アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:夕陽のガンマン

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 セルジオ・レオーネ監督の第二作(正確には第三作)『夕陽のガンマン』の英語タイトルはFor a few Dollars more(あともう少しのドルのために)というが、これは現ロマンス諸語のDVDのタイトルでは以下のようになっている。

イタリア語:         Per qualche dollaro in più
フランス語:         Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:    Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語: Por uns dólares a mais
本国スペイン語:     Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:     Por unos pocos dólares más

 こうして並べて眺めていたら一点気になった。

 英語のmoreにあたる語は伊・仏語ではそれぞれpiù, plusとp-で始まるが、西・葡ではm-が頭についている(それぞれmás, mais)。調べてみるとpiù, plusはラテン語のplūsから来ているそうだ。これは形容詞multus「たくさんの、多くの」の比較級である。以下に単数形のみ示す。

原級:    multus, -a, -um
比較級:plūs
最上級:plūrimus, -a, -um

 比較級は単数形では性の区別を失い、男・女・中すべてplūsに統一されている。古ラテン語ではこれは*pluosだったそうで、印欧語祖語に遡ると*plē-ないしは*pelu-。古典ギリシャ語のπολύς、古期英語のfeoloあるいはfioluも同源である。もちろんドイツ語のviel(フィール「たくさんの」)もこれだし、オランダ語のveel(フェール)もそう。この、pからfへの音韻推移、印欧語の無声閉鎖音がゲルマン語派で調音点を同じくする無声摩擦音に移行した過程はグリムの法則あるいは第一次音韻推移と呼ばれ、ドイツ語学習者は必ず覚えさせられる(そしてたいていすぐ忘れる。ごめんなさい)。
 古代インド語のpurū-も同語源だそうだがきりがないのでやめる。しかしなんとlがrになっているではないか。これでは「lとrの区別ができない」といって日本人をあざ笑えない。

 それに対して西・葡のmais,más等はラテン語のmagisが語源。これは形容詞magnus「大きい」の比較級からさらに派生された副詞だそうだ。まず元の形容詞magnusだが、次のように変化する。

原級:   magnus, -a, -um
比較級:maior, -ius
最上級:māximus, -a, -um

 比較級の元の形は印欧祖語では*magiōsもしくは*magyosで、これは*mag-「大きい」(別の資料では*mē-)+*yos(比較級形成の接尾辞)。magisという形はこの比較級の中性形が副詞的な使われ方をするようになったものだとのことだ。「形容詞の(短形)中性単数形が副詞化する」という現象はロシア語でも頻繁に見られる。その際アクセントの位置がよく変わるので困るが。たとえば「良い」という意味の形容詞хороший(ハローシィ。これは長形・単数男性形)の短形単数男性・女性・中性形はそれぞれхорош(ハローシュ)、хороша(ハラシャー)、хорошо(ハラショー)だが、中性のхорошоは副詞として機能し、Я говорю хорошо по-русски(ヤー・ガヴァリュー・ハラショー・パ・ルースキ)は「私はロシア語をよく話します」つまり「私はロシア語が上手い」(ウソつけ)。上のplūsもある意味ではこの単・中→副詞という移行のパターンを踏襲しているとみなしていいだろう。文法性の差を失ってしまっている、ということはつまり「中性で統一」ということではないだろうか。

 この、moreにあたる単語がp-で始まるかm-で始まるかは『17.言語の股裂き』の項でも述べた複数形の形成方法とともにロマンス語派を下位区分する際重要な基準のようだ。p-組は伊・仏のほかにロマンシュ語(pli)、サルディニア語(prusまたはpius)、イタリア語ピエモント方言(pi)など。同リグリア方言のciùもこれに含まれるという。m-組は西・葡以外にはアルマニア語(ma)、カタロニア語(més)、ガリシア語(máis)、オクシタン語(mai)、ルーマニア語(mai)。
 中世ポルトガル語ではm-形とp-形の両方が使われていて、それぞれmais とchusという2つの単語があったそうだ。chusがp-形と聞くと意外な気がするが、上記のイタリア語リグリア方言ciùがp-起源だそうだからchusが実はP形であってもおかしくない。
 「両方使う」といえば、厳密に言えば伊・仏もそう。フランス語のmais「けれど」はこのmagis起源だと聞いたことがある。イタリア語でたとえばnessuno ... mai 「誰も…ない」、non ... mai「決して…ない」、mai più「もう決して…ない」などの言い回しで使う、否定の意味を強めるmaiの元もこれ。maiはさらに疑問の意味も強めることができ、come mai non vieti?は「何だって君は来ないんだ?!」。相当機能変化を起こしている。
 続いて目を凝らして見るとm-組スペイン語も本国ポルトガル語も英語と同じくmore(それぞれmásとmais)を裸で使っているのにブラジル・ポルトガル語はa maisと前置詞を置いている。m-組のくせにp-組の伊・仏と共通する構造だ。その意味ではこれも「両者にまたがっている」といえるのではないだろうか。

