アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:少数言語

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 他の言語から取り入れた単語を借用語というが、その借用語という言葉自体明治時代の借用語ではないだろうか。多分ドイツ語Lehnwortか英語loan wordなんかからの翻訳だと思う。この語を見ると「借用ってことはいつか返すのか?」と理屈をこねたくなるが(あなただけです、そんな人は)、では避けて「外来語」と言った方がいいかというと、こちらはこちらでまた問題がある。何をもって外来語といったらいいのか考え出すとキリがなくなるからだ。今ではまるで日本語本来の言葉のような顔をしている馬、梅なんてのも元は中国語からの外来語だし、有史以前に原日本語が例えばマレー系の言語から借用した言葉(というものがあったとして)なんてそもそも見分けることさえ出来ない。純粋言語などというものが存在しないのだからつきつめて言えば単語は皆多かれ少なかれ皆外来語ということになり、あまり深追いすると言語の起源という言語学者にとってのNo-Go-Zoneに迷い込みかねないのである。

 だからあまり深くは考えないことにして、あくまで一般に言われている意味での借用Entlehnungであるが、これは取り入れ方の違いによっていくつかの種類に分けることができる。
 まず大きく1.借用造語Lehnprägungと2.借用語Lehnwörterに区別されるが、前者は意味の借用semantische Entlehnung、後者は語彙の借用lexikalische Entlehnungである。普通借用語だろ外来語だろと呼んでいるのは2のほう。日本語では片仮名で書くコンピューター(英語から)だろパン(ポルトガル語から)だろトーチカ(ロシア語から)だろという言葉がそれだが、欧州人が来る前に中国語から取り入れた大量の言葉、つまり漢語も本来借用である。ドイツ語にはラテン語・ギリシャ語起源の借用語が大変多い。漢語がなくては日本語でまともな言語生活をするのが不可能なのと同様、ドイツ語からラテン語・ギリシャ語を排除したら生活が成り立たなくなる。Fenster「窓」という基本単語も実はラテン語fenestraの借用だ。指示対象そのものが当該言語になかった場合、ものと同時にそれを指す言葉を取り入れるのは当然だが(上述のパン、ドイツ語のKaffee「コーヒー」など)、当該言語内にすでにそれを表す言葉があるのにさらに同じ意味の言葉を外から取り入れることもある。その場合指示対象は同じでもニュアンスに差が生じる。便所とトイレなどいい例だ。
 1のLehnprägungというのは外国語の語構成を当該言語の材料を使って模写すること。借用語と違って一応当該言語のことばのような顔をしているから外国語起源であると気づかれにくい。このLehnprägungはさらに細分できて、2-1.借用訳Lehnübersetzung、2-2.部分意訳Lehnübertragung、2-3.完全意訳Lehnschöpfung、2-4.借用語義Lehnbedeutungなどがある。分け方や用語などは学者によって微妙に異なるが、これらは大体次のように定義できる:
 2-1のLehnübersetzungはcalqueともいうが、外国語の語を形成している形態素を一対一対応で翻訳したものである。例えばラテン語のcompassioのcomとpassioという形態素をそれぞれドイツ語に訳してMit-leid→Mitleid(「同情」)、同じくラテン語のim-pressioのドイツ語借用訳がEin-druck(「印象」)。そのドイツ語がさらにロシア語に借用訳されたв-печатьが現代ロシア語の「印象」впечатлениеという単語のもとである。またフランス語のchemin de fer (road of iron)がドイツ語に借用訳されてEisen-bahn、それがまた日本語に借用訳されて「鉄道」となった。
 2-2のLehnübertragungは借用訳より少し意訳度が高いもので、例えばラテン語のpatria「祖国」は本来「父の」という形容詞から作られた女性名詞だがドイツ語では「父」の後ろに「国」Landという語を付加して(つまり意訳して)Vaterland「父の国→祖国」という語を作った。もっとも「ドイツ語では」というよりこの部分意訳は「ゲルマン語」の時代に行なわれたらしく、オランダ語など他のゲルマン語でも「祖国」は「父の国」である。さらにしつこく考えてみるとそもそものラテン語でもpatriaの後ろに「土地」を表す女性名詞、例えばterraかなんかがくっ付いていたのかもしれない。さらにドイツ語の「半島」Halbinselはラテン語のpaen-insula(「ほとんど島」)からの部分意訳である。日本語の「半島」はドイツ語からの借用訳でもあるのだろうか。
 2-3の Lehnschöpfungは部分意訳よりさらに自由度が高く、形の上ではもとの外国語の単語から離れている、いわば意訳による新語である。ドイツ語にはautomobilの意訳から生まれたKraftwagen(動力車→「自動車」)という言葉がある。Sinnbild(「象徴」)もsymbolからの借用造語である。両語とも借用造語と平行してそれぞれAuto、Symbolという借用語も存在するのが面白いところだ。
 2-4のLehnbedeutungでは対応する外国語の単語に影響されて当該言語の単語に意味が加わることである。有名なのがドイツ語のEnte(「アヒル」)という言葉で、本来は鳥のアヒルまたはカモの意味しかなかった。ところがフランス語の「アヒル」という単語canardに「ウソのニュース」、今流行の言葉で言えば「フェイクニュース」という意味があったため、ドイツ語のアヒルEnteにもこの意味がくっついてしまった。さらにドイツ語のrealisierenには本来「実現する」しか表さなかったが、英語のrealizeが「悟る・実感する」をも示すのに影響されて現在ではドイツ語のrealisierenも「悟る」の意味で使われている。

 一口に借用と言っても色々なレベルがあるのだ。

 明治時代に次々と作られた新語、私たちが普通英語からの「訳語」などと呼んでいる夥しい借用造形語などもこれに従ってカテゴリー分けしてみると面白そうだが、そんなことは日本ではすでに色々な学者があちこちでやっているから、私が今更こんなところでシャシャリ出るのは止めにして、代わりにルーマニアのドイツ語をちょっと見てみたいと思う。
 ルーマニアのジーベンビュルゲン、日本語で(?)トランシルバニアと呼ばれている地方には古くからドイツ人のディアスポラがある。ジーベンビュルゲンへのドイツ人移民はなんと12世紀にまで遡れるそうだから中高ドイツ語の時代である。20世紀の政治的・歴史的激動時代にドイツ系住民は強制移住させられたり、自主的にドイツ本国に帰ってきたりしたものが大勢いたため、現在ルーマニアでドイツ語を母語とするのは5万人以下とのことだ。しかし一方人や他国との交流が自由になったし、EUの加盟国となったルーマニアが欧州言語憲章を批准したのでドイツ語は正式に少数言語と認められて保護する義務が政府に生じた。ドイツあるいはオーストリアから教師が呼び寄せられてジーベンビュルゲンだけでなくその他の地域でもドイツ語の授業、特に書き言葉教育が行なわれるようになったそうだ。その書き言葉というのはつまりドイツあるいはオーストリアの標準ドイツ語だから、元からルーマニアでドイツ語を話していた人たちにとってはまあある意味外国語ではあるが、新聞なども発行されている。
 そのルーマニアの標準ドイツ語では本国では見られない特殊な語彙が散見される。ルーマニア語からの借用語・借用造語のほかにも、ハプスグルグ家の支配時代から引き継いだオーストリアの標準ドイツ語から引き継いだ語が目立つそうである。Ulrich Ammonという社会言語学者らが報告しているが、面白いのでまずルーマニア語からの借用語から見ていこう。右にルーマニア語の原語(イタリック)を挙げる。

Ägrisch, der  ← agrişă 「グズベリー」
Amphitheater, das  ← amfiteatru 「(大学の)講義室」
Bizikel, das  ← bicicletă 「自転車」
Bokantsch, der  ← bocanci 「登山靴」
Hattert, der  ← hotar, határ 「入会地、耕地の区画」
Klettiten, die  ← clătite 「パンケーキ」
Komponenz, die  ← componentă 「 構成(要素)」
konsekriert  ← consacrat 「有名な」
Märzchen, das  ← mărţişor  「3月に女の子や女性が紅白の紐で下げるお守り」
Motorin, das  ← motorină 「ディーゼル燃料」
Otata, der  ← otata, tata 「おじいさん」
Planifizierung, die  ← planificare 「計画」
Sarmale, die  ← sarmale 「ロールキャベツ」
Tata, der  ← tata 「父、お父さん」
Tokane, die  ← tocană 「グーラッシュ(肉のシチューの一種)」
Vinete, die (pl.)  ← vânătă 「焼いて刻んだナスから作るサラダ」
Zuika, der  ← ţuică 「プラム酒」

