アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ドイツ語

 日本語に「弾よけ」という言葉がある。非戦闘員(兵士でもいいが)が配置の具合で戦場の矢面に立ってしまったりして、無防備で敵の攻撃に曝された場合、「これではまるで弾よけだ」と表現する。 そういう場所に立たされた非戦闘員の方も「俺達を弾よけにするつもりか?!」と言って怒る。
 ドイツ語ではこの「弾よけ」をKanonenfutter(カノーネンフッター)、つまり「大砲のエサ」と言う。この言い方、ヒドくないだろうか?日本語の「弾よけ」なら一応理屈としては後方部隊の役に立ったというニュアンスがあるが、「エサ」だと単に犬死しただけだ。さらに「弾よけ」は無生物にも使え、たとえばクリント・イーストウッドが『荒野の用心棒』のラストで胸からぶら下げていた自作の鉄板も「弾よけ」だが、「エサ」は生物に対してのみ使用可で妙にナマナマしい色合い。
 独和辞典ではこのKanonenfutterを「弾丸の餌食」と訳してある。Kanoneは本来は「弾丸」でなく「大砲」という意味だから、ウルサク言えば「大砲の餌食」となるところで、「弾・弾丸」なら本当はKugelなのだが、「大砲」か「弾丸」かの違いはこの際どちらでもいいと思う。引っかかるのはむしろ「餌食」という言い回しのほうだ。これでは語感が離れすぎてて誤訳に近い感じ。「弾丸の餌食」という言葉はたとえば、兵士が壁の厚さ50cmのトーチカの中にいたのに運悪く狭い覗き穴から入ってきた弾に額をぶち抜かれて即死した場合にも使える。「彼はトーチカの中にいたのに弾丸の餌食になった」とか表現できる。が、ドイツ語のKanonenfutterはそういう時には使えない。これが使えるのは「弾の飛び交う戦場のど真ん中を無防備でビービー走り回り、当ててくださいと言わんばかりの人」に対してだけだ。 あくまでエサなのだから向こうが食べやすいようこちらから出向いて行かなければいけない。

 ちなみに手元の独露辞典を引いてみたらKanonenfutterはпушечное мясо(プーシェチノエ・ミャーサ)というそうだ。直訳すると「大砲用の肉」だ。「エサ」よりさらにナマナマしい。話は飛ぶが、пушечноеというのは「大砲の」という形容詞だが、これの元になる「大砲」という言葉はпушка(プーシカ)で、ここから『8.ツグミヶ原』の項で述べた造語メカニズムによって作られた苗字が例のПушкин(プーシキン)である。

 さて、実はドイツ語には意味的には「弾よけ」に近いmenschlicher Schutzschild(メンシュリッヒャー・シュッツシルト)という言葉があることはある。でもこれは日本語で「人間の盾」と訳されているように堅い専門用語的ニュアンスが強く、戦闘の悲惨さ、残酷さ、あるいは司令官の道徳性の欠如といった深刻な意味合いが前面に出ていて「弾よけ」あるいはKanonenfutterのような自虐的なユーモア性は全くない。
 この「語感」というのは相当の曲者で、私は未だに「指示対象、つまり意味としては合っているのだが、ニュアンスが違いすぎる語」を知らずに使って大笑いされるか、座をシーンと静まり返らせてしまう(こっちの方がずっと危険だ)ことが頻繁にある。会話で使ってしまうならまだしも、ときどき変な言葉をちゃんとした文章で書いてしまったりするから危ない。この辺の語選択はやっぱりネイティブでないと駄目だ。

 もう1つ気にかかっている言い回しにes handelt sich bei A um B というのがある。handeltは英語のhandles(動詞の3人称単数)、sichは再帰代名詞だからいわば英語のitself、umは「を巡って」という意味、beiは「において」とか「のところで」という意味のそれぞれ前置詞なので、無理矢理英語に直訳するとit handles itself by A around Bだ。そのままでは何の事だかわかりにくいが辞書を引くと、手元の独和辞典にはbei Aのないes handelt sich um Bという形しか出ておらず、意味として「Bの事が扱われている、Bが問題(重要・話題)である。Bに関係している」とある。こう 出られれば普通の神経の者ならbei A 付きのes handelt sich bei A um Bの意味は「AにおいてはBが問題となっている」「AのところではBが扱われている」という意味だと思うだろう。ところがこれがそうではないのだ。bei Aが付くと意味がガラリと変わり、es handelt sich bei A um Bはずばり「AはBである」、つまりこの形は機能としてはコピュラ(繋辞)なのである。たとえば以下の例はアイザック・アシモフ氏のThe Relativity of Wrong(1988)のドイツ語訳にあったものだが、ちょっと見てほしい。2つ目のセンテンスがこのes handelt sich bei A um Bのパターンである。

