アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:数詞

 いわゆる学校文法では「数詞」が独立した品詞として扱われることが多いが、この数詞というのは相当なクセ者だと思う。それ自体が形の点でもシンタクス上でも名詞と形容詞の間を揺れ動くので、勘定されるほうの名詞との結びつきも複雑になるからだ。
 例えば次のセンテンスだが、

Ten soldiers killed a hundred civilians with twenty guns.

この英語だけ見ると一見 soldiers、civilians、guns の深層格はそれぞれ主格、対格、前置詞格あるいは具格だと思う。 ところが soldiers、civilians などの名詞がここで主格や対格に立たない言語は印欧語族にはゴマンとある。ロシア語だと、

Десять солдат убило/убили сто гражданских людей двадцатью ружьями.
ten + soldiers + killed + hundred + civilian + people + twenty + guns

ここでは数詞の後の soldiers、civilian people(太字)が複数属格(ロシア語文法では「生格」)である。つまりдесять(「10」)、сто(「100」)は普通名詞的なのだ。名詞がもう一つの名詞を修飾する場合、一方が属格になる、つまり「山田さんの家」と同じ構造だ。一方対格と主格以外では数詞が名詞の格と一致する。まるで形容詞のように呼応するのである(下記参照)。いずれにせよロシア語ではこれらの「数詞」は立派に格変化を起こす:десять(主格・対格)→десяти(生・与・前置格)→десятью(造格)あるいはсто(主・対格)→ста(生・与・造・前置格)。実はこういう数詞・名詞の格構成はサンスクリットの昔から印欧語族ではむしろ一般的だ。

サンスクリットでは:
1.数詞1-19が形容詞的に用いられ、その関係する名詞の性・数・格と一致する(つまり数詞も立派に格変化する)。
2.20-99、100、1000等は名詞として扱われ、これの付随する名詞は同格に置かれるか、あるいは複数属格となる。

古教会スラブ語では:
1.1~4は形容詞的特性、つまり付加語扱い。「1」では名詞は単数同格、「2」とは双数(両数)同格、3~4で複数同格、5以上から複数属格。
2.数詞の活用は、1~2が代名詞活用、3が名詞i-活用、4が子音活用とi-活用の混同タイプ、5~9だと活用だけでなく品詞も形容詞でなく名詞扱いでi-活用統一。

ロシア語では上にもあるように、主格と対格で数詞の披修飾名詞が属格になり、その他の格では披修飾名詞と数詞が同格だ。それで最初の例文の中の двадцатью ружьями(下線部)は数詞と名詞のどちらも造格になっている。つまりサンスクリットと同じく名詞が数詞と同格におかれるか、あるいは名詞のほうは複数属格に立つという二つのパラダイムが共存しているわけだ。
 対してラテン語では数詞は不変化「形容詞」とみなされたそうで現在の英語やドイツ語といっしょだが、それでもさらに調べると tantum(たくさんの)、plus(より多くの)などの数量表現では披修飾名詞は複数あるいは単数属格になるというから、数詞も名詞的な特性を完全には失っていない。

plūs pecūniae
more + money(複数属格)

『30.あともう少しのドルのために その2』の項で出したイタリア語の例

un po' più di libri
a + few + more + of + books

も di が入るから属格表現の仲間だとみなしていいのではないだろうか。もっとも例えばラテン語のquīdam(「いくつかの」)は「dē または ex」という前置詞がその後に来た後名詞の奪格を取るそうなので、このdi libriも本来は奪格なのかなとは思う。いずれにせよここでラテン語の属格・奪格形がとろけて一緒になってしまい、格機能が統合されていった様子がよくわかる。
 さらにやっぱりそこの項で出したロシア語

На несколько дрлларов вольше
on/for + some + dollars(複数属格) + more
(For some dollars more)

の「ドル」も複数属格である。

 ドイツ語もよくみると結構面白いことになっていて、数量表現が名詞的特徴を示すことがある。たとえば「多くの私の学生」は

* viele meine Studenten
many + my(複数主格) + students

と「私の学生たち」を主格にすることはできず、披修飾名詞を属格にしないといけない:

viele meiner Studenten
many + my(複数属格) + students

イタリア語と同じくここで各変化による属格でなく前置詞のvon(英語のof)を使って

viele von meinen Studenten
many + of + my(複数与格) + students

ということもできるが、これは上の例と比べて「日常会話的」とのことである。

 英語ほどひどくはないとはいえ、ドイツ語も格変化を捨てまくって堕落したがやっぱりまだまだ印欧語なのである。もっとも日本語でも「私の学生の多く」と「学生」を属格にできるが。
 数詞でも同じことが言えて、

* zwei meine Studenten
two + my (複数主格) + students

zwei meiner Studenten
two + my (複数属格) + students

meine zwei Studenten
my (複数主格) + two + students

*のついた2例では数詞が形容詞としての特性を示すため、いわゆる determinator、つまり「私の学生」というDPを支配する所有代名詞 meine の前に出られないが、披修飾名詞が属格の構造では数詞はそれ自体が事実上名詞であるからそこにまたDP、つまり「私の学生」がくっ付くことができる、と純粋にシンタクスの問題として説明することができるが、もっと見ていくと(しつこいなあ)、実は事はそんなに簡単ではないことがわかる。なぜなら

alle meine Entchen
all(複数主格) + my(複数主格) + ducklings

というフレーズは数量表現がdeterminatorの前に来てしかもそのdeterminatorが主格なのに許されるからである。ネイティブに説明を求めたら「1.この表現は子供の歌だからそもそも俗語的だし、2.alleという表現で表現された数量は閉じられたものであるからdeterminatorの限定的な意味と衝突しないからなんじゃないの?」と言っていた。限定非限定の意味の差が決定権を持っている例は他にもあって、例えば

meine viele Studenten
my(複数主格) + many(主格) + students

ということはできるが、

*meine einige Studenten
my (複数主格) + some(主格) + students

とは言えない。meineの持つ限定的意味とeinige(「(不特定の)いくつかの」)の非限定的な意味合いが衝突するからだろう。viel(「たくさんの」)だと「いくつか」より非限定性がはっきりしていないから限定のdeterminator、所有代名詞と共存できるのだと思う。
 シンタクスだけで全てを説明するのはやはり無理があるようだ。

 さて本題だが、ロシア語学習者泣かせの問題として2、3、4では披修飾名詞が変な形をとる、ということがある。英語やドイツ語では2以上になると披修飾名詞は一律複数主格なので何も苦労がないのだが、ロシア語はそんなに甘くない。ちょっとくらべてみてほしい。比べやすいようにロシア語はローマ字にしてみた。
Tabelle1-58
数が2から4までだと名詞が特殊な形をしているのがわかるだろう。これを語学書などでは「ものがひとつの時は名詞は単数主格、2から4までは単数属格(太字)、5以上になると複数属格(下線)をとる。20までいくとまた1から繰り返すので21の机では名詞が単数主格である」、と説明してある。パラダイムをみてみると確かになるほどとは思う。
Tabelle2-58

私の語学の教科書にもそう書いてあったのだが、そのときのロシア人の教師が運悪く言語学系であったため(『34.言語学と語学の違い』参照)、そこで私たち向かって堂々とこういった。

「語学の入門書とか文法書には「2、3、4は名詞の単数属格をとる」と書いてあったりしますが、これはデタラメです。そう説明しないと初心者が混乱するからです。この形はロシア語では失われてしまった古い双数形が残ったものです。」

