アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:古教会スラブ語

 前にも書いたように大学では第二副専攻が南スラブ語学、具体的にはクロアチア語だった。それを言うと友人はたいてい「何だよそりゃ?」といぶかるが、人に言われるまでもなく、自分で専攻しておきながら自分でも「何だよこりゃ?」と思いながらやっていた。実は別にクロアチア語が特にやりたかったから第二副専攻にしたのではないのだ。

 人には大抵「専攻はロシア語です」、と言っているが、正確には私の専攻は「東スラブ語学」である。つまり本来ならば「ロシア語、ベラルーシ語(昔でいうところの白ロシア語)、ウクライナ語ができるが、その中でも主としてやったのがロシア語」ということだ。主としてやったも何も私はロシア語しかできない(そのロシア語も実をいうとあまりできない)。が、その際こちらでは規則があって、東スラブ語学を専攻する者は、その「主にやった」東スラブ語派の言語(例えばロシア語)のほかにもう一つスラブ語派の言語、それも東スラブ語以外、つまり西スラブ語派か南スラブ語派の言語の単位が必要だった。これを「必修第二スラブ語」と言った。

 気の利いた学生はドイツで利用価値の高い西スラブ語派の言語(ポーランド語、チェコ語、スロバキア語、上ソルブ語、下ソルブ語のどれか)をやったし、ロシア語のネイティブならば南スラブ語派でもブルガリア語を勉強したがる人が多かった。ブルガリア語は中世ロシアの書き言葉だった古教会スラブ語の直系の子孫だからロシア人には入っていきやすいからだろう。私のいたM大学には南スラブ語派のクロアチア語しか開講されていなかったのだが、当時隣のH大で単位をとればM大でも第二スラブ語の単位として認められたから、大学の規模も大きく選択肢の広いH大にポーランド語やブルガリア語をやりにでかけて行く学生が結構いた。が、私は残念ながら当時子供がまだ小さかったので、家を長い間空けられず外部の大学に出て行けなかったためと、まあ要するにメンド臭かったのでそのままM大でクロアチア語をやったのだ。
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古教会スラブ語のテキスト。古教会スラブ語は「古ブルガリア語」と呼ばれることもある。ロシア語を大学で専攻する者は(日本でも)必ずこれをやらされる(はずだ)。 

 そこで考えた。どうせ選択肢がクロアチア語しかないとすれば必修第二スラブ語の単位取りのためだけにやるのももったいない、この際皿まで毒を食ってやれ、と。それでクロアチア語を単なる第二スラブ語としてではなく「第二副専攻」として、もうちょっと先まで深く(でもないが)勉強することにしたのだ。
 ちなみにクロアチア語、つまり南スラブ語学を主専攻や副専攻としてやる者はこちらはこちらでまた「必修第二スラブ語」、つまり今度は南スラブ語派以外のスラブ語族の一言語の単位が必要になるわけだが、ここでは東スラブ語派のロシア語を取る者が大多数、というかほぼ全員だった。私は主専攻としてすでにロシア語をやっていたからこれが「クロアチア語専攻者にとっての第二スラブ語」の機能も兼ねていて一石二鳥ではあった。
 念のため繰り返すと「副専攻南スラブ語学」というのも本来「主要言語がクロアチア語」という意味、つまり「ブルガリア語、マケドニア語、クロアチア語、セルビア語、ボスニア語、スロベニア語ができるがその中でも主としてやったのはクロアチア語」ということだ。際限がない。これがまた下手にロシア語と似ているからもう大変だった。

 例えばロシア語のтрудный(トゥルードヌィ)は「難しい」という意味だが、これと語源が同じのクロアチア語trudan(トゥルダン)は「疲れている」だ。一度「クロアチア語は難しい」と言おうとして「クロアチア語は疲れている」と言ってしまったことがある。
 でも「言葉」という言葉はクロアチア語でもロシア語でも男性名詞だからまだよかった。この形容詞trudanが女性名詞にかかって女性形trudna(トゥルドナ)になると「妊娠している」という意味になってしまう。ドイツ語などでは「言葉」という言葉(Sprache)は女性名詞だからドイツ語でだったらクロアチア語という言葉は妊娠できるのだ。
 ついでだが、クロアチア語で「難しい」はtežak(テジャク)である。

 また、ロシア語でживот(ジヴォート)と言ったら第一に「腹」の意味だが、これに対応するクロアチア語のživot(ジヴォト)は「人生・命」。ロシア語でもживотに「命」の意味がないことはないのだが、すでに古語化していて、「人生・命」は現代ロシア語では大抵жизнь(ジーズニ)で表現する。で、私は一度「人生への深刻な打撃」と書いてあるクロアチア語のテキストを「腹に一発強烈なパンチ」と訳してしまい、高尚なクロアチア文学に対する不敬罪で銃殺されそうになったことがある(嘘)。

 もっとも西スラブ語派の言語、例えばポーランド語も油断が出来ない。ポーランド語では「町」をmiasto(ミャスト)というがこれは一目瞭然ロシア語のместо(ミェスタ)、クロアチア語のmjesto(ミェスト)と同源。しかしこれらместоあるいはmjestoは「場所」という意味だ。そしてむしろこちらの方がスラブ語本来の意義なのである。「町」を意味するスラブ語本来の言葉がまだポーランド語に残ってはいるが、そのgród(グルート)という言葉は古語化しているそうだ。ところがロシア語やクロアチア語ではこれと語源を同じくする語がまだ現役で、それぞれгород(ゴーラト)、grad(グラート)と「町」の意味で使われている。
 しかもややこしいことに「場所」を表すスラブ本来の言葉のほうもポーランド語にはちゃんと存在し、「場所」はmiejsce(ミェイスツェ)。これもロシア語のместо、クロアチア語のmjestoと同源で、つまりポーランド語の中では語源が同じ一つの言葉がmiasto、miejsceと二つの違った単語に分れてダブっているわけだ。

 私は最初「町」と「場所」がひとつの単語で表されているのが意外で、これは西スラブ民族の特色なのかと思っていたのだが、調べてみると、「町」のmiastoはどうも中世にポーランド語がチェコ語から取り入れたらしい。なるほど道理で「場所」を表す本来のスラブ語起源のポーランド語miejsceと「町」のmiastoは形がズレているはずだ。が、そのチェコ語の「町」(město、ミェスト)ももともとは中高ドイツ語のstattを直訳(いわゆる借用翻訳)したのが始まりとのことだ。これは現在のドイツ語のStadt(シュタット、「都市」)の古形だが、中高ドイツ語では(つまり12世紀ごろか)「場所」とか「位置」とかいう意味だったそうだ。動詞stehen(シュテーエン、「立つ」)の語幹もこれ。中世には都市とは城壁で囲まれているものであったのが、しだいに城壁がなく、その代わり中央に教会だろなんだろ中心となるものが「立っている場所」が都市となっていった。言葉もそれにつれて意味変遷し、「場所」から「都市」に意味変換が起こりつつあった頃、チェコ語がそれを正直に写し取った。そこからさらにポーランド語が受け取り、調べてみると東スラブ語派のウクライナ語もそのまたポーランド語から借用したらしく、「町」は」місто(ミスト)である。そして「場所」はМісце(ミスツェ)だから、ここでも語彙が二重構造になっているわけだ。

