アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:日本語

 私個人は嫌いなので、あまり「日本の国技」として下手に外国に紹介などしてほしくないのだが、スモウというのはやはり外から見るとエキゾチック趣味をそそられるらしくこちらでも一時TVなどでよく放映されていた。故九重親方が千代の富士として力士をしていたころも、見たくもないのにスポーツ番組で流されて迷惑したものだ。ファンの方には非常に申し訳ないが、どう見てもあれは私の審美眼には適わない。
 しかし、相撲を外国で見せられると気分が悪くなる原因はあのスポーツ自体が嫌いなことの他に選手の(力士と言え)名前がムチャクチャな発音で呼ばれるからである。もちろんローマ字綴りの日本語が外国語読みになると原型を留めないほどひどい形になるのはドイツに始まったことではない。例えばMr. Kimuraはアメリカではミスター・カイミューラになってしまうそうだが、ドイツ語でもヘボン式で表記された名前がドイツ語読みにされるから大変なことになる。一度千代の富士Chiyonofujiがヒジョノフォーイーと発音されたのを聞いた。しかも妙な強弱アクセントがフォの上に置かれていて、あまりの乖離ぶりに全身の血が凍りついた。こりゃほとんどホラーである。

 ドイツ語ではchは「チ」ではなく後舌母音に続く時は[ç]、その他の母音や子音の後は[x]と読まれる。だからStorch「コウノトリ」は[ʃtɔʀç](シュトルヒ)、durch(英語のthrough)は[dʊʀç]( ドゥルヒ)なのだが、北ドイツの人がこれらをそれぞれ[ʃtɔʀx](シュトルホ)、[dʊʀx](ドゥルホ)と発音しているのを何度か聞いた。オランダ語では[ç] というアロフォンがなく、外来語以外のchは基本的に[x] なのとつながっているのだろうか。Chはさらにフランス語からの借用語では[ʃ]、イタリア語からの借用語では[k]となることもあるが、語頭のchi は普通「ヒ」である。
 さらに英語もそうだがドイツ語には日本語の無声両唇摩擦音 [ɸ] がないので、この音を上歯と下唇による摩擦音 [f] で代用して書く。「代用」と書いたが、欧米の自称「日本語学習者」には日本語の「ふ」が両唇摩擦音であって [f] ではない、というそもそものことを知らない人が時々いる。また前にもちょっと書いたが、「箸」と「橋」と「端」、「今」と「居間」など、「高低アクセントの違いで意味が変わるなんて聞いた事もない」人に会ったこともある。前に日本語を勉強したとのことだったが、私がちょっとアクセントの話をしたら、ほとんどデタラメを言うな的に食ってかかられて一瞬自分のほうが日本語のネイティブ・スピーカーであることを忘れてしまいそうになった。子供の頃「飴が降ってきたね」といった京都の子をからかった記憶(今思い出すとまことに慙愧の念に耐えない。言葉をからかうのは下の下であると今では考えている)は私の妄想だとでもいうのか。
 話を戻すと、その上ドイツ語の母音 u はしっかり円唇母音 [u] だから、非円唇の日本語の「う」 [ɯ] よりもむしろ「お」に聞こえることがある。そこでさらに強弱アクセントを置いた母音がちょっと長くなるので fu が「フォー」と2モーラに聞こえてしまうのだ。
 j はドイツ語では[ʒ]でも[dʒ]でもなくまさにIPAの通り [j] だから、ja、ji 、ju、je、 jo、はジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョでなくヤ、イ、ユ、イェ、ヨである。「柔道」 judo はユードー、柔術 jujitsu はユイーツーとなって一瞬「唯一」かと思う。心理学者のユングの名もJungと j で始まっている。だから ji は「イー」である。

 ここまでは単にヘボン式のローマ字の読み方を知らずに単細胞にドイツ語読みしやがっただけだから発音の悲惨さの原因はまだわかりやすい。問題はどうして yo が「ジョ」になるのかということである。ドイツ人が yo を「ジョ」と読むのを他でも一度ならず聞いた。例えばTakayoだったかなんだったか、とにかく最後に「よ」のつく日本の女性名が「タカジョ」と呼ばれていたのだ。これはアルファベットのドイツ語読み云々では説明できない。Ya、yi、yu、ye、yoはドイツ語でもヤ、イ、ユ、イェ、ヨだからである。

 私はこれはいわゆる過剰修正の結果なのではないかと思っている。

 まず j は上で述べたようにフランス語では摩擦音の[ʒ]、英語では破擦音の[dʒ]だから日本語と大体同じ、というより日本語のアルファベット表記が英語と同じになっている。ドイツ人にとっても日本人と同じく学校で最初に学ぶ外国語は英語、その後中学でフランス語だから、その際「ja、ji、ju、je、joをヤ、イ、ユ、イェ、ヨと発音してはいけない」ということを叩き込まれる。学校で真面目に勉強しないでいて英語の全く出来ない人はドイツにもいるが、そういう人たちはJohnを「ヨーン」、Jacksonを「ヤクソン」と呼んでケロリとしている。しかし普通の教養を持っている人は英語やフランス語ができなくてケロリとしているわけにはいかないから、必死に「ja、ji、ju、je、joをヤ、イ、ユ、イェ、ヨというのは間違い、ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョが正しい」と自分の頭に刷り込むのである。そのうち「ja、ji、ju、je、joを」という条件項目が後方にかすんでしまい、「ヤ、イ、ユ、イェ、ヨは間違い、ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョが正しい」という強迫観念が固定して、勢い余って本当にヤ、イ、ユ、イェ、ヨで正しい場合までジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョと言ってしまう。このため yo をついジョと発音してしまうのではないだろうか。
 ここでわからないのはむしろ、直さなくていいところで余計な修正が入り、直すべき肝心の富士の「ジ」の部分では修正メカニズムが起動せず「イー」に戻ってしまっていることだ。