古教会スラブ語 plodъ(「果実」)のパラダイムを調べてみると、o-語幹では確かに双数主格と単数属格が同形に見える。
Tabelle3-58
それでは2、3、4、のあとに来る名詞の形が単数生格でなく双数主格だとどうしてわかるのか。実は「2」のあとに来る形と単数生格ではアクセントの位置が違うのである。たとえば、шаг(シャーク、「歩、歩調」)の単数生格はшагаで、アクセントは最初のаにあるから「シャーガ」。対して「二歩」はдва шагаだが、アクセントが2番目のаに来て「シャガー」となる。同じくчас(チャース、「1時間」)の単数生格は часа(チャーサ)だが「3時間」は три часа(トリー・チャサー)だ。つまり字に書くとアクセントが表せないから同じに見えるがこの二つは本来全然違う形なのだ。
 これを「単数生格」とデタラメな説明をする語学教師あるいは教科書を、イサチェンコという言語学者が著書の中で「言語事実を強姦するに等しい」とまで言って怒っていた。しかしたかがこれしきのことで強姦呼ばわりされていたら、そこら辺のいわゆる「よくわかる○○語」「楽しく学べる○○語」の類の語学書には強姦魔がいくらもいる。私もさるドイツ語の楽しい入門書で不規則動詞について「日頃よく使う道具はあまり使わない道具より消耗が激しいでしょう。それと同じく日頃よく使う動詞は形が崩れやすいんですよ」とわかりやすい説明をしているのを見たことがあるが、これなんか強姦殺人級の犯罪ではないだろうか。話が全く逆の上に、ドイツ語ばかりでなく、他の言語も不規則動詞は「規則動詞より変化が早かったため」と一般化されてしまいかねないからである。
 使用頻度の高い「基本動詞」が不規則動詞であることが多いのは変化に曝された度合いが規則動詞より強かったからではなくて、その逆、それらが頻繁に使われるため、古い形がそのまま引き継がれて変わらずに残ったからだ。言語が変化し、動詞のパラダイムが変わってしまった後もそれらがまさに頻繁に口に上るそのためにパラダイム変化を被らなかったからである。たとえばロシア語で take という意味の不規則動詞の不定形は взять だが、定形・現在時称だと возьму(一人称単数)、возьмёшь(2人称単数)などとなって突然鼻音の м (m) が現われ学習者はビビる。しかしこれは規則動詞より形が崩れたからではなくて、ロシア語の я が古い時代に鼻母音だった名残である。つまり不規則動詞のほうが古い形を保っているのであり、規則動詞がむしろ新参者なのだ。

 語学書やいいかげんな語学教師のデタラメな強姦罪に対して声を上げたロシア語の先生は勇気があるとは思うが(女の先生だった)、実は一つだけ疑問が残った。残念ながら私のほうに勇気が欠けていたのでその場で質問しそこねたためいまだに疑問のまま残っているのだが、

「2の後の名詞が双数主格なのはわかるが、どうして3と4まで双数になっているのか。」

この記事を書く機会にちょっと調べてみたのだがはっきりその点に言及しているものが見つからなかった。かろうじて次のような記述を見かけたが説明としてはやや弱い。

Под влиянием сочетаний с числительным два аналогичные формы появились у существительных в сочетаниях с числительными три и четыре

数詞の2との組み合わせに影響され、そこからの類推によって数詞の3と4と結合する場合も名詞が同様の形をとるようになった。

上の古教会スラブ語の説明にあるように、3と4は本来複数主格だったはずである。5からは複数属格だったから形が違いすぎて類推作用が及ばなかったのはわかるが、3と4で双数主格が複数主格を食ってしまったのはなぜなのかどうもわからない。やっぱりあの時勇気を出して先生に聞いておけばよかった。


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 『17.言語の股裂き』の項で、西ロマンス諸語はラテン語の複数対格を複数形全般の形として取り入れ、東ロマンス語はラテン語の複数主格をもって複数形としたと言われていることを話題にした。私自身はこの説にはちょっと疑問があるのだが、それとは別に対格か主格かという議論自体は非常に面白いと思っている。他の言語でもこの二格が他の格に比べて特別なステータスを持っている事例が散見されるからだ。

 ロシア語は数詞と名詞の組み合わせが複雑な上(『58.語学書は強姦魔』の項参照)しかも数詞そのものまで語形変化するという勘弁してほしい言語だが、1より大きい数、つまり英語やドイツ語で言う複数の場合その他の格(生格・与格・造格・前置格)では数詞とその披修飾名詞の格が一致するのに主格と対格ではそれらが別の形になる。
Tabelle1-65
どの場合も数詞名詞共に格変化を起こしているが、生格・与格・造格・前置格では名詞と数詞は同じ格である。例えば「二つの机」の与格では数詞двумも名詞столам(ただし複数形)も与格で形が似ているのがわかる。同様に「三ルーブリ」造格ではтремя(「3」)もрублями(「ルーブリ」)も造格、「50冊の本」の前置格でもпятидесяти(「50」)、книгах(「本」)共に前置格形である。
 ところが「2つの机」「3ルーブリ」の主格・対格では数詞自体は主格・対格だが披修飾名詞が一見単数生格で一致していない。「一見」と書いたのはもちろんこれが文法書によく説明してあるような単数生格でなく実は双数主・対格(再び『58.語学書は強姦魔』参照)であることを考慮したからだ。その意味では4までは数詞と披修飾名詞の格は一致しているといえるだろうが、他の格は披修飾名詞が皆複数形となっているのに主・対格だけは双数形になっているわけだから、やはり主格・対格は特殊と言っていいと思う。5以上ではこれがさらにはっきりしていて、「50冊の本」の主格・対格は数詞が主格あるいは対格だが名詞は明確に複数生格である。これを本物の(?)生格пятидесяти книгと比べてみると面白くて、ここでは数詞がきちんと生格になっているため披修飾名詞の生格と一致している。つまり主・生・対格の3格で披修飾名詞が生格になっているのだ。さらに面白いのは数詞がつかない場合、例えば単にbooksと言いたい場合は「本」が複数形のкнигиという形になることだ。これは主格・対格同形である。

 日本語でも主格つまり「○○が」と対格「○○を」は特別なステータスを持っているのではないかと感じることがある。主題の助詞「は」と組み合わせた場合、この2格のマーカーが必ず削除されるからだ。

鳴く
→ 鳥がは鳴く
→ 鳥(が)は鳴く
→ 鳥Øは鳴く
→ 鳥鳴く

殺さない
→ 人をは殺さない
→ 人(を)は殺さない
→ 人Øは殺さない
→ 人殺さない

これに対してその他の格マーカーは「は」をつけても消されることがない。

処格: 東京行かない → 東京には行かない
奪格: お前から言われたくない → お前からは言われたくない

「に」は消せることがあるが、「から」は消せない:

東京は行かない
*お前は言われたくない

つまり斜格マーカーには「共存できない」どころか共存しないと文がおかしくなるものさえあるのだ。

「は」の他に主格・対格は「も」とも共存ができない。

田中さん来た 
→ *田中さんがも来た。
→ 田中さん来た、

その本読んだ
→ ??その本をも読んだ
→ その本読んだ

ただ私の感覚では対格のほうはギリギリで「も」と共存できる。「その本をも読んだ」は文語的表現で話し言葉としては非常に不自然だが、許せないこともない。ないが他の格マーカーと比べると許容度が格段に低い。

北海道へも行った。
佐藤さんとも話した。
外国にも住んだことがある。
地下鉄でも赤坂見附まで行ける。
ここでも野球ができるよ。

これらは全部無条件でOK.だ。共格「と」、具格「で」、同じく処格の「で」などは上の「は」の場合と同じく、格マーカーが居残らないとむしろ非文になる。
 格マーカーにはどうも微妙な階級がありそうだ。いずれにせよ主格と対格は特別といえるのではないだろうか。

ロマニ語もその意味でちょっとスリルのある構造になっているようだ。ギリシアとトルコのロマニ語では「ロマ」(夫・男)という男性名詞の変化パラダイムが以下のようになっている。
Tabelle2-65
ロマニ語は地域差が激しいのでロシアやオーストリア、セルビアなどのロマニ語では微妙に形が違っているが、はっきりと共通していることがある。それは名詞の変化パラダイムが2層になっているということだ。
 まず主格と対格(このグループのように呼格が残っている場合は呼格も)の形の違いは古いインドの祖語から引き継いだもので「語形変化」と呼んでいい。ここでは -és がついているが、語によってはゼロ形態素だったりするし(kher(主格)-kher(対格)、「家」)、女性名詞では -ja が付加される(phen(主格)- phen-já(対格)、「sister」)。
 ところが主・対格以外の斜格は対格をベースにしてそこにさらに膠着語的な接尾辞を加えて作っている。対格というよりはむしろ「一般斜格」と呼んだほうがよさそうだ。つまりロマニ語は主格と対格以外では本来の変化形が一旦失われ、後からあらためて膠着語的な格表現を使ってパラダイムを復活させたということだ。これらの形態素は発生が新しいから元の語の文法性や変化タイプに関わりなく共通である。例えば上で言及した女性名詞 phen- phen-já も主格・対格以外は男性名詞の rom と同じメカニズムで斜格をつくる。上の例と比べてみてほしい。
Tabelle3-65
 どうしていろいろな言語で主格と対格が他の斜格に比べて強いのか。もちろんこれは単なる私の想像だがやはりこの二つが他動詞の必須要素であり、シンタクスの面でも意味の面でも対立性がはっきりしている上使用頻度が高いからではないだろうか。能格言語で能・絶対格と他の斜格(能格言語でも「斜格」と呼んでいいのか?)との関係がどうなっているのか興味のあるところだ。興味はあるのだが調べる気力がない。知っている人、調べた人がいたらメッセージでもいただけると嬉しい。


