アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:二項対立

 以前沖縄で米軍のヘリコプターが海面に落ちて大破するという事故があった。米軍機が民家の上に落ちたりものを落としたりする迷惑行為そのものはよくあるらしいからこれもその一環として「またか」の一言で片づけられてもよかったのだが、この場合は最初に「米軍機が海面に不時着した」と報じられたため議論がいつもとはちょっと別方向に進んだ。ヘリコプターは大破しているからこれは不時着ではなく墜落ではないのか、という議論が起こったのである。

 私もそうだったが、不時着か墜落かを決める際「飛行機が損傷したか否か」を重要な基準にする人は多いと思う([ + 損傷] ?)。機がバラバラになったら墜落、無傷で着陸できたら不時着である。だから2000年にシャルル・ド・ゴール空港を出たコンコルド機が離陸直後に落ちたときは「墜落」と報道されたし、ニューヨークで2009年にUSエアウェイズ機がラガーディア空港からのこれも離陸直後にガンの群と衝突してハドソン川に降りたときは「不時着」、人によっては単に「着陸」と呼んでいた。
 また「墜落」と聞くと「ある程度の高さから落ちること」と連想する人もいるのではないだろうか。この場合の高さとか落ちる個体と比較しての高さである。登山家が数十メートルの岸壁から地上に堕ちれば墜落だが、地上50cmのところから下に落ちても墜落とは呼びにくい。たとえその人が運悪く大けがをしてもである。個体が人より大きい飛行機の場合、「墜落」というとやはり何千m、何百mの高みから落ちるシーンを想像する。数m、数十mだと何百mの場合より墜落とは呼びにくくなる。ヘリコプターなら数十mでもいいかもしれないが。そしてこのように墜落という言葉の意味要素として「落ちる個体に比例したある程度の高度」を混ぜるのは私だけではないらしく、手元の国語辞典にも「墜落」を「高所から落ちること」と定義してある。
 ひょっとしたらこの「高度性」([ + 高所から]?)のほうが第一義で、破損か無傷かというのはそこから導き出されてくる二次的な意味要素かもしれない。高いところから落ちれば大抵破損するし、高さがなければ普通破損度は低いからである。もちろん例外もあるが。

 しかしさらに調べてみたら、墜落対不時着の区別に破損度や高度は本来関係ないと知って驚いた。両者を分けるのは制御された着地か、制御されていない着地かということなのだそうだ([ - 制御された] ?)。機が大破しても数千mの高度から落ちてもパイロットにコントロールされた着地なら不時着である。上記のヘリコプターはパイロットが民家に突っ込むのを避けようとして海に降りたのでその結果機体がバラバラになっても不時着。コンコルドの場合は管制塔と計器からエンジンが燃えていると警告を受け取ったパイロットが8キロほど離れた前方にあるLe Bourget空港に「不時着」しようとして制御に失敗したわけだから墜落ということになる。
 もちろん制御された着陸といっても「予定外の地点への着陸」([ - 目的地]?)ということで、制御されて予定地に降り立った場合は不時着でなく単なる到着である。だがこの点をしつこく考えてみるとグレーゾーンは残る。飛行機が空港Aに行こうとして何らかの不都合が発生したため行き先を変更して途中の空港Bに何事もなく着陸した場合でも不時着というのだろうか?特にその「何らか」が、乗客の一人が急病を起こしたなどという場合も不時着か?後者の場合は不時着という言葉は大げさすぎるような気もするが、辞書を引いてみたら不時着あるいは不時着陸を「故障・天候の急変などのため航空機が目的地以外の地点に臨時に着陸すること」と定義してあるから乗客の容体急変もこの「など」に含まれると解釈できそうだ。しかし逆に目的地の空港に飛行機が火を吐きながらかろうじて無事に降り立った場合、到着なのか不時着なのか。「故障・天候の急変などはあったが航空機が目的地点に着陸した」場合どっちなのか、ということである。火を噴いたりしたら目的地に着陸しても不時着とする人も多かろうが、急病人が出たにも関わらず目的地に降り立ったりした場合も不時着扱いしていいのか?やはり破損しているか否かのメルクマールを完全に無視するわけにはいかない気がするのだが。

 さらなるグレーゾーンはパイロットが意図的に飛行機を地上に突っ込ませた場合である。実際に2015年にフランスでそういう悲劇的な事故があった。ルフトハンザ系のジャーマンウィングスという航空会社だったが、鬱病で苦しんでいた副操縦士がバルセロナを出てドイツに向かう途中フランスのアルプ=ド=オート=プロヴァンス県で何百人もの乗客もろとも飛行機で山に突っ込んで自殺したのである。ここでは操縦する側がきちんとコントロールを行って目的地以外で降りたのだから下手をするとこれも「不時着」ということになってしまう。上で述べた辞書の定義でも暗示されているようにやはり「意図的に機を落としたか、それともできることなら落としたくなかったか」というメルクマールが重要になってくるだろう([ +/- 不慮性]?)。このルフトハンザの出来事を「カミカゼ」と呼んでいた人がいた。私個人は外の人に安易にカミカゼという言葉を使われるのが嫌いなのだが他に一言でこういう悲劇を表す言葉がないから仕方がないのだろうか。
 ここまでの考察をまとめて二項対立表(『128.敵の敵は友だちか』参照)で表してみるとみると、「墜落」「不時着」「普通の着陸」「カミカゼ」の違いは次のようになる。高いところから落ちたか否かは問わなくてもいいと思う。
墜落
[ - 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