 灯台下暗し、「町」あるいは「都市」と「場所」をいっしょにしていたのはドイツ語のほうだったのである。


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 人からちょっと聞かれたことがあって大学図書館から古教会スラブ語の教科書を借り出したことがある。何気なく筆者の名前を見たらアウグスト・レスキーン(A. Leskien)だったのでびっくりした。ドイツ青年文法学派(Junggrammatiker)の主要メンバーだった人だ。

 19世紀に比較文法理論が花開いてから1930年代のプラーグ学派活動期まで、言語学の中心はヨーロッパにあった。それも大陸部が強かった。ドイツ語の授業でも教わるが、「青年文法学派」というのはそこで1870年ごろドイツのライプチヒを中心としていた一派だ。つまりレスキーンはそのころの人。この教科書も初版は1905年、1910年の第五版へレスキーンが書いた「始めに」などもまだしっかり載っている。彼は生まれが1840年だから、この「始めに」はレスキーン70歳の時のものになるわけか。
 レスキーンの名はたいていの「言語学者事典」に載っている。たまたま家にある大修館の「言語学入門」の第八章「歴史・比較言語学」の10.「研究の歴史」にも出ていた。そういう本がいまだに学生の教科書として通用しているのが凄い。しかもこれを1990年に再出版したハイデルベルクの本屋(出版社)はなんと創業1822年だそうだ。

 さらについでに図書館内を見まわしてみたら音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイが『古教会スラブ語文法』という本を出している。出版は1954年ウィーンだが、原稿自体は1920年代にすでにトゥルベツコイがドイツ語で書いて脱稿してあったのだそうだ。夫人と氏の同僚たちが残された原稿を整理して死後出版した。トルベツコイは1938年にウィーンで亡くなっている。

 こういうのを見ると言語学の歴史を肌で感じているような気がして畏敬の念に打たれる。なんだかんだ言ってヨーロッパの学問文化は重みというか蓄積があるな、とヒシヒシと感じてしまうのはこんな時だ。

 トゥルベツコイや構造主義言語学のヤコブソンなどコスモポリタンな一般言語学者というイメージが定着しているので、トゥルベツコイが古教会スラブ語の本を書いているのを見たり、ヤコブソンが「ロシア語аканье(アーカニエ。ロシア語で母音oがアクセントのない位置でaと発音される現象。『6.他人の血』の項参照)について」などというタイトルの論文を書いてるの見たりするとむしろ「えっ、この人たちこんなローカルな話題の論文も書くの?!」とむしろ意外な気がする。さらにトゥルベツコイがロシア語で書いているのを見て「そうか、トゥルベツコイやヤコブソンってロシア語も出来るのか…」とか馬鹿なことで感動したり。話が逆だ。ロシア語のほうが彼らの母語である。
 トゥルベツコイは妥協を許さない、いい加減なことができない人物だったらしく、当時の言語学者のひとりから「言語学会一の石頭」と褒められた(?)という。レスキーンはどういう人だったのだろう。ヤコブソンもそうだが、ド・ソシュールやチョムスキーなど、言語学者はイメージとしてどうも厳しそう、というか怖そうな人が多い。日本の服部四郎博士には私の指導教官の先生が一度会ったことがあるそうだが、「物腰の柔らかい、親切な紳士だった」と言っていた。でも一方で、東大で博士の音声学の授業に参加した人は、氏が「音声学ができないのは耳が悪いからではなく頭が悪いからだ」と発言したと報告している。やっぱり怖いじゃないか。

 「言語学者」の範疇には入らないかもしれないが、ミュケーナイの線文字Bを解読したマイケル・ヴェントリスの人物に関しては次のような記述がある。線文字Bで書かれているのはギリシア言語の知られうる最も古い形、ホメロスのさらに700年も前に話されていた形だが、ヴェントリスはそれを解読した。その経歴はE. Doblhoferの書いたDie Entzifferung alter Schriften und Sprachen(古代の文字および言語の解読)という本に詳しいが、その人生の業績の頂点にあった時、交通事故によりわずか34歳の若さで世を去った氏を悼んだ同僚J.チャドウィックの言葉が述べられている(280-281ページ):

Es war bezeichnend für ihn, daß er keine Ehrungen suchte, und von denen, die er empfing (...) sprach er nicht gern. Er war stets bescheiden und anspruchslos, und sein gewinnendes Wesen, sein Witz und Humor machten ihn zu einem überaus angenehmen Gesellschafter und Gefährten. Er scheute keine Mühle für andere und stellte seine Zeit und Hilfe großzügig zur Verfügung. Vielleicht werden nur die, die ihn kannten, die Tragödie seines frühen Todes ganz ermessen können.

「彼の彼らしかった点は、世の賞賛を集めよう、などとはまったくしようとしなかったこと、そして受け取ってしまった賞賛の話を(…)するのは嫌がったことだ。常に謙虚で無欲で、人を魅了せずにはおかないその人となり、ウィットとユーモアで、本当に付き合うのが楽しい人だった。面倒な顔もせずにいつでも他人のために時間をさいてくれ、手助けをしてくれるのにやぶさかではなかった。ひょっとしたら、彼を知っていた者達だけが、その早い死が如何に大きな損失かを本当に理解できるのではなかろうか」

 ヴェントリスは本業が建築家で、言語学は趣味だった。チャドウィックはバリバリの本職言語学者だったが、「素人」のヴェントリスと互角の言語学者として付き合い、「解読の先鞭をつけたのはヴェントリス、私は歩兵のようなもので、単に地をならし、橋を架けて進みやすいようにしただけだ」と言っている。チャドウィックの謙遜・無欲も相当なものだ。
 すると言語学者が「怖い」のはいい加減に知ったかぶりでものをいう人に対してだけで、きちんとした知識のある研究者に対しては腰も低く親切だということか。やっぱり私にとっては怖いじゃないか。

 それにしても、私が死んだら私の友人は何と言ってくれるか、想像するだけでそれこそ怖い。

「彼女の彼女らしかった点は、目立ちたがりで、たまに誉められたりするとすぐ図に乗ってひけらかしたことだ。出しゃばりで、注文が多く、鼻をつままれるその人となり、下品なギャグと笑えない冗談で、できれば避けたい人だった。何か頼まれるとすぐ渋い顔をし、しつこく手助けの恩を着せたがった。ひょっとしたら、彼女を知っていた者は、本当に死んで良かったと胸をなで下ろしているのではなかろうか」