 もう一つ思いついたのは、スペイン語で y が [j] ではなく時々、というより普通軟口蓋接近音 [ʝ] になることである。時によるとこれがさらに破擦音の[ɟʝ]、時とするともっと進展して軟口蓋閉鎖音の[ɟ]にさえなってしまうそうで、実際私の辞書にはyo(「私」)の発音が[ɟo]と表記してある。ドイツ人には(日本人にも)これらの音はジャジュジョと聞こえるだろう。それでドイツ人はyoを見ると「ジョ」といいたくなるのかもしれない。
 しかし反面、この[ʝ] [ɟʝ] [ɟ]はあくまで [j] のアロフォンであり、どの外国語もそうだが、音声環境を見極めてアロフォンを正確に駆使するなどということは当該言語を相当マスターしていないとできる芸当ではない。今までに会った、yo を「ジョ」と読んだドイツ人が全員スペイン語をそこまでマスターしていて、ついスペイン語のクセがでてしまった、とはどうも考えにくい。上でも述べたように、何年間も勉強した学習者でも発音をなおざりにしていることなどザラだからだ。それにどうせスペイン語読みになるのだったら、他の部分もスペイン語読みになって「チジョノフッヒ」とかになるはずではないのか?これはこれでまたホラーだが。

 してみるとやはりあの発音はやはり過剰修正の結果と考えたほうがいいだろう。

 この過剰修正はローマ皇帝のヴェスパシアヌスもやっているらしい。風間喜代三氏がこんな逸話を紹介してくれている:あるときヴェスパシアヌスに向かってお付きのフロールスFlōrusが「plaustra(「車」)をplōstraといってはなりませんぞ」と注意した。これを聞いた皇帝は翌日そのお付きをFlaurusと呼んだ。
 スエトニウスの皇帝伝に書かれているこの話が面白いのはまず第一にこれがau, ō → ōというラテン語の音韻変化の記録になっているからだが、これも千代の富士のホラー発音と同じメカニズムだろう。もっともヒジョノフォーイーと比べたらフロールス→フラウルスなんて可愛いものである。


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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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 「お茶」のことをドイツ語でTee、英語でteaといい、語頭が t 、つまり歯茎閉鎖音になっているが、ロシア語だとчай [tɕæj] または[tʃaj]で日本語と同じく破擦音である。ロシア語ばかりではない、ペルシャ語やアラビア語、中央アジア・シベリアの言語でも「茶」は破擦音だ:トルコ語çay、ペルシャ語chāy、キルギス語чай、エベンキ語чаj、ネギダル語чаj、満州語cai、モンゴル語цай。これはどうしてなのかについては学生時代に(つまり大昔に)次のように聞いていた。
 橋本萬太郎氏によれば中国語の「茶」の語頭音は紀元前後には*dra、七世紀にはそり舌閉鎖音*ɖa、十世紀のころに破擦音[ʈʂa]となった。別の資料によれば「茶」の呉音は「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」だから、これが「チャ」と破擦音で発音されたのは漢音の閉鎖音が唐音の摩擦音に移行するまでの期間、紀元後3世紀から7世紀の間ということになり、7世紀にはそり舌ではあるが閉鎖音のɖだったという上の記述より300年ほど時代がずれるようだが、これは当時の日本語の音韻体系のせいである。つまり当時の「ち」「つ」という文字は現代日本語のような破擦音でなく閉鎖音、それぞれti、tuという発音であった。だから「ちゃ」は今の仮名でかくと「テャ」のような発音だったのである。そのころの日本語は今よりもずっと語頭の有声音を嫌った、というより有声・無声を区別しなかったと考えると*ɖaは確かに「テャ」、当時の表記では「ちゃ」と聞こえたと思われる。また「さ」の文字も当時の日本語では破擦音で、今の「さ」よりも「ちゃ」と読んだと思われるそうだから中国語では10世紀に「ちゃ」と破擦音になった、という説明と時期的に合致している。
 茶という植物は前漢の時代から知られていたらしいが、本格的に広まり出したのは唐からで、「茶」の字が定着したのも唐代だそうだ。日本には奈良時代に伝わった。中央アジアへも遅くとも宋の時代には伝播していたらしい。ヨーロッパ人が茶を知ったのはやっと18世紀である。

 この事実を踏まえて言語変化というものがどのように起こるかを考えてみよう。言語内に新しい形が生じた場合、それは当該言語内にいっぺんにどっと広まるのではない。その形が最初に生じた地点からしだいに回りに広まっていくのである。ちょうど池に石を投げ入れると石が落下した点を中心にして波が広がっていくような按配だから、これを「波動説」と呼んでいる。そして石を投げ込んだ地点から波がこちらの足元まで来るのにちょっと時間がかかるように、新しい言語形が周辺部にまで浸透するには随分かかり、周辺部にやっとその形が到達した時にはすでに中心部では別の形が生じていることが多い。また「周辺部」というのは純粋に物理的な距離のせいばかりでなく、間に山があったり川があったりして人が行きにくい辺鄙なところだと、距離的には近くとも新しい形が伝わるのに時間がかかる。人里はなれた周辺部の方言に当該言語の古形が残っていることが多いのはそのためである。
 例えば琉球語の方言には例えば八重山方言など日本語で「は」というところを「ぱ」でいうものがある。花をぱなというのだ。「はひふへほ」は江戸時代まで両唇摩擦音の[ɸ]、ファフィフフェフォだったことは実証されているが、さらに時代を遡って奈良時代以前には「パピプペポ」だったのではないかという説の根拠もここにある。『17.言語の股裂き』で述べた「西ロマンス諸語の-sによる複数主格は古い本来の形でによる複数主格はギリシア語からのイノベーションではないのか」という私の考えというか妄想もこの波動説の考えをもとにしたものである。

