諸語 (前回の例を繰り返す)
イタリア語:        Per qualche dollaro in più
フランス語:          Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:     Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語   Por uns dólares a mais
本国スペイン語:      Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:      Por unos pocos dólares más

ゲルマン諸語
英語:                    For a few dollars more
ドイツ語:             Für ein paar Dollar mehr
スウェーデン語:             För några få dollar mer
ノルウェイ語:                For noen få dollar mer

スラブ諸語
ロシア語:               На несколько долларов больше
クロアチア語:               Za dolar više
                                        (a fewがなぜか省略されている)

アルバニア語
Pёr disa dollarё mё shumё

 問題はmoreの位置だ。上の例では本国ポルトガル語を除く総ての言語でmoreにあたる語が最後に来ている。ロマンス諸語は前回述べたが、英語以下、ドイツ語のmehr、スウェーデン語とノルウェイ語のmer、ロシア語のбольше、クロアチア語のviše、アルバニア語のmё shumёがそうだ。アルバニア語はさすがにちょっと他の印欧語と勝手が違っていてmё shumёと二語構成、文字通りにはmore manyだが、機能自体は他と同じだ。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)やein paar (a few)がDollarの前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for - a few - dollars - more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここでmehr (more)をDollarの前に持ってきた構造
 
?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけてのNG宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のようにmehr (more)をein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの*印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more booksあるいはsome more booksという語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員For a few more dollarsはOKだと言った。For a few dollars moreのほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱりNG宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でもmás(more)はdólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

もしかしたらドイツ語と同じくスペイン語でもPor unos cuantos más dólaresという語順のほうがPor más unos cuantos dólaresより「マシ」なのかもしれないが、いきなり初対面のスペイン人を根掘り葉掘り変な質問攻めにするのは気が引けたのでそれ以上突っ込めなかった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 ところが前回私がひっかかったようにポルトガル語、特に本国ポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順が可能だ。maisというのがmoreである。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかはまだ未調査)

 前回で述べたいわゆるp-組のフランス語ではスペイン語と同じく、moreが名詞の前、ましてやa fewの前には出られない。a few more booksがフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some - books - of - more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques (de) plus dollars
*Pour (de) plus quelques dollars

の二つはどちらも「おえー」と言って却下した。
 同じくp-組のイタリア語ではpiù (more)が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a - few - more - of  - books

ただしこのイタリア語と上のポルトガル語に関してはちょっとそこら辺にネイティブがころがっていなかったので(?)インフォーマントの確認はとっていない。

全体としてみるとmoreがa fewの前にさえ出られる本国ポルトガル語はかなり特殊だと思う。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。 

最後に日本語だが、これは一見moreの位置が印欧語より自由そうには見える。

1.あともう少しのドルのために
2.ドルをあともう少しのために
3.あとドルをもう少しのために
4.*あともう少しのドルをために
5.*ドルのあともう少しをために
6.???あともう少しをドルのために

1,2,3はOKだろう。3はちょっと「うっ」とは思うが。しかしよく見れば、1では「ドル」は助詞の「の」に支配される属格、2と3では「ドル」には「を」という対格マーカーがついていて、シンタクス構造そのものが違うことがわかる。単なる語順の問題ではないのだ。4,5,6はどれもNGだが、4と5がそもそも日本語になっていないのに対し、6はシンタクス構造そのものはOKだが意味が全然合っていない。仮に「ドル」というのが人の名前かなんかだったら成り立つかもしれないので、「限りなくNGに近い」という意味で???を付加。「駄目」にもいろいろなレベルがあるのだ。

 こういう事象の分析は例のミニマリストプログラムや最適理論とかいう現在の生成文法の専門家が大喜びしそう、というよりすでに実際に研究論文があるのかもしれないが、私はそんなものを探しているといつまでたっても映画が見られないのでパスさせてほしい。


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 「白」と「黒」を印欧諸語ではそれぞれ次のように言う。上が「白」、下が「黒」である。

ラテン語
albus
niger

ドイツ語
weiß
schwarz

英語
white
black

ロシア語
белый
чёрный

古典ギリシア語
φαλός
μελας

サンスクリット
śvetaḥ
kṛṣṇaḥ

フランス語
blanc
noir

ここで例えばドイツ語・英語やロシア語の語源辞典を(うっかり)引くと、同語派の印欧語、英語辞典ならドイツ語はいうに及ばず、オランダ語やノルウェー語、ロシア語辞典ならウクライナ語やセルビア語・クロアチア語の対応語までイヤと言うほど掲げてあって本当に嫌になるので、上の7語に絞った。サンスクリット語は私がデーヴァナーガリーが読めない、という超自分勝手な都合でローマ字にした。

