アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:筑波大学

 前に故M.ジャクソンがドイツにコンサートに来た際、本屋に自分の伝記のドイツ語訳が『Die Jacksons』というタイトルで並んでるのを見て「俺を殺す気か?!」と勘違いして怒った、という話を聞いたことがある。ジャクソン氏がその後本当に十分若いまま亡くなってしまったのでこの話はあまり笑えないのだが、Dieは「死ぬ」という英語ではなくドイツ語定冠詞の複数主格形である。だから『Die Jacksons』は「死ね、ジャクソンめら」などではなくて単にドイツ語でThe Jacksons、つまり「ジャクソン・ファミリー」という意味に過ぎない。

 ところで、ドイツ語には女性の名前にUschiというのがある。発音も字の通り「ウシー」。私だと、あの、モウモウ鳴いていまひとつ動作がノロい例の角つき動物を思い浮かべて「こんな名前はつけられたくない」と思ってしまう。 アクセントの位置が違うのでむしろ「齲歯」(うし)、つまり虫歯と解釈した方がいいのかも知れないが、そのほうがよけい悪い。ロシア語でもヒドい事になっていて、Uschiはуши(ウシー)、つまり「両耳」という意味になり、初めてドイツ女性にこう自己紹介されたときは思わず耳を見てしまった、とさるロシア語の先生が言っていた。
 その先生がさらに続けてくれた話によると、Bianca(ビアンカ)という名前はпьянка(ピヤンカ)としか聞えないんだそうだ。そのпьянка(ピヤンカ)とは「酒盛り」または「ベロベロに酔った状態」。こういう名の女性はつまり「酒飲み女、酔っ払い女」ということだ。

 女性の名前ばかりではない。ドイツの男性の名前にGeroというのがある。Gerは古高ドイツ語の「槍」から来ており、転じて「槍を持つ人」という意味、ドイツ語の男性の名前Gerhard(ゲルハルト)フランス語のGérard(ジェラール)、英語のGarret(ギャレット)という名前の中のGerまたはGarもこれだそうだ。ロシア語の普通名詞герой(ゲローイ)「英雄」もこれかと思ったらどうもこちらの方はギリシア語ήρως((h)eros)「英雄」からの借用語らしく古高ドイツ語のGerとは関係がないようだ。むしろ英語のheroのほうがгеройと同源らしい。GermanあるいはGermanyのGerも「槍」だろ「英雄」だろだと思っているドイツ人がいたが、GermanのGerはおそらくケルト語の由来で、古アイルランド語garim「騒がしい」か、またはgair「隣人」と同源、つまり「槍」と「ゲルマン」ではゲルはゲルでもゲルが違い、別に「ドイツ人は勇壮だからゲルマンという名前」というわけではないのだ。それでもドイツ語ネイティブにはGeroという名前が「勇壮で非常に男らしく」響くということだが、いくら男らしかろうが金持ちだろうがハンサムだろうが、こういう名前の男性と結婚したがる日本女性はいないと思う。現に私など気遅れがしてここでこの名前にルビを振ることが出来ない。

 ギリシア語のへロスがロシア語ではゲローイになる、と聞いて思い出した。そういえばプーシキンの散文作品「スペードの女王」の主人公がゲルマンという名前のドイツ人だが、私はこれを相当永い間「ドイツ人だからゲルマンという名前」なのかと思い込み、プーシキンにしては名前のつけ方が安直だと思っていた。ところが安直だったのは私の方だった。日本語やドイツ語のhをロシア語ではgで写し取るのだ。だから「ヨコハマ」はロシア語では「ヨコガマ」、「ハンブルク」は「ガンブルク」になる。なのでロシア語の「ゲルマン」は本来のドイツ語ではHermann(ヘルマン)、日本の「あきら」とか「まさお」のように、ドイツでは極めてありふれた男性名だ。

