アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ルーマニア語

 この手のアンケートはよく見かけるが、ちょっと前にも「今習うとしたら何語がいいか」という趣旨の「重要言語ランキングリスト」とかをネットの記事で見かけたことがある。世界のいろいろな言語が英語でリストアップされていた。この手の記事は無責任とまではいえないがまあ罪のない記事だから、こちらも軽い気持ちでどれどれとリストを眺めてみた。そうしたら、リストそのものよりその記事についたコメントのほうが面白かった。
 面白いというとちょっと語弊があるが、いわゆる日本愛国者・中国嫌いの人たちであろうか、何人もが「中国語がない。やはり中国は重要度の低い国なんだ。日本とは違う」と自己陶酔していたのだ。眩暈がした。なぜならその「重要言語・将来性のある言語リスト」の第二位か三位あたりにはしっかりMandarinが上がっており、その二つくらい下にCantoneseとデカイ字で書いてあったからである。この両方をあわせたら英語に迫る勢い。日本語も確かにリストの下のほうに顔をだしてはいたが、これに太刀打ちできる重要度ではない。この愛国者達は目が見えないのかそれともMandarin, Cantoneseという言葉を知らないのか。そもそも中国語はChineseなどと一括りにしないでいくつかにバラして勘定することが多いことさえ知らないのか。
 中国語は特に発音面で方言差が激しく、互いに通じないこともあるので普通話と広東語はよく別勘定になっている。さらに福建語、客家語などがバラされることも多い。以前「北京大学で中国人の学生同士が英語で話していた、なぜなら出身地方が違うと同じ中国語でも互いに通じないからだ」という話を読んだことがある。さすがにこれは単なる伝説だろうと思っていたら、本当にパール・バックの小説にそんな描写があるそうだ。孫文や宋美齢の時代にはまだ共通語が普及しておらず、しかも当時の社会上層部は英語が出来たから英語のほうがよっぽどリングア・フランカとして機能したらしい。現在は普通話が普及しているので広東人と北京人は「中国語」で会話するのが普通だそうだ。「方言は消えていってます。父は方言しか話しませんでしたが、普通話も理解できました。私は普通話しか話せませんが方言も聞いてわかります。ホント全然違う言葉ですよあれは。」と中国人の知り合いが言っていた。

 当該言語が方言か独立言語かを決めるのは実は非常に難しい。数学のようにパッパと決められる言語学的基準はないといっていい。それで下ザクセンの言語とスイスの言語が「ドイツ語」という一つの言語と見なされる一方、ベラルーシ語とロシア語は別言語ということになっているのだ。言語学者の間でもこの言語が方言だいや独立言語とみなすべきだ、という喧嘩(?)がしょっちゅう起こる。そのいい例が琉球語である。琉球語は日本語と印欧語レベルの科学的な音韻対応が確認されて、はっきりと日本語の親戚と認められる世界唯一の言語だが、江戸時代に日本の領土となってしまったため、これを日本語の方言とする人もいる。私は琉球語は独立言語だと思っている。第一に日本語と違いが激しく、これをヨーロッパに持ってきたら文句なく独立言語であること、第二にその話者は歴史的に見て大和民族とは異なること、そして琉球語内部でも方言の分化が激しく、日本語大阪方言と東北方言程度の方言差は琉球語内部でみられることが理由だが、もちろんこれはあくまで私だけの(勝手な)考えである。自分たちの言語の地位を決めるのは基本的にその話者であり、外部の者があまりつべこべ言うべきではない、というのもまた私の考えである(『44.母語の重み』参照)。
 一方、ではそれだからと言って話者の自己申告に完全に任せていいかというとそれもできない。いくら話者が「これは○○語とは別言語だ」と言いはっても、言語的に近すぎ、また民族的にも当該言語と○○語の話者が近すぎて独立言語とは見なさない場合もある。例えばモルダビアで話されているのはモルダビア語でなく単なるルーマニア語である。
 方言と独立言語というのはかように微妙な区別なのだ。

 私は以前この手の言語論争をモロに被ったことがある(『15.衝撃のタイトル』参照)。副専攻がクロアチア語で、当時はユーゴスラビア紛争直後だったからだ。以前はこの言語を「セルボ・クロアチア語」と呼んでいたことからもわかるように、セルビア語とクロアチア語は事実上同じ言語といっても差し支えない。ただセルビアではキリル文字、クロアチアではラテン文字を使うという違いがあった。宗教もセルビア人はギリシア正教、クロアチア人はカトリックである。そのため事実上一言語であったものが、いや一言語であったからこそ、言語浄化政策が強化され違いが強調されるようになったからだ。私の使っていた全二巻の教科書も初版は『クロアチア語・セルビア語』Kroatisch-Serbischというタイトルだったが紛争後『クロアチア語』Kroatischというタイトルになった。私はなぜか一巻目を新しいKroatisch、2巻目を古いバージョンのKroatisch-Serbischでこの教科書を持っている。古いバージョンにはキリル文字のテキストも練習用に載っていたが、新バージョンではラテン文字だけ、つまりクロアチア語だけになってしまった。
 しかし戸惑ったのは教科書が変更されたことだけではない。言語浄化が授業にまで及んできて、ちょっと発音や言葉がずれると「それはセルビア語だ」と言われて直されたりした。また私が何か言うとセルビア人の学生からは「それはクロアチア語だ」と言われクロアチア人からはセルビア語と言われ、それにもかかわらず両方にちゃんと通じているということもしょっちゅうだった。しかしそこで「双方に通じているんだからどっちだっていいじゃないか」とかいう事は許されない。どうしたらいいんだ。とうとう自分のしゃべっているのがいったい何語なのかわからなくなった私が「○○という語はクロアチア語なのかセルビア語なのか」と聞くとクロアチア人からは「クロアチア語だ」と言われセルビア人からは「セルビア語だ」と言われてにっちもさっちもいかなくなったことがある。
 この場合言語は事実上同じだが使用者の民族が異なるため、ルーマニア語・モルダビア語の場合と違って言語的に近くてもムゲに「同言語」と言い切れないのだ。例えば日系人が言語を日本語から英吾に切り替えたのとは違って「クロアチア語あるいはセルビア語」はどちらの民族にとっても民族本来の言語だからである。またクロアチア人とセルビア人以外にもイスラム教徒のボスニア人がこの言語を使っている。「ボスニア語」である。この言語のテキストももちろん「クロアチア語辞書」を使えば読める。(再び『15.衝撃のタイトル』参照)

 では当時クロアチア人とセルビア人の学生同士の関係はどうであったか。ユーゴスラビア国内でなくドイツという外国であったためか、険悪な空気というのは感じたことがない。ただ気のせいか一度か二度ギクシャクした雰囲気を感じたことがあったが、これも「気のせいか」程度である。本当に私の気のせいだったのかもしれない。
 90年代の最後、紛争は一応解決していたがまだその爪あとが生々しかった頃一般言語学の授業でクロアチア、セルビア、ボスニアの学生が共同プレゼンをしたことがあった。そこで最初の学生が「セルビア人の○○です」と自己紹介した後、次の学生が「○○さんの不倶戴天の敵、クロアチアの△△です」、さらに第三の学生が「私なんてボスニア人の××ですからね~」とギャグを飛ばしていた。聞いている方は一瞬笑っていいのかどうか迷ったが、学生たち本人が肩をポンポン叩きあいながら笑いあっているのを見てこちらも安心しておもむろに笑い出した。ニュースなどを見ると今でも特にボスニアでは民族共存がこううまくは行っていないらしい。私のような外部者が口をはさむべきことではないのだろうが、この学生たちのように3民族が本当の意味で平和共存するようになる日を望んでやまない。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 他の言語から取り入れた単語を借用語というが、その借用語という言葉自体明治時代の借用語ではないだろうか。多分ドイツ語Lehnwortか英語loan wordなんかからの翻訳だと思う。この語を見ると「借用ってことはいつか返すのか?」と理屈をこねたくなるが(あなただけです、そんな人は)、では避けて「外来語」と言った方がいいかというと、こちらはこちらでまた問題がある。何をもって外来語といったらいいのか考え出すとキリがなくなるからだ。今ではまるで日本語本来の言葉のような顔をしている馬、梅なんてのも元は中国語からの外来語だし、有史以前に原日本語が例えばマレー系の言語から借用した言葉(というものがあったとして)なんてそもそも見分けることさえ出来ない。純粋言語などというものが存在しないのだからつきつめて言えば単語は皆多かれ少なかれ皆外来語ということになり、あまり深追いすると言語の起源という言語学者にとってのNo-Go-Zoneに迷い込みかねないのである。

