アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:等語線

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は-sを語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは-eによる母音交代によって行なうのだ。

カスティーリャ語
単数 hijo        → 複数 hijos      息子
単数 hija        → 複数 hijas       娘
単数 amigo   → 複数 amigos  友人
単数 casa      → 複数 casas    家

イタリア語
単数 tedesco    → 複数 tedeschi    ドイツ人男性
単数 tedesca  → 複数 tedesche   ドイツ人女性
単数 amico     → 複数 amici         友人
単数 donna     → 複数 donne       女

これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。

ラテン語 (呼格は省いてある)
porta 門
単数・主格    porta         →  複数・主格     portae
単数・属格    portae     →  複数・属格    portārum
単数・与格    portae     →  複数・与格    portarīs
単数・対格    portam    →  複数・対格    portās
単数・奪格    portā         →  複数・奪格     portīs
 
amicus 友人
単数・主格 amīcus     → 複数・主格 amīcī
単数・属格 amīcī     → 複数・属格 amīcōrum
単数・与格 amīcō    → 複数・与格 amīcīs
単数・対格 amīcum   → 複数・対格    amīcōs
単数・奪格 amīcō      → 複数・奪格    amīcīs

カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

758px-Western_and_Eastern_Romania
複数主格が-sになる地域と-iになる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。

Celts_in_Europe
これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。

 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-sで作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語がケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が-sになるのか、古代ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に-sがつく。a-語幹でさえ-sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに-sをつける。例外的にo-語幹名詞だけは複数主格を-iで作るが、これも複数対格は-sだ。例をあげる。

古ケルト語(呼格は省く)
a-語幹
loca 墓
単数・主格 loca     →  複数・主格 locās
単数・属格 locjās  →  複数・属格 locom
単数・与格 locā     →  複数・与格 locābo
単数・対格 locan   →  複数・対格 locāns

o-語幹
maqos 息子
単数・主格 maqos  →  複数・主格 maqoi
単数・属格 maqī     →  複数・属格 maqom
単数・与格 maqū    →  複数・与格 maqobo
単数・対格 maqon  →  複数・対格 maqōns

つまりケルト語は複数主格でラテン語より-sが立ちやすい。だからその-sまみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は-sで作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく-sがついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でもo-語幹名詞はiで複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうもo-語幹、a-語幹以外の名詞には-sで複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用ではo-語幹名詞でもa-語幹名詞でも複数主格を-sで形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる-iによる複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムをo-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムをa-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語のa-語幹にも見られるような-sによる主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の-iによる複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの-iだったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としてはamiciタイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の-sで複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で-sになった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい-i形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。
 
 どうもこちらの解釈のほうが当たっているのではないかという気がする。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は-sで作るのである。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の-sはラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のようにich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語ではmachen(マッヘン)だがこの線から北ではmaken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」をkで発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

Ligne_de_Benrath
この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線。


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 本棚をいじっていたら黒澤明氏の自伝『蝦蟇の油』が出てきたのでちょっと拾い読みしてしまった。私は生まれて育った地域が黒澤氏とモロ重なっていて、自伝に出てくる地名そのほか多くが私が小学校の頃縄張りだったところである。
 黒澤監督のお兄さんは小学校時代から府内(都内)で一番を取ったくらいの秀才だったが、府立一中、現日比谷高校の受験になぜか失敗し、厭世観をつのらせて「それ以後は性格が変わってしまった」そうだ。27歳で自殺なさってしまったとのこと。黒澤監督の令兄のような例は時々耳にする。才能や学力の点では誰が見ても文句のつけようがないのに、試験とか何かの賞を取る、ということに関してはなぜかうまくいかない人たちのことを。

 何を隠そう私はその日比谷高校出身なのだが、私の頃は例の悪名高い「群制度」まっさかりだった。当時の受験制度では日比谷高校、九段高校、三田高校が11群という群を組んでいて、合格者はどこの高校に回されるか自分で決められなかったのである。だから当時都立を敬遠する人が結構いた記憶がある。私が日比谷に回されたのは運だ。実は私は都立は滑り止めで、本命はさる国立大学の付属高校だったのだが、そういう「都立は第二志望」という人も多かった。
 しかし今ではこの高校に行ってよかったと思っている。いろいろと面白い学校だった。
 
