アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:続・夕陽のガンマン

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 セルジオ・レオーネ監督の代表作にIl Buono, il Brutto, il Cattivo(邦題『続・夕陽のガンマン』)というのがある。「いい奴、悪い奴、嫌な奴」という意味だが、英語ではちゃんと直訳されてThe good, the bad and the uglyというタイトルがついている。この映画には主人公が3人いて三つ巴の絡み合い、決闘をするのだが、ドイツ語タイトルではこれがなぜかZwei glorreiche Hallunken(「華麗なる二人のならず者」)となっていて人が一人消えている。消されたのは誰だ?たぶん最後に決闘で倒れる(あっとネタバレ失礼)リー・ヴァン・クリーフ演じる悪漢がその無視された一人ではないかと思うが、ここでなぜ素直にdrei (3)を使って「3人の華麗なならず者」とせず、zweiにして一人減らしたのかわけがわからない。リー・ヴァン・クリーフに何か恨みでもあるのか。

 もう一人のセルジオという名前の監督、セルジオ・ソリーマの作品La Resa dei Conti(「行いの清算」というような意味だ。邦題は『復讐のガンマン』)は、『アルジェの戦い』を担当した脚本家フランコ・ソリナスが協力しているせいか、マカロニウエスタンなのに(?)普通の映画になっている珍しい作品だが、ここでも人が一人消されている。
 この映画はドイツでの劇場公開時にメッタ切り、ほとんど手足切断的にカットされたそうだ。25分以上短くされ、特に信じられないことに、最重要登場人物のひとりフォン・シューレンベルク男爵という人がほとんど完全に存在を抹殺されて画面に出て来ないという。登場人物を一人消しているのだから当然ストーリーにも穴が開き、この映画の売りの一つであるクライマックスでの男爵の決闘シーンも削除。とにかく映画自体がボロボロになっていたとのこと。ドイツ語のタイトルはDer Gehetzte der Sierra Madreでちょっとバッチリ決まった日本語にしにくいのだが、「シエラ・マドレの追われる者」というか「シエラ・マドレの追われたる者」というか(「たる」と語形変化させるとやはり雰囲気が出る)、とにかく主人公があらぬ罪を着せられて逃げシエラ・マドレ山脈で狩の獲物のように追われていく、というストーリーの映画のタイトルにぴったりだ。でもタイトルがいくらキマっていても映画自体がそう切り刻まれたのでは台無しだ。
 私はもちろんこの映画を1960年代のドイツでの劇場公開では見ていないがDVDを見ればどこでカットされたかがわかる。ドイツ語吹き替えの途中で突然会話がイタリア語になり、勝手にドイツ語の字幕が入ってくる部分が所々あるのだ。これが劇場公開で切られた部分であろう。確かに件の男爵はドイツ語吹き替え版なのにイタリア語しかしゃべらない。
 この切断行為も理由がまったくわからない。ソリーマ監督自身がいつだったかインタビューで言っていたのを読んだ記憶があるが、このフォン・シューレンベルクという登場人物は、ドイツ人の俳優エーリヒ・フォン・シュトロハイムへのオマージュだったそうだ。なるほど人物設定から容貌から『大いなる幻影』のラウフェンシュタイン大尉にそっくりだ。背後には『エリーゼのために』をモチーフにしたエンニオ・モリコーネの名曲が流れる。そこまで気を使ってくれているのによりによってドイツ人がそれをカットするとは何事か。
 
 もう一つ「消された」例として、私も大好きなまどみちおさん作詞の「1年生になったら」という童謡がある。「一年生になったら友達を100人作って100人みんなで富士山に登りたい」というストーリーだ。実は当時から子供心に疑問に思っていたのだが、友達が100人いれば自分と合わせるから富士登山する人数は合計で101人になるはずではないのか。一人足りないのではないか。
 この疑問への答のヒントを与えてくれるのがロシア語のмы с тобой(ムィスタヴォイ)という言い回しだ。これは直訳するとwe with youなのだが、意味は「我々とあなた」でなく「あなたを含めた我々」、つまり「あなたと私」で、英語でもyou and Iと訳す。同様にこの友達100人も「君たち友達を含めた我々100人」、つまり合計100人、言語学で言うinclusive(包括的)な表現と見ていいのではないだろうか。逆に富士山に登ったのが101人である場合、つまり話者と相手がきっちりわかれている表現はexclusive(対立的あるいは排他的)な表現といえる。
 
 言語には複数1人称の人称表現、つまり英語の代名詞weにあたる表現に際してinclusiveなものとexclusiveなものを区別する、言い換えると相手を含める場合と相手は含めない場合と2種類のweを体系的に区別するものが少なからずある。アイヌ語がよく知られているが、シベリアの言語やアメリカ先住民族の言語、あとタミル語、さらにそもそも中国語にもこの区別があるらしい。ちょっと例を挙げてみると以下のような感じ。それぞれ左がinclusive、右がexclusiveの「我々」だ。

アイヌ語:           a-okai      対 chi-okai
アイマラ語:    jiwasa       対 naya
インドネシア語:kita           対 kami
エヴェンキ語: mit         対 bū
グアラニ語:    ñandé       対 oré
ケチュア語:    ñuqanchik 対 ñuqayku
タガログ語:    táyo        対 kamí
タミル語:        nām       対 nānkal
チェロキー語:  inega       対 osdega (双数)
         idega       対 otsega (複数)
中国語: 咱們 (zánmen)  対 我們 (wǒmen)
ハワイ語:     kāua          対 māua (双数)
       kākou         対 mākou (複数)
満州語:        muse          対 be

中国語は体系としてはちょっとこの区別が不完全で、「我們」は基本的にinclusive、exclusive両方の意味で使われるそうだ。他方の「咱們」が特にinclusiveとして用いられるのは北京語も含む北方の方言。満州語の影響なのではないかということだ。そう言われてみると、満州語と同じくトゥングース語群(人によっては「トゥングース語族」といっているようだが)のエヴェンキ語にもこの対立がある(上記参照)。満州語とエヴェンキ語はinclusiveとexclusiveがそれぞれmuseとmit、beとbūだから形まで近いではないか。
 ハワイ語やチェロキー語はご丁寧にも「私達」をさらに双数と複数とで区別している。これらの人称表現体系はさらにいろいろなタイプにカテゴリー化できるらしいが、それをここでやりだすと止まらなくなるのでこうやって大雑把に例を挙げるだけにしておくが、とにかくこの区別をする言語はアジアにも南北アメリカにも広く見られることがわかる。
 
 私の感覚だと、日本語の「私ども」と「私たち」の間にちょっとこのニュアンスの差が感じられるような気がするのだが。「私ども」というと相手が入っていない、つまりexclusive寄りの意味が強いのではないだろうか。もっともこれはinclusive対exclusiveの対立というより、むしろ「ども」を謙譲の意味とみなして、謙譲だから相手が入っているわけがないと解釈、言い換えるとinclusive対exclusiveの対立的意味合いは二次的に派生してきたと解釈するほうがいいかもしれないが。

 いずれにせよ、まどみちおさんが一人抜かしたように見えるのは結構奥の深い現象で、ドイツ人が映画やタイトルをぶった切ったのとは根本的に違うと思う。


Inclusive-exclusive
右がexclusive、左がinclusiveの「我々」である。inclusiveのうち実線が双数のinclusive、点線が複数のinclusive。こうやって「我々」をいちいち細かく区別する言語は多い。


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(「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い(けどちょっと古い)記事を翻訳して紹介しています。)
原文はこちら
(古い記事だなあ…)

エンニオ・モリコーネ85歳に:コヨーテの遠吠えを楽譜に翻訳

映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネがこの日曜日に85歳になるが、氏はお祝いなどしないでむしろ身を隠していたいそうだ。が、その前に自身の音楽や、ヘビーメタル、結婚、神や世界について上機嫌でインタヴューに応じてくれた。

筆者がインタヴューのためモリコーネ氏と会う直前、氏はダブリンでのフェスティバルで100人ものメンバーからなるオーケストラやそれと同規模の合唱団の指揮をしてきたところだった。にもかかわらずもうすぐ85歳のモリコーネ氏はまったくリラックスした雰囲気で、普通言われているよりはるかに機嫌よく応じてくれた。氏の通訳を長年務めるロベルタ・リナルディさんが会話を助けてくれた。

昨日タクシーの運転手にモリコーネ氏と会うという話をしたら、運転手はいきなり『続夕陽のガンマン』のメロディをハミングし出しました。モリコーネさんにも人が作曲なさったメロディを歌ってきたりすることがありますか?