 だからあまり深くは考えないことにして、あくまで一般に言われている意味での借用Entlehnungであるが、これは取り入れ方の違いによっていくつかの種類に分けることができる。
 まず大きく1.借用造語Lehnprägungと2.借用語Lehnwörterに区別されるが、前者は意味の借用semantische Entlehnung、後者は語彙の借用lexikalische Entlehnungである。普通借用語だろ外来語だろと呼んでいるのは2のほう。日本語では片仮名で書くコンピューター(英語から)だろパン(ポルトガル語から)だろトーチカ(ロシア語から)だろという言葉がそれだが、欧州人が来る前に中国語から取り入れた大量の言葉、つまり漢語も本来借用である。ドイツ語にはラテン語・ギリシャ語起源の借用語が大変多い。漢語がなくては日本語でまともな言語生活をするのが不可能なのと同様、ドイツ語からラテン語・ギリシャ語を排除したら生活が成り立たなくなる。Fenster「窓」という基本単語も実はラテン語fenestraの借用だ。指示対象そのものが当該言語になかった場合、ものと同時にそれを指す言葉を取り入れるのは当然だが(上述のパン、ドイツ語のKaffee「コーヒー」など)、当該言語内にすでにそれを表す言葉があるのにさらに同じ意味の言葉を外から取り入れることもある。その場合指示対象は同じでもニュアンスに差が生じる。便所とトイレなどいい例だ。
 1のLehnprägungというのは外国語の語構成を当該言語の材料を使って模写すること。借用語と違って一応当該言語のことばのような顔をしているから外国語起源であると気づかれにくい。このLehnprägungはさらに細分できて、2-1.借用訳Lehnübersetzung、2-2.部分意訳Lehnübertragung、2-3.完全意訳Lehnschöpfung、2-4.借用語義Lehnbedeutungなどがある。分け方や用語などは学者によって微妙に異なるが、これらは大体次のように定義できる:
 2-1のLehnübersetzungはcalqueともいうが、外国語の語を形成している形態素を一対一対応で翻訳したものである。例えばラテン語のcompassioのcomとpassioという形態素をそれぞれドイツ語に訳してMit-leid→Mitleid(「同情」)、同じくラテン語のim-pressioのドイツ語借用訳がEin-druck(「印象」)。そのドイツ語がさらにロシア語に借用訳されたв-печатьが現代ロシア語の「印象」впечатлениеという単語のもとである。またフランス語のchemin de fer (road of iron)がドイツ語に借用訳されてEisen-bahn、それがまた日本語に借用訳されて「鉄道」となった。
 2-2のLehnübertragungは借用訳より少し意訳度が高いもので、例えばラテン語のpatria「祖国」は本来「父の」という形容詞から作られた女性名詞だがドイツ語では「父」の後ろに「国」Landという語を付加して(つまり意訳して)Vaterland「父の国→祖国」という語を作った。もっとも「ドイツ語では」というよりこの部分意訳は「ゲルマン語」の時代に行なわれたらしく、オランダ語など他のゲルマン語でも「祖国」は「父の国」である。さらにしつこく考えてみるとそもそものラテン語でもpatriaの後ろに「土地」を表す女性名詞、例えばterraかなんかがくっ付いていたのかもしれない。さらにドイツ語の「半島」Halbinselはラテン語のpaen-insula(「ほとんど島」)からの部分意訳である。日本語の「半島」はドイツ語からの借用訳でもあるのだろうか。
 2-3の Lehnschöpfungは部分意訳よりさらに自由度が高く、形の上ではもとの外国語の単語から離れている、いわば意訳による新語である。ドイツ語にはautomobilの意訳から生まれたKraftwagen(動力車→「自動車」)という言葉がある。Sinnbild(「象徴」)もsymbolからの借用造語である。両語とも借用造語と平行してそれぞれAuto、Symbolという借用語も存在するのが面白いところだ。
 2-4のLehnbedeutungでは対応する外国語の単語に影響されて当該言語の単語に意味が加わることである。有名なのがドイツ語のEnte(「アヒル」)という言葉で、本来は鳥のアヒルまたはカモの意味しかなかった。ところがフランス語の「アヒル」という単語canardに「ウソのニュース」、今流行の言葉で言えば「フェイクニュース」という意味があったため、ドイツ語のアヒルEnteにもこの意味がくっついてしまった。さらにドイツ語のrealisierenには本来「実現する」しか表さなかったが、英語のrealizeが「悟る・実感する」をも示すのに影響されて現在ではドイツ語のrealisierenも「悟る」の意味で使われている。

 一口に借用と言っても色々なレベルがあるのだ。

 明治時代に次々と作られた新語、私たちが普通英語からの「訳語」などと呼んでいる夥しい借用造形語などもこれに従ってカテゴリー分けしてみると面白そうだが、そんなことは日本ではすでに色々な学者があちこちでやっているから、私が今更こんなところでシャシャリ出るのは止めにして、代わりにルーマニアのドイツ語をちょっと見てみたいと思う。
 ルーマニアのジーベンビュルゲン、日本語で(?)トランシルバニアと呼ばれている地方には古くからドイツ人のディアスポラがある。ジーベンビュルゲンへのドイツ人移民はなんと12世紀にまで遡れるそうだから中高ドイツ語の時代である。20世紀の政治的・歴史的激動時代にドイツ系住民は強制移住させられたり、自主的にドイツ本国に帰ってきたりしたものが大勢いたため、現在ルーマニアでドイツ語を母語とするのは5万人以下とのことだ。しかし一方人や他国との交流が自由になったし、EUの加盟国となったルーマニアが欧州言語憲章を批准したのでドイツ語は正式に少数言語と認められて保護する義務が政府に生じた。ドイツあるいはオーストリアから教師が呼び寄せられてジーベンビュルゲンだけでなくその他の地域でもドイツ語の授業、特に書き言葉教育が行なわれるようになったそうだ。その書き言葉というのはつまりドイツあるいはオーストリアの標準ドイツ語だから、元からルーマニアでドイツ語を話していた人たちにとってはまあある意味外国語ではあるが、新聞なども発行されている。
 そのルーマニアの標準ドイツ語では本国では見られない特殊な語彙が散見される。ルーマニア語からの借用語・借用造語のほかにも、ハプスグルグ家の支配時代から引き継いだオーストリアの標準ドイツ語から引き継いだ語が目立つそうである。Ulrich Ammonという社会言語学者らが報告しているが、面白いのでまずルーマニア語からの借用語から見ていこう。右にルーマニア語の原語(イタリック)を挙げる。

