アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:少数言語

 また昔話で恐縮だが1998年のサッカーのW杯の時、スペインチームに「エチェベリア」という名の選手がいたのでハッとした。これは一目瞭然バスク語だからだ。そこでサッカーそのものはそっちのけにして同選手のことを調べてみたら本当にバスク地方のElgóibarという所の生まれでアスレチック・ビルバオの選手だった。この姓は現在ではバスク語の正書法でEtxeberriaと書くがこれをスペイン語綴りにしたEchaverríaという姓もある。メキシコ人にもこういう名前の人がいる。スペイン語ではbとvとを弁別的に区別せず、どちらも有声両唇摩擦音[​β]で発音するからバスク語のbがスペイン語でvとなっているわけだ。

 日本の印欧語学者泉井久之助氏もこんな内容のことを書いていた。

第二次大戦の前、当時日本の委任統治領であったミクロネシアの言語を調査するため現地に赴いた。そのときサイパンの修道院を訪問したが、ここはかつてスペイン領だったのでカトリックの人は皆スペインから来た人であった。するとそこで隣の尼僧院の院長の名が「ゴイコエチェア」Goikoecheaだと知らされた。これはまさにバスク語である。

 泉井氏によればGoikoは「高い」という意味の形容詞でecheaが「家」だから、この名は「高家」とでも訳せる。goikoはさらにgoi-と-koに形態素分析でき、 goi-が形容詞の本体、-koは接尾辞である。バスク語は本来形容詞が名詞のあとに来るから、echegoikoになりそうなものだが、この-koという接尾辞がつくと例外的に形容詞は文法上属格名詞扱いされ、形容される名詞の前に立つそうだ。Goikoecheaの最後のaは定冠詞とのことである。つまりバスク語はいわゆる膠着語タイプの言語なのだ。
 面白半分でさらに調べてみたら1994年のW杯のスペイン代表にJon Andoni Goikoetxeaという名の選手がいたのでまた驚いた。この選手は所属チームはFCバルセロナだが、パンプローナの生まれだそうだ。見事に話の筋が通っている。このetxe- あるいはecheのつく名前はバスク語ではよくあるのかもしれない。上のEtxeberriaはEtxe-berri-aと形態素分析ができ、Etxe-が「家」(上述)、-berri-が「新しい」、最後の-aは定冠詞だからこの名前の意味はthe new houseである。

 日本人から見ればバスク語など遠い国の関係ない言語のようだが、実は結構関係が深い。日本にキリスト教を伝えた例のフランシスコ・ザビエルというのがバスク人だからである。一般には無神経に「スペイン人」と説明されていることが多いが、当時はそもそもスペインなどという国はなかった。
 ザビエル、あるいはシャビエルはナバーラ地方の貴族で、Xavierというのはその家族が城の名前。ナバーラはバスク人の居住地として知られる7つの地方、ビスカヤ、ギプスコア、ラブール(ラプルディ)、スール(スベロア)、アラバ、低ナバーラ、ナバーラの一つで、ローマの昔にすでにバスク人が住んでいたと記録にあり、中世は独立国だった。もっともフランス、カスティーリャ、アラゴンという強国に挟まれているから、その一部あるいは全体がある時はフランス領、またある時はカスティーリャの支配下になったりして、首尾一貫してバスク人の国家としての独立を保っていたとは言い切れない。例えば13世紀後半から14世紀前半にかけてはフランスの貴族が支配者であったし、1512年にはカスティーリャの支配下に入った。その後フランス領となり、例えばカトリックとプロテスタントの間を往復運動したブルボン朝の祖アンリ4世の別名はナヴァール公アンリといって、フランス国王になったときナバーラ王も兼ねた。ただしアンリはパリの生まれだそうだ。
 とにかくヨーロッパの中世後期というのは、どこの国がどこに属し、誰がどこの王様なのかやたらと複雑で何回教えて貰ってもいまだに全体像がつかめない。

 では一方ナバーラは二つの強国に挟まれたいわゆる弱小国・辺境国であったのかというとそうも言い切れないらしい。まずフランスやカスティーリャの支配といってもボス(違)はパリだろなんだろの遠くにいて王座には坐っているだけ、実際に民衆を支配し政治を司ったのは地元のバスク人貴族である。さらにどこの国の領土になろうが社会的にも経済的にもバスク人同士の結びつきが強かったようだ。ザビエルの生まれた頃に当時のカスティーリャの支配になった後も、ナバーラばかりでなくその周辺の地域に住むバスク人には民族としての習慣法が認められるなどの、カスティーリャ語でFueroという特権を持ち一種の自治領状態だったらしい。民族議会のようなものもあり、カスティーリャの法律に対して拒否権を持っていたそうだ。独自の警察や軍隊まで持っていた地域もあったそうだから、統一国ではないにしろ、いわば「バスク人連邦」的なまとまりがあったようだ。
 経済的にも当時この地域は強かった。14世紀・15世紀には経済状況が厳しかったようだが、16世紀になるとそれを克服し、鉄鉱石の産地を抱え、造船の技術を持ち、地中海にも大西洋にも船で進出し、今のシュピッツベルゲンにまでバスク人の漁師の痕跡が残っているそうだ。また、地理的にも北にあったためアラブ人支配を抜け出た時期も早く、イベリア半島の他の部分がまだアラブ人に支配されていた期間にナバーラ王国の首都パンプローナはキリスト教地域であった。カトリック国としては結構発言力があったのではないだろうか。
 
 ザビエルがバスク人だったと聞くと「どうしてバスク人なんかがわざわざ日本まで出てくるんだ」と一瞬不思議に思うが、中世後期のバスク地方のこうした状況を考えるとなるほどと思う。1536年にイエズス会を創立したイグナチウス・デ・ロヨラもまたバスク人だった。ただしナバーラでなく北のギプスコアの出身である。ザビエルはパリ大学でロヨラと会い、イエズス会に参加したのだ。バスク人同士のよしみということではなかったのだろうか。
 もちろんザビエルらが普段何語を使っていたかについての記録は残っていないが、おそらく少なくともカスティーリャ語あるいはフランス語とバスク語のバイリンガルだったのではないかと思われる。「少なくとも」と言ったのはバスク語が優勢言語だったかもしれないからだ。今日のバスク地方では300万人の住人のうちバスク語を話すのは22%だが、主に老人層とはいえバスク語モノリンガルがいまだに存在する。20世紀になってスペイン語話者がどんどん流入し、政治的にも内戦やフランコによる弾圧を経験してもバスク語は壊滅していない。ザビエルの時代にはずっとバスク語人口、しかもモノリンガル人口が多かったに違いない。
 もっともバスク語はずっと「話し言葉」だった。統一したバスク語文語の必要性はすでに17世紀頃から主張されていたが、この「共通バスク語」(バスク語でEuskera Batua)が実現を見たのはやっと20世紀になってからである。1918年にバスク語アカデミー(Euskaltzaindia)がギプスコアに創立されて第一歩を踏み出した。第一次世界大戦の最中だが、スペインは参戦していなかったから、隣国フランスへの特需などもあって当時はむしろ経済的には好調だったようだ。そのあと辛酸を舐めたが現在では言語復興運動もさかんで正書法も確立されている。

 さてザビエルの名前、Xavierであるが、これはもともとバスク語の名前がロマンス語化されたもので、もとのバスク名は驚くなかれEtxeberri。後ろに-aがないのでthe new houseではなく a new houseであるが、どちらも「新しい家」。サッカーの選手と同じ名前なのだ。このXavierあるいはJavierという名前は現在のスペイン語、カタロニア語、フランス語、ポルトガル語、つまりイベリア半島のロマンス語のみに見られ、イタリア語とルーマニア語にはこれに対応する名前がない。イタリア語、ルーマニア語はバスク語と接触しなかったからである。
 さらに驚いたことに私が今までスペイン語の代表的な名前だと思っていた「サンチョ」Sanchoはバスク語起源だそうだ。これはラテン語のSanctus(後期ラテン語では Sanctius)のバスク語バージョンで、905年にナバーラのパンプローナにバスク人の王国を立てた王の名前がSancho Garcés一世という。パンプローナ国の最盛期(1000-1035)に君臨していたこれもサンチョ三世という名前の大王は別名を「全てのバスク人の王」といったとのことだ。

 バスク語のことをバスク語でEusikera またはEusikaraというが、この謎の言語は16世紀からヨーロッパ人の関心を引いていた。これに学問的なアプローチをしたのがあのヴィルヘルム・フォン・フンボルトで、1801年に言語調査をしている。その後19世紀の後半にシューハルトがバスク語をコーカサスの言語と同族であると主張したりした。
 私のような素人がバスク語と聞いてまず頭に浮かべるのはこの言語が能格言語である、ということだろう(『51.無視された大発見』参照)。それだからこそバスク語はコーカサスの言語と同族だと主張されたりしたのだ。ロールフスという学者が北インドのやはり能格言語ブルシャスキー語と比較していたことについては以前にも述べた(『72.流浪の民』)。今日びでは能格言語を見せられても誰も驚いたりしないだろうが、フンボルトの当時はこういう印欧語と全く異質な格体系は把握するのに時間を要したに違いない。事実フンボルトはその1801年から1803年にかけて執筆したバスク語文法の記述にあくまで「主格」という言葉を使って次のように説明している。