 中国語でもアモイ周辺など南部の方言には古い時代の閉鎖音が破擦音化せずに(そり舌性がなくなった上無声音化はしたが)まだ閉鎖音、即ちtで発音されているものがある。そういった方言形ををまずオランダ人が受け取り、そこからまたイギリス人などの欧米人に t の発音が横流しされたため、西ヨーロッパ中でtea だろTeeだろと言うのである。それに対してアジア大陸の人々はきちんと首都の発音を取り入れたから「チャイ」だろ「チャー」というのだ。ちゃんと首都に来て言葉を習え。もっともポルトガル語だけは例外でcháというチャ形をしているが、これはポルトガル人がオランダ人より早い時期に首都まで来て中国人と接したためか、またはゴアで一旦ヒンディー語を通したかのどちらかだろう。多分前者だとは思うが。というのはやはりその頃中国人と接したヴェネチアの商人にも茶をchiaiと伝えている者がいるからである。

 さて、橋本氏はここで、これだけの話だったら何も言語学者がしゃしゃり出るまでもないが、と断って話を続けている。つまりこんな話は誰でもわかっているということか。ここまでで十分面白い話だと思ってしまったドシロートの私は赤面である。
 
 橋本氏はじめ言語学者たちはここでロシア語чайやペルシャ語چایで[tʃaj]と語末に接近音(あるいは「半母音」)の [ j ] がついて、茶という語が「チャイ」というCVC構造になっていることに注目している。この語末の [ j ] がどこから来たのかについての議論がまた面白い。
 まず、村山七郎氏によるとロシア語のチャイは13世紀以降にモンゴル語の「茶葉」cha-yeを取り入れたもの、つまり「イ」は「葉」が退化した形だそうだ。ロシア語がモンゴル語から借用したことを証明する文献も残っている。このモンゴル語形が中央アジアにも広がったため「イ」のついた形になった。
 それに対して小松格氏は、これは中国の「茶」がペルシャ語に借用された際、[tʃa] だったものがペルシャ語の音韻体系に合うように後ろに j がくっついたためと反論している。ペルシャ語がCV型一音節の単語を極端に嫌うためで、本来nā(「竹」)がnāy、pā(「足」)がpāyになったのもこのためである。そしてこのペルシャ語形を通して「茶」という語がロシア語やその他の中央アジアの言葉に広がったためチャがチャイになった、という。
その反論に対して村山氏はさらに反論。pāy の y は付け加えられた接尾辞ではなく、もともとの語幹に帰するもの(*pād > pāy > på(y))、言い換えると変化の方向はpā→pāyではなくてむしろpāy →pāであり、「ペルシャ語でi(またはy)が加えられた」という説は成り立たない。しかもペルシャ語で「チャ」と並んで「チャイ」が現れるのはやっと17世紀になってからであり、時期的にも当てはまらない。さらにペルシア語で15世紀ごろには茶をčayehあるいは čayah とも記していて、これは「茶葉」である。
 この二説間の議論に上述の橋本氏がさらにコメントし、どちらの説にも説明できない部分があることを指摘した:村山説では9世紀にアラビア語ですでにshakhïと言っていた事実を説明できないし(現代では shāī)、小松説だとペルシャよりずっと中国に近くにいる民族の言葉で軒並み i がついていることが説明しにくい。上で述べた言語のほかにウイグル語の早期借用形 tʃaj、カザフ語 хаy、ネネツ語 сяйなどの例が挙げられる。橋本氏はそこで、「チャイ」の「イ」はもともとの中国語の「茶」の古い発音が反映されたもの、そのころは中国語の「茶」の音節がCVCであった証拠であるとした。実際「茶」と同じ韻を持つ単語には様々な方言で-iとして現れるものが多いということである。

 ここで私なんかがそれこそしゃしゃり出てコメントしたりすると言語学者から「顔を洗って出直して来い」といわれそうだが、ちょっと思いついたことを無責任に述べさせてもらいたい。学術的な根拠のない、単なる感想である。
 例えば上に挙げられていた言語のうち、シベリアの言語、エベンキ語やネギダル語、満州語などは距離的には中国に近くともあまり人の交流のない辺境地だったから、茶も古い時代に直接中国から伝わらずにやっとロシア帝国になってからロシア語を通したのではないかと一瞬思いそうになった。別の歴史の本などを読んでみると、唐代に最も中国人と接触のあったのはペルシャ人だそうで、長安にもたくさんペルシャ人が住んでいたらしい。だから「茶」という語が中間の言語をすっ飛ばしてまずペルシャ語に入り、そこを中継してテュルク諸語やモンゴル語に行き、さらにロシア語に入り、そこからシベリアに広まったというのは十分ありえることだ、と結論しそうになったが、ネネツ語сяйが摩擦音[sjaj] を示していて唸った。テュルク諸語の有力言語カザフ語も[x]であって音変化を起こしている。本当にロシア語もペルシャ語を通さず唐音を中国語から直接取り入れたのかもしれない。
でも仮に「イ」のついた「CVCのチャイ」が古い形を反映しているとしたらなぜ頭が閉鎖音ではなくて破擦音になっているのか疑問に思う向きのために橋本氏は先手を打って、茶という言葉の語頭子音が他の言語で破擦音で写し取れないような音であることは少なくとも中国語北方方言では一度もなかった、と主張している。つまりそり舌歯茎閉鎖音が他の言語の話者には破擦音あるいは摩擦音に聞こえた、ということになるのか。
 実は私はこの主張には思い当たることがある。ロシア語のть, дьである。これらは口蓋化された歯茎閉鎖音であるが、私には絶対「ティ」などではなくしっかり破擦音の「チ」に聞こえる。тя 、тю、тёも同様でそれぞれ「チャ、チュ、チョ」に聞こえる。私ばかりではない、そもそもть、дьのついたロシア語の単語を日本語に写し取る際は「チ」と書くではないか。それでговоритьと日本語で書くと「ガヴァリーチ」になる。さらにベラルーシ語ではロシア語の ть が実際に破擦音の ц になっていて、говоритьはベラルーシ語ではгаварыцьである。
 もちろんこれはあくまで「口蓋化閉鎖音」についてで、肝心の歯茎そり舌音の方は私には破擦音には聞こえない。それにいくら茶の古い時代の語頭子音が「破擦音として写し取れないような音ではなかった」としても、橋本氏があげている言語のうち、一つくらいは閉鎖音で表している言語があってもいいのではないだろうか。
 しかしそのまた一方で再現形の*ɖaというのはあくまでも文献や理論から導き出された音で誰も実際の音は聞いた事がない。そり舌が実際の音価だったという直接の証拠はないのである。もしかしたらその音はそり舌の上に口蓋化していたか、思い切り帯気音だったのかもしれない。
 もうひとつ私が思いつくのは、ひょっとしたら「茶」は結構時代が下った唐代になってもCVCだったのかもしれないということだ。上述のヴェネチア形でも後ろに i がついている。もっとも(自分で言い出しておいてすぐその後自分で否定するなら始めから黙っていたほうがよかったような気もするが)さすがにこれは可能性が薄いと思う。中国語学は豊富な文献、優れた研究者、学問重視の伝統に恵まれている。もし中古音時代にCVCだったりしたら誰かがとっくにそんなことは発見していたに違いない。