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 いつだったか、インドの学校では九九を9×9=81までではなく、12×12=144まで暗記させられる、と聞いていたのをふと思い出して調べてみたら12×12ではなく20×20までだった。「じゅうに」と「にじゅう」を聞き違えたのかもしれない。
 言語によっては12で「2」を先にいうこともあるし、反対に20のとき「10」が前に来たりするからややこしい。また、11と12が別単語になっている言語もある、と言っても誰も驚かないだろう。英語がそうだからだ。英語ばかりでなくドイツ語などのゲルマン諸語全体がそういう体系になっている。ゲルマン諸語で1、2、3、10、11、12、13、 20、30はこんな具合だ。
Tabelle1-81
13からは「1の位の数+10」という語構造になっているが11と12だけ系統が違う。11(それぞれelf, elva, ainlif)の頭(e- あるいはain-)は明らかに「1」だが、お尻の -lf、 -iva、 lif はゲルマン祖語の *-lif- または *-lib- から来たもので「残り・余り」という意味だそうだ。印欧祖語では *-liku-。ドイツ語の動詞 bleiben(「残る」)もこの語源である。だから11、12はゲルマン諸語では「1あまり」「2あまり」と言っているわけだ。
 この、11、12を「○あまり」と表現する方法はゲルマン祖語がリトアニア語(というか「バルト祖語」か)から取り入れたらしい。本家リトアニア語では11から19までしっかりこの「○あまり構造」をしていて、20で初めて「10」を使い、日本語と同じく10の桁、「2」のほうを先に言う。
Tabelle2-81
ゲルマン語は現在の南スウェーデンあたりが発祥地だったそうだから、そこでバルト語派のリトアニア語と接触したのかもしれない。そういえば昔ドイツ騎士団領だった地域には東プロシア語という言語が話されていた。死滅してしまったこの言語をゲルマン諸語の一つ、ひどい場合にはドイツ語の一方言だと思い込んでいる人がいるが、東プロシア語はバルト語派である。
 印欧語ではないが、バルト海沿岸で話されているフィンランド語も11から19までは単純に「1と10」という風には表さない。
Tabelle3-81
11、12、13の-toistaという語尾はtoinenから来ていて、もともと「第二の」という意味。だからフィンランド語では例えば11は「二番目の10の1」だ。完全にイコールではないが、意味的にも用法的にもリトアニア語の「○余り」に近い。「20」のパターンもリトアニア語と同じである。
 
 ケルト諸語ではこの「○余り構造」をしておらず、11、12は13と同じくそれぞれ1、2、3と10を使って表し、一の位を先に言う。
Tabelle4-81
アイルランド語の10、a deichはdéag や dhéag と書き方が違うが単語そのものは同一である。後者では「10」が接尾辞と化した形で、これがブルトン語ではさらに弱まって -ek、-zek になっているが構造そのものは変わらない。それより面白いのは20で、「10」も「2」も出て来ず、一単語になっている。これはケルト祖語の *wikantī から来ており、相当語形変化をおこしているがブルトン語の ugentも同語源だそうだ。印欧祖語では *h1wih1kmt* あるいは h₁wih₁ḱm̥ti で、ラテン語の vīgintī もこの古形をそのまま引き継いだものである。「30」、tríocha と tregont も同一語源、ケルト祖語の *trī-kont-es から発展してきたもの。つまり20、30は11から19までより古い言語層になっているわけだ。これはラテン語もそうだったし、それを通して現在のロマンス諸語に引き継がれている。
Tabelle5-81
当然、といっていいのかどうか、サンスクリットやヒンディー語でも「20」は独立単語である。
Tabelle6-81
ヒンディー語の bīs はサンスクリットの viṃśati が変化したもの。下のロマニ語の biš についても辞書に viṃśati 起源と明記してある。もっともそのサンスクリットは数字の表し方がかなり自由で学習者泣かせだそうだが、学習者を泣かせる度合いはヒンディー語のほうが格段に上だろう。上の11、12、13、それぞれ gyārah、 bārah、tērah という言葉を見てもわかるように、ヒンディー語では11から99までの数詞が全部独立単語になっていて闇雲に覚えるしかないそうだ。もっとも13の -te- という頭は3の tīn と同語源だろうし、15は paṅdrah で、明らかに「5」(pāṅc)が入っているから100%盲目的でもないのだろうが、10の位がまったく別の形をしているからあまりエネルギー軽減にはならない。やはり泣くしかないだろう。
 同じインド・イラニアン語派であるロマニ語の、ロシアで話されている方言では20と30で本来の古い形のほかに日本語のように2と10、3と10を使う言い方ができる。
Tabelle7-81
ドイツのロマニ語方言では30をいうのに「20と10」という表し方がある。
Tabelle8-81
ハンガリー・オーストリアのブルゲンラント・ロマの方言では20と30を一単語で表すしかないようだが、11から19までをケルト語やサンスクリットと違って先に10と言ってから1の位を言って表す。これは他のロマニ語方言でもそうだ。
Tabelle9-81
手持ちの文法書には13がbišutrinとあったが、これは誤植だろう。勝手に直しておいた。他の方言にも見えるが、ロマニ語の30、trianda, trianta, trandaはギリシャ語からの借用だそうだ。
Tabelle10-81
古典ギリシア語では13からは11、12とは語が別構造になっているのが面白い。それあってか現代ギリシャ語では11と12では一の位を先に言うのに13からは10の位が先に来ている。20と30はケルト語と同じく独立単語で、20(eikosi または ikosi)は上で述べたブルトン語 ugent、ラテン語の viginti、サンスクリットの viṃśati と同じく印欧祖語の *(h₁)wídḱm̥ti、*wi(h₁)dḱm̥t または *h₁wi(h₁)ḱm̥tih₁ から発展してきた形である。

 あと、面白いのが前にも述べた(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)バルカン半島の言語で、バルカン連語連合の中核ルーマニア語、アルバニア語では11から19までがone on ten, two on ten... nine on ten という構造になっている。
Tabelle11-81
11を表すルーマニア語の unsprezece、アルバニア語の njëmbëdhjetë、ブルガリア語の edinadesetはそれぞれun-spre-zece、 një-mbë-dhjetë、edi(n)-na-deset と分析でき、un、 një、edinは1、spre、 mbë、naは「~の上に」、zece 、dhjetë、desetが「10」で単語そのものは違うが造語のメカニズムが全く同じである。さらに実はブルガリア語ばかりでなくスラブ語派はバルカン外でも同じ仕組み。
Tabelle12-81
ロシア語 odin-na-dcat’、クロアチア語の jeda-na-est でもちょっと形が端折られていたりするが、one on ten という構造になっていることが見て取れるだろう。20、30は日本語と同じく「に+じゅう」「さん+じゅう」である。

 ここでやめようかとも思ったが、せっかくだからもうちょっと見てみると、11から19までで、1の位を先に言う言語が他にもかなりある。
Tabelle13-81
ヘブライ語は男性形のみにした。アラビア語の「11」の頭についているʾaḥada は一見「1」(wāḥid)と別単語のようだが、前者の語根أ ح د ‎('-ḥ-d) と後者の語根و ح د ‎(w-ḥ-d) は親戚でどちらもセム語祖語の*waḥad-  あるいはʔaḥad- から。ヘブライ語の אֶחָד ‎('ekhád) もここから来たそうだから意味はつながっている。アラビア語ではつまり11だけはちょっと古い形が残っているということだろうか。
 「11だけ形がちょっとイレギュラー」というのはインドネシア語もそうで、12からははっきり1と2に分析できるのに11だけ両形態素が融合している。
Tabelle14-81
この11、sebelas という形は se + belas に分解でき、se は古マレー語で「1」、インドネシア語のsatu と同義の形態素である。belas は11から19までの数詞で「10」を表す形態素。これもマレー語と共通だそうだ。つまりここでも古い形が残っているということだ。
 さらにコーカサスのジョージア語(グルジア語)も1の位を先に言う。
Tabelle15-81
-meṭi は more という意味の形態素だそうで、つまりジョージア語では11から19までを「1多い」「9多い」と表現していることになり、リトアニア語の「○余り構造」とそっくりだ。「13」の ca- はもちろん sami が音同化して生じた形である。また、ジョージア語も「20」という独立単語を持っていて、30は「20と10」である。

