アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:意味論

 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。

「目」
                   Yasin          Hunza              Nager  
単数            -l-ći             -l-ćin                -l-ćin
複数           -l-ćim-u        -l-ćum-u-c        -l-ćim-u-c

「肝臓」
                   Yasin          Hunza           Nager  
単数            -ken            -kin               -kin
複数            -ken-iŋ        -kim-iŋ          -kin-iŋ

「人間・男」
                    Yasin          Hunza        Nager  
単数             hir               hir               hir
複数             hur-í            hir-í            hir-íkanc


「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出したが、特筆すべきは Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。

hm        hf           x          y
khené   khomó   gusé     guté

フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。

単数
 h           x                                       y
 khiné    gusé, khosé(ナゲル)    guté, khoté(ナゲル)
複数
 h          x                                       y
 khué    guċé, khoċé(ナゲル)    guké, khoké(ナゲル)

 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet


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 以前沖縄で米軍のヘリコプターが海面に落ちて大破するという事故があった。米軍機が民家の上に落ちたりものを落としたりする迷惑行為そのものはよくあるらしいからこれもその一環として「またか」の一言で片づけられてもよかったのだが、この場合は最初に「米軍機が海面に不時着した」と報じられたため議論がいつもとはちょっと別方向に進んだ。ヘリコプターは大破しているからこれは不時着ではなく墜落ではないのか、という議論が起こったのである。

 私もそうだったが、不時着か墜落かを決める際「飛行機が損傷したか否か」を重要な基準にする人は多いと思う([ + 損傷] ?)。機がバラバラになったら墜落、無傷で着陸できたら不時着である。だから2000年にシャルル・ド・ゴール空港を出たコンコルド機が離陸直後に落ちたときは「墜落」と報道されたし、ニューヨークで2009年にUSエアウェイズ機がラガーディア空港からのこれも離陸直後にガンの群と衝突してハドソン川に降りたときは「不時着」、人によっては単に「着陸」と呼んでいた。
 また「墜落」と聞くと「ある程度の高さから落ちること」と連想する人もいるのではないだろうか。この場合の高さとか落ちる個体と比較しての高さである。登山家が数十メートルの岸壁から地上に堕ちれば墜落だが、地上50cmのところから下に落ちても墜落とは呼びにくい。たとえその人が運悪く大けがをしてもである。個体が人より大きい飛行機の場合、「墜落」というとやはり何千m、何百mの高みから落ちるシーンを想像する。数m、数十mだと何百mの場合より墜落とは呼びにくくなる。ヘリコプターなら数十mでもいいかもしれないが。そしてこのように墜落という言葉の意味要素として「落ちる個体に比例したある程度の高度」を混ぜるのは私だけではないらしく、手元の国語辞典にも「墜落」を「高所から落ちること」と定義してある。
 ひょっとしたらこの「高度性」([ + 高所から]?)のほうが第一義で、破損か無傷かというのはそこから導き出されてくる二次的な意味要素かもしれない。高いところから落ちれば大抵破損するし、高さがなければ普通破損度は低いからである。もちろん例外もあるが。

 しかしさらに調べてみたら、墜落対不時着の区別に破損度や高度は本来関係ないと知って驚いた。両者を分けるのは制御された着地か、制御されていない着地かということなのだそうだ([ - 制御された] ?)。機が大破しても数千mの高度から落ちてもパイロットにコントロールされた着地なら不時着である。上記のヘリコプターはパイロットが民家に突っ込むのを避けようとして海に降りたのでその結果機体がバラバラになっても不時着。コンコルドの場合は管制塔と計器からエンジンが燃えていると警告を受け取ったパイロットが8キロほど離れた前方にあるLe Bourget空港に「不時着」しようとして制御に失敗したわけだから墜落ということになる。
 もちろん制御された着陸といっても「予定外の地点への着陸」([ - 目的地]?)ということで、制御されて予定地に降り立った場合は不時着でなく単なる到着である。だがこの点をしつこく考えてみるとグレーゾーンは残る。飛行機が空港Aに行こうとして何らかの不都合が発生したため行き先を変更して途中の空港Bに何事もなく着陸した場合でも不時着というのだろうか?特にその「何らか」が、乗客の一人が急病を起こしたなどという場合も不時着か?後者の場合は不時着という言葉は大げさすぎるような気もするが、辞書を引いてみたら不時着あるいは不時着陸を「故障・天候の急変などのため航空機が目的地以外の地点に臨時に着陸すること」と定義してあるから乗客の容体急変もこの「など」に含まれると解釈できそうだ。しかし逆に目的地の空港に飛行機が火を吐きながらかろうじて無事に降り立った場合、到着なのか不時着なのか。「故障・天候の急変などはあったが航空機が目的地点に着陸した」場合どっちなのか、ということである。火を噴いたりしたら目的地に着陸しても不時着とする人も多かろうが、急病人が出たにも関わらず目的地に降り立ったりした場合も不時着扱いしていいのか?やはり破損しているか否かのメルクマールを完全に無視するわけにはいかない気がするのだが。