Hattertの元となったhatár(太字)というのはルーマニア語がさらにハンガリー語からとりいれた語らしい。また「おじいさん」のtataはルーマニア語がスラブ語、ブルガリア語とかセルビア語とかその辺から借用した語なのではないかと思う。

 借用訳部分意訳はきっちり区別しにくい場合があるのでまとめて掲げるが、政治や社会制度を表す語が多い。ルーマニアの国に属していたのだからまあ当然なのだが、チラチラと共産主義の香りが漂ってくる語が多くて面白いといえば面白い。それぞれ形態素をバラして英語訳をつけ、一部比較のために本国ドイツ語の言い回しをつけてみた。ルーマニア語はロマンス語だけあって形容詞が後ろに来るのがさすがである。

Allgemeinschule, die ← scoală generală 「 一学年から8学年までの学校」
(general  +  school)      (school general)
Autobahnhof, der ← autogară 「バスステーション」Busbahnhof
(car + station)       (car + station)
Bierfabrik, die ← fabrică de bere 「 ビール醸造所」Bierbrauerei
(beer + dactory)     (factory of beer)
Chemiekombinat, die ← combinat chimic 「化学コンビナート」
(chemistry + collective)           (collective chemical)
Definitivatsprüfung, die ← examen de definitivat 「教職課程の最初の試験」
(Definitivat + examination)        (examination of definitivat)
Finanzgarde, die ← garda financiară
(finance + guard)      (guard financial)
 「企業の税務処理が規定どおりにおこなわれているかどうかコントロールする役所」
Generalschule, die ← scoală generală 「(上述)1年から8年生までの学校」
(general  +  school)     (school general)
Hydrozentrale, die ← hidrocentrală 「水力発電所」Wasserkraftwerk
(hydro + central)      (hydro + central)
Kontrollarbeit, die ← lucrare de control 「(定期的に行なわれる)授業期間中の試験」
(control + work)      (work of control)    
Kulturheim, die ← cămin cultural 「(村の)文化会館」Kulturhaus
(culture + home)     (home cultural)
Lektionsplan, der ← plan de lecţie 「授業プラン」Unterrichtsplan
(lesson + plan)      (plan of lesson)        
Matrikelblatt, das ← foaie matricolă 「成績などが書きこまれた生徒の内申書」
(matriculation + sheet)   (sheet  amtriculation)
Notenheft, das ← carnet de note
(mark + notebook)    (book of mark)
「生徒が常に携帯している、成績または学業の業績が記録されたノート」
Postkästchen, das ← cutie poştală 「郵便受け」Briefkasten
(post + (little) box)      (box postal)
Schulprogramm, das ← programă şcolară 「教授計画、カリキュラム」Lehrplan
(school + program)       (program school)
Stundenplan, der ← orar 「営業時間」Öffnungszeiten
(time + plan)       (timetable)
Thermozentrale, die ← termocentrală 「火力発電所」Wärmekraftwerk
(thermo + central)      (thermo + centeral)
Turmblock, der ← bloc turn 「高層ビル」Hochhaus
(tower + block)     (block towaer)
Winterkommando, das ← comandament de iarnă
(winter + command)       (command of winter)
「激しい降雪や道路の表面が凍った際などに特定の業務を行なうため(政府の指示で)結成される部隊」
Ziegelfabrik, die ← fabrică de cărămizi
(brick + factory)     (factory of bricks)
 「レンガ製造所、レンガ焼き工場」Ziegelei, Ziegelbrennerei

借用語と借用訳の両方にまたがっていそうなのもある。例えばdefinitivat(太字)はルーマニア語で「過程終了」という意味だが、ドイツ語ではそれをそのまま持ってきている。Thermozentrale 、Hydrozentraleなども借用訳といったらいいのか借用語なのか、ちょっと迷うところだ。

 さらに借用意義とは言い切れなくても、本国のドイツ語にある全く同じ形の単語と意味、少なくとも「主な意味」が違っているものがある。最初にルーマニア・ドイツ語(ル)、その下に本国ドイツ語(本)の意味を挙げる。

Akademiker, der    またはAkademikerin, die    
 ル・科学アカデミーのメンバー
 本・大卒者
Analyse, die
 ル・血液または尿検査
 本・分析
assistieren
 ル・(講義を)聴講する
 本・助手として手伝う
dokumentieren
 ル・報告する
 本・文書に記録する
Gymnasium, das
 ル・5学年から8学年までの学校
 本・5学年から13年生までの学校
Katalog, der
 ル・生徒の学業成績・試験の点などが書き込まれた公式の記録書
 本・目録、カタログ
kompensiert
 ル・値段に差があった場合、健康保険で薬局に低い方の値段を支払えばすむようになっている
   (医薬品に関して使う)
 本・埋め合わせられた、補償された
Norm, die
 ル・教師が受け持つことになっている授業コマ数
 本・基準、規格、規定
Tournee, die
 ル・周遊旅行
 本・(芸能人などの)巡業

dokumentieren、Gymnasium、Tournee(太字)については本国ドイツ語との意味の違いがルーマニア語の影響であることがわかっている。それぞれa se documentagimnaziuturneu(元々フランス語tournéeから)の意味をとったとのことだ。

 少し前にルーマニア生まれのドイツ人に会ったことがある。若い人だったが、「子供の頃にすでにドイツに移住してきた」(本人曰)せいか、話す言葉は完全に本国の標準ドイツ語だった。でも夏期休暇などにはルーマニアに帰って(?)過ごすそうだ。

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 ドイツ語ディアスポラは結構世界中に散らばっているが、アメリカのペンシルベニアやルーマニア(それぞれ『117.気分はもうペンシルベニア』『119.ちょっと拝借』の項参照)の他に、アフリカ南端のナミビアにドイツ語話者がいることは知られている。このナミビア・ドイツ人は現在のナミビアが「南西アフリカ」と呼ばれたドイツ帝国の植民地だったときに(「支配者」として)移住してきた人たちの子孫だが(『113.ドイツ帝国の犯罪』参照)、ドイツが第一次世界大戦に負けた後も出て行かなかった直接の子孫だけではなく時代が下ってから新たにやってきた人たちもいる。大抵はいまでも大土地所有者で政治的・経済的にも影響力の強い層である。

