アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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(こちらはコロナウイルスで大変なことになってしまい、毎日ジョンズ・ホプキンズ大のサイトに張り付いているうちに気がついたら前回の更新から一ヵ月もたっていました…)

 地球に生息する生物についてIUCN国際自然保護連合がレッドリストを作って絶滅の危険の度合いをExtinct (EX) 「絶滅」、Extinct in the Wild (EW)「野生絶滅」、Critically Endangered (CR) 「深刻な危機」、Endangered (EN) 「危機」、Vulnerable (VU) 「危急」、Near Threatened (NT) 「準絶滅危惧」、Least Concern (LC) 「低懸念」に7つの段階に分けているが、それと同じようにUNESCOが消滅危機言語というリストを作っている。使用人口が少なく、話者が誰もいなくなってしまいそうな言語が世界にはたくさんあり、こちらはその危機の度合いを6段階に分けている。Extinct「消滅」、Critically Endangered「深刻な危険」、Severely Endangered「重大な危険」、Definitely Endangered「明らかな危険 」、Vulnerable「脆弱」、Safe「安全」の6つだ。生物の場合とほとんど同じような段階分けをしているが、まず「絶滅」という言葉は言語には使えないのでExtinct という英語では同じになる単語が生物では「絶滅」、言語だと「消滅」となる。もう一つ、言語に関しては当然Extinct とExtinct in the Wild がないので一つ減って6段階だ。
 ここで話題にしたことがある言語もしっかりこのリストに載っている。例えばネズ・パース語は「深刻な危険」、ロマニ語、ソルブ語、南ユトランド語は「明らかな危険 」、フリースランド諸語は「重大な危険」。それに対して心配していたセルビア語トルラク方言(『18.バルカン言語連合』参照)は「脆弱」で済んでいる。ブルシャスキー語もバスク語も「脆弱」。アンダマン語やヘレロの言葉はリストに見当たらない。特にアンダマン語などは相当な危機にあるはず(下記参照)だが、データが不足で評価できないということなのだろうか。ヘレロも決して話者は多くないはずだが、まさか「安全圏」ということなのだろうか?カタロニア語がリストには入ってこないのは「安全」とみなされているからだろうとは思うが。日本の言語ではアイヌ語がまだ「深刻な危機」で止まっている。ということはかろうじて話者がいるのだろうが、これを「消滅」まで進ませないのが文化国家日本の義務だと思う。また琉球語の国頭方言、宮古方言、沖縄方言が「明らかな危険」、八重山方言、与那国方言が「重大な危険」状態にある。
 
 生物の場合と用語が重なっているところが印欧比較言語学、つまり一般言語学の誕生のプロセスを髣髴とさせる。サンスクリットやヒッタイト語とラテン語・ギリシャ語などの類似が見つかって「印欧語」という観念が生まれそれが言語学に発展していった当時、ダーウィンの進化論に強く影響されたからだ。「系統」、「種」という概念である。そもそも当時の印欧語学の目標が「種の起原」ならぬ「印欧祖語」の姿を知ることであった。そこで赤線を超えて優劣を言い出す人が一部にいたのは前に述べたとおりである。印欧語のような屈折語は日本語のような膠着語に比べて「進化した」言語であるという類の主張をする人たちだ。言語を話者から全く切り離して生命体の一種とみなしたり、「祖語」という言葉が本来比喩であることを忘れて本気で言語と生物を同一視しだすといろいろ誤解を引き起こす。見えるものも見えなくなる懼れがある。例えば「絶滅」と「消滅」の決定的違いである。生物種が絶滅するというのはその種に属する個体が物理的に全くいなくなるということだが、言語の消滅の方はそうズバリとはいかない。まず「当該言語の話者・ネイティブ・スピーカー」そのものに段階があるからだ。

 もちろんある言語共同体に属している人間を一気に皆殺しにすれば言語も亡ぶ。そういうことは有史以前にはあっただろうし、20世紀に入ってもナチスドイツなどが試みた。それまではヨーロッパで強力な言語のひとつであったイディッシュ語が壊滅的な打撃を受けたのはナチスのホロコーストのせいである。
 しかし言語の消滅は話者をいきなり皆殺しにしなくても起こる。話者はいても言語は滅びうるからだ。いわゆる「言語転換」という現象である(下記)。この言語転換は決して一気には進まない。個人内部の言語転換もそうだが、言語共同体全体が言語転換してしまうにはさらに時間がかかる。長い間話者も存在し続けるから最初のうちは当該言語も話者の頭の中に潜在的に残る。しかし話者はもうその言語をアクティブに使うことができなくなる。パッシブな言語能力、つまり「聞いてわかる」能力は話す力より長く残ることが多いがやがて聞いても理解できなくなる。こうなると言語学者が当該言語を記述したくても(すでに話者とはいえない)話者が発話することができないので記録も何もできない。いわば言語が話者の中で死ぬのだ。
 もちろんこういう言語状態なら当該言語はまだ(わずかでも)覚えている人がいるということで「まだ消滅していない」と判断され、脳死というか「深刻な危険」の範疇にいれられる。そしてその最後の話者が亡くなった時点で正式に言語の消滅宣言をしたりする。実際今までに消滅してしまった言語で最後の話者の名前が記録に残っていることが少なくない。例えば『108.マッチポンプの悲劇』で言及した大アンダマン語だが、そのうちの方言の一つボ語は2010年に最後の話者Boa Srさんが亡くなって消滅したそうだ。『マッチポンプ』の項で参照した資料にはBoaSrさんとみられる人の写真も載っていたが、その後この言語がどうなったかについては説明がなかったので知らないでいた。本当に残念だ。
 またアイルランドと大ブリテン島の間にあるケルト語系のマン島語も最後のネイティブ・スピーカーとしてNed Maddrellという名前が記録されている。言語学者たちが1972年8月17日に氏をインフォーマントとしてマン島語の記述を行ったがその時氏は94歳だった。1973年にその言語学者の一人が再びMaddrell氏を訪れて調査しようとしたが、氏はすでに耳が聞こえず、調査が成り立たなかったという。1974年の12月27日に亡くなった。このMaddrell氏は完全に流暢なマン島語を話せた最後の人だったばかりではない、マン島語のモノリンガル状態を経験している(多分)唯一の人であった。他のマン島語話者は英語とのバイリンガル環境しか知らず、最初から英語が圧倒的に優勢言語である人ばかりだが、Maddrell氏は2歳か2歳半くらいのときほとんど英語の話せない年取ったおばさんのところに預けられて育っている。
 もう一人、Ewan Christianという話者の名前が記録されている。この人も1972年にインフォーマントとなったが、Maddrell氏とこのChristian氏がまだ母語が固まらないうちにマン島語に触れた最後の生き残りだ。ただし後者のマン島語はつっかえつっかえになることがあり、文法もあやしかったそうだ。5歳の時いっしょの通りに住んでいた二人のマン島語ネイティブから言葉を教わり、その後も周辺にいた話者から言語を吸収したが、生活言語は英語だったし、それにマン島語を教わったときすでに5歳だった。つまり習い方も不完全だったうえ使用する機会もあまりなかったため、セミ・スピーカーにとどまったのだ。Christian氏はMaddrell氏よりずっと若く、言語調査当時65歳、1978年に再びインフォーマントになっている。1985年初めに78歳で亡くなった。
 関係ないがここでマン島語調査をした「言語学者たち」の一人は『51.無視された大発見』『17.言語の股裂き』でも言及した私の学位取得時の口頭試問の試験官である。