Ägrisch, der  ← agrişă 「グズベリー」
Amphitheater, das  ← amfiteatru 「(大学の)講義室」
Bizikel, das  ← bicicletă 「自転車」
Bokantsch, der  ← bocanci 「登山靴」
Hattert, der  ← hotar, határ 「入会地、耕地の区画」
Klettiten, die  ← clătite 「パンケーキ」
Komponenz, die  ← componentă 「 構成(要素)」
konsekriert  ← consacrat 「有名な」
Märzchen, das  ← mărţişor  「3月に女の子や女性が紅白の紐で下げるお守り」
Motorin, das  ← motorină 「ディーゼル燃料」
Otata, der  ← otata, tata 「おじいさん」
Planifizierung, die  ← planificare 「計画」
Sarmale, die  ← sarmale 「ロールキャベツ」
Tata, der  ← tata 「父、お父さん」
Tokane, die  ← tocană 「グーラッシュ(肉のシチューの一種)」
Vinete, die (pl.)  ← vânătă 「焼いて刻んだナスから作るサラダ」
Zuika, der  ← ţuică 「プラム酒」

Hattertの元となったhatár(太字)というのはルーマニア語がさらにハンガリー語からとりいれた語らしい。また「おじいさん」のtataはルーマニア語がスラブ語、ブルガリア語とかセルビア語とかその辺から借用した語なのではないかと思う。

 借用訳部分意訳はきっちり区別しにくい場合があるのでまとめて掲げるが、政治や社会制度を表す語が多い。ルーマニアの国に属していたのだからまあ当然なのだが、チラチラと共産主義の香りが漂ってくる語が多くて面白いといえば面白い。それぞれ形態素をバラして英語訳をつけ、一部比較のために本国ドイツ語の言い回しをつけてみた。ルーマニア語はロマンス語だけあって形容詞が後ろに来るのがさすがである。

Allgemeinschule, die ← scoală generală 「 一学年から8学年までの学校」
(general  +  school)      (school general)
Autobahnhof, der ← autogară 「バスステーション」Busbahnhof
(car + station)       (car + station)
Bierfabrik, die ← fabrică de bere 「 ビール醸造所」Bierbrauerei
(beer + dactory)     (factory of beer)
Chemiekombinat, die ← combinat chimic 「化学コンビナート」
(chemistry + collective)           (collective chemical)
Definitivatsprüfung, die ← examen de definitivat 「教職課程の最初の試験」
(Definitivat + examination)        (examination of definitivat)
Finanzgarde, die ← garda financiară
(finance + guard)      (guard financial)
 「企業の税務処理が規定どおりにおこなわれているかどうかコントロールする役所」
Generalschule, die ← scoală generală 「(上述)1年から8年生までの学校」
(general  +  school)     (school general)
Hydrozentrale, die ← hidrocentrală 「水力発電所」Wasserkraftwerk
(hydro + central)      (hydro + central)
Kontrollarbeit, die ← lucrare de control 「(定期的に行なわれる)授業期間中の試験」
(control + work)      (work of control)    
Kulturheim, die ← cămin cultural 「(村の)文化会館」Kulturhaus
(culture + home)     (home cultural)
Lektionsplan, der ← plan de lecţie 「授業プラン」Unterrichtsplan
(lesson + plan)      (plan of lesson)        
Matrikelblatt, das ← foaie matricolă 「成績などが書きこまれた生徒の内申書」
(matriculation + sheet)   (sheet  amtriculation)
Notenheft, das ← carnet de note
(mark + notebook)    (book of mark)
「生徒が常に携帯している、成績または学業の業績が記録されたノート」
Postkästchen, das ← cutie poştală 「郵便受け」Briefkasten
(post + (little) box)      (box postal)
Schulprogramm, das ← programă şcolară 「教授計画、カリキュラム」Lehrplan
(school + program)       (program school)
Stundenplan, der ← orar 「営業時間」Öffnungszeiten
(time + plan)       (timetable)
Thermozentrale, die ← termocentrală 「火力発電所」Wärmekraftwerk
(thermo + central)      (thermo + centeral)
Turmblock, der ← bloc turn 「高層ビル」Hochhaus
(tower + block)     (block towaer)
Winterkommando, das ← comandament de iarnă
(winter + command)       (command of winter)
「激しい降雪や道路の表面が凍った際などに特定の業務を行なうため(政府の指示で)結成される部隊」
Ziegelfabrik, die ← fabrică de cărămizi
(brick + factory)     (factory of bricks)
 「レンガ製造所、レンガ焼き工場」Ziegelei, Ziegelbrennerei

借用語と借用訳の両方にまたがっていそうなのもある。例えばdefinitivat(太字)はルーマニア語で「過程終了」という意味だが、ドイツ語ではそれをそのまま持ってきている。Thermozentrale 、Hydrozentraleなども借用訳といったらいいのか借用語なのか、ちょっと迷うところだ。

 さらに借用意義とは言い切れなくても、本国のドイツ語にある全く同じ形の単語と意味、少なくとも「主な意味」が違っているものがある。最初にルーマニア・ドイツ語(ル)、その下に本国ドイツ語(本)の意味を挙げる。

Akademiker, der    またはAkademikerin, die    
 ル・科学アカデミーのメンバー
 本・大卒者
Analyse, die
 ル・血液または尿検査
 本・分析
assistieren
 ル・(講義を)聴講する
 本・助手として手伝う
dokumentieren
 ル・報告する
 本・文書に記録する
Gymnasium, das
 ル・5学年から8学年までの学校
 本・5学年から13年生までの学校
Katalog, der
 ル・生徒の学業成績・試験の点などが書き込まれた公式の記録書
 本・目録、カタログ
kompensiert
 ル・値段に差があった場合、健康保険で薬局に低い方の値段を支払えばすむようになっている
   (医薬品に関して使う)
 本・埋め合わせられた、補償された
Norm, die
 ル・教師が受け持つことになっている授業コマ数
 本・基準、規格、規定
Tournee, die
 ル・周遊旅行
 本・(芸能人などの)巡業

dokumentieren、Gymnasium、Tournee(太字)については本国ドイツ語との意味の違いがルーマニア語の影響であることがわかっている。それぞれa se documentagimnaziuturneu(元々フランス語tournéeから)の意味をとったとのことだ。