ナミビアにはこのようなドイツ語の看板・標識がゴロゴロある。ウィキペディアから。
NamibiaDeutscheSprache

 ナミビアの公用語は英語だが、正規の国家語national languageとして認められているのは全部で8言語ある。まず原住民の言語には(面倒くさいので日本語名は省く)Khoekhoegowab、OshiKwanyama 、Oshindonga、Otjiherero、RuKwangali、Siloziの6言語があり、後ろの5つはいわゆるバントゥー語グループ、最初のKhoekhoegowabはコイサン諸語のひとつでコイサンのなかで最大の話者を持ち、約20万人の人に話されているとのことだ。以前にも言及したナマという民族がこの言語を話し、語順は日本語と同じSOV。音韻については資料によってちょっと揺れがあるのだが、8母音体系で音調言語。少なくとも3つ(資料によっては4つ)の音調を区別する。基本的な(?)印欧語のように文法性が3つ。またさすがにコイサン語だけあって、クリック音がある:子音が31あるが、そのうちの20がクリック音、11が非クリック音である。さらに人称代名詞に exclusive と  inclusive の区別(『22.消された一人』参照)があるというから非常に面白い言語である。
 OshiKwanyamaとOshiNdongaは相互理解が可能なほど近く、この二つはOshiwamboという共通言語の方言という見方もある。例えばOshiKwanyamaでgood morningはwa lele po?、OshiNdongaではwa lala po?で、そっくりだ。前者はナミビアのほかにアンゴラでも話されていて話者はナミビアで25万、アンゴラで約40万強ということになっているが、この話者数は資料によって相当バラバラなのであまり鵜呑みにもできない。どちらも母音は5つで(この点ではスタンダードな言語である)、コイサンと同様音階を区別するそうだ。クリック音がないのが残念だがその代わりにどちらにも無声鼻音がある。無声鼻音といえば以前に一度ポーランド語関連で話に出したが、ポーランド語ではあくまで有声バージョンのアロフォンだったのに対し、ここでは有声鼻音とそれに対応する無声鼻音が別音素である。とても私には発音できそうにない。
 さらにバントゥー諸語は名詞のクラスがやたらとあることで有名で、これらの話者から見たらせいぜい女性・中性・男性の3つしかない印欧語如きでヒーヒー言っている者など馬鹿にしか見えないだろう。OshiKwanyamaとOshiNdongaは名詞に10クラスあり、それに合わせて形容詞から何から全部10様に呼応する。そこにさらに単数と複数の区別があり、さらに格が加わるといったいどういうことになるのか、考えただけで眩暈がする。クラスの違いは接頭辞によって表され、Oshi-という接頭辞のついた語は第4クラスの名詞だそうだ。
 Otjihereroは以前に書いたドイツ帝国の民族浄化の対象となったヘレロの言葉で、話者数は15万から19万人。名詞のクラスは10、そしてotji-というのは上のoshi-と同様、第4クラスのマーカーだ。形がよく似ているのがわかる。また余計なお世話だがナミビア大学にはKhoekhoegowab、Oshiwambo、Otjihereroの課程がある

ナミビア大学で学べる言語。この他にスペイン語も学べる。思わず留学したくなる。
uniNamibiaBearbeitet

 RuKwangaliもまた バントゥー諸語だが、クリック音が一つある。この、語族を越えて同じ音韻現象が見られる例として有名なのはドラビダ語のタミル語と印欧語のヒンディーに双方そり舌音があることだが、まあこれも一種の言語連合現象(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)とみなすべきなのだろうか。他にバントゥー語でクリック音を持っている言語にIsixhosaがあるが、この言語ができる学生に会ったことがある。ドイツ人の学生だったが、南アフリカだかナミビアに留学したことがあるそうで、Isixhosaを話せ、クリック音を発音して見せてくれた。将来はあの辺の言語に携わりたいと言っていたが、今頃本当にナミビア大学にいるかもしれない。
 話を戻してRuKwangaliだが、5母音体系で子音は18あるそうだ。音階は高低の二つ。さらに語順はSVOで名詞のクラスは上の言語よりさらにひどく(?)18である。話者は約13万人とのことだが、これもあまり正確な数字ではないのではなかろうか。
 最後のSiloziは話者数7万人~15万人(実に幅の広い記述だ)とのことだが、言語の構造そのもの(挨拶やお決まりのフレーズを紹介していたものは少しあったが)については簡単に参照できる資料が見つからなかった。上の言語も皆そうだが、ハードな研究者、研究書はいるしある。しかし予算が0円・0ユーロの当ブログのためにそれをいちいち取り寄せるのも割に合わないような気がしたのでこの程度の紹介で妥協してしまった。また世界中の言語の概要を紹介しているEthnologue: Languages of the worldというサイトが有料になってしまっていて参照できない。貧乏で申し訳ない。

 さて、これらの現地語と比べると面白さやスリルの点で格段に落ちるが、アフリカーンス、ドイツ語、英語(公用語。上述)もナミビアで正式に国家の言語として認められている。ドイツ語が国家レベルの正規な言語として認められているのはヨーロッパ外ではこのナミビアだけだ。地方レベルでならブラジルやパラグアイでも承認されているし、隣の南アフリカでは少数言語として公式承認されているが、これは「国家の言語」ではない。ナミビアでドイツ語を母語としているのは2万人から2万5千人ぽっちしかおらず、この点では上の6言語より少ないが、話者が政治経済の面でまあ嫌な言い方だがいわば支配者層なので、強力な言語となっている。
 遠いナミビアに、ドイツ語を母語として生まれ育ち、民族としては完全にドイツ人なのにドイツという国に行ったことがないまま人生を終える人が「ぽっち」と言っても万の単位でいるのだ。これらドイツ系ナミビア人は首都のヴィントフックWindhoek(しかしこのWindhoekという地名自体は皮肉なことにドイツ語でなくアフリカーンス語であるが)に特に多いとはいえ、ナミビア全土にわたって広く住んでいて、たとえ見たこと・訪れたことがなくてもドイツ本国の存在を強く意識し、文化面でも言語面でもドイツとのつながりを失うまいと努力している。
 特にドイツ語による学校教育が充実していて、今ちょっと調べた限りではドイツ語で授業を行なっている正規の学校が13ある。私立が多いが国立校もあるし、いくつかはドイツ本国から経済援助を受けている。有名なのがヴィントフックにある「私立ドイツ高等教育学校」Deutsche Höhere Privatschule (DHPS)で、幼稚園から高校卒業までの一貫教育を行なっている。1909年創立というから、なんと植民地時代から続いているのである。さらに上述のナミビア大学でも授業の一部をドイツ語で行なっている。とにかくドイツ語だけで社会生活をまっとうできるのだ。さらにドイツ語の新聞も発行されている。「一般新聞」Allgemeine Zeitungという地味な名称だが、これも1916年創刊という古い新聞だ。電子版のアーカイブで過去の版が読めるようになっていてちょっと感動した。
 ドイツ本国の側にもゲッティンゲンに本部を置く「ドイツ・ナミビア協会」Deutsch-Namibische Gesellschaft e.Vという民間組織がありナミビアとの文化交流のためにいろいろなプロジェクトを立てている。会員は現在1500人だそうだからこういうのもナンだがあまり大きな組織ではないようだ。
 なお、変なところに目が行ってしまって恐縮だがナミビア大学や「一般新聞」のインターネットのサイトのドメインが「.na」、つまりナミビアのドメイン名になっていたのにゾクゾク来た。私立ドイツ高等教育学校とドイツ・ナミビア協会はドメイン名が「.de」、つまり平凡なドイツ名だったのでガッカリである。

Windhoek中央駅。真ん前にトヨタの車が止まっているのがちょっと興ざめ。ウィキペディアから。
Gare_de_Windhoek

 さて、このようにナミビアではドイツ系国民が常に本国を意識し、言語や文化を継承しようと努力しているが、では本国の一般ドイツ人はドイツ系ナミビア人のことをどう思っているのか。試しにドイツ人二人にドイツ人はどのくらいドイツ系ナミビア人のことを知っているのか、またドイツ語がナミビアの正規の国家語であることを知っているか聞いてみたら、バラバラに訊ねたにも関わらずほとんど同じ答えが帰ってきた:「普通のドイツ人はそもそもナミビアなんて国知らないだろ」さらに「なんでそんなところにドイツ人がいるんだよ。」とまるで私の方が血迷ってでもいるかのような按配になってきた。最初に「アフリカ南端のナミビアにドイツ語話者がいることは知られている」と書いたが訂正せねばなるまい。知っているのは関係者と日本人だけのようだ。
 ナミビア・ドイツ人の方も自分たちの存在が本国ではあまり知られていないのがわかっていて不公平感を持っているのか、本国ドイツ人に対する感情がちょっと屈折している気がした、と上述のIsixhosaができる学生が話していたことがある。ナミビアのドイツ語は学校教育が発達していることもあるのだろう、基本的には美しい標準ドイツ語だがそれでも語彙使いで本国から来たとすぐバレるのだそうだ。すると引かれたりからかわれたりする。もちろんイジメとか排除とか陰険なことはされないがまあ間に線が入ることが多いのだそうだ。
 ルーマニアのドイツ語のところでも引用したAmmonという学者が次のような「ナミビア・ドイツ語」の語彙を挙げている。
abkommen: (激しい降雨のあと)カラカラに乾いた水路に突然強い水流がくること
                 例えばein Rivier kommt abという風に使う
Bakkie, der: ピックアップ・トラック、プラットホームトラック
Biltong, das:(味付けした)乾燥肉
Bokkie, das:  山羊
Boma, die: ズック地で区切った野生動物を入れておく(暫定的な)檻
Braai, der: グリルパーティー
Dagga, das: マリファナ、ハシッシュ、大麻
Damm, der: ダムを作った一種の貯水池
Despositum, das:(貸家・貸し部屋の)敷金
Einschwörung, die: 就任宣誓
Gämsbock, der: オリックス
Gehabstand, der: 骨を折らなくても徒歩でいける距離
Geyser, der: お湯をためておく装置、ボイラー
Kamp, der: 柵で囲った平地
Kettie, der: パチンコ
Klippe, die: 石
Küska, der: Küstenkarneval「海岸のカーニヴァル」の略語
Magistratsgericht, das: 最も下位の刑事・民事裁判所
Oshana, das: 南北に走る浅い排水溝と北ナミビアの真ん中にあるくぼ地
Panga, der/die: 山刀、なた
Permit, das: 役所が(請願書に対してだす書面での)許可証
Ram, der: 去勢されていない雄羊
Rivier, das: 干上がった川底
Shebeen, die:(多くの場合非合法の)小さな酒場または許可は貰っている、貧しい地区に
       あるトタン葺きなどの簡単なつくりの小屋の酒場
Straßenschulter, die: 砂利または砂が敷かれた、舗装道路の底
trecken: 引く(牽引する)
VAT: 英語のValue added tax(「付加価値税」)の略語
Veld, das: 開けた広い土地、サバンナ
Vley, das: 雨季に水がたまるくぼ地
Zwischenferien, die: 6月か12月にある短い(大抵一週間の)学校休み