 と言うわけで「チャイ」の「イ」がどこから来たのかはわからないという結論だった。橋本氏も決して「チャイ」は中国語の古音を反映している、と確固として結論付けたわけではなく、一つの可能性として提案していたに過ぎない。

 この議論はすでに1980年代に交わされていた古いものだが、今現在はどういう結論になっているのだろうと思ってネットなどを見てみたらやっぱり「イ」の出所は不明となっていた。議論そのものはまだ続いているらしい。アモイ方言の閉鎖音はそもそも中国語の古形などではなくてチベット語から入ってきたものだ、という主張も見かけた。それにしてもたかがお茶一杯飲むたびにいちいちここまで深い話を展開していたらおちおちお茶も飲んでいられまい。もっとも日頃からあまりものを考えずチャラチャラ浅い生活している私のような者は猛省すべきだとは思った。


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 この手のアンケートはよく見かけるが、ちょっと前にも「今習うとしたら何語がいいか」という趣旨の「重要言語ランキングリスト」とかをネットの記事で見かけたことがある。世界のいろいろな言語が英語でリストアップされていた。この手の記事は無責任とまではいえないがまあ罪のない記事だから、こちらも軽い気持ちでどれどれとリストを眺めてみた。そうしたら、リストそのものよりその記事についたコメントのほうが面白かった。
 面白いというとちょっと語弊があるが、いわゆる日本愛国者・中国嫌いの人たちであろうか、何人もが「中国語がない。やはり中国は重要度の低い国なんだ。日本とは違う」と自己陶酔していたのだ。眩暈がした。なぜならその「重要言語・将来性のある言語リスト」の第二位か三位あたりにはしっかりMandarinが上がっており、その二つくらい下にCantoneseとデカイ字で書いてあったからである。この両方をあわせたら英語に迫る勢い。日本語も確かにリストの下のほうに顔をだしてはいたが、これに太刀打ちできる重要度ではない。この愛国者達は目が見えないのかそれともMandarin, Cantoneseという言葉を知らないのか。そもそも中国語はChineseなどと一括りにしないでいくつかにバラして勘定することが多いことさえ知らないのか。
 中国語は特に発音面で方言差が激しく、互いに通じないこともあるので普通話と広東語はよく別勘定になっている。さらに福建語、客家語などがバラされることも多い。以前「北京大学で中国人の学生同士が英語で話していた、なぜなら出身地方が違うと同じ中国語でも互いに通じないからだ」という話を読んだことがある。さすがにこれは単なる伝説だろうと思っていたら、本当にパール・バックの小説にそんな描写があるそうだ。孫文や宋美齢の時代にはまだ共通語が普及しておらず、しかも当時の社会上層部は英語が出来たから英語のほうがよっぽどリングア・フランカとして機能したらしい。現在は普通話が普及しているので広東人と北京人は「中国語」で会話するのが普通だそうだ。「方言は消えていってます。父は方言しか話しませんでしたが、普通話も理解できました。私は普通話しか話せませんが方言も聞いてわかります。ホント全然違う言葉ですよあれは。」と中国人の知り合いが言っていた。

 当該言語が方言か独立言語かを決めるのは実は非常に難しい。数学のようにパッパと決められる言語学的基準はないといっていい。それで下ザクセンの言語とスイスの言語が「ドイツ語」という一つの言語と見なされる一方、ベラルーシ語とロシア語は別言語ということになっているのだ。言語学者の間でもこの言語が方言だいや独立言語とみなすべきだ、という喧嘩(?)がしょっちゅう起こる。そのいい例が琉球語である。琉球語は日本語と印欧語レベルの科学的な音韻対応が確認されて、はっきりと日本語の親戚と認められる世界唯一の言語だが、江戸時代に日本の領土となってしまったため、これを日本語の方言とする人もいる。私は琉球語は独立言語だと思っている。第一に日本語と違いが激しく、これをヨーロッパに持ってきたら文句なく独立言語であること、第二にその話者は歴史的に見て大和民族とは異なること、そして琉球語内部でも方言の分化が激しく、日本語大阪方言と東北方言程度の方言差は琉球語内部でみられることが理由だが、もちろんこれはあくまで私だけの(勝手な)考えである。自分たちの言語の地位を決めるのは基本的にその話者であり、外部の者があまりつべこべ言うべきではない、というのもまた私の考えである(『44.母語の重み』参照)。
 一方、ではそれだからと言って話者の自己申告に完全に任せていいかというとそれもできない。いくら話者が「これは○○語とは別言語だ」と言いはっても、言語的に近すぎ、また民族的にも当該言語と○○語の話者が近すぎて独立言語とは見なさない場合もある。例えばモルダビアで話されているのはモルダビア語でなく単なるルーマニア語である。
 方言と独立言語というのはかように微妙な区別なのだ。