不時着
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

普通の着陸
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

カミカゼ
[ + 制御された]
[ - 目的地]
[ - 不慮性]
[ + 損傷]

予定地に機が損傷して降り立った場合(適当な名称がない):
[ + 制御された]
[ + 目的地]
[ 0 不慮性]
[ + 損傷]

これに従うと急病人を抱えたまま目的地に降りたら到着、航空機が火を噴いたら「適当な名称がない着陸」である。どちらも「不慮性」に対しては中立だから機が損傷したか否かが決定的な意味を持ってくるのだ。またテロリストがハイジャックして目的地を変更させた場合、テロリスト側からみると「普通の着陸」、パイロット側にすれば「不時着」である。

 ドイツ語では「墜落」はAbsturz、「不時着」は Notlandungである。辞書にはAbsturzはSturz in die Tiefe(「深いところに落ちること」)、 Notlandung はdurch eine Notsituation notwendig gewordene vorzeitige Landung [an einem nicht dafür vorgesehenen Ort](「非常事態のため必要に迫られて(着陸予定でなかった場所に)予定を早めて着陸すること」)とある。日本語と同様やはり墜落では高度が問題にされている。つまり定義としては問題にされないが事実上連想としてくっついてくるメルクマールということなのだろうか。不時着のほうは「予定より早く」と定義されているが、こう言い出されると上述のようなテロリストが目的地より遠い空港に着陸を強制した場合を「不時着」と呼ぶことができない。また定義の側にNot-という言葉が使われていて一種のトートロジーに陥っている。日本語のほうは言葉をダブらせずに非常事態の例を挙げているのでトートロジーは避けられているが、「など」という部分が今ひとつすっきりせず、まあ言葉の定義というのは難しいものだ。

 ハドソン川の事件はその後映画化されたが、その『ハドソン川の奇跡』で、事故調査委員会側がcrashと呼んだのに対し、パイロットのサレンバーガー機長がlandingと訂正していたシーンがあったそうだ。念のためcrashを英和辞書で引くと「墜落」「不時着」とある。つまり日本語の墜落や不時着と違って [ 制御された] というメルクマールに関しても [ 目的地] に関しても中立、その代わり [ 損傷] が中立ではなく+ということになる。landingのほうは[ 損傷] が-となっている点でcrashと対立するが、landingでは [ 不慮性] も中立となるので全体としてはきれいな対立の図にはならない。

crash
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ + 損傷]

landing
[ 0 制御された]
[ 0 目的地]
[ 0 不慮性]
[ - 損傷]

ハドソン川の奇跡のように不慮性がはっきりしている場合はあっさりlandingとも言い切れまい。不慮の事故であることは明確だが、機体は大破せずとも川に沈んでしまったから損傷してもなししないでもなしというどっち付かずであるから損傷性メルクマールは問わない、つまり中立とする。一方機長は委員会側のcrashという言葉に対してNo を突き付け訂正している。これは何に対してなのか考えると [ + 損傷] と言われたことより [ 制御された] をゼロにされた事に対する反発なのではないだろうか。機長は機を完璧に制御していたからである。そこで [ 制御された] をプラスにする。すると以下のような図式になる。

[ + 制御された]
[ 0 目的地]
[ + 不慮性]
[ 0 損傷]

これが一応英語のemergency landing ということになろう。上で出した日本語の不時着と似ているが、英語では目的地であるか否かは問わないのである。それにしても大して中身のある意味分析を行ったわけでもないのに(自分で言うな)、二項対立表にするとやたらと学問っぽい外見になるものだ。
 なおこのハドソン川の不時着ニュースを聞いたとき私は真っ先に「えっ、ガンがエンジンに巻き込まれたの?!かわいそうに」と反応してしまった。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

