アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:殺して祈れ

 日本で映画のタイトルや何かちょっとしたフレーズなどで漢文や古文が盛んに引用されるのと同様、ヨーロッパではギリシア古典文学やラテン語からの引用が多い。特にイタリア人はさすがローマ人の直系の子孫だけあって、映画の中にもギリシア・ローマ古典から採ったモティーフをときどき見かける。
 たとえばマカロニウエスタンという映画ジャンルがあるだろう。ご存知イタリア製の(B級)西部劇のことだが、この名称は実は和製英語で、ヨーロッパでは「スパゲティウエスタン」という。何を隠そう、私の最も好きな映画ジャンルなのだが、そのマカロニウエスタンにもギリシア古典が顔を出すからあなどれない。

 まず、ジュリアーノ・ジェンマ主演の『続・荒野の一ドル銀貨』(この意味不明な邦題は何なんだ?原題はIl ritorno di Ringo「リンゴーの帰還」)という映画は、ギリシア古典のホメロス『オデュッセイア』の最後の部分をそのままストーリーにしている。
 『オデュッセイア』では戦争に出かけて長い間故郷を離れていた主人公オデュッセウスがやっと家に帰ってみると、妻ぺネロペーが他の男性たちに言い寄られて断るに断れず、窮地に陥っている。オデュッセウスは最終的に求婚者を全員殺して自分の家と領地と妻を取り戻す、という展開だ。映画では南北戦争帰還兵リンゴーがこれをやる。

長い戦いの後、やっと故郷に帰ってきたオデュッセウスならぬリンゴー。さすが10年以上も前にたった2ユーロ(300円)で買ったDVDだけあって画質が悪い。
ringo1

 またオデュッセウスはそこで、もともと自分のものなのに今では外から来たならず者に占拠されている屋敷に侵入する際、自分だとバレて敵に見つからないように最初乞食姿に身をやつすのだが、この展開も映画の中にちゃんと取り入れられている。さらに、『オデュッセイア』では女神アテネが何かとオデュッセウスの復讐を助けるが、このアテネに該当する人物が映画の中にも現われる。ストーリーにはあまり関係なさそうなのに、なぜか画面にチョロチョロ登場する、スペイン女優ニエヴェス・ナヴァロ扮するジプシー女性がそれだ。

 次に『ミスター・ノーボディ』という映画があるが、これの原題がIl mio nome é Nessuno、英語にするとMy name is Nobodyだ。これは明らかに、オデュッセウスがギリシアへの旅の途中で、巨人キュクロープスから「お前の名前は何だ!?」と聞かれ、「私の名前はNobody」と嘘をついた、というエピソードからとられたのだろう。以下がその箇所、『オデュッセイア』第9編の366行と367行目である(アクセントや帯気性を表す補助記号は省いてある)。オデュッセウスが機転を利かせてこう名乗ったためキュプロークスはそのあとオデュッセウスに目を潰されても助けを呼ぶことができなかった。

 366:Ουτις εμοι γ'ονομα.Ουτιν δε με κικλησκουσι
 367:μητηρ ηδε πατηρ ηδ'αλλοι παντες εταιροι.

 366:Nobodyが私の名だ。それで私の事をいつもNobodyと呼んでいた、
 367:母も父も、その他の私の同胞も皆。


 実際、ここに注目するとこの映画の製作者のメッセージが何なのかよくわかるのだ。

 この映画には主人公が二人いて、やや年配のガンマンと若者ガンマンなのだが、年取った方は長い間アメリカの西部を放浪した後やがてヨーロッパに帰っていく。もうひとりの若い方、つまりNobody氏はそのまま西部を放浪し続けることになる。つまり、彼は故郷ギリシアに戻れず、未開人・百鬼夜行の世界を永遠に放浪するハメになる「帰還に失敗した、もう一人のオデュッセウス」なのではないか。そういえば映画の冒頭部で、ヘンリー・フォンダ演ずる年配の方が、川で漁をしている若い方(テレンス・ヒル)と遭遇するシーンがあるが、ヒルを馬上から見下ろすフォンダの優しいと同時に距離をおいたような同情的な目つき、自分の舐めてきた苦労を振り返ってやれやれこういうことは今や全て過去のことになっていて良かった、彼はああいうことをこれから経験するのかと考えをめぐらしているような深い目つきと、自分の若さと才気が誇らしそうなヒルの表情の対象が印象的だった。