 まだある。昔授業で読まされていたロシア語のテキストにСветлана(スヴェトラーナ)という名の女性が出てきたことがあるのだが、この女性が時々愛称のСвета(スヴェータ)で呼ばれていた。私としては美人という設定のこの女性とこの名前の組み合わせに違和感を感じた。「スベタ」じゃあねえ…

 こういうことが続くと自分の名前もどこかの言語ではヤバいことになっているのではないかと気になって、おちおち安心して自己紹介も出来ない感じになってくる。現に「勝男さん」はイタリア語では相当悲惨なことになっているそうではないか。またあの、日本人にとっては聖なる名前の「富士」はドイツ人にはfutsch(フッチ)と聞こえるそうだ。これは「おジャン」とか「イカれた」とか「ポシャッた」とか「ダメになっちゃった」とかいう意味。つまり「富士山」は「ヘタレ山」か。

 もっともこれらは母語の音韻構造をつい外国語のそれに投影してしまっただけだからまあ、仕方がないと言えば仕方がない。母語でさえ名前を誤解釈してしまうことがあるのだから。何を隠そう私は昔、東京から利根川を越えて行ったところにある、さる荒野の大学にいたことがあるのだが、下見がてらにはるばる東京から願書を出しに行った際、バスが行けども行けども畑の中を走り続け、いいかげん不安になり始めたころやっと町らしい景色になってきたと思ってホッとしたはいいがそこの通りが「東大通り」という名前だったので驚いた。一瞬「どうしてこんなところに東京大学があるんだ。ここは筑波大学(あ、大学名バラしちゃった)じゃないのか?!」といぶかしく思ったものだ。その後大学在学中も、卒業してからでさえも周りに聞いてみたのだが、いまだにこの名前を一発で「ひがしおおどおり」と読めたという人に会ったことがない。 なおこの大学の北の方には「北大通り」というのが走っているが、これも別に北海道大学のことではなく、「きたおおどおり」と読むのが正しい。


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 おおまだこんな物が本棚にあったのかと、ふと学生時代に使った「言語学入門」の教科書(Studienbuch Linguistik)をめくって見る、内心「ふふん、入門書か」という感じでエラそうに高をくくって覗いたつもりが、改めて読み始めてみると「ふふん」どころではない、面白い、というか何を隠そう本当に勉強になってしまう。「そうか、あれはこういうことだったのか!」などといまさら感動する。こういうことをいまだにやっている私がいつまでたっても専門家になれないのは当たり前か。