Eine, die ich in keiner anderen Sprache kenne, ist, ist das c, welches der Nominativ an sich trägt, sobald das Subject als handelnd vorgestellt wird. Alle andern, mir bekannte Sprachen bezeichnen den Unterschied des verbi neutri und actiui nur an dem verbum selbst; die Vaskische deutet ihn schon vorher am Subject selbst an, indem sie demselben im letzteren Fall ein c anhängt. In den beiden Phrasen also: Gott lebt u. Gott schaft wird Gott in der ersten durch Jainco-a, in der letzteren durch Jainco-a-c ausgedrückt. Denn dies c wird, wie alle Praepositionen hinter den Artikel gesetzt;

筆者が他の言語では見たことのない前置詞のひとつがこの c で、主語が何らかの行為を行なうものとして表されると主格そのものがこれを担う。筆者の知る限り他の言語では全て中動態と能動態を区別をただ動詞自体の形によってのみ行なうが、バスク語ではこの区別をすでにそれより前、主語自体がつけているのである。それで主語が行為の主体であった場合は -c が付加される。例えば次の2例、Gott lebt (「神は生きている」)と Gott schaft(「神は創造する」)では、「神」が前者では Jainco-a、後者ではJainco-a-cと表現される。前置詞が全てそうであるように、この -c も定冠詞の後に付加されるからである。

Jainco-aは絶対格だが、-a は後置冠詞だから、細かく言えば絶対格の格マーカーはゼロ形ということになる。一方Jainco-a-c(またはJainco-a-k)は能格だから、-c は実は単なる格マーカーである。しかしフンボルトはこれを「主格マーカー+(特殊な)前置詞」と分析している。うるさく言えば(本当にうるさいなあ)後置詞というべきだろうが、いずれにせよ -a-c を「主格の特殊形」と見なすやりかたは1810頃の、ビルバオの言語を基にした言語記述でも引き継いでいる。さすがのフンボルトも「主格・対格」の枠組みを離れるのには苦労したようだ。能格言語の絶対格と能格の区別の本質そのものは理解しているからなお面白い。さらに例文にあげたGott lebt対Gott schaftで、後者の他動詞構文で目的語を抜かしてあくまで印欧語では主格に立つ主語だけを比較している。このGott schaftにあたるバスク語では目的語がGott lebtの場合のGottと同じ形になるはずだが、それは論じられていない。今なら「能格言語では他動詞の目的語と自動詞の主語が同じ格をとり、一方他動詞と自動詞では主語の格が違う」の一言ですむ簡単な事象でさえ、理解するのには先人の長い思索があったのだ。これは自然科学もそうだが、現在では小学生でも知っている事もそれを発見した当時最高級の頭脳の努力の賜物なのだということを思わずにはいられない。


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 うちではARTEというストラスブールに本拠がある独・仏二ヶ国語のTV放送局の番組が入るのだが、そこでJ.L.トランティニャンについてのドキュメンタリー番組を流してくれたことがある。私にとってはちょっと夜遅い時間だった。
 最初「年取ったなあ、この人も」とか思いながら眠い眼をこすりこすり見ていたのだが、氏が「パリの俳優養成所に進学したが、いつまでも南フランスのアクセントがとれなかったこともあって最初教官からは常に見込みがないという評価を受けていた」というフレーズでパッチリ目が覚めてしまった。つまりこの人の母語は俗に言う(正式にもそういう)オクシタン語(またはオック語)ということか、フランス語はL2だったのか、と気になったからだ。
 調べてみたら、トランティニャンはVaucluse県のPiolencという町の生まれで、学校時代は同県南部のAvignonで過ごし、パリに出てきたのはやっと20歳、つまり母語が完全に固まってからである。 
地図を見るとわかるが、トランティニャン氏はオクシタン語地域で生まれ育っている。
Vaucluse県:(ウィキペディアから)
svg

オクシタン語地域:(これもウィキペディアから)
Occitania_blanck_map

 このオクシタン語はすでにダンテが「フランス語とは全く別言語」であることを見抜いている。フランス政府はこの言語がフランス語でないことを(まだ)公式に認めてはいないが、カタロニアでは公式言語、イタリアでは公式に少数言語として認められているそうだ。
 私が日本で学生だった頃は「フランス人(移民とか後から来た人ではなく土着のフランス国民)でフランス語を母語としない者は全体の25%」といわれていたが、先日ちょっと言語学事典でしらべてみたら、オクシタン語を自由に話せる者は300万人ほど、1200万人ほどがPassiveな話者、つまり「聞いて理解できる」そうだ。相当減ってきている。しかし20世紀の初頭までは結構普通に話されていたそうだから、1930年生まれのトランティニャンはこの言語で育ったのかもしれない。ただ当地でも公用語はフランス語だから、もちろんバイリンガルではあったのだろうが。それともオクシタン語の方が優勢言語だったのか?職業上の言語が完全にフランス語になったあとも日常ではオクシタン語を話していたのか?そういうことを番組で報道してくれなかったのが残念だ。
 トランティニャンはそのL2フランス語で俳優業だけでなく、詩の朗読などの文化活動もしているそうだ。ジャック・プレヴェールの詩を朗読している姿が映されていた。文学・文化音痴の私だが、ジャック・プレヴェールの名前だけはかろうじてというか偶然知っていた。一つ彼の詩を覚えている:一人の男が恋人に送るために花市場でバラを買い、金物市場で重い鎖を買った。というストーリー(?)だった。なぜ「重い鎖」なんだ?と私がいぶかっていたらラストが

「それから奴隷の市場に行きました。恋人よ、君を探しに。でも君は見つからなかった」

というものでドキリとした。原文はこれだ。

Pour toi, mon amour

Je suis allé au marché aux oiseaux
Et j'ai acheté des oiseaux
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché aux fleurs
Et j'ai acheté des fleurs
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché à la ferraille
Et j'ai acheté des chaînes
De lourdes chaînes
Pour toi
Mon amour

Et je suis allé au marché aux esclaves
Et je t'ai cherchée
Mais je ne t'ai pas trouvée
Mon amour

(Jacques Prévert, Paroles, Éditions Gallimard, 1949, p. 41から引用)

トランティニャンがこれを朗読したのかどうかは知らないが。

 話を戻すが、上述のようにフランスは中央権威主義的な言語政策をとっていることで有名で、国内の土着の少数言語の保護に余り熱心ではなく、例のヨーロッパ言語憲章にも批准はおろか署名さえしていない。アカデミー・フランセーズはすでに1635年に創立されているから、フランスの中央集権的な言語政策は長い伝統があるのだ。一方だからといって積極的に少数言語の撲滅を図ったりしているわけではないから、土着の民族に英語を押し付け、うっかり自分たちの言葉を話した者の口に石鹸を押し込んだり(オーストラリア政府はアボリジニに対してこれをやった)、その土地の言葉をしゃべった生徒の首に方言札をかけて晒し者にしたり(日本人が沖縄の人に対してやった)、民族の言葉を口にしたらスパイと見なしてシベリアに送ったり(スターリンがボルガ・ドイツ人をそう言って威した。『44.母語の重み』参照)した国なんかとは同列に論じることはできない。
 もっともソ連にしても、スターリンの言動とは別に表向きの言語政策そのものは少数民族の言語にむしろ寛容だったと聞いている。特にソ連邦の初期、1920年代には、国歌にもあるようにДружба народов(ドゥルージバ・ナローダフ、「民族間の友情」)を旗印に(だけは)していたから、ロマニ語さえ保護の対象になっていたようだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』参照)。フランスと同様、その中央主義的な言語政策の目的は国家言語を「押し付ける」ことではなくあくまで「普及させる」ことにあったようだ。土着の言語の撲滅ではなく、バイリンガルを目的としていたのだろう。

 外国人の語学学習者からすると、この中央主義的あるいは権威主義的な言語政策はむしろありがたい面もあるのだ。規範ががっちり決まっているからである。そういえば私がこちらでロシア語を学んだ時は教師から教科書からまだソビエト連邦の残滓が完全に残っていたが、まず文法だろなんだろに入る前に発音練習をさせられた。特にアクセントのない o を[ʌ]または[ə]で発音するように(『6.他人の血』『33.サインはV』参照)徹底的に仕込まれた。これはモスクワの発音である。これに対してドイツ語は地方分散性が強いから、学習者が舌先の[r]を口蓋垂の[ʀ]に矯正させられたりはしない。方言にも寛容で、TVのインタビューなどでも堂々と丸出し言葉をしゃべっているドイツ人を見かける。時とするとその、ドイツ人がしゃべっているドイツ語に標準ドイツ語の字幕がつく。実は私の住んでいる町で一度全国放送のドキュメンタリー番組が撮られたことがあるのだが、番組に登場する地元の人たちの発話にはすべて字幕がつけられていた。うちは皆ヨソ者なのでまあ標準ドイツ語話者だが、一瞬「げっ、これは恥かしい」と思ってしまった。しかし自分の話す言葉に標準語の字幕をつけられると恥かしい、という発想そのものが言語権威主義に染まっているいい証拠かもしれない、考えてみれば恥かしいことなど何もないのだとも思うが、ドイツ人の知り合いにこの話をしたらその人もやっぱり開口一番「うえー、それは恥ずかしい」と絶叫していたからまあ私だけが特に権威主義思想に侵されているわけでもないらしい。スイスのドイツ語だと字幕では間に合わず、吹き替えされることがある。フランス語などではこういうことはあまりないのではないだろうか。
 実はドイツ語にドイツ語の字幕をつけられるのは方言の話者ばかりではない。外国人が「字幕の刑」に処せられることもある。これもいつかTVで見た光景だが、さるアジア人の男性がインタビューに答えてドイツ語で受け答えしていたが、その発音があまりに悲惨だったためか、局のほうで「これはドイツ語としては通じまい」と判断されたらしく、字幕を出されていた。男性本人はドイツ語のつもりでしゃべっていたのだろうが、その得意げな(失礼)表情と字幕という現実との間の差に、見ているこちらのほうがいたたまれなくなった。局側としては、向こうが気持ちよく話しているのをやめさせては気の毒だから、それがドイツ人に通じるように手助けしたつもりなのだろうが、外国人・非母語者に対しては何か他にやりようがあるのではないだろうか。ネイティブ・スピーカーが字幕をつけられたのは見ても笑っていられるが、外国人が対象だと全然笑えない。