馬上からテレンス・ヒルを見下ろすヘンリーフォンダ
nobody2

老オデュッセウスは感慨に満ちた目で若いオデュッセウスを見つめるが
Nobody4

若者はただ自分の「業績」を誇らしげに見せるだけ。
Nobody5

 その若いオデュッセウスがさまよい続ける土地がアメリカ、というところに「アメリカ・アングロサクソンなんてヨーロッパ大陸部と比べたら所詮新興民族、文化的・歴史的には蛮族」というイタリア人のやや屈折した優越感が込められている、と私には感じられるのだが。その証拠に、というと大袈裟だが、ヨーロッパに帰って行ったほうの老ガンマンはフランス系の苗字だった。
 この映画がコミカル・パロディ路線を基調にしているにも拘らずなんとなくメランコリックな感じがするのは、故郷を忘れてしまったオデュッセウスのもの悲しい歌声が聞こえてくるからだ、と私は思っている。
  『ミスター・ノーボディ』などという邦題をつけてしまったら端折りすぎてそういう微妙なニュアンスが伝わらない。まあ所詮マカロニウエスタンだからこれで十分といえば十分なのだが。
 
 さてこの『ミスター・ノーボディ』の監督はトニーノ・ヴァレリという人だが、ヴァレリ監督というと普通の映画ファンは、ジュリアーノ・ジェンマで撮った『怒りの荒野』の方を先に思い浮かべるだろう(「普通の映画ファン」はそもそもトニーノ・ヴァレリなどという名前は知らないんじゃないか?)。この原題はI giorni dell’ira(「怒りの日々」)。これも聖書の「ヨハネの黙示録」からとった題名であるのが明白。原語はラテン語でDies irae(「怒りの日」)で、たしかこういう名前の賛美歌があったと記憶している。しかしこのDies iraeというラテン語、イタリア語に直訳すれば本当はIl giorno dell’iraとgiorno(「日」)が単数形でなければならないはずなのに、映画のタイトルのほうはgiorni、「日々」と複数形になっている。これは主人公が今まで自分を蔑んできた人たちに復讐した際、何日か日をかけてジワジワ仕返しをしていったから、つまりたった一日で全員一括して罰を加えたのではなかったからか、それとも虐げられていた長い日々のほうをさして怒りの日々と表現しているのか。いずれにしても言葉に相当神経を使っているのがわかる。
 ただしこの映画の場合は引用はタイトルだけで、ストーリー自体の方は全体的に聖書とはあまり関係がない。もっとも聞くところによればマカロニウエスタンには聖書から採ったモティーフが散見されるそうだから、ストーリーも見る人が見れば聖書のモティーフを判別できるのかもしれないが、悲しいかな無宗教の私にはいくら目を凝らして見ても、どこが聖書なんだか全くわからない。私はこの、聖書を持ち出される時ほどはっきりと自分がヨーロッパ文化圏で仲間はずれなのを実感させられる時はない。

