アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:南アフリカ

 次のポーランド語の文を見て完全に硬直した。

Bolid Stuck'a ominął obu porządkowych, jednakże Pryce nie mógł ominąć 19-letniego Jansena Van Vuurena.

このセンテンスがあまりにロシア語と似ていて、全くポーランド語を習ったことのない者にも構造から何からわかってしまうからだ。スラブ諸語間の音韻対応に注目しつつ、ローマ字からキリル文字に変換すればポーランド語がそのままロシア語になるくらい似ている。

 まず、音韻面では次のように変換する。

1.ポーランド語ominąłのąに変な尻尾がついているのが見えるだろう。これは a でなく鼻母音のo だ。ロシア語ではこれがu となる。古教会スラブ語の鼻母音o もロシア語のu に対応する。例えば「知恵・賢さ」という語は以下のようになる。õ が鼻母音のo、у が u である。
 
mõdrosti (古教会スラブ語) - мудрость (ロシア語)

2.jednakżeのjeはロシア語のo。西スラブ諸語だけでなく南スラブ諸語のjeもロシア語のo に対応する。 以下は「1」を意味する語の比較である。

jedan (クロアチア語) - один (ロシア語)

3.ポーランド語には音声学的には /r/ に口蓋音バージョン、つまり r の軟音がないが、音韻的には rz がロシア語のr の軟音、つまりрьに対応する。ベラルーシ語にもr に口蓋・非口蓋の対立がない。

4.ちょっと苦しいが、rz のあとの鼻母音o はu にせずa と変換する、という特別規則を作る。すると、ポーランド語のporządkowychはロシア語では変換してпорядковыхとなる。

5.ć をтьに変換する。

6.kżeをкоにする。

上のポーランド語をここまでの変換規則にインプットすると次のようなロシア語に自動変換してアウトプットされてくる。

Болид Штука оминул обу порядковых, однако Прайс не могл оминуть 19-летнего Йансена Ван Вурена.

 この変換は「自動翻訳」などではなく、単にポーランド語のラテン文字をキリル文字に変換し、ただその際ちょっと修正しただけである。これですでに何となくロシア語になっているのだが、まだ完全ではないので、さらに形態素・シンタクス上で次のような変換をかける。

7. ominąć のo は接頭辞として付け加えられたもの、つまり語幹ではないので削除する。と、ポーランド語ominąćはロシア語のминутьになる。

8. ポーランド語の ł の発音はwで、動詞の男性単数過去形が子音で終わる場合もしつこくくっ付いてくるが、ロシア語ではл はあくまでlで、動詞の男性過去形が子音で終わる場合は現れない。だから子音の後ろでは消えてもらう。するとポーランド語mógł はмогとなる。
 ちなみにクロアチア語ではмогはmogaoである。

9. ポーランド語ではobaが女性名詞単数扱いなのか、対格形がobuになっているが、これを形容詞変化にして活動体の対格形にする。

ここまでで次のロシア語が出来る。

Болид Штука минул обоих порядковых, однако Прайс не мог минуть 19-летнего Йансена Ван Вурена.

 仕上げとして語彙面で次のような変換をする。

10. ロシア語ではпорядковых(パリャートコヴィフ、「順序の」)を(たぶん)名詞的な意味に使って人を指したりしない(と思う)ので、語幹のпорядок(パリャードク、「順序、秩序、制度」)を残しつつ別の単語распорядитель(ラスパリャジーチェリ、「管理者、経営者、担当者」)に変える。

11. ひょっとしたらминуть(ミヌーチ、「まぬがれる、過ぎ去る」)もизбегать(イズビェガーチ、「避ける、まぬがれる」)あたりにした方がいいんじゃないかとも思うが、せっかくだからそのまま使う。

すると、
 
Болид Штука миновал обоих распорядителей, однако Прайс не мог минуть 19-летнего Йансена Ван Вурена.

シュトゥックのマシンは双方のサーキット担当者の脇を通過した。が、プライスは19歳のヤンセン・ヴァン・ヴーレンを避けることができなかった。

となる。ネイティブの審査を通していないので、まだ不自然な部分があるかもしれないが、基本的にはたった11の簡単な規則だけでポーランド語がロシア語に変換できてしまった。これを日本語に変換することなど不可能だ。しかも「翻訳」ではなく単なる「音韻変換」でだ。そんなことををやったらとても「不自然」などというレベルではなくなるだろう。

 ちなみにbolidというのは本来「火を噴きながら落ちて来る隕石」だが、ドイツ語やポーランド語では「競走用のマシン」という意味でも使われている。最新のロシア語辞典なんかにもこの意味が載っているが、私の独和辞典にはこの意味の説明がなかった。辞書が古いからかもしれない。

 しかし私が硬直したのはもちろんポーランド語とロシア語の類似よりも内容のせいだ。書いてあるのは1977年に南アフリカのキャラミというサーキットで起きた事故の模様の描写の一こまで、ここで事故死したトム・プライスというレーサーを私は当時ひそかに応援していたのだ。プライス選手はそのとき27歳だった。
 ちなみに私はF1というと富士スピードウェイ、「ロータス」というとM・アンドレッティの運転していた漆黒のJPSロータスを思い出すというどうせ年寄りだが放っておいて貰いたい。1976年と1977年には2回とも富士スピードウェイにF1観戦に行った。6輪タイレルにそこでベタベタ触ったし、後に世界チャンピオンになったジョディ・シェクターとは握手して貰った。ジェームズ・ハントも新宿のホテルの前で見かけた。当時エンジンはフォードV8、フェラーリ水平対抗12、リジェ・マトラV12、アルファロメオ(気筒数を忘れた)の4つだけという牧歌的な時代で、目をつぶって音だけ聞いていてもエンジンが区別できた。マトラのやたらキンキン甲高いエンジン音がまだ耳に残っている。さらに漆黒ならぬ赤いロータスImperial Specialもしっかり記憶に残っている。ドライバーはグンナー・ニルソンだった。とかいう話を始めると止まらなくなりそうなのでここでは自制することにして、ちょっと上の文章の登場人物だけ解説させてもらいたい(自制していないじゃないか)。
 Stuckというのはドイツ人のレーサーH.J.シュトゥック選手のことで、事故のときプライス選手のすぐ前を走っていた。よく「スタック」という名前になっているが、これは日本人の悪いクセでドイツ人の名前をなぜか英語読みにしたせい。「シュトゥック」と読むべきだ。
 そのシュトゥック選手の前方で別のマシンがクラッシュして発火したのでサーキットの従業員が二人消火器を持って駆けつけたのだが、その一人がコースを横切ろうとした時、ちょうどそこに走ってきたプライスのマシンに轢かれた。全速力のF1とぶつかった彼も即死だったが、彼の抱えていた消火器がプライスの頭部を直撃し、こちらもその場で亡くなった。プライス選手の足が死後もなおアクセルを踏み続けていたのでマシンはそのまま全速力で走り続け、フェンスに突進してそこでようやく止まった。Jansen Van Vuuren(ヤンセン・ヴァン・ブーレン)というのが亡くなった従業員の名前で、当時まだ19歳の少年だった。見てのとおりアフリカーンス語の名前である。またサーキットの名前「キャラミ」(Kyalami)というのはズールー語で、「私のうち」という意味だそうだ。あまりに衝撃的な事故だったのでいまだに当時の新聞記事の日付まで覚えている。朝日新聞3月6日の朝刊で報道されていた。事故そのものは3月5日だった。