 これらの例を見てもわかるように言語の消滅宣言は動物の場合の「当該種」にあたる「当該言語の母語者」に幅があるから難しい。例えばDresslerという学者は母語者に5段階あるとしている:1.健全な話者Healthy speakers、2.やや脆弱な話者Weaker speakers。名詞の語形変化などが簡略化の傾向、語彙も減少している。3.前最終段階の話者Preterminal speakers。語形パラダイムの縮小と一般化が起こる。4.最終段階前期の話者Better terminal speakers。縮小と一般化がさらに進む。5.最終段階後期の話者Worse terminal speakers。語彙は極めて減少し、語形の縮小も著しい。
 この最終段階の母語者が後からみつかったりすることもある。さらにマン島語の場合もそうだが、言語の記述や調査がある程度進んでいると母語者がいなくなっても再生の試みが可能である。そのためかマン島語はまだ絶滅宣言を受けていない。ステータスは「深刻な危険」である。上で「最後の話者が亡くなった時点で正式に言語の消滅宣言をしたりする」と変な書き方をしたのもそういうことを考慮したためだ。
 もう一つ「絶滅」と違う点は、話者全員がいっぺんに一人残らず死に絶える場合は別として(それなら確かに話者の「絶滅」である)、言語が「消滅」するときは通過点として必ず話者がバイリンガル状態になるということだ。生物は別に他の種に押されなくてもエサがなくなったり気候が変わったりすれば自分たちだけで勝手に(?)死に絶えることもあるが、言語が消滅するには必ず他の言語が入ってこなければいけない。人間はなにがしかの言語を話さずにはいられないからだ。言語が消滅はイコール言語転換と述べたのはそのためで、母語者が当該言語で上の5段階の階段を下るにつれ、もう一方の言語能力は逆に高まっていっているのである。
 構成員が全員モノリンガルだった当該言語共同体が別の言語共同体と接触する。双方の言語共同体の政治的、文化的、あるいは軍事的な力が拮抗し、人口にも特に差がなければ接触は一部の通訳・翻訳家を通じて行われるのでその他大勢はそれぞれの言語のモノリンガルで生活に何ら支障がない。そもそもその通訳にしてももう一方の言語は後から習っただけだから、モノリンガルであることには変わりがないのである。またバイリンガルになるにしてもどちらか一方の言語が圧倒的に優勢ということはない。もちろん個人レベルでは言語Aと言語BとのバイリンガルでAが優勢という人がいるだろうが、その代わりもう一方の言語共同体にはBが優勢のバイリンガルがいるのだから、全体としてはどちらの言語が優勢ということはなく、まあバランスがとれているわけだ。ところが一方の言語共同体がもう一方より圧倒的に強力だったり一方が他方を政治的に支配したりするとこのバランスが崩れだす。最初の段階として、言語Aの共同体には1.Aのモノリンガル、2.A・BのバイリンガルでAが優勢、3.A・Bの優勢無しバイリンガル、4.A・BのバイリンガルでBが優勢というグループがいる一方でB共同体には1にあたるBのモノリンガルがいなくなり、全員Aとのバイリンガルになる。次の段階は2にあたる構成員がBの共同体から消える。B言語の共同体にいるくせにBの方がAよりずっと楽に話せるという人がいなくなるのだ。さらに度が進むとBの共同体から3が消える。B共同体の構成員全体がBよりAが得意という状態だ。この辺になるとB共同体に「Aのモノリンガル」が発生しだす。そうなるとBはもう共同体のコミュニケーション言語としての機能は果たしにくい。社会生活は全部Aで済ますようになり、B言語の方は(一部の)構成員の頭の中に思い出というか痕跡として残っているだけで、しかも使わないからドンドン虫が食ったりさび付いてきたりする。そしてふと気づいてみると自分の他には誰もBを知っているものがいない。なぜ「ふと」かというと、コミュニケーションや社会生活はAのみで何の不都合もなく、Bなど使わないから言語Bがなくなったことなど普段目に入らないからだ。とにかく言語共同体の全員がバイリンガルになったら黄信号が灯ったとみていい。言語学者が当該言語のモノリンガル話者の存在を重要視するのはそういう理由である。
 ただ、念のため言っておくが、このバイリンガルというのは「母語」が二つあるということで(『44.母語の重み』参照)、学校で習った外国語などというのは全くこの範疇に入らない。その意味で日本人がいくら英語を勉強してもモノリンガルであることには変わりがないから、安心して外国語の学習をしていい。というより日本人はもうちょっと外国語をやったほうがいいのではないだろうか。時々バイリンガルという言葉をトンチンカンな意味に誤解している人がいるので蛇足とは思うが念のため。

 この言語の消滅という現象が言語学の一分野として確立されたのは比較的最近だそうで、以前は単発に研究が行われていた。私の印象では1990年ごろから少数言語とか消滅言語とかの用語をさかんに聞くようになった感じだ(私にとっては1990年は立派に最近なのである)。
 例えばSasseという学者は以下の3つのタイプの要因をベースにして言語消滅の過程をモデル化した。
1.言語外状況External Setting(ES):言語共同体にプレッシャーを与えて当該言語を放棄させる方向に持って行く文化、社会、民族、経済的な要因。これが言語消滅への最初のきっかけを作る。
2.話者の言語行動パターンSpeech ehaviour (SB):言語共同体の中で話者がどの言語を使うか、またその言語で文体、どんな言葉使いを状況によって使い分けるのか、使い分けられるのか、ということ。
3.言語構造への影響 (Structural Conseqzuence (SC):言語の形自体が被る変化。語形変化が簡略化したり(simplication)、以前はできた表現が構造的にできなくなったりする(reduction)。変化は言語のあらゆるレベル、音韻、形態、シンタクス、語彙面で起こる。
 Sasseは、ESが最初のきっかけとなって両言語のバランスが崩れてSBが変わり、SBが変われば当該言語が使われる場面が減り(つまりその言語がAbandoned language AL「放棄言語」になり)、使う機会が減れば文法構造は単純化し語彙も減ってしまう、そして最終的に言語の死に至る、言い換えるとES→SB→SCの順に言語転換・ALの消滅が進むのが全体としての傾向だとしている。もちろんその途中に小さなフィードバック現象もある。表現の可能性が減れば益々その言語を使わなくなるというSC→SBという方向のプロセスなどだ。
 そうやって優勢言語が転換していく中で、まず人が生まれて最初に取得する言語Primary Language PLが当該言語ALからもう一方の言語にかわる。逆から言うともう一方の言語(Target language TL)は最初第二の母語secondary Language SLであったのがPLになる。そしてTLがドンドン優勢になっていき、ある時点で話者がALを後続世代に伝えなくなったらそこでアウトだ。残った母語者は誰ともALで話す機会がないから、その言語は母語者の中で死んでいく。事実、最後のネイティブ・スピーカーのマン島語にはすでにそれ以前に記録されたマン島語と比較して構造上の簡略化が見られたそうだ。伝えられたマン島語そのものがそこに来るまでにすでに弱まっていた、言語の内部崩壊はすでに始まっていたのだ。さらにそのMaddrell氏はマン島語モノリンガル生活を経験したといってもすでにそれ以前に英語には触れていた。PLは英語でマン島語はSLだったのだ。氏は調査の時言語学者に「昔英語と同じくらいよくマン島語をしゃべれた頃のことをまだ覚えています。でも外に出てってからは使う機会もなかったし、マン島語を聞くこともなかったからもう忘れてしまいました。でもこうやってみるとまた思い出してきたからできるだけ話してみますが、どうも思うようにはねえ…」とマン島語で語っていたそうだ。