 しかし以前にも誰か「入門書というのはド素人が読むものではありません。ある程度専門知識をつけた人が、自分の知識に穴がないか、自分の立場は全体からみるとどういう所にいるのか、他の人は大体どういうことをやっているのか確認するために読むものです」と言っていたが、当時は「まーたまた先生、逆説的ないい方してカッコつけちゃって」とか鼻であしらってしまった。私が浅はかだった。ほんとうにその通りかもしれない。
 しかしそうなるとその「ド素人」はどうやって勉強したらいいのだろう?地道に専門論文を読んでいくしかないのだろう。最初(まあそれが最初だけですめばいいのだが。私はいまだにこれだ)何を言ってるのか全くワケがわからない、蚊が石を刺している思いなのを、人に聞いたりしながらいくつも論文を読み進み、次第に専門書が理解できるようになっていく。これしかないのだ、きっと。
 そういえば昔筑○大学で受けた「音韻論概説」という授業がこんな感じだった。「概説」とは名ばかりで、教授はチョムスキー直下の生成音韻論の専門家だったが、カイザーという人とキパルスキーという人が共著で当時MITから発表したばかりの湯気のたっているガチな論文を学生に読ませたのである。この著者は有名な学者なので生成文法をやった人なら知っているのではないだろうか。「オートセグメンタル音韻論」とかを展開していた人たちである。まあ英語学専攻者なら他の授業でも生成文法をやってもらっていたからまだいいだろうが、私はそもそも英語そのものがあやしい「元美系」(『11.早く人間になりたい』の項参照)である。タイトルがすでにちんぷんかんぷんだったが、もちろん内容も見事なまでに理解できなかった。20ページか30ページのペーパーだったから、慣れた人なら1時間もあれば内容がスースー把握できただろうが、私は毎晩何時間もかけて2ページくらいづつ亀の歩みで読んでいくしかなかった。1ページ読み進むと前に書いてあったことを忘れて話が見えなくなるのでしょっちゅう逆戻りしたから、亀というより自分の尻尾を咥えていつまでも同じところを回っている蛇の心境だ。仕方がないから前を忘れないように余白に「あらすじ」をメモしつつノロノロすすむ。その学期では精神エネルギーを全部カイザー&キパルスキーに吸い取られて他の授業の勉強が全然できなかった。
 え、なぜそこまでしてそんなもんに付き合ったのかって?仕方ないだろう、最後に期末試験があったし、その単位は必須だったんだから。逃げが利かなかったのである。
 その期末試験の設問の一つを今でも覚えている。「キパルスキーは/ts/を二つの音素と見なしているか破擦音として一つの音素と見なしているか、その論拠も書きなさい」というものだった。ペーパーでは英語の音をそれそれウルサく細かく機械で音声解析した図表だろグラフだろを総動員して英語の音韻構造を考察していっていたが、英語のtsは破擦音として一音素とみなすべきである、というあまりスリルのない結論に達していた。その結論に至るまでの論旨をかいつまんで回答したのを覚えている。ただし覚えているのは「答えを書いたということ」だけであって、答えに何を書いたかは完全に忘れた。「忘れた」というよりはなから自分でも自分の書いている事がわかっていなかったのだ。ほとんど夢遊病者である。

 さて上にあげたこの「入門書」だが、何もない所からいきなりこういうことを言われて(143~144ページ)そもそも理解できる人、まして「そういうことか、これは面白い!こんなに面白いものならば私は是非言語学がやりたい!」などと思う人がいるのだろうか(いるかも知れない。世界は広いから):

「『完全解釈可能の原則』とは、表出された言葉はLFまたはPFにおいて完全に解釈できなければならない、つまり音声的にも、意味的にも解釈不可能ないかなる素性(そせい)をも示してはいけない、という意味である。さらに『素性(そせい)照合』で句内の素性がそれぞれの機能ヘッド(3.3.2章と比較せよ)と照合され、それらが一致すればハズされる(チェックされる)。解釈不可能な素性(そせい)が照合で消去されてしまうので、もう解釈の邪魔ができない。もし素性照合で付き合わされた要素間を『一致』(Agree)が支配しない場合はその素性を消去することができない。」

原文はこれだ。何も私がワザと理解しがたい訳をつけているのではないことがわかって貰えると思う。

Das Prinzip der vollen Interpretierbarkeit besagt, dass ein sprachlicher Ausdruck auf LF und PF voll interpretierbar sein muss, d.h. dass er keine phonetisch oder semantisch uninterpretierbaren Merkmale aufweisen darf. Bei der Merkmalüberprüfung werden nun die Merkmale der Phrase mit den Merkmalen des jeweiligen funktionalen Kopfs (vgl.3.2.2) verglichen und – falls sie übereinstimmen – ‚abgehakt’(gecheckt). Die uninterpretierbaren Merkmale werden beim Checken gelöscht und können so die Interpretation nicht mehr ‚stören’. Falls bei der Merkmalüberprüfung keine Übereinstimmung (Agree) zwischen den Merkmalen herrscht, kann das Merkmal nicht gelöscht werden.

執筆者は‚abgehakt’や‚stören’などの「普通の」言葉を使ったりして、一応素人にもわかるような説明をしようとしている様子は見て取れるのだが、むしろそれが裏目に出ている感じ。こんなのだと読むほうは、「ああ、ここまで一生懸命気を使ってもらっているのにそれでもわからない自分はなんて才能がないのだろう」と自信喪失して専攻を変えてしまうんじゃないか?