 少し前にルーマニア生まれのドイツ人に会ったことがある。若い人だったが、「子供の頃にすでにドイツに移住してきた」(本人曰)せいか、話す言葉は完全に本国の標準ドイツ語だった。でも夏期休暇などにはルーマニアに帰って(?)過ごすそうだ。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 ラテン語の「友達」amicusの単数呼格amice、複数主格amiciをどう読んでいるだろうか?私はそれぞれアミーケ、アミーキーと発音していた。実は今でもアミーキーと言っている。ところがこちらでは皆アミーツェ、アミーツィだ。日本人が普通キケローと呼んでいるCiceroもドイツ人はツィツェローという。もちろんラテン語教育という点では日本より欧州が本場だから彼らに従おうかとも思ったが、ラテン語は所詮は死語である。ネイティブスピーカーの実際の発音は彼らだって聞いたことがないわけだし、少なくとも文字の上では c と同じ書き方をしているところを妙に読み方を変えたら混乱するだけじゃないかと思ったのと、正直に言えば直すのが面倒くさかったのであまり考えずにそのままアミーキーと言い続けた。
 ところがしばらくたってから(しばらくたつまで気づかなかったのであった)そういえば現在のロマンス諸語ではすべて c(つまり k)と g の後に前舌母音、i と e が来ると子音が変な音になることに思い当たった。
 例えば「肉」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でcarneと書いてそれぞれ[karne]、[karne]、[kaʁn]、[karne] (フランス語だけ少し違うわけだ)と発音し、c は k の音である。また「結びつける」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で combinare 、combinar、 combine、combinăで、もういちいち発音記号を出さないが、やはり c は k だから co は「コ」だ(フランス語は鼻母音)。母音が u の場合も同じで「ナイフ」をイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でそれぞれcoltello、 cuchillo、 cuțit、 couteauで やはり c が k で、最初のシラブルは「コ」。フランス語の正書法では u と書くと母音が純粋な u ではなく [y]  や [ɥ] になってしまい、 u は ou と綴るのだ。関係ないがスペイン語の「ナイフ」は『復讐のガンマン』(『86.3人目のセルジオ』『121.復讐のガンマンからウエスタンまで』参照)でトマス・ミリアンが演じた主役の名前である。銃は撃てずにナイフ投げがうまいからこういう名がついた。
 しかしこれが ci、ce となると「キ」、「ケ」にはならない。イタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で「5」はcinque、cinco、cinq、cinci 。子音が各言語でバラバラでそれぞれ[t͡ʃiŋkwe]、[θĩŋko]、[sɛ̃k]、[t͡ʃint͡ʃʲ] 、チやスィとなる。フランス語はここでは母音が違うが本当にiが続いてもciterのように [s] だ。ついでにラテンアメリカのスペイン語でも θ が s になる。次にce を見ると「脳」を表すイタリア語、スペイン語、フランス語がそれぞれcervello [t͡ʃer̺ˈvɛl̺ːo]、cerebro [θeɾeβɾo] 、cerveau [sɛʁvo] で ci の時と同じように c がそれぞれ t͡ʃ 、θ、s。ルーマニア語は「脳」がcreier なので(もっともここでも c は k )別の単語をみると例えば「空」cer が[t͡ʃer]だ。
  g も後ろにa、o、u が続くとガ、ゲ、ゴで、例えば「雄猫」を表すイタリア語とスペイン語のgattoとgato 、フランス語の「少年」garçon、ルーマニア語の「子牛」gambă の ga は皆ガである( garçon はギャルソンなんかではなくガルソン)。go をみると「喉」というイタリア語、フランス語の gola、gorge、「太った」というスペイン語の gordo、「空の、裸の」というルーマニア語 gol は「ゴ」である。ルーマニア語の 「裸の」は明らかにスラブ語からの借用なのでちょっと「ロマンス諸語の比較例」としては不適切かもしれないが。さて次に gu だが、「味」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語でそれぞれgusto、gusto、goût、gust といい、全部「グ」となる。フランス語が母音の u を二字で表すことは上で述べた。
 正直そろそろ疲れてきたのだがもう少しだから続けると、この g も i や e の前にくると子音が変わる。イタリア語とスペイン語で「巨大な」はどちらも gigante と書くが発音はそれぞれ [dʒiɡante] と[xiɣãn̪t̪e] で、子音が違う。イタリア語は ci のときの子音がそのまま有声になっただけでわかりやすいが、スペイン語のほうは ci で現れた子音 θ とは調音点が全くずれてしまっている上、有声でなくなぜか無声子音のままである。だから「ジプシー」というスペイン語gitano の発音も[xitano]。フランス語gitan だと[ʒitɑ̃ ]で、g の部分は有声ではあるが、純粋に ci の子音の有声バージョン、つまり [z] とはならないところが面白い。ルーマニア語の例としては、ハンガリー語からの借用語なのだがgingaș 「繊細な」という言葉の発音が[d͡ʒiŋɡaʃ] で、イタリア語と同様、非常にわかりやすいタイプである。 最後にge だがこれも「ゲ」にはならない。「生み出す、生産する」はイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語で generare [dʒeneˈra:re] 、generar [xeneɾaɾ] 、generer [ʒeneʁe]、genera [ʤenera] 。gi で見た子音のバリエーションの違い、dʒ、x、ʒ、ʤ が保たれている。

 すると忘れていた何十年前かの記憶が突然よみがえって、そういえばラテン語の先生が「c (k)の音はラテン語の歴史の過程で音価が変わったことがわかっていますが、ここでは文字に合わせてアミーキーでいいです」というようなことを言っていたのを思い出した。
 これが「ロマンス語の口蓋化」と呼ばれる音韻変化である。すでにラテン語の時代の起こっていたもので、軟口蓋閉鎖音、つまり/k/、/g/ が i と e の前に来た場合それぞれ [ʧ] や [ʦ]、[ʣ] や [ʤ] という破擦音閉に変わった。
 紀元後一世紀ごろまで、つまり古典ラテン語の時代は後舌母音 a、o、u が続こうが前舌母音 i 、e が続こうが k と g は k と g だった、つまりcentrumはケントルム、Cicero はキケロー、legereはレゲレ、legisはレーギスだったのだ。だから上で私が押し通した発音、アミーケ、アミーキーは間違いではない。
 しかしそのうちに軟口蓋閉鎖音 に前舌母音が続くと母音の前に半母音の /j/ が入るようになった。この半母音と子音が同化現象を起こして調音点が前に移動し、/ k/ が [ʧ]、/g/ が [ʤ]になった。紀元2世紀から5世紀にかけてのことだそうだ。
 最初はこれらの音はもちろんいわゆる自由アロフォン(どっちで発音してもいいアロフォン、『63.首相、あなたのせいですよ!』参照)freie Allophoneで、人によってケやキと言ったりチェ、チと発音していたのだろうが、これがやがて拘束的アロフォン(音声環境によって使い分けなければいけないアロフォン)kombinatorische Allophoneとして固定した。このkombinatorische Allophoneというのは一つの音素が二つに分かれる直前段階である。もっとも自由アロフォンの段階からすでに音価の違いそのものは感知されていたのだ。この「話者が違う音だと気づく」のは「全く同じ音に聞こえる」段階と比べるとすでに新音素誕生に向けて相当度が進んでいる。それが拘束的アロフォンになると言語学者の間でもすでに二つの音素とみなすものが現れるくらいだ。まだアロフォンだから完全に意味の違いを誘発する力はないが、別のほうの音で発音すると「おかしい」を通り越して意味がよく伝わらくなったりしだすからだ。
 例えば日本語の「たちつてと」だが、/ta, ti,tu, te, to/と音韻解釈する人と、「ち」と「つ」の子音を別音素と解釈して/ta, ci, cu, te, to/と表す人とがいる。「放つ」「月」「知己」をそれぞれ「ハナトゥ」、「トゥキ」、「ティキ」とやったら、まあ言語環境から判断して意味は通じるかもしれないが、意味が通じるのが数秒遅れることは確実。相手によっては最後まで通じまい。意味の伝達に支障が大きすぎて「意味を変化させないから」ときっぱりアロフォン扱いするのには待ったがかかる。実は私も独立音素 /c/ を認める組である。ついでに私は「はひふへほ」は /ha, hi, ɸu, he, ho/ だと思っている。「違う音認識」されてから、アロフォン発音が半ば強制的になり、やがて別音素に分裂する過程はまるでアメーバの分裂のようだ。ただ、音素は2つが融合することもあるのに対し、アメーバは分裂だけで、合体することがないという違いはあるが。それともアメーバも時々合体するのか?
 ラテン語に話を戻すが、口蓋化が起こり、さらに音素が分裂してしまったのが文字が固定した後だったために、文字と音価の間が乖離して本来の「ケ」「キ」が宙に浮いてしまった。「ケ」「キ」という音が ce や ci では表せなくなった一方、「チェ」と「ケ」、「チ」または「ツィ」と「キ」の子音が別音素になったので、「ケ」「キ」を表す必要が生じたからである。そこで現在のロマンス諸語では新たに正書法を改良して、「ケ」、「キ」、「ゲ」、「ギ」とイタリア語では c、g のあとに h を加えて表示し、それぞれ che、chi、ghe、ghiと綴る:cheto 「静かな」[ke:to]、chinare「曲げる、傾ける、お辞儀する」[kina:re]、ghetto 「ゲットー」[getto]、ghiro 「ヤマネ」[gi:ro]。スペイン語では無声音には q を持ち出してきて「ケ」「キ」は que、qui。これらは「クエ」「クイ」ではなく、quebrantar 「割れる」、quince 「15」は「ケブランタル」、「キンセ」だ。もっとも「ブ」の部分は両唇摩擦音の[β]、「セ」は歯でやる摩擦音の [θ] だが。「クエ」「クイ」は c を使ってcue、 cuiと表すのが面白い。ところがこれが有声になるとgue、gui で「ゲ」「ギ」。guerra 「戦争」は「グエラ」でなく「ゲラ」、guiar 「導く」も同様に「グイアル」でなく「ギアル」となる。フランス語は母音も子音も音素がさらにいろいろ割れているので複雑だが、基本はスペイン語と同様 q と u を使う:question 「問題」[stjɔ̃ ] 、quinine 「キニーネ」[kinin]、 guerre 「戦争」[ɡɛʁ ]、 guide 「ガイド」[ɡid]。フランス語からは英語に借用された言葉が多いのでうっかり英語読みにして「クエスチョン」「ガイド」とか言ってしまうと大変なことになるので注意。ルーマニア語はさすが東ロマンス語だけあって(?)イタリア語同様 h を用いる:chezaș 「保証人」[kezaʃ]、 chibrit「マッチ」[kibrit]、 ghețar「氷河」[get͡sar]、 ghid「ガイド」[gi:d] など。「保証人」はハンガリー語からの、「マッチ」はトルコ語からの借用だ。
 この、文字が固定してから音が変化してしまったため元の音を表すのにいろいろワザを凝らさなければならなくなったという例は実は日本語にもある。例えば「ち」「つ」は昔は本当に破裂音の ti、tuだったのに、子音が破擦音になってしまったため本来の音がそのままでは表せなくなった。だから「ティ」「トゥ」などと表記する変なワザを使う羽目になったのである。「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」なども昔は単に「は、ひ、へ、ほ」と書けば済んだのだ。