 さらなるグレーゾーンはパイロットが意図的に飛行機を地上に突っ込ませた場合である。実際に2015年にフランスでそういう悲劇的な事故があった。ルフトハンザ系のジャーマンウィングスという航空会社だったが、鬱病で苦しんでいた副操縦士がバルセロナを出てドイツに向かう途中フランスのアルプ=ド=オート=プロヴァンス県で何百人もの乗客もろとも飛行機で山に突っ込んで自殺したのである。ここでは操縦する側がきちんとコントロールを行って目的地以外で降りたのだから下手をするとこれも「不時着」ということになってしまう。上で述べた辞書の定義でも暗示されているようにやはり「意図的に機を落としたか、それともできることなら落としたくなかったか」というメルクマールが重要になってくるだろう([ +/- 不慮性]?)。このルフトハンザの出来事を「カミカゼ」と呼んでいた人がいた。私個人は外の人に安易にカミカゼという言葉を使われるのが嫌いなのだが他に一言でこういう悲劇を表す言葉がないから仕方がないのだろうか。
 ここまでの考察をまとめて二項対立表(『128.敵の敵は友だちか』参照)で表してみるとみると、「墜落」「不時着」「普通の着陸」「カミカゼ」の違いは次のようになる。高いところから落ちたか否かは問わなくてもいいと思う。
墜落
[ - 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

不時着
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

普通の着陸
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

カミカゼ
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ - 不慮性]
[ + 損傷]

予定地に機が損傷して降り立った場合(適当な名称がない):
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ + 損傷]

これに従うと急病人を抱えたまま目的地に降りたら到着、航空機が火を噴いたら「適当な名称がない着陸」である。どちらも「不慮性」に対しては中立だから機が損傷したか否かが決定的な意味を持ってくるのだ。またテロリストがハイジャックして目的地を変更させた場合、テロリスト側からみると「普通の着陸」、パイロット側にすれば「不時着」である。

 ドイツ語では「墜落」はAbsturz、「不時着」は Notlandungである。辞書にはAbsturzはSturz in die Tiefe(「深いところに落ちること」)、 Notlandung はdurch eine Notsituation notwendig gewordene vorzeitige Landung [an einem nicht dafür vorgesehenen Ort](「非常事態のため必要に迫られて(着陸予定でなかった場所に)予定を早めて着陸すること」)とある。日本語と同様やはり墜落では高度が問題にされている。つまり定義としては問題にされないが事実上連想としてくっついてくるメルクマールということなのだろうか。不時着のほうは「予定より早く」と定義されているが、こう言い出されると上述のようなテロリストが目的地より遠い空港に着陸を強制した場合を「不時着」と呼ぶことができない。また定義の側にNot-という言葉が使われていて一種のトートロジーに陥っている。日本語のほうは言葉をダブらせずに非常事態の例を挙げているのでトートロジーは避けられているが、「など」という部分が今ひとつすっきりせず、まあ言葉の定義というのは難しいものだ。

 ハドソン川の事件はその後映画化されたが、その『ハドソン川の奇跡』で、事故調査委員会側がcrashと呼んだのに対し、パイロットのサレンバーガー機長がlandingと訂正していたシーンがあったそうだ。念のためcrashを英和辞書で引くと「墜落」「不時着」とある。つまり日本語の墜落や不時着と違って [ 制御された] というメルクマールに関しても [ 目的地] に関しても中立、その代わり [ 損傷] が中立ではなく+ということになる。landingのほうは[ 損傷] が-となっている点でcrashと対立するが、landingでは [ 不慮性] も中立となるので全体としてはきれいな対立の図にはならない。

crash
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ + 損傷]

landing
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

ハドソン川の奇跡のように不慮性がはっきりしている場合はあっさりlandingとも言い切れまい。不慮の事故であることは明確だが、機体は大破せずとも川に沈んでしまったから損傷してもなししないでもなしというどっち付かずであるから損傷性メルクマールは問わない、つまり中立とする。一方機長は委員会側のcrashという言葉に対してNo を突き付け訂正している。これは何に対してなのか考えると [ + 損傷] と言われたことより [ 制御された] をゼロにされた事に対する反発なのではないだろうか。機長は機を完璧に制御していたからである。そこで [ 制御された] をプラスにする。すると以下のような図式になる。

[ + 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

これが一応英語のemergency landing ということになろう。上で出した日本語の不時着と似ているが、英語では目的地であるか否かは問わないのである。それにしても大して中身のある意味分析を行ったわけでもないのに(自分で言うな)、二項対立表にするとやたらと学問っぽい外見になるものだ。
 なおこのハドソン川の不時着ニュースを聞いたとき私は真っ先に「えっ、ガンがエンジンに巻き込まれたの?!かわいそうに」と反応してしまった。

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 映画鑑賞の楽しみの一つにグーフの発見ということがある。グーフgoofというのは映画の専門用語(?)で、見つかってしまうと鑑賞の邪魔になったり物笑いの種になったりする小さな間違いのことだ。ドイツ語ではFilmfehlerというが、中世ヨーロッパの空を飛行機が飛んていたとか水戸黄門の歩く街道に電信柱が立っていたとかいったたぐいの軽いミスである。また、主人公がウイスキーをぐいと飲み干してコトンとカウンターに置いた直後のシーンでなぜかグラスがまた一杯になっている、あれ、飲んだんじゃなかったのか?というのもグーフである。これらはB級映画でなくても結構やらかしていて、私の覚えているものでは、スティーブ・マックイーン主演の『パピヨン』のラストシーンでマックイーンの筏の下にスタッフの潜水夫(ダイバーと言ってくれよ)がしっかり写っていた。普通の映画ならそんなもん単に小さな傷に過ぎないが、マカロニウエスタンだとその手の間違い探し・あら捜しが主たる鑑賞の楽しみにもなるのである。結構傷だらけの作品が多いからだ。
 代表的なのが『続・荒野の用心棒』でいちいち挙げるとキリがないが、世界的に有名な(なんだそりゃ)グーフが少なくとも二つある。まず、酒場の乱闘シーンで手持ちカメラを抱えたカメラマンがしっかり写っていること。それもちょっと隅のほうに写っちゃったというのではなくて一瞬ではあるが真ん中にドワンと出てくる。この人の撮った絵が乱闘シーンに使われているはずだが、出演料もあげたほうがいいのではないだろうか。