 ヴェントリスとは差がありすぎる…。

 ところで私はあの、泣く子も黙る大言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールと誕生日が一日違いなのだが、この一日の差が死を招いてしまったのだと思っている。たとえばチンパンジーとホモ・サピエンスはたった1パーセントくらいしかDNAが違わないそうだが、後者が月まで行けたのに対し、前者はちょっと大きな川があるともう越えることができずにボノボという亜種を発生させてしまうほど差が開いてしまった。私とソシュールもたった一日の差で向こうは大言語学者に、こちらは言語学的サルになってしまったのだと思っている。そしてさすがサルだけあって私は長い間フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の名をフェルディナンド・ソシュールかと思っていたのであった。


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 子供の頃、英語で「私には姉がいる」をI have a sisterというと聞いて驚愕したことをまだ覚えている。まず「姉」と「妹」を区別しないのに驚いたが、この文脈で「持つ」という動詞を使うのがまた意外だった。日本語ならここで英語のbe、ドイツ語のseinにあたる「ある・いる」という動詞で表現する。
この、「ある」か「持つ」か、つまりbeかhaveかという区別はよく議論されるテーマだそうで、そもそもの言いだしっぺはA・メイエとその弟子のE・バンヴェニストあたりらしい。「be言語」「have言語」という言葉も聞くが、実は私はいままであまり深く考えもせずにテキトーに(またかよ)これらの言葉を使っていた。私が理解していたのはだいたい次のようなことだ。
 大まかにいって現在のヨーロッパにおける印欧諸語がhave言語なのに対し、ヨーロッパでも非印欧語は、フィンランド語やハンガリー語などはbe言語である。 さらにロシア語を含む東スラブ諸語は日本語と同じくbeを使う、つまり「私には姉がいる」タイプだが、南スラブ諸語・西スラブ諸語は「私は姉を持っている」である。

 ところが実際はどうもそう単純に片付けられる問題ではないらしい。まず第一にヨーロッパ外の印欧語でもhaveを使うものや逆にヨーロッパの印欧語でもbeを使う例があるし、第二にそもそもhaveもbeも両方使う言語が多いので、これはhave言語、あれはbe言語とギッチリきれいに線引きすることはできない。ちょっと調べてみた。

 まずヨーロッパの非印欧語トルコ語は図式通りにbe言語で、そもそもhaveにあたる動詞がないそうだ。「ある」または「ない」にあたるvarとyokを使う。

bir ev-im var
一軒の + 家が-私の + ある
→ 私には家が一軒ある。(= 私は家を一軒持っている)

 
telefon-um yok
電話-私の + ない
→ 私には電話がない。(= 私は電話を持っていない)

ちなみにhaveをトルコ語辞書で引くとsahip olmakと出てくる。sahipが「所有者」(しかもアラビア語からの外来語)、olmakが「ある」だから、「○○の所有者である」と表現するしかないらしい。日本語ではここで「トルコ語にはhaveにあたる動詞がない」と「トルコ語はhaveにあたる動詞を持たない」の両方の表現が可能だから、それに比べてもトルコ語は相当ハードなbe言語だ。

 古モンゴル語もbe言語だったそうだが、トルコ語と違って「私」は属格でなく与格(処格)になる。

nadur morin buy
私に + 一匹の馬が + いる・ある
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)


 古グルジア語もbe。

ara ars čuen tana uprojs xut xueza puri
ある +(否定)+ 我々に + と共に + より多い + より + 5 + パンが
→ 我々には5個以上のパンがない。
(= 我々は5個以上のパンを持っていない)


 ところがこれと平行した構造は印欧語の古典ギリシア語でも成り立つそうだ。つまり古典ギリシア語はヨーロッパの印欧語のくせにbeも許すのだ。

ούχ εισίν ημιν πλειον ή πέντε άρτοι
(否定) + ある + 我々に + より + 多い + より + 5 +  パンが(複数主格)
→ 我々には5個以上のパンがない。

しかし古典ギリシャ語はその一方でhave構造も使うから油断できない。

Οὐκ ἔχω ἄνδρα
(否定) + 持つ(一人称単数)+ 夫を
→ 私は夫を持っていない (= 「私には夫がいない」)

 胸焼けがして来そうだが、ついでにヒッタイト語もbeを使ったそうだ。

tuqqa UL kuitki ešzi

このULというのは何なのかよくわからないのだが、とにかくtuqqaが「君に」、kuitkiがnothing、ešziが「ある・いる」で、全体としては「君には何もない」。ちなみにこのヒッタイト語というのはこれでも一応印欧語である。俄かには信じられないがそれでもešziというコピュラにちょっと印欧語らしさがのぞく。
 現代モンゴル語、現代グルジア語、現代ギリシャ語がどうなっているのか気にはなったのだが調べるのがメンド臭かったので(またかよ)先を続ける。

 さらなるヨーロッパ外の印欧語クルド語もbeを使うそうで、

min hespek heye
私に + 一匹の馬が + いる
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)

これに対してお隣の印欧語ペルシャ語はhaveを使うそうだ。人から聞いたところでは
man khahar daram
私(主格)+ 妹または姉 + 持つ(一人称・単数)
→ 私は姉(妹)を持っている (=私には姉(妹)がいる)

  
 もっとも、特に古典語はhaveを使った例があるからといって他方のbe(あるいはその逆)を使わなかったという証明にはならないところが辛い。構造としては許されているが、たまたま使用例が残っていなかっただけかもしれないのだ。言語問題と言うのは結局ネイティブスピーカーを捕まえて聞いてみるしかないのだが、古典語はそれができない。クルド語・ペルシャ語もちょっとネイティブスピーカーがつかまらなかったのでもう一方のバージョンが完全にNGなのかどうか確認はしていない。

「ヨーロッパの印欧語」ではロシア語が結構キッパリbe言語だと名付けられるので有名だ。「私には子供がいます」という時ロシア語でも「いる」を使うと聞いて「おお、日本語と同じじゃないか」と感動したのは私だけではないはずだ。

У меня есть ребёнок
のところに + 私の + いる・ある + 子供が
→ 私には子供がいる。

(日本語で「私は子供を持っている」は成り立たない)

南スラブ語のクロアチア語はhaveだ。ロシア語の「子供がいる形構造」に狂喜していた私はクロアチア語がhave言語ときいてガッカリしたものだ。

imam kuću
持つ(一人称単数) + 家を
→ 私は家を持っている。

(日本語では「私には家がある」も可能)

クロアチア語にはさらにhaveが非人称表現を作り、英語で言えばthere is Xをit has Xと表現するのだ。ima Xで、「Xがない、いない」だが、このimaというのは動詞「持つ」(不定形はimati)の3人称単数形である。ドイツ語もここで非人称表現を使ってes gibt X(it gives X)というから動詞は違っているが(geben=give)発想はそっくり。例えば授業の始めに出席を取るとき、「Aさんはいますか?」と聞くとき「ima li A?」といい、いるかどうか聞かれた学生は「ima!」(「いますよ!」)と言って手を挙げる。
 このように南スラブ諸語、あと基本的に西スラブ諸語もhave言語と言っていいが、ポーランド語は例外で両方OKらしい。

mam samochód
持つ(一人称単数)+ 自動車を
→ 私は自動車を持っている。

u jednego był długi muszkiet
~のところに + 一人の人の + あった + 長い + マスケットが
→ ある人のところに長いマスケット銃があった。


どうしてここで突然マスケット銃が出てくるのか面食らう例文だが、これは日本語では「持つ」を使って「ある人が長いマスケット銃を持っていた」と言ったほうが自然ではないか。(「長いマスケット銃」とわざわざ言っている、ということは「短いマスケット銃」というのもあるのか?)
 
