アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ロシア語

 ドイツの休日はほとんどキリスト教関係のものだが、10月3日は例外でキリスト教とは関係のないまさに国民の休日、「ドイツ統一の日」という祝日だ。 私がドイツに来たころはまだ住所も西ドイツで、この祝日は存在しなかった。

 東西ドイツ統一というと開放された(?)東ドイツが受けた恩恵が話にのぼることが多いが西ドイツにとっても立派に恩恵になっていると思う。一番得をしたのは旧西ドイツのスラブ語学者達かもしれない。 旧東ドイツの大学に備えてある垂涎もののロシア文学・ロシア語言語学の蔵書が自分達のものになったからだ。
 ドイツの大学は全部公立で、当時すでに全国の大学図書館はがっちりネット網で繋がれており、国内の大学のどこか一つにありさえすれば、欲しい本が自分の通っている大学の図書館を通して借りられた。手続きも全部オンラインだったからこちらもわざわざ大学に行ったりせずに自宅からログインして注文できる。本が送られてくるとメールで知らされるから(以前は葉書だった)、受け取るときだけ大学図書館へ出向けばいい。私も学生時代は時々コンスタンツやアーヘン大学など行ったこともない町の大学図書館から運ばれてきた本をM大学の図書館の貸し出し窓口で受け取った。私の時は一冊につき3マルク(後にユーロが導入されたので1ユーロ50セント)の手数料を払ったが、先日聞いてみたら20年以上経過した今でも手数料は1ユーロ50セントだそうだ。

 ついでに言えばドイツの大学は授業料が全部タダだった。私もなんだかんだで10年間くらいM大学にいたが、その間「入学金」の「授業料」のというケチなものはビタ1セント払っていない。一学期ごとに学生組合に80マルクだか90マルクだかを納めただけだ。
 何年か前、財政難を理由としていくつかの州で神聖たるべき大学が授業料などという下賤な金をとる暴挙に出たため、ドイツ中で議論が沸騰した。その授業料も一学期に600ユーロ、7万円という目の玉が飛び出るほどの大金だ。私の住んでいるBW州はドイツで2番目の金持ち州であるにもかかわらず授業料制を導入した一方、隣のRP州は貧乏でいつもピーピー言っているのに「大学はタダ」という原則を貫いた。もっともその金持ちBW州も何年か授業料をとってはいたものの、結局「教育の自由に反する」との批判が州内部からも起こって2年くらい前からまた無料に戻ってしまったが。
 実は授業料の話が持ち上がったのはかなり昔で、私がまだ学生だったころなのだが、一度あまり深く考えずに教室で「だって一学期500ユーロとかそんなもんでしょ?そのくらい払ったらいいじゃん」とうっかり口を滑らしたところ、周りから「君は教育の自由というものをどう考えているんだ」と総スカンを食らって驚いた経験がある。
 
 話がそれたが、その遠隔貸し出し制を利用して何冊か日本文学のロシア語訳を送ってもらったことがある。ソ連の本だ。あの、ソ連製の本特有の変な匂いのする紙の見開きに「ベルリン・フンボルト大学」とか「ドレスデン工科大学」とかいうハンコがボワーンと捺されていてすごい迫力。ドレスデン工科大学に至ってはその隣にбиблиотека №○○(図書館 番号○○)とかロシア語のスタンプがあるのはなぜだ?旧東ドイツでは大学の授業をロシア語でやっていたのか?それともこの本はモスクワ大学あたりから「いらねえやこんなもん」とか言われて東独に払い下げられて来たのだろうか?さすが東ドイツは「クレムリンの娘」とかなんとか呼ばれていただけはあるなとは思った。これらの本が出版された当時というとブレジネフとかチェルネンコ、アンドロポフが元気だったころではないか(中にはあまり元気でない人もいたが)。

 でも気にかかったのは見開きのハンコだけではなかった。内容というか訳そのものに「?」がついてしまったものがあるのだ。
 たとえば、井上靖の『おろしや国酔夢譚』のロシア語訳など、所々本文が一行抜かして訳してあったりするし、極めつけは以下の箇所。何年も何年もロシア国内を漂流しつづけた大黒屋光太夫が宰相ラックスマンの尽力でとうとう時の皇帝エカテリーナ2世に直接謁見して帰国嘆願し、事情を聞いた女帝が思わず「気の毒に」という言葉を洩らす、というちょっと感動的な場面だ。

日本語原文:

…すると女帝は、
「この書面に相違なきや」
と、書面をラックスマンの方に差し出した。ラックスマンは(…)
「まさしく、それに相違ございませぬ」
と言上した。
「可哀そうなこと」
そういう声が女帝の口から洩れた。
「可哀そうなこと、 ベドニャシカ」
女帝の口からは再び同じ声が洩れた。

ロシア語訳:

- Все в точности? - спросила императрица, протягивая бумагу Лаксману.
Лаксман ...
- Все в точности, ваше величество. - потвердил он.
- Бедняжка, бедняжка.- дважды прошептала императрица, гладя на Кодаю.


