アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:完了体・不完了体

 SF作家アイザック・アシモフの本で私が一番好きなのが実は自伝だ。肝心のSFの方は、『我はロボット』はさすがに小学生の頃(一回だけ)読んだが『銀河帝国の興亡』も『夜来たる』もまだ読んでいない。なのでとても「アシモフの読者です」とはいえないが、自伝だけは繰り返し読んだ。アシモフ博士をロール・モデルとして勝手に尊敬しているのだが、私なんかに尊敬されて博士も相当迷惑していたのでなかろうか。
 それにしてもアシモフ氏と私と比べてみると(比べること自体が侮辱かもしれないが)愕然とする。これでも同じ人類なのか。

1.博士は米国徴兵検査で計ったとき、知能指数が167とかあっていっしょに検査を受けた者の中では全米一だったそうだが、私はいつだったか就職試験で知能検査のようなものをされたとき、試験を受けた200人以上のなかで(人事部の人曰く)「文句なく最低点」を取ってしまったという折り紙つきの頭の悪さだ。

2.博士はボストン大学医学部教授と作家の二つの職業を両立しつづけ、世界人名事典などにも名前が載っているセレブだが、私の名などせいぜい高校・大学の卒業者名簿の隅のまた隅にしか載っていない。しかもその名簿も会費を払わずにいるため私の手元には届かない。

3.博士は若くして化学の博士号を取ったが、私は高校の授業で「アルファケトグルタル酸」という名前がおかしくて笑いの発作を起こし、化学の先生にどやされた大馬鹿だ。中学の時はメスシリンダーという器具の名前を教わり、さっそく「オスシリンダー」とギャグを飛ばそうと思ったら、理科の先生に「この器具の名前を言うと毎年必ず「オスシリンダー」と突っ込んで来る人がいますが、その駄ジャレはとっくに古くなってますからもうやめなさいね」と先手を打って牽制されてしまった。駄ジャレの先を越されるとさすがに見苦しい。

 こうやって比べていると、私などうっかりすると「人類の出来損ない」あるいは「害虫」として間引き・駆除されてしまいそうな案配だが、でも私を駆除するのはちょっと待ってほしい。たった一つ、ほんとうにたった一つだけ私のほうがアシモフ大博士に勝っている部分があるのだ。 それはロシア語動詞アスペクトだ。

 アシモフ氏はロシア(当時のロシアは現在のウクライナもベラルーシも含んでいた)生まれだが、3歳のときアメリカに移住したのでロシア語は出来なかった。ご両親の母語もロシア語でなくイディッシュ語だったそうだ。アシモフ氏自身はイディッシュ語・英語のバイリンガルだが、妹と弟はもう英語だけのモノリンガルだったという。家族の中で母語が変遷してしまった。この辺の話もとても興味深いが、とにかくアシモフ氏は大人になってからロシア語をやろうとして文法書を買ったと自伝にある。
 名詞の変化・動詞の活用を息も絶え絶えでクリアし、11章の「動詞アスペクト」まで来た時点でついに堪忍袋の尾が切れ、本を壁に叩き付けてロシア語を止めてしまったとのことだ。

 ロシア語は英語やドイツ語のように「行く」ならgoあるいはgehenと覚えればいいというものではない。はしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアをなしていて、「行く」ならgo-1とgo-2の二つの動詞を覚えないといけない。1と2は使い方が決まっていて、同じgoでも1と2を間違えると文の意味が全然違って来てしまう。おまけに1と2は形に決まりがない、つまりどちらか一方を覚えればそこから自動的に他方を派生できるというワザが効かないので、闇雲に覚えるしかないのだ。例として次のようなペアを挙げてみる。それぞれ左が1、右が2だ。不定形が示してあるが、英語では一つの動詞ですむところがロシア語では動詞がそれぞれ二つあること、またその二つの動詞の形には一定の決まりがないことが見て取れるだろう。

записывать - записать (登録する)
кончать – кончить (終える)
махать – махнуть (振る)
говорить – сказать (話す)
делать – сделать (する)
читать – прочитать (読む)
писать – написать (書く)
идти – пойти (歩く)
избегать – избежать (避ける・逃れる)

ここでアシモフ氏は本を投げたが、私はまさにこのアスペクトという文法カテゴリーに魅せられて、それまで名詞や動詞の変化形が覚えられずにいいかげんもう止めようかと思ってたロシア語を続ける気になったのだった。