 隣でプルターク英雄伝の初期新高ドイツ語訳を読んでいた者が突然「アレクサンドロス大王の馬の名前を知ってるか?」と聞いてきたので即座に「ブケファロス」と答えてやったら、向こうは大いに驚いて「どうしてそんなこと知ってるんだ?!」というから「日本人なら誰だってそのくらい高校の世界史でやっとるわ。悔しかったら紀元前3世紀の中国の名将項羽の馬の名前言ってみろ」と返しておいた。告白すると私がそんな変なことを知っていたのはその前に偶然どこかで「アレクサンドロス大王はインド遠征時に愛馬ブケファロスを失った」とかなんとかいう文章を読んでいたからである。そこで馬の名前がなぜか頭に残っていた。「覚えていなくてもいいのになぜか頭にこびりつく」ことは誰にでもあるのではないだろうか。その代わりに肝心の覚えなければいけない事項のほうは忘れている。例えば私は若かりし頃大学受験勉強をしていたとき、「試験に出る英単語」略称「でる単」なるもので英語の単語を暗記しようとしたが、いざ模擬試験などでそこに載っていた英単語に出くわすと、「あっ、この単語は確か「でる単」の右ページの一番上にあったな」とかそういう余計なことは思い出すのに肝心の意味が出て来ないという間抜けな経験を何度もした。まあそういう間抜けがたまにこの程度の法螺を吹いても地獄に落ちることはあるまい。
 もっとも向こうも別にブケファロスの話をしたかったわけではなく、単にそのテキストで「馬」がPferdtと綴ってあるのを見せに来たに過ぎない。現代ドイツ語の正書法では単にPferdと書き、d を t と読むが、これがドイツ語のAuslautverhärtung語末音硬化と呼ばれる現象である(『47.下ネタ注意』参照)。有声子音が語末、時には形態素の終わりにくると有声性を失って調音点と調音方法はそのまま変わらず対応する無声子音になる。d が t になるほか、g がk 、z がs 、b がp 、w (英語の v )が f になる。Hund 「犬」の単数は [hʊnt] だが、複数はHunde [hʊndǝ]、 Tag 「日」[taːk] が複数になるとTage [taːɡə] 、Staub 「埃」は [ʃtaʊ̯p] だが、「埃っぽい」という形容詞になるとstaubig [ʃtaʊ̯bɪç]で、当該子音が語末に立たないときは有声である。ドイツ語を習い始めると第一日目に練習させられる発音現象でこのAuslautverhärtungをきちんと発音しているかどうかでドイツ語の勉強の程度がバレるから誰もが一生懸命練習する。
 だが「一生懸命練習する」というのはつまり意識的に発音するということだ。 g で言えばその音素が語末に立っているのを見たら「えーっとこれの調音点は軟口蓋、調音方法は閉鎖音だな」とまずよく考え、さらに声門に震えが出ないように気をつけて口に出す。 g マイナス声イコールk と意識的に計算(?)しているのだ。言い換えると g と k が別音素であることは常に認識している。
 そうやってずっとこのAuslautverhärtungを意識的・理論的なプロセスととらえていたところ、先日ネイティブにはこの過程を無意識に行っていると知って非常に驚いた。もっともその無意識的・意識的の差がまさにL1とL2との違いなのだから当たり前で今更驚く私がおかしいのかもしれないが。さるネイティブにHeidelbergを片仮名で書いてみろと言ったら「ハイデルベルグ」と書いた。そこで「字にとらわれずに発音通り書いてみなさい、ハイデルベルクになるでしょが。最後の音は硬化してるんですから」と説明したところ向こうはその意味が全然理解できなかったのだ。彼には[haɪ̯dl̩bɛʁɡ] と  [haɪ̯dl̩bɛʁk] が「全く同じに聞こえる」そうだ。語末ではそうやって全く区別がつかないのに、これらが語頭に立つとしっかりわかる。だからgönnen [ɡœnən] 「喜んで許す」と können  [kœnən]「できる」を混同することはない。語末音硬化はネイティブにとっては意識してやるプロセスではなくて脳内認知レベルの現象なのかと思い知って新鮮に驚いた。
 しかし一方でこの人はひょっとしたら文字にとらわれているだけなのではないかとも思った。すぐ理解してくれるネイティブも多いし、中高ドイツ語では語末音硬化を文字にしていたからだ。硬化現象が生じたのは古高ドイツ語から中高ドイツ語への移行期だから中高ドイツ語ではすでに語末音が無声化していたので、今のTag「日」をtac、「子ども」をkintと綴ったりしていた。これらの属格はそれぞれtages、kindesで有声音になっている。
 つまりc (k)とg 、d と t はそれぞれ別音素であることを話者ははっきり聞き分けていたのだ。その後新高ドイツ語になってから例えばPferdと綴り上では有声音で表す、いわば「揺り戻し」が起こった。だから上記の初期新高ドイツ語の折衷的な綴りPferdtは面白いと思う。これは「ここは t と発音しますが本来は d ですよ」というシグナルともとれるからだ。-dt のほかに「日」がtagk、「去って」をwegkと書かれていた初期新高ドイツ語のテキストを見たことがある。こんにちではそれぞれTag、wegである。-bp という綴りは見たことがないが、-dtは現在でもドイツ人の苗字で頻繁に目にする。Feldt、Rindt、Mundt、Kindtなどでこれらを普通に書くとそれぞれFeld「野」、Rind「雄牛」、Mund「口」、Kind「子供」となるが、最後の子音は無声発音である。初期新高ドイツ語時代の綴りの名残なのか、実は全然別のところに理由があるのか(そういえば「町」は今でもStadtと綴るがこれがstatt(「~の代わりに」)と区別するためだと思う)私は知らないが面白いとは思っていた。その折衷綴りの -dt はまさにトゥルベツコイ始めプラーグ学派の提唱したArchiphonem「原音素」という言葉(下記参照)を髣髴させるからだ。
 そこで新めてトゥルベツコイのGrundzüge der Phonologie『音韻論概説』を引っ張り出してArchiphonemについて論じている章を見てみたらしょっぱなに次のようなことが書いてあり、上で私が今更驚いたり考え込んだりしたことなどトゥルベツコイは20世紀の初めにすでにお見通しであったと知ってまた驚いた。