 まずラテン語のalbusだが、イタリック祖語では*alβos、印欧祖語で*h2elbhos *álbhos。古典ギリシャ語のἀλφός(皮膚の色が白くなるハンセン氏病の一種(!))もこれと同源だそうだ。
 なおalbusは「つや消しの白」で、光沢のある白色はラテン語でcandidusという。
 次の英語のwhite、ドイツ語のweiß(古高ドイツ語の(h)wīz、中高ドイツ語のwīz)はゲルマン祖語で*hwītaz、印欧祖語の*kweytos、*kweid-oあるいは *kweit-起源で「輝く」。別の資料には印欧祖語形を*kwintos/*kwindosまたは*kuit-/*kuid-としてあったが、語そのものに変わりはない(と思う)。古期英語のhwit、古ノルド語のhvitr、当然スウェーデン語のvitもここから派生してきたもの。さらに古教会スラブ語のсвĕтъ、ロシア語のсвет(スヴェート、「光、世界」)も親戚だ。「古代インドの言語のśvēáḥも形が近い」と辞書に言及してあったから、形としてはサンスクリットともめでたく繋がってくる。
 ロシア語белый(スラブ祖語で *bělъ)は調べによるとアルメニア語のbal、古代インドの言葉bhālam、古典ギリシャ語のφάλοςと同様印欧祖語の*bhaから派生、とあった。
 ギリシア語φαλόςは印欧祖語の語幹*bhel-から派生したもので、サンスクリットのbhāla(「輝き」)と同語源。面白いことに今はもう古語となっている、「大きなかがり火」とか「のろし」という意味の英語bale(古期英語でbǣl)もこれ起源だという。上のロシア語での語源辞典では祖形を*bhaとしているが、ギリシャ語のφαλόςがその派生例として掲げてあるし、古代インドの言語の例bhālamもここギリシア語の項で挙がっているbhālaとほとんど同形だから、これらは同語源とみなしていいだろう。
 さらにフランス語のblancは俗ラテン語の*blancusからきているそうだが、そのblancusは実は俗ラテン語がゲルマン祖語から借用した語で祖形は*blankaz(「輝いている」)。これは印欧祖語では*bhleg-(「輝く、燃える」)である。
 ラテン語の祖形となった*h2elbhosも接頭辞がついてはいるが語幹に*bhが含まれているし、続ラテン語からフランス語に流れた*bhlegもそうだから、これらを皆いっしょにすると、印欧諸語の「白」には*kweit-あるいは*kwintos系と*bhel-あるいは*bho-系との、二つの流れがあることになる。

 ここまでだけだとあまり面白くないのだが、「黒」を見ていくと俄然スリルが増してくる。

 まずドイツ語のschwarzはゲルマン祖語では*swartaz、印欧祖語形では*swordo-(「くすんだ、黒ずんだ、暗い」)。英語でも文語的なswart(「黒ずんだ」)という言葉にその痕跡が残っている。
 ロシア語のчёрный(スラブ祖語で*čьrnъ)は印欧祖語の*kr̥snós(「黒い」)。サンスクリットのkṛṣṇaḥももちろんここ起源である。
 ギリシア語のμελαςは印欧祖語の*melh2-。サンスクリットのmala(「穢れ」)と同語源である。
 ラテン語のnigerは実は語源がよくわからないそうだ。印欧祖語の*nókwts(「夜」)とのつながりを主張する人もいるという話だ。 
 つまり「黒」のほうが「白」よりもあちこちいろいろなところから持ってきているわけだが、中でも面白いのは英語のblackである。実はこれはゲルマン祖語形が*blakazで、「燃えた」。印欧祖語の*bhel-または*bhleg-から出たそうで、つまりフランス語、ギリシア語、ロシア語、ラテン語などの「白」と出所が同じなのである。英語では「燃えた後の状態」を黒の意味に使っているのだ。スウェーデン語のbläck(「インキ」)も同じ語源だそうだ。

 さて、「白」というと思い出すのが「白ロシア」という名称である。今はもうあまり使わなくなって「ベラルーシ」と呼んでいるようだがドイツではいまでも「白ロシア」という名称が現役である。この「白」という命名は何故なのかについて「住んでいる人が肌の色も白く、金髪が多いからだ」とかいうショーモない説明を見かけたことがあり、さすがの私も笑ってしまった(しかしなんとこれをマに受けている人もいたようで、笑ってばかりもいられない)。これは論外としても定説はないようだ。私がスラブ語学の教授から聞いたのは次のような説明である。

「むかしの中国では東西南北をそれぞれ色でシンボル化していた。東が緑、西が白、南が赤、北が黒、そして中央が黄色。 このシンボル体系が、かつて元・蒙古が2世紀の間ロシアを支配していたときスラブ民族にもたらされた。それでロシアの西にある国を「西ロシア」という意味で「白ロシア」と名づけたのではないだろうか。」