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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 インドの遥か東、というよりミャンマーのすぐ南にあるアンダマン・ニコバル諸島は第二次世界大戦中に2年間ほど日本領だったところである。特に占領期の後半に地元の住民をイギリスのスパイ嫌疑で拘束拷問し、しばしば死に至らせたり、食料調達と称して住民から一切合財強奪して餓死させたりした罪に問われてシンガポール裁判で何人も刑を受けた。私がちょっと見てみたのはインドで発行された報告だが、しっかり日本兵向けのComfort Homeについての記述もあった。日本軍はやってきたとき支配目的でさっそく地元の住民の人口調査なども行なっているが、問題はこの「地元の住民」、インド側でいうlocal poepleというのがどういう人たちかである。
 ニコバル諸島はちょっと置いておいてここではアンダマン諸島に限って話をするが、ここは主要島として北アンダマン島、中アンダマン島、南アンダマン島の3島があり、これらから少し離れてさらに南に小アンダマン島がある。もちろんこのほかにバラバラと無数の離島が存在する。
Andaman_Islands
ウィキペディアから

ビルマ寄りの北・中・南アンダマン島は昔からビルマやインド、果てはイギリスなどから人々が移住してきた。インド各地から来た住民は出身地ごとにかたまってコミュニティーを造り、ビルマ人はビルマ人、イギリス人はイギリス人でコミュニティーを作ったが、これらコミュニティー間では争いもあまりなく、まあ平和に暮らしていたそうである。アンダマン島生まれのインド人など本国よりアンダマン人としてのアイデンティティーの方が強いそうだ。現在人口役20万人強。この多民族な住民が日本軍が来た時のlocal poepleだろうが、問題はアンダマン島にはオーストラリアやアメリカ、さらに日本の北海道のようにもともとそこに住んでいた原住民がいたということである。それらの人々はもちろん固有の言語を持っていた。アンダマン諸語である。そのアンダマン諸語はまず大きく分けて東アンダマン諸語と西アンダマン諸語に分けられるが、東アンダマングループに属する言語はもともと10あり、1800年時点では北・中・南アンダマン島全体にわたって話されていた。
Andamanese_comparative_distribution
これもウィキペディアから

 その後上述のように外からの移住があり、原住民もヒンディー語に言語転換したり、10あった部族間での婚姻が進み、現在残っているアンダマン語は2言語のみ、しかもその二言語も純粋な形では残っておらず、人々の話しているのは事実上元のアンダマン諸語の混交形で、「大アンダマン語」という一言語と言った方が適切だそうだ。Abbiというインドの言語学者はこれをPresent-day Great Andamanese、現代大アンダマン語と呼んでいる。しかもその話者というのが2013年時点で56人(!!)。アンダマン島本島ではなく、その周りの小さな小さな離島の一つStrait Islandというところにコミュニティを作って暮らしている。
 イギリス人は19世紀からこのアンダマン諸語の研究を開始しており、結構文献や研究書なども出てはいる。現在もインドの学者が言語調査をし記録に残そうと必死の努力をしている。が、そもそもイギリス人やインド人など文明国の人が入ってきさえしなければ記録しようという努力そのものが無用だったろう。アンダマン諸語は孤立した島でそのまま話され続けていたはずだからである。自分たちが侵入してきたおかげで消えそうになっている言語を今度は必死に記録して残そうとする、ある意味ではマッチポンプである。しかし一方では外から人が来なかったせいで記録されることもなく自然消滅してしまった言語や、逆に人間の移住により新たに生じた言語だってある。後から来たほうが常に一方的に悪いとも言い切れまい。まさに歴史の悲劇としかいいようがない。

 その壊滅状態の東アンダマン諸語と比べて西アンダマングループはまだ100人単位の話者が存在する。西グループを別名アンガン(またはオンガン)グループといい、さらに二つの下位グループに分類される。中央アンガンと南アンガングループで、前者にはジャラワ語、後者にはオンゲ語とセンティネル語が属す。ジャラワ語は元々南アンダマン島で話されていたが、現在では中および南アンダマン島西部がその地域である。話者はタップリいて(?)300人。オンゲ語は小アンダマン語で100人によって使われている。センティネル語は南アンダマン島の西方にあるやはり離島のセンティネル島で話されている。話者数は全くの未知である。というのは、ここの島の住民は外から人が来ると無差別に攻撃し、時として死に至らせるので言語調査ができないからである。それで現代大アンダマン語、ジャラワ語、オンゲ語には文法書があるがセンティネル語文法はまだない。

 上述のように日本軍は侵略して来たときアンダマン島で「国勢調査」をしているが、そこで1945年7月現在の南アンダマン島の人口は17349人、そのうち女性5638人、男性が11713となっている。男性が女性の倍もいるのは多分当時そこにインド解放軍というか英国からの独立を目指す兵士らがたくさんいたからだろうが、そこにさらに注がついていて、この統計は「受刑者とaboriginal race(Jarawa)は除く」となっている。受刑者が多いのはアンダマン島がイギリスに対するオーストラリアのごとく流刑地として使われていたからであるが、ジャラワが人口勘定に入れてもらえていないのは、人間扱いされていなかったというより、ジャラワ人がいったい何人くらいいるのかわからなかったからだと思う。センティネル人ほどではないにしろ、ジャラワ人もいまだに外部との接触を嫌っているそうだ。日本軍が来る前のインド政府というかイギリス政府というか、とにかく現地の政府にも統計が取れていなかったのではないだろうか。
 大アンダマン語を壊滅させてしまった反省からか、下手に「文明」を教示しようとしてアボリジニやネイティブ・アメリカンの文化を破壊しアイデンティティを奪って精神的にも民族を壊滅させ2級市民に転落させたオーストラリアやアメリカ、ついでにアイヌを崩壊させた日本の例を見ていたためか、インド政府は生き残ったアンダマン民族をできるだけそっとしておき、同化政策などは取らない方針をとっているそうだ。それでも島にはインド人などが住んでいるのだから時々ニアミスが起こるらしい。最近新聞でちょっと読んだ話では、ジャラワ族の女性が外部の者に強姦される事件が何件かあったそうだ。その場合は犯人はこちら、というかインド側の者なのだから捕まえて罰すればいい。だが逆にジャラワ族が、強姦された結果生まれた子供の皮膚の色が白かったというので子供を殺す儀式を行なっていたことが報告されたりしている事件もある。これは立派な殺人行為だ。放って置かれているとはいえそこはインド領である。こういう殺人行為を見て見ぬ振りをしていていいのか、という問題提起もあり、いろいろ難しいらしい。

 さて、その「現代大アンダマン語」であるが、そり舌音があり、帯気と無気に弁別機能があるあたり、孤立言語とはいえヒンディー語始めインドの言語と何気なく共通項がある。もちろん文法構造は全く違い、能格言語だそうだ。以下は上述のAbbi氏が挙げている例。絶というのが絶対格、能が能格である。

billi-bi bith-om
ship- + sink-非過去
The ship is sinking.


thire-bi bas khuttral beno-k-o
child- + bus + inside + sleep-遠過去
The child slept in the bus.


a-∫yam-e bas kuttar-al kona-bi it-beliŋo.
CL1-Shayam- + bus + indide-処 + tendu(果物の名前)- + 3目的語-cut-遠過去
Shyam cut the tendu fruit in the bus.

thire-bi ŋol-om
child-絶 + cry-非過去
The child cries.

つまり-e というのが能格マーカー、-biが絶対格マーカーである。 これが基本だが動作主が代名詞だったり複数だったりすると能格マーカーがつかないこともある。上の4番目の例と比べてみてほしい。

thire-nu-ø ŋol-om
child-複 + cry-非過去
The children cry.