道では人はたいてい私だなんてわかりせんよ。でも先日ローマで友人にからかわれました:道の反対側を歩いていたので私には彼が目に入らなかった。そしたらこの、例の映画の曲のメロディを口笛で吹き出したんです。(曲を口笛で吹く)
私は反射的に振り返って何ごとかとあたりを見回しました。友人はそれを見て大喜びしてましたよ。

当時どのようにしてこの主題を思いついたのですか?

もしかすると皆お気づきになっていないのかもしれませんが、あのメロディは単にコヨーテの鳴き声を音符に写し取っただけです。(と、コヨーテの吠え声をする)まさにこの通りやっただけ。

この映画で確立した「スパゲティ・ウェスタン」という言葉をモリコーネさんはあまり取ってはいらっしゃいませんね。

はい。だってレストランにいるんじゃないんですから、「イタリア製ウェスタン」と言って下さいよ。

でもスパゲティそのものはお好きでしょう?

私は徹頭徹尾パスタのファンです。

クリント・イーストウッドは別として:誰かこれはと思うようなウェスタンのヒーローがいますか?

クラウス・キンスキーですね。セルジオ・レオーネが撮った映画でのね。キンスキーは人と違ってましたよ、本当に意地が悪くて攻撃的でね。娘のほうが好きですけど、この人はしっかり記憶に残っています。

ヘビー・メタルバンドのメタリカがもう30年以上もモリコーネさんの『Ecstasy of Gold』を舞台で使ってますね。モリコーネ・サウンドから多大の影響を受けた、と公言しているロックバンドは多いですが、これを嬉しいとお思いですか、それとも「勝手に使われた」と感じておられますか?

構いませんよ。そういうロックミュージシャンで食事に招待してくれたのも多いし。その由知らせてもらいましたから。彼らにこちらの音楽が使ってもらえるのは多分私が曲を基本簡単なものにしておこうとしているからじゃないのかな。それぞれの楽器のバランスをとるのは私は後から初めて考えますからね。私の選ぶ和音なんかもシンプルだからギターで再演しやすいんでしょう。

作曲はどのようにしてなさっているのですか?

以前と相変わらずですよ:紙に鉛筆で個々の楽器のスコアを書く。映画のほうを見ないうちにそうすることも度々です。

ヒットした映画音楽はすでに楽譜のうちから読み取るのですか?それともやっぱりオーケストラが必要ですか?

もちろん。作品を仕上げたらメロディをオーケストラがどう演奏するか、実際に耳で聞かないといけませんからね。作曲している間はその必要がありません。昔は自分の曲をオーケストラが演奏するのを聞くところまで行き着けなかった作曲家も多かったですが。つまりそうなる以前に死んでいたわけ。フェリックス・メンデルスゾーンとか思い出して見てくださいよ!作曲家は自分が何を書いているのか聞いてみないと。

作曲なさった曲は強く感情に訴えてくることが多いですが、ご自身がご自分の曲で感傷的になってしまうことなどおありですか?

作曲家がなにか作曲する時はもちろんある程度何か感じています。それでこの感じを聴衆を分かち合おうとするわけです。けれど私はそういうのを純粋に感情とは呼ばないかなあ、むしろ感情的な緊張、というか。作曲家が伝えたい緊張状態ですね。

感情はそちらにとって作品が成功したかどうかの基準になっているのですか?

感情はその一部です。でも作曲の際にそれだけが唯一重要なポイントであるわけではありません。作曲家は作品を書いているときおそらく自分自身の感情のコントロールすら出来ていないんじゃないですかね。でも技術的な手法はマスターしている、思うようなメッセージを伝えて全ての楽器をしかるべき場所にすえる、ということはね。作曲家が感情と名づけているものは本来技術で得られるものです。音楽を通じて作曲家の正直なところが出てしまうということでしょうね。自分の作品を分析していると見えてくるんですよ。

ずっと保つのが難しいのはどちらでしょう、生涯にわたる音楽の仕事と結婚生活と?

これはまたヒネったご質問を。まあでも、仕事かな。妻のマリアとはまあもう57年以上もいっしょですからね。でも作曲家としての仕事は本当にハードですよ。常に一線にいるには大変な努力が必要です。

11月10日に85歳になられますね。その記念日をどのように過ごされますか?

身を隠していたいですわ。パーティとかはやりません。

どうしてお祝いをしてもらわないのですか?人生でこんな高いところまで登られたのを、少しは誇ってみてもいいのでは?

もちろん幸せに思ってますよ。でも一方年を取れば取るほど墓場も近づく、ということも常に考えてないといけないのでね。誰でもそれはそうですが、80過ぎた者だと「次」ですからね、そこに行くのが。

ではご自分を何歳くらいだと感じていらっしゃいますか?

80歳という気は全然しませんわ。せいぜい60歳くらい。私は自分が回っている輪の上にいるような気がするんです、その輪が回転してさらにいいものを私に出してくる。本当にまだまだやりたいことがたくさんあるんです。

何かモリコーネさんに喜んでもらえるような誕生日プレゼントがありますか?

一番大切なプレゼントはもちろん健康でいる、ということですね。それから息子たちと娘がいい仕事をみつけられるよう願っています。うち3人までが目下全然仕事してないので。息子のアンドレアはやっぱり作曲家なんですが、もうちょっと仕事があってもいいのに、と。

それはイタリアの負債状況のせいですか?

いいえ。二人はアメリカにいるんですから。そのうちの1人はグリーン・カードを持ってなくて、つまり仕事につけないんです。もう一人のほうは持ってるんですがアメリカでほんの少ししか仕事がありません。

息子さんがたはモリコーネさんが絶対行きたくなかったところにいるわけですね!

その通りです。ハリウッドがヴィラをオファーしてきたことがありました。そこで彼らのために作曲してくれと。でも私はそんなところに住もうなんて夢にも考えたことはありません。私は骨の髄までローマっ子でね、この町が大好きなんです。

今はどのような暮らしをなさっておられますか?

私はローマ市内のさるアパートの最上階3階を住居にしています。この住居には以前ソフィア・ローレンが住んたこともあって、屋上に素晴らしい庭園がありましてね。そこにも部屋があって、作曲の仕事は皆その部屋でします。部屋に入れるのは私だけ。私には自分なりの秩序があって、他人がいるとダメだから。

2008年にロバート・デニーロに強く推されてオスカーの名誉賞を受けられましたが、生活上で何か変化はありましたか?