これはたしかにあり得そうだ。
 また、これを聞いて思いついたのだが、「黄河」とか「黄海」というのは別に水が黄色く濁っているからではなくて「中央の川」「中央の海」という意味でつけたのではないだろうか?ただしこちらは私のいい加減な思いつきなので、専門家に教えを請いたいところだ。

 続いて「黒」だが、ロシアの反対側、東の端にある島が「サハリン」という名前。これは「サハリヤン」という言葉からきているが、その「サハリヤン」とは満州語で「黒」という意味である。ロシア語名称「サハリン島」は「サハリヤン川(黒龍江)の河口にある島」の省略形からその名がついたことがほぼ確実、中国語名称「黒龍江」はおそらく満洲語サハリヤン「黒」の翻訳語だろうと、こちらのほうはきちんと専門家の口から聞いたことがある。
 ヨーロッパにも「黒」のつく名前はある。南西ドイツに広がる森はSchwarzwald(シュバルツバルト、「黒い森」)。ウクライナの南の海は「黒海」。これはギリシャ人の命名でエウリピデスの悲劇にもΠόντος Μέλας(ポントス・メラース、「黒い海」)という言葉が見いだされるそうだ。Μέλαςには「陰気な」とか「気味の悪い」という意味もあるそうだから、シンボル云々とは関係なく、本当に黒い、というか暗かったからそう名づけたのだろう。シュバルツバルトも確かに針葉樹がうっそうとしていて暗い。
 だが、「モンテ・ネグロ」(「黒い山」、地元のセルビア語・クロアチア語ではCrna Gora(ツルナ・ゴーラ))はなぜ黒なのか。あそこの山々は石灰岩が多くて黒いよりも白といったほうがいいくらいではないか。多分これは1426から1516年までこの地を支配し、現在のモンテネグロの国の基礎を築いたCrnojević(ツルノヴィッチ)家の名前からきているのだと思う。この一族は『8.ツグミヶ原』の項で述べた中世セルビアの支配者ステファン・ドゥーシャンとも血がつながっていたそうだ。その後この国もセルビアと同じくトルコの支配下に入ったが、当時勢力のあったヴェネチア公国(それとも共和国でしたかここ?)の言葉でセルビア語のツルナ・ゴーラが直訳され、西欧ではそっちの「モンテネグロ」という名称が一般化したということだろう。トミッチという人が 1900年にCrnojevići i Crna Gora od 1479 do 1528(ツルノエヴィッチとツルナ・ゴーラ:1479年から1528年まで」)という論文を出しているそうだから、ひょっとしたら名称の由来にも言及されているかもしれない。4ページくらいの短い文章だからセルビア語のできる人は読んでみてはいかがだろうか。いずれにせよ、ここは実際に色が黒かったり陰気だったりしたから黒と名づけられたのではないと思う。「黒」、つまりSchwarzさんという苗字はドイツにもやたらと多い。


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 もう大分前の本ではあるが、今でも時々別宮貞徳氏や河野一郎氏などの翻訳批評をパラパラめくり読みする。しかし実は私にとってこれらは面白いとばかりは言いきれないのである。別宮氏に「こんな英語のレベルは中学生。大学の学部どころか高校入試試験も通るまい」などとボロクソ言われている誤訳例の相当部が私だったら絶対やってしまいそうなものなので、読んでいて冷や汗の嵐だからだ。私は今まで自分の英語力は高校一年生レベルくらいはあるだろうと自惚れていたが、最近怪しくなってきた。実は中学生レベルなんじゃないのか?
 例えば別宮氏だったと思うが、下の英語を訳した翻訳者をケチョンケチョンにけなし、「よくこれで翻訳をやろうなんて気になるものだ」とまで罵倒しているのだが、ハイ、私もやってしまいました。

invasion ... from the Adriatic coast to the north

これを私はこの(駄目)訳者と同じく、しっかり「アドリア海沿岸から北へ向かった侵略」だと解釈してしまった。ところがこれは「こんなものは中学一年で皆習う」もので、

on the north of
in the north of

と同じく

to the north of

も「北方の、北にある」という意味だから、ここは「北方のアドリア海沿岸から(南方に向かった)侵略経路」とのことだ。つまり私の語学は中学レベルか。これを誤訳したヘボ訳者と私の違いは、私が自分は英語は(英語も)苦手である、と少なくとも自覚だけはしていることくらいだ。
 さて、こういう風に話題をそらすと自分のヘボ英語に対する負け惜しみのようで恐縮だが、このtoの話は非常に興味深いと思った。英語のtoに対応するドイツ語の前置詞zuにも「移動の方向・目的地」のほかに「いる場所」の意味があるからだ。

例えば

Ich fliege zu den USA.
飛行機でアメリカに行く

ではzuは目的地を示すが、

Universität zu Köln
ケルン(にある)大学

は存在の場所である。ただしネイティブによるとドイツ語では東西南北にzuは使えず

* Die Stadt ist zum Norden Mannheims
この町はマンハイムの北にある

は非文で、この場合はinを使って

Die Stadt ist im Norden Mannheims

と言わなければいけない。でもそういえば日本語では助詞の「に」は「東京に行く」と「東京にいる」の両方に使えるではないか。

 まあかように私は英語が出来ないのだが、逆方向、日本語のトンデモ英語訳の例のほうにはそのさすがの私でも笑えるものがたくさんある。どこで聞いたか忘れたが「あなたは癌です」を

You are cancer.