このカメラマンはちゃんと出演ギャラを貰ったのか。
KameramannDjango


次がラストシーンに出てくる伝説的な7連発コルトである。フランコ・ネロ演ずるジャンゴが悪漢ジャクソン一味を倒すシーンだが、弾の音を勘定してみると7発出る。コルトというのは6連発ではなかったのか?それともそういうチューニングができるものなのか。仮にできるとしてもこの映画の主人公のように両手をグシャグシャにつぶされた状態の者にそんな高度なワザができるのか?いろいろ考えてしまう。

6連発のはずのコルトからなぜか銃声7発


 現在はコンピューターですぐに後から修正できてしまうからこういう素晴らしいグーフが50年以上も生き残れるチャンスも少ないだろう。だから最近の映画はつまらないんだ、とまでは言わないが寂しいことは寂しい。

 もう一つ、『続・荒野の用心棒』で私が個人的に「おかしくないかこれ」と気になったのが、ジャンゴがこれもジャクソン一味に向けてガトリング砲をぶっ放す場面である(『91.Quién sabe?』参照)。これもまあ「世界的に有名な映画のシーンの一つ」と言っていいだろうが、ここでネロ氏はゴツい機関銃をひょいと手に抱えて撃ち始める。そのまましばらく撃ちまくってからやっと下に置くが、その間も射撃はやめないままだ。敵が全滅すると武器を元入れてあった棺桶の中にしまうがそこで素朴な疑問が湧く。何百発も撃った後のガトリング砲は銃身が熱くなっていて素手でなど持てないのではないだろうか。そもそも相当重いはずの古典的な大砲みたいなガトリング砲をああも軽々と抱えて正確に敵に向けるなんてことが普通の体格の人にできることなのか?カラシニコフじゃあるまいし。

機関銃というより「機関砲」(下記参照)を軽々と抱えて撃ちまくる。この芸当は薬師丸ひろ子にはできまい。
machineGun2

 私はこの、「軽々と抱えてぶっ放した」というシーンがジャンゴ氏の機関銃が時々間違って「マシンガン」と呼ばれている原因だと思っている。この二つは別物だ。基本的にはマシンガンというのは連続射撃ができる携帯可能な銃、機関銃は三脚や台座などに固定して使う連射銃だ。だから昔あった『セーラー服と機関銃』という映画のタイトルはおかしい、主役の薬師丸ひろ子が持っていたのはマシンガンだ、と指摘してくれた人がいる。
 ドイツ語では機関銃はMaschinengewehr(MGと略す)で、gewehrは元々は武器一般をさしていたが現在では鉄砲の意味となり、ライフル銃とかカービン銃とかピストル以外の「手にもって撃つ銃」をさすからこの言葉は誤解を招く。ただ、ドイツ語のDudenではまさにその誤解を避けるためかMGがきちんと次のように定義されている;

auf einer entsprechenden Vorrichtung aufliegende automatische Schnellfeuerwaffe mit langem Lauf,  bei der (nach Betätigung des Abzugs) das Laden u. Feuern automatisch erfolgt.

しかるべき設置をした上に置いて使う銃身の長い高速連射銃。(引き金を引いた後)装填、
発砲が自動的に行われる。


このMaschinengewehrを独英辞書で引くとmachine gun、そのmachine gunを英和辞書で引くと機関銃あるいは機銃となっている。さらに手持ちの和独辞書でマシンガンを引くとやっぱりMaschinengewehrとある。ついでに和英辞典も引いてみるとマシンガンも機関銃もa machine gunとなっている。これではジャンゴ氏が機関銃を持ち上げるまでもなく、そもそも言葉の上で始めから混同されていたんじゃないかと思うが、よく見てみるとそうではない。英語のmachine gunを借用して「マシンガン」という日本語を作った際に意味が正確に伝わらなかったのだ。いわゆるカタカナ言葉を外国語から取り入れる場合、原語本来の意味から乖離してしまうことはよくある。ドイツ語のArbeitが「アルバイト」などという変な意味になってしまったのもいい例だ。つまり「アルバイト」がArbeitではないのと同様「マシンガン」はmachine gunではないのである。ただアルバイトのほうは意味のズレがはっきりしているから、「元々のドイツ語ではこういう意味だが、日本語に取り入れられた際こういう意味になった」と認識されているが、マシンガンのほうはズレがあまり目立たず、気づいても「要するに自動的に弾が出る鉄砲のことだからいいや」と軽くあしらわれてしまったのかもしれない。英語のmachine gunはあくまで機関銃であってマシンガンとは別物と認識されなかった。英語の辞書だろ辞典だろを編纂するような上品な人々が皆『続・荒野の用心棒』を見たおかげで混同したなどということはありえないから、これは単に武器に対する関心が薄いということなのだろう。
 