ロシア語訳の部分を日本語に再翻訳すると一応次のような意味になる。

「すべてこの通りなのですか?」
女帝はラックスマンに書面を差し出しながら聞いた。
「すべてこの通りです、陛下」
彼は繰り返した。
「可哀そうなこと、可哀そうなこと」
女帝は光太夫の方を見ながら二度つぶやいた。


ちょちょ、ちょっと「口から洩れた、もう一回洩れた」を「二度」とか勝手に足し算しないで欲しいのだが… それに、私は原文の日本語を読む限りでは「可哀そうに」と思わずつぶやいたとき、女帝は書面に目をやったままだったか、あるいは遠くに思いを馳せるかのように別の方を向いていたようなイメージなのだが、どうしてここで唐突に「光太夫の方を見ながら」とかいうト書きを創作するのだ?ひょっとして『おろしや国酔夢譚』には二種類バージョンがあるのか?まさか。この訳者は『おろしや国酔夢譚』の他にも井上靖の『闘牛』や『猟銃』を訳しているが、やはり所々省略や追加・変更が目立つ。
 もちろん変更の全てが悪いわけではない。例えば別の人が川端康成の『雪国』を訳しているが、しょっぱなの部分がこう変更されている。

日本語原文:

 国境の長いトンネルを越えると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止った。

ロシア語訳:

 Поезд проехал длинный туннель на границе двух провинций и остановился на сигнальной станции. Отсюда начиналась снежная страна. Ночь посветлела.

汽車は二つの国の境のトンネルを通り抜け、信号所に止まった。そこから雪国が始まっていた。夜が明るい色になった。

上の例と違ってこちらはなぜ文章を変更したかわかる。ロシア語の言語構造、ディスコースの表現法に合わせたのだ。つまり自然なロシア語にするために必要だったのだろう。もっとも最初のセンテンスは英語訳のThe train came out of the long tunnel into the snow countryとそっくりだからひょっとしたら英語訳も参考にしたのかもしれない。

 しかし最初の例も決して「悪訳」とまでは言えまい。外国文学の日本語訳にはこれと比べ物にならないほどひどいのがある。
 
 それで思い出したが、昔森鴎外が訳したアンデルセンの『即興詩人』、あれを「原作よりも名文との評判が高い」と無責任に褒めているのを見たことがある。なぜ無責任かというと、比較の方法がはっきりしていないからだ。言語Aのテキストと言語Bのテキストを比較して文体とかスタイルの優劣を論じる資格があるのは、AB両言語が同等に話せ、書け、読めて評価出来る人だけ、つまり事実上バイリンガルだけではないのか?「原作よりも」というからにはこの人はきちんとデンマーク語の原文を読みこなして文体評価したんだろうな?まさか知り合いのデンマーク人にちょっとアンデルセンの原文テキストを見せ、「なかなかの名文だ」と言われたが、鴎外の日本語は「素晴らしい名文」である、「なかなか」と「素晴らしい」では「素晴らしい」のほうが程度が上だから鴎外の勝ち、とかそういういい加減な比較方法を取ったりはしなかったんだろうな?まさかのまさかでそもそもデンマーク語のほうに当たってさえ見なかった、比較検討さえしていない、なんてことはないですよね?
 翻訳というものを「原作の内容、ニュアンス、文体を出来るだけ忠実に当該言語に写し取ったもの」と定義すれば鴎外の訳は悪訳である。しかもドイツ語からの重訳という大きな減点がある。あれは翻訳ではない、リメーク、翻案である、というのならそれでいい。でもそれならそれでその原作でもない原作を比較に持ち出して「原作より名文」などと主張するのはアンデルセンに対して失礼だと思うのだが。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 若い人はもう覚えていない、と言うよりまだ生まれていないだろうが、むかしソ連からベレンコ中尉という人がミグ25(MiG25)という戦闘機に乗って日本にやってきて、そこからさらにアメリカに亡命申請する、という事件があった。日本中大騒ぎだったが、この事件はよく考えるととても面白い。