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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 世界には何千年もの伝統を持つ古い言語やもう何千年も前に死滅してしまった古語がある一方、生まれたばかりの新しい言語というのがある。例えば南アフリカ共和国、ナミビアの公用語であるアフリカーンス。最も新しい言語のひとつであろう。以前に先生がこれを称してdie neueste germanische Sprache(「もっとも新らしいゲルマン語」)と言っていたのがまだ耳に残っている。
 アフリカーンスの母体になったのは17世紀初頭のオランダ語であるから、まだ生まれてから400年くらいにしかならない。もっともブラジルのポルトガル語などもいまや本国との乖離が激しく、時々本当に「ブラジル語」という名称が使われている。ついでに「アメリカ語」という言い方もよく見かける(アメリカ合衆国で話されている言葉はすでに英語とは言えない、というわけだ)。それでもアメリカ大陸の言語はまだ本国名称で呼ばれるのが普通で、まあせいぜい「南米スペイン語」「ブラジル・ポルトガル語」と補足がつくくらいである。アフリカーンスも昔はケープ・オランダ語(Kapholländisch)ともいったそうだが、現在は誰もそんな名称は使わないだろう。Kap(ドイツ語)、 Kaap(オランダ語、アフリカーンス)あるいは Cape(英語)の名で呼ばれているのは17世紀の半ばに最初にここに入植して植民地を作ったのがオランダ人だからだ。Kaapというのはオランダの船乗りの言葉で「山が海にグンと突き出している地形」を表す、つまり「岬」のことである。南アフリカの先っちょがそういう地形をしていたからここに造った町をKaapstedt(ドイツ語だとKapstadt)と名付けたのである。その後イギリス人が来てオランダ人を追い出していったのはやっと19世紀の初頭である。1814年にはKaap地域がイギリスのものになり、オランダ人は北東に追いつめられてトランスヴァール共和国、オラニエ自由国などを作っていたが、1899年から1902年にかけて南アフリカで起こった戦争でとうとうイギリスに負けて一つの国に併合された。その、後からやってきたイギリス人にとってはオランダ人が「アフリカ原住民」であったろう。事実彼らは自分たちを「アフリカーナー」とも自称している。アフリカ原住民には白人もいるのだ。
 それらの「オランダ人」をブール人、またはボーア人といい、上述の対英戦争はボーア戦争と呼ばれている。1880年から1881年の第一次ボーア戦争ではトランスヴァール共和国がイギリスに一旦勝っているが、上述の「第二次ボーア戦争」で敗北した。このボーア(Boer)というのはドイツ語のBauerと同語源で「農民」という意味である。現在のボーア人はほぼ全員が英・アのバイリンガルだそうだ。そのため不幸なことに南アフリカの文学は大抵英語で書かれ、アフリカーンスで書かれた文学作品は数が非常に少ない。それでも1990年代から目に見えてアフリカーンスの文学作品が増えていっている。90年代と言えばナディン・ゴーディマがノーベル文学賞を受け、ネルソン・マンデラ大統領が誕生したころである。なるほどという感じだ。
 ただ、ボーア人とアフリカーンス話者はイコールではない。いわゆるカラード、黒人やアジア人にもアフリカーンスを母語としている者がいるからである。L2としての話者も勘定に入れれば、この言語の使用範囲はカラードの間でさらに広がるはずだ。

 ボーア人の作家で有名な人といえばまずHerman Charles Bosman(1905-1951)の名があがるだろう。Kaap地方にボーア人の両親のもとで生まれ、学校教育は英語で受けたバイリンガル。その後トランスヴァール、つまりボーア人地域で暮らし、ボーア人の生活社会という閉ざされた小宇宙を描写し続けた作家である。作品の質も高く、南アフリカでは極めてポピュラーで誰でも知っているが一歩外に出ると知られていないという、知名度の乖離の非常に激しい地域限定作家である。
 なお、ボスマン氏は若い頃、父違いか母違いかの兄弟を撃ち殺して死刑判決を受けたことがある。その後刑が10年に軽減され、4年で執行猶予つきで刑務所から出ることができたそうだ。
 私はFuneral Earthという10ページ足らずの超短編しか氏の作品を読んでいないが、いわゆる「南アフリカ英語」ばかりか、ガチのアフリカーンスまでたくさん出てくるし、描写されている社会事情や当地では誰でも知っている史実などに無知なのでこの長さでも十分難しかった。テキストは解説つき、つまり英語がわかんない人用にヘルプがついたものだったから何とか読めたが、完全に自力で読めといわれたら無理だったろう。そもそも普通の英語だって危ないのだ私は。
 その作品には例えばこんな「アフリカーンス英語」が使われていた: 

oom: おじさん
Nietverdiend: 西トランスヴァールの地名、
        (ドイツ語だとunverdientで「値しない」とか「その価値がない」という意味)
veld-kornetseksie: 軍務も負っている役人
withaak : 植物の名前 (ドイツ語ならWeißhaken「白鉤」)
seksie: 班、隊
volksraad : トランスヴァール共和国議会
koppie : 小さな丘
goël : 魔的な
veldskoen : ボーア人が野外で履く特殊な靴

 さて、ボスマンは作家活動をもっぱら英語で行なったようだが、時々はアフリカーンスででも著作活動をしている。例えば1948年にオマール・ハイヤームの4行詩『ルバイヤート』のアフリカーンス語訳を発表しているそうだ。ペルシャ語からではなく、エドワード・フィッツジェラルドによる英語からの重訳らしい。まず、もとのフィッツジェラルドの訳の最初の部分。朝日を描写したものである。

Awake! for Morning in the Bowl of Night
Has flung the Stone that puts the Stars to Flight:
And Lo! the Hunter of the East has caught
The Sultan's Turret in a Noose of Light.

これをボスマンは次のように訳している。

Ontwaak! die steen waarvoor die sterre wyk
Het Dag in Nag se kom gewerp - en kyk!
Die Ooste het sy jagterstrik van lig
Oor die toring van die Sultan reeds gereik.

さらにこれを無理矢理ドイツ語に訳してみると以下のようになった。「無理矢理」というのはできるだけ対応するドイツ語の単語を当てはめたからである。だからドイツ語としては許容範囲ギリギリ。ギリギリにさえならない部分はさすがに変更してある。また私はアフリカーンス語もオランダ語もできないから、そこら辺の無料電子辞書だろ文法書をめくら滅法ひきまくり、それでもわからない場合は似たような単語をドイツ語やオランダ語から見つけてきて「多分これだろう」と勝手に決め込んで翻訳したので、質は保証できない。

Entwacht! Den Stein, wofür (-> für den) die Sterne weichen,
Hat Tag in (den) Schüssel der Nacht geworfen – und kiekt!
Der Osten hat seine Jägerschlinge des Lichts
Über den Turm des Sultans bereit gereicht.