Der Benzolring besteht aus sechs ringförmig angeordneten Kohlenstoffatomen, wobei an jeden Kohlenstoffatom ein Wasserstoffatom hängt. Es handelt sich dabei um eine sehr stabile Atomgruppe, die im Körper sehr wahrscheinlich nicht zerstört wird.

dabeiはda + beiで、daは本来「ここ」という場所的な意味だから辞書を鵜呑みにすると、次のように訳さざるを得ない。太字の部分を見てみてほしい。

ベンゾール環は輪状をなした6つの炭素原子からなっているが、そこの炭素原子の一つ一つにそれぞれ水素原子が一つついている。ここでは、体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群が問題になっている。

 これで文の意味が通じるだろうか?少なくとも私には最初のセンテンスと2つ目のセンテンスの意味が全然つながらない。ここの2つ目のセンテンスはコピュラ(繋辞)構造として「これは体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群である」と訳さないと意味が通じない。daは「ここ」ではなくて「これ」となるわけである。実は私もドイツ語を習い始めのころ、独和辞典を鵜呑みにしてしまったせいでこの文を上のように解釈し、今ひとつ理解できなくて往生した。ところがその後もこのbei A付き構造は学術的な文章はもちろん、普通の新聞の論説などでも頻繁に見かけたため、さすがの私も文脈から推して、これは擬似コピュラなのだと思い至った。ある意味ではこちらのbei Aのある形のほうがずっと重要なのに辞書にはまったく出ていない。これはドイツ語学習者はbei Aなしのes handelt sich um Bの意味、つまり「Bが問題である」からbei A付きの「AはBである」を誰でもたやすく推論できるはずだということか?私にはできないのだが。

 ずっと後になってから独英辞典を引いてみたら、sich um A handelnは確かにto be a matter of A, to concern A とあったが、

es handelt sich bei diesen angeblichen UFOs um optische Täuschungen

というbei A付きのほうはちゃんと私が予想したように、

these alleged UFOs are simply optical illusions

としっかりコピュラで言い換えてある。しかもこのbei A付き構造の重要性を強調すべく、このほかにもいくつもいくつも例文を載せてそのすべてをA=Bで言い換えて見せ、この構文が機能的にはコピュラだということが学習者の頭にしっかり刻み込まれるよう配慮してある。たまたま私の持っていた独和辞典に出ていないだけなのかと思って家にある独和辞典を4冊調べてみたが、どれにも載っていなかった。辞書が古いせいかもしれない。最新の独和辞典にはこの擬似コピュラは説明されているのだろうか。


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 前回の続きである。

 For a few dollars moreという映画だが、ロマンス語の他にゲルマン諸語その他でDVDのタイトルなどはどうなっているのか調べてみた。

ロマンス諸語 (前回の例を繰り返す)
イタリア語:        Per qualche dollaro in più
フランス語:          Pour quelques dollars de plus
本国ポルトガル語:     Por mais alguns dólares
ブラジル・ポルトガル語   Por uns dólares a mais
本国スペイン語:      Por unos cuantos dólares más
南米スペイン語:      Por unos pocos dólares más

ゲルマン諸語
英語:                    For a few dollars more
ドイツ語:             Für ein paar Dollar mehr
スウェーデン語:             För några få dollar mer
ノルウェイ語:                For noen få dollar mer

スラブ諸語
ロシア語:               На несколько долларов больше
クロアチア語:               Za dolar više
                                        (a fewがなぜか省略されている)

アルバニア語
Pёr disa dollarё mё shumё

 問題はmoreの位置だ。上の例では本国ポルトガル語を除く総ての言語でmoreにあたる語が最後に来ている。ロマンス諸語は前回述べたが、英語以下、ドイツ語のmehr、スウェーデン語とノルウェイ語のmer、ロシア語のбольше、クロアチア語のviše、アルバニア語のmё shumёがそうだ。アルバニア語はさすがにちょっと他の印欧語と勝手が違っていてmё shumёと二語構成、文字通りにはmore manyだが、機能自体は他と同じだ。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)やein paar (a few)がDollarの前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for - a few - dollars - more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここでmehr (more)をDollarの前に持ってきた構造
 
?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけてのNG宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のようにmehr (more)をein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの*印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more booksあるいはsome more booksという語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員For a few more dollarsはOKだと言った。For a few dollars moreのほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱりNG宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でもmás(more)はdólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