 まずMiG(МиГ)という名称だが、これはМикоян и Гуревич(ミコヤン・イ・グレヴィッチ、ミコヤンおよびグレヴィッチ)の略で、МикоянもГуревич も設計者の名前だ。この、-ян(ヤン)で終わる名前というのはロシア語でなく、もともとアルメニア語である。
 そういえば以前ノーム・チョムスキーという大言語学者がマサチューセッツ工科大学で生成文法の標準理論や拡大標準理論を展開していたころ、ソ連に「適応文法」というこれも難しい理論を繰り広げていたシャウミャン(Шаумян)という学者がいたが、この人も名前の通りアルメニア人である。さらにロシア言語学会の重要メンバーの一人でドイツでも名を知られていたアプレシャン(Апресян)も名前そのものはアルメニア系だ。氏自身はモスクワ生まれのモスクワ育ちのようだが。
 次にグレヴィッチ(Гуревич)。この、ヴィッチ(-вич)で終わる名前は基本的にセルビア語・クロアチア語起源なのだが、ベラルーシにも散見される。ウクライナにもある。あと、リトアニアにもこの-вичで終わる姓が多いそうだが、これはベラルーシもウクライナも中世から近世にかけてリトアニア大公国の領土だったからではないだろうか。当時支配層はリトアニア語を話していたが、国民の大部分はスラブ人で、話す言葉もスラブ語、書き言葉も南スラブ語派の古教会スラブ語だったはずだから、そのスラブ人が現在のリトアニア領にもやってきて住みついていたのでは。ついでに女優のMilla Jovovich(ミラ・ヨボビッチあるいはジョボビッチ)もウクライナ出身だが、そもそも父親がセルビア人だから苗字が-вичで終わっているのは当然だ。
 グレヴィッチ氏はロシアのクルスク地区のルバンシチナという町の生まれだそうだが、ここはウクライナと接している地域である。さらに、このベラルーシ、ウクライナの東部にはユダヤ人が多く居住していたので、ユダヤ系ロシア人、というかユダヤ系ソ連人には-вич姓の人が多いそうだ。事実このグレヴィッチ氏もユダヤ系である。「ドイツ系に-вич姓が多い」という記述を時々見かけるが、ここにはひょっとしたらイディッシュ語を話すユダヤ人も含まれているのかもしれない。イディッシュ語はいわばドイツ語から発達してきた言語で、部外者が聞くとドイツ語そのものに聞こえるそうだから。ちなみにユダヤ系のSF作家のアシモフ氏の故郷ペトロヴィッチ村もベラルーシとロシアとの国境地域にある。
 さらにパイロットのベレンコ(Беленко)中尉だが、-коで終わる名前は本来ウクライナ語。
 
 つまり、かの戦闘機はソ連から飛んできたのに純粋にロシア語の名前が一つもない。ソ連がいかに他民族国家であるか、まざまざと見せつけられた事件だとは思う。 

 そもそも人名や地名には今はもう失われてしまった古い言語の形が温存されている場合がよくあるので気にしだすと止まらなくなる。日本の東北地方や北海道の地名にアイヌ語起源のものが多いのもその例で「帯広」というのは元々アイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)から来たそうだ。
 ヨーロッパでも人名に印欧語の古形が残されている場合がある。たとえば例のローマの暴君ネロ。このNeroという語根は非常に古い印欧祖語の* h2 ner-「人間」から来ている。h2というのは印欧祖語にあったとされる特殊な喉音である。ここで肝心なのはもちろんner-のほうだ。なお、比較・歴史言語学で使う「*」という印は現在の文法理論つまり共時言語学で使われるような「非文法的」という意味でなく、「具体的なデータは現存していないが理論上再構築された形」という意味だから注意を要する。その* h2 ner-だが、Neroばかりでなくギリシア語のανηρ(アネール、現代ギリシア語ではアニル)もこれが語源。サンスクリットのnṛあるいはnára(人間)、アヴェスタ語のnā(人間)もこれだそうだ。いわゆるイラン語派は今でもおおむねこの語をよく保っているが、なにせ古い語なので、ローマの時代のラテン語ではすでにこの語は普通名詞としては使われなくなっており、本来の意味も忘れ去られていた。僅かに人名にその痕跡を残していたわけだ。なお、サンスクリットの、下に点のついたṛは母音のr、つまりシラブルを形成するrで、現代のクロアチア語にもこの「母音のr」がある。例えばクロアチア語で「市場」をtrgというのだ。
 
 ヨーロッパの現代語ではリトアニア語のnóras(意思)や、あと意外にもロシア語のнрав(ンラーフ、性格・気質)やноров(ノーラフ、強情さ)も* h2 ner-起源だそうだ。しかしこちらは意味のほうが相当変化している模様。しつこく言うとнравは南スラブ語起源のいわば借用語で、норовがロシア語本来の東スラブ語形である。その東スラブ語のноровのほうはさらに意味がずれていて、口語的表現である上、カンが強くてなかなか乗りこなせない馬に対して「御しがたい」というときこの語を使うそうだ。人間がついに馬になってしまっている。

 ところがアルバニア語はこの古い古い印欧語をこんにちに至るももとの「人間」の意味で使用している。アルバニア語で「人間」はnjeri(ニェリ)。これは「バルカン言語連合」の項でも書いたようにa manで、the manならば後置定冠詞がついてnjeri-uとなる。アルバニア語はこのほかにも音韻構造などに印欧語の非常に古い形を保持している部分がかなりあるそうだ。
 ちなみにアイルランド語のneart(力)も直接* h2 ner-からではないが、そこから派生された* h2 ner-to(精力のある)が語源とのことだ。