確かにドイツ語としてギリギリだが、意味はなんとなくわかる。ちなみに「見ろ!」を表すアフリカーンスのkykという単語は最初ドイツ語のgucken(「見る」)と同じかと思ったが、そうではないらしい。ドイツ語に「方言・俗語」としてkieken(「覗く」)という動詞が実在するが(ネイティブに聞いてみたが、「そんな単語知らない」とのことだった)、どうもこちらの方が同源くさい。
 これを2014年にDaniel Hugoという人がやはりアフリカーンスに訳しているのだが、そのテキスト

Ontwaak! Die oggend het in die kom van die nag
die blink klip geslinger wat die sterre laat vlug.
En kyk, die ruiter uit die ooste het
die sultanstoring gevang met ’n lasso lig.

を上のボスマンのものと比べてみると、ボスマンの文体がやや「古風」な感じがする。例えばwykというのはたぶんオランダ語のwijken、ドイツ語の weichen(「避ける、逃げる」)だろうが、これをput ... to Flightの訳として使っている。フーゴ訳ではこれが素直にlaat vlug(たぶん英語のlet flee)、つまり関係節の主語が逆になっていて「星を退散させる石」だがボスマンでは「そのために星が退散する石」となっているわけだ。さらに3行目ではたぶんボスマンは非常に抽象的な名詞「東」を主語にしているが、フーゴ訳ではたぶん「東から来た騎士」という一応人物が主語になっていて意味がとりやすい。アフリカーンスというものを見たのがほとんど初めての私にさえ上のボスマンの訳よりわかりやすいものであることが見て取れる、ような気がする。フーゴの訳をドイツ語に訳するこうなる。

Erwacht! Der Morgen hat in den Schüssel von der Nacht
Den blanken Stein geschlingert (-> geschleudert), was die Sterne fliehen lässt.
Und kiekt, der Reiter aus dem Osten hat
Den Sultanturm gefangen mit einem Lichtlasso.

 そういえばナディン・ゴーディマの作品にもbaas(「旦那」)というアフリカーンスの単語が使われていたのを見たが、それよりも何よりもアパルトヘイトapartheitという言葉がアフリカーンスである。
 ボーア戦争で南アフリカが統一されてから1961年までは「南アフリカ連邦」、1961年からは「南アフリカ共和国」という国家形式だがその「元首」、連邦では首相、共和国では大統領はほとんど全員アフリカーンス系の名前である。さすがにイギリスの植民地時代は大英帝国の王・女王を元首としてかついではいたが、実際に政治を司ったのはずっとボーア人であったことがわかる。だからその人種政策も英語ではなく、アパルトヘイトとアフリカーンスで呼ぶのだ。この制度を確立して維持したのはボーア人だが、これを廃止に持っていったのもまたボーア人の大統領デ・クラークだった。


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 今でもよく覚えているが、2007年にドイツ連邦議会でDie Linke(左党)という政党が動議を提出したことがある。ドイツが1904年に現在のナミビアで原住民にたいして行なった犯罪行為を埋め合わせすべきだ、という提案であった。

 ナミビアは1884年から1915年までドイツの植民地だった。当時は「ドイツ領南西アフリカ」(Deutsch-Südwestafrika)と言った。ドイツはイギリスやフランスより出遅れたため植民地でのふるまいは英・仏に比べてあまり人の口に上ってこないが、立派に(!)アフリカ人を虐待していたのである。その後第二次世界大戦時に行なった大虐殺がひどすぎて、それ以前に行なったアフリカ人ジェノサイドがかすんでしまっているが(ドイツ人さえこれを知らない人がいるし自称「ドイツ語・ドイツ文学を専攻したドイツの専門家」である日本人の無知さは言うまでもない、下記参照)、ジェノサイドはジェノサイドである。むしろホロコーストの根はこのあたりからすでに始まっていた、という点で史実としての重要度はホロコーストに優るとも劣るまい。

 ドイツ人が行なった「民族浄化」の対象になったのはヘレロとナマという民族である。上述のようにドイツ領南西アフリカは1884年からドイツの植民地であったが、始めから原住民に対する抑圧・無関心は相当のものだったらしい。もっともこの「現地人を自分たちと同等の人間とはみなさない」というのは当時のヨーロッパ列強だけではなく、そもそも植民地支配などというものを考えつく国のスタンダードメンタリティではなかろうか。日本だって例外ではない。
 1904年1月12日、ヘレロがその圧政に耐えかねて蜂起し123人のドイツ人が殺された。これが戦争にまで発展した。後にナマもこれに加わった。この、生意気にご主人様に対して蜂起した原住民に対するドイツ側の報復感情は常軌を逸していた。ドイツ側は住民から義勇兵を募ってSchutztruppe、植民地保護軍隊を形成したが、この手の「準」軍隊というのがどういうものであったかはドイツのSAや種々「討伐隊」などその後の歴史を見てみれば容易に想像がつく。実際私たちが想像する通りの集団であったようだ。最初ドイツ側の指揮をとったのは当時としては穏健でまともなテオドール・ロイトヴァインTheodor Leutweinという司令官だったが、この人は報復感情をあまりむき出しにしないようドイツ人達に警告した。しかしそもそもこのロイトヴァインにしても単に「絶滅指令は出さなかった」というだけで、捕虜を特に人道的に扱ったりはしなかったし、ヘレロ殲滅に反対した理由というのも「民族を1人残らず抹殺することなど物理的に無理」「社会的権利をすべて奪うだけで十分。そうしてヘレロをドイツ人のために働かせればいい」というものだったそうだから、その程度の司令官にさえ「あまり感情をぶつけるな」といわれるほどであったドイツ人の討伐軍がいかなるものであったか、想像するだに背筋が寒くなる。
 ところがこの甘すぎる司令官は1904年2月にはもう更迭され、首都ベルリンのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世からロタール・フォン・トロータLothar von Trotha中将という新しい指揮官がアフリカに派遣されてきた。軍隊や武器も強化された。現地の政府は原住民に対する厳しさが足りないと地元南西アフリカのドイツ人たちが本国へ向けていわばロビー活動を行なったらしい。このトロータが悪い意味ですごかった。最初からこの植民地戦争を「人種間戦争」または「人種殲滅戦争」とみなしてヘレロ撲滅を狙い、文書でも堂々とそう宣言したのである。

ロタール・フォン・トロータ
wikipediaから

220px-Lothar_von_Trotha

 1904年8月11日Waterbergというところで戦闘があり、ヘレロは戦いに負けた。トロータにとってはまさに「待ってました」であった。何万人ものヘレロが隣のオマヘケ砂漠に逃走した。大半は非戦闘員、つまり女子供である。ドイツ軍は退路を遮断した上、砂漠で水のあるところを占領したり毒を入れたりして難民が水を得る機会を奪ったため、大半は渇きで死んでいった。砂漠の向こう側はイギリス領だったが、ここまでたどり着けたのは僅か。繰り返すがこれをドイツ軍はワザとやったのである。始めからこの民族を皆殺しにするのが目的だったのだ。トロータはその時こう言っていたそうだ:

„Die wasserlose Omaheke sollte vollenden, was die deutschen Waffen begonnen hatten: Die Vernichtung des Hererovolkes.“