 こうやって見ていくと、どの時点をもって当該言語の消滅というのかということ自体がすでに難しい課題であることがわかる。話者の死、つまり人間の死と言語の死が必ずしも一致していないからだ(『54.言語学者とヒューマニズム』参照)。ネイティブの話す当該言語が「健全」ではなくなった時点で消滅宣言か、それとも最後の母語者が亡くなったときか。一度コミュニケーションとして使われなくなった言語が復活する場合があるが(ヘブライ語など)、そういう場合死者が生き返ったと考えるべきか、当該言語は実は一度も死んでいなかったというべきか。独立言語と方言との区別同様(『111.方言か独立言語か』参照)、死語か死語でないかの区別も割とケース・バイ・ケースなのである。ただ上のSasseは、日常のコミュニケーションで使われなくなった時点でその言語は死語だとしている。しかしその「日常のコミュニケーション」という観念自体にまた段階というか幅があるからとにかくスッパリ何年何月何時何分に消滅、と宣言することはできない。

Broderickはマン島語の消滅を図式化するのにSasseのモデルを使っている。コピーのそのまたコピーですみません。(私の書き込みがある上ファイルの閉じ穴があいてますね…)
Broderick, George. 1999. Language death in the Isle of Man. Tübingen:p.11から

Sasse


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 時々「言語汚染」とか「言葉の乱れ」という言い回しを耳にするが、もちろん正規の言葉ではない。そんなものはない、と言い切る人もいる。水質汚染のようにどんな基準を満たしたら汚染とみなすかがはっきりしていない、いわば感情論から出た観念だからだ。大雑把に言って「言語汚染」は外部の言語の要素の流入に対して、そして「言葉の乱れ(崩れ)」は当該言語内部での変化に対して向けられたものという違いはあるがどちらも規範的な考え方の人が言語の変化に対して抱くネガティブな感情である。「大雑把に言って」と言ったのはグレーゾーンがあるからだ。
 外来語、特にカタカナ語が連発されるのは言語汚染、いわゆるら抜き言葉は言葉の乱れの範疇内だろうが、例えば「会議が持たれました」的な、本来日本語にはなかった文構造が外国語の影響で使われるようになった場合は言語汚染なのか言葉の乱れなのか解釈が分かれるだろう。言語汚染などというものはないと考える人にとっては汚染か乱れかなどという議論そのものが不毛だろうが、中立な価値観に立つ言葉に置き換えてみるとこれは外来要素として扱うべきかあくまで当該言語内部の変化とみるかという問題でまあ議論の価値はあるとは思う。翻訳論(『119.ちょっと拝借』参照)にもかかわってくるからである。私個人は今の段階の日本語での「会議が持たれます」は外来要素とみなしてもいいと思っている。
 しかしこの外来要素というのが実はそれ自体曲者で、何をもって外部の言語とするかという問題自体がそもそも難しく、『111.方言か独立言語か』の項で述べた通りスッパリとは決められない。ユーゴスラビア内戦の爪痕がまだ生々しかったころ「クロアチア語によるセルビア語の汚染」とか「ボスニア語からセルビア語の借用語を排除すべきだ」などという議論を時々耳にしたが、この3言語は語彙の大部分を共有しており、この語はクロアチア語、これはセルビア語とホイホイ区分けなどできるものではない。それでも無理やり見ればボスニア語にはトルコ語からの借用語が多いといえるが、そのボスニア語はボスニア内のクロアチア人が母語なのである。こういう状況で「言語汚染」とか「言語浄化」とか「外来語」などと目くじらを立ててみても始まらないのではなかろうか。
 「外来語」を共時的に定義するのが難しいばかりではない、さらに通時的な視点からみると「外部の言語の要素」と「外来語」が完全にイコールではないことがわかる。日本も明治時代まで、いやある意味では第二次世界大戦の終わりまでそうだったが、書き言葉と話し言葉が非常に離れていてそれぞれ別言語とみなすのが適当であるような言語社会が世界にはたくさんある。いわゆるダイグロシア(『137.マルタの墓』参照)と呼ばれる状態であるが、その規範でがんじがらめになった書き言葉でも書いているうちにどうしても話し言葉の要素が食い込んでくる。これは汚染なのか言葉の乱れなのか。前者にとって後者はある意味立派な「外部の言語」なのだが、当該言語の使い手自身は書き言葉と話し言葉は一つの言語のつもりでいるから、これは乱れと見る人が多いだろう。でも見方によってはこれは汚染である。ところがなぜか逆方向、つまり話し言葉に書き言葉が紛れ込んできてしまった場合、例えば「これは私の若日の写真ですよ」などと言ってしまった場合には「話し言葉が書き言葉に汚染された」とは言わない。理不尽な話だ。