 話がそれるが、イタリア語のpiùがフランス語でplusになっているのが私にはとても興味深い。ロシア語に同じような音韻現象があるからだ。
 まず、piùのpは後続の母音iに引っ張られて口蓋化しているはずだ。この、本来「口蓋化したp」に円唇母音(つまりu)が続くとフランス語ではpとuの間に唇音lが現れる。ロシア語では例えば「買う」の完了体動詞(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)の不定形はкупить(クピーチ、ローマ字ではkup'it'と表すが、この「'」が「口蓋化した子音」という意味である)だが、これの一人称単数未来形は、理屈ではкупью(クピユー、kup'ju)になるはずなのに実際の形はкуплю(クプリュー、kuplju)と、どこからともなくlが介入するのだ。対応する有声子音bの場合も同様で、「愛する」という動詞любить(リュビーチ、ljubit')の一人称単数現在形は、なるはずの形любью(リュビユー、ljub'ju)にならずにлюблю(リュブリュー、ljublju)という形をとる。

 ポルトガル語で(だけ)more(mais)が披修飾名詞の前に来ているのも気になって仕方がないのだが、ここでやると長くなりすぎるので、回を改めて続けようと思う。


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 前回の続きである。

 For a few dollars moreという映画だが、ロマンス語の他にゲルマン諸語その他でDVDのタイトルなどはどうなっているのか調べてみた。

ロマンス諸語 (前回の例を繰り返す)
イタリア語:        Per qualche dollaro in più
フランス語:          Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:     Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語   Por uns dólares a mais
本国スペイン語:      Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:      Por unos pocos dólares más

ゲルマン諸語
英語:                    For a few dollars more
ドイツ語:             Für ein paar Dollar mehr
スウェーデン語:             För några få dollar mer
ノルウェイ語:                For noen få dollar mer

スラブ諸語
ロシア語:               На несколько долларов больше
クロアチア語:               Za dolar više
                                        (a fewがなぜか省略されている)

アルバニア語
Pёr disa dollarё mё shumё

 問題はmoreの位置だ。上の例では本国ポルトガル語を除く総ての言語でmoreにあたる語が最後に来ている。ロマンス諸語は前回述べたが、英語以下、ドイツ語のmehr、スウェーデン語とノルウェイ語のmer、ロシア語のбольше、クロアチア語のviše、アルバニア語のmё shumёがそうだ。アルバニア語はさすがにちょっと他の印欧語と勝手が違っていてmё shumёと二語構成、文字通りにはmore manyだが、機能自体は他と同じだ。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)やein paar (a few)がDollarの前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for - a few - dollars - more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここでmehr (more)をDollarの前に持ってきた構造
 
?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけてのNG宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のようにmehr (more)をein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの*印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more booksあるいはsome more booksという語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員For a few more dollarsはOKだと言った。For a few dollars moreのほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱりNG宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でもmás(more)はdólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

もしかしたらドイツ語と同じくスペイン語でもPor unos cuantos más dólaresという語順のほうがPor más unos cuantos dólaresより「マシ」なのかもしれないが、いきなり初対面のスペイン人を根掘り葉掘り変な質問攻めにするのは気が引けたのでそれ以上突っ込めなかった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 ところが前回私がひっかかったようにポルトガル語、特に本国ポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順が可能だ。maisというのがmoreである。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかはまだ未調査)

 前回で述べたいわゆるp-組のフランス語ではスペイン語と同じく、moreが名詞の前、ましてやa fewの前には出られない。a few more booksがフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some - books - of - more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques (de) plus dollars
*Pour (de) plus quelques dollars