 私は以前この手の言語論争をモロに被ったことがある(『15.衝撃のタイトル』参照)。副専攻がクロアチア語で、当時はユーゴスラビア紛争直後だったからだ。以前はこの言語を「セルボ・クロアチア語」と呼んでいたことからもわかるように、セルビア語とクロアチア語は事実上同じ言語といっても差し支えない。ただセルビアではキリル文字、クロアチアではラテン文字を使うという違いがあった。宗教もセルビア人はギリシア正教、クロアチア人はカトリックである。そのため事実上一言語であったものが、いや一言語であったからこそ、言語浄化政策が強化され違いが強調されるようになったからだ。私の使っていた全二巻の教科書も初版は『クロアチア語・セルビア語』Kroatisch-Serbischというタイトルだったが紛争後『クロアチア語』Kroatischというタイトルになった。私はなぜか一巻目を新しいKroatisch、2巻目を古いバージョンのKroatisch-Serbischでこの教科書を持っている。古いバージョンにはキリル文字のテキストも練習用に載っていたが、新バージョンではラテン文字だけ、つまりクロアチア語だけになってしまった。
 しかし戸惑ったのは教科書が変更されたことだけではない。言語浄化が授業にまで及んできて、ちょっと発音や言葉がずれると「それはセルビア語だ」と言われて直されたりした。また私が何か言うとセルビア人の学生からは「それはクロアチア語だ」と言われクロアチア人からはセルビア語と言われ、それにもかかわらず両方にちゃんと通じているということもしょっちゅうだった。しかしそこで「双方に通じているんだからどっちだっていいじゃないか」とかいう事は許されない。どうしたらいいんだ。とうとう自分のしゃべっているのがいったい何語なのかわからなくなった私が「○○という語はクロアチア語なのかセルビア語なのか」と聞くとクロアチア人からは「クロアチア語だ」と言われセルビア人からは「セルビア語だ」と言われてにっちもさっちもいかなくなったことがある。
 この場合言語は事実上同じだが使用者の民族が異なるため、ルーマニア語・モルダビア語の場合と違って言語的に近くてもムゲに「同言語」と言い切れないのだ。例えば日系人が言語を日本語から英吾に切り替えたのとは違って「クロアチア語あるいはセルビア語」はどちらの民族にとっても民族本来の言語だからである。またクロアチア人とセルビア人以外にもイスラム教徒のボスニア人がこの言語を使っている。「ボスニア語」である。この言語のテキストももちろん「クロアチア語辞書」を使えば読める。(再び『15.衝撃のタイトル』参照)

 では当時クロアチア人とセルビア人の学生同士の関係はどうであったか。ユーゴスラビア国内でなくドイツという外国であったためか、険悪な空気というのは感じたことがない。ただ気のせいか一度か二度ギクシャクした雰囲気を感じたことがあったが、これも「気のせいか」程度である。本当に私の気のせいだったのかもしれない。
 90年代の最後、紛争は一応解決していたがまだその爪あとが生々しかった頃一般言語学の授業でクロアチア、セルビア、ボスニアの学生が共同プレゼンをしたことがあった。そこで最初の学生が「セルビア人の○○です」と自己紹介した後、次の学生が「○○さんの不倶戴天の敵、クロアチアの△△です」、さらに第三の学生が「私なんてボスニア人の××ですからね~」とギャグを飛ばしていた。聞いている方は一瞬笑っていいのかどうか迷ったが、学生たち本人が肩をポンポン叩きあいながら笑いあっているのを見てこちらも安心しておもむろに笑い出した。ニュースなどを見ると今でも特にボスニアでは民族共存がこううまくは行っていないらしい。私のような外部者が口をはさむべきことではないのだろうが、この学生たちのように3民族が本当の意味で平和共存するようになる日を望んでやまない。


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 『111.方言か独立言語か』の項でも述べたように私は琉球語は独立言語だと思っている。古くはチェンバレンあたりがその立場だったと聞いたが、これは単純に氏が論文を英語で書いたからそう見えただけかもしれない。ドイツ語でも英語でも言語名称には形容詞を使うので○○語と○○方言とが表現上区別されないことがあるからだ。例えばザクセン方言はSächsischドイツ語はDeutschでどちらも形容詞が語源。形の上では同じである。
 しかしだからと言って琉球語を日本の方言とみなす立場の方が論拠で勝っているかというとそうではない、負けそうなのはむしろ方言組のほうだろう。「研究が進むにつれて琉球語と日本語間の音韻対応が印欧語レベルではっきりと確認され、日本語と同系であることがわかってきたので方言とみなすようになった」と説明してあるのを見かけた。まさかこれを真面目に方言説の根拠にしている人がいるとは思えないが、言語Aと言語Bが同源だからといって方言とみなしていいのなら「ドイツ語はヒンディー語の方言」という見方だって成り立つはずだ。

 琉球語は3母音体系であること、動詞・形容詞の活用・曲用が現在の日本語と著しく違うこと(連体形と終止形では形が異なる)、いわゆる古代のP音を未だに残していることなど構造そのものが十分日本語と離れている上、12世紀までにすでに独立言語として独自の発展をとげていたのをさらに1429年首里王国が統一して「標準語」まで持っていた。島津がドカドカ侵略して来た1609年以降も言語的統一性は崩れず、明治政府が1878年の琉球処分で日本に併合するまでの450年間、れっきとした一つの言語社会であったことなど考えても立派な独立言語である。明治政府が方言扱いして日本語を押し付ける言語政策をとったため、琉球語は衰退の道を辿った。『54.言語学者とヒューマニズム』でも述べたが、愚かな全体主義政府は言語学者の天敵である。ユネスコが2009年に発表した消滅の危機にある言語の調査では、八重山語、与那国語を「深刻な消滅の危険」、沖縄語、宮古語、奄美語、八丈語などを「危険」にある独立言語として分類しているそうだ。
 少し古い資料だが、加治工真市氏の『首里方言入門』(これはもちろん日本語首里方言という意味ではなく琉球語首里方言ということである)、野原三義氏の『琉球語初級会話』という論文をのぞいてみると、琉球標準語というのはだいたい以下のような言語である。下に日本語訳をつける。