 さてこちらのギムナジウムはラテン語をやるのが基本だし、ラテン語で何か書いてあるのを町のそこここでまだ見かけるから、読める人、知っている人は結構いる。それで機会があるごとにNeroの名前は本来どういう意味か知っているかどうか人に聞いて見るのだが、いまだに印欧語の* h2 ner-だと正しく答えた者は一人もいない。昔人を通してギムナジウムのラテン語の先生に質問してみたことがあるが、やはり知らなかった。この先生もそうだったが、ほとんどの人が「黒」を意味するnegroから来ていると思い込んでいた。真相を知っていたのは日本人の私だけだ。ふっふっふ。

 自慢してやろうかとも思ったが、たまに珍しく何か知っているとすぐズに乗って事あるごとにそれをひけらかしたがるというのもさすがに見苦しい、かえって無教養丸出しだと思ったので黙っていた。日本人は謙虚なのである(誰が?)。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 非人称文といったらいいか不特定主語文といったらいいか、動作主体をボカす表現がある。例の英語のThey say that he is stupid.というタイプのセンテンスだ。ドイツ語にもロシア語にもこの手のものがあるが、私にはこれが非常に難しい。文構造の上では主語が現れているのに意味の上では「ない」からである。

 英語のThey say that...などは主語が複数表現だから動詞sayも複数形、これに相当するドイツ語のMan sagt, dass...(One says that...)ではsagtは単数3人称形だ。日本語だといちいちtheyだろmanだろ主語を持ち出さなくてもセンテンスとして成り立つので「彼は馬鹿だと言っている」で済むし、そもそも動詞に複数・単数の区別がない。ロシア語ではthey say thatは複数形でговорят, что(ガヴァリャート・シュト)とやるのが普通だ。говорятが動詞「言う」の複数3人称形、чтоがthatである。主語を特に書く必要がない、つまりsay thatまたはsagt, dassと主語抜きで言えるのが一見日本語と似ているようだが、数と人称は動詞の変化形でしっかりと表現されているので、始めからそういうものが存在しない日本語とは根本的に違うのである。またロシア語ではときどき単数形も使われる。ただし英語もドイツ語も主語(they, oneあるいはman)が人間であることを想起させるのに対しロシア語の単数非人称表現の方は動詞が中性形になる、つまり主語は非生物なのだ。その意味では構造的にはit says thatと対応している感じ。
たとえば、

Рабочий пробил стену.

という文では主語はРабочий(ラボーチイ、「労働者」)という男性名詞の単数主格形、пробил(プラビール) が「孔を開けた」という意味の動詞の過去形で主語に呼応して単数男性形、стену(スチェヌー)が「壁」という女性名詞の単数対格形だから、この文は「労働者が壁に孔を開けた」という意味だ。
 これをを非人称文にして単に「壁に孔を開けた」と言いたい場合、上で述べたように2通りのやりかたがある。

1.Пробили стену.
2.Пробило стену.

1はいわば(They) drilled through the wall、2が(It) drilled through the wall。どちらも主語それ自体は表されていない(これを仮に「ゼロ主語」と呼んでおこう)が、動詞Пробили (プラビーリ)とПробило(プラビーロ、正確にはプラビーラ)のほうがそれぞれ複数と単数中性形になっているので必要ないからだ。

 問題はここからなのである。
 
 1のほうは動詞が複数形であることによってすでにゼロ主語が複数の動作主、つまり人間、少なくとも意志を持った主体(これを[+ human]あるいは[+ animate]と表しておこう)であることが暗示されているから、ここにさらに「によって」という斜格で動作主を表示できないことはすぐわかる。具体的に言うと(They) drilled through the wall by themというセンテンスは成り立たない。動作主がダブってしまうからだ。
 でも2の方はどうか。ここではゼロ主語は中性だからつまり[- human] あるいは[- animate]、属性が違うから理屈の上では動作主を斜格で上乗せできるんじゃないか、という疑問が浮かんでしまった。いわばIt drilled through the wall by themだ。ここで主格のitと斜格のthemは指示対象が同一ではないのだからダブらないのではないか。

 この英語のセンテンスが成り立つか成り立たないかはひとまずおいておいて(成り立たない!下記参照)、ロシア語の方の考察を続けると、ちょっと不自然なロシア語かもしれないが次のような受動態をつい類推してしまう。受動形も上のゼロ主語センテンスも「注意の焦点を動作主である主語から孔をあけられた壁のほうに向かわせる」ことが目的なのだから。

3.Стена была пробита бомбой.
4.Стена была пробита рабочим.

Стена(スチェナー)が「壁」の主格形、была пробита(ブィラ・プロビータ)が「孔をあける」の受動形で「孔をあけられた」。「によって」をロシア語では名詞の造格という格で表し、3のбомбой(ボーンバイ)、4のрабочим(ラボーチム)がそれぞれ「爆弾」、「労働者」の造格形。主格形はそれぞれбомба(ボーンバ), рабочий(ラボーチイ)である。だからギンギンに直訳すると3が「壁が爆弾によって孔をあけられた」、4が「壁が労働者によって孔をあけられた」。
 実際「爆弾」の造格形を上の1と2の文に付加して、

5.Пробили стену бомбой.
6.Пробило стену бомбой.