 さらに言語汚染・言葉の乱れという言葉とペアで使われるのがいわゆる「言語浄化」という言い回し。真っ先に思い浮かぶのは第二次世界大戦中に日本がやった敵性語の廃止という措置だろうが、これも理不尽なことに排除されたのは英語からの借用語だけで、英語と同様外国語でありしかも戦争をしていた国の言語、中国語からの借用語はノータッチだった。中国語をとり除いてしまったら日本語での言語生活が成り立たなくなるからだろう。理不尽というよりご都合主義である。もっともこの手の浄化運動は日本人だけでなくほとんどあらゆる民族がやっている。韓国では戦後日本語排斥運動が盛んになったそうだし、こちらではフランスの言語政策が有名で現在でも英語の侵略に対する処置なのか例えばコンピューターをordinateurと言わせるなど、言語を計画的に規制している。他の言語ではたいていcomputerという英語からの借用語を使っているところだ。日本語の「計算機」にあたる翻訳語を使うこともあるが(例えばドイツ語のRechner、クロアチア語のračunaloなど)、あくまで「コンピューター」と併用だ。フランス語ではordinateurのみで、しかもこれは翻訳ですらない。意識的な造語という色が濃い。またカタロニアもスペイン語の侵略を食い止めようといろいろやっているらしい。方言に牙が向けられることもある。日本人が沖縄でやった悪名高い方言札などはその最たるもの。共通語の中に方言を持ち込むと共通語が汚されるというわけだ。上述のフランスもやっぱりというか方言に冷たく言語の多様性を守ることには消極的だ。プロヴァンス語やブルトン語をパトワといって排除しようとした。ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章にもまだ批准していない。「言葉の乱れ」のほうも浄化対象になる。「本当は〇〇というのが正しい。最近の若者は言葉の使い方がなっとらん」、こういう発言がなされなかった言語社会は人類発生以来一つもないのではないだろうか。
 しかし言葉を純粋に保つことなどできるのだろうか?そもそも純粋言語というものがあるのだろうか?そもそも現在世界最強言語のひとつ、英語というのがフランス語とドイツ語の混合言語である。そのフランス語自身も元をただせばラテン語とケルト語の混交だ。こういうことを言い出すと全くキリがない。どこの民族だって他の民族と接触し混交しながら発展してきたのだ。純粋な言語など理屈からしてありえない。また仮にホモサピエンス発生以来全く孤立し、他と全く交流しないで来た集団があったとしよう。そこの言語は全く変化せずに何万年も前と同じ状態を保持できるか?これはRudi Kellerという人がその名もズバリなSprachwandel(「言語の変遷」)という著書でNoと言っている。私も同じ考えだ。百年もたてばどんなに孤立した言語でも変化する。言語は必ず内部変化を起こす。止めることはできない。

 ではだからと言って言語はまったくいじらず、なるがままにまかせておけばいいのか?言語の変化を人工的に規制しようとするな、しても無駄だ、言語学者にはそういうことをいう人もいるがこれは言葉通りに取れない場合もある。『34.言語学と語学の違い』でも書いたように言語学者がそういうことを言う時、矛先を向けているのは言語いじりそのものでなくそれに伴う規範意識だからだ。どの言語・どの方言が優秀とか正しいかとか言った価値判断・優劣判断を否定しているだけで、いわゆるlanguage planning、言語計画の必要性を否定しているわけではない。それどころか言語計画を専門にして食べていっている学者だって多い。この言語プランニングという作業には、標準語の制定、母語者向け・非母語者向けの教科書作り、言語教育などがあるが、少数言語の保護、またまれには死語の復活などもまたプランニングに含まれる。いずれにせよその出発点にあるのは「記述」である。いい悪い、正しい正しくないなどということは一切言わないでまず当該言語を無心に記述する。そしてその言語共同体で最も理解者が多いか、他の理由で一番便利と判断されたバリアントを標準語あるいは公式言語ということにしましょうと取り決め、言葉の使い方や正書法を整備する、これがcodificationである。あくまで「便宜上こういう言語形を使うことにしようではありませんか」という提案・取り決めであって、他の形を使うなとかこの形が一番正しいとかいっているのではない。当該共同体での言語生活が潤滑に行くようにするための方便に過ぎない。ここを勘違いして優劣判断を持ちこむ者が後を絶たないのでそれに怒って上記のようにやや発言が過激になるのだ。
 取り決められた標準形は絶対の存在でも金科玉条でもない。外来語が入ってきたために元の単語が使われなくなったり、内部変化で文法が変わったり、言語は常に変化していくからそれに合わせて標準語も定期的にメンテしていかなければならない。よく言われることだが、外国人のほうが「正しい」言葉を使うことがあるのは、外国人の習う標準語がその時点で実際に使われている言語より時間的に一歩遅れているからである。例えばドイツ語の während(~の間に、~の時に)や statt(~の代わりに)という前置詞は前は属格支配だったが、現在ではほとんど与格を取るようになっている。つまり大抵の人は「第二次世界大戦中に」を während dem zweiten Weltkrieg という。これを während des zweiten Weltkriegs と意地になって属格を使っているのは私などの外国人くらいなものだ。「私の代わりに」はstatt mir が主流で statt meiner と言ったら笑われたことがある。人称代名詞の属格など「もう誰も使わない」そうだ。さらに statt mirさえそもそも「古く」、普通の人は für mich で済ます。しかし逆に古くて褒められることもある。昔何かの試験で verwerfen(「はねつける、いうことをきかない」)の命令形単数として verwirf と書いたら、年配の教授にムチャクチャ褒められて面くらった。他のドイツ人は皆ウムラウトなしの verwerfe という形を書いたそうだ。クラスメートは「母語者が全員間違って正しい形を書いたのは外国人だけ。恥を知りなさい」とまで言われていた。要するに同じことをやっても褒められたり笑われたりするのである。
 しかし逆に日本に来れば「恥を知りなさい、日本人」の例がいくらもある。例えば上でもちょっと述べたら抜き言葉であるが、私がここ何年間かネットの書き込みなどを注意して観察しているぶんには、すでに95%くらいが「見れる」「食べれる」「寝れる」を使っている。私のようにこれも意地になって「見られる」「食べられる」「寝られる」と言っているのは完全な少数派、それもそれこそ意地になってある程度気合を入れないとつい「見れる」「来れる」と言いそうになる。これに対して外国人の日本語学習者はいともすんなりと「見られる」「来られる」が出る。外国人はそれしか習っていないのだから当然といえば当然ともいえるのだが、ここで恥を知らなければいけないのは日本人であろう。
 このら抜きに関しては、いくら私が意地になっても将来これが標準形になると思う(それとももう標準形として承認されているのだろうか)。合理的な理由があるからだ。一つの助動詞、れる・られるが受動・自発・可能(『49.あなたは癌だと思われる』参照)・尊敬などとといくつも機能を持っていると非常に不便だということ。できれば一形態一機能に越したことはない。特に受動と可能などという全く関係のない機能を同じ助動詞で表せというのは無理がありすぎだ。第一グループ、俗にいう5段活用動詞にはすでに可能を表現するのにれる・られるを使わずに活用のパターンを変化させるやり方が存在する。読む→読める、書く→書けるという形のほうを可能に使い、本来可能を表せるはずの「読まれる」「書かれる」は受動など事実上可能以外の意味専用と化している。私個人は I can read 、I can write を「私はこの本が読まれます」「私は日本語が書かれます」とは絶対言わない。「私はこの本が読めます」「日本語が書けます」オンリーであって、れる形は「この本は広く読まれている」「あいつに悪口を書かれた」といった受動だけである。「眠る」や「行く」などはかろうじて「昨日はよく眠られませんでした」とか「明日なら行かれますが」ともいうことがあるが、「眠れませんでした」「行けますが」を出してしまうことのほうがずっと多い。つまり第一グループではすでに受動と可能が形の上で分かれているのだ。だから第二グループ、いわゆる上一段・下一段動詞でもこの二つは分けれたほうが統一が取れる。そこで「食べられる」は受動、「食べれる」は可能と決めてしまい、「人によっては可能表現に受動と同じ形を使う」と注をつければいい。第3グループの「来る」も「来れる」と「来られる」で分ける。もう一つの第3グループ動詞「する」は元から「できる」と「される」に分かれているのだから問題ない。
 問題はこれをどうやって文法記述するかだが、これがなかなかやっかいだ。手の一つに第一グループの「-る」、第二・第三グループの「-れる」を異形態素としてまとめ、「-れる」及び「-られる」とは別形態素ということにしてしまうという方法がある。さらに第一グループも第二グループも可能の助動詞は仮定形に接続するとする。第一グループの語幹「読め-」は実際に仮定形と同じだからOK,第二グループは動詞語幹を母音までとしてしまえばどんな助動詞が来ても語幹はどうせ変化しないことになるからこれを仮定形だと言い張る。だがこれはあくまで「読める」「書ける」方の形の歴史的な発達過程を無視しているわけだからどこかに無理がでる。「読めない」と「読まない」の対称でわかる通り否定の助動詞の「-ない」が未然形にも仮定形にも接続することになって、統一が崩れるのが痛い。それよりさらに無理があるのが(無理があると思っているなら最初から言うな)動詞のパラダイムを現在の未然・連用・終止・連体・仮定・命令の6つからさらに増やして未然・連用・終止・連体・仮定・命令・可能の7体系にし、「読め・る」を可能形とするやり方だ。しかしこれも「-ない」の接続が未然と可能の二つに許されるという問題は解決しないばかりか、-e が仮定・命令・可能の3機能を担うことになり、無駄にややこしくなる。ロシア語の数詞問題でもそうだったが(『58.語学書は強姦魔』)、通時面を全く無視して共時的視点だけで言語を記述しようとするとどこかにほころびがでるようだ。もっとも今の学校文法はむしろ逆に意地になって通時面にしがみつきすぎているような気もする。一つの語形としてまとめられている未然形、連用形にそれぞれ2形がある一方、事実上形に区別のない終止と連体、仮定と命令が二つに分かれている。外国語として教える日本語の文法と学校文法の乖離が大きいのも当然だ。やはりここらで学校文法も全面的にメンテしたほうがいいのではないだろうかとは思う。
 第二の方法は可能を表す方法が第一と第二グループ動詞では異なり、第一グループでは語形変化でなく「派生」により、第二グループでは助動詞「れる」を仮定形につけて行うとすることだ。そこで注として派生のしかたを説明しておく。つまり語幹(第一グループの動詞というのはつまり「子音語幹」だから)に-eruを付加して辞書形とし、助動詞は必要ないと。こちらの方が言語事実には合っていると思うが、これも説明が少しややこしいし、ここでもやはり第一グループと第二グループとの亀裂がさらに深まっている。実際はどうなっているのかと思ってちょっと現行の教科書を覗いてみたら、可能表現については第一グループは「読む→読める」のタイプ、第二グループは「食べる→食べられる」という風に(事実上完全に少数派でなっている)られる形をやらせているようだ。でももう「食べる→食べれる」に市民権を与えてもいいのではないだろうか。「可能表現は第一グループと第二グループで全く作り方が違い、前者は派生で、後者は語幹に「れる」を付加して作る(まれに「られる」を付加する場合もある)。受動形その他は第一グループは「れる」、第二は「られる」付加で形成する」と説明する。確かに第一と第二の亀裂は深まるが、その代わり可能と受動その他の亀裂も深まるからかえってすっきりするかもしれない。第三グループについてはどうせ2つしかメンバーがいないから、少数差別するわけではないがまあ「例外です」で済ませる。表現する変化を汚染だろ乱れだろと排除ばかりしていないで時期を見て正式に認めてやるといいと思う。それとももう言語学の方の(つまり語学ではない方の)日本語文法ではすでにそういう方向の記述になっているのだろうか。