 もうひとつ。Requiescantというタイトルのこれもマカロニウエスタンがある。邦題は『殺して祈れ』とB級感爆発。あの有名な『ソドムの市』を監督したP.P.パゾリーニがここでは監督ではなく俳優として出演しているのが面白い。
 このRequiescantとはラテン語で、requiēscōという動詞(能動態不定形はrequiescere)の接続法現在3人称複数形。希求用法で、「彼らが安らかに眠りますように」という意味だ。Requiem「レクイエム」という言葉はこの動詞の分詞形だ。
 ドイツ語のタイトルではこれを動詞の倒置による接続法表現を使ってきちんと直訳し、Mögen sie in Frieden ruh’nとなっている。「彼らが安らかであらんことを(安らかに眠らんことを)」だ。英語のタイトルはストレートにKill and Pray。上品なラテン語接続法は跡形もない。だから蛮族だと言われるんだ。上に挙げた日本語のB級タイトルもラテン語を調べる手間を省いて横着にも英語から垂れ流したことがバレバレ。同罪だ。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 先日日本で言うならNHKにあたる国営放送局が夜中の1時15分からダミアーノ・ダミアーニ監督の『群盗荒野を裂く』(原題Quién sabe?)を流してくれた。寝るべきか見るべきか悩んだのだが、この映画は一回しか見てないし、DVDも持ってないので見ることにした。
 これは1966年製作だが、すでにこの辺からマカロニウェスタンが後の時期に進んでいく方向、つまりメキシコ革命路線の萌芽が見える(『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』の項参照)。この『群盗荒野を裂く』とあとソリーマの『復讐のガンマン』あたりがパイオニアだろう。
 『群盗荒野を裂く』は当時とてもヒットした映画で、作品の質的にもマカロニウェスタンのベスト10に入るのではないだろうか。事実『86.3人目のセルジオ』の項であげた非レオーネ西部劇ランキングでも6位に入っている。レオーネのいわゆるドル三部作と4作目『ウエスタン』を加えても、つまりマカロニウエスタン全体でのランキングをつけても6+4=で10位には入賞する勘定だ(『夕陽のギャングたち』は勘定にいれなかった)。ライナー・ファスビンダー監督もこの映画が非常にお気に入りで彼のLiebe ist kälter als der Todという作品はここからインスピレーションを受けているそうだ。

 『78.「体系」とは何か』の項でも述べたが、マカロニウエスタンと言うのはジャンル内部での相互引用が激しく、しかもそれを全く隠さないから「ああ、あのシーンはあの映画から持ってきたんだな」とか「この登場人物はあの映画のあの登場人物の焼き直しだな」とかモロにわかるため、一つ作品を見たら最後、その引用元の映画もつい見たくなってしまい、そしてその元の映画というのもさらに別の映画からの引用シーンが明らかだから、そちらもまた見たくなるというわけで、「そういえばあれもこれも」と芋蔓式に延々とマカロニウェスタンばかり見続けるハメになる。一旦落ちると絶対に抜けられなくなるアリ地獄のようなものだ。
 この『群盗荒野を裂く』も私のような素人目にさえわかるほどジャンル内の他の作品とのつながりぶりがすごかった。1966年と言えばマカロニウエスタンが発生してからまだ日の浅い頃、つまりこれは初期の作品だから、この映画が他の作品とつながっているというより他の作品がこの映画とつながっているというべきだろうが。とにかくあのジャンル独特の閉鎖空間のなかにある作品ではある。どこかで見たシーン、デジャヴ満載だった。例えば:

1.しょっぱなにアルド・サンブレル(『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』の項参照)が出てきたと思ったら定式どおりすぐ撃ち殺された。しかも撃ったのがジャン・マリア・ヴォロンテで、あまりにもパターン通りの面子なので感心した。ただ、サンブレルが珍しくチンピラ役でなくメキシコ軍の将校、というまともな役だったので「おっ」と思った。

2.クラウス・キンスキーが相変わらずサイコパススレスレの人物役で登場。しかも一度聖職者姿になる。主役の一人がルー・カステルだから、見ているほうは『殺して祈れ』(『12.ミスター・ノーボディ』参照)あたりが背後にちらついて仕方がない。ただし製作年は『殺して祈れ』(1967)の方があとだから、ひょっとしたらこちらのほうが『群盗荒野を裂く』からインスピレーションを受けたのかもしれない。聖職者姿といえば、1971年にも『風来坊 II/ザ・アウトロー』でテレンス・ヒルとバッド・スペンサーのコンビが(『79.カルロ・ペデルソーリのこと』参照)やっぱり僧服を着て登場する。そんなことを思い出すので、この二つの映画までもう一度見たくなってくる。ちなみに、この映画ではキンスキーはあくまで「スレスレ」であって、完全なサイコパスであった他の映画群よりまあまともな人物ではあった。彼も定式どおり最後には撃ち殺された。