 先のルーマニア・ドイツ語と比べると牧畜や動物に関係する用語が多い。また英語やアフリカーンス(多分地元の言語からも)からの借用が目立つ。たとえば「オリックス」(太字)というのはガゼルの一種で、別名としてゲムズボックという名称も動物学では使われているらしいが、これは本来アフリカーンスで(gemsbok)、そこからドイツ語に借用されたものである。一番最初の動詞 abkommen (太字)は単語自体は本国ドイツ語にもあるが、意味が乖離して本国では見られない使い方をされている例だ。見ていくといろいろ面白い。

これがゲムズボック。ウィキペディアから。
800px-Oryx_Gazella_Namibia(1)

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 人を魅了してやまないヨーロッパの言語といえばやはりバスク語(『103.新しい家』参照)とエトルリア語ではないだろうか。有史以前の古い時代からヨーロッパで話されていながらズブズブに印欧語化された周囲から完全に浮いている異質の言語。バスク語はヨーロッパ文明圏の周辺部で話されていた上その地も山がちで外部との交流があまりなかったせいかよく保持されて今でも話者がいるが、エトルリア語は文明が早く開花したイタリア半島のど真ん中、しかも交通の便のいい平原に位置していたので紀元一世紀ごろにはラテン語に吸収されて滅んでしまった。しかし一方生き残ったバスク語・バスク人のほうからはヨーロッパに与えた部分が小さいのに対し、死んでしまったエトルリア語・エトルリア人がヨーロッパ文化に与えた影響は大きい。「大きい」というよりヨーロッパ文化の基礎となった部分の相当部をエトルリア人が負っている。ローマがエトルリア文化を吸収しているため、エトルリア文化はある意味ではローマを通じて今日のヨーロッパ文化の基礎にもなっているといえるからだ。さらにローマがギリシャ文化を取り入れた際、文字などその相当部は直接ギリシャ人からではなくエトルリア人を通したからだ(下記参照)。ずっと時代が下ってから考案されたゲルマン民族のルーン文字にもエトルリア文字の影響が見られる。

 中央イタリア、現在トスカーナと呼ばれる地域には多くの碑を残すエトルリア語を話す人々の存在は既に古代ギリシャ人の注意を引いていた。ギリシャ人は彼らをティレニア人とも呼んだ。鉄器時代、紀元前1200年ごろから彼らはそこに住んでいたらしい。時代が下ったローマの文書にもエトルリア人に関する記述がある。どの記述を見ても彼らが洗練された高度な文化をもっていたことがわかる。ギリシャ人のように非常に早くから、紀元前8世紀頃にはすでに高度に発展した都市国家をいくつもイタリアの地に築いていた。一説によるとラテン語などの「エトルリア」という呼び名は turs- という語幹に遡れ、ギリシア語の tyrsis、ラテン語のtrurrisと同じ、つまり「塔」から来ているという。高度な文化を築いていた当時のエトルリア人の家々が(掘っ立て)小屋住まいのローマ人から見ると塔に見えたので「塔を立てる人々」の意味でTursciまたはTyrsenoiと呼ばれたのでは、ということだ。面白い説だが証拠はない。

エトルリア人はローマが勃興する以前にイタリアに多くの都市国家を築いていた。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 2 から

Etrusk3#

 エトルリア語で書かれた文書は紀元前7世紀から紀元前一世紀にわたっているが、言語そのものはもちろん文字で表される前から当地で話されていただろうし、文字化も最古の碑が作られた時代より以前から始まっていたにちがいない。起源前7世紀か8世紀ごろにはすでに言語が文字化されていた、ということはラテン語の文字化、つまりローマ字の発生に先んずる。事実ローマ人がアルファベットを取り入れたのは直接ギリシャ人からではなくてギリシャ文字をいち早く改良して使っていたエトルリア人(つまりエトルリア文字)を通してだ。そのギリシャ文字ももともとはフェニキア文字を改良したもので、もちろん最初のころは表記が結構バラバラだった。エトルリア人が採用したのは「西ギリシャ文字」だが、それもギリシャ文字の非常に早い時期を反映しているそうだ。またギリシャ語の名前もエトルリア語を経由してからラテン語にはいったと思われる例が多い。たとえばギリシャの冥界の女神Περσεφόνη(ペルセポネー)がローマ神話ではプロセルピナProserpinaになっているのはそのエトルリア語バージョンPhersipnaiまたはPhersipneiを経由したからと思われる。ギリシャ語のφは紀元後何世紀かまではph、つまり帯気音の p だったから f で表されていないのである。ラテン語にはおそらくギリシア語から直輸入されたPersephoneという形もあるが、これはProserpinaより後のものではないだろうか。
 およそ13000もの文書や碑が出土しているが、有名なものをあげるとまずVetulonia 近くのMarsiliana d’Albegnaで見つかった碑というか象牙の文字盤。紀元前675年から650年ごろのもので、エトルリア・アルファベットの原型26文字が最も完全な形で保持されている。この原始エトルリア文字26のうち、文字化が進むにつれて使われなくなったものもあり、結局この中の22文字が残った一方、f を表す文字が新たに発明された。

エトルリア文字は少しバリエーションに幅がある。
Pfiffig, Ambros J.. 1969. “Die Etruskische Sprache”. Graz: p.19-20 から
Etrusk1#

Etrusk2#

 さらにPyrgiで1964年に金に刻まれた文書が3枚みつかったが、これはフェニキア語とエトルリア語のバイリンガル文書で、同じ出来事が両言語で記述してある。紀元前500年くらいのころのものと思われるのでまあポエニ戦争のずっと前だ。

エトルリア文字が刻まれた金版
ウィキペディアから
EtruscanLanguage2

あまりの金ピカぶりに目がくらんで読めないという人のために図版も用意されている。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 64 から
Etrusk4#

 しかしなんと言ってもスリルがあるのは現在クロアチアのザグレブに保管されているLiber linteus Zagrebiensisという布切れだろう。18世紀の中ごろにクロアチア人の旅行者がエジプトでミイラを手に入れたが、そのミイラを包んでいた包帯にエトルリア語が書いてあったのである。その亡くなったエジプト人(女性)の親族には新品の布を買うお金がなく、エトルリア人が捨てていった反古布を拾って使ったのだといわれている。なぜそんなところにエトルリア人がいたのかとも思うがローマ(含エトルリア)はアフリカ・エジプトと関係が密だったことを考えるとこれはそんなに不思議でもない。それよりその遺族が故人をミイラにするお金はあったのになぜ布代なんかをケチったとのかという方が私個人としてはよほど不思議だ。そんなに貧乏ならそもそもミイラ代も出せなかったのではないだろうか。とにかく謎だらけのこの布はおそらく紀元前150年から100年くらいの「作」。発見者の死後、1862にその布はザグレブに移されて今もそこの博物館にある。もちろん布ばかりでなくミイラそのものも安置されている。このテキストは今まで見つかったエトルリア語の中で最も長いそうだが、ミイラ本体より包帯の方に学問界の注目が行ってしまったというのも皮肉といえば皮肉である。