「ドイツが武力をもって開始したことを水のないオマヘケ砂漠が終わらせてくれるだろう。つまりヘレロ民族の絶滅である。」

あまりにも残酷な写真なのでこの記事に載せるべきかどうか迷ったが、ドイツ軍によるヘレロ虐殺。二次大戦時にドイツ陸軍が当時のソ連で行なった住民虐殺の様子と重なってみえる。
http://www.gfbv.it/2c-stampa/04-1/040107it.htmlから

040107herer

ドイツ人にオマヘケ砂漠に追いやられ水を遮断されてそれでも生き残ったヘレロ
https://segu-geschichte.de/voelkermord-herero/から

Herero

 この民族絶滅意図に批判的であったLudwig von Estorff ルートヴィヒ・フォン・エストルフという人が、すでに戦いに負けている民族をさらに砂漠に追いやり家畜諸共死に至らしめるようなやりかたに何の利があるのか、きちんとそれなりに扱ってやって受け入れてやればいいじゃないか、彼らはもう十分罰を受けているのだから、とトロータに提言したがトロータはガンとして耳をかさず、絶滅措置をそのまま推し進めたという。
 さらに殺しそこなったヘレロを収容するために強制収容所も作られた。この強制収容所Konzentrationslagerというものは元々スペインとアメリカに遡るのだそうだが、このドイツ領南西アフリカで使われて以来一気にその名称が世界に広まった。ナチスの発明ではないのである。男性ばかりか女子供までヘレロやナマが収容され人口を減らすのが目的で残酷な労働をさせられたが、その記述を読むと全くナチス時代の強制収容所そのものである。また、トロータがその典型だろうが弱い者や他の民族に理解や同情を示すのは「お花畑」「アマちゃん」、つまり精神が弱い証拠とみなすあたりもナチスの精神主義とまったく平行する。
 トロータは1905年の1月にドイツに帰り、1907年3月31日には戦争は正式には終結したがそこここに収容されていたヘレロ・ナマは1908年の一月27日までは留め置かれたそうだ。最初7万人から10万人いたヘレロが、戦争の後は1万7千人から4万人しか残っていなかった。2万人いたナマも半数しか残らなかった。ドイツ兵の数は1万4千人から1万9千人と推定されている。数字に幅があるのはしかたがない。

 Jürgen Zimmererユルゲン・ツィメラーという歴史学者はこのドイツ人の行為を「あらゆる定義・観点からみてジェノサイドであった」と断定している。

 ドイツの植民地支配は1915年まで続き、その後この南西アフリカにはブーア人(アフリカーナ、『89.白いアフリカ人』参照)が入り、英国領となり、さらに紆余曲折を経て1990年に独立したわけだが、その植民地支配自体は終了した後、つまり1920年代になってからもドイツ本国や南西アフリカにいろいろ記念碑や銅像が建てられた。「勇敢なドイツ兵士」を記念するためである。フォン・トロータをたたえる記念碑まであったそうだ。1930年代、ナチスの時代になってからはこのドイツ軍カルトぶりがさらに悪化し、いわば国民総ミリオタ状態になったことは想像に難くない。盛んにプロパガンダされたようだ。1935年にもこの「ドイツ人が植民地で行なった英雄行為」をたたえる銅像がデュッセルドルフに立てられている。
 「ホロコーストをやったのはナチ。普通のドイツ市民はむしろその犠牲者」という言い方をそのまま信じているそれこそお花畑な人が日本にはいるが、こんなもんは国土をさほど荒らされる事もなくドイツ人の支配を受けずに国民を虐殺されることがなかった戦勝国英米が余裕で行なったリップサービスである。ポーランドやフランス国民にはそんな絵空事を信じている者などいない。あれはドイツ国民がこぞってやった犯罪だと思っている。事実ソ連やポーランドでユダヤ人やスラブ人を虐殺したのは武装親衛隊ばかりではない、普通の陸軍兵士もやったのである。また、ヒトラーに政権を与えた後もドイツ国民側からこの政権に反対を唱える声があまり聞こえてこなかったのもゲシュタポが怖かったり情報が入って来なかったからばかりではない、「我々は支配者人種」という思想がドイツ人の心の底にはあったから、つまり国民の相当数が消極的にナチスに加担していたからである。歴史の歯車が狂っていたらアジア人の日本人など劣等民族として殲滅対象にされていたはずである。

 第二次大戦後はこの南西アフリカでの行為は忘れられてしまった。その歴史意識が転換し出したのはやっと1970年も終わりになってからだ。そここにいまだに立っている「植民地記念碑」を恥かしがる声が起こってきた。1978年には反帝国主義運動を起こしていたゲッティンゲンの学生の1人と思われる者に南西アフリカ記念碑の鷲の銅像が盗まれた。その銅像から切り取られた鷲の首が1999年になぜかナミビアの首都ウィンドホックで見つかり、現在はナミビア大学の学生協会の所有になっているそうだ。

これがそのワシの首
http://www.freiburg-postkolonial.de/Seiten/Goettingen-kolonialadler.htmから

GoettingenAdler

 さらに1984年、つまりドイツの南西アフリカ支配が始まってからちょうど100年目、学生ばかりでなく教授をも含むミュンスター大学の行動グループがやはりドイツ軍礼賛記念碑にWir gedenken der Opfer des Völkermordes unter deutscher Kolonialherrschaft in Namibia「ドイツの植民地支配下でジェノサイドの犠牲になった人々を追悼する」というプレートを付加しろと運動した。ここでVölkermord(民族浄化、「ジェノサイド」Genozidと同義である)という言葉が論争になり、結局プレートは実現しなかった。
 1990年、ナミビアが正式に国家として独立するが、これを機に1933年に建てられていた植民地支配記念碑を「どうにかしよう」という動きがブレーメンで起こり、1996年にその記念象には逆の意味が与えられ、「ドイツによるナミビアでの植民地支配の犠牲者に捧げる」というプレートがつけられた。除幕式、といっていいのかとにかく完成時には当時のナミビアの大統領Sam nujomaサム・ヌヨマ氏も招かれた。なお記念と書いたのは誤植ではない。この記念碑は本当に象の像なのである。

かつてドイツの植民地支配を誇示するものであった象の像は今は寛容のシンボルとなった。アフリカの国々の国旗を掲げる活動グループ。象のデカさがわかる。
http://www.der-elefant-bremen.de/aktion_10/elefantenfluesterin2.htmlから

schal

 植民地戦争勃発の100年目、2004年を前後してナミビア関係の史学論文や著書の出版も増えた。このブログの参考にしたVölkermord in Deutsch-Südwestafrika(ドイツ領南西アフリカでのジェノサイド)という本も2003年の出版である。また、ナミビアが正式に国家になったことで、ドイツ帝国の後裔である現在のドイツ連邦共和国に対して賠償問題も浮上した。2001年には米国でヘレロがドイツ銀行に対して当時の賠償を請求する裁判を起こしているそうだ。
 話は飛ぶが、1989年にドイツが統一したことによりドイツはワイマール共和国の正式な後裔ということになって、ナチスが一方的に破棄していたフランスに対する第一次世界大戦時の未払い賠償金の義務が生じたため、統一ドイツは2010年に完払するまで毎年フランスに残りの賠償金を払い続けていた。ご苦労なことである。