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 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。
Tabelle1-144
「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出した。例えば Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。
Tabelle2-144
フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。
Tabelle3-144
 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet


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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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 以前にもちょっと述べたが、ドイツの土着言語はドイツ語だけではない。国レベルの公用語はたしかにドイツ語だけだが、ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(『130.サルタナがやって来た』『37.ソルブ語のV』『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)に従って正式に少数民族の言語と認められ保護されている言語が4言語ある。つまりドイツでは5言語が正規言語だ。
 言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語であるがロマニ語話者も住んでいるから、つまりソルブ語以外の少数言語をすべて同州が網羅しているわけだ。扱いが難しいのはフリースラント語で、それ自体が小言語であるうえ内部での差が激しく、一言語として安易に一括りするには問題があるそうだ。スイスのレト・ロマン語もそんな感じらしいが、有力な「フリースランド標準語」的な方言がない。話されている地域もシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州ばかりでなく、ニーダーザクセン州にも話者がいる。そこでfriesische Sprachen、フリースラント諸語という複数名称が使われることがよくある。大きく分けて北フリースラント語、西フリースラント語、ザターラント語(または東フリースラント語)に区別されるがそのグループ内でもいろいろ差があり、例えば北フリースラント語についてはちょっと昔のことになるが1975年にNils Århammarというまさに北ゲルマン語的な苗字の学者がシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の言語状況の報告をしている。

北フリースラント(諸)語の状況。
Århammar, Nils. 1975. Historisch-soziolinguistische Aspekte der Nordfriesischen Mehrsprachigkeit: p.130から

nordfriesisch

 さて、デンマーク語はドイツの少数民族でただ一つ「本国」のある民族の言語だが、この言語の保護政策はうまくいっているようだ。まず欧州言語憲章の批准国はどういう保護政策を行ったか、その政策がどのような効果を挙げているか定期的に委員会に報告しなければいけない。批准して「はいそれまでよ」としらばっくれることができず、本当になにがしかの保護措置が求められるのだが、ドイツも結構その「なにがしか」をきちんとやっているらしい。例えば前にデンマークとの国境都市フレンスブルクから来た大学生が高校の第二外国語でデンマーク語をやったと言っていた。こちらの高校の第二外国語といえばフランス語やスペイン語などの大言語をやるのが普通だが、当地ではデンマーク語の授業が提供されているわけである。
 さらに欧州言語憲章のずっと以前、1955年にすでにいわゆる独・丁政府間で交わされた「ボン・コペンハーゲン宣言」Bonn-Kopenhagener Erklärungenというステートメントによってドイツ国内にはデンマーク人が、デンマーク国内にはドイツ人がそれぞれ少数民族として存在すること、両政府はそれらの少数民族のアイデンティティを尊重して無理やり多数民族に同化させないこと、という取り決めをしている。シュレスヴィヒのデンマーク人は国籍はドイツのまま安心してデンマーク人としての文化やアイデンティティを保っていけるのだ。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州には第二次大戦後すぐ作られた南シュレスヴィヒ選挙人同盟という政党(ドイツ語でSüdschleswigscher Wählerverband、デンマーク語でSydslesvigsk Vælgerforening、北フリースラント語でSöödschlaswiksche Wäälerferbånd、略称SSW)があるが、この政党も「ボン・コペンハーゲン宣言」によって特権を与えられた。ドイツでは1953年以来政治政党は選挙時に5%以上の票を取らないと州議会にも連邦議会にも入れないという「5パーセント枠」が設けられているのだが、SSWはその制限を免除されて得票率5%以下でも州議会に参入できることになったのである。