絶対格マーカーも時として現れないことがあるそうだ。またどういうわけか他動詞の主語と目的語の双方が絶対格になっている例もAbbiは報告し、正直に理由はわからないと述べている。
 能格言語であるという事自体ですでにアンダマン語は十分面白いのだが、その能格性をさえ背景に押しやってしまうくらいさらに面白い現象がこの言語にはある。上の3番目の例のCL1という記号がそれだ。これはa-という形態素(Abbi はこれらはcliticである、としている)がClass 1を表すマーカーであるという意味だが、アンダマン語では名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもマーカーがついてそれらの単語の意味がどのクラスに属するかはっきりとさせ、微妙なニュアンスの差を表現するのだ。その「クラス」は7つあるのだが、それらは何を基準にしてクラス分けされているのか? 当該観念あるいは事象のinalienability(譲渡不可能性、移動不可能性)の度合いと種類を基準にしてクラス分けしているのだ。クラス1、クラス2、クラス3、クラス4、クラス5、クラス6、クラス7のマーカーはそれぞれa-, εr-, oŋ-, ut-, e-, ara-, o-(あるいはɔ-)だが、これらは元々人体の一部を示すものであったらしい。a- は口およびそこから拡張された意味、εr-は主だった外部の人体部分、 oŋ-は指先やつま先など最も先端にある人体部分, ut-は人体から作り出されたものあるいは全体と部分という関係を表し, e-は内臓器官、ara-が生殖器や丸い人体器官 、o-が足や足と関連する器官である。

 え、何を言っているのかさっぱりわからない?私もだ。文法執筆者のAbbi氏はそりゃ大アンダマン語が出来るからいいが、氏がひとりで面白がっているのを見て私だって「ちょっと待ってくれ、何なんだよそのinalienabilityってのは?!」とヒステリーを起こしてしまった。

 大雑把に言うと大アンダマン人は言語で表現されている事象が自分と、あるいは「AのB」という所有表現などの場合BがAとどれくらい分離しがたいかを常に言語化するのである。これがinalienabilityである。何まだわからない?では例を示そう。「血」は大アンダマン語でteiだが、この単語が裸でつかわれることはほとんどなくクラスマーカーが付加されるのが普通だが、その際どの「不可分性クラス」に分けられるかによって名詞の意味が変わってくる。

e-tei   (CL5-血)   体の内部の血
ot-tei  (CL4-血)   体の外の血(出血した場合)
oŋ-tei (CL3-血)   指の血または指から出血した血
εr-tei  (CL2-血)   頭から出血した血

名詞ばかりでなく、動詞もクラスわけされる。

ut-∫ile  (CL4-狙う)→  上から狙う
e-∫ile   (CL5-狙う)→  突き通そうと狙う

ara-pho (CL6-切る)→  切り落とす、(木を)切り倒す
εr-pho   (CL2-切る)→ (前方から)棒で叩く 
ut-pho     (CL4-切る)  → (ココナツなどを)上から切り落とす、叩き落す

同じセンテンス内の文要素がそれぞれ別のクラスに分けられることもある。

a-kɔbo εr-tɔlɔbɔŋ (be)
CL1-Kobo + CL2-背が高い + コピュラ
コボ(人の名)は背が高い


a-loka er-biŋoi be ara-kata
CL1-Loka + CL2-太っている + コピュラ + CL6-背が低い
ロカ(人の名)は太っていて(太っているが)背が低い。


「デブ」と「チビ」では不可分性のクラスが違っているのが面白い。

副詞もこの調子でクラス分けされるが、その際微妙にダイクシス関係などが変わってくるそうだ。
 これらの例を見てもわかるようにこのクラス分け形態素は確かに元々は体の部分と意味がつながっていたものが、やがて文法化されて本来の身体的意味はほとんど感じ取れなくなって来ているということである。Abbiはその辺を親切にわかりやすい表にして説明してくれている(「関係する身体部分」の項は上述)。

クラス1 マーカー:a-, ta-
          本来関連する身体部分: 口およびそこから意味的に派生するもの
           動詞につくと: 口と関連する行動、起源、人間の名前
           形容詞につくと: 口と関連する人物の属性
           副詞につくと: 前または後というダイクシス関係、
              ある行為・作用が時間的に前であること

クラス2   マーカー:εr-, tεr-,
           本来関連する身体部分: 主だった外部の身体部分
           動詞につくと: 体の前面部が関わってくる行動
           形容詞につくと: 大きさについての表現、外側の美しさ
           副詞につくと: 隣接または前というダイクシス関係、
             制御不可の行動・感情

クラス3 マーカー:oŋ-, toŋ-
           本来関連する身体部分: 指先やつま先など最も先端にある部分
           動詞につくと: 手と関連する行動、体の先端に関する行動
           形容詞につくと: 手足に関連する属性
           副詞につくと: 急いでいること、急いで行なった活動

クラス4 マーカー:ut-, tut-,
           本来関連する身体部分: 人体から作り出されたものや部分対全体の関係
           動詞につくと: 方向的に自分から離れていくこと、経験されたこと
           形容詞につくと: その一部が切り取られた、短縮されたという属性
           副詞につくと: 何かから現われ出ること、そのものに向かうという
                                             ダイクシス関係

クラス5 マーカー: e-, te-
           本来関連する身体部分: 内部器官
           動詞につくと: 「吸収」の意味合い、行動の影響が対象に及んでいたり、
                                             それが経験されたものであった場合、「内在化」の意味合い
           形容詞につくと: 本来備わっている属性
           副詞につくと: 真ん中、内部というダイクシス関係、
                                           「ゆっくり」という意味合い

クラス6 マーカー:ar-, ara-, tara-
           本来関連する身体部分: 生殖器、丸い形をした中央の人体部分
           動詞につくと: 体の中央または横の部分と関連した行動
           形容詞につくと: 大きさに関する属性、腹に関連すること
         副詞につくと: そのものに触れていたり周辺部であったりという
                                             ダイクシス関係

クラス7  マーカー: o- ~ɔ-, to-,
           本来関連する身体部分: 足とそれに関連する部分
           動詞につくと: はっきりした結果の出た行動
            (丸い対象物の場合は結果が明確でなくとも可)
           形容詞につくと: 手触り、形など外部の属性
           副詞につくと:「日の出」に関連する時間的なダイクシス、 
                                             縦方向のダイクシス

 言語環境によっては別にこれらの意味を付加するわけでもないのにとにかくクラスマーカーをつけること、例えばこういう文法構造の文では形容詞、あるいは動詞をしかじかのクラスでマークしなければいけないという規則になっている場合もあるそうだ。つまりこのクラス分けというのは一部文法化しているのである。
 大アンダマン語の西方で話されているセンティネル語はまだ調査記述が全く出来ていないそうだが(上述)、この言語もこんなに難しいものなのだろうか。私など矢を射掛けられるまでもなく、言語を見せられただけで心臓麻痺を起こして即死しそうだ。
   
大アンダマン語インフォーマントと言語学者のAbbiさん(中央)
Abbi, Anvita.2013. A grammar of the Great Andamanese Languege. Leidenから。下の写真も。

Strait Island 2005

その他のストレイト島アンダマン語コミュニティのメンバー。何人か上の写真と同じ顔が見える。
Some members of the community


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 『111.方言か独立言語か』の項でも述べたように私は琉球語は独立言語だと思っている。古くはチェンバレンあたりがその立場だったと聞いたが、これは単純に氏が論文を英語で書いたからそう見えただけかもしれない。ドイツ語でも英語でも言語名称には形容詞を使うので○○語と○○方言とが表現上区別されないことがあるからだ。例えばザクセン方言はSächsischドイツ語はDeutschでどちらも形容詞が語源。形の上では同じである。
 しかしだからと言って琉球語を日本の方言とみなす立場の方が論拠で勝っているかというとそうではない、負けそうなのはむしろ方言組のほうだろう。「研究が進むにつれて琉球語と日本語間の音韻対応が印欧語レベルではっきりと確認され、日本語と同系であることがわかってきたので方言とみなすようになった」と説明してあるのを見かけた。まさかこれを真面目に方言説の根拠にしている人がいるとは思えないが、言語Aと言語Bが同源だからといって方言とみなしていいのなら「ドイツ語はヒンディー語の方言」という見方だって成り立つはずだ。

 琉球語は3母音体系であること、動詞・形容詞の活用・曲用が現在の日本語と著しく違うこと(連体形と終止形では形が異なる)、いわゆる古代のP音を未だに残していることなど構造そのものが十分日本語と離れている上、12世紀までにすでに独立言語として独自の発展をとげていたのをさらに1429年首里王国が統一して「標準語」まで持っていた。島津がドカドカ侵略して来た1609年以降も言語的統一性は崩れず、明治政府が1878年の琉球処分で日本に併合するまでの450年間、れっきとした一つの言語社会であったことなど考えても立派な独立言語である。明治政府が方言扱いして日本語を押し付ける言語政策をとったため、琉球語は衰退の道を辿った。『54.言語学者とヒューマニズム』でも述べたが、愚かな全体主義政府は言語学者の天敵である。ユネスコが2009年に発表した消滅の危機にある言語の調査では、八重山語、与那国語を「深刻な消滅の危険」、沖縄語、宮古語、奄美語、八丈語などを「危険」にある独立言語として分類しているそうだ。
 少し古い資料だが、加治工真市氏の『首里方言入門』(これはもちろん日本語首里方言という意味ではなく琉球語首里方言ということである)、野原三義氏の『琉球語初級会話』という論文をのぞいてみると、琉球標準語というのはだいたい以下のような言語である。下に日本語訳をつける。

ディッカ マヂュン ユマ
「さあ、いっしょに読もう」

あレー ユドーシガ やー ヤユマニ
「彼は読んでいるが、君は読まないか。」
*このヤユマニという動詞形は暗に「読んだほうがいいよ」という薦めの意味がある。また「あ」と「や」だけ平仮名で書き分けてあるのはこれが声門閉鎖を伴うからである。下記参照。