 ちなみにどの動詞をもってペアとなすかというのには決まりというか基準があって、ある過去形の文をいわゆる歴史的現在(presens historicum)に変換したとき使われる動詞同士(これは別にわざと駄ジャレを言っているのではない)をアスペクトのペアとみなすことになっている。歴史的現在とは過去の出来事を生き生きと描写するテクだが、この基準を提唱したのは私の記憶によればマースロフという言語学者だ。
 
 それは具体的に言うとこういうことだ。まず英語だが、普通の言い方と歴史的現在とでは次のように同じ動詞の現在形と過去形を使う。

And then Spartacus turned to the south and after three days arrived in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達した。

And then Spartacus turns to the south and after three days arrives in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達する。
(歴史的現在)

 しかしロシア語だと、英語でturned, turns あるいはarrived, arrivesと同じ動詞が使われる部分で、それぞれ違う動詞が使われる。上の英語をロシア語で表すとそれぞれ次のようになる。太字の語を注目。

И тогда Спартак повернул на юг и за три дня добрался до Сиракуз.

И тогда Спартак поворачивает на юг и за три дня добирается до Сиракуз.
(歴史的現在)

повернул поворачивает がそれぞれいわばturn-2とturn-1、добралсядобирается がarrive-2とarrive-1に当たり、ペアをなしている。2の動詞はどちらも過去形、1のほうはどちらも現在形だ。上の表の動詞もそうだが、2のグループの動詞をロシア語文法では「完了体動詞」、1を「不完了体動詞」と呼んでいる。
 つまりこれらペアは活用などによって一方から他方が作られるのではなくて動詞そのものが違い、両方がまたそれぞれ独自に活用するのだ。 例えばповернул (turned)とповорачивает (turns)は、

不定形 поворачивать (to turn-1) (不完了体)
3人称単数男性:
поворачивал(過去)
поворачивает(現在)
удет поворачивать(未来)

不定形 повернуть (to turn-2) (完了体)
3人称単数男性:
повернул(過去)
現在形なし
повернёт(未来)

完了体動詞повернуть (turn-2)の方には現在形がない。

 これはこう考えるとわかりやすいかもしれない。
 「過去形」とか「未来形」とかは動詞の活用のカテゴリーであって、元の動詞は同じ一つの動詞だ。それに対して例えば名詞のカテゴリー「男性名詞」、「女性名詞」は一つの名詞を変化させて作られるのではなく(男性名詞から女性名詞を派生させることもなくはないが、これはむしろ例外現象だ)、元々の名詞がカテゴリー分けされている。 そこからそれぞれ、対格形fだろ複数形だろの語形変化を起こすわけだ。ロシア語の完了体動詞・不完了体動詞も言ってみれば「男性動詞」、「女性動詞」のようなものだ。

  私はまさにここ、アシモフ氏の挫折の原因となった部分で逆に切れそうになっていた堪忍袋の尾がつながったのである。一寸の虫にも五分の魂というか、私がアシモフ大博士に勝っている部分だってあるのだから、すぐには私を始末せずにまだしばらくはこのまま生かしておいてもらいたい。


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 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えると/ik-u/、つまり/k/は「ん」になり/ir-u/、つまり/r/は「っ」になるのか。もちろん音声学・音韻論、つまり歴史言語学の面からの説明が出来るだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身はこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。

 たしか言語地理学者J.ジリエロンだったと思うが、1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないか。ある言語内で、歴史的音韻変化等によって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされることがよくあるのだ。

 このインフォーマントはさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事が出来ず、「欠ける」を「おっかける」と、接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもまさにそれかと思うのだが。

 確証などは全くできていない単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞покупать(パクパーチ、「買う」)もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞покупатьの完了体のパートナーはкупить(クピーチ)だ。こういうペアの形ははちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていて不完了体動詞のほうはむしろ丸腰の場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでのпокупать対купитьの例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体покупать(パクパーチ)は本来купать(クパーチ)とかいう形になるはずなのだ。なぜここで唐突に頭にпо-がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体のкупать(クパーチ、「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからだと思う。 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 他のスラブ語を見て見ると、「買う」のпокупатьと「水浴び(入浴)させる・する」のкупатьとは形が絶妙に「ちょっとだけ」違っていて、同音衝突が巧みに避けられている様子がよく分かる。 「買う」と「入浴・水浴び」はスラブ諸語では次のようになった。左側が不完了体、右側が完了体動詞である。