というセンテンスが成り立つ。どちらも「爆弾によって壁に孔を開けた」という表現である。5では動詞が複数形(Пробили、プラビーリ)、6では単数中性形(Пробило、プラビーロ)であることに注目。上で検討した理由により5から類推した

7.Пробили стену рабочим.

という構造は成り立たないだろうが、6から類推した、2に動作主を造格で付加したセンテンス、

8.Пробило стену рабочим.

は、成り立つのではないか。
 
 そこまで考えた私が、自らのセンテンス分析能力に自己陶酔さえしながらチョムスキー気取りで最後列から手を上げて「先生! Пробило стену рабочимとは言えないんですか?」と、デカい声で質問したとたん、地獄のような笑いの竜巻が教室中を吹き荒れた。「爆笑」などという生やさしいものではなかった。

私は何をやってしまったのか。

 英語でもドイツ語でも受動態文で動作主と手段を表すにはそれぞれby (ドイツ語ではvon)とwith (ドイツ語ではmit)と別の前置詞を使い分けるが、上述のようにロシア語はどちらも名詞の造格形で表す。で、私はここで「労働者壁に孔を開けた」と言ってしまったのである。
 つまりドリルの先っぽに作業員を一人はめ込んで人間孔搾機として使用した訳だ。そんなことをしたらヘルメットは割れ頭蓋骨は砕け、飛び散る脳髄であたりは血まみれのほとんどホラー映画の世界になること請け合いだ。あのスターリンだってそこまではやらなかっただろう。
 
 結局、属性の如何にかかわりなく一センテンス内では深層格(deep cases)あるいは意味役割(semantic roles。最近の若い人はθ役割とかワケのわからない名で呼んでいるようだが)はダブれないというとっくに言われていることをいまさら思い知っただけというつまらないオチで終わってしまった。
 それはこういうことだ。ここでは文構造内にすでに「動作主格(Agent)」という深層格、あるいはθ役割がすでに形式上の主格(ここではゼロ代名詞)で現れているわけだからそこにまた具格(スラブ語では「造格」)を上乗せしたら、その具格で表される深層格はすでに主格で場所がふさがっている動作主格ではなく「その他・残り」、つまり道具格でしかありえなくなる。上で挙げた英語It drilled through the wall by themが成り立たないのも、一つの文構造の中にitとthemで動作主格が2度現れてしまうからだろう。わかりやすく言えばこれは指示対象云々でなく純粋に文構造内部の問題だということか。全然わかりやすくなっていないが。
 さらに今さら思い当たったのだが、1、2のような能動態の非人称文のそもそもの役割は「動作主体をボカす」ということなのだから、一方でこの構造をとって動作主体をボカそうとしておきながら、他方でわざわざ造格の動作主体をつけ加えたりしたらやっていることが自己矛盾というか精神分裂というか、θ役割など持ち出さなくてもちょっと考えれば成り立たないことはわかりそうなものだった。

 しかしそうやって笑いものになるのは私だけではない。

 英語でもドイツ語でも「○○で」、つまり手段と、「○○といっしょに」、つまり同伴はどちらもwith やmitで表すが、ロシア語だと前者は上記の通り名詞の造格で、後者は造格に前置詞 с(ス)を付加して、と表現し分ける。そこでドイツ人には「壁に爆弾で孔を開けた」と言おうとして、

Пробили стену с бомбой.

と前置詞つきで言ってしまう者が後を絶たない。上の5と比較してほしい。これだと「爆弾といっしょに壁に孔を開けた」、つまり「作業員と爆弾はお友達で、仲良く工事作業にいそしんだ」という意味になってしまい、やっぱりロシア人から鬼のように笑われる。人の事を笑えた立場か。
 この「お友達爆弾」をドイツ人はよほど頻繁に爆発させてしまうと見え、с を入れられるたびにロシア人の先生はまたかという顔をして悲しそうに首を振る。まったく油断も隙もない。もっともドイツ人学生の名誉のために言っておくと、с で道具や手段を表すことも実際にはあるらしい。辞書には рассматривать с лупой (「ルーペで観察する」)という例が載っていた。これは外国語、フランス語などからの影響かなんかなのだろうか。手段を表すのに前置詞を使わないのがロシア語本来の形であることには変わりないとしても、ひょっとしたらそのうちこのお友達爆弾のほうも手段を表す形として許されるようになるかもしれない。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 アンドレイ・プラトーノフ(1899-1951)というソ連の作家に『名も知らぬ花』(Неизвестный цветок)という短篇がある。このプラトーノフという人は当時の国家御用同盟のソ連作家同盟と合わず、しまいには同盟から除名され、名をリストから抹殺され、作品の発表も禁止されて不遇のまま一生を終えた。この短篇に描かれている荒れ地にたった一輪咲いた小さな花が、彼の分身であることは明らかだ。
 ドイツ語の翻訳ではこの作品のタイトルをDie unbekannte Blumeと訳している。これもやはり「名も知らぬ花」だから、意味の上ではまったく問題はない。