ディッカ マヂュン ユマ
「さあ、いっしょに読もう」

あレー ユドーシガ やー ヤユマニ
「彼は読んでいるが、君は読まないか。」
*このヤユマニという動詞形は暗に「読んだほうがいいよ」という薦めの意味がある。また「あ」と「や」だけ平仮名で書き分けてあるのはこれが声門閉鎖を伴うからである。下記参照。

初級会話
ヤーヤ ンジ チイ
「お前は行ってきたか?」
マーカイヨー
「どこへだ?」
チヌー タヌデータシェー
「昨日頼んであったよ。」
ヌー ヤタガヤー
「何だったっけ」
トゥナインカイ ウリ ムッチ イキヨーンディ イチェータノー アラニ
「隣にそれ持って行けよと言ってあったじゃないか。」
ンチャ アン ヤタサヤー
「ああ、そうだったなあ」

 私はこの世界で日本語のたった一人の「親戚」である琉球語に絶対消滅してほしくない。是が非でも存続してさらに発展していってほしい。琉球語を保持していくにはどうしたらいいのか考えた。もちろんこれらはあくまで言語のことだけを考慮したもので、日本人の都合なんかはどうでもいいことはもちろんだが(とか言っている私も一応純粋なヤマト民族である)、現地の人の意向さえ無視した私個人の超勝手なシミュレーションである。いつものことながら無責任で申し訳ない。

 まず、言語存続のためには、日本とくっついているのが一番よくない。最大の理由は琉球語と日本語が下手に似ている、ということである。隣に同系の強力言語があると当該言語がそれに吸収されてしまう危険が常にあるからだ。だからたとえばカタロニア語のほうがバスク語よりカスティーリャ語に抵抗するために要するエネルギーは大きい。また少数言語側ばかりでなく、多数言語の側にも相当な努力がいる。スペイン語側もうっかりカタロニア語を方言扱いなどしてしまわないよう、常にリスペクトを持ち、気をひきしめていないといけない。少数言語についての感覚が超鈍感な日本政府なんかにそういう微妙な言語政策ができるとは思えない。万が一政府にその意志があっても一般の日本人からまた「なんで沖縄語ダケー。つくば市の方言も独立言語として認めろヨー」とかいう類のトンチンカンなイチャモンがついたりするのではないかという懸念がなくならない。
 ではといって沖縄をデンマークのフェロー諸島のように言語的差異に注目して「自治領」として認める、つまり金は出すが口は出さないことにする、などという技量が日本人にあるだろうか。
 言語を衰退させないために必要な措置とは何か。まず、当該言語が公用語として機能することだ。具体的に言うと学校で当該言語による授業が行われ、法廷でもその言語で裁判をする、ということである。書き言葉の存在も必須である。さらにその言語で文化活動が行われればなおいい。つまり少なくとも中学まで、できれば大学の授業も首里語で行い、米兵が当地で暴行すれば裁判は首里語で行う。義務教育の「国語」の時間にはもちろん源氏物語などでなくおもろそうしなど、つまり沖縄文学を習う。俳句・短歌などという外国文学などやらなくてもよろしい。琉歌をやったらいい。
 こんなことを方言札(『106.字幕の刑』参照)などという前科のある日本政府が「国内で」許すだろうか。日本領なんかに留まっていたら琉球語の未来は暗いといっていい。

 だから言語の面だけで見れば琉球が日本から独立するのが一番いいのである。が、そうなると通貨や経済問題など難しい部分もでてくる。それが理由でもあろう、現地の声は独立反対が多数派だと聞いた。また、これはヨーロッパでもコソボやマルタで見かける現象だが、小さな地域が独立した場合、やや排他的な氏族社会が政治レベルにまで影響してきてしまうことがある。
 そこで、独立を最良の選択肢としながらも、どこか日本以外の国の領土にしてもらうことが出来ないかどうか見てみると可能性は3つある。

 まず「中国領」で通貨は元。実はこっちの方が日本領よりまだマシなのだ。中国の言語政策が中央集権的なのは日本と同じだが、中国語、つまりマンダリンは琉球語と全く異質の言語だからである。吸収されてしまう危険が日本語より少ない。上で述べたスペイン語に似たカタロニア語の話者が700万人もいるのに今では全員スペイン語とのバイリンガルになってしまっているのに対し、数十万しかいないバスク語には主に老人層とはいえ、いまでもバスク語モノリンガルがいるのがいい例だ。
 ただ、中国政府の少数民族に対する扱いをみているとかなり不安が残る。日本での様に吸収の憂き目は見ないだろうが、そのかわりマンダリンに言語転換してしまう危険があるのではないだろうか。

 次の可能性は、私自身「いくらなんでもそれは…」と思うのだが、アメリカ領である。通貨はドル。中国の場合と同じく、英語という系統の違う言語が共通語なので吸収されてしまう心配は少ない。さらにアメリカは日本よりは少数言語や移民の言語に敏感だし、強力な中央政府支配形式でもないから、中国よりプラス点が多い。問題は、英語という言語が強力過ぎるということだ。たとえ政府に少数言語を保護しようとする意思があっても世界最強言語に琉球語が対抗していくのは難しいだろう。言語転換してしまうのではないだろうか。
 ただ、琉球をきちんと州に昇格させてもらえば独自にある程度有効な言語政策が取れる。基地問題にしても現在のように日本政府を通すから埒が明かないのであって、米国の一員、しかも州として中央政府にノーを突きつければ、今度は米国の法律が琉球市民を守ってくれるだろう。といいが。とにかく日本政府を通すより早いのではないだろうか。
 しかし一方あの過去の歴史の深い溝が簡単に埋まるとは思えない。確かに言語的に見れば日本領や中国領よりメリットがあるが、そのメリットが歴史の溝が埋められるほどのメリットかというと強い疑問が残る。