  Der psychologische Unterschied zwischen konstanten und aufhebbaren phonologischen Oppositionen ist sehr groß. Die konstanten phonologischen Gegensätze werden selbst von phonetisch ungeschulten Mitgliedern der Sprachgemeinschaft deutlich wahrgenommen und die Glieder einer  solchen Opposition als zwei verschiedene „Lautindividuen“  betrachtet. Bei den aufhebbaren phonologischen Gegensätzen ist die Wahrnehmung schwankend:  in den Relevanzstellungen werden beide Oppositionsglieder deutlich auseinandergehalten, in den Aufhebungsstellungen ist man dagegen oft außerstande anzugeben, welches von beiden man eben gesprochen oder gehört habe.

不変の音韻対立と解消可能な音韻対立では心理的な差が非常に大きい。不変対立なら当該言語の共同体の一員は音声学の訓練を受けていない者でもはっきり認知でき、対立している双方の項を異なる二つの「音の個体」とみなすが、解消可能な音韻対立だとその認知が怪しくなる;有義位置Relevanzstellungでは双方の対立項の区別がはっきりとわかるが、解消位置Aufhebungsstellungでは二つのうちのどちらの項を発音したり聞いたりしたのか自分でも言えない場合が多い。

 私は硬化という言葉が嫌いで「中和」といっているが(再び『47.下ネタ注意』参照)、それはこの現象がドイツ語ばかりにみられるわけではないからだ。だからドイツ語学でしか通用しないVerhärtungよりNeutralisierungという一般言語学の名称のほうが適当だと思う。トゥルベツコイはこれをAufhebung der Opposition 「対立の解消」またはaufhebbare Opposition「解消可能な対立」とも呼んでいるが、こちらの用語のほうがカッコいい。 ロシア語もこの中和現象が顕著でやはり語学の時間の最初のほうで発音練習させられる。город  [ˈɡorət](「町」・単数主格)⇔ городом [ˈɡorədəm](単数造格) 、мороз [mɐˈros](「寒さ」・単数主格)⇔морозы [mɐˈrozɨ](複数主格)、гриб [ɡrʲip](「茸」・単数主格)⇔ гриба [ɡrʲɪˈba](単数生格)。ロシア語はさらに半母音やソナントまで無声化するのを時々見る(聞く)。例えば красивый「美しい」は本来 [krɐˈsʲivɨj] だが、ゆっくり発音してくれというと語末のいわゆる半母音が無声化して [krɐˈsʲivɨj̊] になり、その際さらについ力が入って接近音のはずが舌根が向こうの壁に触れてしまい無声摩擦音 [ç] にまでなることがある。これはドイツ語のいわゆるIch-Laut、イッヒ音だ。またцарь「皇帝」は本来 [t͡sarʲ] だが語末のソナントが無声化して [t͡sar̥ʲ] になるのを見た。この例のように口蓋化しているソナントは無声化しやすいのではないかという印象だ。хор [xor]「合唱(団)」のように非口蓋のソナントは無声化しているのはあまり見かけないからである。もっともあくまで「印象」である。
 『137.マルタの墓』で述べたマルタ語にも語末で有声子音が中和される現象があり、これが現代マルタ語の特徴となっている。まだ正書法が確立されていなかった頃、例えば18世紀にDe Soldanisが集めたテキストでは(原文は17世紀にFrancesco Bonamico、マルタ語でFranġisk Bonamicoが書いたものだという)「寒い」がbart と表記してあるが、現代マルタ語の正書法だとbard と書いて、ドイツ語と同じように中和されない前の子音を記することになっている。 d と書いて t と発音するのだ。昔は発音通りに t と書いていたのに今は音韻面を重視して d にしているあたりも中高ドイツ語から現代ドイツ語への正書法の移行といっしょである。それで「まだ」というマルタ語はgħad と書くが [ɐːt] である。 għ は事実上黙字。b、g、b も語末は無声化する。

 トゥルベツコイはこのように特定の位置(解消可能位置)で当該音素が持っていた弁別素性(そせい)の束の一つが弁別機能を失う現象を論ずる際、Archiphomen「原音素」という用語を提唱した(上記)。t とd で言えば、この二つの音素はどちらもさらにその上位音素の表現型である、としたのである。 その上位音素をArchiphonemと名づけ、大文字の /D/ で表すことにした。t とd ばかりではない、k とg が交代する場合はArchiphonemは /G/ である。『音韻論概説』ではこれが次のように説明・定義されている。