 ウクライナ語も両方許されるそうで、

Я маю машину.
私 が + 持つ + 車を
→ 私は車を持っている。

У мене є машина.
~のところに + 私 + ある + 車が
→ 私には車がある。


はどちらもOK。ベラルーシ語も同じだそうだ。

 遡って古教会スラブ語ではhave構造が散見されるだが、面白いことにギリシア語のhave(έχειν)は必ずといっていいほど古教会スラブ語でもhave(imĕti)を使って訳してあるとのことだ。古教会スラブ語は南スラブ語だから、その子孫が現在を使っているのもうなずける。さらに実際はbe言語の(はずの)ロシア語も古いテキストではhaveを使っているのが見られるという。

 フランス語にも実は一見「~に~がある」に対応する構造est à moiがあるが、意味と言うか機能に少し差があるから注意を要する。ラテン語のest mihi liber(私には本がある)とhabeō librum(私は本を持っている)が同じ意味になるのとは違うのだ。be (être à)は定冠詞を取らないといけないし、have (avoir)は不定冠詞と使ったほうがずっと許容度が高いそうだ。

Ce livre est à moi.
* Un livre est à moi.

J’ai un livre.
? J’ai ce livre

 バンヴェニストは一般的に所有関係の表現はbeからhaveへ移行していくのであって、その逆ではない、という見解を述べている。古教会スラブ語とロシア語を比べて見るとちょっと待ったと言いたくなるが、長い目で見るとやっぱり全体的にはhaveへ移行中なのだろうか。日本語も昔は「会議がありました」以外考えられなかったのに最近は「会議が持たれました」という言い回しも聞くし、そのうち「私は子供を持っています」のほうが普通になるかもしれない。


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 いわゆる学校文法では「数詞」が独立した品詞として扱われることが多いが、この数詞というのは相当なクセ者だと思う。それ自体が形の点でもシンタクス上でも名詞と形容詞の間を揺れ動くので、勘定されるほうの名詞との結びつきも複雑になるからだ。
 例えば次のセンテンスだが、

Ten soldiers killed a hundred civilians with twenty guns.

この英語だけ見ると一見 soldiers、civilians、guns の深層格はそれぞれ主格、対格、前置詞格あるいは具格だと思う。 ところが soldiers、civilians などの名詞がここで主格や対格に立たない言語は印欧語族にはゴマンとある。ロシア語だと、

Десять солдат убило/убили сто гражданских людей двадцатью ружьями.
ten + soldiers + killed + hundred + civilian + people + twenty + guns

ここでは数詞の後の soldiers、civilian people(太字)が複数属格(ロシア語文法では「生格」)である。つまりдесять(「10」)、сто(「100」)は普通名詞的なのだ。名詞がもう一つの名詞を修飾する場合、一方が属格になる、つまり「山田さんの家」と同じ構造だ。一方対格と主格以外では数詞が名詞の格と一致する。まるで形容詞のように呼応するのである(下記参照)。いずれにせよロシア語ではこれらの「数詞」は立派に格変化を起こす:десять(主格・対格)→десяти(生・与・前置格)→десятью(造格)あるいはсто(主・対格)→ста(生・与・造・前置格)。実はこういう数詞・名詞の格構成はサンスクリットの昔から印欧語族ではむしろ一般的だ。

サンスクリットでは:
1.数詞1-19が形容詞的に用いられ、その関係する名詞の性・数・格と一致する(つまり数詞も立派に格変化する)。
2.20-99、100、1000等は名詞として扱われ、これの付随する名詞は同格に置かれるか、あるいは複数属格となる。

古教会スラブ語では:
1.1~4は形容詞的特性、つまり付加語扱い。「1」では名詞は単数同格、「2」とは双数(両数)同格、3~4で複数同格、5以上から複数属格。
2.数詞の活用は、1~2が代名詞活用、3が名詞i-活用、4が子音活用とi-活用の混同タイプ、5~9だと活用だけでなく品詞も形容詞でなく名詞扱いでi-活用統一。

ロシア語では上にもあるように、主格と対格で数詞の披修飾名詞が属格になり、その他の格では披修飾名詞と数詞が同格だ。それで最初の例文の中の двадцатью ружьями(下線部)は数詞と名詞のどちらも造格になっている。つまりサンスクリットと同じく名詞が数詞と同格におかれるか、あるいは名詞のほうは複数属格に立つという二つのパラダイムが共存しているわけだ。
 対してラテン語では数詞は不変化「形容詞」とみなされたそうで現在の英語やドイツ語といっしょだが、それでもさらに調べると tantum(たくさんの)、plus(より多くの)などの数量表現では披修飾名詞は複数あるいは単数属格になるというから、数詞も名詞的な特性を完全には失っていない。

plūs pecūniae
more + money(複数属格)

『30.あともう少しのドルのために その2』の項で出したイタリア語の例

un po' più di libri
a + few + more + of + books

も di が入るから属格表現の仲間だとみなしていいのではないだろうか。もっとも例えばラテン語のquīdam(「いくつかの」)は「dē または ex」という前置詞がその後に来た後名詞の奪格を取るそうなので、このdi libriも本来は奪格なのかなとは思う。いずれにせよここでラテン語の属格・奪格形がとろけて一緒になってしまい、格機能が統合されていった様子がよくわかる。
 さらにやっぱりそこの項で出したロシア語

На несколько дрлларов вольше
on/for + some + dollars(複数属格) + more
(For some dollars more)

の「ドル」も複数属格である。

 ドイツ語もよくみると結構面白いことになっていて、数量表現が名詞的特徴を示すことがある。たとえば「多くの私の学生」は

* viele meine Studenten
many + my(複数主格) + students

と「私の学生たち」を主格にすることはできず、披修飾名詞を属格にしないといけない:

viele meiner Studenten
many + my(複数属格) + students

イタリア語と同じくここで各変化による属格でなく前置詞のvon(英語のof)を使って

viele von meinen Studenten
many + of + my(複数与格) + students

ということもできるが、これは上の例と比べて「日常会話的」とのことである。

 英語ほどひどくはないとはいえ、ドイツ語も格変化を捨てまくって堕落したがやっぱりまだまだ印欧語なのである。もっとも日本語でも「私の学生の多く」と「学生」を属格にできるが。
 数詞でも同じことが言えて、