といったツワ者がいるそうだ。「お前は日本の癌だ」などという意味ならまあこれでいいかもしれないが、いくらなんでもこれは普通の人なら

You have cancer.

くらいはいうのではないだろうか。これがロシア語では『42.「いる」か「持つ」か』の項でも述べた通りゼロ動詞を使って

У меня рак.
by + me (生格) + cancer
私には癌がある → 私は癌です。

である。ついでにI am cancerはゼロコピュラで

Я - рак
I(主格)+ cancer

となる。それでさらに思い出したが、「春はあけぼの」という日本語を

Spring is dawn.

と直訳した人がいるそうだ。その調子で行ったらレストランで「私はステーキだ」と注文する時

I am a steak

とでも言う気か。レストランに行って自分のほうが食われてしまうなんてほとんど『注文の多い料理店』の世界ではないか。「春はあけぼの」は

In spring it is the dawn that is most beatiful.

と訳さないといけない。英語は印欧語特有の美しい形態素パラダイムをほとんど失っているので、こういう長ったらしい言い方しか出来ないのだ。本当に印欧語の風上にもおけない奴だ。ところがロシア語だとこれが

Весною рассвет
spring(単数造格) + dawn(単数主格)

とスッキリ二語で表せてしまう。私みたいな語学音痴だとうっかりどちらも主格を使って

Весна рассвет
spring(単数主格) + dawn(単数主格)

とかやってしまいそうで怖いが(I am cancerを笑えない)、それにしてもこのシンタクスの美しさはどうだろう。印欧語特有の上品さを完全に保持している。英語にはロシア語の爪の垢でも煎じて飲んで欲しいものだ。

 さらにロシア語では日本語の「私には○○と思われる」を日本語と同じく動詞「思う」を使って

Мне думается, что...
me(与格) + think(3人称現在単数)-再帰代名詞 + that

と言えるのである。英語やドイツ語だとここでthink(ドイツ語ではdenken)ではなく、「見える」とか「現れる」、seem、erscheinen、vorkommenを使うだろう。ここで動詞の後ろにくっ付いている-ся(母音の後だと-сь)というのは再起表現で大まかに言うと英語の-self、ドイツ語のsichに当たるのだが、ロシア語ではこの形態素が英独の再帰代名詞よりずっと機能範囲が広く、受動体や、この例のように自発的意味も受け持つのである。例えば;

受身のся
能動態
Опытный шофёр управляет машину.
experienced  + driver(単数主格)+ steers + machine(単数対格)
→ 経験のある運転手が自動車を操縦する

受動体
Машина управляется опытным шофёром.
machine(単数主格)+ steers itself + experienced + driver(単数造格)
→ 自動車が経験のある運転手に操縦される

可能のся
平叙文
Больной не спит.
patient(単数主格)+ not + sleep
→病人は眠らない

可能表現
Больному не спится.
patient(単数与格)+ not + sleep himself
→病人は眠れない

自発のся
平叙文
Я хочу спать
I(単数主格)+ want + to sleep
→私は眠りたい

自発表現
Мне хочется спать.
me(単数与格)+ want itself + to sleep
→私は眠い

 
上述のдумается(不定形はдуматься)もこの自発タイプと見ていいと思う。これら3つの用法、つまり受身、可能、自発の表現が日本語の「れる・られる」といっしょなのが面白い。

受身の「れる・られる」
能動態
議論する
受動体
議論される

可能の「れる・られる」
平叙文
よく眠る
可能表現
よく眠られる

自発の「れる・られる」
平叙文
昔の事を思い出す
自発表現
昔の事が思い出される

と、いうわけで私はロシア語はシンタクスが特に好きである。なのにいつだったか、よりによってロシア語のネイティブが日本語の「私には~と思われた」をIch dachte, dass...(I thought that...)と誤解釈しているのを見たことがあり、せっかく母語にМне думается, что...という素晴らしい表現があるのにこりゃ灯台下暗しじゃないかと思った。