重要視されているのは中身のミイラよりその包帯のほう
ウィキペディアから
Lanena_knjiga_(Liber_linteus_Zagrebiensis)

 エトルリア語で書かれた文書だけでなく、ローマの歴史書などにもエトルリアについての記述がある。ローマの力がイタリア全土におよんだのはだいたい紀元前3世紀ごろだが、支配下に入った都市はその後も結構長い間自治都市であった。エトルリア人の都市国家も紀元前1世紀頃までは事実上独立した都市国家であったらしい。上でも述べたようにエトルリアはローマに先んじて洗練された文化を展開していたため、その影響はローマの貴族層、ハイソサエティ層に顕著だったようだ。例えばSpurinnaという、名前からみて明らかにエトルリア人と見られる占い師がカエサルに3月15日にヤバいことがおこるぞと警告していたそうだ。さらにあの、ネロの母親アグリッピナと4回目の結婚をしたばかりに最終的な人生のババを引いてしまったクラウディウス帝は歴史家リヴィウスといっしょにエトルリアの歴史を勉強して自分でも12巻の本を著したと言われている。またエトルリアの知的財産が忘れられることがないよう気を配ったとも。帝の最初の妻Plautina Urgulaniaはエトルリア人で、帝にその伝統・習慣などを伝授したものと思われる。
 しかしエトルリア語という言語そのものは当時すでに話されなくなってしまっていたとみられる。紀元前2世紀から言語転換が始まり、最後のエトルリア語文書が書かれたアウグストゥス(紀元前64~紀元14年)時代には話者はほとんどいなくなっていたそうだから、クラウディウスの時はその「ほとんど」さえ消失して事実上ゼロだったろう。ウルグラニアもエトルリア人の血をひいていはいてもエトルリア語は話せなかったのではなかろうか。ただ僅かに宗教儀式などに残った単語などは伝わっていたから言語についての片鱗は知っていた。だからこそリヴィウスもクラウディウスも失われていく文化への郷愁でエトルリア史を書き残そうとしたのかもしれない。

 またエトルリア語の文書は紀元前7世紀から紀元直前直後までの長いスパンにわたっているのでその間のエトルリア語の音韻変化を追うことさえ出来る。方言差があったこともわかっている。Fiora とPagliaという(小さな)川を境に南エトルリア語と北エトルリア語に分けられるそうだ。ラテン語への吸収は南エトルリア語が早く、北ではやや遅くまで言語が保持された。エトルリア人が自分たちをRasennaと呼んでいたことも伝わっている。また通時的にも初期エトルリア語と新エトルリア語を区別でき、前者はだいたい紀元前7世紀から6世紀にかけて、後者は紀元前5世紀から一世紀にかけての時期であった。分ける基準になっているのは母音変化で、初期の母音が次第に弱まって新エトルリア語では消失していたらしく、紀元前5世紀以降の碑では母音が記されなくなっている。上で述べた自称も最初Rasenna だったものが時代が下るとRasnaになった。消失するほかにもa が u と弱まっている例が見られる。
 文書の量の点でも、当時イタリア半島で話されていたラテン語以外のロマンス語、ウンブリア語、オスク語、ヴェネト語などとくらべるとエトルリア語の文書は格段に数が多い。上でも述べたように万の単位に達しているのだ。それに比べて例えばウンブリア語のはせいぜい数百に過ぎない。いかにエトルリア人が文明化されていたかわかるだろう。

 さてそのようにギリシャ人やローマ人によって注目され書きとめられ、文書も残っているならエトルリア語の解読など楽勝だろうと思うとこれが大きな間違い。古今から一流の言語学者がよってたかって研究しているのにいまだにこの言語は完全には解読されていない。言語の所属さえわかっていない。16世紀にPier Francesco Giambulariという学者がヘブライ語との親族関係を問うたのを皮切りに現在まで、ある時はフィン・ウゴール語、あるときはテュルク・タタール語と、ある時はコーカサスの言葉と結び付けられ、その間にもこれは実は印欧語であるという説がひっきりなしに浮上しては否定されるというルーチンができあがった。イタリック諸語、アルメニア語、ヒッタイト語などとの親族関係が取りざたされたのである。面白いことにヒッタイト語を解読したフロズニーHrozný(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)が1929年にEtruskisch und die „hethitischen“ Sprachen.「エトルリア語とヒッタイト語」という論文を書いて、エトルリア語の属格 –l (-al) とヒッタイト語の属格形態素 -l 、–il、 –alとを比べている。ただしフロズニーはこの共通性を以ってエトルリア語印欧語説は唱えていない。むしろはっきりとエトルリア語とヒッタイト語との相違、共通点の少なさを強調している。そう思っているのならなぜ共通っぽい部分をあげたのかと思うが、ヒッタイト語の第一人者としての手前何か結び付けなければ論文にならなかったからかもしれない。20世紀初頭まではそうやっていろいろ結論を急いだ感があったが、やがて所属関係はひとまず棚上げにしてとにかく地道にエトルリア人・エトルリア語を観察研究していこうということになった。目下は「孤立した言語で(おそらく)非印欧語」とされているが、ここに来るまでにいろいろな人が言いたい放題の説を唱えては消えていった様子を見ていると日本語の状況を彷彿とさせる。しかしこうなってしまったのには理由があるのだ。
 まず文書や碑が名前の羅列や宗教儀式の呪文ばかりで、同じフレーズの繰り返しが多く、13000もの文書がありながら出てくる単語は255くらいに過ぎない。だから基本単語なのにわからないものがある。例えば「妻」はわかっているが「夫」という言葉がみつかっていない。Brotherはわかるがsisterがわからない。またラテン語やフェニキア語とのバイリンガル文書にしても翻訳があまりにも意訳過ぎて、語レベルでの言語対応がつかみ切れないので解読できない単語も少なくない。つまり素材が少なすぎるのである。
 第二にあまりにも異質すぎて周りの言語とくらべようがない。林檎と梨なら比べようがあるが、バナナとブドウを出されて共通点をあげろといわれたら途方に暮れるだろう。基本単語をラテン語やギリシャ語などとちょっと比べてみただけでまさにバナナとブドウ状態なのがわかる。
Tabelle1-122
数詞は次のようになっている。
Tabelle2-122
もちろん印欧語内でだって細かい相違はあるが全体としてみると素人目にも共通性がわかるし、形が全く違っている場合はその原因がはっきりしていることが多い(例えばラテン語の「娘」は明らかに「息子」から派生されたから他の言語の「娘」と形が違うのである)。さらに今日の英語、ドイツ語、ロシア語などと比べてみてもよく似た言葉が容易にみつかる(サンスクリットのbrātāなど)。それに比べてエトルリア語のほうは取っ掛かりというものが全然感じられない。わずかに「7」と「9」を見て一瞬おっと思うが、そういうのに限って「?」マークがついている。
 単語だけではない。音韻組織の面でもエトルリア語は周りの言語からかけ離れている。まず母音は4つで、o がない。だからギリシャ語やラテン語から語を借用する際のo を u で転写している。ラテン語と同じイタリック語派のウンブリア語は文字をエトルリアから取り入れたため、o という字がないそうだ。音そのものはもちろんあったわけだから相当不便だったのではないだろうか。
 次に有声閉鎖音がない。g、d、b がないのである。初期にはこれらの文字そのものはあって、ギリシャ語やラテン語からの借用語に使われていたが、音がないのだからやがてこれらの文字は使われなくなった。さらに f という音がある。f の音なんて別にかけ離れていないじゃないかと思うとさにあらず。印欧語には本来この音がなかったのである。現在の印欧語にはこの音があるがこれは時代が下ってから二次的に生じてきたもの。古典ギリシャ語、サンスクリットなど古い時期の印欧語はこれを欠いている(古典ギリシャ語のφは現代ギリシャ語のような f ではなく帯気音の p だった)。当時のケルト語にもない。ラテン語にもローマ以前には存在せず、この音が生じたのはエトルリア語と接触したためと思われる。その意味で紀元前7~8世紀からすでに f を持っていたエトルリア語は周辺の言語と非常にかけ離れていたのだ。