… In den Stellungen, wo ein aufhebbarer Gegensatz tatsächlich aufgehoben ist, verlieren die spezifischen Merkmale eines Oppositionsgliedes ihre phonologische Geltung, und jene Züge bleiben relevant, die beiden Gliedern gemein sind (d.i. die Vergleichsgrundlage der betreffenden Opposition). In der Aufhebungsstellung wird somit ein Oppositionsglied zum Stellvertreter des „Archiphonemes“ des betreffenden Gegensatzes – wobei wir unter Archiphonem die Gesamtheit der distinktiven Eigenschaften verstehen, die zwei Phonemen gemeinsam sind.

…対立が解消可能位置で実際に解消される際、対立項の片方が持つ特有なメルクマールは音韻的効力を失うが、双方の項が共通に持っている特徴のほうは有義性(当該対立項を他と区別するための基本となる特性)を保持する。解消可能位置では対立項の一方が当該対立の「原音素」として両項とも具現するのである。そこでこの原音素を二つの音素が共通に持っている弁別的素性(そせい)の総体とみなす。

トゥルベツコイはさらに論を進めて、解消可能な位置で原音素の表現型となる音素のパターンには次の4つが考えられると唱えた。
1.表現型が原音素のどちらの項でもない場合。一瞬「へ?」と思うが、例えばロシア語で唇音が口蓋歯音の前にくると口蓋化・非口蓋化の音韻対立が解消されるが、その際その「原音素表現型」は非口蓋音でも口蓋音でもない、いわば「半口蓋音」になるそうだ。中間の発音になるのである。
2.表現型が原音素のどちらかの項と同じになる場合。これが私たちが「中和」と言われて普通想像するパターンだが、この2のケースでは対立解消が「外部要因によって」、つまり前後の音声環境によって誘発される。ロシア語の例では、非口蓋歯音の前では子音の口蓋・非口蓋の対立が解消されるが、表現型は1で述べた例と違って非口蓋音になる。
3.表現型が原音素のどちらかの項と同じになるのは2のケースと同じだが、中和が周りの音声環境などの外部要因でなく内部の要因に誘発されるもの。解消可能な位置で現れる原音素の表現型では素性(そせい)の一つが弁別性を失うのに対し、重点位置では当該素性(そせい)は重要性を保っているわけだ。言い換えると前者は「原音素+ゼロ」、後者は「原音素+α」。いわゆる「無標・有標」の対立である。
 またこの2者の対立がきっぱりと欠如的privative(『128.敵の敵は友だちか』参照)でなくてグラデーションを帯びることがある。例えばロシア語ではアクセントのない位置で o と a の区別が解消されるが、その表現型は[ʌ] または[ǝ]。本来の o から見れば「狭音性」という素性(そせい)がミニマルになっている。逆に a から見れば「広音性」がやはりミニマルで、どちらも「重点位置では当該素性がミニマル以上」ということだ。うーむ… トゥルベツコイ自身は言っていないが、つまりこの原音素はそれぞれ /a/ および /o/ ということになるのか?
 4.解消可能な位置で原音素の表現型となるのがどちらのメンバーでもありうる場合。例えば日本語ではe とi の前で子音の「口蓋・非口蓋」という対立が解消される、つまり e と i の前が解消可能な位置なのであるが、その際 e の前では非口蓋音が、i の前では口蓋音がそれぞれ原音素の表現型となる。トゥルベツコイが日本語に言及しているのを見て感激した人食いアヒルの子がおせっかいにも噛み砕いて言うと、例えば m は a、u、o の3母音の前でのみ「ま対みゃ」、「む対みゅ」、「も対みょ」という対立がある。ところが「み」と「め」には対応する拗音がない:「み対?」、「め対?」。つまり e と i の前では口蓋性が中和されるのだが、「み」では子音が口蓋化しているのに対し([mʲi])「め」の m は非口蓋音 [me] だ。この観察は本当に鋭いと思うのだが、するとつまり日本語の子音は y を除いて皆原音素ということになるのか?
 