全く何も変わっていません。

モリコーネさんの周りは?

うーん、その後イタリアでの人気が一気に上がったそうですが。時々気味が悪かったですよ、知らない人たちからポンポン肩叩かれたりすると。

74歳の時に初めてご自分の作曲作品をライブでオーケストラに演奏させ、聴衆の前で指揮をなさいましたが、なぜですか?

コンサート演奏は人からやらないかと聞かれてから始めたんです。その前は誰も私に頼んできませんでしたからね。頼まれもしないのに道端に行って自分のメロディも披露できませんしね。

ご自分が映画音楽の作曲家だけでなく、クラシック音楽やアヴァンギャルド音楽も作っていることを示すのにコンサートを利用しておられますか?

いいえ。それら種類の違った音楽は分けてます。実験的な音楽は私やるのが本当に大好きなんですが、それも別にして流します。私のコンサートでは主題を映画の中でやるような楽器とオーケストラで演奏しています。

舞台ではどんなお気持ちですか?

最初はいろいろ気になってたまりませんでした。演奏者の誰かがちょっと失敗して全てをメチャクチャにするんじゃないかと心配で。きちんと正確に演奏してくれないから、と。聴衆のほうはそれで即全体までダメだった、ということにもならなそうですが、指揮者の私にはすぐわかります。

で、マエストロの怒りを買う?

いえ、そこで気をとり直します。起こりえますからね、そういうことは。たいていの聴衆はおかしいなとは気づきません。これはほとんど「私だけのプライベートな問題」ですね。

舞台ではとてもエネルギッシュに指揮なさいますが、指揮をするのはスポーツ選手のようなものですか?

まったくスポーツ選手と同じ、というわけでないですが、共通する部分はあります。コンサートではしっかり焦点を見据えて集中していないといけない、自分の体と筋肉をコントロールできていないといけない。

そのためにどんなフィットネスを?

私は朝5時に起きて毎日一時間自分の家で体を動かします。たいてい家の中をグルグルジョギングしてまわるんですが。

するとわかってはいるが止められないこととか悪い習慣とかはお持ちでないのですね?

ありますよ。チョコレートです。これを我慢するのは大変ですよ。けれど私一年前は86キロあったんですよ。それを72キロに落としました。これ、どうやってやり遂げたかご存知ですか? 食べる量を減らして家の中を走り回ったんですな、ははは。

では昔の楽しみごとはもう全然なさらないと?

体重をここまで減らしたんですからまた時々チョコレート食べるくらい許されますよね。でもたいてい内緒でやります。でないと妻に怒られますから。

エンニオ・モリコーネの人となりについて
エンニオ・モリコーネは最も偉大な映画音楽の作曲家である。60年代以来500以上もの映画の音楽を書いてきた。セルジオ・レオーネのイタリア製ウェスタンで有名になった。『ウエスタン』、『続・夕陽のガンマン』、『荒野の用心棒』のサウンドトラックを作曲したのがそれ。85回目の誕生日をこの日曜日にローマで祝う。ハリウッドからのオファーも数多くあったが、氏は故郷を離れたことが一度もない。このあと大規模なオーケストラを引き連れてのツアーをまずドイツで行う。2月11日にベルリンの東駅多目的ホールで氏の最も有名なメロディを披露する。

インタヴュー
カーチャ・シュヴェマース


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 マカロニウエスタンでは「3人のセルジオ」という言い方をすることがある。ベスト作品の多くをセルジオという名前の監督が撮ったからである。その三人とはセルジオ・レオーネ、セルジオ・コルブッチ、セルジオ・ソリーマ。レオーネとコルブッチはジャンルファン以外の普通の映画好きの間でも有名だから今更紹介などする必要もないだろうが、三人目のソリーマは知らない人もいるのではないだろうか。全部で五作西部劇を撮ったレオーネ、13作という数だけは最大数の西部劇を世に出したコルブッチに対し、ソリーマが作ったのは僅かに3作品だが、特に最初の2映画はマカロニウエスタンの傑作として伝説化している。最後の3作目がちょっと弱いかなとは思うが、ソリーマにしては弱いというだけで、その他のマカロニウエスタンの平均水準は完全に越えているから安心していい。『殺しが静かにやって来る』などの大傑作をつくる一方、目を覆うような駄作も生産したムラのあるコルブッチとは対照的である。
 レオーネはクリント・イーストウッド、コルブッチはフランコ・ネロを起用してスターの座に押し上げたが、ソリーマはキューバ生まれで後にアメリカに移住したトマス・ミリアンを使って成功した。ソリーマ自身、「レオーネにはイーストウッド、コルブッチにはネロ、そして私にはミリアンがいる」と言っていたそうだ。ミリアンはラテン系のイケメンであるが、コミカルな役も多い。昔の言葉で言う「二枚目半」というところだろう。
 実はうるさく言えばもう一人、セルジオという名の監督がいる。アンソニー・ステファン主役で西部劇を撮ったセルジオ・ガローネという人だが、この人の作品群ははっきり言ってB級ばかりなので、この人が勘定されることはない。つまり「4人のセルジオ」という言い方はしないのである。
 コルブッチもレオーネも1990年代に亡くなってしまったが、ソリーマは2015年まで存命だった。電子版ではあったが、新聞に死亡記事も載った。私の世代の人ならチャールズ・ブロンソン主演の『狼の挽歌』という映画を知っている人も多いのではないだろうか。これを撮ったのがソリーマである。

 さて、辞書などには出ていないが(当たり前だ)Nicht-Leone-WesternあるいはNon-Leone-Westernという言葉がある。「非レオーネ西部劇」。セルジオ・レオーネを別格扱いし、それ以外の手で製作された西部劇という意味である。言葉どおりに取ればジョン・フォードもハワード・ホークスも非レオーネ西部劇のはずだが、普通マカロニウエスタンのみを指す。人が3人寄れば必ず話題に上るのが「最高の非レオーネ西部劇はどれか?」ということであるが、うちにある本の巻末にも「非レオーネ西部劇ランキング」というアンケートの結果が載っている。もちろんこの手のアンケートはそこら中でいろいろな人がやっている上、これも母集団をしっかり設定しているわけでもなんでもないので単なる茶のみ話以上ではないが、見てみると結構面白い。

1.『復讐のガンマン』 1966、セルジオ・ソリーマ
2.『殺しが静かにやって来る』 1968、セルジオ・コルブッチ
3.『続・荒野の用心棒』 1966、セルジオ・コルブッチ
4.『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』 1967、ジュリオ・ペトローニ
5.『血斗のジャンゴ』 1967、セルジオ・ソリーマ
6.『群盗荒野を裂く』 1966、ダミアノ・ダミアーニ
7.『西部悪人伝』 1969、ジャンフランコ・パロリーニ
8.『さすらいのガンマン』 1966、セルジオ・コルブッチ
9.『情無用のジャンゴ』 1967、ジュリオ・クェスティ
10.『ガンマン大連合』 1970、セルジオ・コルブッチ
11.『怒りの荒野』 1967、トニーノ・ヴァレリ
12.『ケオマ・ザ・リベンジャー』 1976、エンツォ・ジロラーミ
13.『豹/ジャガー』 1968、セルジオ・コルブッチ
14.『続・荒野の一ドル銀貨』 1965、ドゥッチョ・テッサリ
15.『... se incontri Sartana prega per la tua morte』(日本未公開) 1968、
   ジャンフランコ・パロリーニ
16.『続・復讐のガンマン 走れ、男、走れ!』 1968、セルジオ・ソリーマ
17.『傷だらけの用心棒』 1968、ロベール・オッセン
18.『黄金の3悪人』 1967、エンツォ・ジロラーミ
19.『怒りの用心棒』 1969、トニーノ・ヴァレリ
20.『黄金の棺』 1966、セルジオ・コルブッチ