 この本は複数の学者が共同で書いた教科書の中の「生成文法」についての記述だが、同じ分野でも英語の入門書は次のような言い回しで説明している。わかりやすさで有名なA.Radfordという人の書いたSyntax:A minimalist introductionから(120ページ)。

「ここの私たちの議論から出てくるのは、定形動詞が強い呼応素性(そせい)を持つか弱い呼応素性をもつかという点に関して言語間でパラメーターに違いがあるということ、そしてそれらの素性の相対的な強さが助動詞以外の動詞がINFLまで上昇することができるかどうか、またゼロ主語が許されるかどうかを決めるということだ。けれど、それなら動詞に強い呼応素性のある初期近代英語のような言語でなぜ動詞がVからIに上昇できるのか、という疑問がわく。これに対しての答えの一つをチェック理論で出すことができる:ムーブメントが他の場合ならチェックされないで残る強い素性をチェックする、と仮定してみよう。」

What our discussion here suggests is that there is parametric variation across language in respect of whether finite verbs carry strong or weak agreement-features, and that the relative strength of these features determines whether nonauxiliary verbs can raise to INFL, and whether null subjects are permitted or not. However, this still poses the question of why finite verbs should raise out of V into I in language like EME  where they carry strong agreement-features. One answer to this question is provided by checking theory: let us suppose that movement checks strong features which would otherwise remain unchecked.

単語や内容が難しいのはドイツ語の入門書も英語の入門書もドッコイドッコイなのだが、英語のほうは読むほうが話しかけられている、つまり相手にされている雰囲気が伝わって来る。「です・ます体」で訳したくなるくらいだ。この著者は別の箇所で「ちょっと進み方が速すぎたかもしれない。もう一度前の例に戻って…」というような言い回しを使っているほか、時々本当に冗談を言うので「普通の読み物」として通用するのではないだろうか。

 実は他の場合でもドイツ語圏と英語圏との「入門書」には温度差というか態度というかに違いがある。ドイツ語の入門書からは上にも挙げたような、「ホレこれを読め」的な突き放したニュアンスを時々感じるのだが、英語の教科書は素人にも優しい。ただ、上のドイツ語の著者は学生ばかりでなくチョムスキーをさえ突き放していて、読むべき文献としてチョムスキーの名を挙げる際(147ページ)、

Chomsky: Immer noch richtungsweisend (und immer noch schwer lesbar) sind die Arbeiten von Chomsky (1992, 1995a und b, 2001, 2003).

チョムスキー: 今だに指導的な役割は失っていない(そして今だに読みにくい)のがチョムスキーの著書(1992, 1995a und b, 2001, 2003).

と堂々と書いている。つまり上で暗に示したかったのは「生成文法がわからないのはわざと難しい言い方をしているからです。わからくても結構です。何もこれだけが言語学じゃありませんから。ふふん」ということか。どうもそういう気がする。そういえば上の箇所で‚stören’などの普通の言葉を専門用語と並立してあるのも、「こいつらはやたらと難しい特殊な単語を使ってますが、ナーニ大したことはない、要は単にこういう意味ですよ」と、わかりにくいことをわかりにくい言葉でわかりにくく表現する生成文法系の用語の特殊性をおちょくっているのかもしれない。ドイツ人のユーモアと言うのはちょっと屈折していてついていくのが大変だ。


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 私が学生だった頃、とても怖い英語学の教授がいた。この先生は初日に開口一番、こういう口調でこういうことを言った。

「お前ら、大学で知識が身につくとか大それたこと思うなよ。大学は何のためにあるか知ってるか?「学問の世界」というのがどういうものか社会に出る前に垣間見ていけるようにあるんだ。どうせお前らは真面目に研究者になる気なんかなくて出たら就職とかするんだろ?それでいい、ただ、学問をナメることだけはするな」