 そこで第3の可能性を考える。台湾領である。ここはまず第一の条件、つまり公用語が琉球語と十分離れているという条件をクリアしている。さらに国内に少数民族を抱えている点では中国と同じだが、こちらは1990年以降はっきりと少数言語の保護政策を打ち出しており、マレー系言語による学校の授業が行なえるようになっている。また台湾社会は同性婚承認に向けて動き出すなど、むしろ日本より国際社会に対して開かれている。言語政策の点でも日・米・中よりプラス点があるのだ。
 なので私は所属するなら台湾が一番いいと思うのだが、最大の懸念は、琉球が台湾領になると中国が怒り狂うのではないか、ということだ。角が立ちすぎるのである。

 そこでどこにも角の立たない選択肢はないかと探してみたら、あった。言語的にも言語政策的にも最もオススメだが、実現の可能性は残念ながら限りなくゼロに近い選択肢(それで上で述べた「3つの可能性」のうちには入っていない)としてEU領というのはいかがだろうか。
 EUは結構世界中に飛び地を持っている。まずアフリカのマダガスカルとタンザニアの半自治領ザンジバルの間にあるマヨットMayotteという島が、住人の希望によりフランス領、つまりEU領である。南米にある仏領ギアナもやはりフランス・EU領。カリブ海にもサン・マルタンSaint Martinというフランス領の島があり、先日台風に襲われた直後マクロン大統領がお見舞いに来た。これらは通貨もユーロだ。サン・マルタン島の南半分はオランダ領でスィント・マールテンSint Maartenといい、やはり台風の後アレクサンダー国王のお見舞いを受けた。その他にも結構点々とEU領は世界に広がっている。だから琉球もEU領になってしまえばいい、そうすれば私は琉球の人といっしょにEU市民だ。想像するとウキウキしてくる。
 が、残念ながら大きな壁がある。EU直轄領というものが存在しないので畢竟どこかの国に所属するしかない。この国の選択が結構難しいのである。ます、はじめに述べた、フェロー諸島やグリーンランドに自治権を与えているデンマーク。言語政策などの社会そのものはいいとしてもデンマークはユーロを使っていない。だから通貨はクローネということになるだろう。これはちょっと弱かろう。飛び地をいろいろ持っているフランスはユーロが通貨だが、この国は言語政策が中央集権的でいまだにヨーロッパ言語憲章を批准していない点に不安が残る。飛び地の経験もあり、言語憲章の批准もしているオランダは本国はユーロだが飛び地ではまだグルデンを通貨としている。そもそも琉球がオランダ領となる政治的・歴史的根拠がない。もっともそれを言うならEUのどの国にも根拠がないわけで、私としては非常に心残りなのだが、EU領はやはり無理だろう。

 やはり独立しかない。通貨はしばらくの間は円を使わせてもらえるといいが、日本人はダメと言い出しそうだから、アメリカ・台湾・中国と交渉してそのどれかの通貨を使わせてもらうことにすればいいのではないだろうか。

 さてそうやって目出度く日本からオサラバしたら、まず第一に標準琉球語(多分首里語)をきちんと制定してほしい。文字は日本語の片仮名・平仮名を使えばいい。その際日本語にはない弁別性があるから、少し改良して補助記号をマルや点々のほかに考案すればいい。たとえば声門閉鎖のあるなし、有気対無気喉頭でもやはり得弁別的対立があるそうだ。前者は[?ja:]「お前」対[ja:]「家」、後者は[phuni]「骨」対[p?uni]「船」がその例である。これを区別して表記しないといけないが、そんなに難しいことでもないだろう。日本にも国の都合なんかより言語の都合を優先させる非国民な学者がゴマンといるから喜んで協力してくれるだろうし、そもそも琉球側にすでに優秀な言語学者が大勢いるから、この点については全く問題は起こるまい。
 最後に言わずもがなだが、琉球の領土を「首里王国の領土」と規定した場合、奄美大島や喜界島まで入る。だから筋からいえば日本はこれらの島を琉球に返還すべきなのではないだろうか。日本がロシアから北方領土を返還してもらうことには異論がないが、自分たちもきちんと南方領土を返還することだ。

 琉球には世界でも貴重な琉球語を守り、偏狭な氏族社会に陥らず、領土は小さくても日本、アメリカ、中国、韓国、台湾間の力のバランスをとって互角にやりあっていける国際的な貿易国家になってもらいたい。ドイツから観光客がジャンジャン行くように私もこちらで宣伝させていただくから。

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 時々、というよりよく相手に向かって馬鹿だろゴキブリだろという言葉を使い、それを咎められると「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレる人がいるが、もしこの人が本当に何が悪いのかわかっていないとしたらこの人の方こそ真正の馬鹿だ、と私がここでいったら「そんな馬鹿な」と言われるだろうか。