 ここまでならロマンス諸語だけの話ということであまり面白くないが(ロマンス諸語は面白くない言語だと言っているのではない)、実はスラブ諸語の歴史でもこの「口蓋化」という現象が見られるのでスリルが増す。スラブ語の場合は音素が割れてから正書法が確立したが、少なくとも3回口蓋化の波がスラブ諸語に押し寄せたらしく、第一次口蓋化、第二次口蓋化、第三次口蓋化と区別する。人によっては第4次口蓋化というものを認めることもある。
 第一次口蓋化は紀元5世紀初期スラブ祖語時代の終盤に生じたもので、軟口蓋音に前舌母音(スラブ語では i, ь, e, ě)が続いた場合、やはり j の付加を経由して子音そのものが変化した:k > ʧ͡ʲ (= č’)、g >  ʒʲ (= ž’)(いったんdʲzʲ という破擦音を通した)。ロシア語で「焼く」の一人称単数がпекуなのが二人称単数になると печёшьとなって子音が交代するのはこの第一次口蓋化のせいである。スラブ祖語の初期にはそれぞれ*pekǫ – *pekešiであったとみられる。。ポーランド語ではそれぞれpiekę と pieczesz。またロシア語の「目」の単数が окоで複数が о́чиなのもこれである。さらにロシア語の могу́ 「私はできる」対 можешь「君はできる」の母音交代もこの例。祖形はそれぞれ*mogǫと*mogeši。ポーランド語ではこれが mogę – możeszとなる。もう一つロシア語の Боже мой 「おお神よ」のБожеはБогの呼格だが、ここでも子音が図式通り交代している。
 第二次口蓋化はスラブ祖語の後期、6~7世紀にかけて起こった。母音の i、ěが続くと k が t͡sʲ (= c´)に、g が dzʲ を通してzʲ (= z´ )になった。*nagě (「足」単数与・処格)が古ロシア語ではnozě 、*rǫkě (「手」単数与・処格)がやはり古ロシア語で rucě といったのが一例である。ところがロシア語ではその後この第二次口蓋化が名詞の格変化パラダイムでキャンセルされ、元の軟口蓋音 g に戻ってしまったので現在のロシア語ではそれぞれноге́ 、руке。 対してポーランド語やチェコ語ではそれぞれ nodzeと ręce、nozeと ruce で、本来の口蓋化が残っている。
 南スラブ語派のクロアチア語も名詞変化のパラダイムで口蓋化を保持していて、期末試験なんかでは必ずと言っていいほど試される。まず男性名詞には単数呼格(『90.ちょっと、そこの人』参照)が e で終わるものが多いが、これらの名詞の語幹が語幹が k や g で終わる場合 k と g がそれぞれ č [ʧ͡ʲ]、  ž [ʒʲ ] になる:junak「英雄」主格 → junače 「おお英雄よ」呼格 (< junake) 、drug「仲間、同志」主格 → druže 「おお同志よ」呼格 (< druge)。これが第一次口蓋化の結果だ。次にこれらの男性名詞の複数主・呼・具・処格では子音の後に i が来るが、ここで k と g は c [t͡sʲ] と z [z] になる。第二次口蓋化である:junak「英雄」主格 → junaci 「英雄たち、おお英雄たちよ」複数主・呼格 (< junaki)、junacima 「英雄たちによって、英雄たちにおいて」複数具・処格 (< junakima)、drug「仲間、同志」主格 → druzi 「同志たち、おお同志たちよ」複数主・呼格 (< drugi)、druzima「同志たちによって、同志たちにおいて」複数具・処格 (> drugima)。女性名詞は単数の与・処格が i で終わり、やはり k や g が第二次口蓋化に従って変化する:ruka 「手」単数主格 → ruci 「手に、手で」単数与・処格 (< ruki)。 この「手」の複数主・対・呼格形は ruke で一見 e の前なのに子音が変わってないじゃないかと思うが、実はここの e は口蓋化の起こった時代は中舌の i、ロシア語の ы だったので子音が変わらずに済んだのだ。またスラブの場合は音が変化したのが文字化の前だったためラテン語と違って単数主格と呼格、複数の主格の子音の違いが文字に表れているわけである。
 この一連の口蓋化を被ったのは k と g ばかりではないのだがここでは省く。また第三次口蓋化は先行する母音が後続の子音を変化させたものなのでやはりここでは触れずにおくが、軟口蓋音が i、e の前でシステマティックに化けるというスラブ語の口蓋化がラテン語とそっくりなのでプチ感動する。さらに単に似ているというばかりでなくロマンス語とスラブ語の両口蓋化が実際にかち合った地域があるから感動がプチからグランになりそうだ。それがバルカン半島である。バルカン半島はその昔ラテン語地域であったのでラテン語由来の地名が多い。後から来たスラブ民族がラテン語名を引き継いだからである。もとになったラテン語名は記録に残っているので、Peter Skokという学者がラテンでce、ci、 ge、 giと書かれていた地名が現在のスラブ諸語でどう呼ばれているか詳細に分析して当地ラテン語の口蓋化の過程を追っている。例えばラテン語Cebro がブルガリア語でDžibra になっていたりするものが多いが、この子音は1.ラテン語の時代にすでに口蓋化していた、2.ラテン語ではまだ k や g であったのが、スラブ語に入ってから口蓋化した、の二つの可能性があるわけだ。私だったら「どっちなのかわからない」として匙を投げていただろうが、Skokはラテン語スラブ以外の言語資料や歴史の資料も徹底的に調べて次のように結論を出している:1.スラブ民族がバルカン半島に来た時(早くとも6世紀)、ラテン語の ce、ci、ge、gi はまだ k、g であった。2.ルーマニア語の口蓋化はスラブ民族の時代になってから、つまり西のロマンス諸語とは独立に起こったもの。3.(2ともつながるが)ルーマニア語の口蓋化はバルカン半島のローマの中心地が崩壊したのちに生じたものである。
 もうひとつ面白いのはラテン語 ce、ci が現在でも k になっている地域があるということだ。たとえばCircinataがクロアチア語でKrknataになっている。ダルマチア(ジャンニ・ガルコの出身地だ。『130.サルタナがやって来た』参照)にこういう地域が多いが、ローマの時代に大きな都市があって文化の中心地だったところだ。都市部の教養層が使っていたラテン語は文字なしで話されていた俗ラテン語より口蓋化(ある意味では俗にいう「言葉の崩れ」)が遅かったからではないか、ということだ。上の3はこれが根拠になっている。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング 
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