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 先日やっと無償期間とやらが終了してくれたのでウィンドウズ10へのアップグレードがお金を払わなければパスできるようになった。あちこちから「やれやれ」という声が聞こえてくるのだが、これは私の周りだけなのだろうか。そもそも「金を払わなければパスできる」としか表現できないこと自体がすでにおかしい。普通なら「お金を払うからそれちょうだい」というはずだ。

 このウィンドウズ10というOS,一年ほど前からアップグレードを勧めるやたらとウザイ画面がパソコンに湧いてくるようになった。実は私はいまだに恐竜百万年時代のXPを使っているので私のパソコン自体は見捨てられていて、このポップアップ幽霊は出てこなかった。それまでは「そんなものもう捨てろよ」と馬鹿にされながらXPを使っていたのだが、まさか今頃になって「ああ、XPを使っていてよかった」などと思える日が来ようとは。対して家の者が使っているもう一台のほうは運悪く7搭載だったため「ウィンドウズ10のすすめ」がうるさかったのなんの。最初は単にウザイだけだったが、そのうちに文面が脅迫じみてきた。極めつけは最後の2ヶ月頃に登場し始めた必殺ポップアップで、「アップグレードをしますか、しませんか?」という選択肢ではなく、「いつアップグレードするんですか?今すぐですか、○日○時ですか?」という「イエス」か「はい」かの選択肢しかなくなった。しかもそこで×を押しても拒否したことにならず、水面下で密かにダウンロードが進行していて、その○日○時に突然全く身に覚えのないアップグレードが始まってパソコンが硬直するという恐怖。そしてアップグレード終了後は従来のソフトがいくつか使えなくなるという、ほとんどウイルスである。
 私はそういう話をネットや実話で聞いていたので、ある日うちでもとうとうその「今か○日か」という画面が現れた時パニックに陥った。聞けばアップグレードを無効にすることはできるし、運悪くアップグレードを食らってしまった後でもイヤならもとの7に戻せるそうだ。しかしその「無効にする」「7に戻す」操作をスラスラやれるほど私たちは機械に詳しくないのだ。それでも何とかアプグ拒否方法を(XPのパソコンで)ネット検索してやり方を覚えようとアタフタしていたら、7の持ち主はあっさりさるコンピューター雑誌のサイトからZwangs-Update-Killerとかいうプログラムをダウンロードしてきて10を阻止した。Zwangs-Update-Killerとは「強制アップデートキラー」という意味である。もの凄いネーミングだ。もうちょっとマイルドな名前にすることはできなかったのかとは思ったが、アメリカでもNever10という名前の阻止プログラムが出回っていたそうだからいい勝負だ。
 そのキラープログラムを走らせて見ると、すでに何GBかは10が侵入していたことがわかった。自覚症状はなくても保菌者ではあったわけだ、それにしても除去プログラムが出回るOSというのを見たのは私も初めてだ。

 この10騒ぎは日本のソーシャルメディアでも大きな話題になり、被害者の声が続出していた。止めてくれコールが起こる一方で、そういう一般ユーザーを批判する、というか罵る声もあった。要約すると「お前ら本当に無知だな。こうこうこうやればアプグくらい簡単に阻止できるんだよ。そんな操作もできない馬鹿がパソコンなんて使うなよ」という意見である。また、どこかの中小企業がいまだに7を使っていたため、アプグされて業務関係のプログラムが動かなくなったのを見て、「いやしくも企業ならそのくらいきちんとしとけよ」とセセラ笑う声もあった。
 『24.ベレンコ中尉亡命事件』でも述べたように私もその手のメンタリティは心の中に持っているのでわかるのだが、まあこういう人たちはたまにちょっと知っていることがあると鬼の首をとったような気になり、知らない人を馬鹿にしてみせてこちらが偉くなったような気分にひたりたいのだろう。普段の劣等感のはけ口だ。それが証拠にというとおかしいが、パソコンのサポートセンターの人とか大学の工学部の人、つまりプロの人たちは発言がずっと穏健で「こうすれば阻止できますよ」以上のことは言わなかったではないか。
 繰り返すが私はそういう、ここぞとばかり的な人たちの気持ち自体ははわかる。わかるのだが残念ながらここでの問題の本質は10の押しつけの阻止方法を知っているかいないかとか知っているオレ様は偉いとかいうことではないのだ。