の二つはどちらも「おえー」と言って却下した。
 同じくp-組のイタリア語ではpiù (more)が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a - few - more - of  - books

ただしこのイタリア語と上のポルトガル語に関してはちょっとそこら辺にネイティブがころがっていなかったので(?)インフォーマントの確認はとっていない。

全体としてみるとmoreがa fewの前にさえ出られる本国ポルトガル語はかなり特殊だと思う。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。 

最後に日本語だが、これは一見moreの位置が印欧語より自由そうには見える。

1.あともう少しのドルのために
2.ドルをあともう少しのために
3.あとドルをもう少しのために
4.*あともう少しのドルをために
5.*ドルのあともう少しをために
6.???あともう少しをドルのために

1,2,3はOKだろう。3はちょっと「うっ」とは思うが。しかしよく見れば、1では「ドル」は助詞の「の」に支配される属格、2と3では「ドル」には「を」という対格マーカーがついていて、シンタクス構造そのものが違うことがわかる。単なる語順の問題ではないのだ。4,5,6はどれもNGだが、4と5がそもそも日本語になっていないのに対し、6はシンタクス構造そのものはOKだが意味が全然合っていない。仮に「ドル」というのが人の名前かなんかだったら成り立つかもしれないので、「限りなくNGに近い」という意味で???を付加。「駄目」にもいろいろなレベルがあるのだ。

 こういう事象の分析は例のミニマリストプログラムや最適理論とかいう現在の生成文法の専門家が大喜びしそう、というよりすでに実際に研究論文があるのかもしれないが、私はそんなものを探しているといつまでたっても映画が見られないのでパスさせてほしい。


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 マカロニウエスタンでは「3人のセルジオ」という言い方をすることがある。ベスト作品の多くをセルジオという名前の監督が撮ったからである。その三人とはセルジオ・レオーネ、セルジオ・コルブッチ、セルジオ・ソリーマ。レオーネとコルブッチはジャンルファン以外の普通の映画好きの間でも有名だから今更紹介などする必要もないだろうが、三人目のソリーマは知らない人もいるのではないだろうか。全部で五作西部劇を撮ったレオーネ、13作という数だけは最大数の西部劇を世に出したコルブッチに対し、ソリーマが作ったのは僅かに3作品だが、特に最初の2映画はマカロニウエスタンの傑作として伝説化している。最後の3作目がちょっと弱いかなとは思うが、ソリーマにしては弱いというだけで、その他のマカロニウエスタンの平均水準は完全に越えているから安心していい。『殺しが静かにやって来る』などの大傑作をつくる一方、目を覆うような駄作も生産したムラのあるコルブッチとは対照的である。
 レオーネはクリント・イーストウッド、コルブッチはフランコ・ネロを起用してスターの座に押し上げたが、ソリーマはキューバ生まれで後にアメリカに移住したトマス・ミリアンを使って成功した。ソリーマ自身、「レオーネにはイーストウッド、コルブッチにはネロ、そして私にはミリアンがいる」と言っていたそうだ。ミリアンはラテン系のイケメンであるが、コミカルな役も多い。昔の言葉で言う「二枚目半」というところだろう。
 実はうるさく言えばもう一人、セルジオという名の監督がいる。アンソニー・ステファン主役で西部劇を撮ったセルジオ・ガローネという人だが、この人の作品群ははっきり言ってB級ばかりなので、この人が勘定されることはない。つまり「4人のセルジオ」という言い方はしないのである。
 コルブッチもレオーネも1990年代に亡くなってしまったが、ソリーマは2015年まで存命だった。電子版ではあったが、新聞に死亡記事も載った。私の世代の人ならチャールズ・ブロンソン主演の『狼の挽歌』という映画を知っている人も多いのではないだろうか。これを撮ったのがソリーマである。