初級会話
ヤーヤ ンジ チイ
「お前は行ってきたか?」
マーカイヨー
「どこへだ?」
チヌー タヌデータシェー
「昨日頼んであったよ。」
ヌー ヤタガヤー
「何だったっけ」
トゥナインカイ ウリ ムッチ イキヨーンディ イチェータノー アラニ
「隣にそれ持って行けよと言ってあったじゃないか。」
ンチャ アン ヤタサヤー
「ああ、そうだったなあ」

 私はこの世界で日本語のたった一人の「親戚」である琉球語に絶対消滅してほしくない。是が非でも存続してさらに発展していってほしい。琉球語を保持していくにはどうしたらいいのか考えた。もちろんこれらはあくまで言語のことだけを考慮したもので、日本人の都合なんかはどうでもいいことはもちろんだが(とか言っている私も一応純粋なヤマト民族である)、現地の人の意向さえ無視した私個人の超勝手なシミュレーションである。いつものことながら無責任で申し訳ない。

 まず、言語存続のためには、日本とくっついているのが一番よくない。最大の理由は琉球語と日本語が下手に似ている、ということである。隣に同系の強力言語があると当該言語がそれに吸収されてしまう危険が常にあるからだ。だからたとえばカタロニア語のほうがバスク語よりカスティーリャ語に抵抗するために要するエネルギーは大きい。また少数言語側ばかりでなく、多数言語の側にも相当な努力がいる。スペイン語側もうっかりカタロニア語を方言扱いなどしてしまわないよう、常にリスペクトを持ち、気をひきしめていないといけない。少数言語についての感覚が超鈍感な日本政府なんかにそういう微妙な言語政策ができるとは思えない。万が一政府にその意志があっても一般の日本人からまた「なんで沖縄語ダケー。つくば市の方言も独立言語として認めろヨー」とかいう類のトンチンカンなイチャモンがついたりするのではないかという懸念がなくならない。
 ではといって沖縄をデンマークのフェロー諸島のように言語的差異に注目して「自治領」として認める、つまり金は出すが口は出さないことにする、などという技量が日本人にあるだろうか。
 言語を衰退させないために必要な措置とは何か。まず、当該言語が公用語として機能することだ。具体的に言うと学校で当該言語による授業が行われ、法廷でもその言語で裁判をする、ということである。書き言葉の存在も必須である。さらにその言語で文化活動が行われればなおいい。つまり少なくとも中学まで、できれば大学の授業も首里語で行い、米兵が当地で暴行すれば裁判は首里語で行う。義務教育の「国語」の時間にはもちろん源氏物語などでなくおもろそうしなど、つまり沖縄文学を習う。俳句・短歌などという外国文学などやらなくてもよろしい。琉歌をやったらいい。
 こんなことを方言札(『106.字幕の刑』参照)などという前科のある日本政府が「国内で」許すだろうか。日本領なんかに留まっていたら琉球語の未来は暗いといっていい。

 だから言語の面だけで見れば琉球が日本から独立するのが一番いいのである。が、そうなると通貨や経済問題など難しい部分もでてくる。それが理由でもあろう、現地の声は独立反対が多数派だと聞いた。また、これはヨーロッパでもコソボやマルタで見かける現象だが、小さな地域が独立した場合、やや排他的な氏族社会が政治レベルにまで影響してきてしまうことがある。
 そこで、独立を最良の選択肢としながらも、どこか日本以外の国の領土にしてもらうことが出来ないかどうか見てみると可能性は3つある。

 まず「中国領」で通貨は元。実はこっちの方が日本領よりまだマシなのだ。中国の言語政策が中央集権的なのは日本と同じだが、中国語、つまりマンダリンは琉球語と全く異質の言語だからである。吸収されてしまう危険が日本語より少ない。上で述べたスペイン語に似たカタロニア語の話者が700万人もいるのに今では全員スペイン語とのバイリンガルになってしまっているのに対し、数十万しかいないバスク語には主に老人層とはいえ、いまでもバスク語モノリンガルがいるのがいい例だ。
 ただ、中国政府の少数民族に対する扱いをみているとかなり不安が残る。日本での様に吸収の憂き目は見ないだろうが、そのかわりマンダリンに言語転換してしまう危険があるのではないだろうか。

 次の可能性は、私自身「いくらなんでもそれは…」と思うのだが、アメリカ領である。通貨はドル。中国の場合と同じく、英語という系統の違う言語が共通語なので吸収されてしまう心配は少ない。さらにアメリカは日本よりは少数言語や移民の言語に敏感だし、強力な中央政府支配形式でもないから、中国よりプラス点が多い。問題は、英語という言語が強力過ぎるということだ。たとえ政府に少数言語を保護しようとする意思があっても世界最強言語に琉球語が対抗していくのは難しいだろう。言語転換してしまうのではないだろうか。
 ただ、琉球をきちんと州に昇格させてもらえば独自にある程度有効な言語政策が取れる。基地問題にしても現在のように日本政府を通すから埒が明かないのであって、米国の一員、しかも州として中央政府にノーを突きつければ、今度は米国の法律が琉球市民を守ってくれるだろう。といいが。とにかく日本政府を通すより早いのではないだろうか。
 しかし一方あの過去の歴史の深い溝が簡単に埋まるとは思えない。確かに言語的に見れば日本領や中国領よりメリットがあるが、そのメリットが歴史の溝が埋められるほどのメリットかというと強い疑問が残る。

 そこで第3の可能性を考える。台湾領である。ここはまず第一の条件、つまり公用語が琉球語と十分離れているという条件をクリアしている。さらに国内に少数民族を抱えている点では中国と同じだが、こちらは1990年以降はっきりと少数言語の保護政策を打ち出しており、マレー系言語による学校の授業が行なえるようになっている。また台湾社会は同性婚承認に向けて動き出すなど、むしろ日本より国際社会に対して開かれている。言語政策の点でも日・米・中よりプラス点があるのだ。
 なので私は所属するなら台湾が一番いいと思うのだが、最大の懸念は、琉球が台湾領になると中国が怒り狂うのではないか、ということだ。角が立ちすぎるのである。

 そこでどこにも角の立たない選択肢はないかと探してみたら、あった。言語的にも言語政策的にも最もオススメだが、実現の可能性は残念ながら限りなくゼロに近い選択肢(それで上で述べた「3つの可能性」のうちには入っていない)としてEU領というのはいかがだろうか。
 EUは結構世界中に飛び地を持っている。まずアフリカのマダガスカルとタンザニアの半自治領ザンジバルの間にあるマヨットMayotteという島が、住人の希望によりフランス領、つまりEU領である。南米にある仏領ギアナもやはりフランス・EU領。カリブ海にもサン・マルタンSaint Martinというフランス領の島があり、先日台風に襲われた直後マクロン大統領がお見舞いに来た。これらは通貨もユーロだ。サン・マルタン島の南半分はオランダ領でスィント・マールテンSint Maartenといい、やはり台風の後アレクサンダー国王のお見舞いを受けた。その他にも結構点々とEU領は世界に広がっている。だから琉球もEU領になってしまえばいい、そうすれば私は琉球の人といっしょにEU市民だ。想像するとウキウキしてくる。
 が、残念ながら大きな壁がある。EU直轄領というものが存在しないので畢竟どこかの国に所属するしかない。この国の選択が結構難しいのである。ます、はじめに述べた、フェロー諸島やグリーンランドに自治権を与えているデンマーク。言語政策などの社会そのものはいいとしてもデンマークはユーロを使っていない。だから通貨はクローネということになるだろう。これはちょっと弱かろう。飛び地をいろいろ持っているフランスはユーロが通貨だが、この国は言語政策が中央集権的でいまだにヨーロッパ言語憲章を批准していない点に不安が残る。飛び地の経験もあり、言語憲章の批准もしているオランダは本国はユーロだが飛び地ではまだグルデンを通貨としている。そもそも琉球がオランダ領となる政治的・歴史的根拠がない。もっともそれを言うならEUのどの国にも根拠がないわけで、私としては非常に心残りなのだが、EU領はやはり無理だろう。

 やはり独立しかない。通貨はしばらくの間は円を使わせてもらえるといいが、日本人はダメと言い出しそうだから、アメリカ・台湾・中国と交渉してそのどれかの通貨を使わせてもらうことにすればいいのではないだろうか。

 さてそうやって目出度く日本からオサラバしたら、まず第一に標準琉球語(多分首里語)をきちんと制定してほしい。文字は日本語の片仮名・平仮名を使えばいい。その際日本語にはない弁別性があるから、少し改良して補助記号をマルや点々のほかに考案すればいい。たとえば声門閉鎖のあるなし、有気対無気喉頭でもやはり得弁別的対立があるそうだ。前者は[?ja:]「お前」対[ja:]「家」、後者は[phuni]「骨」対[p?uni]「船」がその例である。これを区別して表記しないといけないが、そんなに難しいことでもないだろう。日本にも国の都合なんかより言語の都合を優先させる非国民な学者がゴマンといるから喜んで協力してくれるだろうし、そもそも琉球側にすでに優秀な言語学者が大勢いるから、この点については全く問題は起こるまい。
 最後に言わずもがなだが、琉球の領土を「首里王国の領土」と規定した場合、奄美大島や喜界島まで入る。だから筋からいえば日本はこれらの島を琉球に返還すべきなのではないだろうか。日本がロシアから北方領土を返還してもらうことには異論がないが、自分たちもきちんと南方領土を返還することだ。