* zwei meine Studenten
two + my (複数主格) + students

zwei meiner Studenten
two + my (複数属格) + students

meine zwei Studenten
my (複数主格) + two + students

*のついた2例では数詞が形容詞としての特性を示すため、いわゆる determinator、つまり「私の学生」というDPを支配する所有代名詞 meine の前に出られないが、披修飾名詞が属格の構造では数詞はそれ自体が事実上名詞であるからそこにまたDP、つまり「私の学生」がくっ付くことができる、と純粋にシンタクスの問題として説明することができるが、もっと見ていくと(しつこいなあ)、実は事はそんなに簡単ではないことがわかる。なぜなら

alle meine Entchen
all(複数主格) + my(複数主格) + ducklings

というフレーズは数量表現がdeterminatorの前に来てしかもそのdeterminatorが主格なのに許されるからである。ネイティブに説明を求めたら「1.この表現は子供の歌だからそもそも俗語的だし、2.alleという表現で表現された数量は閉じられたものであるからdeterminatorの限定的な意味と衝突しないからなんじゃないの?」と言っていた。限定非限定の意味の差が決定権を持っている例は他にもあって、例えば

meine viele Studenten
my(複数主格) + many(主格) + students

ということはできるが、

*meine einige Studenten
my (複数主格) + some(主格) + students

とは言えない。meineの持つ限定的意味とeinige(「(不特定の)いくつかの」)の非限定的な意味合いが衝突するからだろう。viel(「たくさんの」)だと「いくつか」より非限定性がはっきりしていないから限定のdeterminator、所有代名詞と共存できるのだと思う。
 シンタクスだけで全てを説明するのはやはり無理があるようだ。

 さて本題だが、ロシア語学習者泣かせの問題として2、3、4では披修飾名詞が変な形をとる、ということがある。英語やドイツ語では2以上になると披修飾名詞は一律複数主格なので何も苦労がないのだが、ロシア語はそんなに甘くない。ちょっとくらべてみてほしい。比べやすいようにロシア語はローマ字にしてみた。
Tabelle1-58
数が2から4までだと名詞が特殊な形をしているのがわかるだろう。これを語学書などでは「ものがひとつの時は名詞は単数主格、2から4までは単数属格(太字)、5以上になると複数属格(下線)をとる。20までいくとまた1から繰り返すので21の机では名詞が単数主格である」、と説明してある。パラダイムをみてみると確かになるほどとは思う。
Tabelle2-58

私の語学の教科書にもそう書いてあったのだが、そのときのロシア人の教師が運悪く言語学系であったため(『34.言語学と語学の違い』参照)、そこで私たち向かって堂々とこういった。

「語学の入門書とか文法書には「2、3、4は名詞の単数属格をとる」と書いてあったりしますが、これはデタラメです。そう説明しないと初心者が混乱するからです。この形はロシア語では失われてしまった古い双数形が残ったものです。」

古教会スラブ語 plodъ(「果実」)のパラダイムを調べてみると、o-語幹では確かに双数主格と単数属格が同形に見える。
Tabelle3-58
それでは2、3、4、のあとに来る名詞の形が単数生格でなく双数主格だとどうしてわかるのか。実は「2」のあとに来る形と単数生格ではアクセントの位置が違うのである。たとえば、шаг(シャーク、「歩、歩調」)の単数生格はшагаで、アクセントは最初のаにあるから「シャーガ」。対して「二歩」はдва шагаだが、アクセントが2番目のаに来て「シャガー」となる。同じくчас(チャース、「1時間」)の単数生格は часа(チャーサ)だが「3時間」は три часа(トリー・チャサー)だ。つまり字に書くとアクセントが表せないから同じに見えるがこの二つは本来全然違う形なのだ。
 これを「単数生格」とデタラメな説明をする語学教師あるいは教科書を、イサチェンコという言語学者が著書の中で「言語事実を強姦するに等しい」とまで言って怒っていた。しかしたかがこれしきのことで強姦呼ばわりされていたら、そこら辺のいわゆる「よくわかる○○語」「楽しく学べる○○語」の類の語学書には強姦魔がいくらもいる。私もさるドイツ語の楽しい入門書で不規則動詞について「日頃よく使う道具はあまり使わない道具より消耗が激しいでしょう。それと同じく日頃よく使う動詞は形が崩れやすいんですよ」とわかりやすい説明をしているのを見たことがあるが、これなんか強姦殺人級の犯罪ではないだろうか。話が全く逆の上に、ドイツ語ばかりでなく、他の言語も不規則動詞は「規則動詞より変化が早かったため」と一般化されてしまいかねないからである。
 使用頻度の高い「基本動詞」が不規則動詞であることが多いのは変化に曝された度合いが規則動詞より強かったからではなくて、その逆、それらが頻繁に使われるため、古い形がそのまま引き継がれて変わらずに残ったからだ。言語が変化し、動詞のパラダイムが変わってしまった後もそれらがまさに頻繁に口に上るそのためにパラダイム変化を被らなかったからである。たとえばロシア語で take という意味の不規則動詞の不定形は взять だが、定形・現在時称だと возьму(一人称単数)、возьмёшь(2人称単数)などとなって突然鼻音の м (m) が現われ学習者はビビる。しかしこれは規則動詞より形が崩れたからではなくて、ロシア語の я が古い時代に鼻母音だった名残である。つまり不規則動詞のほうが古い形を保っているのであり、規則動詞がむしろ新参者なのだ。

 語学書やいいかげんな語学教師のデタラメな強姦罪に対して声を上げたロシア語の先生は勇気があるとは思うが(女の先生だった)、実は一つだけ疑問が残った。残念ながら私のほうに勇気が欠けていたのでその場で質問しそこねたためいまだに疑問のまま残っているのだが、

「2の後の名詞が双数主格なのはわかるが、どうして3と4まで双数になっているのか。」

この記事を書く機会にちょっと調べてみたのだがはっきりその点に言及しているものが見つからなかった。かろうじて次のような記述を見かけたが説明としてはやや弱い。

Под влиянием сочетаний с числительным два аналогичные формы появились у существительных в сочетаниях с числительными три и четыре

数詞の2との組み合わせに影響され、そこからの類推によって数詞の3と4と結合する場合も名詞が同様の形をとるようになった。

上の古教会スラブ語の説明にあるように、3と4は本来複数主格だったはずである。5からは複数属格だったから形が違いすぎて類推作用が及ばなかったのはわかるが、3と4で双数主格が複数主格を食ってしまったのはなぜなのかどうもわからない。やっぱりあの時勇気を出して先生に聞いておけばよかった。


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 ローマ時代に消滅したエトルリア語(『123.死して皮を留め、名を残す』参照)のほかにもその存在と消滅が記録に残っている言語はもちろんたくさんある。北ヨーロッパでかつて話されていた古プロイセン語も有名だ。「プロイセン」あるいは「プロシア」という名称を後になってドイツ人が転用してしまったため(下記参照)、ゲルマン語の一種、果てはドイツ語の方言かと思っている人もいるようだがこの古プロイセン語はゲルマン語とは全く違うバルト語派の言語である。現在のリトアニア語やラトビア語の親戚だ。