 さて、辞書などには出ていないが(当たり前だ)Nicht-Leone-WesternあるいはNon-Leone-Westernという言葉がある。「非レオーネ西部劇」。セルジオ・レオーネを別格扱いし、それ以外の手で製作された西部劇という意味である。言葉どおりに取ればジョン・フォードもハワード・ホークスも非レオーネ西部劇のはずだが、普通マカロニウエスタンのみを指す。人が3人寄れば必ず話題に上るのが「最高の非レオーネ西部劇はどれか?」ということであるが、うちにある本の巻末にも「非レオーネ西部劇ランキング」というアンケートの結果が載っている。もちろんこの手のアンケートはそこら中でいろいろな人がやっている上、これも母集団をしっかり設定しているわけでもなんでもないので単なる茶のみ話以上ではないが、見てみると結構面白い。

1.『復讐のガンマン』 1966、セルジオ・ソリーマ
2.『殺しが静かにやって来る』 1968、セルジオ・コルブッチ
3.『続・荒野の用心棒』 1966、セルジオ・コルブッチ
4.『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』 1967、ジュリオ・ペトローニ
5.『血斗のジャンゴ』 1967、セルジオ・ソリーマ
6.『群盗荒野を裂く』 1966、ダミアノ・ダミアーニ
7.『西部悪人伝』 1969、ジャンフランコ・パロリーニ
8.『さすらいのガンマン』 1966、セルジオ・コルブッチ
9.『情無用のジャンゴ』 1967、ジュリオ・クェスティ
10.『ガンマン大連合』 1970、セルジオ・コルブッチ
11.『怒りの荒野』 1967、トニーノ・ヴァレリ
12.『ケオマ・ザ・リベンジャー』 1976、エンツォ・ジロラーミ
13.『豹/ジャガー』 1968、セルジオ・コルブッチ
14.『続・荒野の一ドル銀貨』 1965、ドゥッチョ・テッサリ
15.『... se incontri Sartana prega per la tua morte』(日本未公開) 1968、
   ジャンフランコ・パロリーニ
16.『続・復讐のガンマン 走れ、男、走れ!』 1968、セルジオ・ソリーマ
17.『傷だらけの用心棒』 1968、ロベール・オッセン
18.『黄金の3悪人』 1967、エンツォ・ジロラーミ
19.『怒りの用心棒』 1969、トニーノ・ヴァレリ
20.『黄金の棺』 1966、セルジオ・コルブッチ

いかにソリーマの作品の評価が高いかわかる。私個人としては『ミスター・ノーボディ』が入っていないのが意外だ。もしかすると「ある意味ではレオーネ作品」と見なされて票が逃げたのかもしれない。
 以前にも書いたが(『22.消された一人』『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』の項参照)、『復讐のガンマン』の原題はLa resa dei conti「ツケの清算」、ドイツ語ではDer Gehetzte der Sierra Madre「シエラ・マドレの追われたる者」で、いかにもソリーマらしい気の利いたタイトルであった。私はこの映画にこの邦題をつけた奴を許さない。
 さらに許さないのがソリーマの二作目につけられた『血斗のジャンゴ』である。この映画の原題はfaccia a faccia、ドイツ語でもこれを直訳してVon Angesicht zu Angesicht(Face to face)という意味で、現に英語のタイトルもそうなっている。主役の名もジャンゴなどとは関係ないし、ストーリーも『復讐のガンマン』ですでに明確になっていたソリーマの社会派路線をさらに発展させ、登場人物の人格が映画の中で変わっていき善役と悪役がキャラクター転換するというマカロニウエスタンらしからぬ非常に練ったもの。主役を演じるのもトマス・ミリアンとジャン・マリア・ヴォロンテという大物だ。このタイトルはたぶん「いままで隠れていた自分の本当の姿に向き合う」という含みだと思うのだが、この傑作をどうやったら『血斗のジャンゴ』などと命名できるのが謎である。神経に異常がある人だったか、映画を全くみていないかのどちらかであろう。
 この二つが「ベスト非レオーネ西部劇」の上位にランクされているのも当然だが、実は私は「ベスト非レオーネ」どころか、レオーネの作品よりこっちの方が二つとも好きである。困るのは『復讐のガンマン』と『血斗のジャンゴ』のどちらが好きかと聞かれた場合だ。どちらも甲乙つけがたいからだ。
 ストーリーは『血斗のジャンゴ』の方に軍配があがるだろう。両主役のミリアンとヴォロンテもいいが、なんと言っても私がこの映画で好きなのは第三の主役、ミリアンとヴォロンテの間をウロチョロするウィリアム・ベルガーである。特にラストシーンでのベルガーはメチャクチャかっこよく、私としてはこれを「マカロニウエスタンで最も印象に残るシーン」として推薦したいほどだ。このシーンは砂漠での撮影だったが、そのとき雲が流れていて頻繁に光の具合が激しく変わったため、シーケンスのつながりを案じてソリーマは撮り直しも覚悟したそうだ。幸い出来上がったラッシュを見たらOKだったという。OK以上である。
 ただ、この映画にはマカロニウエスタン特有の「毒」というかエキセントリックさがやや少ない。普通の人の鑑賞にも堪えるまともな映画であることが裏目に出た感じだ。
 『復讐のガンマン』はなんと言ってもマエストロ、エンニオ・モリコーネのテーマ曲が地獄のようにいい。私はこのサントラを聴くたびにその場で死んでもいいような気になるのだ。以前誰かが「モリコーネ節」という言い方をしているのを見たことがあるが、この映画ではまさにそのモリコーネ節全開なのである。女性歌手クリスティ(本名クリスティナ・ブランクッチ、私の知り合いにこの人を「クリスティ姉さん」と呼んで慕っている人がいた)の歌声のイントロで虜にされた直後、賞金稼ぎリー・バン・クリーフが最初の獲物(?)に会うシーンでさっそくまた気高いメロディが響く。ちょっと高級なソリーマ映画にまさにドンピシャな気高さだ。ラスト近くで主役のトマス・ミリアンが追われていくシーンがあるが、そこで流れるエッダ・デロルソのソプラノのスコアの美しさは例のEcstasy of Goldに優るとも劣らない。このソプラノにノックアウトされたすぐ後、ラストの決闘シーンでもゾクゾクするようなモリコーネサウンドが惜しみなく注がれる。それもあってかこの映画の英語のタイトルはこの決闘シーンを売りにしてThe big gundownとなっている。