 琉球には世界でも貴重な琉球語を守り、偏狭な氏族社会に陥らず、領土は小さくても日本、アメリカ、中国、韓国、台湾間の力のバランスをとって互角にやりあっていける国際的な貿易国家になってもらいたい。ドイツから観光客がジャンジャン行くように私もこちらで宣伝させていただくから。

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 米国ペンシルベニアでドイツ語が話されていることは知られているが、私が今までちょっと見かけた限りではこのペンシルベニア・ドイツ語は英語学あるいはアメリカ学の守備範囲のようで、これを研究しているドイツ語学者というのはあまり見たことがない。ペンシルベニア・ドイツ語はまたペンシルベニア・ダッチ、略してペン・ダッチとも呼ぶが、これをオランダ語とカン違いしている人がいた。Dutchという語はドイツ語という意味のドイツ語Deutschと同じで、昔はオランダもドイツも意味していたのである。むしろ私は英語でオランダ語のことをDutchということの方がそもそもおかしいと思うのだが。彼らにはオランダとドイツの区別もつかなかったのか? ついでにこのDutchあるいはDeutschは、ペン・ダッチではDeitschとなる。

 このペン・ダッチの話者はヨーロッパ人が新大陸に移住を始めたそもそもの最初からアメリカに住んでいた人たちである。例えばベンジャミン・フランクリンも1751年にペンシルベニアにはドイツ人が英国系の人たちとは異質の社会を形作っていると報告している。フィラデルフィア周辺もドイツ語圏だったらしい。当時の首都である。英語話者の側ではこのドイツ人たちは自分たち英語話者らの側について英国にちゃんと反旗を翻してくれるのかそれともヨーロッパの旧勢力側につくのか、今ひとつ疑惑の目で見る向きもあったようだ。
 18世紀の中葉のペンシルベニア南部の人口、20万人から30万人のうちドイツ系は6万人から10万人だったというから相当な割合だ。別の資料では1710年から1775年の間にドイツから新大陸に移住してきた人は約81000人。さらに別の資料によると南北戦争直後のドイツ語話者は60万人いたそうだ。いわゆる「アメリカ文化」とされるものの結構な部分は英国起源でなくドイツの文化だそうだ。

 現在ではペン・ダッチは専らアーミッシュやメノナイト派などの宗教コミュニティで使われており、コミュニティのある地域はペンシルベニアばかりでなく米国の30州以上に及んでいる。カナダにもペン・ダッチのコミュニティがある。資料によってズレがあるが、使用人口は30万人強。私の記憶では昔ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック:目撃者』という映画でケリー・マクギリス演ずるアーミッシュの女性がペン・ダッチらしき言葉をもらしていた。確かHochmut(「高慢」)とか何とかいう単語だったと思うが、これはペン・ダッチでなく標準ドイツ語だ(下記参照)。『目撃者』でもアーミッシュの社会の特殊性あるいは閉鎖性が描かれていたが、実はこの閉ざされた世界ゆえにペン・ダッチは今日にいたるまで生き残ったのである。
 ペン・ダッチが独自言語としての道を歩み始めたのは1750年から1775年にかけてだが、当時の話者は決して特定宗派に限られてはいなかった。どの宗派も、そして世俗的な人たちも皆このドイツ語を話していたのだ。上で述べたドイツからの初期の移住者81000人のうち、宗派関係者は3200人に過ぎなかった。その過半数がアーミッシュとメノナイト派だった。しかし宗派以外の人たちは時間が経過するに連れて元住んでいた農村から都会に出て行ったり、他宗教の人との婚姻が進み、大多数が英語に言語転換してしまった。現在のアーミッシュもバイリンガルで、ペン・ダッチは内輪で使うだけ。それでも子供たちにはペン・ダッチを伝え続けているため第一言語はペン・ダッチだそうだ。

 さてこのペン・ダッチについて私が個人的に面白い、というかおぞましいと思うのは、このペン・ダッチの核となったドイツ語地域、ドイツからアメリカへ最初に移住していった人々の故郷がよりによってモロ私の住んでいる地域だということである。うちはよそ者なので家庭内言語は当然標準ドイツ語だが、家の中で時々ここの方言のまねをして遊んだりおちょくったりすることがある(ごめんなさいね)。町の人たちも外で知らない人としゃべったりする時は、明らかにナマってはいるとはいえまあ標準ドイツ語を使うが、内輪でガチに会話を始めると凄いことになる。凄すぎてドイツのTV局に字幕をつけられたことは以前にも書いた通りだ(『106.字幕の刑』)。これがアメリカで話されている、と聞いて私は一瞬「げっ、ここで聞いているだけで十分恥かしいのにアメリカにまでいって恥を曝さないでくれ」と思ってしまった。ヨソ者の分際で申し訳ない。

 ペン・ダッチにはここラインラント・プファルツ方言の他にも上ラインやスイス、シュヴァーベンや一部ヘッセン州の方言なども混じっているそうだが、うちの周りの方言が中心となっていることには変わりがない。さらにおぞましいことにアメリカ発行の資料にペン・ダッチの起源について次のような記述がある。

... PG (= Pennsylvania German) is most similar to Palatine German. Later work  …  narrowed the dialectal origins even further to the (south)eastern Palatinate (Vorderpfalz in German), especially to dialects spoken in and around the city of Ma**h**m.
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 81から

なんと住んでいる町が名指しされていたのである。これを読んだときの気持ちをどう表現したものか。ネットで自分の名前が曝されているのを見て勘弁してくれと思う、あの感覚だ。とにかくまあこの町で一日乗車券でも買ってのんびり市電に乗り、ずっと乗客の会話を聞いていてみるといい。気分はもうペンシルベニアである。

うちの周りばかりでなく、一部スイスやヘッセンの方言もペン・ダッチには混ざっているが、中心となるのはよりによってモロ私の住んでいる町である。やめてほしい感爆発だ。
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 24からpenn_deutsch_bearbeitet

 だが、その「やめてくれよ感」を抱いたのは私だけではないと見える。プファルツからアメリカへ行った最初のドイツ人は大抵農家だったが、それよりやや遅れてやはりドイツからアメリカへ渡った第二波は北ドイツや都市部の人で標準ドイツ語の話者だったが、それらの同胞からもこのペン・ダッチの使い手は「まともなドイツ語をしゃべれ」と揶揄されたそうだ。彼らの方でも自分たちをDeitsche(「ドイツ人」、上記参照)、後続のドイツ人たちをDeitschlennerといって区別した。Deitschlennerは標準ドイツ語でDeutschländer(「ドイツの国の人」)である。ただ、Deitschlennerたちがペン・ダッチを蔑んで呼ぶ「田舎者のドイツ語と英語のまぜこぜ」という言い方は正しくないそうだ。ペン・ダッチは言われるほど英語に侵食されていない。英語からの借用語は10%から15%に過ぎないという。語形変化のパラダイムも保持されている。

 そのペン・ダッチを話すDeitscheも、書き言葉としては大抵標準ドイツ語を使っていたという。一種のダイグロシア状態だったわけである。今日でもアーミッシュの聖書は標準ドイツ語で書いてあるそうだ。
 一方「大抵」というのはつまり例外も少なくないということで、ペン・ダッチで書かれたテキストは結構ある。18世紀に一定のまとまりのある言語として確立した後、19世紀初頭からこの言語は発展期を迎えた。宗派の人も世俗の人もペンシルベニアから全米に広がっていったのはこの時期である。標準ドイツ語からの借用も行なわれた。ペン・ダッチによる文学活動もさかんになった。また、非ペン・ダッチ話者、事実上英語話者だがそれらのアウトサイダー側にもこの言語を研究する人が現れた。ペン・ダッチは独立言語としての歩みを始めたのである。上のおちょくり発言と矛盾するようだが、私はこれには賛成である。せっかくアメリカに行ってまで標準ドイツ語に義理立てする必要などない、独立言語として文章語を確立し、アフリカーンスより新しい一つのゲルマン語が誕生すればそれは素晴らしいことではないだろうか。

 しかし残念ながらそう簡単には行かなかったようだ。19世紀の発展期はまた、宗派と世俗の人たちがはっきりわかれ、両者のコンタクトが薄れていった時期でもあるが、そういう状態になっていたところに20世紀を迎えたが、これが転換期となった。20世紀の初頭に産業化の波が押し寄せたからである。
 仕事を求めて生まれ故郷を出て行くのが普通になり、外部の社会との交流も重要性を増した。小さな社会で安定していることが出来なくなったのである。ここでペン・ダッチ話者の人口構成に大きな変化が起きた。19世紀を通じて宗派の人たちはペン・ダッチ話者のごく一部をなしているに過ぎなかった。1890年現在では北米全体のペン・ダッチ話者は約75万人と推定されるが、それに比べてオハイオ、インディアナ、ペンシルベニアのそれぞれ最大のアーミッシュコミュニティの人口の合計が3700人だったそうだ。しかし世俗社会でのペン・ダッチが、英語社会とのコンタクトが急速に強まったおかげでほぼ消滅してしまった。英語社会との接触を最小限に抑え、通婚も閉ざされた社会内で行い続けた宗派のペン・ダッチだけが生き残ったのである。こんにちでは事実上アーミッシュやメノナイト派コミュニティでのみペン・ダッチが使われていることは上でも書いた通りである。
 1920年から1930年にかけてがターニング・ポイントで、それ以降は世俗社会でのペン・ダッチ話者は次の世代にこの言語を伝えなくなってしまった。つまり彼らの子供たちは英語しか話せなくなってしまったのである。そうして1940年以降はペン・ダッチは世俗社会では会話言語として機能しなくなった。1920年代に生まれた人たちがペン・ダッチを普通に話せる最後の世代となったのである。
 もちろん、その消え行くペン・ダッチを復活させ、次代に伝えようという動きはある。すでに1930年代にペン・ダッチ復興運動が存在したそうだが、今でも言語学者がネイティブを探し出して記述したり、言葉は話せなくてもペンシルベニア・ドイツ人としてのアイデンティティを持った子孫達がいろいろな催しを開催したり、文化の保持に努めている。今でもペン・ダッチを話せるアーミッシュもいる。ペン・ダッチはそう簡単には滅ぶまい。滅ばないでほしい。