 ドイツ語にはこれと並行してMaschinenpistole(略してMPあるいはMPi)という言葉がある。次のように定義してある。

automatischer Schnellfeuerwaffe mit kurzem Lauf für den Nahkampf

接近戦で使う銃身の短い自動高速連射銃

この定義のmit kurzem Lauf「銃身の短い」という部分はpistole「ピストル」という言葉に引っ張られてこの事典を編纂した上品なドイツ語学者がやった間違いではないかと思う。特に銃身が短くないものもあるからだ。ベレッタModello 1938A などは銃身は短くない。Maschinenpistoleと名前にピストルがついているのは拳銃みたいに銃身が短いからではなく、ピストルの弾をそのまま自動発射するからである。ただ抱えて撃てるようにしているから機関銃より小型なのでそれに呼応して銃身も確かに短いが。そういえば、「持って撃つ」という点も定義には出てこない。ピストルだから手に持つのは当たり前だということなのかもしれない。英語ではsubmachine gun。独和辞書では「自動拳銃、小型機関銃」となっているが、どちらの訳も一長一短で、「自動拳銃」と言われるとピストルみたいな形をした火器かと思うし、「小型機関銃」だと下に固定して撃つのかと一瞬誤解する。最近は「サブマシンガン」という言葉がそのまま日本語として使われているようだが、これこそ「サブ」抜きの単なる「マシンガン」という訳でいいのではないだろうか。
 いずれにせよこのサブマシンガンが登場したのは第一次世界大戦の頃だから、『続・荒野の用心棒』の時代にはまだなかったはずだ。その意味でもジャンゴが放ったのはあくまで機関銃なのである。その後もピストルの弾丸を使わず、発射方法も違うアサルトライフル(ドイツ語ではStrumgewehr「突撃銃」)や自動小銃などがいろいろ開発されたそうだが、時代が下りすぎるので省く。

 さて、もう一つドイツ語でMaschinenkanone(「機関砲」)という言葉がある。これは文字通り「砲」で口径も20mm以上あり、すでに19世紀の終わりに生産が開始されていたマキシム砲とか今のヴァルカン砲、そもそもガトリング砲も「機関銃」でなく本来「機関砲」である。だからフランコ・ネロが撃ったのも本当は機関砲と言わねばならないのだが、一方昔は機関砲と機関銃が区別されておらず「マキシム砲」もドイツ語ではMaxim-Maschinengewehrといっている。『続・荒野の用心棒』のも見かけも大きさも完全に「砲」ではあるが、「機関銃」と名付けていいと思う。
 このMaschinenkanoneは英語ではautocannon、独和辞書には項があるがDudenにはこの見出し語はない。見れば意味がすぐわかると思われたか、一つの語としてはまだ定借していないとみなされたかであろう。どうもMaschinengewehr → Maschinenpistole → Maschinenkanoneと下るに従って語としての扱われ方が冷たくなってきているようだ。

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 日本の憲法9条は次のようになっている。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

この文面で一番面白いのは「これ」という指示代名詞の使い方である(太字)。3つあるが、全て「を」という対格マーカーがついており、「は」をつけて表された先行するセンテンス・トピック、それぞれ「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「国の交戦権」(下線部)を指示し、そのトピック要素の述部のシンタクス構造内での位置を明確にしている。
 こういう指示代名詞をresumptive pronounsと呼んでいるが、その研究が一番盛んなのは英語学であろう。すでに生成文法のGB理論のころからやたらとたくさんの論文が出ている。その多くが関係節relative clauseがらみである。例えばE.Princeという人があげている、

...the man who this made feel him sad …

という文(の一部)ではwho がすでにthe manにかかっているのに、関係節に再び him(太字)という代名詞が現れてダブっている。これがresumptive pronounである。

 しかし上の日本語の文章は関係文ではなく、いわゆるleft-dislocationといわれる構文だ。実は私は英語が超苦手で英文法なんて恐竜時代に書かれたRadford(『43.いわゆる入門書について』参照)の古本しか持っていないのだがそこにもleft-dislocationの例が出ている。ちょっとそれを変更して紹介すると、まず

I really hate Bill.

という文は目的語の場所を動かして

1.Bill I really hate.
2.Bill, I really hate him.

と二通りにアレンジできる。2ではhimというresumptive pronounが使われているのがわかるだろう。1は英文法でtopicalization、2がleft-dislocationと呼ばれる構文である。どちらも文の中のある要素(ここではBill)がmoveαという文法上の操作によって文頭に出てくる現象であるが、「文頭」という表面上の位置は同じでも深層ではBillの位置が異なる。その証拠に、2では前に出された要素と文本体との間にmanという間投詞を挟むことができるが、1ではできない。

1.*Bill, man, I really hate.
2.Bill, man, I really hate him.

Radfordによれば、Billの文構造上の位置は1ではC-specifier、2では CP adjunctとのことである。しっかし英語というのは英語そのものより文法用語のほうがよっぽど難しい。以前『78.「体系」とは何か』でも書いたがこんな用語で説明してもらうくらいならそれこそおバカな九官鳥に徹して文法なんてすっ飛ばして「覚えましょう作戦」を展開したほうが楽そうだ。
 さらに英文法用語は難しいばかりでなく、日本人から見るとちょっと待てと思われるものがあるから厄介だ。例えば最初の1を単純にtopicalizationと一絡げにしていいのか。というのも、1のセンテンスは2通りのアクセントで発音でき、日本語に訳してみるとそれぞれ意味がまったく違っていることがわかるからだ。
 一つはBillをいわゆるトピック・アクセントと呼ばれるニョロニョロしたアクセントというかイントネーションで発音するもの。これは日本語で

ビルはマジ嫌いだよ。

となる。例えば「君、ビルをどう思う?」と聞かれた場合はこういう答えになる。もう一つはBillに強勢というかフォーカスアクセントを置くやり方で、

ビルが嫌いなんだよ。

である。「君、ヒラリーが嫌いなんだって?」といわれたのを訂正する時のイントネーションだ。つまり上の1はtopicalizationとはいいながら全く別の情報構造を持った別のセンテンスなのだ。
 対して2のresumptive pronounつきのleft-dislocation文はトピックアクセントで発音するしかない。言い換えると「ビルは」という解釈しかできないのである。英語に関しては本で読んだだけだったので、同じ事をドイツ語でネイティブ実験してみた。近くに英語ネイティブがいなかったのでドイツ語で代用したのである。ドイツ語では1と2の文はそれぞれ

1.Willy hasse ich.
2.Willy, ich hasse ihn.