 この『復讐のガンマン』のサウンドトラックが死ぬほど好きなのは私だけではないらしく、やっぱり上述の本に載っていた「好きなマカトラランキング」ではこれが一位になっている。また、ソリーマ二作目ではなく、三作目の『続・復讐のガンマン』が入ってきている。ここではレオーネ映画のサントラも入っているから、つまり『復讐のガンマン』はベストマカトラということになる。なお、「マカトラ」というのはマカロニウエスタンのサウンドトラックの略である。作曲家の名前を見ればわかるように、マエストロの圧勝だ。

1.『復讐のガンマン』 1966、エンニオ・モリコーネ
2.『続・夕陽のガンマン』 1966、エンニオ・モリコーネ
3.『大西部無頼列伝』 1970、ブルーノ・ニコライ
4.『夕陽のガンマン』 1965、エンニオ・モリコーネ
5.『ウエスタン』 1968、エンニオ・モリコーネ
6.『さすらいのガンマン』 1966、エンニオ・モリコーネ
7.『Buon funerale amigos… para Saltana』(日本未公開) 1970、ブルーノ・ニコライ
8.『続・復讐のガンマン 走れ、男、走れ!』 1968、ブルーノ・ニコライ
9.『続・荒野の用心棒』 1966、ルイス・エンリケス・バカロフ
10.『西部悪人伝』 1969、マルチェロ・ジョンビーニ
11.『殺しが静かにやって来る』 1968、エンニオ・モリコーネ
12.『豹/ジャガー』 1968、エンニオ・モリコーネ
13.『荒野のドラゴン』 1973、ブルーノ・ニコライ
14.『星空の用心棒』 1966、アルマンド・トロヴァヨーリ
15.『un uomo, un cavallo una pistola』(日本未公開)、1967、ステルヴィオ・チプリアニ
16.『怒りの荒野』 1967、リズ・オルトラーニ
17. 『ガンマン大連合』 1970、エンニオ・モリコーネ
18. 『アヴェ・マリアのガンマン』 1969、ロベルト・プレガディオ
19. 『Anda muchacho, spara』(日本未公開) 1971、ブルーノ・ニコライ
20.『続・荒野の一ドル銀貨』 1965、エンニオ・モリコーネ