SSWの得票率。なるほど5%に届くことはまれなようだ。ウィキペディアから
SSW_Landtagswahlergebnisse.svg

 こうやって少数言語・少数民族政策がある程度成功していることは基本的に歓迎すべき状況なので、まさにこの成功自体に重大な問題点が潜んでいるなどという発想は普通浮かばないが、Elin Fredstedという人がまさにその点をついている。
 独・丁双方から保護されているのはあくまで標準デンマーク語だ。しかしシュレスヴィヒの本当の土着言語は標準語ではなく、南ユトランド語(ドイツ語でSüdjütisch、デンマーク語でSønderjysk)なのである。このことは上述のÅrhammarもはっきり書いていて、氏はこの地(北フリースラント)で話されている言語は、フリースラント語、低地ドイツ語、デンマーク語南ユトランド方言で、その上に二つの標準語、標準ドイツ語と標準デンマークが書き言葉としてかぶさっている、と描写している。書き言葉のない南ユトランド語と標準デンマーク語とのダイグロシア状態だ、と。言い変えれば標準デンマーク語はあくまで「外から来た」言語なのである。この強力な外来言語に押されて本来の民族言語南ユトランド語が消滅の危機に瀕している、とFredstedは2003年の論文で指摘している。この人は南ユトランド語のネイティブ・スピーカーだ。

 南ユトランド語は13世紀から14世紀の中世デンマーク語から発展してきたもので、波動説の定式通り、中央では失われてしまった古い言語要素を保持している部分があるそうだ。あくまで話し言葉であるが、標準デンマーク語と比べてみるといろいろ面白い違いがある。下の表を見てほしい。まず、標準語でstødと呼ばれる特有の声門閉鎖音が入るところが南ユトランド語では現れない(最初の4例)。また l と n が対応している例もある(最後の1例):
Tabelle-132
 もちろん形態素やシンタクスの面でも差があって、南ユトランド語は語形変化の語尾が消失してしまったおかげで、例えば単数・複数の違いが語尾で表せなくなったため、そのかわりに語幹の音調を変化させて示すようになったりしているそうだ。語彙では低地ドイツ語からの借用が多い。長い間接触していたからである。

 中世、12世紀ごろに当地に成立したシュレスヴィヒ公国の書き言葉は最初(当然)ラテン語だったが、1400年ごろから低地ドイツ語(ハンザ同盟のころだ)になり、さらに1600年ごろからは高地ドイツ語を書き言葉として使い始めた。その間も話し言葉のほうは南ユトランド語だった。これに対してデンマーク王国のほうでは標準語化されたデンマーク語が書き言葉であったため、実際に話されていた方言は吸収されて消えて行ってしまったそうだ。『114.沖縄独立シミュレーション』でも述べたように「似た言語がかぶさると吸収・消滅する危険性が高い」というパターンそのものである。シュレスヴィヒ公国ではかぶさった言語が異質であったため、南ユトランド語は話し言葉として残ったのだ。公国北部ではこれが、公国南部では低地ドイツ語が話されていたという。低地ドイツ語がジワジワと南ユトランド語を浸食していってはいたようだが、19世紀まではまあこの状況はあまり変化がなかった。
 1848年から1864年にかけていわゆるデンマーク戦争の結果、シュレスヴィヒはドイツ(プロイセン)領になった。書き言葉が高地ドイツ語に統一されたわけだが、その時点では住民の多数がバイリンガルであった。例えば上のFredsted氏の祖母は1882年生まれで高等教育は受けていない農民だったというが、母語は南ユトランド語で、家庭内ではこれを使い、学校では高地ドイツ語で授業を受けた。さらに話された低地ドイツ語もよく分かったし、標準デンマーク語でも読み書きができたそうだ。
 第一世界大戦の後、1920年に国民投票が行われ住民の意思で北シュレスヴィヒはデンマークに、南シュレスヴィヒはドイツに帰属することになった。その結果北シュレスヴィヒにはドイツ語話者が、南シュレスヴィヒにはデンマーク語話者がそれぞれ少数民族として残ることになったのである。デンマーク系ドイツ人は約5万人(別の調べでは10万人)、ドイツ系デンマーク人は1万5千人から2万人とのことである。

 南シュレスヴィヒがドイツに帰属して間もないころ、1924の時点ではそこの(デンマーク系の)住民の書いたデンマーク語の文書には南ユトランド語やドイツ語の要素が散見されるが1930年以降になるとこれが混じりけのない標準デンマーク語になっている。南ユトランド語や低地ドイツ語はまだ話されてはいたと思われるが、もう優勢言語ではなくなってしまっていたのである。
 これは本国デンマークからの支援のおかげもあるが、社会構造が変わって、もう閉ざされた言語共同体というものが存続しにくくなってしまったのも大きな原因だ。特に第二次大戦後は東欧からドイツ系の住民が本国、例えばフレンスブルクあたりにもどんどん流れ込んできて人口構成そのものが変化した。南ユトランド語も低地ドイツ語もコミュニケーション機能を失い、「話し言葉」として役に立たなくなったのである。現在はシュレスヴィヒ南東部に50人から70人くらいのわずかな南ユトランド語の話者集団がいるに過ぎない。

 デンマークに帰属した北シュレスヴィヒはもともと住民の大半がこの言語を話していたわけだからドイツ側よりは話者がいて、現在およそ10万から15万人が南ユトランド語を話すという。しかし上でもちょっと述べたように、デンマークは特に17世紀ごろからコペンハーゲンの言語を基礎にしている標準デンマーク語を強力に推進、というか強制する言語政策をとっているため南ユトランド語の未来は明るくない。Fredsted氏も学校で「妙な百姓言葉を学校で使うことは認めない。そういう方言を話しているから標準デンマーク語の読み書き能力が発達しないんだ」とまで言い渡されたそうだ。生徒のほうは外では標準デンマーク語だけ使い、南ユトランド語は家でこっそりしゃべるか、もしくはもう後者を放棄して標準語に完全に言語転換するかしか選択肢がない。南ユトランド語に対するこのネガティブな見方は、この地がデンマーク領となるのがコペンハーゲン周りより遅かったのも一因らしい。そういう地域の言語は「ドイツ語その他に汚染された不純物まじりのデンマーク語」とみなされたりするのだという。つまりナショナリストから「お前本当にデンマーク人か?」とつまはじきされるのである。そうやってここ60年か70年の間に南ユトランド語が著しく衰退してしまった。
 かてて加えてドイツ政府までもが「少数言語の保護」と称して標準デンマーク語を支援するからもうどうしようもない。