だが、披験者に「君はヴィリィをどう思うと聞かれて「Willy hasse ich.」と答えられるか?」と聞いたら「うん」。続いて「「君はオスカーが嫌いなんだろ」といわれて「Willy hasse ich.」といえるか?」(もちろんイントネーションに気をつけて質問を行なった(つもり))と聞くとやっぱり「うん」。次に「君はヴィリィをどう思う?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話はあり得るか、という質問にも「うん」。ところが「君はオスカーが嫌いなんだろ?」「Willy, ich hasse ihn.」という会話は「成り立たない」。英語と同じである。つまりleft-dislocationされた要素はセンテンストピックでしかありえないのだ。だから上の日本語の文でも先行詞に全部トピックマーカーの「は」がついているのである。
 さらにここでRonnie Cann, Tami Kaplan, Tuth Kempsonという学者がその共同論文で「成り立たない」としているresumptive pronoun構造を見てみると面白い。

*Which book did John read it?
*Every book, John read it.

Cann氏らはこれをシンタクス構造、または論理面から分析しているが、スリル満点なことに、これらの「不可能なleft-dislocation構造」はどちらも日本語に訳すと当該要素に「は」がつけられないのである。

* どの本はジョンが読みましたか?
* 全ての本はジョンが読みました。

というわけで、このleft-dislocationもtopicalizationもシンタクス構造面ばかりではなく、センテンスの情報構造面からも分析したほうがいいんじゃね?という私の考えはあながち「落ちこぼれ九官鳥の妄想」と一笑に付すことはできないのではないだろうか。

 さて日本国憲法の話に戻るが、トピックマーカーの形態素を持つ日本語と違って英語ドイツ語ではセンテンストピックを表すのにイントネーションなどの助けを借りるしかなく、畢竟文字で書かれたテキストでは当該要素がトピックであると「確実に目でわかる」ようにleft-dislocation、つまりresumptive pronounを使わざるを得ないが、日本語は何もそんなもん持ち出さなくてもトピックマーカーの「は」だけで用が足りる。日本国憲法ではいちいち「これを」というresumptive pronounが加えてあるが、ナシでもよろしい。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

これで十分に通じるのにどうしてあんなウザイ代名詞を連発使用したのか。漢文や文語の影響でついああなってしまったのか、硬い文章にしてハク付け・カッコ付けするため英語・ドイツ語のサルマネでもしてわざとやったのか。後者の可能性が高い。憲法の内容なんかよりこの代名詞の使い方のほうをよっぽど変更してほしい。

 もう一つ、英文法でのセンテンストピックの扱いには日本人として一言ある人が多いだろう。英文法ではセンテンストピックは、上でも述べたように深層構造(最近の若い人はD-構造とか呼んでいるようだが)にあった文の一要素が文頭、というより樹形図でのより高い文構造の位置にしゃしゃり出てきたものだと考える。つまりセンテンストピックとは本質的に「文の中の一要素」なのである。
 これに対して疑問を投げかけたというか反証したというかガーンと一発言ってやったのが元ハーバード大の久野暲教授で、センテンストピックと文本体には理論的にはシンタクス上のつながりは何もなく、文本体とトピックのシンタクス上のつながりがあるように見えるとしたらそれは聞き手が談話上で初めて行なった解釈に過ぎない、と主張した。教授はその根拠として

太朗は花子が家出した。

という文を挙げている。この文は部外者が聞いたら「全くセンテンスになっていない」としてボツを食らわすだろうが、「花子と太朗が夫婦である」ことを知っている人にとっては完全にOKだというのである。この論文は生成文法がまだGB理論であったころにすでに発表されていて、私が読んだのはちょっと後になってからだが(それでももう随分と昔のことだ)、ゴチャゴチャダラダラ樹形図を描いてセンテンストピックの描写をしている論文群にやや食傷していたところにこれを読んだときの爽快感をいまだに覚えている。
 とにかくこのleft-dislocation だろtopicalizationだろ resumptive pronounだろについては研究論文がイヤというほど出ているから興味のある方は読んで見られてはいかがだろうか。私はパスさせてもらうが。
 
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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 ドイツ語をやると必ず覚えさせられるのがいわゆるDiminutiv(「縮小辞」)という形態素だ。普通名詞の後ろにくっついて「小さいもの」を表す縮小名詞を作る。明治時代には時々「メッチェン」などというトンでもないフリガナをふられていたMädchen(メートヒェン、「少女」)が最も知られている例だろう。これはMade +  chenで、-chenがこの縮小辞だから、本来「小さいMade」、「小さい女性」という意味である。もっともここでは語幹のMadeが単独の語としては消失してしまったため、縮小辞つきのMädchen しか今のドイツ語にはない。その他に-lein(単語や方言によっては -le、-li あるいは-el)も縮小辞である。Mädchen の代わりに Mädle あるいは Mädel と言っても意味は同じ。ただニュアンスが少し違い後者の二つは日常会話的である。Fräulein(「お嬢さん」)の-lein も本来縮小辞なのだが、最近はFräulein という言葉自体があまり使われなくなってきているし、この単語もFrau+leinと分けることは出来ず、全体で一つの単語だろう。
 しかしこの縮小辞は確立した単語だけに見られるのではなく、造語用の形態素として日常会話でも頻繁に使われる。例えば「ひよこ」をKüken(キューケン)あるいはKücken(キュッケン)というが、私などはあのモフモフ感を強調するためこれに-chenをつけてKückchen(キュックヒェン)と言わずにはいられない。「ひよこさん」である。アヒルに対しても単にEnte(エンテ)などと辞書どおりに呼ぶと無愛想すぎるのでいつもEntlein(エントライン)、Entchen(エントヒェン)である。いちどアヒルにつけるのは-chenがいいのか –leinがいいのかネイティブに聞いてみたことがあるが、「好きにしろ」とのことだった。
 縮小辞をつけた単語は辞書に載っていないこともあるので、会話でこれを使うと「私は辞書に載っていない言葉を使っているぞ!」ということで、まるで自分のドイツ語が上手くなったような錯覚を起こせて気持ちがいいが、実はこの縮小形使用には気持ちのほかに実際的な利点があるのだ。
 ドイツ語の名詞には女性・中性・男性の三つの文法性があるが、これがロシア語のように名詞の形によっては決まらない。もちろんある程度形から推すことはできるが、Bericht(ベリヒト、「報告」)が男性、それと意味も形も近いNachricht(ナーハリヒト、「報告」)が女性と来ては「何なんだこれは?!」と思う。ところが-chenであれ-leinであれ、この縮小辞がついた語は必ず中性になるのである。だから名詞の文法性が不確かな時はとにかく縮小辞をくっつけて名詞全体を中性にしてしまえばいい。日本語でも丁寧な言葉使いをしようとしてむやみやたらと「お」をつける人がいるが、それと似たようなものだ。日本語の「お」過剰がかえって下品になるように、ドイツ語でも縮小名詞を使いすぎるとちょっとベチャベチャして気持ちわるい言葉使いにはなるが、文法上の間違いだけは避けられる。
 ロシア語には-ик(-ik), -нок (-nok), -к (-k) といった縮小辞がある。たとえば