 もうちょっとバカロフの『続・荒野の用心棒』とオルトラーニの『怒りの荒野』のランクが高くてもいいんじゃないかという感じだが、このランキングがマカトラ、つまり主題曲ばかりではなく、映画に流れる全体の音楽をも考慮しているからかもしれない。メイン・テーマだけ考慮に入れたらこの二つはもっと上がるだろう。もっともそれでも『復讐のガンマン』の位置は下がるまい。『荒野の用心棒』が出てこないのもわからなかったが、私の持っているレコード(を焼き直ししたCD)はタイトルがFor a few dollars more、つまり『夕陽のガンマン』だが、『荒野の用心棒』の曲も全部納められている。だから上の第4位は『荒野の用心棒』も兼ねているのだと思う。
 それにしてもここにリストアップされたタイトル。涼しい顔をしてこういう映画の名をあげる投票者のフリークぶりには脱帽するしかない。

 ソリーマが生前のインタビューでモリコーネについて親愛の情をこめて語っているのを読んだことがある。当時はモリコーネはオスカーの名誉賞さえ貰っていなかったのだが、ソリーマはこのアカデミー選考委員会をけなして「モリコーネにやらなくて誰にやれというのでしょうかね」と言っていた。さらに「まあ、でもモリコーネは作品を作りすぎたんですよ。で、選考委員もどれにやっていいのかわからなくなったんでしょう」。つまり恥かしいのは音楽賞をもらえていないモリコーネのほうではなくて、いまだにモリコーネに賞をあげ損ねているアカデミー会員のほう、というわけだ。その後モリコーネは名誉賞とさらにその後音楽賞をとったが、「今頃やっとマエストロにあげやがって。アカデミー賞選考委員も見苦しい奴らだな」と思ったのは私だけではないはずだ。
 さらにソリーマは続けて「いやしかし、エンニオはあれだけの天才なのに、見かけはまるで郵便局のおじさんってのが愉快ですな」。こういう事を堂々といえるのはソリーマだからこそだろう。

 私の知り合いにはマカロニウエスタンに詳しい人も大分いるが、彼らの詳しさといったらとても私なんかの太刀打ちできるところではない。私が「ソリーマの作品はその質の割には知られていなくて残念ですね」とかうっかり言うと「そんなことはないですよ。まともな人なら少なくとも彼の最初の2作は皆知ってます。『復讐のガンマン』なんてマカロニウエスタンの話になれば必ず口に上ります」と反論され、「『血斗のジャンゴ』ではウィリアム・ベルガーが一番好きなんです」というと「なるほど。まあでも、普通の日本人はベルガーと言うと『西部悪人伝』のバンジョーやった人、といったほうが通るんじゃないかな」とコメントされる。『西部悪人伝』は上記のリストに両方とも登場しているが、リー・ヴァン・クリーフが主役をやった作品である。私はまだ見たことがない。この人たちの「まともな人」「普通の日本人」の定義がちょっと私の考えているのと違う気がするが、とにかく彼らからみたら私など完全に無知な小娘であろう。随分年食った小娘ではあるが。


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 以前に『ブロークバック・マウンテン』を見たときになぜか突然高校生の時早川文庫で読んだラリイ・マクマートリーの『遥かなる緑の地』という小説を思い出した。プロットというかモティーフに並行するものを感じたからである。何の変哲もない小さな町で一生を過ごした男の回想録。もちろん若いころはいろいろ外に出たり事件もあったが歳を取ると何もかも色あせて、人生の夕暮れになって来し方を回想してほっと溜息をつく。そんな感じである。でもどうしてこの小説が突然心に浮かんだのか自分ではわからないまま、何気なくこの映画のクレジットを見て驚いたの驚かないのって(驚いたのだ)。脚本がまさにそのラリイ・マクマートリイだったのだ。この人が小説家から脚本家に転向していたことをそのとき初めて知ったが、調べてみたら『遥かなる緑の地』も映画化はされている。地味な出来だったので忘れられているが。
 私のような素人は映画というとまず主演俳優、次に監督に目が行き脚本までは気がまわらないことが多いが考えてみれば脚本は映画のいわば素描、設計図である。黒澤明も「映画監督は本が書けなければダメだ」と言っていたそうだし、絵でも画家の特徴が最もよく出るのは素描である。仕上げられた絵だけ見ていてもわからない部分があるだろう。