 ドイツ語にgesundes Mißtrauen(ゲズンデス・ミストラウエン)、あるいはder gesunde Menschenverstand(デア・ゲズンデ・メンシェンフェアシュタント)という言葉がある。それぞれ「健全な不信感」、「人間の健全な理解の仕方」という意味だ。後者は辞書には「良識」とあるが、これだとちょっとニュアンスが違うようだ。Der gesunde Menschenverstandというのはもっと単純に普通の人が普通にする理解である。『27.ベンゾール環の原子構造』の項でも述べたように辞書の訳は時々意味がややずれていることがあるので注意を要する。
 さて、自分がまだよく知らないものを「ダンナ、これいいですよ、お安くしときますよ、買いなさい」といわれても普通はホイホイその場で買ったりせずに時間を置く。未知のものにはとりあえず警戒心をいだく。あまりうまい話を聞くと何か裏があるんじゃないかと一瞬怪しがる、こういうのが「健全な不信感」である。
 マイクロソフトはもちろんブラック企業などではないが、その目的は結局金儲けである。ましてやアメリカの企業というと特に利益優先、ペイしないことはやらないというイメージがある。それがタダで新しいOSを提供すると言い出したりすれば「健全な」神経を持った人は裏で何かたくらんでいるんじゃないかと疑心暗鬼になる。7や8をサポートするのはメンド臭いから全員に10にしてもらったほうが会社に好都合なのかな、などという疑念はまだ序の口、密かに個々のパソコンにトロイの木馬よろしく侵入し、顧客データを集めて内務省にでも売るつもりなのか、この先金を払わないとパソコンを使えないようにするぞという方向に事を持ってくるつもりなのかと本気で戦々恐々としている人だっていた。果ては「やっぱりマイクロソフトは怖い。今の7が死んだらLinuxにしよう」。
 会社側だって馬鹿じゃないのだから、新しいOSを強引に押し付けようとすればユーザーの相当数がこういう反応をするであろうことなど予想していたはずだ。それをあえてこういう戦略に出たのはどうしてだろう。「健全な不信感」は下手に健全なだけにしつこく心の中に巣食うのである。その意味で、「阻止方法を知っている偉いオレ様」連は問題の本質が見えていない。そもそもOSのアプグを拒否する方法を知っていることが自慢話になりうること自体異常だ。何も知らなければアプグされないのが普通ではないのか。

 もう一点「健全な」顧客が嫌がったのは「私が買ったのは7である。自分で納得して自分で選んで7を買った。10にするのだって自分で納得して自分で選択するのなら金くらい出すから今は放っておいてくれ」という事情を無視されたことだろう。ある意味では禁治産者扱いされているのだ。子供のころ、いや大人になってからでも自分でなんとかやろうとしているのに脇からやいのやいの頼みもしないのに口を挟まれたり手を出されたりして「うるさい!自分でやるから放っておいてくれ!」と怒鳴ったことなど誰にでもあるだろう。あの感覚である。こちらが金を出して何かを買うからには選択権はこちらにある、これが「人間の健全な理解」である。
 するとここでもオレ様が口を出し、「7を買ったんじゃないんだよ。7の使用権を買ったんだ。契約書にそうあるはずだ。だからいきなりOSをアプグされても文句は言えないはずなんだよ。わかってないなあ、馬鹿だなあ」。
 オレ様たちはgesundes Misstrauenをもつ人たちが契約書というもの一般に抱いている不信感をご存じないらしい。保険会社や旅行会社(の一部)が顧客が気づかないように契約書の隅に小さく重要な注意事項を記し、あとから顧客がクレームをつけてもこれを盾にとって「読まなかった馬鹿が悪い」と知らん顔をするなんてのは常套手段、いかにまずい点をボカして契約・商品の見てくれをよくするかというのが企業側の契約書作成者の腕の見せ所である。そういう煙に巻くプロを相手にしたら一般ユーザーには勝ち目などない。もちろんまさかマイクロソフトが意図的にそんなことをやるとは思えないが、これがユーザーの一般感情であろう。
 つまり契約書を一語一句検討しなかったユーザーを馬鹿扱いするオレ様たちは、ひょっとすると普段そういう仕事をしている人なのかな、日常的に人をハメて喜んでいるタイプの人たちなのかな、と「健全な」人たちはオレ様たちの人間性に対しても不信感をいだく。やはり自慢する時は素直に自慢だけにとどめておいたほうが良さそうだ。「オレは10の阻止方法を知ってるんだ、どうだ偉いだろう」とだけ言っておけば「わあ、凄いね。でも問題の本質はそこじゃないんだよね。」と自慢は一応受け止めてもらえるが、「オレは10の阻止方法を知っているんだ。知らないお前らは馬鹿だ」とか言ってしまうと「でも問題の本質はそんなとこじゃないんだよ。馬鹿はどっちだ」と、自慢が機能しないばかりか反対に罵倒がブーメランになって自分に跳ね返ってくるからだ。ペイしないとはまさにこのことだ。
 しかしここで勉強になったのは自慢の仕方よりもgesundes Misstrauenとder gesunde Menschenverstandというドイツ語の冠詞の使い方である。ネイティブ確認をとったところ、前者は冠詞なしだが、後者には冠詞がいるそうだ。「どうして?」と聞いたら「Misstrauenは砂糖とかといっしょでブワブワした存在だが、Menschenverstandは確固とした観念だから定冠詞がいるのだ」というブワブワした説明をされた。こういう部分はやっぱりネイティブにしかわからないのかも知れない。