 以前にも書いたが、当時の日比谷高校では選択科目として「第二外国語」があって、そこでドイツ語をとった。私が現在でも抱いている「外国語というとすぐ英語を連想する人」に対する違和感はここで培われてしまったらしい。しかも受験の英語をほったらかしてドイツ語をやって遊んでしまったので未だに英語が苦手で、完全に人生にマイナス作用しているのだが、その代わり現在ドイツに住んでいるのは日比谷高校のドイツ語のおかげだろう。
 また次のようなことを覚えている。

 上にも書いたように、私は生まれ育ったのが、五反田・目黒・品川・高輪台のあたり、つまり品川区の最北端から港区南部にかけてなのだが、「○○じゃん」という言い回しを日常的に使っていた。ところが高校に来てみたら、私よりほんの少し北から来た人、港区北部や千代田区育ちの人は「じゃん」をまったく使っていなかったのである。つまり私の縄張りのあたりが「じゃん」の北限、言い換えると「じゃん」の等語線は私の家のあたりを走っていたらしい。 
 それまで私は「じゃん」は東京方言だと思っていたのだが、高校で初めてこれは横浜あるいは京浜方言であると知ったわけだ。もちろん当時は「等語線」などという言葉は知らなかったが、おもしろいなあとは思った。そのあと、芸術家を落ちこぼれて言語学に寝返った発端は案外このあたりがきっかけかもしれない。

 ちなみに日比谷高校のすぐ隣はメキシコ大使館だった(今もか?)が、そのメキシコ大使館と高校の間に遅刻坂と呼ばれる超急坂があった。私はその名前の由来を、「始業のチャイムがなりだしているので急ごうと思うのだが、坂があまりにも急なので、教室も校門も距離的にはすぐそこなのに一定時間内に走りきれず、惜しくも遅刻する」から、つまり「生徒を遅刻させる坂だから」だと聞いていたが、この間ネットをみたら、単に「遅刻しそうになってそこを走っていく学生さんの姿をよく見かける」ので遅刻坂と呼ばれるようになったと説明してあった。私の聞いている説の方がロジカルではないだろうか。単に「遅刻しそうになって焦って走る生徒の姿をみかける」くらいなら別に坂でなくてもよかろう。
 最寄り駅は地下鉄の赤坂見附だったが、ここで降りると必ず遅刻坂を通らないといけない。二番目に近い駅がやっぱり地下鉄の永田町だったが、ここで降りれば坂を上らずに登校できるため、坂を上りたくないがために遠回りして永田町から通ってくる若いくせに老人並みの軟弱者もいた。
 もっとも高校生ならこの坂を一気に歩ききれるのが普通だが(走って登りきることが出来た者はまれ)、教師だと途中で一回休みを入れないと上まで登りきれない。途中で3回休みを入れないとこの坂がこなせないようになったらに定年間近といわれていた。

 そういえば、ウソか本当か私は知らないが、その隣のメキシコ大使館から「あんたんとこの学校の窓から時々消しゴムだろ鉛筆だろ丸めたテストの回答なんかがウチの庭に落ちてきて困る」とクレームがついたことがあるそうだ。まあ、メキシコ大使館だったからまだよかったのではないだろうか。これがソ連大使館だったら大使館内に消しゴム一つでも着地した時点で即ミグ戦闘機あたりが飛んできて高校の建物が爆撃されていたかもしれない。くわばらくわばら。

 さらに私はそこで剣道部だったのだが、この道場というのがボロくて修理しようにも予算が出ない、ということであるとき顧問の先生が率先して部員全員で商売したことがある。この顧問の先生というのが東京教育大出身、つまり後に私が飛んでいったさる荒野の大学の前身だから、なんかこう、あまりにも世界が狭すぎて閉所恐怖症になりそうだ。
 で、その「商売」だが、剣道部全員で何をしたかというとこういうことだ。