いかにソリーマの作品の評価が高いかわかる。私個人としては『ミスター・ノーボディ』が入っていないのが意外だ。もしかすると「ある意味ではレオーネ作品」と見なされて票が逃げたのかもしれない。
 以前にも書いたが(『22.消された一人』『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』の項参照)、『復讐のガンマン』の原題はLa resa dei conti「ツケの清算」、ドイツ語ではDer Gehetzte der Sierra Madre「シエラ・マドレの追われたる者」で、いかにもソリーマらしい気の利いたタイトルであった。私はこの映画にこの邦題をつけた奴を許さない。
 さらに許さないのがソリーマの二作目につけられた『血斗のジャンゴ』である。この映画の原題はfaccia a faccia、ドイツ語でもこれを直訳してVon Angesicht zu Angesicht(Face to face)という意味で、現に英語のタイトルもそうなっている。主役の名もジャンゴなどとは関係ないし、ストーリーも『復讐のガンマン』ですでに明確になっていたソリーマの社会派路線をさらに発展させ、登場人物の人格が映画の中で変わっていき善役と悪役がキャラクター転換するというマカロニウエスタンらしからぬ非常に練ったもの。主役を演じるのもトマス・ミリアンとジャン・マリア・ヴォロンテという大物だ。このタイトルはたぶん「いままで隠れていた自分の本当の姿に向き合う」という含みだと思うのだが、この傑作をどうやったら『血斗のジャンゴ』などと命名できるのが謎である。神経に異常がある人だったか、映画を全くみていないかのどちらかであろう。
 この二つが「ベスト非レオーネ西部劇」の上位にランクされているのも当然だが、実は私は「ベスト非レオーネ」どころか、レオーネの作品よりこっちの方が二つとも好きである。困るのは『復讐のガンマン』と『血斗のジャンゴ』のどちらが好きかと聞かれた場合だ。どちらも甲乙つけがたいからだ。
 ストーリーは『血斗のジャンゴ』の方に軍配があがるだろう。両主役のミリアンとヴォロンテもいいが、なんと言っても私がこの映画で好きなのは第三の主役、ミリアンとヴォロンテの間をウロチョロするウィリアム・ベルガーである。特にラストシーンでのベルガーはメチャクチャかっこよく、私としてはこれを「マカロニウエスタンで最も印象に残るシーン」として推薦したいほどだ。このシーンは砂漠での撮影だったが、そのとき雲が流れていて頻繁に光の具合が激しく変わったため、シーケンスのつながりを案じてソリーマは撮り直しも覚悟したそうだ。幸い出来上がったラッシュを見たらOKだったという。OK以上である。
 ただ、この映画にはマカロニウエスタン特有の「毒」というかエキセントリックさがやや少ない。普通の人の鑑賞にも堪えるまともな映画であることが裏目に出た感じだ。
 『復讐のガンマン』はなんと言ってもマエストロ、エンニオ・モリコーネのテーマ曲が地獄のようにいい。私はこのサントラを聴くたびにその場で死んでもいいような気になるのだ。以前誰かが「モリコーネ節」という言い方をしているのを見たことがあるが、この映画ではまさにそのモリコーネ節全開なのである。女性歌手クリスティ(本名クリスティナ・ブランクッチ、私の知り合いにこの人を「クリスティ姉さん」と呼んで慕っている人がいた)の歌声のイントロで虜にされた直後、賞金稼ぎリー・バン・クリーフが最初の獲物(?)に会うシーンでさっそくまた気高いメロディが響く。ちょっと高級なソリーマ映画にまさにドンピシャな気高さだ。ラスト近くで主役のトマス・ミリアンが追われていくシーンがあるが、そこで流れるエッダ・デロルソのソプラノのスコアの美しさは例のEcstasy of Goldに優るとも劣らない。このソプラノにノックアウトされたすぐ後、ラストの決闘シーンでもゾクゾクするようなモリコーネサウンドが惜しみなく注がれる。それもあってかこの映画の英語のタイトルはこの決闘シーンを売りにしてThe big gundownとなっている。

 この『復讐のガンマン』のサウンドトラックが死ぬほど好きなのは私だけではないらしく、やっぱり上述の本に載っていた「好きなマカトラランキング」ではこれが一位になっている。また、ソリーマ二作目ではなく、三作目の『続・復讐のガンマン』が入ってきている。ここではレオーネ映画のサントラも入っているから、つまり『復讐のガンマン』はベストマカトラということになる。なお、「マカトラ」というのはマカロニウエスタンのサウンドトラックの略である。作曲家の名前を見ればわかるように、マエストロの圧勝だ。

1.『復讐のガンマン』 1966、エンニオ・モリコーネ
2.『続・夕陽のガンマン』 1966、エンニオ・モリコーネ
3.『大西部無頼列伝』 1970、ブルーノ・ニコライ
4.『夕陽のガンマン』 1965、エンニオ・モリコーネ
5.『ウエスタン』 1968、エンニオ・モリコーネ
6.『さすらいのガンマン』 1966、エンニオ・モリコーネ
7.『Buon funerale amigos… para Saltana』(日本未公開) 1970、ブルーノ・ニコライ
8.『続・復讐のガンマン 走れ、男、走れ!』 1968、ブルーノ・ニコライ
9.『続・荒野の用心棒』 1966、ルイス・エンリケス・バカロフ
10.『西部悪人伝』 1969、マルチェロ・ジョンビーニ
11.『殺しが静かにやって来る』 1968、エンニオ・モリコーネ
12.『豹/ジャガー』 1968、エンニオ・モリコーネ
13.『荒野のドラゴン』 1973、ブルーノ・ニコライ
14.『星空の用心棒』 1966、アルマンド・トロヴァヨーリ
15.『un uomo, un cavallo una pistola』(日本未公開)、1967、ステルヴィオ・チプリアニ
16.『怒りの荒野』 1967、リズ・オルトラーニ
17. 『ガンマン大連合』 1970、エンニオ・モリコーネ
18. 『アヴェ・マリアのガンマン』 1969、ロベルト・プレガディオ
19. 『Anda muchacho, spara』(日本未公開) 1971、ブルーノ・ニコライ
20.『続・荒野の一ドル銀貨』 1965、エンニオ・モリコーネ

 もうちょっとバカロフの『続・荒野の用心棒』とオルトラーニの『怒りの荒野』のランクが高くてもいいんじゃないかという感じだが、このランキングがマカトラ、つまり主題曲ばかりではなく、映画に流れる全体の音楽をも考慮しているからかもしれない。メイン・テーマだけ考慮に入れたらこの二つはもっと上がるだろう。もっともそれでも『復讐のガンマン』の位置は下がるまい。『荒野の用心棒』が出てこないのもわからなかったが、私の持っているレコード(を焼き直ししたCD)はタイトルがFor a few dollars more、つまり『夕陽のガンマン』だが、『荒野の用心棒』の曲も全部納められている。だから上の第4位は『荒野の用心棒』も兼ねているのだと思う。
 それにしてもここにリストアップされたタイトル。涼しい顔をしてこういう映画の名をあげる投票者のフリークぶりには脱帽するしかない。