 さて、私がこのブログで執拗に話題にしている『血斗のジャンゴ』の脚本を書いたのはセルジオ・ドナーティである。マカロニウェスタンの脚本家の最高峰だ。このジャンルの最高傑作として常にトップで言及され、他の作品の追随を許さない『ウェスタン』はドナーティの手によるものだ。あちこち「アヒル検索」(『112.あの人は今』参照)したり、家に落ちていた資料を調べてみると、レオーネは『荒野の用心棒』の脚本を最初このドナーティに打診したが断られたそうだ。でも次の『夕陽のガンマン』ではドナーティを引っ張り込むことに成功した。クレジットでは脚本ルチアーノ・ヴィンツェンツォーニとなっているが、陰でドナーティも協力したらしい。さらに『続・夕陽のガンマン』にもこの人は関わっていて(ここでもクレジットには出ていない)、あの、拷問行為が外にバレないように建物の周りで大音響で音楽を響かせるシーンはドナーティのアイデアとのことだ。その後『ウェスタン』で初めて正規に名前が出たが、『夕陽のギャングたち』を書いたのもドナーティである。
 ソリーマの『復讐のガンマン』、『血斗のジャンゴ』は両方ともドナーティの脚本。つまり『復讐のガンマン』は『続・夕陽のガンマン』の直後、『血斗のジャンゴ』は『ウェスタン』の直前に書かれたのだ。例えば『復讐のガンマン』と『続・夕陽のガンマン』だが、この二つの映画は時期的にほとんど同時に作られている。『続・夕陽のガンマン』は1966年製作で本国(イタリア)公開が1966年12月23日、『復讐のガンマン』が1967年3月3日で、『復讐のガンマン』がたった2ヶ月遅いだけである。ドイツの劇場公開は『復讐のガンマン』の方が半年も早く1967年6月27日、『続・夕陽のガンマン』が1967年12月15日。制作されてからほぼ一年間もどこで何をしていたのかね夕陽のガンマン君たち?

 こういう具合だからドナーティが関与しなかった黒澤のパクリ『荒野の用心棒』以降の作品、『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』(レオーネ)『復讐のガンマン』『血斗のジャンゴ』(ソリーマ)『ウェスタン』(レオーネ)間でモティーフというかストーリーに共通性が感じられるのも根拠のないことではない。どれも主人公が3人いて、誰と誰が実は味方なのかはっきりわからない、というより一応2者がくっついてもう一人と対決する形になっているのだが、この2者の結びつきがうさん臭く、どうもクリアに2対1という把握が出来ない、つまりいわば決闘が三つ巴になっているということである。
 その際ソリーマとレオーネでは三つ巴のパターンがちょっと違い、ソリーマでは最初2対1という形をとっていたのが最後に壊れて最初組んでいた二人のうちの1人が対抗側の1人に回る。『復讐のガンマン』ではウォルター・バーンズ(およびその一味)とリー・バン・クリーフとでトマス・ミリアンを追っていたのが最後でバン・クリーフがミリアンの側についてバーンズ(の前にさらに一味を二人)を撃ち殺すし、『血斗のジャンゴ』では逆にジャン・マリア・ヴォロンテとトマス・ミリアンの二人組みをウィリアム・ベルガーが追うが、最後の瞬間にミリアンがベルガーを守る側に立ってヴォロンテを殺す。
 つまりソリーマでは2対1が1対2になる、あるいはその逆というわけで敵対味方という二項対立自体は比較的はっきりしているが、レオーネではこの2人組そのものの結びつきがユルユルというか「組」になっていないというか、とにかく「2」があくまで暫定的でしかたなくくっついているというニュアンスが濃い。ソリーマとは逆にレオーネではむしろ始め危なっかしかった2人組が最後でやっぱりこの二人はコンビであったことがわかる。いわばソリーマとレオーネでは胡散臭さの方向が逆になっているのだ。それでも『夕陽のガンマン』では仲間割れを起こしながらもイーストウッドとリー・バン・クリーフは結構明確にコンビをなしてジャン・マリア・ヴォロンテと対抗しているが、『続・夕陽のガンマン』だと二人組みの結束が相当怪しくなってきて、組んでいるはずのイーストウッドとイーライ・ウォラックは常に互いをだましあい出し抜きあい、ほとんど敵同士である。この二人と対抗するリー・バン・クリーフとの決闘シーンも2対1というより文字通り三つ巴の決闘。さらにそれが『ウエスタン』になると果たしてチャールズ・ブロンソン&ジェイソン・ロバーツ対ヘンリー・フォンダと言っていいのかさえ怪しくなってくる。かと言って完全な三つ巴でもない。ロバーツが「フォンダ側にはつかない」ということである意味では明確にブロンソン側に立っているからである。しかしフォンダとブロンソンの果し合いには関与していない。
 もっともソリーマの『復讐のガンマン』もリー・バン・クリーフ側のバーンズの周りにさらに何人かくっついていて、そのうちの1人Gérard Herter(本当はGerhard Härtter、ゲルハルト・へルター)演じるフォン・シューレンベルクとリーン・バン・クリーフは最初から仲が悪いから二項対立にちょっとヒビが入ってはいる。しかしそれより興味深いのは、途中で追われる側のトマス・ミリアンが吐くセリフだ。「人間には2つのグループがあるのさ。一つは逃げるほうで他方はそれを追いかけるんだ」。これはレオーネの『続・夕陽のガンマン』でイーストウッドがイーライ・ウォラックに言う、「人間には2種類のタイプがあってな。一方は銃を持っている、他方は穴を掘るんだ」というのとそっくりだ。もしかしたら目潰しシーンのほかにこのセリフもドナーティの発案かもしれない。