古い記事の図表のレイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになってしまうことがあるので、これから時々前の記事の図表を画像に変更していきます。最初からそうすればよかったんですが… 本文は直していません。もとの記事だけ密かに直そうかとも思ったのですが、せっかくなので再投稿します。

この記事と内容が全く同じですので飛ばなくていいです(汗)

 いろいろな言語が、語族が違うにもかかわらず、その地理的な隣接関係によって言語構造、特に統語構造に著しい類似性類似性を示すことがある。これをSprachbund(シュプラッハブント)、日本語で言語連合現象と言うが、この用語は音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイの言葉で、もともとязыковой союз(ヤジコヴォイ・ソユーズ、うるさく言えばイィジカヴォイ・サユース)というロシア語だ。バルカン半島の諸言語が典型的な「言語連合」の例とされる。

 その「バルカン言語連合」の主な特徴には次のようなものがある。
1.冠詞が後置される、つまりthe manと言わずにman-theと言う。
2.動詞に不定形がない、つまりHe wants to go.と言えないのでHe wants that he goes.という風にthat節を使わないといけない。
3.未来形の作り方が特殊で、補助動詞でもなく動詞の活用でもなく、不変化詞を動詞の前に添加して作る。その不変化詞はもともと「欲しい」という意味の動詞が退化してできたものである。

 このバルカン言語連合の中核をなすのはアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語である。人によっては現代ギリシア語も含めることがある。アルバニア語、ギリシア語は一言語で独自の語派をなしている独立言語(印欧語ではあるが)、ブルガリア語・マケドニア語はセルビア語・クロアチア語やロシア語と同じスラブ語派、ルーマニア語はスペイン語、イタリア語、ラテン語と同様ロマンス語派である。
 セルビア語・クロアチア語は普通ここには含まれない。満たしていない条件が多いからだ。しかしそれはあくまで標準語の話で、セルビア語内を詳細に観察して行くと上の条件を満たす方言が存在する。ブルガリアとの国境沿いとコソボ南部で話されているトルラク方言と呼ばれる方言だ。この方言では冠詞が後置されることがある。つまりセルビア語トルラク方言は、前にも言及した北イタリアの方言などと同じく、重要な等語線が一言語の内部を走るいい例なのだ。

 旧ユーゴスラビアであのような悲惨な紛争が起こって、多くの住民が殺されたり避難や移住を余儀なくされた。言語地図もまったく塗り替えられてしまったに違いない、あのトルラク方言はどうなっているのだろうと気にしていたのだが、先日見てみたらしっかりUNESCOの「危機に瀕した言語リスト」に載っていた。

セルビア語トルラク方言の話されている地域。ウィキペディアから。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1061354
565px-Torlak

 さらに調べていたら、上述の1の現象に関連して面白い話を見つけたのでまずご報告。地理的に隣接する言語の構造がいかに段階的に変化していくかといういい例だ。

1.バルカン言語連合の「中核」ブルガリア語は上で述べたようにこの定冠詞theを後置する。ъという文字はロシア語の硬音記号と違ってここではいわゆるあいまい母音である。
Tabelle1N-18
2.バルカン言語連合に属さないセルビア語標準語には、定冠詞と呼べるものはなく、指示代名詞だけだ。日本語のように「これ」「それ」「あれ」の3分割体系の指示代名詞。標準セルビア語だからこれらの指示代名詞は前置である。
Tabelle2N-18

3.西ブルガリア語方言とマケドニア語、つまりセルビア語と境を接するスラブ語はこの3分割を保ったまま、その指示代名詞が後置される。つまり、「冠詞」というカテゴリー自体は未発達のまま後置現象だけ現われるわけだ。
Tabelle3N-18
3のマケドニア語と2の標準セルビア語を比べてみると前者では3種の指示代名詞が名詞の後ろにくっついていることがよくわかる。形態素の形そのものの類似性には驚くばかりだ。
 Andrej N. Sobolevという学者が1998年に発表した報告によれば、セルビア語トルラク方言でもこの手の後置指示代名詞が確認されている。例えば、
Tabelle4N-18
ə というのは上のブルガリア語の ъ と同じくあいまい母音。godine-ve 以下の3例は複数形だ。全体として西ブルガリア語方言とそっくりではないか。

 おまけとして、「バルカン言語連合中核」アルバニア語及びルーマニア語の定冠詞後置の模様を調べてみた。一見して、1.アルバニア語はルーマニア語に比べて名詞の格変化をよく保持している(ブルガリア語はスラブ語のくせに英語同様格変化形をほとんど失っている)、2.さすがルーマニア語は標準イタリア語といっしょに東ロマンス語に属するだけあって、複数形は-iで作ることがわかる。3.ルーマニア語はさらにスラブ語から影響を受けたことも明白。prieten「友人」は明らかに現在のセルビア語・クロアチア語のprijatelj「友人」と同源、つまりスラブ語、たぶん教会スラブ語からの借用だろう。ついでにクロアチア語で「敵」はneprijatelj、「非友人」という。

アルバニア語:
Tabelle-Alb1N-18
Tabelle-Alb2-18
ルーマニア語:
Tabelle-Rum1-18
Tabelle-Rum2-18
 私はある特定の言語のみをやるという姿勢そのものには反対しない。一言語を深くやれば言語一般に内在する共通の現象に行きつけるはずだとは思うし、ちょっと挨拶ができて人と擬似会話を交わせる程度で「何ヶ国語もできます」とか言い出す人は苦手だ。でも反面、ある特定の一言語、特にいわゆる標準語だけ見ていると多くの面白い現象を見落としてしまうこともあるのではないだろうか。言語、特に地理的に近接する言語はからみあっている。そして「標準語」などというのはある意味では幻想に過ぎない。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、図表を画像に変更していっています。誤打(あるある!)の訂正や文章の見直しもしています。バルカン半島は言語的に非常に面白い地域ですが、ユーゴスラビア紛争でその貴重な話者が辛酸をなめました。戦争は言語学の敵です。

内容はこの記事と同じです。

 一度バルカン言語連合という言語現象について書いたが(『18.バルカン言語連合』)、補足しておきたい続きがあるのでもう一度この話をしたい。
 バルカン半島の諸言語、特にアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語、現代ギリシア語は語族が違うのに地理的に隣接しているため互いに影響しあって言語構造が非常に似通っている、これをバルカン言語連合現象と呼ぶ、と以前述べた。そこで定冠詞が後置される現象の例をあげたが、いわゆる「バルカン言語」には他にも重大な特徴があるので、ここでちょっとを見てみたい。未来形の作り方である。