もしかしたらドイツ語と同じくスペイン語でもPor unos cuantos más dólaresという語順のほうがPor más unos cuantos dólaresより「マシ」なのかもしれないが、いきなり初対面のスペイン人を根掘り葉掘り変な質問攻めにするのは気が引けたのでそれ以上突っ込めなかった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 ところが前回私がひっかかったようにポルトガル語、特に本国ポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順が可能だ。maisというのがmoreである。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかはまだ未調査)

 前回で述べたいわゆるp-組のフランス語ではスペイン語と同じく、moreが名詞の前、ましてやa fewの前には出られない。a few more booksがフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some - books - of - more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques (de) plus dollars
*Pour (de) plus quelques dollars

の二つはどちらも「おえー」と言って却下した。
 同じくp-組のイタリア語ではpiù (more)が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a - few - more - of  - books

ただしこのイタリア語と上のポルトガル語に関してはちょっとそこら辺にネイティブがころがっていなかったので(?)インフォーマントの確認はとっていない。

全体としてみるとmoreがa fewの前にさえ出られる本国ポルトガル語はかなり特殊だと思う。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。 

最後に日本語だが、これは一見moreの位置が印欧語より自由そうには見える。

1.あともう少しのドルのために
2.ドルをあともう少しのために
3.あとドルをもう少しのために
4.*あともう少しのドルをために
5.*ドルのあともう少しをために
6.???あともう少しをドルのために

1,2,3はOKだろう。3はちょっと「うっ」とは思うが。しかしよく見れば、1では「ドル」は助詞の「の」に支配される属格、2と3では「ドル」には「を」という対格マーカーがついていて、シンタクス構造そのものが違うことがわかる。単なる語順の問題ではないのだ。4,5,6はどれもNGだが、4と5がそもそも日本語になっていないのに対し、6はシンタクス構造そのものはOKだが意味が全然合っていない。仮に「ドル」というのが人の名前かなんかだったら成り立つかもしれないので、「限りなくNGに近い」という意味で???を付加。「駄目」にもいろいろなレベルがあるのだ。

 こういう事象の分析は例のミニマリストプログラムや最適理論とかいう現在の生成文法の専門家が大喜びしそう、というよりすでに実際に研究論文があるのかもしれないが、私はそんなものを探しているといつまでたっても映画が見られないのでパスさせてほしい。


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 「二重否定」または「多重否定」という言葉を語学の授業ではよく聞くが、私は今までこの「多重否定」というのをちょっと広すぎる意味でボーっと理解していた。 

 否定の言葉をセンテンス内で2度使うという同じ構造がまったく反対の機能をもつようになることがある。一つは否定が否定されて結局肯定の意味になるもの。日本語の「ないものはない」が「すべてある」、「なくはない」が「ある」の意味になるのがこの例だ。マイナスにマイナスをかけるとプラスになるようなもの。ドイツ語だと、

Er ist nicht untalentiert.
He + is + not + untalented
→ 彼は才能がなくない = 彼は才能がある

オランダ語にも例があって、

Jan heeft niet niemand gebeld
Jan + has + not + nobody + called
→  ‘Jan didn’t call nobody’ = ‘Jan called somebody’


しかしこれとは反対に否定を重ねてもやっぱり否定の意味になるものがある。いやそれどころか重ねることで否定がパワーアップされることさえある。有名なのがロシア語で、否定詞を重ねるのが義務で、うっかり一方を忘れると「ちゃんと最後まで否定しろ!」と怒られる。 例えば

Я не пойду никуда.

という文ではне が英語のnot、никуда がnowhereだから直訳するとI don’t go nowhere。でもこれは「行かないところはない」という肯定的意味ではなくて「私はどこにも行かない」だ。同様に

Я не знаю никаких лингвистов.

も、直訳するとI don’t know no linguistsで、少ししつこい感じだが、ロシア語ではこれは正規の否定形だ。「私には言語学者の知り合いがいない」。
 私はいままでこういうのも「二重否定」と呼んでいたのだが、こちらの方はnegative concord(「否定の呼応」)と呼んで「二重否定」とは区別しないといけないそうだ。でもまあ、研究者にもdouble negativeに否定の呼応を含める人も「いないことはない」から、私だけが特にいい加減な理解をしていたわけでもないらしい。
 ロシア語以外のスラブ諸語でも否定形は基本的にこの呼応タイプが標準だそうだ。例を挙げると:

チェコ語
Milan nikomu nevolá
Milan + nobody + not-calls
→ ミランは誰にも電話しない。(ne と ni が否定の形態素)