 シンタクス構造が日本語と似ているとよく話題になるトルコ語は11~19で日本語のように10の位を先に言う。その点はさすがだが、20と30は残念ながら(?)日本語と違って独立単語である。20(yirmi)も30(otuz)もテュルク祖語からの古い形を踏襲した形なのだそうだ。
Tabelle16-81
バスク語も10の位を先に言うようだ。能格言語という共通点があるのにジョージア語とは違っている。もっとも30は「20と10」で、これはジョージア語と同じである。
Tabelle17-81
こうして見ていくと「20」という独立単語を持っている言語は相当あるし、数詞という一つの体系のなかに新しく造語されて部分と古い形を引き継いだ部分が混在している。調べれば調べるほど面白くなってくる。今時こういう言い回しが若い人に通じるのかどうか不安だが、まさにスルメのように噛めば噛むほど味わいを増す感じ。数詞ネタでさかんに論文や本が書かれているのもわかる気がする。


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 ローマ時代に消滅したエトルリア語(『123.死して皮を留め、名を残す』参照)のほかにもその存在と消滅が記録に残っている言語はもちろんたくさんある。北ヨーロッパでかつて話されていた古プロイセン語も有名だ。「プロイセン」あるいは「プロシア」という名称を後になってドイツ人が転用してしまったため(下記参照)、ゲルマン語の一種、果てはドイツ語の方言かと思っている人もいるようだがこの古プロイセン語はゲルマン語とは全く違うバルト語派の言語である。現在のリトアニア語やラトビア語の親戚だ。

 13世紀にドイツ騎士団がポーランドの公爵から許可されてバルト海沿岸に進出というかバルト海沿岸を侵略してというかとにかくそこに領土を形成していったとき当地で話されていた言語が古プロイセン語である。ポメサニアPomesanien、サンビア半島Samlandと呼ばれている地域だ。
 プロイセンという名前が最初に文献に出てくるのは9世紀で、バイエルンの地理学者がBruziというバルト海沿岸の民族について言及している。これらの人々はまたPruzziあるいはPrūsai(プロイセン人本人は自分たちをこう呼んでいた)とも呼ばれたがやがてPreußenというドイツ語名が定着し、さらに民族でなく地域を表すようになってドイツの一地方の名称として使われるようになったのだ。

 現在見つかっている最も古い古プロイセン語の文献は13世紀後半か14世紀初頭のもので、バルト語派全体でも最古のものである。リトアニア語もラトビア語も16世紀までしか遡れないからだ。
 その最古の文献の一つがエルビング(ポーランドではエルブロング)の語彙集Elbinger Vokabularとよばれるドイツ語-古プロイセン語の辞書で、古プロイセン語のポメサニア方言の単語が802収められている。単語がアルファベット順でなく「食事」「服装」などのテーマ別に配置されている、いわば旅行者用の言語案内書である。古プロイセン語ばかりでなくドイツ語の貴重な資料ともなっている。13世紀から14世紀にかけてドイツ騎士団領で話されていた当時のドイツ語が記されているからだ。現在のドイツ語ではもう失われてしまっている古い形が散見される。
 1545年にはルターが1529年に発表した小教理問答書の翻訳が二冊出た。その二冊目は一冊目の改訂版である。訳者はわかっていない。1561年にはこれもルターの大教理問答書が訳されたが、こちらは訳者がわかっている。Abel Willという牧師がプロイセン人のPaul Megottの助けを借りて訳したものだ。この3冊とも出版地はケーニヒスベルクであった。小教理問答はポメサニア方言、大教理問答ではサンビア半島方言で書かれている。両方言間には音韻対応も確認されている。例えばポメサニア方言の ō がサンビア半島のā に対応している:tōwis (ポ)対tāws(サ)(「父」)など。また大教理問答書はテキストが量的に多いというばかりでなく、古プロイセン語のアクセントやイントネーションなどが反映されていて貴重な手がかりになっている。
 この教理問答書の直前、1517年から1526年ごろにかけてSimon Grunauという僧が編纂した辞書は「グルナウの辞書」として知られている。これらのほかにも断片的なテキストや碑などがいろいろあるし、ドイツ語-古プロイセン語ばかりでなくポーランド語の辞書も存在するとのことだ。
 しかし語彙に関してはそういった貴重な資料が提供されている一方、シンタクス面では鵜呑みにできかねる点があるらしい。得に教理問答書がドイツ語の原本にあまりに忠実な訳をとったため、硬直したセンテンス構成となっていて語順などは実際の古プロイセン語からは乖離しているからだそうだ。いわゆる直訳体が通常使われている言葉とはとかけ離れている、というのは日本語でもその通りである。また所々誤訳も見つかっている。ドイツ語の名詞Reich 「帝国・領域」と形容詞reich「豊かな」を取り違えたりしている部分があるとのことだ。もっとも多少の誤訳は翻訳にはまあつきものだし、誤訳だと判明しているそのこと自体が古プロイセン語がきちんと解読されている証拠ではある。

 エトルリア語と違って古プロイセン語は一目見た瞬間からすでにバルト語の一つであることが明らかだった。語彙の面でも文法構造の点でもリトアニア語やラトビア語との相似が著しかったからだ。もちろん微妙に違っている部分もいろいろあるので、リトアニア語、ラトビア語は「東バルト語派」、古プロイセン語は「西バルト語派」と分けている。だから現在生き残っているのは東バルト語のみだ。

バルト語派の系統図。
Arkadiev, Peter (et.al) (ed.).2015. Contemporary Approaches to Baltic Linguistics. Berlin:De Gruyterから
Baltisch_bearbeitet

 不便なことに古プロイセン語は言語比較の際必ずと言っていいほど持ち出される基数が1、3、10、1000しかわかっていない。序数は10まできれいにわかっている。教理問答の「十戒」が10番目まであるからだ。その序数を東バルト語派の両言語と比べてみると下のようになる。
Tabelle-125
古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語との間には地域差ばかりでなく時代差があるので気をつけないといけないが、それでもこの三言語が非常に似ていることがわかる。さらに「第3」、「第6」、「第9」の語頭音を見れば古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語、つまり東西バルト語派の間に境界線を引けることがわかる:古プロイセン語ではそれぞれ、tir- (tîr-)、 Øus- (Øuš-,vuš-)、nev- がリトアニア語、ラトビア語ではそれぞれtrẽ- (tre-)、šẽš- (ses-)、dev- で、明瞭な差があるからだ。東バルト語派の「第六」、šẽštasとsestaisは古プロイセン語のustsとはそもそも語源が違い、単純に音韻対応での比較をすることはできないそうだ。šẽštas・sestaisは一目瞭然に他の印欧語と同じ。古プロイセン語だけ変な形になっている。この3つは古プロイセン語の中での方言差を示しているがその一つがwuschts となっていて、prothetisches V (『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのが面白い。実は基数の1は古プロイセン語ではains なのだが、これがリトアニア語ではvíenas、ラトビア語ではviênsでprothetisches V が現れる。V の等語線が東バルト語から西バルト語側にちょっとはみ出している感じなのか。さらに古プロイセン語のains は印欧祖語の*oinos 直系でゴート語のains やラテン語のūnusと同じだが、リトアニア語。ラトビア語のvíenas・ viêns は*eino- という形を通しており、古教会スラブ語のjedinъの -ino- と共通している。上の「第3」、「第6」、「第9」にしても東バルト語派はスラブ語と共通している。古プロイセン語だけがスラブ語と違うということで、バルト語派とスラブ語派はもともとはもっと離れていたのが、時代が下るにつれて近づいていったのではないかという説もある(下記参照)所以である。
 このほか古プロイセン語の「この」(the、 this)が stas なのに対してリトアニア語、ラトビア語は tàs 、tas というのも「東西の頭の差」の例だろうが、もう一つ、古プロイセン語の「雪」はsnaygis で、リトアニア語の sniẽgas、ラトビア語の sniegs とは複母音の方向が逆になっている。後者はロシア語と共通。またリトアニア語の「雪片」という言葉には古形の -ay-  が保持されていてsnaigẽ 。ついでにこの印欧祖語形は *snóygʷʰos である。
 音韻上ばかりでなく、東西バルト語派間には構造上の違いがいろいろある。その一つが古プロイセン語は文法カテゴリーとして中性名詞を保持していることだ。特にエルビングの語彙集ではそれが顕著である。対して東バルト語派には男性・女性の二性しかない(リトアニア語には僅かながら中性の残滓が残っている)。中性名詞は男性名詞に吸収されてしまった。もっとも古プロイセン語でも子音語幹の中性名詞は男性化傾向が見られ、例えば小教理問答では「名前」をemmens といって本来 n-語幹であったのに男性名詞的な語尾 –s が付加されている。 対応するロシア語 имя もラテン語 nōmen も中性。u-語幹の中性名詞は比較的明瞭に「中性性」が保たれ、「蜂蜜」は meddo(-o で終わっていても u-語幹)、「蜂蜜酒」は alu。リトアニア語・ラトビア語ではこれらはそれぞれ medús・medus、alùs・alusというどれも男性名詞である。ただし「蜂蜜酒」のほうは現在では「ビール」の意味になっている。
 さらに外来語が中性名詞として借用された例もある。mestan 「都市」がそれで、リトアニア語ではmiẽstas で男性名詞。ポーランド語miastoからの借用である。『5.類似言語の恐怖』でも述べたようにこれは本来「場所」という意味で、スラブ祖語の*mě̀sto、ロシア語のместо と同源だ。ラトビア語の「都市」はpilsēta で別単語になっているが、これは女性名詞。