 さて、その「書かれたペン・ダッチ」をいくつか見てみたい。上述のBronner氏の本から取ったものだが、音読してみるとまさにうちの町で市電に乗っている気分になれる。M市に住んでいない人のために標準ドイツ語の訳をつけてみた。所々わからなかったので標準語ネイティブに聞いたが、向こうも長い間「ウーン」と唸ったりしていたから解釈し間違っているところがあるかもしれない。

Den Marrige hab ich so iwwer allerhand noch geconsidert un bin so an’s Nausheiere kumme, un do hab ich gedenkt und gedenkt un hab des eefeldich Dinge schiegar nimmi los waerre kenne. Un weil ich’s Volksblatt als lees, un sie als iwwer allerlei Sache gschriwwe, so hab ich gedenkt: du gehscht yuscht so gut emol draa un schreibscht e schtick fer’s volksblatt, grad wege dem aus der Gmeeschaft Nausheiere.

標準ドイツ語
Den Morgen habe ich so über allerhand nachgeconsidert (= nachgedacht) und bin so an das Hinausheiraten gekommen, und da habe ich gedacht und gedacht und habe das einfältige Ding schier gar nie mehr loswerden können. Und weil ich das Volksblatt als (immer, ständig?) lese, und als (immer, ständig?) sie (ihnen?) über allerlei Sache geschrieben (habe), so habe ich gedacht: du gehst just so gut einmal dran und schreibst ein Stück fürs Volksblatt, gerade wegen dem Aus-der-Gemeinschaft-Hinausheiraten.

Consider(イタリック部参照)などの英語の単語が借用され、ドイツ語風に動詞変化していることがわかる。また標準ドイツ語の書き言葉の影響も見られる。太字で示したund がそれで、ほかの部分ではこれがきちんと(?)ペン・ダッチ形のunになっているのにここだけ標準形である。Als という超基本単語の使い方に関してもちょっとわからんちんな部分があったので辞書を引いたら古語として意味が載っていた(下線部)。なお資料ではこれに英語訳がついている。イタリック部は原文どおり、下線は私が引いたものである。

This morning I was reflecting about a number of things, including marrying outside the faith. I was thinking and thinking and just could not get this simple thing out of my head. Since I read the Volksblatt regularly, and have written them [sic] about different topics, I thought: you should just go ahead and write a piece for the Volksblatt about marrying outside of the faith.

もうちょっと他の例を出すと(下が標準ドイツ語):

Konsht du Deitsch shwetza?
Könntest du Deutsch schwätzen (= sprechen)?
ドイツ語を話せるかい?

Dunnerwedder noach a-mole!
Donnerwetter noch einmal!
まったくもう!

Nix kooma rous.
Nichts kommt raus.
どうにもならないぞ

Du dummer aisel!
Du dummer Esel!
このうすのろ!

最後の例のaisel(アイゼル)という言葉が気にかかった。これは標準ドイツ語のEsel(「ロバ」、エーゼル)だろうが、普通音韻対応は逆になるはずなのだ。標準ドイツ語の「アイ」が私の町の辺りでは「エー」になるのである。例えばzwei(ツヴァイ、「2」)を私んちのまわりでは「ツヴェー」、eine(アイネ、「一つの」)を「エーネ」という。そして私の家ではこの発音を真似して遊んでいる。町の人の方でもそれが方言だと心得ているから、「エーと言ってはいけない、アイと発音しないといけない」という意識があって、勢い余ってエーでいいところまでアイと言ってしまったのではないだろうか。つまりある種の過剰修正である(『94.千代の富士とヴェスパシアヌス』参照)。私の単なる妄想かもしれないが。

 最後にすこし話がワープするが、『シェーン』の原作者ジャック・シェーファーJack Schaeferも苗字を見れば歴然としている通りドイツ系である。出生地もオハイオ州のクリーブランドだからドイツ人が多く住んでいたところだ。さらに生まれた年が1907年で、ペン・ダッチを話す最後の世代、1920年代生まれよりずっと前。この人はペン・ダッチが話せたのかもしれない。それとも標準語ドイツ人、Deitschlennerの方に属していて、早々に言語転換してしまった組なのだろうか。
 
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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 他の言語から取り入れた単語を借用語というが、その借用語という言葉自体明治時代の借用語ではないだろうか。多分ドイツ語Lehnwortか英語loan wordなんかからの翻訳だと思う。この語を見ると「借用ってことはいつか返すのか?」と理屈をこねたくなるが(あなただけです、そんな人は)、では避けて「外来語」と言った方がいいかというと、こちらはこちらでまた問題がある。何をもって外来語といったらいいのか考え出すとキリがなくなるからだ。今ではまるで日本語本来の言葉のような顔をしている馬、梅なんてのも元は中国語からの外来語だし、有史以前に原日本語が例えばマレー系の言語から借用した言葉(というものがあったとして)なんてそもそも見分けることさえ出来ない。純粋言語などというものが存在しないのだからつきつめて言えば単語は皆多かれ少なかれ皆外来語ということになり、あまり深追いすると言語の起源という言語学者にとってのNo-Go-Zoneに迷い込みかねないのである。

 だからあまり深くは考えないことにして、あくまで一般に言われている意味での借用Entlehnungであるが、これは取り入れ方の違いによっていくつかの種類に分けることができる。
 まず大きく1.借用造語Lehnprägungと2.借用語Lehnwörterに区別されるが、前者は意味の借用semantische Entlehnung、後者は語彙の借用lexikalische Entlehnungである。普通借用語だろ外来語だろと呼んでいるのは2のほう。日本語では片仮名で書くコンピューター(英語から)だろパン(ポルトガル語から)だろトーチカ(ロシア語から)だろという言葉がそれだが、欧州人が来る前に中国語から取り入れた大量の言葉、つまり漢語も本来借用である。ドイツ語にはラテン語・ギリシャ語起源の借用語が大変多い。漢語がなくては日本語でまともな言語生活をするのが不可能なのと同様、ドイツ語からラテン語・ギリシャ語を排除したら生活が成り立たなくなる。Fenster「窓」という基本単語も実はラテン語fenestraの借用だ。指示対象そのものが当該言語になかった場合、ものと同時にそれを指す言葉を取り入れるのは当然だが(上述のパン、ドイツ語のKaffee「コーヒー」など)、当該言語内にすでにそれを表す言葉があるのにさらに同じ意味の言葉を外から取り入れることもある。その場合指示対象は同じでもニュアンスに差が生じる。便所とトイレなどいい例だ。
 1のLehnprägungというのは外国語の語構成を当該言語の材料を使って模写すること。借用語と違って一応当該言語のことばのような顔をしているから外国語起源であると気づかれにくい。このLehnprägungはさらに細分できて、2-1.借用訳Lehnübersetzung、2-2.部分意訳Lehnübertragung、2-3.完全意訳Lehnschöpfung、2-4.借用語義Lehnbedeutungなどがある。分け方や用語などは学者によって微妙に異なるが、これらは大体次のように定義できる:
 2-1のLehnübersetzungはcalqueともいうが、外国語の語を形成している形態素を一対一対応で翻訳したものである。例えばラテン語のcompassioのcomとpassioという形態素をそれぞれドイツ語に訳してMit-leid→Mitleid(「同情」)、同じくラテン語のim-pressioのドイツ語借用訳がEin-druck(「印象」)。そのドイツ語がさらにロシア語に借用訳されたв-печатьが現代ロシア語の「印象」впечатлениеという単語のもとである。またフランス語のchemin de fer (road of iron)がドイツ語に借用訳されてEisen-bahn、それがまた日本語に借用訳されて「鉄道」となった。
 2-2のLehnübertragungは借用訳より少し意訳度が高いもので、例えばラテン語のpatria「祖国」は本来「父の」という形容詞から作られた女性名詞だがドイツ語では「父」の後ろに「国」Landという語を付加して(つまり意訳して)Vaterland「父の国→祖国」という語を作った。もっとも「ドイツ語では」というよりこの部分意訳は「ゲルマン語」の時代に行なわれたらしく、オランダ語など他のゲルマン語でも「祖国」は「父の国」である。さらにしつこく考えてみるとそもそものラテン語でもpatriaの後ろに「土地」を表す女性名詞、例えばterraかなんかがくっ付いていたのかもしれない。さらにドイツ語の「半島」Halbinselはラテン語のpaen-insula(「ほとんど島」)からの部分意訳である。日本語の「半島」はドイツ語からの借用訳でもあるのだろうか。
 2-3の Lehnschöpfungは部分意訳よりさらに自由度が高く、形の上ではもとの外国語の単語から離れている、いわば意訳による新語である。ドイツ語にはautomobilの意訳から生まれたKraftwagen(動力車→「自動車」)という言葉がある。Sinnbild(「象徴」)もsymbolからの借用造語である。両語とも借用造語と平行してそれぞれAuto、Symbolという借用語も存在するのが面白いところだ。
 2-4のLehnbedeutungでは対応する外国語の単語に影響されて当該言語の単語に意味が加わることである。有名なのがドイツ語のEnte(「アヒル」)という言葉で、本来は鳥のアヒルまたはカモの意味しかなかった。ところがフランス語の「アヒル」という単語canardに「ウソのニュース」、今流行の言葉で言えば「フェイクニュース」という意味があったため、ドイツ語のアヒルEnteにもこの意味がくっついてしまった。さらにドイツ語のrealisierenには本来「実現する」しか表さなかったが、英語のrealizeが「悟る・実感する」をも示すのに影響されて現在ではドイツ語のrealisierenも「悟る」の意味で使われている。