дом (ドーム、「家」)→  домик (ドーミク、「小さな家」)、
стол (ストール、「テーブル」)→  столик (ストーリク、「小さなテーブル」)
медведь (メドヴェーチ、「熊」)→  медвежонок (メドヴェジョーノク、「小熊」)、
ухо(ウーハ、「耳」) →  ушко (ウーシコ、「小さな耳」)、
заяц (ザーヤツ、「兎」) →  зайчик (ザーイチク、「小さい兎」)

 この -ik についてはちょっと面白い話を聞いたことがある。ロシア語ばかりでなくロマニ語でもこの -ik が使われているが(pos 「埃」→ pošik)、この縮小辞はアルメニア語からの借用だという説があるそうだ。クルド語にもkurrik (「少年」)、keçik(「少女」)などの例があるらしい。同じスラブ語のクロアチア語では男性名詞には-ić(komad 「塊」→komad), -čić(kamen「石」→ kamenčić), -ak (cvijet「花」→ cvijetak)、女性名詞には-ica(kuća「家」→ kućica), -čica(trava「草」→ travčica), -ka(slama「藁」→ slamka)、そして中性名詞だと-ce(brdo「山」→ brdašce)、 -če(momče 「少年」、元の言葉は消失している)を付加して縮小名詞を作るが、ロシア語とはちょっと音が違っている。この違いはどこからきたのか。考えられる可能性は3つである:1.ロシア語の-ikはアルメニア語からの借用。クロアチア語が本来のスラブ語の姿である。2.どちらの形もスラブ語祖語あるいは印欧祖語から発展してきたもの、つまり根は共通だが、ロシア語とクロアチア語ではそれぞれ異なった音変化を被った。3.ロシア語とクロアチア語の縮小辞は語源的に全くの別単語である。クロアチア語の -ak など見ると -k が現れているし、c や č は k とクロアチア語内の語変化パラダイムで規則的に交代するから、私は2が一番あり得るなとは思うのだが、きちんと文献を調べたわけではないので断言はできない。

 さて、縮小形の名詞は単に小さいものを指し示すというより、「可愛い」「愛しい」という話者の感情を表すことが多い。「○○ちゃん」である。上のひよこさんもアヒルさんも可愛いから縮小辞つきで言うのだ。そういえばいつだったか、私がベンチに坐って池のEntleinを眺めていたら(『93.バイコヌールへアヒルの飛翔』の項で話した池である)、いかにも柔和そうなおじいさんが明らかに孫と思われる女の子を連れてきて「ほら、アヒルさんがいるよ」と言うのにуточика(ウートチカ)と縮小辞を使っていた。ロシア人の家族だったのである。普通に「アヒル」ならутка(ウートカ)だ。
 逆にあまり感情的な表現をしてはいけない場合、例えば国際会議などでアヒルやひよこの話をする時はきちんとEnte、Kükenと言わないとおかしい。この縮小辞を本来強いもの、大きくなければいけないものにつけると一見軽蔑的な表現になる。「一見」といったのは実はそうでもないからだ。Mann (「男、夫」)のことをMännchenとか Männleinというと「小男」「チビ」と馬鹿にしているようだが、Männchenなどは妻が夫を「ねえあなた」を親しみを込めて呼ぶときにも使うから、ちょっと屈折してはいるが、やはり「可愛い」「愛しい」の一表現だろう。Männchenには動物の雄という中立的な意味もある。
 ロシア語のнародишко(ナロージシコ)はнарод(ナロート、「民衆・民族」)の縮小形だが、これは本当に馬鹿にするための言葉らしいが、ロシア語とドイツ語では縮小辞にちょっと機能差があるのだろうか。