クロアチア語
kupati (se) - okupati (se)  (水浴び(入浴)させる・する)
kupovati - kupiti     (買う)

ポーランド語
kąpać (się) - skąpać (się) (水浴び(入浴)させる・する)
kupować – kupić     (買う)

ベラルーシ語
купаць(-цца) - выкупаць(-цца), пакупацца  (水浴び(入浴)させる・する)
купляць, пакупаць - купiць          (買う)

ウクライナ語
купати(ся) - викупати(ся),  скупати(ся) (水浴び(入浴)させる・する)
купувати - купити            (買う)

ロシア語
купать – выкупать(ся), искупать(ся) (水浴び(入浴)させる・する)
покупать - купить           (買う)

 アスペクトのペアは、普通は不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体писать(ピサーチ、「書く」)対 完了体написать(ピサーチ)など。それでもその逆、つまり完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成というが、なぜ「二次的」なのかというと、この場合は完了体動詞にすでに接頭辞がついている場合が大半だからだ。なので不完了体のパートナー形成は接頭辞をくっつけるのではなく動詞本体のほうの形を変えて行なう。それには3つやりかたがあって、1. 動詞の語幹に-ва-、-ова-又は-ива-を挿入する、2.語幹の母音и(i)をа(a)に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える。
 例えば完了体признать (プリズナーチ、「承認する」)対不完了体признавать(プリズナヴァーチ)が1の例、完了体решить(リェシーチ、「決める」)対不完了体решать(リェシャーチ)が2、完了体осветить(オスヴェチーチ、「明るくする」)対不完了体освещать(オスヴェッシャーチ)が3の例だ。
 
 そこで上のスラブ諸語をみると、その3種の不完了体構築方法と接頭辞による完了体形成が全部そろい踏みしているのがわかるだろう。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」が1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は(本来)2の例、「入浴する」は不完了体のほうはどの言語も同じなのに、完了体についている接頭辞そのものは言語ごとにバラバラだ。完了体のほうがが不完了体を基礎にして二次的に形成されたと見て取れる。大まかに言ってクロアチア語がo、ポーランド語の接頭辞がs-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語はвы(vy)あるいはви(vi)なのだが、その東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語はвы-とис-の2種の接頭辞がペアと見なされるが、выкупать(ся)(ヴィクパーチ)のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置がвы(ヴィ)に来るвыкупать(ся)とпа(パ)に来るвыкупать(ся)は意味が全く違い、前者が「入浴」、паにアクセントが来ると「補償する」という別単語だ。ウクライナ語のвикупати(ся)も同様で頭のвиにアクセントを置かないと意味が違ってきてしまうから頭が混乱する。
 
 さらにウクライナ語の接頭辞с(s)は「買う」のほうにもくっついてскупити(スクピーチ、「買い占める」)という語を作る。「水浴び」のскупати(スクパーチ)とたった一字違いだ。ポーランド語にもこのs-が登場する。

 が、それより面白いのがベラルーシ語で、ロシア語のпокупать(パクパーチ)と音韻的に対応するпакупаць (パクパーチ)という語が存在し、「買う」を意味する。つまり不完了体ではкупляць(クプリャーチ) とダブっているわけだ。ところがこのпакупаць に再帰形態素ца(ツァ)がついた形пакупацца (パクパーッツァ)は完了体で「入浴」を意味する。辞書によってはцаなしのпакупаць も「入浴」で載っているものがあった。想像するにベラルーシ語のпакупацьを「買う」の不完了体の意味で使うのは新しい用法で、ロシア語の影響なのではないだろうか。本来пакупацьは接頭辞のついた完了体、それも入浴のほうの意味だったのではないだろうか。そのためか、ウクライナ語の辞書にもпокупатися(パクパチーシャ)という動詞はロシア語のвыкупать(ся)(ヴィクパーチ(シャ))と同じである、と説明しているものがあった。つまり「入浴」なのである。