ポーランド語
Janek nie pomaga nikomu Polish
Janek + not +  helps + nobody
→ ヤネクは誰のことも助けない。(nie と ni が否定の形態素)

セルビア語・クロアチア語
Milan ne vidi nista.
Milan + not + see + nothing
→ ミランには何も見えない。
(ne と ni が否定の形態素)

 英語では基本的には否定が重なると肯定、つまり「ないものはない」タイプの二重否定だが、実際には否定の呼応も使われている。日常会話では次のような言い回しも使われるそうだ。
 
I don't feel nothin’.  → 私は何も感じない。
We don't need no water.  → 私たちには水は要らない。
I can't get no sleep.  → 私は眠れない。

ATTIKA7とかいうメタルバンドのアルバムBlood of My Enemiesに収められているCrackermanというソングにも

I don’t need no reason. → 俺には分別などいらない。

という歌詞が見つかる。

なお、古期英語や中期英語では否定の呼応が普通に使われていたそうだ。
 
 同様にしてドイツ語でも作家が時々否定の呼応を使っている例がある。クリスティアン・モルゲンシュテルンの『3羽のすずめ』という詩に、

So warm wie der Hans hat's niemand nicht.
so + warm + like/as + that Hans + has it + nobody + not
→ ハンスほど暖かい者は誰もいない 


という例がある。なおここの「暖かい」というのは心が温かいということではなくて、体が暖かだという意味だ。3羽の真ん中にいるハンスという名前のすずめは冷たい風に当たらないから一番暖かいと言っているに過ぎない。
 さらに中高ドイツ語で書かれたハルトマン・フォン・アウエの『エーレク』88行目が次のような文である。

ir ensît niht wîse liute,
you + not-are + not + wise/clever + people
→ そなたは賢き人にあらず。(en と niht が否定の形態素)


方言や日常生活では否定の呼応がゴロゴロ現れる。例えば低地ドイツ語で、

Dat will ick för keen Geld nich.
that + will + I + for + no + money + not
→ お金を貰ってもそれはやらない

私もドイツ人が

Du hast keine Ahnung von Nichts.
you + have + no + idea + of + nothing
→ 君は全く何もわかっていない。


とかいう言い回しを使っているのを聞いたことがある。でも一方でこの言い方を「受け入れがたいドイツ語」と拒否するドイツ人もいるから、言葉には揺れがあるのがわかる。
 
 ラテン語では二重否定は「肯定を強める」そうで、non nescire(not + no-know)は「とてもよく知っている」という意味だ。だがその子孫のロマンス諸語ではちゃっかり「否定の呼応」が現れる。現れるは現れるが、シンタクスの構造によっては否定が呼応してはいけない場合があるそうだ。* がついているのは非文である。

イタリア語
Non ha telefonato nessuno.
not +  has + called + nobody
→ 誰も電話して来なかった。


* Nessuno non ha telefonato. (この場合にはnonをとらないといけない)

スペイン語
No vino nadie.
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


* Nadie no vino.  (noをとる)

ポルトガル語
Não veio ninguém.
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


* Ninguém não veio. (nãoをとる)

ルーマニア語だと

Nu suna nimeni
not + calls + nobody
→ 誰も電話しない


という形がOKなのは上の伊・西・葡語と同様だが、さらにそこではボツを食らった構造

Nimeni nu suna

が許されるそうだ。ルーマニア語ネイティブの確認を取ったからその通りなのだろう。伊・西・葡語と違ってここでnu (not) をとらなくてもいいのだ。

 カタロニア語とフランス語は普通の一重否定でもすでに ne と pas の二つの語で挟むから、話がややこしくなるが、否定が呼応することがあるのがわかる。カタロニア語の pas はオプション。

カタロニア語
No functiona (pas) res
not + works + (not) + nothing
→ 何も機能しない。

フランス語
Jean ne dit rien à personne
Jean + not + says + nothing + to + anybody
→ ジャンは誰にも何も言わない。


ギリシア語では古典でも現代でも「否定詞が重複して用いられた場合、相殺して肯定の意味になる時と、これと反対にむしろ否定の意味が強められる場合とがある」とのことだ。両刀使いだ。

否定+否定=肯定 (古典ギリシア語)
ουδείς ουκ επασχε τι
nobody + not +  was suffering + something
→ 何か(ひどい目に)遭わない人は一人もいなかった。
→ 全員何かしらひどい目に遭っていた。


否定の呼応 (古典ギリシア語)
μή θορυβήση μηδείς
do not let +  raise an uproar + nobody/nothing
→ 誰にも騒ぎを起こさせるな