 縮小辞の反対が拡大辞augumentativeである。この形態素を名詞にくっつけると「大きなもの」の意味になる。ネットを見てみたらドイツ語の例として ur-(uralt 「とても古い」)、über-(Übermensch「超人」)、 aber- (abertausend「何千もの」)が例として挙げてあったが、これは不適切だろう。これらの形態素はむしろ「語」で、つまりそれぞれ語彙的な意味を持っているからだ。しかも -chen や -lein の縮小辞とちがって全部接頭辞である。単なる強調の表現と拡大辞を混同してはいけない。
 ロシア語には本当の拡大辞がある。-ище (-išče)、–ина (-ina)、–га (-ga) だ。縮小辞と同じく接尾辞だし、それ自体には語彙としての機能がない:дом (「家」)→ домище (ドーミッシェ、「大きな家」)またはдомина (ドミナ、「大きな家」)、 ветер(ヴェーチェル、「風」)→ ветрога(ヴェトローガ、「大風」)。クロアチア語には-ina、-etina、-urina という拡大辞があり、明らかにロシア語の –ина (-ina) と同源である:trbuh (「腹」)→trbušina (「ビール腹、太鼓腹」)、ruka(「手」)→ ručetina (「ごつい手」)、knjiga (「本」)→ knjižurina(「ぶ厚い本」)。この縮小形はそれぞれ trbuščić(「小さなお腹」)、ručica (「おてて」)、knjižica(「小さな本」)で、上で述べた縮小辞がついている。
 クロアチア語は縮小形名詞ばかりでなく、拡大形のほうも大抵辞書に載っているが、ロシア語には縮小形は書いてあるのに拡大形のでていない単語が大部ある、というよりそれが普通だ。辞書の編集者の方針の違いなのかもしれないが、もしかしたらロシア語では拡大辞による造語そのものが廃れてきているのかもしれない。クロアチア語ではこれがまださかんだということか。
 また、拡大形は縮小形よりネガティブなニュアンスを持つことが多いようだ。 上の「ビール腹」も「ごつい手」も純粋に大きさそのものより「美的でない」という面がむしろ第一である感じ。さらにクロアチア語にはžena(「女」)の拡大形で ženetina という言葉があるが、物理的にデカイ女というより「おひきずり」とか「あま」という蔑称である。
 だからかもしれないが、さすがのクロアチア語辞書にも「アヒル」(patka)については縮小形の patkica しか載っていない。ロシア語も当然縮小形の「アヒルさん」(уточика)だけだ。この動物からはネガティブイメージが作りにくいのだろう。例の巨大なラバーダックも物理的に大きいことは大きいが、それでもやっぱり可愛らしい容貌をしている。


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 ジョージ・スティーブンスの『シェーン』は日本で最もポピュラーな西部劇といってもいいだろうが、実は私は結構最近になって、自分がこの映画のラスト・シーンを誤解釈していたことに気づいた。例の「シェーン、帰ってきてぇ!」という部分だ。あれのどこに誤解の余地があるのかといわれそうだが、それがあったのだ。まあ私だけが蛍光灯(私の子供のころはものわかりの遅い、ニブイ人のことを「蛍光灯」と呼んでからかったものだが今でもこんな言い回しは通じるのか?)だったのかも知れないが。

 私が『シェーン』を初めてみたのは年がバレバレもう40年以上前のことだが、それ以来私はあの、ジョーイ少年の「シェーン、帰ってきて」というセリフ、というか叫びを「シェーン、行かないで」という意味だと思っていた。当時これをTVで放映した水曜ロードショーがここを原語で繰り返してくれたが、英語ではShane, come back!だった。「帰ってきて!」だろう。一見何の問題もない。
 今になって言ってもウソっぽいかもしれないが、実は私は初めて見た時からこのシーンには何となく違和感を感じていたのだ。このセリフの直後だったか直前だったかにジョーイ少年のアップが出るだろう。ここでのジョーイ少年の顔が穏やかすぎるのである。「行かないで!」と言ったのにシェーンは去ってしまった。こういうとき普通の子供なら泣き顔になるのではないだろうか。「行かないで、行かないで、戻ってきて、ウエーン」と涙の一つも流すのではないだろうか。映画のジョーイ少年は大人しすぎる、そういう気はしたのだが、アメリカの開拓者の子供は甘やかされた日本のガキなんかよりずっと大人で感情の抑制が出来るのだろうと思ってそのまま深く考えずに今まで来てしまった。
 ところが時は流れて○十年、これを私はドイツ語吹き替えでまた見たのだが、件のラストシーンのセリフが、Shane, komm wieder!となっているではないか。これで私は以前抱いたあの違和感が正しかったことを知ったのである。

 Komm wieder!というのは強いて英語に置き換えればcome againで、つまりジョーイ少年は「行かないで」と言ったのではなく、「いつかまたきっと来てくれ」といったのだ。今ここでシェーンが去ってしまうのは仕方がない。でもまたきっと来てくれ、帰ってきてくれ、と言ったのだ。「行かないで」ならば、Shane, komm zurückと吹き替えられていたはずである。事実『七人の侍』で志村喬が向こうに駆け出した三船敏郎に「菊千代、引け引け」(つまり「戻れ」ですよね)と言った部分ではKikuchiyo, komm zurückと字幕になっていた。ジョーイ少年はKomm zurückとは言っていない。少年がここでわあわあ泣き叫ばず、なんとも言えないような寂しそうな顔をしたのもこれで説明がつく。

 言い換えると英語のcome backは意味範囲が広く、ドイツ語のwiederkommenとzurückkommenの二つの意味を包括し、日本語の「帰って来て」では捕えきれない部分があるのだ。そこで辞書でcome backという単語を引いてみた。しかしcome backなんて動詞、this is a penの次に習うくらいの基本中の基本単語である。そんなもんをこの年になって辞書で引く、ってのも恥ずかしい極致だったが、まあ私の語学のセンスなんてそんなものだ。笑ってくれていい。例文などを読んでみると確かにcome backはいまここで踵をかえせというよりは「一旦去った後、いくらか時間がたってから前いた場所に戻ってくる」という意味のほうが優勢だ。芸能人が「カムバックする」という言い方などがいい例だ。

 さて、私は上で「come backは二つの「意味」を包括する」と言ったが、この言い方は正確ではない。「今ここで踵を反す」も「いつかまた踵を反す」も意味内容そのものはまったく同じである。つまり「今いたところに戻る」ということだ。ではこの二つは何が違うのか?「アスペクトの差」なのである。ナニを隠そう、私は若いころこの「動詞アスペクト」を専門としていたのでウルサイのだ。

 その「動詞アスペクト」とは何か?