 ソリーマが生前のインタビューでモリコーネについて親愛の情をこめて語っているのを読んだことがある。当時はモリコーネはオスカーの名誉賞さえ貰っていなかったのだが、ソリーマはこのアカデミー選考委員会をけなして「モリコーネにやらなくて誰にやれというのでしょうかね」と言っていた。さらに「まあ、でもモリコーネは作品を作りすぎたんですよ。で、選考委員もどれにやっていいのかわからなくなったんでしょう」。つまり恥かしいのは音楽賞をもらえていないモリコーネのほうではなくて、いまだにモリコーネに賞をあげ損ねているアカデミー会員のほう、というわけだ。その後モリコーネは名誉賞とさらにその後音楽賞をとったが、「今頃やっとマエストロにあげやがって。アカデミー賞選考委員も見苦しい奴らだな」と思ったのは私だけではないはずだ。
 さらにソリーマは続けて「いやしかし、エンニオはあれだけの天才なのに、見かけはまるで郵便局のおじさんってのが愉快ですな」。こういう事を堂々といえるのはソリーマだからこそだろう。

 私の知り合いにはマカロニウエスタンに詳しい人も大分いるが、彼らの詳しさといったらとても私なんかの太刀打ちできるところではない。私が「ソリーマの作品はその質の割には知られていなくて残念ですね」とかうっかり言うと「そんなことはないですよ。まともな人なら少なくとも彼の最初の2作は皆知ってます。『復讐のガンマン』なんてマカロニウエスタンの話になれば必ず口に上ります」と反論され、「『血斗のジャンゴ』ではウィリアム・ベルガーが一番好きなんです」というと「なるほど。まあでも、普通の日本人はベルガーと言うと『西部悪人伝』のバンジョーやった人、といったほうが通るんじゃないかな」とコメントされる。『西部悪人伝』は上記のリストに両方とも登場しているが、リー・ヴァン・クリーフが主役をやった作品である。私はまだ見たことがない。この人たちの「まともな人」「普通の日本人」の定義がちょっと私の考えているのと違う気がするが、とにかく彼らからみたら私など完全に無知な小娘であろう。随分年食った小娘ではあるが。


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 この際だから年をバラすが(何を今更)、小学校の頃だからもう半世紀近く前にもなろうというのに、モリコーネの『さすらいの口笛』を初めて耳にした時の驚きをまだ覚えている。
 私は本来音楽の感覚や素養というのものが全くない。例えばマドンナとかいう歌手の名前と顔はかろうじて知っているが曲はひとつも知らない。その他のミュージシャンについては推して知るべしで、名前は聞いたことがあっても顔も曲もわからない。ロッド・スチュアートとジャッキー・スチュアートの区別がつかない(この二人顔が似ていないだろうか?)。最近のミュージシャンで顔も曲もある程度心得ているのはABBAだけである。それも全く「最近の」歌手でないところが悲しい。
 前にも書いたとおり(『11.早く人間になりたい』参照)、私は視覚人間である。小中学校のころ、クラスメートがどこかの歌手のコンサートに行ったりレコード(その頃はまだレコードだった)を買ったりしているとき、私は専ら小遣いを美術館通いに使っていた。上野の近代西洋美術館にはよく行ったし銀座の画廊などにも時々行った。銀座の東京セントラル美術館が開催したデ・キリコ展は2回も足を運んだ。俗に言うこましゃくれたガキだったのである。音楽を鑑賞する能力のないこましゃくれたそのガキが、なぜモリコーネだけは聴いて驚いたかというと曲が直接視覚に訴えてきたからだ。私には『さすらいの口笛』を聴いた瞬間、夜になって暗く涼しくなった砂漠を風が吹いている光景がはっきりと見えた。この「視覚に訴える」というのはたとえば例のEcstasy of Goldでもいえることで、コンサートなどではやらないことが多いが、サントラだと曲の最後の部分に金箔が宙を舞っているような「音響効果」がはいる。私はこの部分が一番好きだ。また『殺しが静かにやってくる』では雪片が空を漂っているのが目の前に浮かび上がってくるし、『復讐のガンマン』(『86.3人目のセルジオ』参照)では遠くにシエラ・マドレの山脈がかすんでいるのがわかる。それも映画のシーンとは無関係に曲自体が引き起こす視覚効果として作用するのだ。
 だから私は映画を見たら音楽が素晴らしかった、というのではなく逆にモリコーネの音楽を聞いて度肝を抜かれたのでマカロニウエスタンを見だした口である。マカロニウエスタンの後期作品、『夕陽のギャングたち』とか『ミスター・ノーボディ』あたりになると、音楽を音楽として鑑賞する能力のない私にはキツくなってくる。しかしモリコーネがヨーロッパを越えて世界的に評価され出したのはそこから、私にはキツくなってからだ。だから他のモリコーネのファンの話についていけなくて悲しくなることがある。まともなファンなら音楽の素養があるのが普通だから、『ミッション』や『海の上のピアニスト』、『ニュー・シネマ・パラダイス』を論じはじめたりするので私には理解することができないからである。私がモリコーネの曲を半世紀以上聴き続けているのに自分で「モリコニアン」だと自称できないのはそれが原因だ。その資格がないような気がするのだ。私にとっての心のモリコーネはいまだに『さすらいの口笛』だからだ。
 ただ、前に新聞の文芸欄で、ということはちゃんと鑑賞能力のあるコラムニストが書いていたということだが、そこでモリコーネの音楽を評して「催眠術効果」と言っていた(『48.傷だらけの用心棒と殺しが静かにやって来る』参照)。確かChi maiをそう評していたと記憶しているが、なるほど私は小学生の頃まさにその催眠術にかけられて以来いまだに覚めていないわけだ。Chi maiもそうだが、『血斗のジャンゴ』のテーマ曲の催眠術効果も相当だと思っている。
 
 さて、そうやって小学生の頃から音楽というとモリコーネとあとせいぜいソ連赤軍合唱団くらいしか聴かない私は周りから「典型的な馬鹿の一つ覚え。ここまで音楽の素養のないのも珍しい」と常に揶揄され続けてきた。私自身もこのまま音楽鑑賞の能力ゼロのまま、馬鹿のままで死ぬことになるだろうと覚悟していたのだが、運命の神様がそれを哀れんででもくださったか、よりによって私の住んでいるドイツのこのクソ田舎の町にモリコーネがコンサートにやってきたのである。家の者が街角でポスターを見たと言って知らせてくれたのが半年ほど前だが、最初私はてっきりまたからかわれたのだと思って、「いいかげんにもうよしてちょうだい!」と情報提供者を怒鳴りつけてしまった。それが本当だと知ったときの驚き。気が動転してチケットを買うのが2・3日遅れた。金欠病なので一番遠くて安い席を買ったが、販売所のおねえさんが私が最初くださいと言った席を見て、そこだと確かに少し近いが角度が悪いのでこっちにしたほうがよく見えますよと同じ値段の別の場所を薦めてくれた。それをきっかけに雑談になったが、なんとこの人は日本に観光旅行にいったことがあるそうだ。そうやって受け取ったチケットに印刷してあるEnnio Morriconeという名前を見たらもう頭に血が上り、次の瞬間上った血が一気に下降して貧血を起こしそうになった。家では「半年も先で大丈夫なのか。」と言われた。「大丈夫」って何がだ?
 でも私自身最後の最後まで半信半疑だったのは事実である。『さすらいの口笛』を日本で聴いてから半世紀近く経って、さほど大きくもないドイツの町でその作曲家に遭遇できるなんて話が出来すぎだと誰でも思うだろう。そういえばコンサートの一週間ほど前にイタリアン・レストランに行く機会があったが、そこの従業員がイタリア人だったので(ドイツ語に特有の訛があったのですぐわかった)、勘定を済ませた後おもむろに「あのう、質問があるんですが。エンニオ・モリコーネって知ってますか?」と聞いてみたら「知っているどころじゃない、スパゲティウエスタンは私の一番好きな映画ですよ」といいだして話がバキバキに盛り上がってしまい、私の同行者たちは茫然としていた。ただこの人はモリコーネがこの町にやって来るということは知らなかったので、教えてあげたついでにチケットを買ったんだと自慢してやった。私自身が半信半疑なのを吹き飛ばしたかったのである。