 さて、ナミビア賠償問題、いやそもそもナミビアでのドイツの戦争犯罪は2004年以降から次第にドイツ国内でも人の口に上るようになり、とうとう2007年に左党が連邦議会に動議を提出したことは始めに述べた通りである。私は長い間ドイツで暮らしていながらこのドイツ帝国の犯罪をこのときまで知らなかった。「戦争犯罪に無神経な日本人」を地で行ってしまったのである。
 左党の要求に対する当時のドイツ連邦議会の答えは「ドイツに責任があったことは認めるが補償やジェノサイド認定はしない」というものであった。これが今日までのドイツ政府の正式なスタンスである。しかし左党はその後もしつこく動議を出しているし、活動家や政治家からの追及の声も高い。2016年、連邦議会議長Norbert  Lammertノルベルト・ラマートが当時の行為について「ジェノサイド」という言葉を使ってニュースになった。けれどもこれは政府の公式な見解とは見なされていない。「謝罪はするがジェノサイド認定も賠償もしない」という連邦政府の姿勢は変わっていない。
 ここでジェノサイドと言った言わないが大騒ぎになるには理由がある。1968年にドイツ連邦共和国が加盟した国連協定、また1974年のヨーロッパ協定でも「戦争犯罪、人道に対する犯罪、ジェノサイドには時効がない」とされているからである。ジェノサイドと認定してしまうと芋蔓式に様々な法的義務が生じ、追求を止められなくなる、つまり「この件は歴史的に既に決着しています」ということができなくなるのだ。
 地元ナミビアでは毎年八月の最後の週末に「ヘレロの日」というのを設け、Okahandjaオカハンジャという町で祭り(?)を行ない、ドイツ軍によるヘレロ虐待の模様を芝居で再現しているそうだ。ナミビアには現在でも2万人強のドイツ人がいて、ドイツ語言語島を形成しているが、ヘレロの日にドイツ軍を演じるのは彼らではなくヘレロである。まだ話し合いは続いていくだろう。

ヘレロの日。ドイツ軍はヘレロ人が再現している
http://www.zeit.de/politik/deutschland/2016-07/bundesregierung-herrero-massaker-voelkermord
namibia-hereroから

namibia-herero-voelkermord

イラストに描かれたヘレロ戦争
https://www.welt.de/geschichte/article156071025/Mit-diesem-Genozid-will-die-Tuerkei-kontern.html#cs-Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal.jpgから

Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal

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 ドイツ語ディアスポラは結構世界中に散らばっているが、アメリカのペンシルベニアやルーマニア(それぞれ『117.気分はもうペンシルベニア』『119.ちょっと拝借』の項参照)の他に、アフリカ南端のナミビアにドイツ語話者がいることは知られている。このナミビア・ドイツ人は現在のナミビアが「南西アフリカ」と呼ばれたドイツ帝国の植民地だったときに(「支配者」として)移住してきた人たちの子孫だが(『113.ドイツ帝国の犯罪』参照)、ドイツが第一次世界大戦に負けた後も出て行かなかった直接の子孫だけではなく時代が下ってから新たにやってきた人たちもいる。大抵はいまでも大土地所有者で政治的・経済的にも影響力の強い層である。

ナミビアにはこのようなドイツ語の看板・標識がゴロゴロある。ウィキペディアから。
NamibiaDeutscheSprache

 ナミビアの公用語は英語だが、正規の国家語national languageとして認められているのは全部で8言語ある。まず原住民の言語には(面倒くさいので日本語名は省く)Khoekhoegowab、OshiKwanyama 、Oshindonga、Otjiherero、RuKwangali、Siloziの6言語があり、後ろの5つはいわゆるバントゥー語グループ、最初のKhoekhoegowabはコイサン諸語のひとつでコイサンのなかで最大の話者を持ち、約20万人の人に話されているとのことだ。以前にも言及したナマという民族がこの言語を話し、語順は日本語と同じSOV。音韻については資料によってちょっと揺れがあるのだが、8母音体系で音調言語。少なくとも3つ(資料によっては4つ)の音調を区別する。基本的な(?)印欧語のように文法性が3つ。またさすがにコイサン語だけあって、クリック音がある:子音が31あるが、そのうちの20がクリック音、11が非クリック音である。さらに人称代名詞に exclusive と  inclusive の区別(『22.消された一人』参照)があるというから非常に面白い言語である。
 OshiKwanyamaとOshiNdongaは相互理解が可能なほど近く、この二つはOshiwamboという共通言語の方言という見方もある。例えばOshiKwanyamaでgood morningはwa lele po?、OshiNdongaではwa lala po?で、そっくりだ。前者はナミビアのほかにアンゴラでも話されていて話者はナミビアで25万、アンゴラで約40万強ということになっているが、この話者数は資料によって相当バラバラなのであまり鵜呑みにもできない。どちらも母音は5つで(この点ではスタンダードな言語である)、コイサンと同様音階を区別するそうだ。クリック音がないのが残念だがその代わりにどちらにも無声鼻音がある。無声鼻音といえば以前に一度ポーランド語関連で話に出したが、ポーランド語ではあくまで有声バージョンのアロフォンだったのに対し、ここでは有声鼻音とそれに対応する無声鼻音が別音素である。とても私には発音できそうにない。
 さらにバントゥー諸語は名詞のクラスがやたらとあることで有名で、これらの話者から見たらせいぜい女性・中性・男性の3つしかない印欧語如きでヒーヒー言っている者など馬鹿にしか見えないだろう。OshiKwanyamaとOshiNdongaは名詞に10クラスあり、それに合わせて形容詞から何から全部10様に呼応する。そこにさらに単数と複数の区別があり、さらに格が加わるといったいどういうことになるのか、考えただけで眩暈がする。クラスの違いは接頭辞によって表され、Oshi-という接頭辞のついた語は第4クラスの名詞だそうだ。
 Otjihereroは以前に書いたドイツ帝国の民族浄化の対象となったヘレロの言葉で、話者数は15万から19万人。名詞のクラスは10、そしてotji-というのは上のoshi-と同様、第4クラスのマーカーだ。形がよく似ているのがわかる。また余計なお世話だがナミビア大学にはKhoekhoegowab、Oshiwambo、Otjihereroの課程がある

ナミビア大学で学べる言語。この他にスペイン語も学べる。思わず留学したくなる。
uniNamibiaBearbeitet

 RuKwangaliもまた バントゥー諸語だが、クリック音が一つある。この、語族を越えて同じ音韻現象が見られる例として有名なのはドラビダ語のタミル語と印欧語のヒンディーに双方そり舌音があることだが、まあこれも一種の言語連合現象(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)とみなすべきなのだろうか。他にバントゥー語でクリック音を持っている言語にIsixhosaがあるが、この言語ができる学生に会ったことがある。ドイツ人の学生だったが、南アフリカだかナミビアに留学したことがあるそうで、Isixhosaを話せ、クリック音を発音して見せてくれた。将来はあの辺の言語に携わりたいと言っていたが、今頃本当にナミビア大学にいるかもしれない。
 話を戻してRuKwangaliだが、5母音体系で子音は18あるそうだ。音階は高低の二つ。さらに語順はSVOで名詞のクラスは上の言語よりさらにひどく(?)18である。話者は約13万人とのことだが、これもあまり正確な数字ではないのではなかろうか。
 最後のSiloziは話者数7万人~15万人(実に幅の広い記述だ)とのことだが、言語の構造そのもの(挨拶やお決まりのフレーズを紹介していたものは少しあったが)については簡単に参照できる資料が見つからなかった。上の言語も皆そうだが、ハードな研究者、研究書はいるしある。しかし予算が0円・0ユーロの当ブログのためにそれをいちいち取り寄せるのも割に合わないような気がしたのでこの程度の紹介で妥協してしまった。また世界中の言語の概要を紹介しているEthnologue: Languages of the worldというサイトが有料になってしまっていて参照できない。貧乏で申し訳ない。