 その後チャールズ・ホケットCharles F. Hocketがこの原音素という観念を批判し、音韻レベルの話を形態論に持ち込んだものであるとしたが、その根本にあったのは原音素などを設定しまうと音素の数が徒に増える上、その配列パターンも崩れるといういかにも構造主義者らしい考えである。もっとも構造主義というのならトゥルベツコイやプラーグ学派のほうが「元祖」だと思うが。
 さらにアダムスM. Adamusという人も「原音素は異形態素を音韻論の観念と交換しようとする試み」と批判したそうだが、この「音韻論と形態論のクロスオーバー」というのはまさにトゥルベツコイがロシア語学で発達させたMorphonologie形態音韻論(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)という分野だ。もちろん他の言語でも見られるが、ロシア語(他のスラブ語も)では異形態素間に現れる音韻交代が特に規則的なのでこういうアプローチが発達したのだろう。形態素内の音韻構造、特に異形態素間の音韻交代のパターンを研究する分野だ。ロシア語の授業では最も頻繁にみられる代表的な音韻交代パターンを暗記させられる。例えば:
с – ш: писать – пишу – пишущий 「書く」、不定形-1人称単数-分詞
к – ш: далёкий – дальше 「遠い」、原級-比較級
г – з(ь) – ж: друг – друзья – дружба 「友人」、単数主格-複数主格-「友情」
к – ч – ц: казак – казачий, казацкий、「コサック」-「コサックの」-「コサックの」
т – щ: осветить – освещу – освещённый、「照らす」、不定形-1人称単数-分詞
ст – щ: простой – проще、「簡単な」、原級-比較級
ск – щ: искать – ищу – ищущий、「探す」、不定形-1人称単数-分詞
д – ж – жд: родить – рожу – рождённый、「生む」、不定形-1人称単数-分詞
б – бл: любить – люблю 「愛する」、不定形-1人称単数
в – вл: ловить – ловлю 「捕まえる」、不定形-1人称単数

この他にも交代パターンがたくさんある。私は当時は単位欲しさだけのために意味も分からず暗記したが、今考えると(今頃にならないと気づかない…)、この音素交代がしっかり頭に入っていれば知らない動詞や形容詞が出てきたときカンが働いて、辞書を引かなくてもそれらがどういう語形変化をするかある程度予想できるようになると思う。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

 戦争だろ暴力団の抗争などで「敵の敵は味方」とみなされることがある。また独裁者や技量の狭い政治家が味方以外は敵、つまり自分にヘイコラしてこない者は敵と見て粛清したりする。こういうものの見方をしてうまく行ったためしはない。前者の場合抗争が終わると、いや抗争中からすでに友人のはずの敵の敵から牙を向けられる(いわゆる「寝返る」というやつである)可能性大だし、後者では粛清の度がすぎて「そして誰もいなくなった状態」になり、自分の足元が崩れ落ちることが多いからだ。
 実際面ばかりでなく、こういう考え方は理論上も欠点がある。二項対立binäre Oppositionには等価対立äquipolente Opposition と欠如的対立privative Oppositionという2種があるが、この違いを考えていないのだ。

 「二項対立」の考え方はもともと音韻論から発展してきたもので、最初に提唱したのはニコライ・トゥルベツコイである。その後プラーグ学派のヤコブソンなどがこれを構造主義的な言語学の柱とし、ヤコブソンから氏と交流のあったレヴィ・ストロースあたりを通して言語学外にまで流れ出して世間にドッと広まった。ただし広まったのは二項対立の観念のみでその考え方のいわば発生源となった音素Phonemだろ弁別素性(そせい)distinktives Merkmalだろという用語は全然広まらなかったのが残念だ。知られていないのは用語ばかりではない。二項対立という観念の起源がトゥルベツコイだということさえ忘れられがちで義憤に耐えない。
 ここで怒っていても仕方がないから話を続けると、音素というのは当該言語の語の意味を変えることのできる最小単位だが、どういう音が同じ音素と見なされるかは当然言語ごとに違っている。例えば例のlとrの違いであるが、日本語ではこれら2音はアロフォン、つまり同一音素の2つの表現形で、「理科」を[ɾɪka] といおうが [lɪka] と発音しようが意味に変化はない。だがこれを英語に持ち込んでriceを liceと言ってしまうと大変なことになる。だから英語やドイツ語(だけではないが)が母語の人が見ると日本人は r と l の音が「区別できない」ように見えるのである。逆にドイツ語では [s] と[z] がアロフォンなので、ドイツ人は「さしすせそ」と「ざじずぜぞ」の区別が出来ない者がいる。「山田さん」が「山田ざん」、「寿司」が「図示」、「石膏」が「絶交」になる。もちろん日本語のざじずぜぞは摩擦音でなく破擦音だから石膏と絶交の差は正確にはs対zではないが、いずれにせよ、zushiと発音されたら意味が通らない。私たちから見ると石膏と絶交が同じに聞こえるなんて耳が悪いか頭が悪いかのどちらかだと思うが、向こうだって気を抜くとLichtungとRichtungを間違える日本人を馬鹿かと思っているはずだ。また逆に私が「日本語のらりるれろの子音は本来 l でも r でもなく、言って見ればその中間音のはじき音ですが、まあ l でも r でもいいです」というと「l でも r でもいいなんて馬鹿なことがあるか。どっちかに決めてくれ」と言い出すものが時々いてその石頭ぶりに驚くが、音素という観念を知らないとこういう羽目になるのである。
 音素が一つだけ違っている2つの単語をミニマル・ペアといい、ドイツ語のLichtung「(森の中の)空き地」対 Richtung「方向」、tanken「給油する」対danken「感謝する」、 kalt「冷たい」対 galt「通用した(動詞過去形)」、 Tal 「谷」対Zahl (h は黙字、ドイツ語でz は英語の ts)「数」、 Pappe「ボール紙」対 Kappe「縁のない帽子」などがそれぞれミニマル・ペアであるが、子音が一つだけ違っているのがわかるだろう。違っている子音音素はそれぞれ/l : r/、/t : d/、/k : g/、/t : ts/、/p : k/という二項対立になっている。
 しかしさらによく見ると一方で/t : d/と/k : g/、他方で/l : r/、/t : ts/、/p : k/とでは二項対立でも性質が違っていることの気づく。まず/t : d/だが、これらの子音は双方歯茎閉鎖音で、前者は無声後者が有声という点が違っている。/k : g/も調音点・調音方法が同じ(軟口蓋閉鎖音)でやはり有声か無声かの違いがあるだけ。ところが/l : r/ではどちらも有声だが、調音点も調音方法も違う(それぞれ歯茎流音と口蓋吸垂ふるえ音)。/t : ts/は無声であることと調音点(歯茎)が同じだが、調音方法が違う(前者は閉鎖音、後者は破擦音)。/p : k/では逆に無声と調音方法(破裂音)が同じで調音点が異なる(前者が両唇、後者は軟口蓋)。
 つまり最初のグループでは二項の違いが特定の性質(これを言語学では素性(そせい)と呼ぶ)、ここでは声のあるなし、言い換えると声門の震えのあるなしに帰せるのに対し、二番目のグループでの二項は何があるかないかではなく調音点または調音方法が違うのであり、例えば違っている調音点、「両唇」と「軟口蓋」とは等価である。前者はA 対-Aの対立、後者はA対Bの対立といえる。前者のAかAでないかの対立が欠如的対立privative Opposition、後者のA対Bタイプが等価対立äquipolente Oppositionである。