 13世紀にドイツ騎士団がポーランドの公爵から許可されてバルト海沿岸に進出というかバルト海沿岸を侵略してというかとにかくそこに領土を形成していったとき当地で話されていた言語が古プロイセン語である。ポメサニアPomesanien、サンビア半島Samlandと呼ばれている地域だ。
 プロイセンという名前が最初に文献に出てくるのは9世紀で、バイエルンの地理学者がBruziというバルト海沿岸の民族について言及している。これらの人々はまたPruzziあるいはPrūsai(プロイセン人本人は自分たちをこう呼んでいた)とも呼ばれたがやがてPreußenというドイツ語名が定着し、さらに民族でなく地域を表すようになってドイツの一地方の名称として使われるようになったのだ。

 現在見つかっている最も古い古プロイセン語の文献は13世紀後半か14世紀初頭のもので、バルト語派全体でも最古のものである。リトアニア語もラトビア語も16世紀までしか遡れないからだ。
 その最古の文献の一つがエルビング(ポーランドではエルブロング)の語彙集Elbinger Vokabularとよばれるドイツ語-古プロイセン語の辞書で、古プロイセン語のポメサニア方言の単語が802収められている。単語がアルファベット順でなく「食事」「服装」などのテーマ別に配置されている、いわば旅行者用の言語案内書である。古プロイセン語ばかりでなくドイツ語の貴重な資料ともなっている。13世紀から14世紀にかけてドイツ騎士団領で話されていた当時のドイツ語が記されているからだ。現在のドイツ語ではもう失われてしまっている古い形が散見される。
 1545年にはルターが1529年に発表した小教理問答書の翻訳が二冊出た。その二冊目は一冊目の改訂版である。訳者はわかっていない。1561年にはこれもルターの大教理問答書が訳されたが、こちらは訳者がわかっている。Abel Willという牧師がプロイセン人のPaul Megottの助けを借りて訳したものだ。この3冊とも出版地はケーニヒスベルクであった。小教理問答はポメサニア方言、大教理問答ではサンビア半島方言で書かれている。両方言間には音韻対応も確認されている。例えばポメサニア方言の ō がサンビア半島のā に対応している:tōwis (ポ)対tāws(サ)(「父」)など。また大教理問答書はテキストが量的に多いというばかりでなく、古プロイセン語のアクセントやイントネーションなどが反映されていて貴重な手がかりになっている。
 この教理問答書の直前、1517年から1526年ごろにかけてSimon Grunauという僧が編纂した辞書は「グルナウの辞書」として知られている。これらのほかにも断片的なテキストや碑などがいろいろあるし、ドイツ語-古プロイセン語ばかりでなくポーランド語の辞書も存在するとのことだ。
 しかし語彙に関してはそういった貴重な資料が提供されている一方、シンタクス面では鵜呑みにできかねる点があるらしい。得に教理問答書がドイツ語の原本にあまりに忠実な訳をとったため、硬直したセンテンス構成となっていて語順などは実際の古プロイセン語からは乖離しているからだそうだ。いわゆる直訳体が通常使われている言葉とはとかけ離れている、というのは日本語でもその通りである。また所々誤訳も見つかっている。ドイツ語の名詞Reich 「帝国・領域」と形容詞reich「豊かな」を取り違えたりしている部分があるとのことだ。もっとも多少の誤訳は翻訳にはまあつきものだし、誤訳だと判明しているそのこと自体が古プロイセン語がきちんと解読されている証拠ではある。

 エトルリア語と違って古プロイセン語は一目見た瞬間からすでにバルト語の一つであることが明らかだった。語彙の面でも文法構造の点でもリトアニア語やラトビア語との相似が著しかったからだ。もちろん微妙に違っている部分もいろいろあるので、リトアニア語、ラトビア語は「東バルト語派」、古プロイセン語は「西バルト語派」と分けている。だから現在生き残っているのは東バルト語のみだ。

バルト語派の系統図。
Arkadiev, Peter (et.al) (ed.).2015. Contemporary Approaches to Baltic Linguistics. Berlin:De Gruyterから
Baltisch_bearbeitet

 不便なことに古プロイセン語は言語比較の際必ずと言っていいほど持ち出される基数が1、3、10、1000しかわかっていない。序数は10まできれいにわかっている。教理問答の「十戒」が10番目まであるからだ。その序数を東バルト語派の両言語と比べてみると下のようになる。
Tabelle-125
古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語との間には地域差ばかりでなく時代差があるので気をつけないといけないが、それでもこの三言語が非常に似ていることがわかる。さらに「第3」、「第6」、「第9」の語頭音を見れば古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語、つまり東西バルト語派の間に境界線を引けることがわかる:古プロイセン語ではそれぞれ、tir- (tîr-)、 Øus- (Øuš-,vuš-)、nev- がリトアニア語、ラトビア語ではそれぞれtrẽ- (tre-)、šẽš- (ses-)、dev- で、明瞭な差があるからだ。東バルト語派の「第六」、šẽštasとsestaisは古プロイセン語のustsとはそもそも語源が違い、単純に音韻対応での比較をすることはできないそうだ。šẽštas・sestaisは一目瞭然に他の印欧語と同じ。古プロイセン語だけ変な形になっている。この3つは古プロイセン語の中での方言差を示しているがその一つがwuschts となっていて、prothetisches V (『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのが面白い。実は基数の1は古プロイセン語ではains なのだが、これがリトアニア語ではvíenas、ラトビア語ではviênsでprothetisches V が現れる。V の等語線が東バルト語から西バルト語側にちょっとはみ出している感じなのか。さらに古プロイセン語のains は印欧祖語の*oinos 直系でゴート語のains やラテン語のūnusと同じだが、リトアニア語。ラトビア語のvíenas・ viêns は*eino- という形を通しており、古教会スラブ語のjedinъの -ino- と共通している。上の「第3」、「第6」、「第9」にしても東バルト語派はスラブ語と共通している。古プロイセン語だけがスラブ語と違うということで、バルト語派とスラブ語派はもともとはもっと離れていたのが、時代が下るにつれて近づいていったのではないかという説もある(下記参照)所以である。
 このほか古プロイセン語の「この」(the、 this)が stas なのに対してリトアニア語、ラトビア語は tàs 、tas というのも「東西の頭の差」の例だろうが、もう一つ、古プロイセン語の「雪」はsnaygis で、リトアニア語の sniẽgas、ラトビア語の sniegs とは複母音の方向が逆になっている。後者はロシア語と共通。またリトアニア語の「雪片」という言葉には古形の -ay-  が保持されていてsnaigẽ 。ついでにこの印欧祖語形は *snóygʷʰos である。
 音韻上ばかりでなく、東西バルト語派間には構造上の違いがいろいろある。その一つが古プロイセン語は文法カテゴリーとして中性名詞を保持していることだ。特にエルビングの語彙集ではそれが顕著である。対して東バルト語派には男性・女性の二性しかない(リトアニア語には僅かながら中性の残滓が残っている)。中性名詞は男性名詞に吸収されてしまった。もっとも古プロイセン語でも子音語幹の中性名詞は男性化傾向が見られ、例えば小教理問答では「名前」をemmens といって本来 n-語幹であったのに男性名詞的な語尾 –s が付加されている。 対応するロシア語 имя もラテン語 nōmen も中性。u-語幹の中性名詞は比較的明瞭に「中性性」が保たれ、「蜂蜜」は meddo(-o で終わっていても u-語幹)、「蜂蜜酒」は alu。リトアニア語・ラトビア語ではこれらはそれぞれ medús・medus、alùs・alusというどれも男性名詞である。ただし「蜂蜜酒」のほうは現在では「ビール」の意味になっている。
 さらに外来語が中性名詞として借用された例もある。mestan 「都市」がそれで、リトアニア語ではmiẽstas で男性名詞。ポーランド語miastoからの借用である。『5.類似言語の恐怖』でも述べたようにこれは本来「場所」という意味で、スラブ祖語の*mě̀sto、ロシア語のместо と同源だ。ラトビア語の「都市」はpilsēta で別単語になっているが、これは女性名詞。