 でもこの翻訳には重大な欠陥がある。

 ロシア語の「花」(цветок、ツヴェトーク)は男性名詞だ。だから、この花が作家の分身だということは誰でもわかる。プラトーノフは男性なのだから。事実、話の中でダーシャという女の子とその花が友達になり、ダーシャが一年後その場所に来てみたらもうその花自身は生えていず、二代目の花を見つけるが、その二代目の花は「父のように生き生きとして我慢強く、父よりもさらに力強いのでした」、とある。
 ロシア文学の安井亮平氏も次のように言っている。

「『名も知らぬ花』の、父たちの復活としての子の生、知と意志による死の克服、花と子供の兄弟関係の創造という考えは、プラトーノフの全作品に顕著なイデーです。プラトーノフは、死を予感して、この小さな作品の中で、おのれの思想と真情を吐露したのでしょう。」

しかるにドイツ語の「花」(Blume)は女性名詞なのだ。なので上述の「父のように…」のくだりはドイツ語訳では、「母のように生き生きとして我慢強く、母よりもさらに力強いのでした」と訳されている。そんな馬鹿な。ここでこのように勝手に性転換されてしまったら、この作品の最も重要なモチーフ、「作家が血を吐く思いで吐露した自画像」が跡形もなく消えてしまうではないか。

 『10.お金がなければ眠りは深い』の項で述べたガルシンの『あかい花』(Красный цветок、クラースヌィ・ツヴェトーク)もDie rote Blumeと性転換訳されているが、この場合はストーリー上男性・女性どっちでもいいし、その花は「けしの花」だと原作でも言っているから、イザとなったらDer rote Mohn(あかいけし)というタイトルにでもしてやれば、男性名詞としての整合性をとることも可能だが、「名も知らぬ花」にその手は使えない。なぜなら「けし」とか「桜」とか名前を言ってしまったら「名も知らぬ花」でなく「名を知っている花」になってしまうからだ。

 ではどうしたらいいのか?ドイツ語のネイティブに聞いてみたら「コメントを入れてロシア語では花が男性であることを明記するしかないだろ」との答えが返ってきた。文学の翻訳でコメント・注釈というのは「最後の手段」である。いわば敗北宣言だ。私がそう言い、ネイティブのくせに白旗を挙げる気かと突っ込んだら、「仕方ないだろ、できないものはできないんだ。」とあまりにも簡単に降参されてしまった。

 もうひとつ、似たような事例としてIl grande Silenzioというタイトルのイタリア映画がある。文字通り訳せば「偉大なる沈黙」または「大いなる静寂」で、事実英語ではGreat Silenceというタイトルになっているが、以前これをチェコ語でVeliký klid (偉大なる静寂)と訳しているのを見て感心した。
 このklid(静寂)という単語だが、スラブ語としてはちょっと見かけない言葉だ。 たとえば西スラブ語のポーランド語では「沈黙」はmilczenie、「静けさ」はciszaだ。 クロアチア語もそれぞれšutnja、tišinaで形が近い。 ロシア語もМолчание とТишинаでそっくり。 さらにチェコ語でも実は本来これらに対応する語を持っているのだ。mlčeníとtišinaだ。
 ではなぜここで「静寂」を素直にtišinaとかmlčeníではなくklidで表わしているのか?
 答えは簡単だ。原題の「サイレンス」もしくは「シレンツィオ」というのが男性主人公のあだ名だからだ。なのにチェコ語のtišinaは女性名詞、mlčeníが中性名詞なので、男性の名前にはなれない。どうしても男性名詞のklidを持って来なくてはいけないのだ。イタリア語のsilenzioはうまい具合に男性名詞だからOK、英語に至ってはそもそも男性名詞も女性名詞もないから気を使う必要がないが、チェコ語では文法性と自然性の統一ということを考慮しないといけない。

 チェコ語では「沈黙」を意味する男性名詞があるからいいが、困るのはドイツ語だ。対応するドイツ語の単語Stille(静けさ)、Schweigen(沈黙)はそれぞれ女性名詞、中性名詞なので、やはりここで直訳はできない上、意味の近い男性名詞が存在しない。そこでこの映画のタイトルはまったく意味を変換させてLeichen pflastern seinen Weg(彼の道は死体で舗装される→彼の行く道は死体で埋まる)というオドロオドロしいものになっている。日本語も「沈黙」などという抽象概念を人の名前にする、という発想に違和感があるためか、やはり直訳しないで『殺しが静かにやって来る』。私個人としてはこの邦題は秀逸だと思う。ついでに言うと主演はフランス人のジャン・ルイ・トランティニャンである。

