小学校の頃、ある種のお面(般若のお面だったと思う)が怖くて怖くて目にするたびにパニック状態になってしまう少女が主人公になっている物語というか短編を読んだことがある。その少女をあるときそのボーイフレンドが軽い気持ちでからかって、いきなり「ばあ」という風に般若のお面をつけて彼女の前に現れた。少女はパニックのあまりボーイフレンドを殴り、叫び声をあげながら自分の家に走って逃げて部屋に駆け込み鍵をかけ、何時間も出てこなかったというストーリー展開だったと記憶している。私は子供心にもこのボーイフレンドとやらの無神経ぶりに義憤を感じざるを得なかった。
 この少女のように本当の恐怖症でなくとも怖くて怖くて仕方がないというものがある人は多いが、その恐怖の対象を軽々しく人にバラしたりしない。悪用されたりしたらエライことになるからだ。いつだったかこちらのTVの軽い番組で、邪魔だと思っている人が蛇に対して病的な恐怖症を抱いている事を偶然知ったライバルが、その人が泳いでいるプールに蛇を投げ込んでパニック状態にさせ溺れ死を狙うというストーリーがあった。
 そういう、下手をすると命に関わる弱みを打ち明けるというのはその人を信頼しているからこそである。それあるにその信頼を逆手にとってわざわざからかいのネタにするとは何事か。どうしてこの少女はそんなゲスなボーイフレンドと付き合っているのか、と私は憤慨したのである。
 
 確かにこのボーイフレンドのように恐怖症あるいは不安障害に悩んでいる者を実際に知っているのにそれを真剣に受け止めず、ましてやその弱みをつつくというのはゲスであろうが、個人的に不安障害のある知り合いがいない場合今ひとつ真面目に取れないというのは結構あるのではないだろうか。
 例えば私は最近Anatidaephobiaという言葉を知った。ドイツ語ではAnatidenphobie、「アヒル恐怖症」あるいは「ガン・カモ恐怖症」である。アヒルやガチョウそのものに対する病的な恐怖でなく、アヒルやガチョウ、あるいはカモやガンに見られている、観察されているのではないかという恐怖、つまり間接的・潜在的な恐怖だそうだ。「アヒル恐怖症」というより「アヒルの視線恐怖症」と言った方がよさそうだ。発作が起こると周りのどこかにアヒルがいるのではないかと、気になって気になって何度も振り返ざるを得ず、心臓は早打ちしだし冷や汗は出て、日常生活に支障さえきたすそうだが、これを聞いた時私は「なんでそこで急にアヒルが出てくるのよ。そんなものがあるわけないでしょ」と大笑いしてしまった。今でもどうも本当の話とは思えない。いろいろな恐怖症リストなどを見てもこのアヒル恐怖症は乗っていないし、第一この言葉を最初に使ったのは心理学者ではなくGary Larson という漫画家で、The far sideという作品の中に出て来るそうだ。ちょっとネットを見ても「本当に患者がいるのかよ?!」「いるわけないだろ」というやりとりが目立つ。そのうちフェイスブック内でanatidaephobia sufferers societyというコミュを見つけたがそのトップ画像といい、書き込み内容といい、どうも本当に苦しんでいるようには思えない。「本当にこんな不安障害者がいるのか?」という疑問を拭いきれないのだが、もし真剣に苦しんでいる患者さんがいたらまことに申し訳ない。考えを改めるから連絡してきてほしい。

 さて、このanatidenあるいはanatidaeというのは「カモの類」という意味の学術用語で、1811年にイギリスの昆虫学者William Kirbyの造語とのことである。学術用語だから(?)当然ラテン語だが、前半のanat-はラテン語の「カモ」でいいとして、後半の接尾辞idaeは本来ギリシャ語の-ίδης (-ídēs)をラテン語風にしたものだ。「○の類」とか「○の一族」である。なお、ラテン語で「カモ」の単数主格はanasといって s で終わっているがそれ以外の格ではここが t  になり、例えば単数属格はanatis、単数対格 anatem、複数では主格対格が同形で anatēs だから、「カモの類」もここから類推してanatidaeと t 形を使っている。
 そのラテン語のanasは印欧祖語の*h₂énh₂tsまたは*h₂énh₂tisから派生したものだが、面白いことにこのアヒルあるいはカモという言葉は現在のロマンス語派でバラバラである。
 まず、イタリア語のアヒルはanatraと一目瞭然ラテン語の直系だが、フランス語ではcanard、スペイン語とポルトガル語では patoである。前者はcaneという語幹に 性別を表すardという接尾辞がついたもので、語幹caneは中世低地ドイツ語からの借用、「舟・ボート」という意味だそうだ。現在のドイツ語のKahn(小船・はしけ)である。これは印欧祖語の*gan- あるいは*gand-(「舟」、「うつわ」あるいは「管状のもの」)に遡れるそうだ。スペイン語・ポルトガル語のpatoはペルシャ語のbatがアラビア語を経由して借用されたもの。『20.カッコいいぞ、バンデラス!』にも書いたがスペイン語にはアラビア語起源の言葉がやたらと多い。
 しかしスペイン語、ポルトガル語にはpatoと平行してそれぞれánade、ademというアヒルを表す言葉が存在する。ラテン語からの派生である。面白いのはポルトガル語のademで、明らかに単数対格形(上述)から来たもの。以前『17.言語の股裂き』で現在の西ロマンス諸語で複数主格形を作るのに付加される s は、一般に言われるように対格から来たのではなく古い形が残ったためではないか、と書いたがこれを見ると「おや、やっぱりあれらは対格起源なのかな」とも思う。専門家のご指摘を請いたい。