 調べれば調べるほどますます「入浴・水浴」と「お買いもの」がごっちゃになって底無し状態になったのでこちらも嫌気がさしてきたためこの辺で止めさせてもらうが、それでもこの二つを少しでも明確に区別しようというスラブ語たちの必死の努力がいじらしい。
 最後に感想を一言。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」のкупать(クパーチ)あるいはkupatiと「買う」のкупить(クピーチ)あるいはkupitiでは第一シラブルの母音は両方uとなっているが、ポーランド語でここがą、鼻音のoとなっているのを見れば、実はこれは本来は母音が違い、「水浴」のほうは元はuでなく鼻母音のoだったのではないかと思われてくる。実際ロシア語のмудрость(mudrost'、「知恵」)はポーランド語でmądrośćであり、ロシア語の口母音uとポーランド語の鼻母音oがここでもきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音のoだったのだ。言い換えるとこれらは現在は混同されそうなくらい似た形だが、もとは混同される心配などない、違った形をしていたのではなかろうか。スラブ祖語の鼻母音oが東スラブ・南スラブ諸語では言語変遷の過程でuになり、真正のuと区別がつかなくなってしまったために話がややこしくなってしまったのだろう。
 「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。


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 どれか一つ戦争映画を紹介してくれと言われたら私はエレム・クリモフ監督のソ連映画『Иди и смотри (「Come and see」)』(1985)を勧める。第二次世界大戦時のベラルーシにおけるパルチザン対ドイツ軍の戦いを描いたもので、ソビエト・ロシアの芸術の伝統をそのまま引き継いだような大変美しい映像の映画である。ストーリーにもわざとらしい勇敢なヒーローは出てこない。使用言語の点でもロシア語のほかにベラルーシ語を聞くことができるから面白いだろう。

 タイトルの『Иди и смотри』だが、Иди(イジー)とсмотри(スマトリー)はそれぞれидти (イッチー、「行く」)、смотреть (スマトレーチ、「見る」)という動詞の単数命令形だ。どちらも不完了体の動詞なので(『16.一寸の虫にも五分の魂』の項参照)ロシア語をやった人はひっかかるだろう。
 普通「なんか外がうるさいわね。ちょっと行って見て来てよ」という場合は完了体動詞の命令形を使い、「пойди и посмотри」(パイチー イ パスマトリー)とかなんとか言うはずだ。授業でも「通常命令形は完了体を使う」と教わる。 なぜここでは対応する不完了体動詞が使われているのか。

 不完了体の動詞の命令形の用法の一つに、「相手が躊躇していたり、遠慮していたりするのを強く促す」あるいは「一度中断した行為の再開を促す」という働きがあるのだ。つまり命令・要求の度合いが強く、「何をグズグズしてるんだ? 早く作業に取り掛かれ!」「途中で止めるな、続けろ」というニュアンスだ。以下の例では最初のget upが普通に完了体動詞、二つ目が強い要求の不完了体命令形となっている。

Встань, ну вставай же!
起きる (完了体・命令) + さあ + 起きる(不完了体・命令) + 強調
起きろ、やい、さっさと起きろってば!

 前にも取り上げたショーロホフの『他人の血』にも不完了体の命令文が使われる場面がある。革命時の内戦で赤軍と戦うために出かけていった一人息子が帰ってくるのをコサックの老夫婦が首を長くして待っているが、何の知らせもない。いや、風の噂は届いていた。息子の部隊はクリミア半島で全滅した、と。ある日息子といっしょに同じ村から出征して同じ部隊にいた知り合いが帰って来る。その知り合いが老夫婦を訪ね、息子が戦死した模様を伝えるのである。父親のほうは感情を押し殺してその報告に耳を傾け続けるが、母親のほうは堪えられない。途中で叫びを上げて泣き出してしまう。その母親を父親は「黙れ」と怒鳴りつけ、ひるんで黙ってしまった知り合いに対して「さあ、しまいまで言ってくれ」とうながすのである。まさにそこで不完了体動詞の命令形が使われているのだ。

Ну, кончай!
さあ + 終える・最後までやる(不完了体・命令)

これが単なる「しまいまで言え」だと完了体を使うから

Кончи!
終える・最後までやる(完了体・命令)

となる。息子の死を告げかねて言いよどむ訪問者をこの父親が促す場面が他にもあるが、そこでもやはり動詞は不完了体だった。
 
 また不完了体動詞の命令形には「ずっとその行為をやり続けろ」というニュアンスを帯びることがある

смотрите всё время в эту сторону!
見る(不完了体・命令形・複数) + すべて + 時間 + ~の中に + この + 側
ずーっとこっちの側を見てなさい!