 「言葉の壁」というと普通「その言葉ができないために社会に溶け込めない」という意味だが、私は本当の「言葉の壁」とはこういうのを言うのだと思う。つまり、言語運用論レベルでなく言語に内在する構造そのものに起因する壁だ。

PlatonovVoronez
プラトーノフは現在では名誉回復されて生まれ故郷のヴォロネジに像も立っている。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 何気なく17世紀の初頭に書かれたロドリゲスの『日本語小文典』(もちろん翻訳をだ。そんな古い、しかもポルトガル語の原本なんか読めるわけがない)を見ていたら、ちょっと面白いことに気付いた。「お」と「を」を区別せずにどちらも vo、「う」を単に v と、v を使って表記してあるのだ。 例えば「織物」を vorimono、「己」を vonore、丁寧語の「御」が vo、「馬」が vma、「訴え」が vttaeだ。
 これは日本語の音が当時そうなっていたというより、単なる表記の仕方の問題だろうが、東スラブ諸語では実際に v 音が語頭に付加される(これを prothetic v 、「語頭音添加の v 」という)から面白い。これが本当の「サインはV」だ。(今時「サインはV」などというギャグを飛ばすと年がバレる、といいたいところだが、年がバレるも何もそもそももう誰もこんなTVシリーズなど知らないだろうから単に素通りされる可能性のほうが高いと思う)。

 例えばロシア語の川の名前 Волга(Volga)はもともとスカンジナヴィア系の Олга(Olga)という名前だったのに в (v) が語頭付加されたものだ、と聞いたことがある。また、トゥルゲーネフのНесчастливая(『不しあわせな女』)という小説に вотчим(votčim、「義父」)という単語が出てくるが、これは辞書に出ている普通の形は отчим(otčim)。これなど明らかに prothetic v だろう。

 ベラルーシ語などはこの prothesis(「語頭音付加」)の現れ方が体系的で、語頭の後舌円唇母音にアクセントがあった場合は в (v) が規則的に付加される。例を挙げると
Tabelle1-33
ベラルーシ語では対応するロシア語の単語に対して語頭に в (v) が立っていることがわかるだろう。なお、око (oko、目)という語はロシア語では古語化していて現代語で普通に目を意味するときはглаза(glaza)という語を使う。もっとも歌の文句などちょっと文学的なニュアンスにしたいときは古語のоко を使うことがある。例えば『バルカンの星の下で』という歌があったが、その第一行目が

Где ж вы, где ж вы, очи карие
あなたはいずこ、あなたはいずこ、茶色の瞳(の人)よ

という歌詞だった。очи(oči)というのは око(oko)の複数形である。

 後舌円唇母音が語頭にたってもアクセントがなければ в (v) が付加されないのが本来なのだが例外的にアクセントのない語頭の円唇母音にprothesic v が現れることがある。
 例えばベラルーシ語の вусаты (vusaty、「髭の(ある)」)という形容詞ではアクセントのある母音は а (a) であって у (u) ではないから、本当は в が添加されずに усаты(usaty)になるはずだ。それなのになぜここで в が付加されているのか。この形容詞の語幹となった名詞の вус(vus「髭」、ロシア語の ус (us) に対応)にすでに в が付着している、つまり元の語がすでに в 付きなので、そこから派生した語から今更 в を取り払うことができないからだ。
 
 さらにロシア語に対するベラルーシ語の特徴として次のようなものがある。ロシア語では r 音に口蓋音・非口蓋音、俗に言う軟音・硬音の2種類あるが、ベラルーシ語では r に口蓋・非口蓋の弁別的対立が失われて硬音の r しかない。だからロシア語では口蓋化している р(r)で発音する音(r’ または rjで表わす)がベラルーシ語では対応する非口蓋化音になる。日本語表記も加えてみる。

ロシア語
Я говорю. (ja govorju、ヤー・ガヴァリュー、「私は話す」)

ベラルーシ語
Я гавару. (ja gavaru 、ヤー・ハヴァルー

ロシア語の有声軟口蓋閉鎖音、つまり г  (g) はベラルーシ語では有声軟口蓋摩擦音、国際音声字母IPAで [γ] になると教わったが、実際の発音を聞かせてもらった限りでは無声軟口蓋摩擦音 [x]、あるいは無声喉頭摩擦音 [h] にしか聞こえなかった。内心「あれ?」と思っていたら、いつだったかオリンピックでベラルーシの選手にOlhaという名前の人を見た。これは明らかにロシア語のОльга(Ol’ga)だ。ロシア語のgがベラルーシ語の英語表記ではhになっている、ということはつまりベラルーシ語の г は英語話者にも h に聞こえるということで特に私の耳が悪いからでもないと思う。