その口調があまりにも怖かったことと(この先生は本当に学生を怒鳴りつけた)、英語学は必須単位ではなかったこととで、その一日だけで怖気づき、単位を放棄してしまった。

 それから20年以上もたってから、今度はドイツで怖い教授に遭遇した。ロシア文学の女性教授だった。後ろで学生がおしゃべりをしているとつかつかとそこまで行って、机の上に5マルク(当時)硬貨をバンと叩き付け、「授業に参加するのでなくおしゃべりをしに来ているのでしたら、ここは場違いです。カフェテリアに行ってやって下さい。コーヒー代にこの5マルクは寄付します。」とかいう超怖い先生だった。私はこの先生の下でドストエフスキーの『悪霊』をやった。この単位は必須だったので取らないわけにはいかなかったのだ。
 もう時効だろうからここで告白すると、そのゼミが開講される前の学期に掲示板に「来学期に開講される「悪霊」は、事前にこの作品をロシア語で全部読みおわっていることを参加条件とする」という指示が張り出されていたのたが、『悪霊』を原語で読破なんてしていた日には何年かかるかわからないから当然全部翻訳、しかも日本語で読み、原文はコピーだけしていかにも「ロシア語で読みました」という顔をして参加した。 単位のためのペーパーでは引用した箇所だけロシア語の文を書き移して、まるでロシア語で読んだかのような体裁を取り繕って提出した。
 そんな風に学期中は毎週この授業に出る度にギンギンに緊張して心労がたまっていた上、たかが30ページくらいのペーパーを書くのに学期休み中ずっと死ぬ思いをしたので提出した後は一週間ほど病気になった。まさに「悪霊」である。

 その他にもいろいろ怖い先生に会ったが、そこには共通した点があることに気がついた。先生たちが厳しいのはいわゆる知ったかぶりをする者に対してで、馬鹿学生が素直に無知をさらけ出した場合には案外寛容だったことである。
 もっともその英語学の先生の授業には一日しかいなかったので、ひょっとしたらあの学期間に能無しの学生が怒鳴られたりしていたのかも知れないが、ロシア文学の先生の授業では一度こんなことがあった:さる素朴な学生が堂々と「ゴーゴリの『外套』?知りません」と言い放ったのである。周りの者は今にも雷が落ちるのではないかと首をすくめたが、なんと先生は笑いだしてしまった。私も一度、ニヒリズムを定義してある文章の意味が全然わからず、自分のレポート発表で自分のレジュメにも掲げてあるその文章を読み上げた後、正直に「私本人はこれを理解することが出来ませんでした」といったら、教室の者と共に先生も笑い出し、ゆっくりと噛んで含めるように説明を始めてくれたものだ。

 同じような話を以前アメリカに留学していた人の書いたエッセイで読んだことがある。とにかく英語が聞き取れない、講義がわからない。とうとう自己嫌悪に堪えられなくなってガバと立ち上がり、「先生、一言も理解できません!」と叫んでしまった。それを聞いた教授が言ったそうだ。「○○、心配するな。他のアメリカ人だってわかってないんだから」