 さて、頻繁に議論の対象になるのがバルト語派とスラブ語派の関係である。この二つの語派は地理的にも近いし似ている点も多いので、もともとは一つの語派だったのではないかとする人も多く、以前は「バルト・スラブ語派」といった。今でも時々この名称を聞く。しかし研究が進むにつれてバルト語派とスラブ語派には言語構造、特に動詞の形態素構造に本質的な違いがあることがわかってきて今ではバルト語派とスラブ語派は分けて考えることが多い。
 もっともこの、バルト語派とスラブ語派は一つの語派から別れたものだという考え方にはすでにアントワーヌ・メイエが疑問を提示している。両語派は元から別語派で、平行して発展してきたというのがメイエの主張であった。そこからさらに発展して、バルト語派とスラブ語派間の共通性は「言語連合」(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)によるものだと唱える人たちも現れたが、バルト語派・スラブ語派間の類似性は、古典的な言語連合、例えばバルカン半島の諸言語の場合とは質的な違いがあり、一般に受け入れられるには到っていない。
 
 その動詞の変化パラダイムを比較していくと、スラブ語派は東部の印欧諸語と共通性があり、バルト語派はゲルマン語派、ケルト語はやイタリック語派とともに西ヨーロッパの印欧語に所属させたほうがいいと思わせるそうだ。ただし印欧諸語を単純に西と東に分けること自体に問題があるから、バルト・スラブ間に東西印欧諸語の境界線が走っていると主張することはできない。
 そのバルト語・スラブ語間の形態素の違いについていろいろと指摘できる点はあるそうだが、ガチの印欧比較言語学理論は残念ながら私には理解できないから(どうもすみません)、個人的に面白いと思った点を勝手に列挙させていただくことにする。
 まず、バルト語派の動詞には3人称に単数・複数の区別がない。この点でゲルマン語派ともスラブ語派とも大きく違っている。ゲルマン語でもスラブ語でも助動詞で例えば一人称単数と3人称単数が同形になったり(ドイツ語のich magとer mag < mögen 「~が好きだ」)、一人称単数と3人称複数が同形になったり(クロアチア語の ja mogu とoni mogu < moći「~ができる」。クロアチア語で一人称単数と3人称複数が同じになるのはこの助動詞だけ)することは稀にあるが、3人称の単複同形というのは特殊である。
 また未来系を助動詞の付加でなく(analytic future)動詞の語形変化そのものによって作る(synthetic future)。s-未来と呼ばれ、古プロイセン語のpostāsei(「~になるだろう」2人称単数)がそれ。対応するリトアニア語はpastōsi。さらにリトアニア語の「坐っている」sėdėti の未来形は sedesiu (一人称単数)、 sedesi (二人称単数)、 sedes (三人称単・複)、sedesime(一人称複数)、 sedesite (二人称複数)となる。ラトビア語の「話す」runāt はrunāšu (一人称単数)、 runāsi(二人称単数)、  runās (三人称単・複)、runāsim (一人称複数)、  runāsit/runāsiet (二人称複数)。スラブ語派は助動詞で作る未来形 analytic future しかない。ドイツ語英語も印欧語本来のsynthetic future を失ってしまった。ただし古プロイセン語の小教理問答には動詞の能動態過去分詞にwīrst あるいは wīrstai を付加して作るanalytic future が見られる。もちろんドイツ語の影響である。
 上述のラトビア語の「話す」もそうだが、ちょっとバラバラと動詞を見ていくと語そのものがスラブ語と全く違っているものが目立つ。スラブ諸語は『38.トム・プライスの死』でも書いたように基本の語彙が似ているというより「共通」なので新聞の見出しなど類推で意味がわかってしまうことが多いが、バルト語派相手だとこの手が全然効かない。リトアニア語の「話す」はkalbėtiで、さらに別単語となっているがスラブ語とはやはり遠い。「話す」のほか、たとえばリトアニア語の「書く」はrašyti、「聞く」がgirdė́ti。pjautiは「飲む」か「歌う」かと思うとそうではなくて「切る・刈る」。
 もちろんバルト・スラブ語派というものが取りざたされるほどだから確かに似た形の単語もある。上の「坐っている」がそう。ロシア語の сидеть とそっくりだ。他にも「与える」の古プロイセン語一人称単数が dam 、古リトアニア語が dúomi、現リトアニア語 dúodu (不定形 duoti)、ラトビア語 dodu(不定形dot)古教会スラブ語 damь(不定形 дати)、ロシア語 дам (不定形дать)。リトアニア語を見るとバルト語派内で –m から –du の転換があったようだが、とにかく似ている。しかし一方この語はバルト語派とスラブ語派だけが似ているのではなくて他の印欧語もいっしょなのである。古典ギリシャ語がdidōmi、サンスクリットでdadāmi、ラテン語のdō もこれ。まさにみんなで渡れば怖くないだ。
 また「住む、生きる」の古プロシア語三人称複数形は giwammai でリトアニア語でのgyvẽname あるいはgyvẽnam と同源。ロシア語の живём と子音が違うようだが、これがラトビア語になると dzīvojam でロシア語やクロアチア語の živimo と立派につながっている。印欧祖語では*gʷeyh₃-だそうだ。つまり「与える」も「生きる」もバルト語派とスラブ語派が近いから似ているというより両方とも印欧語だから似ているだけの話なのである。

 全体としてバルト諸語とスラブ諸語は確かにいっしょにされるのも一理あるはあるのだが、かといってでは問答無用で一括りにできるかというとそうでもない、いわばつかず離れず状態と言えよう。せっかくそうやってゲルマン諸語にもスラブ諸語にもベッタリになることなく上手く立ち回ってきた古プロイセン語だが、ドイツ語に押されて18世紀初頭にはすでに死滅してしまっていたと思われる。残念なことである。

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 日本で比較的よく知られている少数言語のひとつにネズ・パース語というのがある。米国アイダホ州で主に話されている先住民の言語で、同州北部のKamiah、 Lapwaiにある保留地と西ワシントン州の Colville 保留地にもその上流方言を話す人がおり、オレゴン州の Umatilla 保留地に下流方言の話者がいる。話者がいるといっても1980年代の調査時点で500人と言っていたからその時点では『108.マッチポンプの悲劇』で述べたアンダマン語といい勝負だったが、先日ユネスコの発表した危機に瀕した言語のリストを見たらすでに話者20人とあった。米国政府も危機に瀕した先住民の言語を復活させようとプログラムを組んだりしているらしいが予断を許さない状態だ。アンダマン語の方は2007年の時点で話者5人だった。今はもう消滅しているかもしれない。