欠如的対立
Schema1-geschn
等価対立
Schema2Geschn
 また、欠如的対立の二項を分ける素性(そせい)、上の例では有声か無声かという要素を弁別的素性(そせい)distinktives Merkmalといい、それぞれ[+ voiced]、[- voiced]と表す。さらにこの素性(そせい)を持っている項、ここでは [+ voiced] を「有標」、持っていない [- voiced] のほうの項を「無標」というが、このプラス・マイナス何たらという図式はヤコブソンからハレ&チョムスキーなどが英語の音韻論で展開していたから知っている人も多いだろう。言語学内の意味論、シンタクス理論ではもちろん、上述のように言語学外にもこの何たら図式は使われている。
 どんな特性が弁別的素性(そせい)になるかは言語ごとに違っており、日本語や英語では[voiced]という素性(そせい)が弁別的に働くのでこのプラスマイナスの違いで別音素になるが、中国語韓国語では有声無声の差が音素を分けない。このようにある素性が当該言語で弁別的に機能しないのを特に強調したい場合はゼロまたはプラス・マイナス両方の記号を使って [0 voiced] あるいは [+/- voiced] と表したりする。「どっちで発音しようが意味は変わりません」という意味だ。だから中国語が母語の人に時々「かきくけこ」と「がぎぐげご」の区別が怪しくなる人がいるのである(『126.Train to Busan』参照)。ドイツ語でもこの弁別差が全ての環境では機能していないことは上で述べた。その代わり(?)息を伴うか伴わないか、「+帯気」と「-帯気」かで語の意味が違ってくる言語が結構ある。中国語もそうだが、印欧語も本来はこの区別を持った言語であった。英語やドイツ語に多くある、古典ギリシャ語起源の単語でph 、th と書かれている部分はそれぞれ帯気の p、帯気の t だったが、現在の英語ドイツ語では帯気が弁別機能を持たないため、本来の音とはかけ離れた妙な音で代用されてしまった。ロシア語には「+口蓋化」「-口蓋化」という弁別素性(そせい)がある。

 欠如的対立と等価対立との重要な違いは、前者では理論的に当該二項以外は存在せずAでないなら自動的に-A,また-Aでないなら元に戻って必ずAであるのに対し(「Aではないが、かといってAでなくもない」などというのは禅問答の知恵比べでもない限り設定できない)、後者ではAやBのどちらでもない存在、または第3第4の項、例えばC、Dが否定できないことだ。上の例でも調音点として両唇、歯茎、軟口蓋の3項をあげてあるが、そのほかにも硬口蓋だろ口蓋垂だろ声門だろいろいろある。調音方法にしても閉鎖音、摩擦音、破擦音、接近音などあって、閉鎖音でないからすなわち接近音ということにはならないのである。