 さて、頻繁に議論の対象になるのがバルト語派とスラブ語派の関係である。この二つの語派は地理的にも近いし似ている点も多いので、もともとは一つの語派だったのではないかとする人も多く、以前は「バルト・スラブ語派」といった。今でも時々この名称を聞く。しかし研究が進むにつれてバルト語派とスラブ語派には言語構造、特に動詞の形態素構造に本質的な違いがあることがわかってきて今ではバルト語派とスラブ語派は分けて考えることが多い。
 もっともこの、バルト語派とスラブ語派は一つの語派から別れたものだという考え方にはすでにアントワーヌ・メイエが疑問を提示している。両語派は元から別語派で、平行して発展してきたというのがメイエの主張であった。そこからさらに発展して、バルト語派とスラブ語派間の共通性は「言語連合」(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)によるものだと唱える人たちも現れたが、バルト語派・スラブ語派間の類似性は、古典的な言語連合、例えばバルカン半島の諸言語の場合とは質的な違いがあり、一般に受け入れられるには到っていない。
 
 その動詞の変化パラダイムを比較していくと、スラブ語派は東部の印欧諸語と共通性があり、バルト語派はゲルマン語派、ケルト語はやイタリック語派とともに西ヨーロッパの印欧語に所属させたほうがいいと思わせるそうだ。ただし印欧諸語を単純に西と東に分けること自体に問題があるから、バルト・スラブ間に東西印欧諸語の境界線が走っていると主張することはできない。
 そのバルト語・スラブ語間の形態素の違いについていろいろと指摘できる点はあるそうだが、ガチの印欧比較言語学理論は残念ながら私には理解できないから(どうもすみません)、個人的に面白いと思った点を勝手に列挙させていただくことにする。
 まず、バルト語派の動詞には3人称に単数・複数の区別がない。この点でゲルマン語派ともスラブ語派とも大きく違っている。ゲルマン語でもスラブ語でも助動詞で例えば一人称単数と3人称単数が同形になったり(ドイツ語のich magとer mag < mögen 「~が好きだ」)、一人称単数と3人称複数が同形になったり(クロアチア語の ja mogu とoni mogu < moći「~ができる」。クロアチア語で一人称単数と3人称複数が同じになるのはこの助動詞だけ)することは稀にあるが、3人称の単複同形というのは特殊である。
 また未来系を助動詞の付加でなく(analytic future)動詞の語形変化そのものによって作る(synthetic future)。s-未来と呼ばれ、古プロイセン語のpostāsei(「~になるだろう」2人称単数)がそれ。対応するリトアニア語はpastōsi。さらにリトアニア語の「坐っている」sėdėti の未来形は sedesiu (一人称単数)、 sedesi (二人称単数)、 sedes (三人称単・複)、sedesime(一人称複数)、 sedesite (二人称複数)となる。ラトビア語の「話す」runāt はrunāšu (一人称単数)、 runāsi(二人称単数)、  runās (三人称単・複)、runāsim (一人称複数)、  runāsit/runāsiet (二人称複数)。スラブ語派は助動詞で作る未来形 analytic future しかない。ドイツ語英語も印欧語本来のsynthetic future を失ってしまった。ただし古プロイセン語の小教理問答には動詞の能動態過去分詞にwīrst あるいは wīrstai を付加して作るanalytic future が見られる。もちろんドイツ語の影響である。
 上述のラトビア語の「話す」もそうだが、ちょっとバラバラと動詞を見ていくと語そのものがスラブ語と全く違っているものが目立つ。スラブ諸語は『38.トム・プライスの死』でも書いたように基本の語彙が似ているというより「共通」なので新聞の見出しなど類推で意味がわかってしまうことが多いが、バルト語派相手だとこの手が全然効かない。リトアニア語の「話す」はkalbėtiで、さらに別単語となっているがスラブ語とはやはり遠い。「話す」のほか、たとえばリトアニア語の「書く」はrašyti、「聞く」がgirdė́ti。pjautiは「飲む」か「歌う」かと思うとそうではなくて「切る・刈る」。
 もちろんバルト・スラブ語派というものが取りざたされるほどだから確かに似た形の単語もある。上の「坐っている」がそう。ロシア語の сидеть とそっくりだ。他にも「与える」の古プロイセン語一人称単数が dam 、古リトアニア語が dúomi、現リトアニア語 dúodu (不定形 duoti)、ラトビア語 dodu(不定形dot)古教会スラブ語 damь(不定形 дати)、ロシア語 дам (不定形дать)。リトアニア語を見るとバルト語派内で –m から –du の転換があったようだが、とにかく似ている。しかし一方この語はバルト語派とスラブ語派だけが似ているのではなくて他の印欧語もいっしょなのである。古典ギリシャ語がdidōmi、サンスクリットでdadāmi、ラテン語のdō もこれ。まさにみんなで渡れば怖くないだ。
 また「住む、生きる」の古プロシア語三人称複数形は giwammai でリトアニア語でのgyvẽname あるいはgyvẽnam と同源。ロシア語の живём と子音が違うようだが、これがラトビア語になると dzīvojam でロシア語やクロアチア語の živimo と立派につながっている。印欧祖語では*gʷeyh₃-だそうだ。つまり「与える」も「生きる」もバルト語派とスラブ語派が近いから似ているというより両方とも印欧語だから似ているだけの話なのである。

 全体としてバルト諸語とスラブ諸語は確かにいっしょにされるのも一理あるはあるのだが、かといってでは問答無用で一括りにできるかというとそうでもない、いわばつかず離れず状態と言えよう。せっかくそうやってゲルマン諸語にもスラブ諸語にもベッタリになることなく上手く立ち回ってきた古プロイセン語だが、ドイツ語に押されて18世紀初頭にはすでに死滅してしまっていたと思われる。残念なことである。