 もう一つの有力なロマンス語、ルーマニア語ではアヒルはrațăである。似た形はバルカン半島に広まっていて、アルバニア語のrosë、クロアチア語のraca、ハンガリー語のréce、ロマニ語のrácaなど、何か共通のサブストレータムをなしているのではないかということだが、この語の起源自体については正直にuncertainとあった。しかもこれにはちょっと注釈が必要で、例えばクロアチア語ではアヒルは普通patkaである。racaを使う地域は限定されているそうだ。さらにクロアチア語にはスラブ語本来、というより印欧語本来のutva(下記参照)という言葉もあり、カモの一種である「コガモ」を指す。ところがハンガリー語では逆にréceの方が「コガモ」で、アヒル・カモ一般はkascaだ。クロアチア語の正規の(?)アヒル、patkaはスラブ祖語では*pъtъkaでロシア語の「鳥」птицаと同源だそうだ。クロアチア語でも鳥はptica。もちろん始祖鳥の学名アルケオプテルクス(この学名はラテン語でなくギリシャ語)のプテルクスと同語源である。
 さらにアルバニア語のrosëだが、このトスク方言(『39.専門家に脱帽』『100.アドリア海の向こう側』参照)の単語の古形を*roçaと再現していた説明を見かけた、それによればこの語はアルバニア祖語では*(a)nātjā、そこからさらにラテン語同様印欧祖語の*h₂énh₂tsに遡れるということだ。トスク語がロータシズムを起こしてアルバニア祖語と n  対 r で対応しているあたり確かに理屈通りなのだが、そうすると他のルーマニア語だろなんだろもアヒルをこのアルバニア語、しかも新しいトスク方言から借用したことになる。なぜなら上記バルカン半島の他の印欧語のアヒルは*h₂énh₂tsとは直接結びつかないからだ。クロアチア語では音韻的に起源の証明されたutvaとダブっているし、そもそも言語間で形が似すぎているから、祖形からそれぞれ発展してきたものではありえない。さらに非印欧語のハンガリー語まで似た形が広まっているとあれば、借用語としか考えられないのである。
 しかし、アルバニア語というのはバルカン半島でそこまで勢力や影響力を持っていたことがない。むしろ他の言語からアルバニア語への借用のほうが圧倒的に多い。それともこの語はアルバニア祖語というかイリュリア語の時期にバルカン半島中に広まったのか。でもそうすると他の言語でロータシズムは起こしていないはずである。ということでrosëを*(a)nātjāに帰するのはちょっと無理があるような気がするのだが…
 現代ギリシア語のアヒルはさらに違っていてπάπια。オノマトペだそうだ。ロマニ語に上記のrácaのほかにアヒルを表すpapinという単語があるが、これはギリシャ語からの借用であることが明白である。

 ゲルマン諸語ではロマンス諸語やバルカンの言語ほどアヒルがバラバラではなく(鳥肉業者かよ)、ドイツ語のEnte、オランダ語の eend、スウェーデン語のandなどは皆ラテン語anasと同起源で印欧祖語の*h₂énh₂tsまたは*h₂énh₂tisから。ゲルマン祖語では*anuðzまたは*anaþとなる。つまり英語だけが変な単語になっているわけだが、このduckは動詞のduckと同じ語源。つまり「潜る」と「ひょいと下げる」という意味から来たそうだ。ドイツ語にもducken(「ひょいとかがめる」)という動詞があるし、「もぐる」のtauchenともつながっているらしい。古期英語ではまだ他のゲルマン諸語といっしょでアヒルを*h₂énh₂ts系の単語enedで表していたが中期に語が入れ替わった。ついでに古高ドイツ語ではant中高ドイツ語ではanutだった。さらについでに言えばレオーネのマカロニウエスタン『夕陽のギャングたち』の英語タイトルはduck, your  suckerだが、このduckはもちろんドナルドダックのダックではなく、動詞のほう、つまり「頭をかがめろ」である。原題はGiù la testa。
 ロシア語のアヒルуткаも*h₂énh₂tsで、スラブ語祖語の*ǫty。スラブ祖語や古教会スラブ語の鼻母音 ǫ (ѫ)がロシア語の у (u) と対応することは前にも述べたが(『38.トム・プライスの死』『39.専門家に脱帽』)、ここでもきれいな対応になっている。

 アヒルから観察されるのは恐怖を感ずる人がいるかも知れないが、こうやってこちらの方からアヒルという語を観察していくのは面白く、それによってアヒルの視線への恐怖にも打ち勝てるのではないだろうか。攻撃は最大の防御である。


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