3.ジャン・マリア・ヴォロンテとクラウス・キンスキーが兄弟という設定。この、「どう見ても兄弟には見えない兄弟」というのもマカロニウェスタンの定番で、上に述べたテレンス・ヒルとバッド・スペンサーのコンビが典型だろう。確かジョージ・ヒルトンとフランコ・ネロが兄弟役をやった映画があったが、なんと言っても「無理がありすぎる兄弟設定」の最たるものは『夕陽のガンマン』だろう。ジャン・マリア・ヴォロンテに殺されたあの美女がリー・バン・クリーフの妹(姉か?)などという設定は無理すぎる。クリント・イーストウッドが最後のほうで女性の写真を見ながらバン・クリーフにいう「その写真、あんたによく似ているのは偶然かい?」というセリフを聞いてのけぞったのは私だけではないはずだ。

4.音楽が一部『続・荒野の用心棒』に使われたのと全く同じ。メキシコ正規軍が出てくるたんびに同じ曲を流されるとしまいにはいったいどっちの映画を見ているのかわからなくなってくる。確かにクレジットには「音楽ルイス・エンリケス・バカロフ」とあるから、自作の曲のリサイクルも許されるだろうが、できれば全部新曲でやってほしかった。なお、クレジットにはモリコーネの名も見える。ということはつまり共同であたったのか?そういわれてみるとちょっと音楽が不統一な感じだった。この「別の映画のテーマ曲をそっくり使う」というのは『情け無用のジャンゴ』でもそうだった。音楽が別の映画と全く同じことにはすぐ気づいたのだが、それがどの映画だったのかが思い出せない。今まで見たことのあるマカロニウェスタンを始めからまた全部見直してみたくなって困った。

5.この映画でも機関銃が重大な役割を演じる。おまけに上でも述べたようにその背後に流れる音楽がエンリケス・バカロフだから、これはほとんど『続・荒野の用心棒』そのものだ。ただしここでの機関銃は『続・荒野の用心棒』でフランコ・ネロがぶっ放したのとはモデルが違い、弾がヒキガエルの卵みたいにベロベロつながったベルト状になっていないで、原始的なカートリッジ方式。普通のライフルの弾をそこにはめ込めばそれで撃てる、つまりわざわざ専用の弾丸を用意する必要がない、とヴォロンテの革命軍の一味の者が自慢げに説明していた。ネロのガトリング砲と比べてバージョンが上がっているのか下がっているのか、火器の知識が全くない私にはわからない。
 ガトリング砲といえば他のマカロニウェスタンで手回しオルガンならぬ手回し砲をみたことがある。砲手がうしろでクランクをぐるぐる回して撃つ方式だった。ついでに私は長い間「ヴァルカン砲」という言葉を普通名詞だと思っていたのだが、この名称は「セロテープ」と同じくある特定の会社の製品を意味するのだそうだ。だからヴァルカン砲のことも「ガトリング砲」と呼んでいい、と聞いたが本当だろうか?
 なお『続・荒野の用心棒』は本国イタリア公開が1966年の4月、『群盗荒野を裂く』が同年12月である。ダミアーニ監督が前者からインスピレーションを受けた可能性もあるが、一方この監督はコルブッチと違ってパクリを売り物にしてはいないから私の気のせいかもしれない。

6.ストーリーにちょっとソリーマの『血斗のジャンゴ』を想起させる点がある。『群盗荒野を裂く』でルー・カステルのやった役は政府側の回し者で、まず敵の一味に仲間として侵入するが、その際ボスの信用を得るためにちょいと一人二人人を殺して見せて仲間にしてもらう。もちろんこういう展開はそこら中の映画で見かけるから特にマカロニウエスタンの内輪引用と言い切ることはできないだろうが、ルー・カステルも『血斗のジャンゴ』で対応する役をやったウィリアム・ベルガーも金髪でちょっと共通点があるとは思った。しかもどちらの映画ででもジャン・マリア・ヴォロンテを相手にしている。だからここのカステルはベルガーを経由してさらに『殺しが静かにやって来る』のクラウス・キンスキーともつながって来るのである。
 さらにクレジットをよく見てみたらこの『群盗荒野を裂く』は脚本がフランコ・ソリナスだった。ソリナスは『復讐のガンマン』でも『血斗のジャンゴ』(ただしこれらではクレジットにはソリナスの名は出ていない)でもアイデアを提供したそうだから、本当につながっているのかもしれない。製作は『血斗のジャンゴ』(1967)のほうが一年もあとである。また、『群盗荒野を裂く』では最後にジャン・マリア・ヴォロンテがルー・カステルを撃ち殺すが、『血斗のジャンゴ』ではヴォロンテはウィリアム・ベルガーを撃ち殺そうとして逆にトマス・ミリアンに撃ち殺される。
 『血斗のジャンゴ』でも『群盗荒野を裂く』でも時の権力者に対する反感と庶民と言うか弱いものに対する共感が明確だが、これはマカロニウェスタンの監督、というかそもそもイタリアの監督・知識人はほとんど「左派」、ソリーマに至ってはファシスト政権下で共産党員だったことがあって仲間が秘密警察に拷問されて殺されたそうだから、まあ当然といえば当然だろう。モリコーネも穏健左派だそうだ。