 さて、その「知ったかぶり」であるが、これには二種あると私は思っている。第一は「開陳型知ったかぶり」であって、よく知ってもいないことについて延々とウンチクをたれ出すこと、またはたれ出す人のことである。(本当は持ってなどいない)知識を開陳すること自体が目的なので目的と形が一致していて構造自体は単純だから、「単純性知ったかぶり」と名付けてもいいかもしれない。普通私たちが「知ったかぶり」として理解しているのはこの型の知ったかぶりである。やられた方はこの単純性知ったかぶりは無視、スルーすればいいだけだからまあ対処法も単純だ。
 もう一つの知ったかぶりは私が「質問型知ったかぶり」と名付けているもので、相手に対する質問の形をとって現れてくる。知ったかぶり者がいろいろゴチャゴチャ聞いてくるのだが、その質問の内容があまりにも抽象的だったりあいまいだったりで結局何が知りたいのかわからない上に、質問のそこここに聞きかじった学者の名前、ロクに理解もしていないそれらしき学術用語などを挿入してくるのが特徴だ。これは決して具体的に何かを知りたいのではなく、単に相手にかまってもらいたいのである。だから私はこの手の「教えてクン」はいわゆる「かまってチャン」の亜種であると考えている。
 また、質問という形式を取られるので相手もスルーするわけにはいかず、なにがしかの応答をせねばならないためそこに擬似会話が発生してしまう。「擬似会話」といったのはこれは真の意味での会話ではないからだが、とにかくこの「詳しい相手と会話できた」と錯覚することによって自分まで当該事項に詳しくなったような気になれる、つまりある種の自己欺瞞もこの質問型知ったかぶりの目的である。
 つまり質問型では目的(「相手にかまってもらうこと」と「専門家になったような気を味わうこと」)と形式(「質問」)が一致していない。「複雑性知ったかぶり」とでも名付けられるだろうか。この複雑性知ったかぶりへの対応は開陳型と違って一筋縄ではいかない。一応質問なので少なくとも一回目は対応せざるを得ないため、「最初からスルー」という手が効かないからである。何度か対応してしまってから、「もうこの話はやめましょう」と質問者から無礼者と思われるのを覚悟で会話を打ち切るか、「他の人の方が詳しいですからそっちに聞いてください」とたらい回しするか(これを私は「質問型知ったかぶりへの避雷針作戦」と名付けている)、さらには無知を装って相手が専門用語を連発したら「その言葉は知りません。どういう意味ですか?」とカウンター質問するか。とにかく回避するのに相当の心理的エネルギーを必要とする。もっとも最後のやり方は危険だ。なぜなら質問型知ったかぶりをさらに増長させ、開陳型知ったかぶりに移行させてしまうおそれがあるからである。いずれにせよ「途中からスルー」は「最初からスルー」よりも要するエネルギーは遥かに大きい。

 また、単なる無知と知ったかぶりとではバレた時の反応に本質的な差がある。単なる無知なら相手が専門家であるとか自分より詳しいとか、あるいは実は自分はよくわかっていなかったと判明した時点で「それは知りませんでした」とか何とか言いつつ顔を真っ赤にして(しなくてもいいが)退散する。ところが知ったかぶりには相手に比べて自分がドシロートであるとわかっていてもまだ専門家に向かってウンチクを垂れたりトンチンカンな質問をするのをやめない人がいる。相手がいくら答えてやっても間違いを訂正してやってもモノともせずに同じ内容を延々と繰り返すか、相手のちょっとした言葉尻を捉えてその言葉からまた新たに知ったかぶり・カウンターウンチクを展開しだすのである。私は前者を「壊れたレコード戦法」、後者を「出来損ないのガムテープ戦法」と呼んでいる。後者はいくら剥がしても剥がしても剥がされるたびに今度は全く別の箇所にベタッと張り付いてきて次はどこに粘着されるか予想できないからであるが、レコードにしろガムテープにしろ無理矢理「会話」の形式を保とうとするのだ。張り付かれたほうはいい迷惑だ。こういう知ったかぶり者はひょっとすると「相手がしていることに興味を持ったふりをして見せるのが人間関係の潤滑油」とでも思い込んでいるのかもしれないが、最初から話しかけないほうがよっぽど潤滑油なのではないだろうか。 

 なぜ私がこんなに知ったかぶりの心の機微を知っているかというとズバリ自分も身に覚えがあるからだ。生半可に口を出して無知がバレ、大恥をかいて退散したり、お世辞をいうつもりが逆に相手の気を悪くしてしまったことが数限りなくある。あのレポート発表の時も、わかってもいないニヒリズムの定義をエラそうに読みあげていたら、あの先生から「その定義をもうちょっと詳しく解説してください」とか突っ込まれていたかもしれない。今考えると冷や汗が出る。


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