 その別世界言語からラテン語に借用されそこからさらに現在の印欧語に受けつがれて現在まで使われている単語がある。例えばラテン語のpersona(「仮面」)、英語の personはエトルリア語のphersu から借用されたものといわれている。なるほどエトルリア語のほうには o がない。また「書くこと・書いたもの」というラテン語litterae、もちろん現在のletter、literature だが、これもギリシア語のdiphthera が一旦エトルリア語を経由してラテン語に入ったと思われる。元々の意味は「羊や山羊の皮」だった。その上に字が書かれたから意味が変遷して文学だろ字だろそのものを表すようになったのである。

 エトルリア人・エトルリア語は自身は死滅してしまったが、文化面でも言語の面でも後のヨーロッパに大きな遺産を残していった。まさに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」である。

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 マカロニウエスタンにはいわばシリーズとなったキャラクターがいくつかある。複数の作品で複数の俳優によって演じられた主役キャラで、『52.ジャンゴという名前』で述べた「ジャンゴ」が最も有名だ。1966年に『続・荒野の用心棒』でフランコ・ネロが演じてバカ受けしその後何十もの「ジャンゴ映画」が製作された。ジャンゴほどではないが、他にサバタ、サルタナというキャラクターも繰り返し登場する。後者のサルタナというキャラクターを普及させたのはジャンニ・ガルコという俳優で1966年のMille dollari sul nero(ドイツ語タイトルSartana、日本語タイトル『砂塵に血を吐け』)が第一作。ガルコは当時ジョン・ガルコと名乗っていた。氏はさらに時々ゲイリー・ハドソンGary Hudsonという芸名も使っている。
 Mille dollari sul neroでのサルタナという名前のキャラクターはむしろ(というより完全に)悪役だったが、この作品が特にドイツで当たって上述のようにタイトルもズバリSartana「サルタナ」となったのを受けて、その後もサルタナの名前をタイトルに使ったジャンニ・ガルコ主演の映画が4本作られた。ガルコ自身がキャラクター設定に関与し監督ジャンフランコ・パロリーニにも提案して、薄汚いカウボーイタイプではなくエレガントで気取った賭博者タイプ、いつも真っ白いシャツを着ているオシャレなタイプのガンマン路線で行くことになったそうだ。さらにガルコは以後の映画出演では契約書にいつも条件をつけて、主人公のキャラクターがこの基本路線に合致しない場合は映画のタイトルにサルタナという名前を出さないことにさせた。ところが1970年に来た「サルタナ映画」のオファーの脚本を見たところ、サルタナという名の役のキャラ設定が全然基本に合致していない。すでに時間が迫っていて脚本の修正も不可能だった。そこでガルコはオファーは受けたが、映画のタイトルにサルタナの名前は使わせなかった。それがUn par de asesinosという作品である。しかしドイツ語のタイトルは… und Santana tötet sie alle「そしてサタナが全員殺す」とちゃっかりサルタナを想起させるようになってしまっているばかりか、本国イタリアでも再上映の際タイトルが変更されてLo irritarono... e Santana fece piazza pulitaにされた。英語タイトルなどモロSartana kills them allである。しかしこの作品はサルタナ映画としては非公認である。
 そういうわけでガルコがサルタナ(あるいは紛らわしいサンタナ)という名の主人公を演じている映画は実は全部で6本あるのだが、最初のMille dollari sul neroではまたキャラクターが完全に確立していなかったし、Un par de asesinosではキャラが基本路線から外れているということで除外され、…Se incontri Sartana prega per la tua morte(1968、ドイツ語タイトルSartana – Bete um Deinen Tod「お前の死を祈れ」)、Sono Sartana, il vostro becchino(1969、ドイツ語タイトルSartana – Töten war sein täglich Brot「サルタナ;殺しは日々の糧」)、Una nuvola di polvere… un grido di morte… arriva Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana kommt…「サルタナがやって来る」、日本語タイトル『サルタナがやって来る~虐殺の一匹狼~』)、Buon funerale amigos… paga Sartana(1970、ドイツ語タイトルSartana – noch warm und schon Sand drauf「(体は)まだ暖かいのにすでに砂まみれ」)の4本だけが「ガルコ公認サルタナ映画」である。それにしても皆すさまじいタイトルだ。ちょっと調べたところこれらは日本では劇場未公開である。最初の公認サルタナ映画…Se incontri Sartana prega per la tua morteにはウィリアム・ベルガーが共演しているが、そういえばベルガーも後に『野獣暁に死す』で、人を殺した後服装の乱れを気にするというタイプの気取り屋タイプの殺し屋を演じていた。サルタナ路線を引き継いだのかもしれない。また、本家ガルコのサルタナ映画はこの6本(あるいは4本)しかないが、ガルコ以外の俳優、例えばジョージ・ヒルトンなどもサルタナというキャラを演じている。フランコ・ネロ以外もジャンゴをやっているのと同じことだ。逆にガルコのほうもサルタナ以外の西部劇にも出ていて、氏が出演したマカロニウエスタンは14作品ある。

 氏はフランコ・ネロとロバート・レッドフォードを足して二で割ったのをちょっとゴツくしたような好男子であるが、一度インタビューでマカロニウエスタン誕生の瞬間に立ち会った様子を語っている。

 1964年、セルジオ・レオーネがスペインのアルメリアで『荒野の用心棒』を撮っていたとき、ガルコもちょうどマルチェロ・バルディ監督のSaul e Davidという聖書映画に出演していたためそこにいた。「イスラエルのように見える景色」ということでアルメリアがロケ地として選ばれたそうだ。あるときホテルで、ちょうど撮影から宿に戻ってきてバーのカウンターに腰を掛けていた男に会ったが、それがどこかで見たような顔だった。誰かがあれはセルジオ・レオーネで、今彼の第一作目の映画を撮っているんだと教えてくれた。そこでその男の隣に坐って、どんな映画を撮っているのか聞いてみたら、レオーネが言うには、ジャン・マリア・ヴォロンテが悪役をやるちょっとした西部劇だ、とのことだった。そして雑談となり、いろいろ話をしていたら突然背の高い痩せた男が入って来たではないか。これが主役さ、アメリカ人でクリント・イーストウッドというんだ、とレオーネは言った。
 翌日自分の方のプロデューサーにその話をして、レオーネの撮っているのはどんな映画か聞いてみたら、プロデューサー曰く、「ちょっとした西部劇だが、ほとんど無予算でね。爆破のシーンがあるというんで工面してやらないといけなかった。レオーネ自身はその金がなかったんでね」。レオーネが極度の予算不足にあえいでいたのは、そのプロデューサーがケチ、というより約束した予算の支払いさえ滞りがちだったからだそうだ。ガルコのプロデューサーのほうはたんまり予算を貰っていたのである。
 ガルコは自分の映画が終わるとイタリアに帰ってミラノで舞台で仕事をしていたが(この人は元々舞台出身である)。『荒野の用心棒』の大当たりを目の当たりにした。映画館で見たそうだ。比べて予算のタップリあった自分の映画は全然ヒットしなかった。イタリア映画界は猫も杓子も西部劇を撮り出していて宗教映画など上映してくれるところがなかったのである。それで二年後に舞台契約が切れたとき、西部劇で役はないかと探していたら簡単に見つかった。それが上述のMille dollari sul neroだ。監督のアルベルト・カルドーネが「舞台経験のある悪役俳優」を探していたそうである。

真っ白なシャツに粋なネクタイというサルタナの特徴的ないでたち
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その粋ないでたちで銃を粋に担ぐ
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Sono Sartana, il vostro becchinoのドイツ語バージョンから。安物DVDだけに画質が悪い。
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 映画史に触れるこういう話も面白いが、それに劣らず面白いのは氏の生まれそのものである。ガルコは本名ジョバンニ・ガルコヴィッチGiovanni Garcovichと言ってクロアチアのダルマチア地方にあるZara(これはイタリア語名。クロアチア語ではZadar)という町の生まれだ。道理で姓が南スラブ系なわけだ。ここでクロアチアが出てくるのには歴史的理由がある。