 が、その南ユトランド語を堂々としゃべっても文句を言われない集団がデンマーク内に存在する。それは皮肉なことに北シュレスヴィヒの少数民族、つまりドイツ系デンマーク人だ。彼らは民族意識は確かにドイツ人だが、第一言語は南ユトランド語である人が相当数いる。少なくともドイツ語・南ユトランド語のバイリンガルである。彼らの書き言葉はドイツ語なので、話し言葉の南ユトランドが吸収される危険性が低い上、少数民族なので南ユトランド語をしゃべっても許される。「デンマーク人ならデンマーク人らしくまともに標準語をしゃべれ」という命令が成り立たないからだ。また、ボン・コペンハーゲン宣言に加えて2000年に欧州言語憲章を批准し2001年から実施しているデンマークはここでもドイツ人を正式な少数民族として認知しているから、「ここはデンマークだ、郷に入っては郷に従ってデンマーク人のようにふるまえ」と押し付けることもできない。ネイティブ・デンマーク人のFredsted氏はこれらドイツ系デンマーク人たちも貴重なデンマーク語方言を保持していってくれるのではないかと希望を持っているらしい。
 惜しむらくはデンマークで少数言語として認められているのがドイツ語の標準語ということである。独・丁で互いに標準語(だけ)を強化しあっているようなのが残念だ。

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 マカロニウエスタンにはいわばシリーズとなったキャラクターがいくつかある。複数の作品で複数の俳優によって演じられた主役キャラで、『52.ジャンゴという名前』で述べた「ジャンゴ」が最も有名だ。1966年に『続・荒野の用心棒』でフランコ・ネロが演じてバカ受けしその後何十もの「ジャンゴ映画」が製作された。ジャンゴほどではないが、他にサバタ、サルタナというキャラクターも繰り返し登場する。後者のサルタナというキャラクターを普及させたのはジャンニ・ガルコという俳優で1966年のMille dollari sul nero(ドイツ語タイトルSartana、日本語タイトル『砂塵に血を吐け』)が第一作。ガルコは当時ジョン・ガルコと名乗っていた。氏はさらに時々ゲイリー・ハドソンGary Hudsonという芸名も使っている。
 Mille dollari sul neroでのサルタナという名前のキャラクターはむしろ(というより完全に)悪役だったが、この作品が特にドイツで当たって上述のようにタイトルもズバリSartana「サルタナ」となったのを受けて、その後もサルタナの名前をタイトルに使ったジャンニ・ガルコ主演の映画が4本作られた。ガルコ自身がキャラクター設定に関与し監督ジャンフランコ・パロリーニにも提案して、薄汚いカウボーイタイプではなくエレガントで気取った賭博者タイプ、いつも真っ白いシャツを着ているオシャレなタイプのガンマン路線で行くことになったそうだ。さらにガルコは以後の映画出演では契約書にいつも条件をつけて、主人公のキャラクターがこの基本路線に合致しない場合は映画のタイトルにサルタナという名前を出さないことにさせた。ところが1970年に来た「サルタナ映画」のオファーの脚本を見たところ、サルタナという名の役のキャラ設定が全然基本に合致していない。すでに時間が迫っていて脚本の修正も不可能だった。そこでガルコはオファーは受けたが、映画のタイトルにサルタナの名前は使わせなかった。それがUn par de asesinosという作品である。しかしドイツ語のタイトルは… und Santana tötet sie alle「そしてサタナが全員殺す」とちゃっかりサルタナを想起させるようになってしまっているばかりか、本国イタリアでも再上映の際タイトルが変更されてLo irritarono... e Santana fece piazza pulitaにされた。英語タイトルなどモロSartana kills them allである。しかしこの作品はサルタナ映画としては非公認である。
 そういうわけでガルコがサルタナ(あるいは紛らわしいサンタナ)という名の主人公を演じている映画は実は全部で6本あるのだが、最初のMille dollari sul neroではまたキャラクターが完全に確立していなかったし、Un par de asesinosではキャラが基本路線から外れているということで除外され、…Se incontri Sartana prega per la tua morte(1968、ドイツ語タイトルSartana – Bete um Deinen Tod「お前の死を祈れ」)、Sono Sartana, il vostro becchino(1969、ドイツ語タイトルSartana – Töten war sein täglich Brot「サルタナ;殺しは日々の糧」)、Una nuvola di polvere… un grido di morte… arriva Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana kommt…「サルタナがやって来る」、日本語タイトル『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』)、Buon funerale amigos… paga Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana – noch warm und schon Sand drauf「(体は)まだ暖かいのにすでに砂まみれ」)の4本だけが「ガルコ公認サルタナ映画」である。それにしても皆すさまじいタイトルだ。ちょっと調べたところこれらは日本では劇場未公開である。最初の公認サルタナ映画…Se incontri Sartana prega per la tua morteにはウィリアム・ベルガーが共演しているが、そういえばベルガーも後に『野獣暁に死す』で、人を殺した後服装の乱れを気にするというタイプの気取り屋タイプの殺し屋を演じていた。サルタナ路線を引き継いだのかもしれない。また、本家ガルコのサルタナ映画はこの6本(あるいは4本)しかないが、ガルコ以外の俳優、例えばジョージ・ヒルトンなどもサルタナというキャラを演じている。フランコ・ネロ以外もジャンゴをやっているのと同じことだ。逆にガルコのほうもサルタナ以外の西部劇にも出ていて、氏が出演したマカロニウエスタンは14作品ある。

 氏はフランコ・ネロとロバート・レッドフォードを足して二で割ったのをちょっとゴツくしたような好男子であるが、一度インタビューでマカロニウエスタン誕生の瞬間に立ち会った様子を語っている。