さらに「繰り返してその行為をやりなさい」という時にも不完了体動詞で命令する。

Учите новые слова регулярно!
覚える(不完了体・命令) + 新しい + 単語 + 規則的に
規則的に新しい単語を覚えなさい!

いずれにせよ、不完了体動詞の命令形には「普通以上の」意味あいがあるのだ。

 だから『иди и смотри 』はcome and seeと訳して間違いではないが(「行く」がcomeになっていることはここでは不問にする)、単に「行って、そして見ろ」ではなくて、目を背けたくなるようなドイツ軍の蛮行、女・子供まで、いや「劣等人種ロシア人をこれ以上増やさないように」優先的に女子供を虐殺していったドイツ軍の、とても正視出来ないような狂気をその目で見るがいい、見続けるがいい」という非常に強い重いニュアンスだと私は解釈している。
 それあるにこの映画の邦題は『炎628』という全く意味不明なものになっているのだ。628というのは当時ドイツ軍に焼き払われたベラルーシの村の数だが、いきなりそんな数字をタイトルに持って来たって観客に判るわけがないではないか。こんな邦題をつけた責任者には「ワースト邦題賞」でも授与してやるといい。これからも映画の芸術性を隠蔽し、客足を遠のかせるような立派なタイトルをドンドン付けていってほしいものだ。

 もっとも論文などで「○○参照」という時もсм.、つまり不完了体のсмотритеを使う。これは皆私のように「注」を読むのをめんどくさがって大抵すっ飛ばすので「見ることを強く要求」されていると解釈することもできるが、当該行為を「抽象的に指示」するときは不完了体を使うから、まあこれは別に「横着しないで注もちゃんと読みやがれ」と怒られているわけではないようだ。ほっ。

 さて、肯定の命令形では今まで述べたように完了体動詞がデフォ(言語学用語では「無標」)で、強いニュアンスを伴う不完了体動詞が有標だが、これが「~するな」という否定の命令になると逆に不完了体動詞のほうがデフォ、完了体動詞が有標となるから怖い。
 完了体の否定命令を使うと、警告の意味がある、つまりその行為が本当に行なわれてしまいそうな実際的な危険性がある、というニュアンスになるのだ。たとえば普通に「その本をなくすなよ」と言いたい場合は不完了体を使って

Не теряй эту книгу!
否定 + 失くす(不完了体・命令) + この本を
この本失くさないで!

だが、相手が本当に失くしそうな奴だったりしてこちらに一抹の心配があり、特にクギを指しておきたい場合は完了体で命令するのだ。

Не потеряй эту книгу, она из библиотеки.
否定 + 失くす(完了体・命令) + この + 本を + それ + ~から + 図書館
この本失くすんじゃないぞ、図書館から借りたんだから。

 このように肯定の命令では完了体動詞がデフォ、否定の命令では不完了体がデフォなわけだが、これが以前に『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べた「歴史的現在と過去形」と共にいわゆるアスペクトのペアを決める際の助けになっている。同じ事象をニュアンスなしで肯定と否定の命令で言わせ、肯定命令で使われた動詞と否定命令で使われた動詞をペアと見なすのである。
 このアスペクトのペアというのはロシア語文法の最重要項目のひとつであり、大学では大抵語学そのものと平行して特に動詞アスペクトだけをみっちり仕込まれる授業をうけさせられる。必須単位である。これがわからないとロシア語の文章を正しく理解することができないからだ。文の意義だけ取れても意味が取れなければ特に文学のテキストを解釈するには致命的だろうし、日常会話でもいわゆる空気が読めずに困るだろう。


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 ジョージ・スティーブンスの『シェーン』は日本で最もポピュラーな西部劇といってもいいだろうが、実は私は結構最近になって、自分がこの映画のラスト・シーンを誤解釈していたことに気づいた。例の「シェーン、帰ってきてぇ!」という部分だ。あれのどこに誤解の余地があるのかといわれそうだが、それがあったのだ。まあ私だけが蛍光灯(私の子供のころはものわかりの遅い、ニブイ人のことを「蛍光灯」と呼んでからかったものだが今でもこんな言い回しは通じるのか?)だったのかも知れないが。