 日比谷高校の校庭に大きなイチョウの木があった、校歌にも歌われたそれはそれは立派な木だ。そのイチョウのギンナンを皆で拾ってあの臭い果肉を洗い落として加工し、放課後すぐ近くにある赤坂の料亭を回って売り歩いたのである。
 料亭の裏口から入っていって、「ギンナン買ってくれませんか?」と訊いてまわったら、その料亭の一つが「ウチは料理の材料は原則としてきちんとした信用のあるところからしか買わないんだが、見れば日比谷高校の学生さんだし、先生までついている。それに免じて買ってあげよう」と言って本当に校庭のギンナンを買ってくれたのだ!どうだすごいだろう。
 ここの卒業者名簿を見ると小林秀雄だろ利根川進だろがいるが、小林秀雄なんかには「赤坂の料亭でギンナンの行商」などという高貴な所業はとても出来まい。やれるもんならやってみろ。利根川博士などが「えーまいどー、実は私は先日ノーベル賞取った者ですが、このギンナン買ってくれませんか?」とか料亭で言ったらドツかれるのではないか。
 しかしその後別に道場がきれいになった記憶がないのだが、あのお金はどこに消えたのだろう。どうやらコンパ代にでもなったしまったらしい。

 それにしてギンナンの加工というのは臭いしネチャネチャしているしで商売としてはどうも割に合わない。いっそ前にカンを置いて道端で歌を歌うとか 外国人観光客相手に柔道・剣道のデモンストレーションしてみせて金をとるとかした方が儲かりそうだ。何しろ場所が永田町、国会議事堂のすぐ近くだからタイム誌とかニューズウィーク誌あたりが写真に載せてくれたかもしれない。そうなれば恥を世界に曝せる絶好のチャンスだったろうに。


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 「お茶」のことをドイツ語でTee、英語でteaといい、語頭が t 、つまり歯茎閉鎖音になっているが、ロシア語だとчай [tɕæj] または[tʃaj]で日本語と同じく破擦音である。ロシア語ばかりではない、ペルシャ語やアラビア語、中央アジア・シベリアの言語でも「茶」は破擦音だ:トルコ語çay、ペルシャ語chāy、キルギス語чай、エベンキ語чаj、ネギダル語чаj、満州語cai、モンゴル語цай。これはどうしてなのかについては学生時代に(つまり大昔に)次のように聞いていた。
 橋本萬太郎氏によれば中国語の「茶」の語頭音は紀元前後には*dra、七世紀にはそり舌閉鎖音*ɖa、十世紀のころに破擦音[ʈʂa]となった。別の資料によれば「茶」の呉音は「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」だから、これが「チャ」と破擦音で発音されたのは漢音の閉鎖音が唐音の摩擦音に移行するまでの期間、紀元後3世紀から7世紀の間ということになり、7世紀にはそり舌ではあるが閉鎖音のɖだったという上の記述より300年ほど時代がずれるようだが、これは当時の日本語の音韻体系のせいである。つまり当時の「ち」「つ」という文字は現代日本語のような破擦音でなく閉鎖音、それぞれti、tuという発音であった。だから「ちゃ」は今の仮名でかくと「テャ」のような発音だったのである。そのころの日本語は今よりもずっと語頭の有声音を嫌った、というより有声・無声を区別しなかったと考えると*ɖaは確かに「テャ」、当時の表記では「ちゃ」と聞こえたと思われる。また「さ」の文字も当時の日本語では破擦音で、今の「さ」よりも「ちゃ」と読んだと思われるそうだから中国語では10世紀に「ちゃ」と破擦音になった、という説明と時期的に合致している。
 茶という植物は前漢の時代から知られていたらしいが、本格的に広まり出したのは唐からで、「茶」の字が定着したのも唐代だそうだ。日本には奈良時代に伝わった。中央アジアへも遅くとも宋の時代には伝播していたらしい。ヨーロッパ人が茶を知ったのはやっと18世紀である。

 この事実を踏まえて言語変化というものがどのように起こるかを考えてみよう。言語内に新しい形が生じた場合、それは当該言語内にいっぺんにどっと広まるのではない。その形が最初に生じた地点からしだいに回りに広まっていくのである。ちょうど池に石を投げ入れると石が落下した点を中心にして波が広がっていくような按配だから、これを「波動説」と呼んでいる。そして石を投げ込んだ地点から波がこちらの足元まで来るのにちょっと時間がかかるように、新しい言語形が周辺部にまで浸透するには随分かかり、周辺部にやっとその形が到達した時にはすでに中心部では別の形が生じていることが多い。また「周辺部」というのは純粋に物理的な距離のせいばかりでなく、間に山があったり川があったりして人が行きにくい辺鄙なところだと、距離的には近くとも新しい形が伝わるのに時間がかかる。人里はなれた周辺部の方言に当該言語の古形が残っていることが多いのはそのためである。
 例えば琉球語の方言には例えば八重山方言など日本語で「は」というところを「ぱ」でいうものがある。花をぱなというのだ。「はひふへほ」は江戸時代まで両唇摩擦音の[ɸ]、ファフィフフェフォだったことは実証されているが、さらに時代を遡って奈良時代以前には「パピプペポ」だったのではないかという説の根拠もここにある。『17.言語の股裂き』で述べた「西ロマンス諸語の-sによる複数主格は古い本来の形でによる複数主格はギリシア語からのイノベーションではないのか」という私の考えというか妄想もこの波動説の考えをもとにしたものである。