ネズ・パース語が話されている地域。ウィキペディアから
800px-Nezperce01

 このネズ・パースという名前はフランス語のnez percé (ネ・ペルセ)から来ていて「ピアスした鼻」という意味である。フランス系のカナダ人が名前をつけたからだ。そのもとになったのは19世紀初頭にこの地にやってきてこの部族を発見(ちなみにこちらの人の感覚では日本人もポルトガル人によって「発見」されたのである)したヨーロッパ人の観察で、この人たちは鼻中隔に穴をあけて貝のピアスをしていたという。しかしすでにほぼ同時期に「この人たちは別に鼻にピアスなどしていない」という報告もあり、ネズ・パースにはそんな習慣などそもそもなく、鼻ピアスについては近隣の部族と混同されたのではないかという疑いが濃厚だそうだ。また最初は素直に英語の Pierced Noses という名称も使われていたそうで、これがフランス語になりさらにそのフランス語を英語読みにして命名したところに、英語話者が大陸の文化語フランス語に対して抱いている微妙な劣等感を感じ取ってしまうのは私だけだろうか。とにかく命名のプロセスからしてすでに面白い話題を提供している。いずれにせよこの名は後から来たヨーロッパ人が勝手につけた名前で、本人たちは自分のことを nimi:pu: と呼んでいる。 pu: が人々または人間という意味で、nimi: という形態素のほうは常に pu: とコンビでしか使われないそうだ。いくつかバリエーションがあって numipu、nimapuなどの形も報告されている。もともと"the walking people" あるいは "we, the people" という意味とのことだ。そういわれてみるとイヌイットやアイヌもそうだが、民族の自称に「人々」「人間」という意味が入っているケースが目立つ。

 さて、冒頭にこの言語が日本で比較的よく知られていると書いたのは、この言語の研究の第一人者が日本人だからである。青木晴夫教授と言い、昔私が学生のころよく日本の言語学者の話題になっていた(このブログは最近完全に「昔話ブログ」と化していて面目ない)。教授は1972年にネズ・パース語研究の過程を報告した『滅びゆくことばを追って』という本を三省堂から出しているが、言語学者たちがこぞって褒めていたにも関わらず当時絶版になっていて非常に手に入りにくかった。私がたびたびここでもボヤいているように(『138.悲しきパンダ』『51.無視された大発見』参照)、言語学というのは非常にマイナーな分野でどんな名著でも一歩外の世間に出ると無視される運命にあるらしい。私もこの本を持っていないし読んでいない。最近検索してみたら1990年代に岩波書店から復刊されているし、初版も買おうと思えばアマゾンで買える。が、こちらからわざわざ注文するのがおっくうだったのと、英語版の自伝が(タダで)見られるのでそちらをみることにした。セコい。
 青木氏は1930年に当時日本領だった韓国のクンサン(群山)生まれということで自伝には日本占領当時の韓国・朝鮮の様子や戦争直後の日本の状態など描写してあって興味深い。雑誌のインタビューなどでもそのころの話をしているが、教授が子供時代を過ごした群山の住民構成は半分が朝鮮・韓国人(もちろん当時は朝鮮と韓国の区別がなかったが)が半分、残りの半分は大部分を中国人と日本人で占めていたが、ロシア人もいたそうだ。皆混じってゴチャゴチャと住んでおり、自分がいったい何語で遊んでいたのか覚えていないというから面白い。また各民族国の祝日には各々門の前に国旗を掲げるので、その日に国旗の上がっている家に遊びに行けば御馳走にありつけたそうだ。
 朝鮮内で何回か引っ越したそうだが中学3年の時予科練に入って日本に送られたところで戦争が終わり、朝鮮の両親のところには戻れなくなってしまった。もうそこは日本ではなくなったからである。それで一回しか行ったことがなく、場所の記憶さえ怪しい父方の故郷の早見(長崎のあたり)にたった一人で出かけて行った。場所をよく覚えていないからとにかく諫早まで行って降り、一週間ほど早見という地名はないか探して回ったという。結局無事に実家がみつかったそうだが、この行動力には驚く。何もかもお膳立てしてもらわないと怖くて旅行ができない私には奇跡にしか見えない。しばらくそこにいるとやがて大陸から家族が引き上げてきて一緒になれた。とは言ってもお父様は仕事の関係で山口の方に住み実家には時々帰ってくるだけだったそうだ。
 広島高等師範学校に受かってそこに通っているとき、1949年に新学制が敷かれて広島大学が創設された。青木氏ら旧制師範学校生は試験を受けて広島大学に編入するか、試験を受けずにあくまで師範学校生として卒業するかの選択があり、氏は試験を受けて(落ちても師範学校卒で何の不都合もないから)合格し、広島大学に移った。広島大学としての卒業一期生だそうだ。そこで英語を専攻したが学部卒業時にまた選択肢があった。大学院に残るかフルブライトの奨学金を貰ってアメリカに行くかだ。フルブライトの試験に堕ちたら大学院に進んで、学生時代が伸びている間に教職の話でもあればそちらに着こうと思っていたが試験に受かってしまったのでアメリカに行き、4週間ほどワシントンでオリエンテーションを受けてからUCLAに回された。そこで1953に修士号を取得し、そのころは同大学にはまだ(一般)言語学学部がなかったので、言語学のあるバークレー校に移って研究員をしているときにネズ・パース語研究の機会が与えられたのである。そこで書いたネズ・パース語文法が博士論文である。一時日本に帰っていた時期もあったそうだが、結局以来基本的にはずっとアメリカで暮らしを続けている。最終職はカリフォルニア大学バークレー校の教授である。
 ネズ・パース語との出会いだが、1960年にアイダホ州の歴史学会が州立100年の記念事業としてネズ・パース語の記述を思い立ち、最初イェール大学に当たった、適当な記述言語学者がおらず、バークレーにお鉢が回ってきた。ある夏の日青木氏の研究室のデスクに先住民言語の専門家であるマリー・ハースMary Haas教授がやってきて突然ネズ・パース語をやってみる気はないかと聞かれたそうだ。その言語はどこで話されているのか聞いたらアイダホの居留地ということで、フィールドワークの開始は一か月後だという。それを聞いて青木氏がまずやった「準備」は運転免許をとることだった。同僚の一人が親切にも自分の由緒あるシトロエンを練習台として提供してくれた。その同僚の名前がJames Allen Koichi Moriwaki Sayといって父が韓国人、母が日系アメリカ人だった。さて運転免許の試験であるが、一回目のチャレンジの時は白人の試験官だったが、まず何より先にシトロエンの古色蒼然ぶりにイチャモンをつけられて試験は落ちた。二回目の試験官は黒人であった。この人は青木氏がすでに30歳であることを知っている(はず)なのに、氏をティーンエイジャー呼ばわりし、「まったくティーンはヒドイ運転をしやがる」とかなんとかこきおろされて動揺しやっぱり落第。これじゃ出発までに間に合わんと青木氏がやや焦りだしたところで3人目の試験官は中国系の人だった。その人は青木氏の書類を見て気さくに「あなたは2週間のうちに3回も試験受けてますが、どうしてそんなに急いでいるんですか」と聞いてきたそうだ。車をボロ車扱いもせず、青木氏を非行少年呼ばわりすることもなく、まともに普通の大人として扱ってくれたため、リラックスできて合格した。若く見えるので欧米人から子ども扱いされて苦々しい思いをする、というのは私も含めた東アジア人は大半が経験しているのではないだろうか。

 さてそうやって始まったアイダホでのフィールドワークの過程は自伝に詳しく記されている。まず適当な母語者を見つけ、コンタクトを取り、やがてその部族全体とかかわるようになる。その人間同士の付き合いぶりの話がすでに面白いが、やはり圧巻なのは言語記述の過程の描写だろう。記述言語学、いやそもそも言語学というものはどんなものなのかよくわかる。「単なる基礎でいいから音韻論・音声学の知識を持っていない言語学者なんて言語学者じゃない」と言っていた人を私は何人も見ているが、それは音韻論・音声学なしには言語の記述ができないからである。

 言語調査のしょっぱな第一日目に数詞を調査した。『81.泣くしかない数詞』で述べた話題とも重なって面白いのでここで紹介してみよう。まず1から10までがネズ・パース語では次のようになる。

1  ná:qc
2  lepít
3  mitá:t
4  pí:lept
5  pá:xat
'oylá:qc
'uyné:pt
'oymátat
9   k'úyc
10  pú:timt