 以前にも書いたが、ロシア語では単にcomeとかgoとか seeとかいう事ができない。ちょっとはしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアになっていて英語・ドイツ語・日本語ならば単にcomeとか「来る」ですむところが二つの動詞、いわばcome-1 とcome-2を使い分けなければいけない。come-1 とcome-2は形としては派生が利かないので闇雲に覚えるしかない、つまり動詞を覚える手間が普通の倍かかるのである。
 どういう場面にcome-1 を使い、どういう場面にcome-2を使うかには極めて複雑な規則があり、完全にマスターするのは外国人には非常にキツイというか不可能。あの天才アイザック・アシモフ氏も、一旦ロシア語を勉強し始めたのに、この動詞アスペクトがわからなくて挫折している(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。例えば英語では

Yesterday I read the book.

と言えば済むがロシア語だといわば

Yesterday I read-1 the book
Yesterday I read-2 the book

のどちらかを選択しなくてはいけない。単にreadということができないのである。ロシア語ではそれぞれ

Вчера я читал книгу.
Вчера я прочитал книгу.

となる。читалとпрочиталというのが「読んだ」であるが、前者、つまりread-1だとその本は最後まで読まなかった、read-2だと完読している。また、1だと何の本を読んだかも不問に付されるのでむしろYesterday I read-1 a bookと不定冠詞にしたほうがいいかもしれない。
 
 1を「不完了体動詞」、2を「完了体動詞」と呼んでいるが、それでは「不完了体」「完了体」の動詞がそれぞれ共通に持つ機能の核、つまりアスペクトの差というのは一言でいうと何なのか。まさにこれこそ、その論争に参加していないロシア語学者はいない、と言えるほどのロシア語学の核のようなものなのだが、何十人もの学者が喧々囂々の論争を重ねた結果、だいたい次の2点が「完了動詞」あるいは完了アスペクトの意味の核であると考えられている。
 一つは記述されている事象が完了しているかどうか。「読んだ」ならその本なり新聞なりを読み終わっているかどうか、あるいは「歩く」なら目的地に付くなり、疲れたため歩く行為を一旦終了して今は休んでいるかどうか、ということ。もう一つはtemporal definitenessというもので、当該事象が時間軸上の特定の点に結びついている、ということである。逆に「不完了体」はtemporally indefinite (temporaryじゃないですよ)、つまり当該事象が時間軸にがっちりくっついていないでフラフラ時空を漂っているのだ。

 上の例の不完了体Yesterday I read-1 the bookは「昨日」と明記してあるから時間軸にくっついているじゃないかとか思うとそうではない。「昨日」自体、時間軸に長さがあるだろう。いったいそのいつ起こったのか、一回で読み通したのか、それとも断続的にダラダラその本を読んだのか、そういう時間の流れを皆不問にしているから、事象はやっぱりフラフラと昨日の中を漂っているのである。
 スラブ語学者のDickeyという人によればチェコ語、ポーランド語などの西スラブ語では「事象が完了している・いない」がアスペクト選択で最も重要だが、ロシア語ではこのtemporal definitenessのほうが事象の完了如何より重視されるそうだ。だからロシア語の文法で「完了体・不完了体」と名づけているのはやや不正確ということになるだろうか。

 さて、『シェーン』である。ここのShane, come back!、「いつでもいいから帰ってきて」はまさにtemporally indefinite、不完了アスペクトだ。それをtemporally definite、「今ここで帰ってきて」と完了体解釈をしてしまったのが私の間違い。さすが母語がスラブ語でない奴はアスペクトの違いに鈍感だといわれそうだが、鈍感で上等なのでしつこく話を続ける。

 私は今はそうやってこのcome back!を不完了アスペクトと解釈しているが、それには有力な証拠がある。『静かなドン』でノーベル賞を取ったショーロホフの初期作品に『他人の血』という珠玉の短編があるが、このラストシーンが『シェーン』とほとんど同じ状況なのだ:革命戦争時、ロシアの老農夫が瀕死の若い赤軍兵を助け、看病しているうちに自分の息子のように愛するようになるが、兵士は農夫のもとを去って元来たところに帰っていかねばならない。農夫は去っていく赤軍兵の背中に「帰ってこい!」Come backと叫ぶ。
 つつましい田舎の農家に突然外から流れ者が入り込んできて、好かれ、いつまでもいるように望まれるが、結局外部者はいつか去っていかねばならない、モティーフも別れのシーンも全く同じだ。違うのは『他人の血』では叫ぶのが老人だが、『シェーン』では子供、ということだけだ。老人は去っていく若者の後ろからворочайся!と叫ぶが、このворочайсяとは「戻る」という不完了体動詞ворочатьсяの命令形である。「いつかきっとまた来てくれ」だ。「引け引け、戻れ」なら対応する完了体動詞воротитьсяを命令形にしてворотись!というはずだ。日本語の訳では(素晴らしい翻訳。『6.他人の血』参照)この場面がこうなっている(ガヴリーラというのが老人の名)。

「帰って来いよう!…」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。
「帰っちゃ来まい!…」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。

 『シェーン』でも「帰ってきてぇ」ではなく「帰ってきてねぇ!…」とでもすればこのアスペクトの差が表せるかもしれない。


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