 さて、これらの現地語と比べると面白さやスリルの点で格段に落ちるが、アフリカーンス、ドイツ語、英語(公用語。上述)もナミビアで正式に国家の言語として認められている。ドイツ語が国家レベルの正規な言語として認められているのはヨーロッパ外ではこのナミビアだけだ。地方レベルでならブラジルやパラグアイでも承認されているし、隣の南アフリカでは少数言語として公式承認されているが、これは「国家の言語」ではない。ナミビアでドイツ語を母語としているのは2万人から2万5千人ぽっちしかおらず、この点では上の6言語より少ないが、話者が政治経済の面でまあ嫌な言い方だがいわば支配者層なので、強力な言語となっている。
 遠いナミビアに、ドイツ語を母語として生まれ育ち、民族としては完全にドイツ人なのにドイツという国に行ったことがないまま人生を終える人が「ぽっち」と言っても万の単位でいるのだ。これらドイツ系ナミビア人は首都のヴィントフックWindhoek(しかしこのWindhoekという地名自体は皮肉なことにドイツ語でなくアフリカーンス語であるが)に特に多いとはいえ、ナミビア全土にわたって広く住んでいて、たとえ見たこと・訪れたことがなくてもドイツ本国の存在を強く意識し、文化面でも言語面でもドイツとのつながりを失うまいと努力している。
 特にドイツ語による学校教育が充実していて、今ちょっと調べた限りではドイツ語で授業を行なっている正規の学校が13ある。私立が多いが国立校もあるし、いくつかはドイツ本国から経済援助を受けている。有名なのがヴィントフックにある「私立ドイツ高等教育学校」Deutsche Höhere Privatschule (DHPS)で、幼稚園から高校卒業までの一貫教育を行なっている。1909年創立というから、なんと植民地時代から続いているのである。さらに上述のナミビア大学でも授業の一部をドイツ語で行なっている。とにかくドイツ語だけで社会生活をまっとうできるのだ。さらにドイツ語の新聞も発行されている。「一般新聞」Allgemeine Zeitungという地味な名称だが、これも1916年創刊という古い新聞だ。電子版のアーカイブで過去の版が読めるようになっていてちょっと感動した。
 ドイツ本国の側にもゲッティンゲンに本部を置く「ドイツ・ナミビア協会」Deutsch-Namibische Gesellschaft e.Vという民間組織がありナミビアとの文化交流のためにいろいろなプロジェクトを立てている。会員は現在1500人だそうだからこういうのもナンだがあまり大きな組織ではないようだ。
 なお、変なところに目が行ってしまって恐縮だがナミビア大学や「一般新聞」のインターネットのサイトのドメインが「.na」、つまりナミビアのドメイン名になっていたのにゾクゾク来た。私立ドイツ高等教育学校とドイツ・ナミビア協会はドメイン名が「.de」、つまり平凡なドイツ名だったのでガッカリである。

Windhoek中央駅。真ん前にトヨタの車が止まっているのがちょっと興ざめ。ウィキペディアから。
Gare_de_Windhoek

 さて、このようにナミビアではドイツ系国民が常に本国を意識し、言語や文化を継承しようと努力しているが、では本国の一般ドイツ人はドイツ系ナミビア人のことをどう思っているのか。試しにドイツ人二人にドイツ人はどのくらいドイツ系ナミビア人のことを知っているのか、またドイツ語がナミビアの正規の国家語であることを知っているか聞いてみたら、バラバラに訊ねたにも関わらずほとんど同じ答えが帰ってきた:「普通のドイツ人はそもそもナミビアなんて国知らないだろ」さらに「なんでそんなところにドイツ人がいるんだよ。」とまるで私の方が血迷ってでもいるかのような按配になってきた。最初に「アフリカ南端のナミビアにドイツ語話者がいることは知られている」と書いたが訂正せねばなるまい。知っているのは関係者と日本人だけのようだ。
 ナミビア・ドイツ人の方も自分たちの存在が本国ではあまり知られていないのがわかっていて不公平感を持っているのか、本国ドイツ人に対する感情がちょっと屈折している気がした、と上述のIsixhosaができる学生が話していたことがある。ナミビアのドイツ語は学校教育が発達していることもあるのだろう、基本的には美しい標準ドイツ語だがそれでも語彙使いで本国から来たとすぐバレるのだそうだ。すると引かれたりからかわれたりする。もちろんイジメとか排除とか陰険なことはされないがまあ間に線が入ることが多いのだそうだ。
 ルーマニアのドイツ語のところでも引用したAmmonという学者が次のような「ナミビア・ドイツ語」の語彙を挙げている。
abkommen: (激しい降雨のあと)カラカラに乾いた水路に突然強い水流がくること
                 例えばein Rivier kommt abという風に使う
Bakkie, der: ピックアップ・トラック、プラットホームトラック
Biltong, das:(味付けした)乾燥肉
Bokkie, das:  山羊
Boma, die: ズック地で区切った野生動物を入れておく(暫定的な)檻
Braai, der: グリルパーティー
Dagga, das: マリファナ、ハシッシュ、大麻
Damm, der: ダムを作った一種の貯水池
Despositum, das:(貸家・貸し部屋の)敷金
Einschwörung, die: 就任宣誓
Gämsbock, der: オリックス
Gehabstand, der: 骨を折らなくても徒歩でいける距離
Geyser, der: お湯をためておく装置、ボイラー
Kamp, der: 柵で囲った平地
Kettie, der: パチンコ
Klippe, die: 石
Küska, der: Küstenkarneval「海岸のカーニヴァル」の略語
Magistratsgericht, das: 最も下位の刑事・民事裁判所
Oshana, das: 南北に走る浅い排水溝と北ナミビアの真ん中にあるくぼ地
Panga, der/die: 山刀、なた
Permit, das: 役所が(請願書に対してだす書面での)許可証
Ram, der: 去勢されていない雄羊
Rivier, das: 干上がった川底
Shebeen, die:(多くの場合非合法の)小さな酒場または許可は貰っている、貧しい地区に
       あるトタン葺きなどの簡単なつくりの小屋の酒場
Straßenschulter, die: 砂利または砂が敷かれた、舗装道路の底
trecken: 引く(牽引する)
VAT: 英語のValue added tax(「付加価値税」)の略語
Veld, das: 開けた広い土地、サバンナ
Vley, das: 雨季に水がたまるくぼ地
Zwischenferien, die: 6月か12月にある短い(大抵一週間の)学校休み