 私が『シェーン』を初めてみたのは年がバレバレもう40年以上前のことだが、それ以来私はあの、ジョーイ少年の「シェーン、帰ってきて」というセリフ、というか叫びを「シェーン、行かないで」という意味だと思っていた。当時これをTVで放映した水曜ロードショーがここを原語で繰り返してくれたが、英語ではShane, come back!だった。「帰ってきて!」だろう。一見何の問題もない。
 今になって言ってもウソっぽいかもしれないが、実は私は初めて見た時からこのシーンには何となく違和感を感じていたのだ。このセリフの直後だったか直前だったかにジョーイ少年のアップが出るだろう。ここでのジョーイ少年の顔が穏やかすぎるのである。「行かないで!」と言ったのにシェーンは去ってしまった。こういうとき普通の子供なら泣き顔になるのではないだろうか。「行かないで、行かないで、戻ってきて、ウエーン」と涙の一つも流すのではないだろうか。映画のジョーイ少年は大人しすぎる、そういう気はしたのだが、アメリカの開拓者の子供は甘やかされた日本のガキなんかよりずっと大人で感情の抑制が出来るのだろうと思ってそのまま深く考えずに今まで来てしまった。
 ところが時は流れて○十年、これを私はドイツ語吹き替えでまた見たのだが、件のラストシーンのセリフが、Shane, komm wieder!となっているではないか。これで私は以前抱いたあの違和感が正しかったことを知ったのである。

 Komm wieder!というのは強いて英語に置き換えればcome againで、つまりジョーイ少年は「行かないで」と言ったのではなく、「いつかまたきっと来てくれ」といったのだ。今ここでシェーンが去ってしまうのは仕方がない。でもまたきっと来てくれ、帰ってきてくれ、と言ったのだ。「行かないで」ならば、Shane, komm zurückと吹き替えられていたはずである。事実『七人の侍』で志村喬が向こうに駆け出した三船敏郎に「菊千代、引け引け」(つまり「戻れ」ですよね)と言った部分ではKikuchiyo, komm zurückと字幕になっていた。ジョーイ少年はKomm zurückとは言っていない。少年がここでわあわあ泣き叫ばず、なんとも言えないような寂しそうな顔をしたのもこれで説明がつく。

 言い換えると英語のcome backは意味範囲が広く、ドイツ語のwiederkommenとzurückkommenの二つの意味を包括し、日本語の「帰って来て」では捕えきれない部分があるのだ。そこで辞書でcome backという単語を引いてみた。しかしcome backなんて動詞、this is a penの次に習うくらいの基本中の基本単語である。そんなもんをこの年になって辞書で引く、ってのも恥ずかしい極致だったが、まあ私の語学のセンスなんてそんなものだ。笑ってくれていい。例文などを読んでみると確かにcome backはいまここで踵をかえせというよりは「一旦去った後、いくらか時間がたってから前いた場所に戻ってくる」という意味のほうが優勢だ。芸能人が「カムバックする」という言い方などがいい例だ。

 さて、私は上で「come backは二つの「意味」を包括する」と言ったが、この言い方は正確ではない。「今ここで踵を反す」も「いつかまた踵を反す」も意味内容そのものはまったく同じである。つまり「今いたところに戻る」ということだ。ではこの二つは何が違うのか?「アスペクトの差」なのである。ナニを隠そう、私は若いころこの「動詞アスペクト」を専門としていたのでウルサイのだ。

 その「動詞アスペクト」とは何か?

 以前にも書いたが、ロシア語では単にcomeとかgoとか seeとかいう事ができない。ちょっとはしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアになっていて英語・ドイツ語・日本語ならば単にcomeとか「来る」ですむところが二つの動詞、いわばcome-1 とcome-2を使い分けなければいけない。come-1 とcome-2は形としては派生が利かないので闇雲に覚えるしかない、つまり動詞を覚える手間が普通の倍かかるのである。
 どういう場面にcome-1 を使い、どういう場面にcome-2を使うかには極めて複雑な規則があり、完全にマスターするのは外国人には非常にキツイというか不可能。あの天才アイザック・アシモフ氏も、一旦ロシア語を勉強し始めたのに、この動詞アスペクトがわからなくて挫折している(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。例えば英語では

Yesterday I read the book.