 ダルマチアもそうだが、現在クロアチア領になっているアドリア海沿岸は長い間イタリア、というよりベネチア共和国に属していた。697年から1797まで千年以上続いた共和国である。ダルマチアは1409年からベネチア領になり、18世紀にハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国支配下にはいった。何百年もイタリア領だったうえ直接支配を受ける以前、1000年ごろからアドリア海に出没する海賊などからの保護をベネチアが受け持っていたりしたこともあってすでにダルマチアとベネチアは密接につながっていたから、今でもイタリア系住民がいる。ガルコの生まれたZara市に至っては第一次世界大全から第二次世界大戦の間、1920年から1947年までイタリア領だった。大戦後ユーゴスラビアの領土になった際、そこに住んでいたイタリア系住民はほとんどイタリアに引き上げたそうだが、ガルコは1935年の生まれだから、生まれた時からイタリア国籍のはずである。本名がGarković とクロアチア語綴りでなくGarcovichとイタリア語表記になっているのはそのためかもしれない。

16世紀ごろのベネチア共和国。Zara市がその領土であるのがわかる。ウィキペディアから。
Repubblica_Venezia_espansione_in_Terraferma

18世紀になってもイストリア半島を含むクロアチアのアドリア海沿岸部はベネチア領であった。
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両大戦間のイタリア領の飛び地Zara
Zara-Zadar-1920-1947

 クロアチアの北西部、スロベニアと境を接するところにある三角型をした半島、イストリアもまた伝統的にベネチア領で、やはりイタリア系住民が少なくない。先日もTVのドキュメンタリー番組でイストリア半島の漁師のことをやっていたが、この人の母語はクロアチア語でもスロベニア語でもなく、「イタリア語の一方言」と番組では言っていた。この「方言」とは普通ウェネティー語またはウェネト語(ヴェネト語)と呼ばれるベネチアの言葉であろう。クロアチアの南にある「モンテネグロ」という国名がこのウェネト語であることは以前にも書いた(『45.白と黒』参照)。
 ただし、ここでいうウェネト語は『122.死して皮を留め、名を残す』の項で名を出した、ローマ時代のウェネト語とは違う。ローマ時代のウェネト語はラテン語のいわば兄弟言語で、後にラテン語に吸収されてしまった。エトルリア語と運命を共にしたのである。現在のウェネト語はラテン語の末裔である。同姓同名なのでややこしいが「別人」だ。

 またクロアチア人は宗教的にもカトリックで、マリオとかアントニオとかのイタリア系の名前が目立つ。事実上同じ言語を話しているセルビア人は名前もスラブ系なのと対照的だ。ジャンニ・ガルコの本名もしっかりこのパターン、名前がイタリア語、姓がスラブ語というパターンを踏襲している。氏は少なくともイタリア語・クロアチア語のバイリンガル、ひょっとすると母語はイタリア語オンリーだったと思われる。「若いうちにトリエステに移住し俳優学校で学んだ」と非常に簡単に経歴には書いてあるがこれが曲者で、トリエステに出たのは1948年、つまり僅か13歳のとき。まだ子供といっていい年齢の時だ。しかもZara市がユーゴスラビア領になってまもなくである。この時期、ユーゴスラビアのアドリア海沿岸部、つまりイストリアとダルマチアで、戦争中ファシストがバルカン半島で働いた蛮行への復讐のためイタリア系の住民が虐殺される事件があいついだ。イタリア系住民ばかりでなく「戦争中共産党ではなかった」人まで殺された。フォイベの虐殺と呼ばれているが、このFoibeというのはイタリア語でカルスト地形にできた穴を指し、犠牲者が殺された後、または生きながらここに放り込まれたためそう呼ばれている。ガルコもこの虐殺から逃げてきたのではないだろうか。トリエステまで親戚といっしょに来たのか、それとも親戚は殺されてたった一人でトリエステに辿りついたのか私にはわからないが、「移住」などという生易しいものではなかったはずだ。とにかく、このトリエステで舞台演技を学び、後にローマに出てAccademia d’Arte Drammaticaでさらに学び、1958年から映画にも顔を出すようになって、ヴィスコンティなどとも仕事をしている。

 時は流れて今度はクロアチア人が辛酸を舐めたが、この国はユーゴスラビア崩壊の後、2013年に晴れてEUに加盟する遥か以前、ドイツが批准するより一年近くも早い1997年11月にいち早くヨーロッパ地方言語・少数言語憲章Europäische Charta der Regional- oder Minderheitensprachen(『37.ソルブ語のV』参照)を批准し、1998年から施行した。それによってイタリア語が国内の少数言語として正式に認められ保護されている。正式にクロアチアの少数言語と認められているのはイタリア語のほかにルシン語(パンノニアで話されている東スラブ語)、セルビア語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語、ウクライナ語である。ドイツの批准は1998年9月、施行が1999年11月。イギリスはさらに遅くて批准が2001年3月、施行が同年6月である。フランスやイタリアのほうはいまだにこれを批准していない(『83.ゴッドファーザー・PARTI』『106.字幕の刑』参照)。

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 以前にもちょっと述べたが、ドイツの土着言語はドイツ語だけではない。国レベルの公用語はたしかにドイツ語だけだが、ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(『130.サルタナがやって来た』『37.ソルブ語のV』『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)に従って正式に少数民族の言語と認められ保護されている言語が4言語ある。つまりドイツでは5言語が正規言語だ。
 言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語であるがロマニ語話者も住んでいるから、つまりソルブ語以外の少数言語をすべて同州が網羅しているわけだ。扱いが難しいのはフリースラント語で、それ自体が小言語であるうえ内部での差が激しく、一言語として安易に一括りするには問題があるそうだ。スイスのレト・ロマン語もそんな感じらしいが、有力な「フリースランド標準語」的な方言がない。話されている地域もシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州ばかりでなく、ニーダーザクセン州にも話者がいる。そこでfriesische Sprachen、フリースラント諸語という複数名称が使われることがよくある。大きく分けて北フリースラント語、西フリースラント語、ザターラント語(または東フリースラント語)に区別されるがそのグループ内でもいろいろ差があり、例えば北フリースラント語についてはちょっと昔のことになるが1975年にNils Århammarというまさに北ゲルマン語的な苗字の学者がシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の言語状況の報告をしている。

北フリースラント(諸)語の状況。
Århammar, Nils. 1975. Historisch-soziolinguistische Aspekte der Nordfriesischen Mehrsprachigkeit: p.130から

nordfriesisch

 さて、デンマーク語はドイツの少数民族でただ一つ「本国」のある民族の言語だが、この言語の保護政策はうまくいっているようだ。まず欧州言語憲章の批准国はどういう保護政策を行ったか、その政策がどのような効果を挙げているか定期的に委員会に報告しなければいけない。批准して「はいそれまでよ」としらばっくれることができず、本当になにがしかの保護措置が求められるのだが、ドイツも結構その「なにがしか」をきちんとやっているらしい。例えば前にデンマークとの国境都市フレンスブルクから来た大学生が高校の第二外国語でデンマーク語をやったと言っていた。こちらの高校の第二外国語といえばフランス語やスペイン語などの大言語をやるのが普通だが、当地ではデンマーク語の授業が提供されているわけである。
 さらに欧州言語憲章のずっと以前、1955年にすでにいわゆる独・丁政府間で交わされた「ボン・コペンハーゲン宣言」Bonn-Kopenhagener Erklärungenというステートメントによってドイツ国内にはデンマーク人が、デンマーク国内にはドイツ人がそれぞれ少数民族として存在すること、両政府はそれらの少数民族のアイデンティティを尊重して無理やり多数民族に同化させないこと、という取り決めをしている。シュレスヴィヒのデンマーク人は国籍はドイツのまま安心してデンマーク人としての文化やアイデンティティを保っていけるのだ。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州には第二次大戦後すぐ作られた南シュレスヴィヒ選挙人同盟という政党(ドイツ語でSüdschleswigscher Wählerverband、デンマーク語でSydslesvigsk Vælgerforening、北フリースラント語でSöödschlaswiksche Wäälerferbånd、略称SSW)があるが、この政党も「ボン・コペンハーゲン宣言」によって特権を与えられた。ドイツでは1953年以来政治政党は選挙時に5%以上の票を取らないと州議会にも連邦議会にも入れないという「5パーセント枠」が設けられているのだが、SSWはその制限を免除されて得票率5%以下でも州議会に参入できることになったのである。