 さらにこれも以前に書いたが、マカロニウエスタンというのは俳優や監督がいつも同じような面子であるばかりではなく、出演俳優や監督の相当部が「マカロニウエスタンでしか見られない顔と名前」であることが、独特の閉鎖性を強めている。フランコ・ネロやジャン・マリア・ヴォロンテなどの大物俳優はさすがにマカロニウエスタン衰退後も他のジャンルで名をなした、言い換えるとマカロニウエスタンから脱出できたが、外に出られなかった者のほうが圧倒的に多い。トマス・ミリアンやウィリアム・ベルガーなど、その後別に俳優業をやめたわけではなく、他のジャンル映画にもちゃんと出演しているのだがあくまで他の映画にも出ているのである。フランコ・ネロにしても私などは名前を聞くと真っ先に思い浮かんでくるのがジャンゴだ。マカロニウエスタンの前にすでに十分有名だったジャン・ルイ・トランティニャンやクラウス・キンスキーがマカロニウエスタンにも出ているのと逆だ。監督ついてもそうで、例えばセルジオ・コルブッチ、エンツォ・カステラーリという名前を聞いてマカロニウエスタン以外の作品が思い浮かんで来るだろうか?でも実際にはカステラーリもコルブッチも他の映画も撮っているのだ。

 しかし監督・俳優などの制作側よりもさらに閉鎖された空間に住んでいるのがそのジャンルファンたちだ。それなくてもジャンルファンというのは今のアニメファンを見てもわかるように部外者から見るとちょっと近寄りたくないような雰囲気(ごめんなさい)を醸し出しているものだが、アニメならまずファン層が広いことに加え、次々に新作が出来上がって来るから常に新鮮な空気が吸えてまだ雰囲気が明るい。それに対してマカロニウエスタンは新作というものがもう出てこないから、畢竟古い作品を何度も何度もためつすがめつして重箱の隅をほじくるしか能がない。空気が完全によどんでいるのだ。また、例えばミュージシャンや小説家の取り巻きというか熱狂的ファンというのは、その音楽なり小説なりが芸術的に素晴らしいと思っている、少なくともその作品が自分の生活にプラスの影響を与えてくれていると思うから応援するのである。マカロニウエスタンのファンはそういうこともない。あんなものが生活のプラスになるとは誰も思っていないのだ。皆あれらの映画がごく一部を除けばB級C級映画だとわかっている。わかっているのになぜか見だすと止まらないのである。さらに、「閉ざされた集団」ということで言えば、メンサの会とか富豪でつくる何とかクラブとかは、閉ざされているがゆえにそのメンバーであることがステータスシンボルになる。もしできるものなら入会したい、というのが一般人の本音だろう。マカロニウエスタンのフリーク集団なんかに属していても誰も尊敬などしてくれない。
 要するにマカロニウエスタンのジャンルファンというのは、「私たちはなんでこんなことをやっているんだろう」と自分でも疑問に思いながら出口のない小宇宙を形成しているわけだ。救いようのない集団である。
 どうやったらこのアリ地獄から這い上がれるのか。そもそも上に這い上がることなどできるのか。いやそもそも這い上がってここから出て行く必要があるのか。Quién sabe? - who knows?


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