チケットを手にしてもまだ信じられなかった。情けないことに一番安い席である。
ticket-Morricone-Fertig

 しかしその日3月9日マエストロは本当にやってきた。随分年を取っていた。もっとも世の中には年を取ると若い頃の顔の原型をとどめないほど容貌が変わってしまう人がいるが、そういう意味ではマエストロは本当に変わっていなかった。
 話に聞いていた通り立ち居振る舞いに仰々しいところが全くない人だった。ミュージシャンだろ指揮者だろがよくやるように、観客に投げキッスをしたり手を振ったり、果ては頭の上で手を打って見せて暗に観客に拍手を要請したりという芝居じみた真似は一切しない。普通に歩いてきて壇上に上がり、黙々と指揮をして一曲済むたびにゆっくりと壇から降りて聴衆に丁寧なお辞儀をする。そしてさっさとまた指揮に戻る。終わると普通に歩いて退場する。それだけだ。指揮の仕方も静かなもんだ。髪を振り乱したりブンブン手を振り回したりしない。とにかく大袈裟なことを全くしない。感動して大歓声を挙げる観客とのコントラストが凄い。
 次の日の記事にも書いてあったが映画音楽を演奏する際は壇上のスクリーンにその映画のシーンを映し出したりすることが多い。私の記憶によればジョン・ウィリアムズのコンサートにはクローン戦士だろダースベイダーだろのコスプレ部隊が登場して座を盛り上げていた。マエストロはそういうことも一切させない。スクリーンには舞台が大写しにされるだけ。間を持たせる司会者さえいない。つまりコンサートを子供じみた「ショウ」や「アトラクション」にしないのだ。いろいろと盛りだくさんにとってつけて姑息に座を盛り上げる必要など全くない。あえて言えばそういうことをやる人とは格が違う感じ。

 さて、コンサートでは『続・夕陽のガンマン』『ウエスタン』、『夕陽のギャングたち』をメドレーでやってくれた。『ミッション』で〆てプログラムを終了したが当然のことに拍手が鳴り止まず、アンコール三回。本プログラムにもあったEcstasy of Goldをもう一度やってくれた。私としてはさらにもう一度これを聴きたかったところだ。とにかく拍手をしすぎてその翌日は一日中掌と手首の関節が痛かった。また、席が遠いため双眼鏡を持っていってずっと覗いていたため目も疲れて翌日は視界がずっとボケていた。やれやれ、こちらももう若くはないのだ。

 コンサートの詳しい経過などはネットや新聞にいくらでも記事があるので今更ここでは述べないが、一つ書いておきたい。アンコールの3曲目にかかる直前、マエストロが壇上に楽譜を開いてから、突然「あれ、これでよかったかな皆さん?」とでも言いたげに観客の方を振り返ったのである。観客席からは笑いが起こった。それは「ひょうきん」とか「気さく」とかいうのとはまた違った、何ともいえない暖かみのある動作だった。小さなことだが非常に印象に残っている。
 このやりとりを私はこう考えている。モリコーネのコンサートでは曲の選択の如何にかかわらず、必ずといっていいほど後から「あの曲をやってほしかった」とか「この曲が聴きたかった」というクレームをつける人が現れる。まあ500もレパートリーがあるのだからそれも仕方がないかもしれないが、私は自分の知っている曲だけ聴きたいのだったらコンサートなんかに来ないで家でCDでも聴いていればいいのにと思う。好きな曲をやってくれなかったからといってスネるなんてまるでおやすみの前にママにお気に入りのご本を読んでくれとせがむ幼稚園児ではないか。それを世界のマエストロ相手にやってどうするんだ。少なくとも私は自分のお気に入りの曲を聴くために行ったのではない、モリコーネを見にいったのだ。そこで自分の知らない曲をやってくれたほうがむしろ世界が広がっていいではないか。
 そういう選曲についてのクレームというかイチャモンにモリコーネ氏は慣れっこになっていたに違いない。それで「これでよかったかな」的なポーズをとって見せたのではないだろうか。そして数の上から言えば私のような「モリコーネの音楽そのもの」を鑑賞しに来る観客の方が圧倒的に多いだろうから、「ははは、いますよねそういう人って。どうか何でも演奏して下さい、マエストロ」という意味合いで笑いが起こったのではないだろうか。

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 セルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』の話は『98.この人を見よ』でもう終わりのつもりだったが、考えてみたらもう一つあった。イーストウッドのポンチョについてである。

 レオーネの『荒野の用心棒』が盗作として黒澤明と東宝映画から訴えられ、製作のジョリ・フィルムがそのおかげでガッポリ慰謝料をふんだくられ、レオーネが後に回想して「『荒野の用心棒』は今まで私が作った中で唯一つ全く収入をもたらさなかった映画」とボヤいたという話は有名だ。
 その際レオーネがどうして他の監督のようにアメリカ西部劇かギリシア・ローマ史劇からモティーフを持ってこないで日本映画からパクったのかは、まあわかりやすい図式である。51年に『羅生門』がヴェネチアでグランプリを取ってから黒澤映画はイタリアに知れわたっていただろうし、60年にジョン・スタージェスが『荒野の七人』で黒澤映画をリメークして成功し、サムライ映画が西部劇のモティーフとして通用することははっきりしていた。そこへ61年、三船敏郎が『用心棒』でヴェネチアの男優賞を取ったからレオーネはそこでこの映画を知ったに違いない。

 この1961年というのは考えようによっては実に含蓄のある年で、まさにそのちょうど100年前、1861年にそれまで多くの小国に分かれていたイタリアがヴィットリオ・エマヌエレ二世の下に統一され、「イタリア王国」が誕生したのである。第二次大戦以後このイタリア王国が共和制になった。途中ムッソリーニなどに引っ掻き回されりしたが、イタリアの現在の国境が確立したのは1861であることに変わりはない。
 このイタリア統一の立役者となり、今でもイタリアで、というよりヨーロッパで英雄視されているのがジュゼッペ・ガリバルディという革命家で、当時ブルボン家の支配下にあったシチリアとイタリアの南半分を解放した。その、自分が命がけで解放したイタリア領土をガリバルディは自分で支配しようとはせずに、北イタリアを支配していたサルディニア王国の国王ヴィットリオ・エマヌエレ二世に献上して男を上げた。もっともこの領土献上は純粋に美談というわけではなく、本来共和制を望んでいたガリバルディには不本意な面もあったし、影でサルディニア王国の政治家カヴールがいろいろ暗躍したらしいが、ともかくこのガリバルディが、多くの革命家と違って権力とか地位とか金とかそういうものにはあまりガツガツしていなかったことは事実である。未だにこの人の人気が高いのはそのせいだろう。