 上述の4言語は未来形作り方が特殊で、補助動詞でもなく動詞自身の活用でもなく、不変化詞を定型動詞の前に添加して作る。そしてその不変化詞というのがもともと「欲しい」という意味の動詞が退化してできたものなのだ。「私は書くでしょう」を順に見ていくと:
Tabelle1-40
「私」という代名詞は必ずしも必要でなく、shkruaj、 scriu、 piša、 γράψωがそれぞれ「書く」という動詞の一人称単数形。アルバニア語、ルーマニア語、現代ギリシャ語は接続法、ブルガリア語の動詞は直接法である。アルバニア語のtë、ルーマニア語の săが接続法をつくる不変化詞、ギリシャ語ももともとはここにναという接続法形成の不変化詞がついていたのが、後に消失したそうだ(下記参照)。まあどれも動詞定型であることに変わりはないからここではあまり突っ込まないことにして、ここでの問題は不変化詞は不変化詞でも、do、 o、 šte、 θαのほう。変わり果てた哀れな姿になってはいるが、これらはもともと「欲しい」という動詞が発達(というか退化)してきた語で、昔は助動詞で立派に人称によって活用していたのである。その活用形のうち三人称単数形がやがて代表として総ての人称に持ちいられるようになり、それがさらに形を退化させてとうとう不変化詞にまで没落してしまったのだ。

 アルバニア語のdoはもともとdua、ルーマニア語のoはoa(これだってすでに相当短いが)で、さらに遡るとラテン語のvoletに行き着く。ブルガリア語のšteはもと古教会スラブ語のxotĕti(ホチェーティ、「欲する」)の3人称単数形で、ロシア語の不定形хотеть(ホチェーチ)→三人称単数хочет(ホーチェット)、クロアチア語不定形htjeti(フティエティ)→三人称単数hoće(ホチェ)と同じ語源だ。現代ギリシア語のθαはθα <  θαν <  θα να < θε να < θέλω/θέλει ναという長い零落の過程を通ってここまで縮んだそうだ。これらの言語は語族が違うから語の形そのものは互いに全く違っているが、不変化詞の形成過程や機能はまったく並行しているのがわかるだろう。
 またこれらの未来形は動詞が定型をとっているわけだから、構造的に言うとI will that I writeに対応する。上で述べた接続法形成の不変化詞të、 să、 ναも機能としてはthatのようなものだ。またこれらの言語には動詞に不定形というものがないのだが、これも「バルカン言語現象」の重要な特徴だ。英語ならここでI will write あるいはI want to writeと言って、that節など使わないだろう。ブルガリア語でもthatにあたるdaを入れて「私は書くだろう」をšta da piša、つまりI will that I writeという方言がある。書き言葉でも時々使われるそうだが、これは「古びた言い方」ということだ。この場合、未来形形成の不変化詞がまだ助動詞段階にとどまり、完全には不変化詞にまで落ちぶれていないから全部一律でšteになっておらず、štaという一人称単数形を示している。「君は書くだろう」だとšteš da pišešだ。問題の語が語形変化しているのがわかるだろう。

 面白いのはここからなのである。

 前にも言ったように、普通「バルカン言語連合」には含まれないセルビア語・クロアチア語が、ここでも微妙に言語連合中核のブルガリア語とつながっているのだ。
 まずセルビア語・クロアチア語は動詞の不定形をもっているので、未来形の一つは「欲しい」から機能分化した助動詞と動詞不定形でつくる。言い換えるとここではまだ「欲しい」が不変化詞にまで退化しておらず助動詞どまりで済んでいるのだ。
Tabelle2-40
ブルガリア語のštはクロアチア語・セルビア語のćと音韻対応するから、上のほう述べたブルガリア語の助動詞3人称単数形šte、その2人称形štešはセルビア語・クロアチア語では計算上それぞれće 、ćešとなるが、本当に実際そういう形をしている。一人称単数はブルガリア語でšta、セルビア語・クロアチア語でćuだからちょっと母音がズレているが、そのくらいは勘弁してやりたくなるほどきれいに一致している。セルビア語・クロアチア語では「書く」がpisatiと全部同じ形をしているが、これが動詞不定形だ。

 セルビア語・クロアチア語では上のような助動詞あるいは動詞+動詞不定形という構造と平行してthatを使った形も使う。おもしろいことに西へ行くほど頻繁に動詞不定形が使われる。なのでクロアチア語では「私はテレビを見に家に帰ります」は動詞の不定形を使って

Idem kući gledati televiziju
go (一人称単数) + home + watch(不定形)+ TV(単数対格)
→ (I) go home to watch television


というのが普通だが、東のセルビア語ではここでthatにあたるdaを使って

Idem kući da gledam televiziju
go (一人称単数) + home + that + watch(一人称単数)+ TV(単数対格)
→ (I) go home that I watch television

という言い方をするようになる。だから未来形もその調子で動詞定型を使って次のようにいえる方言がある、というよりこれが普通だそうだ。
Tabelle3-40
上で述べたブルガリア語の方言あるいは「古風な言い方」とまったく構造が一致している。ところがセルビア語の方言にはさらに助動詞のću /ćeš/ će/ ćemo/ ćete/ ćeという活用が退化してću /će/ će/ će/ će/ ćuとなり、かつdaが落ちるものがあるとのことだ。(私の見た本には三人称複数形の助動詞をćuとしてあったが、これはćeの間違いなのではないかなと思った。)
Tabelle4-40
 ここまできたらću /će/ će/ će/ će/ ću(će?)が全部一律でćeになるまでたった一歩。あくまで仮にだが、未来形が次のようになるセルビア語の方言がありますとか言われてももう全然驚かない。
Tabelle5-40
この仮想方言(?)を下に示すブルガリア語と比べてみてほしい。ブルガリア語は本来キリル文だが、比べやすいようにローマ字にした。
Tabelle6-40
šteがćeになっただけであとはブルガリア語標準語とほとんど同じ構造ではないか。前に述べた後置定冠詞もそうだったが、セルビア語はいわゆるバルカン言語の中核ブルガリア語と言語連合の外に位置するクロアチア語を橋渡ししているような感じである。

 バルカンの言語は結構昔から大物言語学者が魅せられて研究しているが、こういうのを見せられると彼らの気持ちがわかるような気がする。もっとも「気持ちがわかる」だけで、では私も家に坐ってこんなブログなど書いていないで自分で実際に現地に行ってフィールドワークしてこよう、とまでは気分が高揚しないところが我ながら情けない。カウチポテトは言語学には向かない、ということか。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるそうなので(私自身は今時スマホを持っていないので自分のブログをスマホでは見たことがない)、図表を画像に変更しました。所々チョンボやってたんで本文も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 エマヌエル・ガイベルという後期ロマン派の詩人の作品にZigeunerleben(「ジプシーの生活」)という詩がある。シューマンの作曲で「流浪の民」として日本でも有名だが、第二連はこうなっている。

Das ist der Zigeuner bewegliche Schar,
Mit blitzendem Aug' und mit wallendem Haar,
Gesäugt an des Niles geheiligter Flut,
Gebräunt von Hispaniens südlicher Glut.