 先のルーマニア・ドイツ語と比べると牧畜や動物に関係する用語が多い。また英語やアフリカーンス(多分地元の言語からも)からの借用が目立つ。たとえば「オリックス」(太字)というのはガゼルの一種で、別名としてゲムズボックという名称も動物学では使われているらしいが、これは本来アフリカーンスで(gemsbok)、そこからドイツ語に借用されたものである。一番最初の動詞 abkommen (太字)は単語自体は本国ドイツ語にもあるが、意味が乖離して本国では見られない使い方をされている例だ。見ていくといろいろ面白い。

これがゲムズボック。ウィキペディアから。
800px-Oryx_Gazella_Namibia(1)

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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下の記事は2018年10月23日(ちょっと古いです)の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったものですが、当ブログの記事『113.ドイツ帝国の犯罪』で名前を出したJürgen Zimmerer教授の投稿です。ネットのでなく新聞の記事のほうをもとにしましたので、レイアウトなどちょっと違っているところがあります。原文のタイトルは「やたらと煙がたっているわりには火が出ない」というものでした。

ドイツ連邦政府は本気で植民地支配の歴史を見直そうとする気があるのか疑わざるを得ない。

ユルゲン・ツィメラー

 自国の植民地政策の処理の見直し問題でドイツは今ターニングポイントに立っている。政府は何年も前から当時の南西アフリカで行ったジェノサイドの扱いについてナミビアと交渉してきた。夏には連邦政府の文化・メディア部門を担当しているモニカ・グリュッタースがドイツ博物館連盟に向けて、植民地時代に収集した物件をどうすべきかについての手引き第一稿を提出。連邦政府の連立契約にも今回初めて東ドイツや第三帝国時代の処理とともにこの植民地支配政策の見直しの件が取り込まれている。
 しかし本当に今後本気で処理していく気があるのだろうか?批判的な声はすでに前々から出ていて警告を発していたのだが声が大きい割にはあまり目に見える変化が見られない、煙はもうもうと立っているのだが火がでていないのである。例えば植民地から運んできた物件の出所の調査を促進せよという政治イニシアチブだが、これに対しても言い分がある:この調査をする機関が基本的には博物館内部に設置されていることだ。博物館自身でその所有物件の調査をしていいということで、中立な監視もないし、外部の協力もなく、あくまで内部のヒエラルキー構造の内側でやるということ。それでは外側に漏らす情報のコントロールはできるだろうが、失われた信ぴょう性は回復できない。「世界遺産」とか「共有遺産」などという観念を持ち出すと本来の問題がさらにかすんでしまう。なぜこの遺産がほぼ全部北半球にあって、南で称賛してやることができないのかという問題が。
 フンボルト・フォーラムも、ただ単に喪失している植民地支配の記憶を戻そうとするのさえ拒否して騒動が危険なレベルになったが、ここでもやはり国内外の批判者とは議論するのを避けている。議論をする相手は自分で選んだ方がよろしいというわけ。そうこうするうちに新しいディレクターのハルトムート・ドルガーローがきちんと起動するエスタレーターの設置計画の方を(ポスト)植民時代の遺産についての議論より重要視しだした。わかることはわかる。何事もマネージャーが必要だし、極めて時間に迫られてもいるわけだから。それでも言わせてもらうが、未来のことを考えるなら他のやりかたを取るべきだ。
 かてて加えて20世紀最初のジェノサイドを認定する件も結局全然進捗していない。連邦議会の承認もないし、首相や連邦大統領の謝罪もない。
 首相も外相もこの問題についてはすべて口を閉ざしており、文化政策担当の政治家に丸投げする気らしい。植民支配の見直そう、植民支配の思想から脱しようという意思が政治権力の中枢まで届いているのか否か?連邦政府が個人的に委託したアフリカ問題顧問、以前に東独で人権問題に携わっていたCDUの政治家ギュンター・ノーケが行ったインタビューを見ると強い疑問がわいてくる。
 ベルリン新聞に対し、氏は植民支配は「現在にも影響を及ぼしている」ことを認め、「北アメリカの奴隷交易は悪い事だった」と言ってはいる。一方「植民支配は大陸全体を先史時代的な構造から解放した」とのことだ。そもそも「冷戦の方が…植民支配よりよほどアフリカの害になった」と。
 氏の政治使命がどういう分野なのかを考えただけで、この発言、いやそもそもこのインタビュー全体がすでにスキャンダルである。これが首相のアフリカ担当者の発言だろうか!氏がこの調子なのに他の誰に歴史を知れというのか。ホロコーストについての基本的知識さえ持たない、いやそれどころか史実を意識的に捻じ曲げるイスラエル担当官というのが想像できるだろうか。強制連行、自由の剥奪、何百万人もの人々の死、これらに対して「悪い」などという完全に不適切な言葉を使う。それくらいはまあ目をつぶってやろうとする人がいるかもしれない。だが氏は人が連れ去られたのは北アメリカにとどまらず、それ以上の人が南アメリカで奴隷にさせられた事実は全くご存じないらしい。いやもうこのインタビューには植民支配のイメージがしっかり織り込まれている。氏にいわせれば「アフリカは違っている」。ありふれた言い回しだが、本音が透けて見える。そこにはアフリカは近代的ではない、ひょっとしたらいまだに先史時代だとの認識がしみ込んでいるからだ。そしてその実例として出生率の高さに言及し、ニジェールをその極端な例とし、しかもそこでもう使いものにならない古い数値を持ち出す。氏がこういうことをするなら、少なくとも軽率だとは言わせてもらう。
 ノーケはまたヨーロッパは文明を伝播したという例のメルヘンを蒸し返し、植民支配のプロパガンダを行う。氏にすれば植民支配をもっとポジティブなイメージにしなければということなのだろうが、それどころか自身の政治見解が植民支配の続きそのものだ。その調子でノーベル経済学賞ポール・ローマーの思想を拠り所にして、地中海で難民が死んでいくのを食い止めるためにはアフリカに治外法権の飛び地を作れと言い出す:もちろんアフリカ人の福利のためというわけである。植民支配する側の利益を植民支配をされる側の福利だと主張する、これこそまさに「文明の伝道者」の中心要素だった。今もそうだ。
 しかしノーケの考えは植民時代の記憶をなくすのがいかに危険かも示している。私たちはこの手の飛び地が政治的に極めて危険なことを知っているが、それは植民の歴史を見てきたからではないか。治外法権の飛び地を作るのは単に植民地としてそこを占領するための典型手段というばかりではない、それをすると事が自動的に進行しだすのだ。例えばそういう飛び地の一つで騒動が起こったり、外から脅威が迫ったらどうなるだろう?それぞれの飛び地を管理している機構が中の住民を守るために介入しないといけなくなる。そしてその際犠牲者が出ればそのままにしておくことはできず、面目を保持するために増援を送らなければならない。インドなどもそうだったが、そうやって植民帝国全体が植民地化されていったのだ。そしてドイツの植民地帝国自身もそうやって成立したのだ。このことをノーケは知っていなければならない。何といっても交渉しているのは連邦政府、そして氏はその代表のアフリカ担当官なのだ。
 このノーケの件で問われているのはノーケ自身だけでなく、連邦政府全体の信用問題だ。ノーケの扱いの如何によって、政府の連立契約が植民支配の見直しにどれだけの価値があるのか見えてくる。また、モラルの点でそれなりの理由があったなどという言い訳は全部置いておいて、とにかく植民地支配の歴史についてきちんと啓蒙するのが不可欠ということもはっきりしてくるだろう:植民支配を記憶から消してしまおうというのは間違った政治選択である。
 そろそろ本気で植民支配時代の見直しを始めるべきだ。博物館や収集品云々に話を限ってはいけない。オープンでないといけない、そして市民社会全体が自由に参加でき、当時の植民地出身の市民や同僚たちとも議論するようにしないといけない。最近設立された文化会議が、連邦、州、共同体からなる研究グループを作って植民地からの物件の処理を検討していくと発表した。仕事の範囲を広げて植民支配の記憶が残っている地域はすべて網羅し、植民支配について学習、研究する場所をつくるのが目標とのことだ。