 「味方」対「敵」というのは等価対立である。敵から見て敵だからといってそれがリターンして自分の友人として帰ってくるとは限らない。Aを味方、Bを敵とすると「敵の敵」は-(-A)=Aではなくて第3の項Cだからだ。また「-味方」=「敵」とみなしてしまうと、-A&-Bという無関係な罪のない部分が粛清されてしまう。
 さて、このCだが、A、つまり味方集団との間には1.完全に重なる、2.部分的に重なる、3.全く重ならないという3つのパターンが考えられる。1のパターン、「敵の敵は味方」というのも確かに可能性の一つではあるのだ。ただ論理的必然性がないのである。ここで面白いのは2だ。等価対立では素性(そせい)の設定のしかたによっては「どちらでもない」もののほかに「どちらでもある」部分が生じてしまうことを示しているからだ。
1.完全に重なる
Schema3-1Geschn

2.部分的に重なる
schema3-2Geschn

3.全く重ならない
schema3-3Geschn
 ギリシャの時代から西欧思想に深く根付いている「自然」対「人工」という二項対立も等価だが、これらは決して互いに排除するものでない、とKellerというドイツ語学者が書いていたのを読んだことがある。重なる部分があると。例えば公園の芝生の上に獣道ならぬ人道、多くの人に踏み固められて道筋ができることがある。これは人々がなるべく近道をしようとして急いだためにできたいわば人口の産物である一方、誰もそんな道を作ろうと思って作ったわけではない、作った人間の最初の意図とは無関係になんとなく形成されてしまったという意味で自然の産物でもあるのだ。事実、こういう道筋の形成パターンを計算できるコンピュータープログラムなどいくらもある。
 「共通項」や「どちらでもない項」の可能性がさらにはっきりしているのは
『121.復讐のガンマンからウエスタンまで』の項でも述べた『夕陽のガンマン』のセリフにあった二項対立である。「人間には2種類ある。一方はライフルを持っているし、他方は穴を掘る」というセリフだが、大抵の人たちは穴も掘らないしライフルももっていまい。また逆にライフル所有者が何かのきっかけで穴を掘り出す機会などいくらでもあるだろう。
 ついでに言えば私は国籍とやらも等価対立だと思っている。日本国籍を持っているからといって他の国の国籍はない、ということにはならないと。もちろん私は政治や法律の問題にまで口を出す気はないからそう決めたいのならそれでもいいが、本来A国の国籍を取ったらB国の国籍を捨てなければいけないという論理性はない。

 等価対立と欠如的対立を併用して、例えばドイツ語の /p と /z/ をそれぞれ [- voiced] [両唇] [閉鎖]、[+ voiced] [歯茎] [摩擦]と記述するとちょっと表記の統一性に欠け、当該項をビシリと描写できないからか、トゥルベツコイの後を引き継いだヤコブソン、ハレなどの構造主義言語学者は、音素をいくつかの欠如的対立項からなる「弁別素性の束」に分解して記述している。ヤコブソンは音素をユニバーサルに記述できるように12くらい(「くらい」と書いたのは氏の著作間でも、これをひきついだ言語学者の間でも少し揺れがあるからだ)の「素性(そせい)の束」を設定したが、Ramersという人は10の素性(そせい)を使って上述の/p/と/z/を次のように記述している。比較のために/p/と調音点が同じ /m/、/z/ の無声バージョン /s/、/s/ と調音点が同じだが、調音方法の違う /d/、これらの音とちょっと調音点の離れている無声音 /k/ を上げる。

p
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[+ labial]
[- coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[- voiced]

m
[+ consonantal]
[+ sonorant]
[- back]
[- high]
[+ labial]
[- coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[+ nasal]
[+ voiced]

z
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[- labial]
[+ coronal]
[+ continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[+ voiced]

s
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[- labial]
[+ coronal]
[+ continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[- voiced]

d
[+ consonantal]
[- sonorant]
[- back]
[- high]
[- labial]
[+ coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[+ voiced]

k
[+ consonantal]
[- sonorant]
[+ back]
[+ high]
[- labial]
[- coronal]
[- continuant]
[- lateral]
[- nasal]
[- voiced]

この素性(そせい)の束をマトリックス表にしてあるのもよく見かけるが、とにかくこのようにすると例えば摩擦音と閉鎖音の違いをきっちり [+ continuant]  対 [- continuant] で表わせて便利だし、また逆に調音方法が違う音同士の共通点などがはっきりしてくるだろう。[- labial](唇音性)、つまり唇音であることが欠如対立の素性(そせい)になっているところに注目。
 この方法を応用して[敵性] [味方性]という素性(そせい)を設定すれば「敵」対「味方」という等価対立を分解してA:[- 敵性] [+ 味方性]、 B: [+ 敵性] [- 味方性]、 C: [+ 敵性] [+ 味方性]、D:[- 敵性] [- 味方性]という4つの項に分けられることになる。Cの中には寝返り予備軍もいるだろうが単に敵にもある程度の理解を示す人たちも含まれるだろう。対立者を「敵ながらアッパレ」と評価している政治家は多い。Dは全く中立な第三者、傍観者である。このグループを粛清などしてはいけない。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

↑このページのトップヘ