『夕陽のガンマン』
一応組んでいる(はず)のイーストウッドとリー・バン・クリーフ
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それと対立するジャン・マリア・ヴォロンテ
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『続・夕陽のガンマン』
胡散臭さ満載のコンビイーストウッドとイーライ・ウォラック。
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そのコンビよりさらに胡散臭い対立側のリー・バン・クリーフ
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『復讐のガンマン』
最初ウォルター・バーンズとリー・バン・クリーフが組んで
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トマス・ミリアンを追うが最後リー・バン・クリーフはミリアン側につく
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『血斗のジャンゴ』
追う側ウィリアム・ベルガーが
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ジャン・マリア・ヴォロンテと共に追われる側だったトマス・ミリアン(右)に命を助けられる。
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『ウエスタン』
そもそもコンビにさえなっていないチャールズ・ブロンソンとジェイソン・ロバーツの「コンビ」
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ブロンソンの仇ヘンリー・フォンダ
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 話が少し逸れるが、このマカロニウェスタンらしからぬ社会的なプロットの『血斗のジャンゴ』でウィリアム・ベルガーのやった役、「ピンカートン探偵社のチャーリー・シリンゴ」というのは実在の人物である。アメリカではワイアット・アープとかあの辺といっしょのカテゴリーで伝説と化している人物だ。奇しくもシリンゴはベルガーの生まれた年、1928年に死んでいる。
 この人はアープや、日本で言えば坂本竜馬のようにTVや映画に何回も描かれている。なんとウィキペディアにも「映画化されたシリンゴのリスト」という項があって、しっかり『血斗のジャンゴ』が載っていた。もっともベルガーのシリンゴには(a fictionalized) Siringoという注がついていたが。別の場所でも「チャーリー・シリンゴはセルジオ・ソリーマの映画でウィリアム・ベルガーによっても演じられている」という記述を見かけたから、ひょっとしたらこの映画は「チャーリー・シリンゴの映画化」というそのことだけで、結構いつまでも名が残るかもしれない。まさかそれを意図的に狙ったわけでもないだろうが。
 さらに話が逸れるが、例のあまりにも有名な『ウエスタン』のメインテーマ。これを作るのにモリコーネが非常に苦しんだことは最近のインタビューでモリコーネ氏自身が語っているそうだ。氏がいつまでも「何もしてくれない」ので、業を煮やしたレオーネは途中で他の人にも作曲を依頼し、そっちを録音するところまで行ったという。だがやっと出来上がってきたモリコーネの作品を聴いてレオーネは半分決まりかかっていた別のスコアをボツにした。そりゃモリコーネのあの曲と比べられたらどんな曲だってボツになるだろう。

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