 ガリバルディは若いころから統一イタリアを目指してマッツィーニ率いる青年イタリア党に参加し、一度死刑判決を受けて警察に追われ、南米に亡命している。その地、ウルグアイとブラジルでも革命を助けて12年間活躍した。ウルグアイの首都モンテビデオにはいまでもガリバルディの記念館が建っている。
 ころあいを見てガリバルディは南米から帰国するが、その時はポンチョにソンブレロといういでたちで、これが後にイタリアでも彼のトレードマークになった。ポンチョの下には常に赤いシャツを着ており、これも「赤シャツ隊」として有名になった。

 さて、そこで問題だ。

 『荒野の用心棒』が作られる直前、つまりヴェネチアで黒澤の『用心棒』が紹介された当時、イタリアで建国100年記念を祝う催しの類が全く行なわれなかったということは考えにくい。そしてそこでただでさえ英雄視されているガリバルディがイタリア人の話題になっていなかったはずはない。
 こういう雰囲気の中でレオーネは『荒野の用心棒』を撮ったのだ。その脳裏をガリバルディが横切ったに違いない。レオーネがイーストウッドにポンチョを着せたのはこのためだと私は思っている。イタリア製西部劇が70年に入ってからさかんにメキシコ革命をモティーフとして扱い出したのもこれで納得がいく。メキシコ革命を扱っていなくてもマカロニウェスタンにはポンチョを着てソンブレロをかぶった農民というかガンマンというかやたらと出てくるが、これもガリバルディからの連想なのではないだろうか。もちろん、『荒野の用心棒』でアメリカ農民部落ということにしても別によかったはずの場所の設定をわざわざメキシコにして住民にソンブレロをかぶせたのは、直接には『荒野の七人』からインスピレーションを受けたのかもしれないが。まあレオーネも結構あちこちからいろいろ持って来ているものだ。

 しかも当時ガリバルディは1851年製造の海軍用コルト36を常に武器として携えていたという。1851年といえばロンドンで最初の万国博覧会が開かれた年だが、ここにアメリカが出品したものの一つが「コルト36」だったそうだ。ここでも話が見事に符号している。またレオーネの『荒野の用心棒』に続く「第二のセルジオ」(『86.3人目のセルジオ』参照)、セルジオ・コルブッチ監督の『続・荒野の用心棒』では悪役ジャクソン一味がフランコ・ネロを襲いに来て逆にネロのガトリング砲にやられるシーンでKKK宜しく顔を不気味な頭巾で覆い隠しているが、これが赤い頭巾だった。またジャクソン役のエドゥアルド・ファハルドがいつも首に赤い襟巻き(せめてスカーフと言ってくれ)を巻いているが、これらはガリバルディの赤シャツの暗示だと解釈できないこともない。顔隠しの頭巾を普通にKKKからもじったのなら色は白だったはずだからである。
 そういえばイタリア製西部劇のスターにジョージ・ヒルトンという俳優がいる。決して「私の好きな俳優」とは言えないのだが、純粋に顔だけを問題にしたらマカロニウェスタンのスターの中で最もイケメンの部類に入るのではないだろうか。このヒルトンはウルグアイのモンテビデオの出身である。いくらイケメンとは言え、どうしてよりによってそんな遠いところから俳優を引っ張り出して来たのか。ガリバルディつながりとしか思えない。
 さらに(まだある)、これもイケメンではあるがやっぱりB級スターにアンソニー・ステファンという人がいる。この人は引退後ブラジルに移住してそこで亡くなっている。なんでここでいきなりブラジルが出てくるのか。このブラジルもガリバルディの活躍地である。
 とにかくマカロニウェスタンを見ていると背後にガリバルディがチラチラしていて気になって仕方がない。

 以下の文章はタイムライフ社の歴史書「人間世界史」からの抜粋だが、

「1864年4月のその日、50万を越える熱狂的な群集は、ロンドンの街頭に人垣をつくり、外国から訪れてきた英雄に向かって、嵐のような歓声を浴びせた。いまだかつて例を見ぬ歓迎ぶりである。例の有名な赤シャツと南米のポンチョを着た彼(…)こそ、ヨーロッパ中でもっともロマンチックで、人気の高い男なのだ。ジュゼッペ・ガリバルディ、彼の名を耳にするだけで、人々の胸はときめいてくる」

 このちょうど100年後の1964年に『荒野の用心棒』が作られ、ヨーロッパ中を熱狂させたことわけだ。イタリア人がヨーロッパ中を熱狂させた例はこのガリバルディとレオーネの二人くらいなのではなかろうか。なお、『人間世界史』のそのページには「ガリバルディのピストルで、1851年に作られた海軍用のコルト36」の写真が載っている。フレーム上部がなくてシリンダーがむき出しの外観だ。さらに聞くところによるとこのモデルは『続・夕陽のガンマン』でも主役(?)だったそうだ。ガリバルディ氏の方は写真を見るとソンブレロを被ってポンチョを着ており、雰囲気はもう完全にマカロニウェスタンだ。あと足りないのはモリコーネの音楽だけである。

 ところで私はこのガリバルディだろポーランド建国の英雄コシューシコだろのことはかろうじて高校の授業で教わった。さすがにコルト36のことまでは教わらなかったが。「かろうじて」というのはそのちょっと後、第一次世界大戦が終わる頃になると時間切れというか学期末が来てしまい、「あとは各自で教科書を読んでおくように。期末試験には出るから」と放り出されたからである。

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 以前に『ブロークバック・マウンテン』を見たときになぜか突然高校生の時早川文庫で読んだラリイ・マクマートリーの『遥かなる緑の地』という小説を思い出した。プロットというかモティーフに並行するものを感じたからである。何の変哲もない小さな町で一生を過ごした男の回想録。もちろん若いころはいろいろ外に出たり事件もあったが歳を取ると何もかも色あせて、人生の夕暮れになって来し方を回想してほっと溜息をつく。そんな感じである。でもどうしてこの小説が突然心に浮かんだのか自分ではわからないまま、何気なくこの映画のクレジットを見て驚いたの驚かないのって(驚いたのだ)。脚本がまさにそのラリイ・マクマートリイだったのだ。この人が小説家から脚本家に転向していたことをそのとき初めて知ったが、調べてみたら『遥かなる緑の地』も映画化はされている。地味な出来だったので忘れられているが。
 私のような素人は映画というとまず主演俳優、次に監督に目が行き脚本までは気がまわらないことが多いが考えてみれば脚本は映画のいわば素描、設計図である。黒澤明も「映画監督は本が書けなければダメだ」と言っていたそうだし、絵でも画家の特徴が最もよく出るのは素描である。仕上げられた絵だけ見ていてもわからない部分があるだろう。