IPAを使っていないのはこれが「音声記述」でなくて「音韻記述」だからである。またアメリカには当然先住民の言語記述の長い伝統があるわけで、他のネイティブ言語の記述の蓄積からある程度アルファベットの使い方が決まっているのだろう。例えば子音についているコンマ「'」は、その子音が放出音ejective であるという印である。放出音というのは、閉鎖音についていえばだいたい次のようにして出す音だ。1.まず当該子音の調音点と声門とを同時に閉鎖する。2.続いて喉頭を持ち上げて口腔内の気圧を高める。3.そうしておいて当該調音点の閉鎖を解く、4.最後に声門閉鎖を解く。つまり肺からの息を用いないで出す音で、閉鎖音、破擦音ならまだなんとかギリギリ発音できるかもしれないが、摩擦音、流音の放出音となるととても自分には無理だと思う。
 「1」で出てくる子音qは「9」の k より明らかに調音点が後ろにあり、別の音素である。アラビア語を知っているものならすぐ納得できるだろう。さらに「9」では k の放出音が現れるので、ここの例では見られないがネズ・パース語は音韻体系にq の放出音と、逆に k の非放出音も持っているのではないかという類推が働く。また「2」と「4」では母音 i の長さが明確に違い、長母音が弁別的に機能していることが見て取れた。
 続いて「1」と「6」、「2」と「7」、「3」と「8」を比べると後者はそれぞれ前者の前に同じ前綴り(下線部参照)がついたかのような形になっている(太字の部分参照)。おやこの言語の数体系は5進法なのかなと思うが、その考察に進む前に「6」、「7」、「8」の前綴りが'oy- と 'uy- の2種あることに注目。これは別の形態素なのか同一形態素の異形なのか?そこで「7」を 'uyné:pt でなく 'oyné:pt と言えるかどうか聞くとネイティブからNoをもらった。ではこの二つは別形態素なのかというと形があまりにも酷似している。最も説明力の強い仮説は「この言語には母音調和がある」ということだろう。実際「6」と「8」では広母音、「7」では狭母音が後続している。
 さらに「1」と「6」を比べると「1」の ná:qcが「6」では lá:qc と変形し、n 対 l の音韻交代が見られる。同パターンが「2」と「7」でも見られるところを見ると(それぞれ lepít と -né:pt)、この交代劇は今後どこか別のパラダイムでも出てくるのではないかという推理が働く。事実上流方言に鷹の一種を指すpí:tamyalonという言葉があるが、これが下流方言ではpí:tamyanonになるそうだ。もう一つ「3」mitá:tと「8」の後半部-mátatで母音 i と a が交代しているのにも注目すべきである。
 青木氏は博士論文では放出音ejectiveという言葉を使わず、声門化音glottalized という分類を使ってこのネズ・パース語の音韻体系を記述しているが、のちのバージョンでは閉鎖音には放出音という言葉を使い、摩擦音、破擦音では声門化音と名付け、さらにソナントのカテゴリーを特に分けて、そこでも声門化音としている。つまり鼻音は閉鎖音でも放出音とせず、声門化音となっている。音素をどういうカテゴリーで分けるかは本当に神経を使う作業で日本語でさえ見解は一致していないからここら辺の不一致ぶりは非常によくわかる。

青木氏の博士論文から。放出音という言葉が使われていないし、母音の長短は超音節の問題だとしている。
Aoki, Haruo.1965. Nez Perce Grammar, Berkeley. p.1から

phoneme5

後のバージョン。放出音という言い回しが登場。また母音の長短は母音音素そのものに帰する要素となっている。ウィキペディアから
phoneme3
phoneme4
 話を戻してネズ・パース語は何進法なのかということだが、周りの言語、たとえば中央アメリカ、マヤ語やナワトル語などは20進法なのだそうだ。そこでインフォーマントに他の数をいろいろ聞いてみると次のようになった。フィールドワーク第二日目の調査である。

11     pú:timt wax ná:qc
12     pú:timt wax lepít
13     pú:timt wax mitá:t
20     le'éptit
21     le'éptit wax ná:qc
30     mita'áptit
31     mita'áptit wax ná:qc
40     pile'éptit
99     k'uyce'éptit wax k'uyc
100   pu:te'éptit
400   pilepú:sus
1000 pu:tmú:sus

きれいな10進法である。すでに上で「9」を'uypí:lept とかなんとか言わなかった時点で5進法にはやや疑問が出ていたろうが(私が勝手に感じただけだが)、これで決まりだ。もっとも時々数詞に変な名称が紛れ込んでくるのはロシア語の「40」が четыредцать とも четырдесять とも言わないで突然сорокとなることなど例が少なくないのではあるが、「5」と「10」も関係ない形をしているし、5進法とは言えまい。また「20」と「30」の後半の形態素、それぞれ-éptit、 -áptit を見ればこの言語に母音交代があることが確実となる。

数詞を教えてくれたインフォーマントのHary とIda Wheelerさん。
Aoki, Haruo. 2014. Srories from my life. Berkeley. p.181から
informant1

 このようにして音素抽出から始まって、形態素の抽出、語と形態素の区別を通ってシンタクスの規則発見に至るまで一歩一歩緻密な作業を積み上げて文法書が完成したわけだが、中でもこの言語の動詞の恐ろしさは格別だ。さすが北アメリカの先住民の言語らしく、イヌイットやある意味ではアイヌ語などに見られるような抱合語的polysyntheticな構造で、動詞がいわばセンテンスになっているからだ。
 動詞の語根に接辞が前後からバーバーくっ付くが、その接辞には内接辞と外接辞の区別があって、内接辞は動詞の意味に新たに意味要素を添加していわば動詞の新たな語幹となるもの、外接辞は数、人称、時制など文法機能を受け持つ。数と人称を表す外接辞は動詞の前、時制の外接辞は動詞の後ろに付加されるそうだ。例えばʔiná:tapalayksaqa という動詞形は

ʔiná:      + ta       + palay  + k         + saqa
外接辞     + 内接辞  + 語根         +  内接辞   + 外接辞
私自身を  + 口で     +   迷う       + 使役       +   近過去

という構造で「私はしゃべっているうちに自分の話していることが正しいのかどうかわからなくなってしまった」という意味である。繰り返すがこれはあくまで一つの動詞である。
 
もう一人の重要なインフォーマント、リズおばさんことElizabeth Wilsonさんと青木氏
Aoki, Haruo. 2014. Srories from my life. Berkeley. p.243から

informant2

ヨーロッパから来た人たちがネズ・パースと接触したのは1804年のことだからもちろん青木氏以前からその言語は記述されてはいた。1890年にラテン語で書かれた文法書もでているそうだ。しかし言語学的に使い物になる正確な記述文法は青木氏の本が最初だろう。例えば青木氏以前の記述では放出音あるいは声門化音について述べているものがなかったそうだ。事実様々な言語事典のネズ・パース語の項には必ず氏の著作が重要参考文献として挙げてある。氏の著作をパイオニア、ベースとしてネズ・パース語研究はその後も発展していくが、一つ面白いのは主語と目的語についてである。
 ネズ・パース語では名詞の格は日本語の格助詞にも似て後ろに接尾辞をつけて表し、青木氏は10個の格接辞によって表される11の格を区別しているが、主語と目的語のマーカーについては次のように説明している:拡張のない主語はオプションとして接辞 -nim がつき、拡張のない目的語はオプションとして -ne がつく。主語に -nim がつくのは動詞のほうに主語が3人称であることを示す接辞の hi- あるいは主語と目的語が非特定の人や物であることを表すpe- が添加される場合で、その他はゼロ接辞。同様に目的語に -ne をつけるのは動詞が、目的語が話者と関係の薄い全くの第三者か話者の所有物でもなんでもない全くの第三物(?)であることを示す接辞 'e- または上のpe- をとる場合で、その他は -ne はつかない。
 この現象は後の研究、たとえばAmy Rose Deal 氏は能格性で説明されている。つまりゼロ接辞の主語は自動詞の主語であり、-nim 付き主語は他動詞の主語だというのだ。例として:

自動詞
sík’em Ø+ hi-wleke’yx-tee’nix + háamti’c.
horse + 3SUBJ-run-HAB.PL + fast
‘Horses run fast.’

他動詞
sik’ém-nim + kúnk’u + pée-wewluq-se + timaaníi-ne.
horse-ERG + always + 3/3-want-IMPERF + apple-OBJ
‘The horse always wants an apple.’