 さて、この10騒動ではそのgesundes Misstrauen、der gesunde Menschenverstandのほかにも口に上った言い回しがある。Augen zu und durch(アウゲン・ツー・ウント・ドゥルヒ)というものだ。「眼を閉じて通り抜けろ」という意味で、なにか不愉快なこと、面倒なこと、嫌なことをやらなければいけなくなったとき、グジグジ考えたり、うろたえたり、立ち止まったりしないでとにかく最後まで堪えろ・やりぬけ、といいたいときに使う。
 例えばある法案を通したい政治家が、反対政党などの猛烈な攻撃が予想されて泥沼になりそうなとき、Augen zu und durchといって自分自身にハッパをかけたりするのである。英語ではこれをなんというのか調べてみたら、いくつか対応するイディオムがあるらしい。

Press on regardless!
Grit your teeth and get to it!
Take a deep breath and get to it!

 上述の待ったなしポップアップが初めて出現した時、上述の7の所有者は最初、「こうなったらこれから2ヶ月間はこのラップトップを使わないでアプグ期間終了まで堪えるしかないかな。苦しいけどAugen zu und durch」。それじゃまるで苦行僧じゃないか。なんで金を払ったほうがそんな苦労をしなければいけないんだ、と私が言いかけたら向こうもどうやら考え直したらしく、「このOS、迷惑がっている人がこんなにたくさんいるんだからコンピューター雑誌あたりがサービスとして何か対策を提供しているに違いない」と、専門雑誌のサイトに行き、そこで上述のOSキラーを見つけたのである。こういうのがder gesunde Menschenverstandである。

 それにしてもウィンドウズ10自体はよく出来たOSのようで、評判も悪くない。あんな押し売り行為さえしなければ皆速攻ではないにしろ結構すんなり10に変えていったはずだ。しかもその際お金を払ったはずだ。なぜあんな嫌われるようなことをわざわざやったのか、どうしても健全な理解ができない。会社のマネージャーは北風と太陽の話を知らないのか? それとも理解できない私たちはビョーキなのか?

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 一応前置が基本ではあるが、ロシア語は形容詞が被修飾名詞の前後どちらにも付くことができる。それで例えば「愛しい友よ」は

милый друг
dear + friend
(my dear friend)


とも、

друг милый
friend + dear

とも言うこともできる。形容詞が後置されたдруг милый(ドゥルーク・ミィリィ)は感情のこもった言い方で、こう言われると本当に親しい、愛しい感じがするそうだ。

 ちょっと文法書を見てみたら形容詞が後置されるのは:1.被修飾名詞が人とか物・事など意味的にあまり実体がなく、主要な意味あい、伝えたい情報は形容詞の方が受け持つ場合、2.文学的・詩的な表現である場合など、とある。つまり後置形容詞はいわゆる「有標」表現なわけだ。
 特に1の説明は、「情報価の高い要素ほど右(後ろ)に来る」というプラーグ学派のcommunicative dynamism、いわゆるテーマ・レーマ理論を踏襲した極めて伝統的なスラブ語学の視点に立っている感じでいかにもロシア語の文法書らしい説明ではないだろうか。

 しかし私はこれをシンタクス的に別解釈することも可能だと思う。形容詞が後置される形は同格、つまり名詞句NPが二つ重なった構造であって、前置構造の場合と違って形容詞が名詞にかかる付加語ではない、という解釈も可能だと。 つまり、上の形容詞が前置されているмилый друг(ミィリィ・ドゥルーク)は

[NP [A {милый} ] [N {друг} ] ]

だが、друг милый(ドゥルーク・ミィリィ)はNP(A + N)ではなく

[NP [NP1 [N {друг} ] ]  [NP2 [A {милый} ]  [N {ZERO} ] ] ]

というダブル名詞句構造というわけ(ここでZEROとあるのは形としては表面に現われて来ない要素である。本チャンの生成文法では別の書き方をしていたような気がするが調べるのが面倒なのでここではこういう表記をしておく)。それが証拠に、というとおかしいが「イワン雷帝」、

Иван грозный
Ivan + terrible

は、英語ではterrible IvanでなくIvan the terribleと定冠詞をつけて同格風に訳す。

 つまり後置形容詞は統語上の位置が単なるNの附加語の地位からグレードアップしてNP1枠から脱獄(?)し、披修飾語NP1と同じ位置まで持ち上がって来るのだから(NP2)、形容詞の意味内容が重みを持って来る、つまり情報価が高くなることの説明もつく。言い換えると、後置形容詞は「情報価が高いから」後置されるのではなくて、むしろ逆に後置されることによって、つまりシンタクス上の位置が変わることによって情報価が高まるのではないだろうか。