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 『107.二つのコピュラ』の項でちょっと述べたように、ロシア語には形容詞の変化パラダイムとして短形と長形との二つがある。長形は性・数・格にしたがって思い切り語形変化するもので、ロシア語学習者が泣きながら暗記させられるのもこちらである。辞書の見出しとして載っているのもこの長形の主格形だ。たとえばдобрый(「よい」)の長形の変化形は以下のようになる。男性名詞の対格形が二通りあるのは生物と無生物を区別するからだ(『88.生物と無生物のあいだ』参照)。
Tabelle1-133 
それに比べて短形のほうは主格しかなく、文の述部、つまり「AはBである」のBの部分としてしか現れない、言い換えると付加語としての機能がないので形を覚える苦労はあまりない。アクセントが変わるのがウザいが、まあ4つだけしか形がないからいい。
Tabelle2-133
困るのはどういう場合にこの短形を使ったらいいのかよくわからない点だ。というのは長形の主格も述部になれるからである。例えば He is sick には長短二つの表現が可能だ。

短形 
Он болен
(he-主格 + (is=Ø) + sick-短形単数主格)

長形
Он больной
(he-主格 + (is=Ø) + sick-長形単数主格)

この場合は、боленなら目下風邪をひいているというニュアンス、больнойだと彼は病気がちの人物、体が弱いという理解になる。が、では短形は描写された性質が時間的に限られた今現在の偶発的な状態、長形は持続的な状態と一般化していいかというとそうでもない。レールモントフの『現代の英雄』の一話に次のような例がある。ある少年の目が白く濁っているのを見て主人公は彼が盲目であると知るがその描写。

Он был слепой, совершенно слепой от рождения.
彼は盲目だった、生まれつき全くの盲目だったのだ。

太字にした слепойというのが「盲目の」という形容詞の長形単数主格系である。ここまでは上述の規則通りであるが、そのあと主人公はこの盲目の少年がまるで目が見えるかのように自由に歩き回るのでこう言っている。

В голове моей родилось подозрение, что этот слепой не так слеп, как оно кажется.
私の頭には、この盲目の者は実は見かけほど盲目ではないのではないかという疑いが起こった。

二番目の「盲目」、太字で下線を引いた слепというのは短形である。このような発言はしても主人公はこの少年が「生まれつきの」盲目であるということは重々わかっているのだ。二番目の「盲目」は決して偶発的でも時間がたてば解消する性質でもない。
 つまり形容詞の長短形の選択には話者の主観、個人的な視点が決定的な役割を果たしていることがわかる。話者がその性質を具体的な対象に対して、具体的な文脈で描写している場合は短形、その性質なり状態なりを対象に内在した不変特性として表現したい場合は長形を使う。前にも出したが、

китайский язык очень труден. (短形)
китайский язык очень трудный.(長形)

は、どちらも「中国語はとても難しい」である。が、短形は「私にとって中国語はとても難しい」という話者の価値判断のニュアンスが生じるのに対し、長形は「中国語はとても難しい言語だ」、つまり中国語が難しいというのは話者個人の判断の如何にかかわらず客観的な事実であるという雰囲気が漂うのである。短形を使うと中国語というものがいわば具体性を帯びてくるのだ。
 また形容詞によっては術語としては長形しか使えないものがあったり、短形しか許されないセンテンス内の位置などもある。『58.語学書は強姦魔』でも名前を出したイサチェンコというスラブ語学者がそこら辺の長短形の意味の違いや使いどころについて詳しく説明してくれているが、それを読むと今までにこの二つのニュアンスの違いをスパッと説明してくれたネイティブがなく、「ここは長形と短形とどちらを使ったらいいですか?またそれはどうしてですか?」と質問すると大抵は「どっちでもいいよ」とか「理由はわかりませんがとにかくここでは短形を使いなさい」とかうっちゃりを食らわせられてきた理由がわかる。単にネイティブというだけではこの微妙なニュアンスが説明できるとは限らないのだ。やはり言語学者というのは頼りになるときは頼りになるものだ。

 さて、このようにパラダイムが二つ生じたのには歴史的理由がある。スラブ祖語の時期に形容詞の主格形の後ろに時々指示代名詞がくっつくようになったのだ。* jь、ja、 jeがそれぞれ男性、女性、中性代名詞で、それぞれドイツ語の定冠詞der 、die、 dasに似た機能を示した。 それらが形容詞の後ろについて一体となり*dobrъ + jь = добрый、* dobra + ja =  добрая、*dobro + je =  доброеとなって長形が生じた。代名詞が「後置されている」ところにもゾクゾクするが、形容詞そのもの(太字)は短形変化を取っているのがわかる(上記参照)。この形容詞短形変化はもともと名詞と同じパラダイムで、ラテン語などもそうである。対して長形のほうはお尻に代名詞がくっついてきたわけだから、変化のパラダイムもそれに従って代名詞型となる。
 また語尾が語源的に指示代名詞ということで長形は本来定形definiteの表現であった。つまりдобр человекと短形の付加語にすればa kind man、 добрый человекと長形ならthe kind manだったのだ。本来は。現在のロシア語ではこのニュアンスは失われてしまった。短形は付加語にはなれないからである。

 ところがクロアチア語ではこの定形・不定形という機能差がそのまま残っている。だから文法では長形短形と言わずに「定形・不定形」と呼ぶ。また長・短形とも完全なパラダイムを保持している。例えば「よい」dobarという形容詞だが、定形(長形)は次のようになる。複数形でも主格と対格に文法性が残っているのに注目。また女性単数具格がロシア語とははっきりと異なる。
Tabelle3-133
続いて短形「不定形」。上記のようにロシア語では主格にしか残っていないがクロアチア語ではパラダイムが完全保存されている。
Tabelle4-133
使い方も普通の文法書・学習書で比較的クリアに説明されていて、まず文の述部に立てるのは短形主格のみ。

Ovaj automobil je nov.
(this + car + is + new-)

* Ovaj automobil je novi.
*(this + car + is + new-)

付加語としてはa とthe の区別に従ってもちろん両形立てるわけである。対象物がディスコースに初登場する場合は形容詞が短形となる。

On ima nov i star automobil.
(he + has + a new + and + an old + car)

この「彼」は2台車をもっているわけだが、ロシア語ではこの文脈で「自動車」が複数形になっているのを見た。上の文をさらに続けると

Novi automobil je crven, a stari je bijel.
(the new + car + is + black + and + the old (one) + is + white)

話の対象になっている2台の車はすでに舞台に上がっているから、付加語は定形となる。その定形自動車を描写する「黒い」と「白い」(下線)は文の述部だから不定形、短形でなくてはいけない。非常にクリアだ。なおクロアチア語では辞書の見出しがロシア語と反対に短形の主格だが、むしろこれが本来の姿だろう。圧倒的に学習者の多いロシア語で長形のほうが主流になっているためこちらがもとの形で短形のほうはその寸詰まりバージョンかと思ってしまうが、実は短形が本来の姿で長形はその水増しなのである。

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