 中国語でもアモイ周辺など南部の方言には古い時代の閉鎖音が破擦音化せずに(そり舌性がなくなった上無声音化はしたが)まだ閉鎖音、即ちtで発音されているものがある。そういった方言形ををまずオランダ人が受け取り、そこからまたイギリス人などの欧米人に t の発音が横流しされたため、西ヨーロッパ中でtea だろTeeだろと言うのである。それに対してアジア大陸の人々はきちんと首都の発音を取り入れたから「チャイ」だろ「チャー」というのだ。ちゃんと首都に来て言葉を習え。もっともポルトガル語だけは例外でcháというチャ形をしているが、これはポルトガル人がオランダ人より早い時期に首都まで来て中国人と接したためか、またはゴアで一旦ヒンディー語を通したかのどちらかだろう。多分前者だとは思うが。というのはやはりその頃中国人と接したヴェネチアの商人にも茶をchiaiと伝えている者がいるからである。

 さて、橋本氏はここで、これだけの話だったら何も言語学者がしゃしゃり出るまでもないが、と断って話を続けている。つまりこんな話は誰でもわかっているということか。ここまでで十分面白い話だと思ってしまったドシロートの私は赤面である。
 
 橋本氏はじめ言語学者たちはここでロシア語чайやペルシャ語چایで[tʃaj]と語末に接近音(あるいは「半母音」)の [ j ] がついて、茶という語が「チャイ」というCVC構造になっていることに注目している。この語末の [ j ] がどこから来たのかについての議論がまた面白い。
 まず、村山七郎氏によるとロシア語のチャイは13世紀以降にモンゴル語の「茶葉」cha-yeを取り入れたもの、つまり「イ」は「葉」が退化した形だそうだ。ロシア語がモンゴル語から借用したことを証明する文献も残っている。このモンゴル語形が中央アジアにも広がったため「イ」のついた形になった。
 それに対して小松格氏は、これは中国の「茶」がペルシャ語に借用された際、[tʃa] だったものがペルシャ語の音韻体系に合うように後ろに j がくっついたためと反論している。ペルシャ語がCV型一音節の単語を極端に嫌うためで、本来nā(「竹」)がnāy、pā(「足」)がpāyになったのもこのためである。そしてこのペルシャ語形を通して「茶」という語がロシア語やその他の中央アジアの言葉に広がったためチャがチャイになった、という。
その反論に対して村山氏はさらに反論。pāy の y は付け加えられた接尾辞ではなく、もともとの語幹に帰するもの(*pād > pāy > på(y))、言い換えると変化の方向はpā→pāyではなくてむしろpāy →pāであり、「ペルシャ語でi(またはy)が加えられた」という説は成り立たない。しかもペルシャ語で「チャ」と並んで「チャイ」が現れるのはやっと17世紀になってからであり、時期的にも当てはまらない。さらにペルシア語で15世紀ごろには茶をčayehあるいは čayah とも記していて、これは「茶葉」である。
 この二説間の議論に上述の橋本氏がさらにコメントし、どちらの説にも説明できない部分があることを指摘した:村山説では9世紀にアラビア語ですでにshakhïと言っていた事実を説明できないし(現代では shāī)、小松説だとペルシャよりずっと中国に近くにいる民族の言葉で軒並み i がついていることが説明しにくい。上で述べた言語のほかにウイグル語の早期借用形 tʃaj、カザフ語 хаy、ネネツ語 сяйなどの例が挙げられる。橋本氏はそこで、「チャイ」の「イ」はもともとの中国語の「茶」の古い発音が反映されたもの、そのころは中国語の「茶」の音節がCVCであった証拠であるとした。実際「茶」と同じ韻を持つ単語には様々な方言で-iとして現れるものが多いということである。