元の記事のネット版はこちら
この問題についてのパネルディスカッションはこちら。司会を務めているのがツィメラー教授です。


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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。

下の記事は2021年5月30日の南ドイツ新聞印刷版とネット版に同時にのったものです。当ブログの記事『113.ドイツ帝国の犯罪』『休題閑話⑫ 煙は立つが火が出ない』を書いた時点では「まだ」でしたが、このたびドイツ連邦政府が当時のドイツ領南西アフリカ、現ナミビアの現地人に対する虐殺行為を正式にジェノサイドと認定しました。ナミビアに今後30年間にわたって11億ユーロの支援金を払っていくことになりました。

新聞には一面全部使っていくつも関係記事が掲載されましたが、これはそのうちの一つです。

手っ取り早く血を流して解決
ドイツの植民地の歴史に対する態度が非常に変化した理由


文:クルト・キスター
原文はこちら。残念ながら全部見るのは有料ですがクリックしただけでお金を取られたりしませんので安心して覗いてください

 比較的短時間ではあったが血にまみれたドイツの植民地政策の歴史は、連邦共和国で(時々そういう声も聞こえてくるが)「無かったことにされていた」わけではない。ただドイツがナチスの時代に行った世紀の大犯罪があるので背景に追いやられてはいた。議論そのものは止んではいなかったといえよう。もっともその議論も長い間第二次世界大戦時のドイツの民族撲滅政策との関連で行われ、歴史学者とマスコミとの論争も、ヘレロやナマに対するジェノサイドやマジ・マジ反乱がある意味ユダヤ人へのジェノサイドやポーランド人やロシア人の大量殺人への発端だったのか否かという点に終始した。また他方では西ドイツでもいくつかの界隈で厳格ではあるが公正な「ドイツ領南西アフリカ」の植民者、あるいは1918年までは自称無敵であった「ドイツ領東アフリカ」のレトフ・フォアベック将軍配下の軍隊という神話の余韻が長く残っていた。
 ひょっとしたらさる記念碑がたどった運命が植民地時代の遺産がどう処理されていったかを見るいいアネクドート、いい見本になるかもしれない:1909年に当時の植民地ドイツ領東アフリカの首都ダレスサラームに帝国弁務官ヘルマン・フォン・ヴィスマンの像が建てられた。1889年に今日のタンザニアで起こった蜂起を残酷に鎮圧した人である。第一次世界大戦後東アフリカの新しい委任統治者となったイギリス人が像を戦利品としてロンドンに持って行った。1921年にドイツに返還され、1922年にハンブルクの大学の近くに設置された。ヴィスマン像はそこで20年間、植民地政策を擁護しその復活を求めて(いわゆる植民地歴史修正主義)植民地政策を祝う催しの中心に鎮座していた。
 1945年4月の爆撃の際ヴィスマンは台座から転げ落ちたが、1949年その栄光ある帝国弁務官は再びそこに据えられた。50年代は西ドイツで現在の問題の克服のほうが近過去・最近過去より重要な課題と見なされていたため、ヴィスマンも全く問題なくそのまま高座に居残った。しかし1961年からその像に対する抗議運動が特に学生の間で執拗に展開されるようになる。1967年と1968年の2回記念像は引きずり降ろされ、その2回目以降はもう戻されずにベルゲドルフの地下に置かれ、おりおり展示もされた-ただし不遜と犯罪のシンボルとしてである。
 ドイツの植民地支配史の捉え方は目まぐるしく変化した。それには連邦共和国での「沈黙の」50年代以降の社会変化が一役買っている。68年の出来事もその一環だ。アフリカやアジアで植民地が次々に独立していったこともあって注視せざるを得なくなったのだ。
 西ドイツの左党の一部は60年代70年代にいわゆる第三世界での種々の解放活動に携わってきた:それは一方では反植民地主義が動機になっているが、他方では東西対抗とも大きな関連性がある。冷戦時にアフリカ・アジアの若い国々が再び旧宗主国に政治利用されたのである。全体的に言ってドイツ民主共和国では連邦共和国より植民地主義の研究がはっきりしていたが、当地では植民地主義が資本主義後期の帝国主義の一環として理解されていたためである。
 80年代の連邦共和国は再び燃え上って力を持ってきた民族社会主義との対決、特にホロコースト問題との対決に明け暮れた。植民地についての論争は消えはしなかったが、ナチスの犯罪の原因追及の一部としてなされるようになる。またドイツの植民地主義というテーマに対する姿勢、もしくはそれに対する関心度は政治上の立場の問題でもあった:左党は関心が強い。保守と右翼は第一次大戦以前のドイツの植民地の歴史はまさに「歴史(過去のこと)」、つまりとっくに過ぎたこととみなしている。
 冷戦後は連邦共和国で植民地史の捉え方に新たな変化が見られた。それは一つには「文化闘争」あるいは「グローバル化」などの見出しでまとめらる事象と関連している;もう一つには2001年9月11日のテロ以降、またそのあとアラブの春が広範囲で挫折してからは現在というものをよりよく理解するために事件を歴史の流れのなかで捉えろという、事象の歴史的関連性が関心の中心になってきたためだ。かつての植民地大国、イギリスやフランス、またはアメリカ合衆国やブラジルのような、かつて奴隷がいた国々のこんにちの社会機構は植民地主義と密接に結びついている。(大雑把に言って)南から北へという移民の流れの大きな部分が植民地化および脱植民地化の結果から生じたのだ。
 いずれにせよ自国の植民地政策への関心の大きさはこんにちのドイツは戦後最大といっていい。120年前のドイツ人の入植者や兵士の態度・行動は特に現在のナミビアとタンザニアでレイシズムや正義という大きなテーマの一環となっている。ソーシャルメディアの恩恵を受けてそれらはほとんどグローバルレベルで強い影響力があり、植民地主義の捉え方を根本から変えてしまったらしい。そのことは連邦政府が今ヘレロとナマの代表者の要求を飲んだことをみてもわかる。
 すでに10年前フォン・トロータ将軍とその自衛軍の犠牲になった者の子孫は基本的には現在のと同じ内容の訴えを起こしていた。しかしこんにちでは植民地時代の犯罪とその犯罪の現在への意味の捉え方が違っている。ドイツの外相がジェノサイドを認めたばかりでなく、民俗学博物館をめぐる論争がおき、遺物が返還され、ストリートの名前が変更されたことなどにもその変化は見てとれる。

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