 目のいい人はさらにお気づきになったかもしれないが、ベラルーシ語はいわゆる аканье(アーカニエ、『26.その一日が死を招く』の項参照)を律儀に文字化する。アーカニエとはロシア語でアクセントのない o が a と発音される現象のことだが、発音は a でも文字では o と表記する。上のロシア語 говорю が、「ゴヴォリュー」でなく「ガヴァリュー」と発音されるのはそのせいだ。もっとも o が弱化して出来た「ア」はロシア語ではクリアな [a] とは発音せず、強勢のあるシラブルの直前では [ʌ]、それ以外では [ə] となるのに対しベラルーシ語ではきちんと [a] で発音されると聞いた。ただし自分の耳で確認はしていない。

 とにかくベラルーシ語ではアクセントのない o は発音どおり a と書く。だから上の гавару (gavaru) では母音が発音どおり а と書いてあるのだ。вока (voka) 「目」とか вуха (vucha、ch は [x]、「耳」) とかいう綴りはロシア語だと間違いだが、ベラルーシ語では正書法通りである。書き間違いではない。まあ、覚えやすいと言えばこちらの方が覚えやすいが、私は「ここは а だったっけか、о だったっけか」と年中わからなくなる学習者泣かせのロシア語の綴りの方が味があると思う。 

 またベラルーシ語では ŭ(英語の w) と l の交代が見られる。 ロシア語と比べてみるとさらに面白い。ベラルーシ語の ŭ はロシア語の l だけでなく v、v'、u とも交代するのだ。まさに七変化だ。下に例を挙げるが「ベ」がベラルーシ語、「ロ」がロシア語だ。
Tabelle2-33
Tabelle3-33
 ベラルーシ語ではロシア語の前置詞 в (v) は基本 у (u) になる(下から3番目の例 паехаў ён у чыстае полеと一番下の例 поехол Илья в Киевの下線部を比較)。ところが、この前置詞が母音の後に来る場合は ў (ŭ ) になるのだ(下から二番目の例文と比較。Iлля は Illja で、最後の音が母音)。

 そういえばもう20年近く前、ドイツ語の授業で「人食いアヒルの子さんの als は aus に聞こえる」と発音を直されたことがあって、l と u という組み合わせに意外な気がしたのを覚えている。l と u は他の言語でも交代しやすいのかもしれない。
 もっとも l は o とも交替しやすそうだ。セルビアの首都は Beograd とも Belgrad とも言う。さらにロシア語の был (byl、「~だった」、男性単数形)はセルビア語(あるいはクロアチア語)では bio で、ここでも l と o が対応している。

 実は面白いことにベラルーシ語には prothetic i (「語頭音添加の i 」)がある。トルコ語などにもこれがある。イスタンブールの「イ」は後から付加された母音で、これは本来「スタンブル」だったそうだ。 ロシア語と比べてみよう。
Tabelle4-33
 さて、アザレンカというテニスの選手がいるが、この人はベラルーシ出身だ。ウィキペディアにあるこの名前の原語ベラルーシ語バージョンとロシア語バージョンを比べてみると次のようになるが、この短い名前の中に今まで述べてきたロシア語とベラルーシ語の重要な音韻対応のうち3つもを見ることが出来る。下の太字の部分を比べてみてほしい。 j は英語の j ではなく、ドイツ語読みの j、つまり英語なら y である。

ベラルーシ語
Вікторыя Фёдараўна Азаранка
Viktoryja Fёdarna Azaranka
ロシア語
Виктория Фёдоровна Азаренко
Viktorija Fёdorovna Azarenko

 1.ロシア語の歯と下唇による有声摩擦音 в (v) がベラルーシ語では特定の環境では摩擦性が弱まり半母音ў (w)となる。それでベラルーシ語のФёдараўна(フョードラナ)はロシア語ではФёдоровна(フョードロナ、o が上述のようにアーカニエを起こすので正確にはフョードヴナ)。

2.ベラルーシ語ではロシア語と違い р (r) に口蓋・非口蓋の音韻対立がないのでロシア語では ри (ri) と ры (ry) を区別するところがどちらも  ры (ry) となる。ロシア語バージョンの ре (re) がベラルーシ語で ра (ra) と書いてあるが、 е の前に立つ р (r) は口蓋音と決まっているので р (r) に口蓋音がないベラルーシ語では r の後に е が来られない。そこで e の代わりに先行音を口蓋化しない母音の a が来ている。実はベラルーシ語にもロシア語にも「先行音を口蓋化しない e」というのがあるのだが(э (ė) がそれ)、 どうして ė  でなく a になっているのかは正直よくわからない。まあ言語とはそういうものなのだろう(なんといういい加減な)。

3.ベラルーシ語ではアーカニエを文字化するのでФёдараўна Азаранкаと、ロシア語ではアクセントのない母音 o が来ているところがが全部 a で書いてある。

 こういう風に教科書など話にだけしか聞いたことのなかった事柄の実際例に遭遇すると嬉しくなってしまうのは私だけではあるまい。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