と言えば済むがロシア語だといわば

Yesterday I read-1 the book
Yesterday I read-2 the book

のどちらかを選択しなくてはいけない。単にreadということができないのである。ロシア語ではそれぞれ

Вчера я читал книгу.
Вчера я прочитал книгу.

となる。читалとпрочиталというのが「読んだ」であるが、前者、つまりread-1だとその本は最後まで読まなかった、read-2だと完読している。また、1だと何の本を読んだかも不問に付されるのでむしろYesterday I read-1 a bookと不定冠詞にしたほうがいいかもしれない。
 
 1を「不完了体動詞」、2を「完了体動詞」と呼んでいるが、それでは「不完了体」「完了体」の動詞がそれぞれ共通に持つ機能の核、つまりアスペクトの差というのは一言でいうと何なのか。まさにこれこそ、その論争に参加していないロシア語学者はいない、と言えるほどのロシア語学の核のようなものなのだが、何十人もの学者が喧々囂々の論争を重ねた結果、だいたい次の2点が「完了動詞」あるいは完了アスペクトの意味の核であると考えられている。
 一つは記述されている事象が完了しているかどうか。「読んだ」ならその本なり新聞なりを読み終わっているかどうか、あるいは「歩く」なら目的地に付くなり、疲れたため歩く行為を一旦終了して今は休んでいるかどうか、ということ。もう一つはtemporal definitenessというもので、当該事象が時間軸上の特定の点に結びついている、ということである。逆に「不完了体」はtemporally indefinite (temporaryじゃないですよ)、つまり当該事象が時間軸にがっちりくっついていないでフラフラ時空を漂っているのだ。

 上の例の不完了体Yesterday I read-1 the bookは「昨日」と明記してあるから時間軸にくっついているじゃないかとか思うとそうではない。「昨日」自体、時間軸に長さがあるだろう。いったいそのいつ起こったのか、一回で読み通したのか、それとも断続的にダラダラその本を読んだのか、そういう時間の流れを皆不問にしているから、事象はやっぱりフラフラと昨日の中を漂っているのである。
 スラブ語学者のDickeyという人によればチェコ語、ポーランド語などの西スラブ語では「事象が完了している・いない」がアスペクト選択で最も重要だが、ロシア語ではこのtemporal definitenessのほうが事象の完了如何より重視されるそうだ。だからロシア語の文法で「完了体・不完了体」と名づけているのはやや不正確ということになるだろうか。

 さて、『シェーン』である。ここのShane, come back!、「いつでもいいから帰ってきて」はまさにtemporally indefinite、不完了アスペクトだ。それをtemporally definite、「今ここで帰ってきて」と完了体解釈をしてしまったのが私の間違い。さすが母語がスラブ語でない奴はアスペクトの違いに鈍感だといわれそうだが、鈍感で上等なのでしつこく話を続ける。

 私は今はそうやってこのcome back!を不完了アスペクトと解釈しているが、それには有力な証拠がある。『静かなドン』でノーベル賞を取ったショーロホフの初期作品に『他人の血』という珠玉の短編があるが、このラストシーンが『シェーン』とほとんど同じ状況なのだ:革命戦争時、ロシアの老農夫が瀕死の若い赤軍兵を助け、看病しているうちに自分の息子のように愛するようになるが、兵士は農夫のもとを去って元来たところに帰っていかねばならない。農夫は去っていく赤軍兵の背中に「帰ってこい!」Come backと叫ぶ。
 つつましい田舎の農家に突然外から流れ者が入り込んできて、好かれ、いつまでもいるように望まれるが、結局外部者はいつか去っていかねばならない、モティーフも別れのシーンも全く同じだ。違うのは『他人の血』では叫ぶのが老人だが、『シェーン』では子供、ということだけだ。老人は去っていく若者の後ろからворочайся!と叫ぶが、このворочайсяとは「戻る」という不完了体動詞ворочатьсяの命令形である。「いつかきっとまた来てくれ」だ。「引け引け、戻れ」なら対応する完了体動詞воротитьсяを命令形にしてворотись!というはずだ。日本語の訳では(素晴らしい翻訳。『6.他人の血』参照)この場面がこうなっている(ガヴリーラというのが老人の名)。

「帰って来いよう!…」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。
「帰っちゃ来まい!…」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。

 『シェーン』でも「帰ってきてぇ」ではなく「帰ってきてねぇ!…」とでもすればこのアスペクトの差が表せるかもしれない。


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