 一口に借用と言っても色々なレベルがあるのだ。

 明治時代に次々と作られた新語、私たちが普通英語からの「訳語」などと呼んでいる夥しい借用造形語などもこれに従ってカテゴリー分けしてみると面白そうだが、そんなことは日本ではすでに色々な学者があちこちでやっているから、私が今更こんなところでシャシャリ出るのは止めにして、代わりにルーマニアのドイツ語をちょっと見てみたいと思う。
 ルーマニアのジーベンビュルゲン、日本語で(?)トランシルバニアと呼ばれている地方には古くからドイツ人のディアスポラがある。ジーベンビュルゲンへのドイツ人移民はなんと12世紀にまで遡れるそうだから中高ドイツ語の時代である。20世紀の政治的・歴史的激動時代にドイツ系住民は強制移住させられたり、自主的にドイツ本国に帰ってきたりしたものが大勢いたため、現在ルーマニアでドイツ語を母語とするのは5万人以下とのことだ。しかし一方人や他国との交流が自由になったし、EUの加盟国となったルーマニアが欧州言語憲章を批准したのでドイツ語は正式に少数言語と認められて保護する義務が政府に生じた。ドイツあるいはオーストリアから教師が呼び寄せられてジーベンビュルゲンだけでなくその他の地域でもドイツ語の授業、特に書き言葉教育が行なわれるようになったそうだ。その書き言葉というのはつまりドイツあるいはオーストリアの標準ドイツ語だから、元からルーマニアでドイツ語を話していた人たちにとってはまあある意味外国語ではあるが、新聞なども発行されている。
 そのルーマニアの標準ドイツ語では本国では見られない特殊な語彙が散見される。ルーマニア語からの借用語・借用造語のほかにも、ハプスグルグ家の支配時代から引き継いだオーストリアの標準ドイツ語から引き継いだ語が目立つそうである。Ulrich Ammonという社会言語学者らが報告しているが、面白いのでまずルーマニア語からの借用語から見ていこう。右にルーマニア語の原語(イタリック)を挙げる。

Ägrisch, der  ← agrişă 「グズベリー」
Amphitheater, das  ← amfiteatru 「(大学の)講義室」
Bizikel, das  ← bicicletă 「自転車」
Bokantsch, der  ← bocanci 「登山靴」
Hattert, der  ← hotar, határ 「入会地、耕地の区画」
Klettiten, die  ← clătite 「パンケーキ」
Komponenz, die  ← componentă 「 構成(要素)」
konsekriert  ← consacrat 「有名な」
Märzchen, das  ← mărţişor  「3月に女の子や女性が紅白の紐で下げるお守り」
Motorin, das  ← motorină 「ディーゼル燃料」
Otata, der  ← otata, tata 「おじいさん」
Planifizierung, die  ← planificare 「計画」
Sarmale, die  ← sarmale 「ロールキャベツ」
Tata, der  ← tata 「父、お父さん」
Tokane, die  ← tocană 「グーラッシュ(肉のシチューの一種)」
Vinete, die (pl.)  ← vânătă 「焼いて刻んだナスから作るサラダ」
Zuika, der  ← ţuică 「プラム酒」

Hattertの元となったhatár(太字)というのはルーマニア語がさらにハンガリー語からとりいれた語らしい。また「おじいさん」のtataはルーマニア語がスラブ語、ブルガリア語とかセルビア語とかその辺から借用した語なのではないかと思う。

 借用訳部分意訳はきっちり区別しにくい場合があるのでまとめて掲げるが、政治や社会制度を表す語が多い。ルーマニアの国に属していたのだからまあ当然なのだが、チラチラと共産主義の香りが漂ってくる語が多くて面白いといえば面白い。それぞれ形態素をバラして英語訳をつけ、一部比較のために本国ドイツ語の言い回しをつけてみた。ルーマニア語はロマンス語だけあって形容詞が後ろに来るのがさすがである。

Allgemeinschule, die ← scoală generală 「 一学年から8学年までの学校」
(general  +  school)      (school general)
Autobahnhof, der ← autogară 「バスステーション」Busbahnhof
(car + station)       (car + station)
Bierfabrik, die ← fabrică de bere 「 ビール醸造所」Bierbrauerei
(beer + dactory)     (factory of beer)
Chemiekombinat, die ← combinat chimic 「化学コンビナート」
(chemistry + collective)           (collective chemical)
Definitivatsprüfung, die ← examen de definitivat 「教職課程の最初の試験」
(Definitivat + examination)        (examination of definitivat)
Finanzgarde, die ← garda financiară
(finance + guard)      (guard financial)
 「企業の税務処理が規定どおりにおこなわれているかどうかコントロールする役所」
Generalschule, die ← scoală generală 「(上述)1年から8年生までの学校」
(general  +  school)     (school general)
Hydrozentrale, die ← hidrocentrală 「水力発電所」Wasserkraftwerk
(hydro + central)      (hydro + central)
Kontrollarbeit, die ← lucrare de control 「(定期的に行なわれる)授業期間中の試験」
(control + work)      (work of control)    
Kulturheim, die ← cămin cultural 「(村の)文化会館」Kulturhaus
(culture + home)     (home cultural)
Lektionsplan, der ← plan de lecţie 「授業プラン」Unterrichtsplan
(lesson + plan)      (plan of lesson)        
Matrikelblatt, das ← foaie matricolă 「成績などが書きこまれた生徒の内申書」
(matriculation + sheet)   (sheet  amtriculation)
Notenheft, das ← carnet de note
(mark + notebook)    (book of mark)
「生徒が常に携帯している、成績または学業の業績が記録されたノート」
Postkästchen, das ← cutie poştală 「郵便受け」Briefkasten
(post + (little) box)      (box postal)
Schulprogramm, das ← programă şcolară 「教授計画、カリキュラム」Lehrplan
(school + program)       (program school)
Stundenplan, der ← orar 「営業時間」Öffnungszeiten
(time + plan)       (timetable)
Thermozentrale, die ← termocentrală 「火力発電所」Wärmekraftwerk
(thermo + central)      (thermo + centeral)
Turmblock, der ← bloc turn 「高層ビル」Hochhaus
(tower + block)     (block towaer)
Winterkommando, das ← comandament de iarnă
(winter + command)       (command of winter)
「激しい降雪や道路の表面が凍った際などに特定の業務を行なうため(政府の指示で)結成される部隊」
Ziegelfabrik, die ← fabrică de cărămizi
(brick + factory)     (factory of bricks)
 「レンガ製造所、レンガ焼き工場」Ziegelei, Ziegelbrennerei

借用語と借用訳の両方にまたがっていそうなのもある。例えばdefinitivat(太字)はルーマニア語で「過程終了」という意味だが、ドイツ語ではそれをそのまま持ってきている。Thermozentrale 、Hydrozentraleなども借用訳といったらいいのか借用語なのか、ちょっと迷うところだ。

 さらに借用意義とは言い切れなくても、本国のドイツ語にある全く同じ形の単語と意味、少なくとも「主な意味」が違っているものがある。最初にルーマニア・ドイツ語(ル)、その下に本国ドイツ語(本)の意味を挙げる。

Akademiker, der    またはAkademikerin, die    
 ル・科学アカデミーのメンバー
 本・大卒者
Analyse, die
 ル・血液または尿検査
 本・分析
assistieren
 ル・(講義を)聴講する
 本・助手として手伝う
dokumentieren
 ル・報告する
 本・文書に記録する
Gymnasium, das
 ル・5学年から8学年までの学校
 本・5学年から13年生までの学校
Katalog, der
 ル・生徒の学業成績・試験の点などが書き込まれた公式の記録書
 本・目録、カタログ
kompensiert
 ル・値段に差があった場合、健康保険で薬局に低い方の値段を支払えばすむようになっている
   (医薬品に関して使う)
 本・埋め合わせられた、補償された
Norm, die
 ル・教師が受け持つことになっている授業コマ数
 本・基準、規格、規定
Tournee, die
 ル・周遊旅行
 本・(芸能人などの)巡業

dokumentieren、Gymnasium、Tournee(太字)については本国ドイツ語との意味の違いがルーマニア語の影響であることがわかっている。それぞれa se documentagimnaziuturneu(元々フランス語tournéeから)の意味をとったとのことだ。

 少し前にルーマニア生まれのドイツ人に会ったことがある。若い人だったが、「子供の頃にすでにドイツに移住してきた」(本人曰)せいか、話す言葉は完全に本国の標準ドイツ語だった。でも夏期休暇などにはルーマニアに帰って(?)過ごすそうだ。

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