それは移動するジプシーの群れ
きらきら光る眼と波打つ髪
ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い
イスパニアの南国の灼熱に肌を焦がす
(原作の韻など全く無視した無粋な訳ですみません)


3行目「ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い」という部分が気になるが、これはいわゆるジプシー、つまりロマがエジプトから来たと当時広く信じられていたからである。言いだしっぺが誰であるかはわからない。彼ら自身がそう自称したとも言われている。『50.ヨーロッパ最大の少数言語』の項でも書いたようにロマの起源はインドであるが、その存在が文献に現れるのは11世紀に当時のビザンチン帝国の記録が最初だ。当時ビザンチン帝国だけでなく、中東全般にわたって広く住んでいたらしい。彼らはキリスト教を受け入れていた(そうだ)。肌の色が浅黒く、その地では周りからコプト人と見なされていたのを巡礼目的や十字軍でパレスティナに来ていたヨーロッパ人が本国に伝えた、とも聞いた。
 これは単なる想像だが、私にはロマの方からコプト人だと自己申告したとはどうも考えにくいのである。浅黒い膚のキリスト教徒を見てヨーロッパ人が勝手にコプトだと思いこみ、ロマが特にそれに異を唱えないでいるうちにそういう説が定着してしまったのではないだろうか。そもそもロマ自身は自分たちがエジプト出身扱いされているのを知っていたのだろうか。 ヨーロッパ人側がロマをエジプトから来た人々と「思いたかった」、出エジプト記を今度はキリスト教徒を主役にして再現したかった、つまりある種の宗教ロマン物語を信じたかったのでないだろうか。そしてそういう図式が当時のキリスト教社会にアピールして定着したのでは。例えば上のガイベルの詩にもこんな部分がある。

Und magische Sprüche für Not und Gefahr
Verkündet die Alte der horchenden Schar.

そして苦境や危機に陥れば
老婆が魔法の言葉を告げる
(モーゼかこの老婆は?)


Und die aus der sonnigen Heimat verbannt,
Sie schauen im Traum das gesegnete Land.

そして陽光に満ちた故郷を追われ
祝福の地を夢に見る
(das gesegnete Landあるいはgesegnetes Land(祝福された土地)というのも聖書からの概念)


 こうやって都合のいい時だけは(?)ロマンチックな描写をするが、何か起こると、いや起こらなくてもロマは一般社会で差別抑圧されていたのである。「虐待」といってもいい。ひょっとしたら文学者はロマが普段虐待されているそのために、せめて言葉の上では美しくロマンチックに描いてやって、言い換えるとリップサービスでもしてやって読者の、いや自身の目をも現実から背けようとしたのかもしれない。
 この詩が出版されたのは1834年で、比較言語学者のポットがロマの言語とインド・イラニアン語派との類似に気づいたのは1844年、ミクロシッチが詳細な研究を行なったのが1872年から1880年にかけてだから、ガイベルはまだこの時点ではロマがインド起源ということを知らなかったのだろう。しかし一方ガイベルは1884年まで生きており、古典文献学で博士号までとっているのだからミクロシッチの論文を読んでいたかもしれない。もっとも文学と言語学というのが既に仲が悪いことに加えて、ガイベルの当時いたプロイセンとミクロシッチのいたオーストリア・ハンガリー帝国は敵同士だったから、その可能性は薄いと思うが。

 ロマはビザンチン帝国内に結構長い間住んでいたらしく、その語彙には当時のギリシア語からの借用語が目立つそうだ。例えば:
tabelle1-72
 語彙ばかりでなく、派生語を作る際の形態素などもギリシャ語から輸入している。抽象名詞をつくるための-mos (複数形は-mota)がそれ。
 ギリシア語に触れる以前、つまり現在の北インドからコーカサスの言語からの借用は、はっきりどの言語からと断定するのが難しい。借用から時間が経って借用元の言語でもロマニ語内でも語の形が変化を起こしてしまっている上、そもそもあそこら辺の言語はロマニ語と同じく印欧語だから、当該単語が借用語なのか双方の言語で独立に印欧祖語から発展してきたのか見分けがつけにくいらしい。
 それでも当地の非印欧語、グルジア語やブルシャスキー語からの借用を指摘する人もいる。ブルシャスキー語というのはパキスタンの北で細々と話されている言語である。能格言語だ。それにしてもグルジア語にしろその他のコーカサスの言語にしろ、あのあたりの言語がそろって能格言語なのはなぜだ?以前にも書いたように、シュメール語と無関係とは思えないのだが。
 そのブルシャスキー語からロマニ語への借用をヘルマン・ベルガー(Hermann Berger)という学者が1959年に発表した『ジプシー言語におけるブルシャスキー語からの借用語について』(Die Burušaski-Lehnwörter in der Zigeunersprache)という論文で指摘し、13ほど例を挙げ、嫌というほど詳細な検討を加えている。ベルガーの説には批判や疑問点も多いらしいが、面白いので一部紹介しておきたい。著者はこの論文の中でブルシャスキー語とバスク語との親類関係についても肯定的に発言している。
Tabelle2-72
 ビザンチンがオスマントルコに滅ぼされると、ロマはヨーロッパ内部へ移動し始めた。現在ヨーロッパ大陸にいるロマは方言の差が激しく、すでに意思の疎通が困難な場合が多いそうだが、これはロマニ語内部での変化に加えて(それだけだったらたかが600年ぽっちの間に意思疎通が困難になるほど変遷するとは思えない)、あちこちでいろいろな言語と接触して外部から変化させられたためだろう。面白い例が一つある。セルビアで話されているErliというロマニ語方言(というべきか言語というべきか)では未来形をまさにバルカン言語連合の図式どおりに作るのである。Erliでは動詞の接続法に不変化詞kaをつけて表すが、このkaは「欲しい」という動詞kamelが後退したもの。

Ka   dikhav
未来. + see(一人称単数形・接続法)
私は見るだろう

『40.バルカン言語連合再び』の項で挙げたアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語と比べてみてほしい。構造が完全に平行しているのがわかる。

アルバニア語
doshkruaj
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
        
ルーマニア語
oscriu
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
 

ブルガリア語
šte piša
未来 +「書く」一人称単数現在

現代ギリシア語
θα γράψω
未来 +「書く」一人称単数接続法

ところが同じロマニ語でもブルゲンラント・ロマニ語というオーストリア、ハンガリーで話されている方言だと未来形を純粋な語形変化で表す。

phirav (「行く」一人称単数現在) + a
→ phira「私は行くだろう」
phires (「行く」二人称単数現在) + a
→ phireha「君は行くだろう」
など

 上で述べたようにロマの一部がバルカン半島を去ったのはそれほど古い話ではない。それなのにブルゲンラントのロマニ語がバルカン言語連合現象の影響を受けていない、ということはバルカン言語連合という現象自体が比較意的新しい時代に起こったか、現象そのものは昔からあったがロマが周りとあまり接触しなかったとかの理由で影響を被るのが他の言語より遅かったかのどちらかである。語彙面での借用状況を考えると「周りとの接触が乏しかった」とは考えにくいので最初の解釈が合っているような気がするが、なにぶん私は素人だから断言はできない。

 またロマニ語は借用語と本来の言葉との差を明確に意識しているらしく、外来語と土着の単語とでは変化のパラダイムが違う。下は旧ユーゴスラビアのヴラフ・ロマの例だが、kam-(「欲しい」)という動詞はロマニ語本来の、čit-(「読む」)はセルビア語からの借用。ロシア語でも「読む」はчитать(čitat’)である。
Tabelle3-72
つまり土着の単語で母音aやeが現れる部分が外来語ではoになっているのである。これは名詞の変化パラダイムでもそうで、ロマニ語本来の語raklo(「男の子」)と上でも述べたギリシア語からの借用語foroの語形変化ぶりを比べるとわかる。単数形のみ示す。
Tabelle4-72
ここでもeとoがきれいに対応している。なお、私の参照した資料にはなぜか対格形が示されていなかったが、『65.主格と対格は特別扱い』で見たように対格は膠着語的な接尾マーカーなしの第一層一般斜格を使うから「男の子を」はrakl-esになるはずである。それに対して「町を」は一般斜格のfor-osではなく主格と同形のforoになるはずだ。ロマニ語はロシア語と同じく(というよりロシア語がロマニ語と同じく)生物・非生物の差を格変化形で表すからである。
 そういえば日本語は外来語とヤマト言葉を片仮名と平仮名(と漢字)で書き分けるがロマニ語はこの区別をパラダイムでやるわけか。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