 さて、私がこのブログで執拗に話題にしている『血斗のジャンゴ』の脚本を書いたのはセルジオ・ドナーティである。マカロニウェスタンの脚本家の最高峰だ。このジャンルの最高傑作として常にトップで言及され、他の作品の追随を許さない『ウェスタン』はドナーティの手によるものだ。あちこち「アヒル検索」(『112.あの人は今』参照)したり、家に落ちていた資料を調べてみると、レオーネは『荒野の用心棒』の脚本を最初このドナーティに打診したが断られたそうだ。でも次の『夕陽のガンマン』ではドナーティを引っ張り込むことに成功した。クレジットでは脚本ルチアーノ・ヴィンツェンツォーニとなっているが、陰でドナーティも協力したらしい。さらに『続・夕陽のガンマン』にもこの人は関わっていて(ここでもクレジットには出ていない)、あの、拷問行為が外にバレないように建物の周りで大音響で音楽を響かせるシーンはドナーティのアイデアとのことだ。その後『ウェスタン』で初めて正規に名前が出たが、『夕陽のギャングたち』を書いたのもドナーティである。
 ソリーマの『復讐のガンマン』、『血斗のジャンゴ』は両方ともドナーティの脚本。つまり『復讐のガンマン』は『続・夕陽のガンマン』の直後、『血斗のジャンゴ』は『ウェスタン』の直前に書かれたのだ。例えば『復讐のガンマン』と『続・夕陽のガンマン』だが、この二つの映画は時期的にほとんど同時に作られている。『続・夕陽のガンマン』は1966年製作で本国(イタリア)公開が1966年12月23日、『復讐のガンマン』が1967年3月3日で、『復讐のガンマン』がたった2ヶ月遅いだけである。ドイツの劇場公開は『復讐のガンマン』の方が半年も早く1967年6月27日、『続・夕陽のガンマン』が1967年12月15日。制作されてからほぼ一年間もどこで何をしていたのかね夕陽のガンマン君たち?

 こういう具合だからドナーティが関与しなかった黒澤のパクリ『荒野の用心棒』以降の作品、『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』(レオーネ)『復讐のガンマン』『血斗のジャンゴ』(ソリーマ)『ウェスタン』(レオーネ)間でモティーフというかストーリーに共通性が感じられるのも根拠のないことではない。どれも主人公が3人いて、誰と誰が実は味方なのかはっきりわからない、というより一応2者がくっついてもう一人と対決する形になっているのだが、この2者の結びつきがうさん臭く、どうもクリアに2対1という把握が出来ない、つまりいわば決闘が三つ巴になっているということである。
 その際ソリーマとレオーネでは三つ巴のパターンがちょっと違い、ソリーマでは最初2対1という形をとっていたのが最後に壊れて最初組んでいた二人のうちの1人が対抗側の1人に回る。『復讐のガンマン』ではウォルター・バーンズ(およびその一味)とリー・バン・クリーフとでトマス・ミリアンを追っていたのが最後でバン・クリーフがミリアンの側についてバーンズ(の前にさらに一味を二人)を撃ち殺すし、『血斗のジャンゴ』では逆にジャン・マリア・ヴォロンテとトマス・ミリアンの二人組みをウィリアム・ベルガーが追うが、最後の瞬間にミリアンがベルガーを守る側に立ってヴォロンテを殺す。
 つまりソリーマでは2対1が1対2になる、あるいはその逆というわけで敵対味方という二項対立自体は比較的はっきりしているが、レオーネではこの2人組そのものの結びつきがユルユルというか「組」になっていないというか、とにかく「2」があくまで暫定的でしかたなくくっついているというニュアンスが濃い。ソリーマとは逆にレオーネではむしろ始め危なっかしかった2人組が最後でやっぱりこの二人はコンビであったことがわかる。いわばソリーマとレオーネでは胡散臭さの方向が逆になっているのだ。それでも『夕陽のガンマン』では仲間割れを起こしながらもイーストウッドとリー・バン・クリーフは結構明確にコンビをなしてジャン・マリア・ヴォロンテと対抗しているが、『続・夕陽のガンマン』だと二人組みの結束が相当怪しくなってきて、組んでいるはずのイーストウッドとイーライ・ウォラックは常に互いをだましあい出し抜きあい、ほとんど敵同士である。この二人と対抗するリー・バン・クリーフとの決闘シーンも2対1というより文字通り三つ巴の決闘。さらにそれが『ウエスタン』になると果たしてチャールズ・ブロンソン&ジェイソン・ロバーツ対ヘンリー・フォンダと言っていいのかさえ怪しくなってくる。かと言って完全な三つ巴でもない。ロバーツが「フォンダ側にはつかない」ということである意味では明確にブロンソン側に立っているからである。しかしフォンダとブロンソンの果し合いには関与していない。
 もっともソリーマの『復讐のガンマン』もリー・バン・クリーフ側のバーンズの周りにさらに何人かくっついていて、そのうちの1人Gérard Herter(本当はGerhard Härtter、ゲルハルト・へルター)演じるフォン・シューレンベルクとリーン・バン・クリーフは最初から仲が悪いから二項対立にちょっとヒビが入ってはいる。しかしそれより興味深いのは、途中で追われる側のトマス・ミリアンが吐くセリフだ。「人間には2つのグループがあるのさ。一つは逃げるほうで他方はそれを追いかけるんだ」。これはレオーネの『続・夕陽のガンマン』でイーストウッドがイーライ・ウォラックに言う、「人間には2種類のタイプがあってな。一方は銃を持っている、他方は穴を掘るんだ」というのとそっくりだ。もしかしたら目潰しシーンのほかにこのセリフもドナーティの発案かもしれない。

『夕陽のガンマン』
一応組んでいる(はず)のイーストウッドとリー・バン・クリーフ
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それと対立するジャン・マリア・ヴォロンテ
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『続・夕陽のガンマン』
胡散臭さ満載のコンビイーストウッドとイーライ・ウォラック。
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そのコンビよりさらに胡散臭い対立側のリー・バン・クリーフ
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『復讐のガンマン』
最初ウォルター・バーンズとリー・バン・クリーフが組んで
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トマス・ミリアンを追うが最後リー・バン・クリーフはミリアン側につく
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『血斗のジャンゴ』
追う側ウィリアム・ベルガーが
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ジャン・マリア・ヴォロンテと共に追われる側だったトマス・ミリアン(右)に命を助けられる。
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『ウエスタン』
そもそもコンビにさえなっていないチャールズ・ブロンソンとジェイソン・ロバーツの「コンビ」
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ブロンソンの仇ヘンリー・フォンダ
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 話が少し逸れるが、このマカロニウェスタンらしからぬ社会的なプロットの『血斗のジャンゴ』でウィリアム・ベルガーのやった役、「ピンカートン探偵社のチャーリー・シリンゴ」というのは実在の人物である。アメリカではワイアット・アープとかあの辺といっしょのカテゴリーで伝説と化している人物だ。奇しくもシリンゴはベルガーの生まれた年、1928年に死んでいる。
 この人はアープや、日本で言えば坂本竜馬のようにTVや映画に何回も描かれている。なんとウィキペディアにも「映画化されたシリンゴのリスト」という項があって、しっかり『血斗のジャンゴ』が載っていた。もっともベルガーのシリンゴには(a fictionalized) Siringoという注がついていたが。別の場所でも「チャーリー・シリンゴはセルジオ・ソリーマの映画でウィリアム・ベルガーによっても演じられている」という記述を見かけたから、ひょっとしたらこの映画は「チャーリー・シリンゴの映画化」というそのことだけで、結構いつまでも名が残るかもしれない。まさかそれを意図的に狙ったわけでもないだろうが。
 さらに話が逸れるが、例のあまりにも有名な『ウエスタン』のメインテーマ。これを作るのにモリコーネが非常に苦しんだことは最近のインタビューでモリコーネ氏自身が語っているそうだ。氏がいつまでも「何もしてくれない」ので、業を煮やしたレオーネは途中で他の人にも作曲を依頼し、そっちを録音するところまで行ったという。だがやっと出来上がってきたモリコーネの作品を聴いてレオーネは半分決まりかかっていた別のスコアをボツにした。そりゃモリコーネのあの曲と比べられたらどんな曲だってボツになるだろう。

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