SSWの得票率。なるほど5%に届くことはまれなようだ。ウィキペディアから
SSW_Landtagswahlergebnisse.svg

 こうやって少数言語・少数民族政策がある程度成功していることは基本的に歓迎すべき状況なので、まさにこの成功自体に重大な問題点が潜んでいるなどという発想は普通浮かばないが、Elin Fredstedという人がまさにその点をついている。
 独・丁双方から保護されているのはあくまで標準デンマーク語だ。しかしシュレスヴィヒの本当の土着言語は標準語ではなく、南ユトランド語(ドイツ語でSüdjütisch、デンマーク語でSønderjysk)なのである。このことは上述のÅrhammarもはっきり書いていて、氏はこの地(北フリースラント)で話されている言語は、フリースラント語、低地ドイツ語、デンマーク語南ユトランド方言で、その上に二つの標準語、標準ドイツ語と標準デンマークが書き言葉としてかぶさっている、と描写している。書き言葉のない南ユトランド語と標準デンマーク語とのダイグロシア状態だ、と。言い変えれば標準デンマーク語はあくまで「外から来た」言語なのである。この強力な外来言語に押されて本来の民族言語南ユトランド語が消滅の危機に瀕している、とFredstedは2003年の論文で指摘している。この人は南ユトランド語のネイティブ・スピーカーだ。

 南ユトランド語は13世紀から14世紀の中世デンマーク語から発展してきたもので、波動説の定式通り、中央では失われてしまった古い言語要素を保持している部分があるそうだ。あくまで話し言葉であるが、標準デンマーク語と比べてみるといろいろ面白い違いがある。下の表を見てほしい。まず、標準語でstødと呼ばれる特有の声門閉鎖音が入るところが南ユトランド語では現れない(最初の4例)。また l と n が対応している例もある(最後の1例):
Tabelle-132
 もちろん形態素やシンタクスの面でも差があって、南ユトランド語は語形変化の語尾が消失してしまったおかげで、例えば単数・複数の違いが語尾で表せなくなったため、そのかわりに語幹の音調を変化させて示すようになったりしているそうだ。語彙では低地ドイツ語からの借用が多い。長い間接触していたからである。

 中世、12世紀ごろに当地に成立したシュレスヴィヒ公国の書き言葉は最初(当然)ラテン語だったが、1400年ごろから低地ドイツ語(ハンザ同盟のころだ)になり、さらに1600年ごろからは高地ドイツ語を書き言葉として使い始めた。その間も話し言葉のほうは南ユトランド語だった。これに対してデンマーク王国のほうでは標準語化されたデンマーク語が書き言葉であったため、実際に話されていた方言は吸収されて消えて行ってしまったそうだ。『114.沖縄独立シミュレーション』でも述べたように「似た言語がかぶさると吸収・消滅する危険性が高い」というパターンそのものである。シュレスヴィヒ公国ではかぶさった言語が異質であったため、南ユトランド語は話し言葉として残ったのだ。公国北部ではこれが、公国南部では低地ドイツ語が話されていたという。低地ドイツ語がジワジワと南ユトランド語を浸食していってはいたようだが、19世紀まではまあこの状況はあまり変化がなかった。
 1848年から1864年にかけていわゆるデンマーク戦争の結果、シュレスヴィヒはドイツ(プロイセン)領になった。書き言葉が高地ドイツ語に統一されたわけだが、その時点では住民の多数がバイリンガルであった。例えば上のFredsted氏の祖母は1882年生まれで高等教育は受けていない農民だったというが、母語は南ユトランド語で、家庭内ではこれを使い、学校では高地ドイツ語で授業を受けた。さらに話された低地ドイツ語もよく分かったし、標準デンマーク語でも読み書きができたそうだ。
 第一世界大戦の後、1920年に国民投票が行われ住民の意思で北シュレスヴィヒはデンマークに、南シュレスヴィヒはドイツに帰属することになった。その結果北シュレスヴィヒにはドイツ語話者が、南シュレスヴィヒにはデンマーク語話者がそれぞれ少数民族として残ることになったのである。デンマーク系ドイツ人は約5万人(別の調べでは10万人)、ドイツ系デンマーク人は1万5千人から2万人とのことである。

 南シュレスヴィヒがドイツに帰属して間もないころ、1924の時点ではそこの(デンマーク系の)住民の書いたデンマーク語の文書には南ユトランド語やドイツ語の要素が散見されるが1930年以降になるとこれが混じりけのない標準デンマーク語になっている。南ユトランド語や低地ドイツ語はまだ話されてはいたと思われるが、もう優勢言語ではなくなってしまっていたのである。
 これは本国デンマークからの支援のおかげもあるが、社会構造が変わって、もう閉ざされた言語共同体というものが存続しにくくなってしまったのも大きな原因だ。特に第二次大戦後は東欧からドイツ系の住民が本国、例えばフレンスブルクあたりにもどんどん流れ込んできて人口構成そのものが変化した。南ユトランド語も低地ドイツ語もコミュニケーション機能を失い、「話し言葉」として役に立たなくなったのである。現在はシュレスヴィヒ南東部に50人から70人くらいのわずかな南ユトランド語の話者集団がいるに過ぎない。

 デンマークに帰属した北シュレスヴィヒはもともと住民の大半がこの言語を話していたわけだからドイツ側よりは話者がいて、現在およそ10万から15万人が南ユトランド語を話すという。しかし上でもちょっと述べたように、デンマークは特に17世紀ごろからコペンハーゲンの言語を基礎にしている標準デンマーク語を強力に推進、というか強制する言語政策をとっているため南ユトランド語の未来は明るくない。Fredsted氏も学校で「妙な百姓言葉を学校で使うことは認めない。そういう方言を話しているから標準デンマーク語の読み書き能力が発達しないんだ」とまで言い渡されたそうだ。生徒のほうは外では標準デンマーク語だけ使い、南ユトランド語は家でこっそりしゃべるか、もしくはもう後者を放棄して標準語に完全に言語転換するかしか選択肢がない。南ユトランド語に対するこのネガティブな見方は、この地がデンマーク領となるのがコペンハーゲン周りより遅かったのも一因らしい。そういう地域の言語は「ドイツ語その他に汚染された不純物まじりのデンマーク語」とみなされたりするのだという。つまりナショナリストから「お前本当にデンマーク人か?」とつまはじきされるのである。そうやってここ60年か70年の間に南ユトランド語が著しく衰退してしまった。
 かてて加えてドイツ政府までもが「少数言語の保護」と称して標準デンマーク語を支援するからもうどうしようもない。

 が、その南ユトランド語を堂々としゃべっても文句を言われない集団がデンマーク内に存在する。それは皮肉なことに北シュレスヴィヒの少数民族、つまりドイツ系デンマーク人だ。彼らは民族意識は確かにドイツ人だが、第一言語は南ユトランド語である人が相当数いる。少なくともドイツ語・南ユトランド語のバイリンガルである。彼らの書き言葉はドイツ語なので、話し言葉の南ユトランドが吸収される危険性が低い上、少数民族なので南ユトランド語をしゃべっても許される。「デンマーク人ならデンマーク人らしくまともに標準語をしゃべれ」という命令が成り立たないからだ。また、ボン・コペンハーゲン宣言に加えて2000年に欧州言語憲章を批准し2001年から実施しているデンマークはここでもドイツ人を正式な少数民族として認知しているから、「ここはデンマークだ、郷に入っては郷に従ってデンマーク人のようにふるまえ」と押し付けることもできない。ネイティブ・デンマーク人のFredsted氏はこれらドイツ系デンマーク人たちも貴重なデンマーク語方言を保持していってくれるのではないかと希望を持っているらしい。
 惜しむらくはデンマークで少数言語として認められているのがドイツ語の標準語ということである。独・丁で互いに標準語(だけ)を強化しあっているようなのが残念だ。

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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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