 1964年、セルジオ・レオーネがスペインのアルメリアで『荒野の用心棒』を撮っていたとき、ガルコもちょうどマルチェロ・バルディ監督のSaul e Davidという聖書映画に出演していたためそこにいた。「イスラエルのように見える景色」ということでアルメリアがロケ地として選ばれたそうだ。あるときホテルで、ちょうど撮影から宿に戻ってきてバーのカウンターに腰を掛けていた男に会ったが、それがどこかで見たような顔だった。誰かがあれはセルジオ・レオーネで、今彼の第一作目の映画を撮っているんだと教えてくれた。そこでその男の隣に坐って、どんな映画を撮っているのか聞いてみたら、レオーネが言うには、ジャン・マリア・ヴォロンテが悪役をやるちょっとした西部劇だ、とのことだった。そして雑談となり、いろいろ話をしていたら突然背の高い痩せた男が入って来たではないか。これが主役さ、アメリカ人でクリント・イーストウッドというんだ、とレオーネは言った。
 翌日自分の方のプロデューサーにその話をして、レオーネの撮っているのはどんな映画か聞いてみたら、プロデューサー曰く、「ちょっとした西部劇だが、ほとんど無予算でね。爆破のシーンがあるというんで工面してやらないといけなかった。レオーネ自身はその金がなかったんでね」。レオーネが極度の予算不足にあえいでいたのは、そのプロデューサーがケチ、というより約束した予算の支払いさえ滞りがちだったからだそうだ。ガルコのプロデューサーのほうはたんまり予算を貰っていたのである。
 ガルコは自分の映画が終わるとイタリアに帰ってミラノで舞台で仕事をしていたが(この人は元々舞台出身である)。『荒野の用心棒』の大当たりを目の当たりにした。映画館で見たそうだ。比べて予算のタップリあった自分の映画は全然ヒットしなかった。イタリア映画界は猫も杓子も西部劇を撮り出していて宗教映画など上映してくれるところがなかったのである。それで二年後に舞台契約が切れたとき、西部劇で役はないかと探していたら簡単に見つかった。それが上述のMille dollari sul neroだ。監督のアルベルト・カルドーネが「舞台経験のある悪役俳優」を探していたそうである。

真っ白なシャツに粋なネクタイというサルタナの特徴的ないでたち
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その粋ないでたちで銃を粋に担ぐ
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Sono Sartana, il vostro becchinoのドイツ語バージョンから。安物DVDだけに画質が悪い。
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 映画史に触れるこういう話も面白いが、それに劣らず面白いのは氏の生まれそのものである。ガルコは本名ジョバンニ・ガルコヴィッチGiovanni Garcovichと言ってクロアチアのダルマチア地方にあるZara(これはイタリア語名。クロアチア語ではZadar)という町の生まれだ。道理で姓が南スラブ系なわけだ。ここでクロアチアが出てくるのには歴史的理由がある。

 ダルマチアもそうだが、現在クロアチア領になっているアドリア海沿岸は長い間イタリア、というよりベネチア共和国に属していた。697年から1797まで千年以上続いた共和国である。ダルマチアは1409年からベネチア領になり、18世紀にハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国支配下にはいった。何百年もイタリア領だったうえ直接支配を受ける以前、1000年ごろからアドリア海に出没する海賊などからの保護をベネチアが受け持っていたりしたこともあってすでにダルマチアとベネチアは密接につながっていたから、今でもイタリア系住民がいる。ガルコの生まれたZara市に至っては第一次世界大全から第二次世界大戦の間、1920年から1947年までイタリア領だった。大戦後ユーゴスラビアの領土になった際、そこに住んでいたイタリア系住民はほとんどイタリアに引き上げたそうだが、ガルコは1935年の生まれだから、生まれた時からイタリア国籍のはずである。本名がGarković とクロアチア語綴りでなくGarcovichとイタリア語表記になっているのはそのためかもしれない。

16世紀ごろのベネチア共和国。Zara市がその領土であるのがわかる。ウィキペディアから。
Repubblica_Venezia_espansione_in_Terraferma

18世紀になってもイストリア半島を含むクロアチアのアドリア海沿岸部はベネチア領であった。
Italy_1796_AD-it


両大戦間のイタリア領の飛び地Zara
Zara-Zadar-1920-1947

 クロアチアの北西部、スロベニアと境を接するところにある三角型をした半島、イストリアもまた伝統的にベネチア領で、やはりイタリア系住民が少なくない。先日もTVのドキュメンタリー番組でイストリア半島の漁師のことをやっていたが、この人の母語はクロアチア語でもスロベニア語でもなく、「イタリア語の一方言」と番組では言っていた。この「方言」とは普通ウェネティー語またはウェネト語(ヴェネト語)と呼ばれるベネチアの言葉であろう。クロアチアの南にある「モンテネグロ」という国名がこのウェネト語であることは以前にも書いた(『45.白と黒』参照)。
 ただし、ここでいうウェネト語は『122.死して皮を留め、名を残す』の項で名を出した、ローマ時代のウェネト語とは違う。ローマ時代のウェネト語はラテン語のいわば兄弟言語で、後にラテン語に吸収されてしまった。エトルリア語と運命を共にしたのである。現在のウェネト語はラテン語の末裔である。同姓同名なのでややこしいが「別人」だ。

 またクロアチア人は宗教的にもカトリックで、マリオとかアントニオとかのイタリア系の名前が目立つ。事実上同じ言語を話しているセルビア人は名前もスラブ系なのと対照的だ。ジャンニ・ガルコの本名もしっかりこのパターン、名前がイタリア語、姓がスラブ語というパターンを踏襲している。氏は少なくともイタリア語・クロアチア語のバイリンガル、ひょっとすると母語はイタリア語オンリーだったと思われる。「若いうちにトリエステに移住し俳優学校で学んだ」と非常に簡単に経歴には書いてあるがこれが曲者で、トリエステに出たのは1948年、つまり僅か13歳のとき。まだ子供といっていい年齢の時だ。しかもZara市がユーゴスラビア領になってまもなくである。この時期、ユーゴスラビアのアドリア海沿岸部、つまりイストリアとダルマチアで、戦争中ファシストがバルカン半島で働いた蛮行への復讐のためイタリア系の住民が虐殺される事件があいついだ。イタリア系住民ばかりでなく「戦争中共産党ではなかった」人まで殺された。フォイベの虐殺と呼ばれているが、このFoibeというのはイタリア語でカルスト地形にできた穴を指し、犠牲者が殺された後、または生きながらここに放り込まれたためそう呼ばれている。ガルコもこの虐殺から逃げてきたのではないだろうか。トリエステまで親戚といっしょに来たのか、それとも親戚は殺されてたった一人でトリエステに辿りついたのか私にはわからないが、「移住」などという生易しいものではなかったはずだ。とにかく、このトリエステで舞台演技を学び、後にローマに出てAccademia d’Arte Drammaticaでさらに学び、1958年から映画にも顔を出すようになって、ヴィスコンティなどとも仕事をしている。

 時は流れて今度はクロアチア人が辛酸を舐めたが、この国はユーゴスラビア崩壊の後、2013年に晴れてEUに加盟する遥か以前、ドイツが批准するより一年近くも早い1997年11月にいち早くヨーロッパ地方言語・少数言語憲章Europäische Charta der Regional- oder Minderheitensprachen(『37.ソルブ語のV』参照)を批准し、1998年から施行した。それによってイタリア語が国内の少数言語として正式に認められ保護されている。正式にクロアチアの少数言語と認められているのはイタリア語のほかにルシン語(パンノニアで話されている東スラブ語)、セルビア語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語、ウクライナ語である。ドイツの批准は1998年9月、施行が1999年11月。イギリスはさらに遅くて批准が2001年3月、施行が同年6月である。フランスやイタリアのほうはいまだにこれを批准していない(『83.ゴッドファーザー・PARTI』『106.字幕の刑』参照)。

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