HABという略語がどうも見慣れないが habitual aspect という意味だそうだ。自動詞の例は hi-という接辞がついているのに、主語はノーマークなわけで(他動詞の例では青木氏の言う通りpée-がついている)青木氏の主張と異なる。Deal氏は最終的に、ネズ・パース語は単純に能格-絶対核の2対立ではなく、自動詞の主語、他動詞の主語、他動詞の目的語の格が全部違う3分割言語、tripartite language であるとしている。単なる能格言語なら自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ形になるはずだからだ。

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ウイルス、なかなか退散してくれませんねぇ… ちょっと油断してるとすぐクラスター来るし。困ったもんだ。

 クロアチア語では「2番目の」という意味と「他の」という意味に同じ単語を使う。drugiという言葉である。外国語では日本語では全く違う意味が一つの単語に統一されている例によく出会ってそのたびに驚くが(『67.暴力装置と赤方偏移』参照)、これもその一つだ。たとえばdrugi čovek は「他の人」、drugi dan は「二日目」と理解されるのが普通だが、それぞれ「第二の男」、「他の日」も表せる。文脈から判断するしかない。

 そこでよく考えてみたら、印欧語では1と2、特に1で序数が基数と全く関係のない形になっている、つまり序数が素直に基数から導き出されてはいない例がほとんどであることに思い当たった。「第一の」「第二の」がそれぞれ1と2とは全く別の単語になっているのだ。基数と序数が同語幹になるのはたいてい3番目以降で、2ですでに基数と序数が同源になっているドイツ語などはむしろ少数派だ。ちょっと比べてみると次のようになる。左が基数、右が序数。面倒なので男性形だけ掲げてある(サンスクリットは語幹のみ)。「2」で基数と序数が同じになっているものには下線を引いた。

英語
one - first
two - second
three - third

アイスランド語
einn - fyrsti
tvö - annar
þrír - þriðji

ドイツ語
eins - erster
zwei - zweiter
drei - dritter

フランス語
un - premier
deux - deuxième, second
trois -   troisième

スペイン語
uno - primero
dos - segundo
tres - tercero

ロシア語
один - первый
два - второй
три - тречий

ブルガリア語
един - първи
два - втори
три - трети

クロアチア語
jedan - prvi
dva - drugi
tri - treći

ラテン語
ūnus - prīmus
duo - secundus, alter
trēs - tertius

古典ギリシア語
εἷς (heîs) - πρῶτος (prôtos)
δύο (dýo) - δεύτερος (deúteros)
τρεῖς (treîs) - τρίτος (trítos)

サンスクリット
eka - prathama
dvi - dvitīya
tri - tṛtīya

ギリシャ語の「第二」に下線を引かなかったのは基数 δύο と序数 δεύτερος では確かに頭の子音は双方いっしょだが、後の母音が完全に違っているからである。それで後者は前者から派生したと言い切ることができない。δεύτεροςはδεύω (deúō) 「~に届かない、足りない」から来ているという説もあるそうだ。日本の印欧語学者高津春繁氏もこちらの説をとっている。このギリシャ語を除外すると、2の序数が基数から導き出されているのはドイツ語、フランス語、サンスクリットだ。しかしフランス語ではその deuxième の他に second という形もあってどちらも「第二」だが使う意味領域に微妙な違いがあるらしい。フランス語語源辞書の類には一発で書いてあるのだろうがちょっと手元にないので以下は私の単なる推測で失礼:ラテン語と同じ形であることからも、英語にこの形が持ち越されていることからもsecond の方が古い形であることは明らかだと思う。中世フランス語では second だけだったのではないだろうか。それがアングロノルマン語を通して英語に伝わったと考えると、大陸フランス語にdeuxièmeという形が発生したのは単純計算でイギリスでのヨーク王朝時代以降、15世紀以降ということになるが、話によるとプランタジネット王朝の時代の半ば、13世紀にはすでに大陸の古フランス語とアングロノルマン語の差が結構開いていたそうなので、その時期にすでに大陸では deuxième が発生していたのかもしれない。とにかく second の方が古い形だと考えざるを得ない。
 ドイツ語の「第二」zweiter、基数から直接導き出された序数については、14世紀以降の比較的新しい時代のものであることがわかっている(つまり私のいい加減な推測ではない)。オランダ語の「第二」も基数派生の tweede だが(基数の2は twee )、この語の発生は中期オランダ語時代、12世紀から16世紀にかけての時期だ。蘭独ともにそれ以前はクロアチア語などと同じく「第二」を「別の」「他の」で表していた。両言語とも andar または ander で、ゲルマン祖語の *anþeraz から来ている。アイスランド語でもついでにゴート語でも「第二」は「別の」、 それぞれ annar と anÞar である。つまり大陸の西ゲルマン語派とフランス語で基数派生の「第二」が発生した時期がある程度重なっていることになる。西ゲルマン語からフランス語へか、フランス語から西ゲルマン語へか、とにかくどちらかが借用訳(『119.ちょっと拝借』参照)したのではないだろうか。
 古い方の「第二」はラテン語 secundus が元で、これは sequor (「後に続く、従う」)という動詞から派生した形容詞である。印欧祖語形は *sekʷ-とされている。さらにそのラテン語には secundus の他に alter という言葉も「第二」を表すのに使われる。フランス語にも似たダブル単語状態だが、alterは alternative という英語を見てもわかるように「もう一つの」「他の」という意味である。もっともフランス語と違ってラテン語のふたつはどちらも基数の2とは関係がない。なお、形は似ているがラテン語の alter とゲルマン語の *anþeraz(とその派生形)は印欧祖語での語源が違う。
 ロシア語(とブルガリア語)の「第二」は古教会スラブ語では въторъ だが、これは印欧祖語の *(h₁)wi-tor-o-.「再びの」「さらなる」という語幹から来ているという説明があった。形はラテン語より離れているがこちらの方こそ*anþerazと同語源だそうだ。

 順序が前後するが、「第一」英語の first とラテン語の prīmus は形的に一見関係ないようだが実はどちらも印相祖語の語幹 *preh₂-から派生してきた語でもともと 「前の」という形容詞の最上級である。「最も前の」だ。ここから意味がさらに派生して、「すべての者より先に行く者→最も重要な者→一番偉い人」という具合に意味が進み、「長」とか「ボス」のを表すようにもなった。ドイツ語のFürst(「公爵」)はこの first と同源である。ロマンス語の p がゲルマン語では f になるのは、ラテン語のpater (「父」)が英語で  father になるのと同様、グリムの法則・第一次音韻推移の図式通り。とにかく現在の印欧語の「第一」はどいつもこいつもこの語源だが、まるでギャグのようにドイツ語だけは違う語源で、「第一」erster は「前の」 でなくもともと「早い・初期の」という形容詞の最上級だそうだ。他のゲルマン諸語に比べてもドイツ語は例外だ。オランダ語でも「第一」は 「前の」で vorst となっている 。

 このように少なくとも「第一」は基数派生でないのが(「第二」では基数派生のものが現れてくる)ヨーロッパの基本らしい。さらに見てみると;

アルバニア語
një - i pari
dy - i dyti
tre - i treti

ルーマニア語
unu - primul
dou - al doilea
trei - al treilea

非印欧語までがこの路線を踏襲している。

ハンガリー語
egy - első
kettő - második
három - harmadik

フィンランド語
yksi - ensimäinen
kaksi - toinen
kolme - kolmas

バスク語
bat - lehenengo
bi - bigarren
hiru - hirugarren

ハンガリー語の「第一」elsőは「前の」、「第二」másodikは「他の」という意味だそうだ。印欧語と全く同じパターンである。フィンランド語の「第一」も「この」とか「前の」、「次の」、「第二」toinen は「他の」だそうだ。みんなしてそこまで印欧語に付き合わなくてもよさそうなものだ。バスク語は2から基数派生だが、1の序数 lehenengo はやっぱり基数と全然違う形をしている。ただし語源は不明とのこと。

 そうやって非印欧語までが別語源となっている中で印欧語のくせに序数が1から基数派生の言語がある。ロマニ語(『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)である。

ロマニ語
jekh - jekhto
duj - dujto
trin - tri(n)to

これがロマニ語の基本だが、場所によっては周りの言語から影響を受けている。例えばロシアのロマニ語では 「第一」は yekhitko(語尾が少し「基本」と違うが基数からの派生であることは明らかだ)の他にロシア語から取り入れたpervoという形、「第二」では duitko と並行して utoro という形も使われている。さらにオーストリアやドイツのロマニ語では「第一」を ersto または erschto といい、ドイツ語の erst からの借用である。「第二」からは dujto、 trinto と続き、基本通りだ。さすがのロマニ語も1では序数が揺れやすいということなのだろうが、思い出してみると日本語も1の序数に揺れがある感じだ。「1番目」の代わりに「最初の」という序数(?)が使われることが結構あるからだ。例えば第一子は普通「一番目の子」とは言わずに「最初の子」だし、「一番目の日から」とか「第一日目から」というより「最初の日からすでに…」という言い回しをすることの方が多い。さらに剣道や柔道の段も一段・弐段・参段と言わないで初段・弐段・参段という(何を隠そう、実は私は剣道参段を持っているのであった)。もしかしたら1の序数に別単語を使う現象は他の言語にも広く行き渡っているのかもしれない。調べてみると面白そうだ。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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