 さて文法書などの「同格」(ロシア語でприложение、プリロジェーニエ)の項を見ると同格を、「修飾の特殊な形態。複数の名詞で表され、さらに詳しい情報を提供したり補足したりする」と定義されている。例として

старик-отец
old man + father
「老父」


とか
мать-старушка
mother + old woman
「老母」


などが上がっているだけで形容詞を使った言い回しは上がっていない。どこにも例としては載っていなかったが私がソ連旅行をした際(『3.噂の真相』の項参照)当時のレニングラートの駅にデカデカと立っていた看板город-герой(「英雄都市」)も同格表現と見ていいだろう。ちなみに上のмать-старушка(マーチ・スタルーシカ)の例を普通に形容詞を付加語的に使った構造で表現すると

старая мать
old + mother

である。
 一方どの文法書も「品詞間の移動」、「形容詞の名詞化」についてかなりページを割いているし、もともと印欧語は形容詞と名詞の移動が相当自由なので、次の例などは「形容詞の名詞化による同格表現」と解釈しても「そんな無茶な」とは言われないだろう(と思う)。

Что ж ты, милая, смотришь искоса?
what + on earth + you + dear + look at + askance
(What on earth do you, my dear, look at askance?)


それと同じく、旧ソ連の国歌の歌詞

Союз нерушимый республик свободных
union(対格) + not to be overthrown + republics(生格) + free

も、

The unoverthrowable Union of the free republics

とあっさり訳すより、同格っぽく

The union, our unoverthrowable union, of the republics, of our free nations

とかなんとかやった方が原文の感じがでると思う。もっともこれらは最初にあげたように単に「文学的な表現」としてあっさり片付けてしまえそうな気もするが。

 それで思い出したが、英語やドイツ語では同格表現でof(ドイツ語でvon)を使うことがある。

The united states of America

は、「アメリカの合衆国」ではなくて「アメリカという合衆国」という意味で、名前つまり詳しい付加情報を付加している同格構造である。もっとも日本語でも

глупый Иван
stupid + Ivan

は、「馬鹿なイワン」だが、形容詞後置の同格的表現

Иван глупый
Ivan the stupid

は、「イワンの馬鹿」とofにあたる「の」を使って表現できる。「太朗の馬鹿野郎」なども「太朗=馬鹿」という図式の同格表現であろう。

 あと、話はそれこそ前後するが、この同格は文法書では「名詞」の項ではなくてシンタクス現象として本のずっと後ろのほうにでてくるのが面白い。
 もう一つ面白いと思ったのは、上の「老父」と「老母」の例で双方の名詞の順序が逆になっているということだ。老父では「年寄り」という名詞が「父」の先に来ているが、「老母」では「母」が先で「年寄り」が後に来ている。つまり名詞句NPの順番はどっちでもいいということだ。こういうところからも同格構造は最終的に一つの名詞句である、つまりあくまで一つのシンタクス上の単位であることがわかる。これがセンテンスやテクストレベルになると、つまり二つの名詞句間になるととそうは行かないからだ。
 代名詞を使わずに名詞句で同一の指示対象を指し示すことがあるが、その場合、2番目の名詞句NP2が意味的に最初の名詞句NP1より包括的でないと、対象指示がうまく機能しないのだ。例えば、

フェリーが座礁した。はたちまち沈んでしまった。

というテクストではNP2の「船」はNP1の「フェリー」より意味が包括的だからこの「船」というのは最初に出てきたフェリーのこと、つまりNP1とNP2はco-referential、指示対象物が同一である。しかしここでNP1とNP2を入れ替えて

が座礁した。フェリーはたちまち沈んでしまった。

というとNP2の意味がNP1より狭くなるため、この二つがco-referentialであるという解釈が難しくなる。船が2隻沈んだ感じになるのである。これを「父」と「老人」に当てはめてみると、

が何十年ぶりに帰ってきた。でも老人には僕がわからなかった。



老人が何十年ぶりに帰ってきた。でもには僕がわからなかった。

になり、後者の例だと帰ってきた老人が父であることがわかりにくい。「父」のほうが指示対象の範囲が狭いからだ。これはレヴィンソンという言語学者が指摘している現象である。

 そういえば、話はそれるが以前ちょっと話に出たwendisch-slawischenという表現(『71.トーマス・マンとポラーブ語』の項参照)。これは名詞でなく形容詞のダブル構造なのでもちろん同格ではないが、この二つの形容詞の意味関係も考えてみると面白い。日本語の訳者はこれを明らかに「ヴェンド人というスラブ民族」と解釈しているが、トーマス・マンは「ヴェンド人、すなわちスラブ人」というつもりだったのではないだろうか。


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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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