 そこでこういう人たちのどこが馬鹿なのかちょっと考察してみたい。

 彼らは言語の機能は単に指示対象を指し示すことだけではない、ということがわかっていないのである。『78.体系とは何か』でも述べたように言語の単語というのは当該言語内で体系をなしていて、その指示対象や純粋な意味内容より当該単語の言語体系内での位置のほうが重要になってくることがあるのだ。指示対象は同じでも機能が違うのである。そして人間の言語の言語たるところはまさにその体系構造の複雑さにあるのだから、「馬鹿」と「理解が遅い」、「ババア」と「老婦人」が全く同じに見えるという人、つまり同じ対象を別の言い方で表現すれば言語内での機能が違ってくるということがわからない人はホモサピエンスの頭を持っていないということになる。「目の不自由な方」などと表現するのは「偽善・きれいごと」、そこで「メクラ」というのが「正直」だという類の主張をしている人(ネットなどに結構いる)を見るといつも、この人は生まれつき言語取得能力に欠陥があるのか、それとも成長の過程で何かしらの障害を負い言語の発達が阻害されたか、それとも単に捨てゼリフを吐いているだけなのか考える。
 最後のカテゴリー、つまり捨てゼリフ組は言語能力そのものは備わっているのだからいいじゃないか、と言われるかもしれないが問題なしとしない。なぜなら彼らは論理的に自己矛盾をおかしているからである:彼らが人をゴキブリと呼ぶとき、自分自身でもこの言葉の持つ機能をきちんと意識している、つまり本人も罵倒のつもりで使っているのである。そして相手が「その言葉使いはなんだ」と咎める時、矛先が向いているのは語の意味そのものではなくその機能である。だからここまででは相手はきちんと発話者のメッセージを理解している。しかしそこで発話者が「ゴギブリをゴキブリといって何が悪い」と返すとき、話題は機能でなく語の純粋な意味にすりかえられている。最初自分の方から機能面を前面に押し出しておきながら、相手がそれを正しく受け取ると今度は意味面に話題を摩り替える。自ら談話を打ち切っているのだ。これもやはり意味と機能をはっきりとは区別できていない馬鹿ではないだろうか。「話す」という行為、発話行為の何たるかがよくわかっていないのある。

 その発話行為(speech actまたは Sprecheakt)は階層をなしていて、例えばサールSearleは一つ一つの発話行為は次の4つの行為に分解できるとしている。

1.発語行為(utterance actまたはÄußerungsakt):意味のある言語音声を現実に発生する行為。この発語行為の基準は文法性、つまり当該言語音姓がまともな発音でまともな文章になっているかということである。
2.叙述行為(propositional actまたはProposionaler Akt)で実現されるのは世界についての叙述である。サールはこの行為の基準として当該命題真であるか偽であるかを問題にしていたそうだが、そもそも真偽を云々できない事象というのもあるし、例えば「花子はもう来たよ」と命題内容が等価な「花子はもう来たのか?」はその真偽そのものを問うているわけだからもちろん真偽判断は下せない。とにかく意味のある何らかの叙述を行なっていればこの叙述行為である、ということでいいと思う。
3.発話内行為(illocutionary actまたはillokutionärer Akt)では発語された命題の機能が問題になってくる。当該命題は発語された言語環境とのかかわりの中で初めて意味を持ってくる。つまりその発言による話者の意図である。文法性とか意味のある叙述かということではなくその意図が伝わったかどうかが基準となるのである。全く同じ命題でも環境によって単なる供述なのか警告なのか脅しなのか推薦なのか、全く意味機能が違ってくるからだ。この意図はイントネーションや語の選択などによって積極的に表現することもできる。
4.発語媒介行為(perlocutionary act またはperlokutionärer Akt)は相手が話者の発言によって話者の意図した通りの状態になれば成功したと言える。警告によって相手が「そうか危ないな」と思ったり、相手がビビったりしてくれれば発語媒介行為がうまく行ったのである。

 なおオースチンAustinも同じような分類をしているが、オースチンでは1と2がいっしょにされて、発語行為(locutionary act またはlokutionärer Akt)としてまとめられている。つまりここでは発話行為が3階層になっているわけだ。
 だいたいサールやオースチンにことさら言われなくても本能的に誰でもわかっていることだが、発話で重要な意味を持ってくるのは発話の命題内容そのものより3や4の点、これが発話された具体的なコンテクストにおける機能である。だから自分が馬鹿と言われたり人が馬鹿と言われているのを見て抗議するのは「侮辱されたと感じる」という肝心な機能をきちんと把握する人間としての言語能力が備わっている証拠である。発話の命題内容だけで機能を理解することができず、ここで「何が悪い」と聞く人は「今何時かわかりますか?」と聞かれると時間を言わずに「わかりますよ」とだけ答えるのだろうか。そういう人はこの発話の目的が「時間を知る」ことであるのがわからず、「わかりますか?」という言葉どおりのイエス・ノー・クエスチョンと把握するからである。
 また「本当の事をいって何が悪い」というタイプの質問形式をとってくる人もいるが、こういう人は「本当のこと」、つまり真偽判断のみが発話行為の目的だと思っているわけだから、まさに上で述べた叙述行為より先には思考が進めないということで、いわばサールに図星を付かれていることになる。

 さて「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレてくる馬鹿にはどういう対応をしたらいいのだろうか。上記のようにサールやオースチンの発話行為理論を丁寧に説明してやって、発話の命題の外にある発話の機能というものを感知できない点が悪いんですよ、と教えてあげる以外にはあるまい。
 もっとも捨てゼリフでこういうことを言っている人からは、「あなたはこの発話の機能、捨てゼリフということを理解せず発話の命題そのもの、「何が悪い」という質問形式にだけ対応した」と抗議されるかもしれない。まあそもそもそういう議論が出来る人が「ゴキブリをゴキブリといって何が悪い」などという言い回しは使いそうもないが、万が一そう返されたら「発話に捨てゼリフという機能を持たせたいのだったら他に言い回しがたくさんある。時間を聞いたり蔑称として社会的に既に因習となっている言葉を用いたりする場合と違って捨てゼリフの形式というのはまだ十分に因習化されていない。それあるに誤解される危険性のある質問形式をとってそこに捨てゼリフの機能を持たせようとしたあなたの言語戦略は詰めが甘い。言い換えると発話内行為が不成功に終わったのは発話を言葉どおりにとった相手の所為でなく、発話者の戦略がまずかったからだ。つまりあんたが悪い。」と言い返してやればいい。

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