 ここで私なんかがそれこそしゃしゃり出てコメントしたりすると言語学者から「顔を洗って出直して来い」といわれそうだが、ちょっと思いついたことを無責任に述べさせてもらいたい。学術的な根拠のない、単なる感想である。
 例えば上に挙げられていた言語のうち、シベリアの言語、エベンキ語やネギダル語、満州語などは距離的には中国に近くともあまり人の交流のない辺境地だったから、茶も古い時代に直接中国から伝わらずにやっとロシア帝国になってからロシア語を通したのではないかと一瞬思いそうになった。別の歴史の本などを読んでみると、唐代に最も中国人と接触のあったのはペルシャ人だそうで、長安にもたくさんペルシャ人が住んでいたらしい。だから「茶」という語が中間の言語をすっ飛ばしてまずペルシャ語に入り、そこを中継してテュルク諸語やモンゴル語に行き、さらにロシア語に入り、そこからシベリアに広まったというのは十分ありえることだ、と結論しそうになったが、ネネツ語сяйが摩擦音[sjaj] を示していて唸った。テュルク諸語の有力言語カザフ語も[x]であって音変化を起こしている。本当にロシア語もペルシャ語を通さず唐音を中国語から直接取り入れたのかもしれない。
でも仮に「イ」のついた「CVCのチャイ」が古い形を反映しているとしたらなぜ頭が閉鎖音ではなくて破擦音になっているのか疑問に思う向きのために橋本氏は先手を打って、茶という言葉の語頭子音が他の言語で破擦音で写し取れないような音であることは少なくとも中国語北方方言では一度もなかった、と主張している。つまりそり舌歯茎閉鎖音が他の言語の話者には破擦音あるいは摩擦音に聞こえた、ということになるのか。
 実は私はこの主張には思い当たることがある。ロシア語のть, дьである。これらは口蓋化された歯茎閉鎖音であるが、私には絶対「ティ」などではなくしっかり破擦音の「チ」に聞こえる。тя 、тю、тёも同様でそれぞれ「チャ、チュ、チョ」に聞こえる。私ばかりではない、そもそもть、дьのついたロシア語の単語を日本語に写し取る際は「チ」と書くではないか。それでговоритьと日本語で書くと「ガヴァリーチ」になる。さらにベラルーシ語ではロシア語の ть が実際に破擦音の ц になっていて、говоритьはベラルーシ語ではгаварыцьである。
 もちろんこれはあくまで「口蓋化閉鎖音」についてで、肝心の歯茎そり舌音の方は私には破擦音には聞こえない。それにいくら茶の古い時代の語頭子音が「破擦音として写し取れないような音ではなかった」としても、橋本氏があげている言語のうち、一つくらいは閉鎖音で表している言語があってもいいのではないだろうか。
 しかしそのまた一方で再現形の*ɖaというのはあくまでも文献や理論から導き出された音で誰も実際の音は聞いた事がない。そり舌が実際の音価だったという直接の証拠はないのである。もしかしたらその音はそり舌の上に口蓋化していたか、思い切り帯気音だったのかもしれない。
 もうひとつ私が思いつくのは、ひょっとしたら「茶」は結構時代が下った唐代になってもCVCだったのかもしれないということだ。上述のヴェネチア形でも後ろに i がついている。もっとも(自分で言い出しておいてすぐその後自分で否定するなら始めから黙っていたほうがよかったような気もするが)さすがにこれは可能性が薄いと思う。中国語学は豊富な文献、優れた研究者、学問重視の伝統に恵まれている。もし中古音時代にCVCだったりしたら誰かがとっくにそんなことは発見していたに違いない。

 と言うわけで「チャイ」の「イ」がどこから来たのかはわからないという結論だった。橋本氏も決して「チャイ」は中国語の古音を反映している、と確固として結論付けたわけではなく、一つの可能性として提案していたに過ぎない。

 この議論はすでに1980年代に交わされていた古いものだが、今現在はどういう結論になっているのだろうと思ってネットなどを見てみたらやっぱり「イ」の出所は不明となっていた。議論そのものはまだ続いているらしい。アモイ方言の閉鎖音はそもそも中国語の古形などではなくてチベット語から入ってきたものだ、という主張も見かけた。それにしてもたかがお茶一杯飲むたびにいちいちここまで深い話を展開していたらおちおちお茶も飲んでいられまい。もっとも日頃からあまりものを考えずチャラチャラ浅い生活している私のような者は猛省すべきだとは思った。


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