否定の呼応 (現代ギリシア語)
δεν ήρθε κανένας
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


 現代ギリシア語も上のルーマニア語と同様 nobody (κανένας)が文頭に来ても not (δεν)はそのまま居残っていい。伊・西・葡語と違う点だ。 

κανένας δεν ήρθε
→ 誰も来なかった。

前にも一度述べたように、ルーマニア語は現代ギリシア語、ブルガリア語(およびマケドニア語)、アルバニア語と言語構造に顕著な類似性を示し、「バルカン現象」と呼ばれているが(『18.バルカン言語連合』の項参照)、これもひょっとしたらその一環かもしれない。

 否定の呼応が結構いろいろな言語に見られるのにも驚いたが、それよりびっくりしたのが、このテーマを扱っている論文の多さだ。何気なく検索してみたら出るわ出るわ、何千も論文があるし、否定の呼応について丸々一冊本を出している人、博士論文を書いている人、つまりこれをライフワークにしている言語学者がウジャウジャいる。しかもその際ハードコアな論理学・生成文法系のアプローチがガンガン出てきて難しくて難しくてとても私なんぞの手に負える代物ではない。せっかくだからそのうちの一つ、古教会スラブ語から現代チェコ語に至る否定の呼応状況を調査した論文を一本紹介するが、私は読んでいない。たらい回しのようで申し訳ない。
Dočekal, Mojmír. 2009. "Negative Concord: from Old Church Slavonic to Contemporary Czech". In: Wiener Slawistischer Almanach Linguistische Reihe Sonderband 74: 29-41


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 『007・ロシアより愛をこめて』という映画がある。映画のデータベースサイトIMDBには映画での使用言語も細かく記載されているが、それによればこの映画では、英語、ロシア語、トルコ語、ロマニ語が使われているそうだ。ロマニ語というのはヨーロッパの有力な少数民族ロマ(いわゆるジプシー)の言語である。確かにジプシーという設定の人たちが出て来る。
 が、ちょっと待ってほしい。そのロマの一人の男性が主役のS.コネリーに向かって

Hvala lepa!  (フヴァーラ・レーパ)

と言う場面があるのを見落とすとでも思っているのか?始まってから45分くらいのところだ。これはセルビア語またはクロアチア語e方言で、「どうもありがとう」。ロマニ語ではない。
 標準クロアチア語だと『15.衝撃のタイトル』の項で書いた通りeがijeになるから

Hvala lijepa  (フヴァーラ・リイェーパ)
thank + pretty/great

となって、文字通りにはpretty/great thank、つまり「ありがとう」の強調だ。lepaあるいはlijepaは形容詞lijepあるいはlep(「美しい」)の女性単数形でHvala(「感謝」)にかかる、つまり形容詞が後置されているのだ。これを最上級でいうこともできて、

Najljepša hvala! (ナイリェプシャ・フヴァーラ) または
Najlepša hvala! (ナイレプシャ・フヴァーラ)
prettiest/greatest + thank

で「本当にどうもありがとう」、ドイツ語ならHvala lijepa!はschönen Dank!、Najljepša hvala!はschönsten Dank!とでも訳したらいいのか。

 この「ありがとう」をロマの男性が、戦闘中に撃たれかかっていたところを援護射撃してくれたジェームス・ボンドに対して言うのだが、そのあと状況が落ち着いた際、男性は改めてまたHvala lepaを繰り返して言う。私が聞き取ったのは

Hvala lepa, što ste mi podarili moj život.
thanks + pretty/great, + that + (you) have + (to) me + presented + my + life.
→ 私に命を授けてくれて(私の命を救ってくれて)本当にありがとう

Vi ste sada moj sin.
You + are + now + my + son
→ あなたは今から私の息子だ。


という会話だが、これも混じりけなしのセルビア語だ。ロマニ語ではない。

 ちなみにこのšto ste mi podarili moj životという言い方にちょっとひっかかった人もいるだろう。そう、このšto(シュト)はロシア語のчто(シュト)と対応する語で、英語のthat、ドイツ語のdassだが、普通外国人がクロアチア語・セルビア語のthatとして教わるのはdaという接続詞である。で、上の文は私などだったら

Hvala lepa, da ste mi podarili moj život.

と書くところだ。念のため辞書を引いてみたらやっぱりštoよりdaのほうが普通のようだが、

oprostite što smetam!
excuse + that + (I) disturb
→ お邪魔してすみません(ちょっとお尋ねしますが)


という言い方もできるそうなので、この二つは機能的に重なる部分があるということだろう。セルビア語はクロアチア語より東の言語だから、ロシア語などの東スラブ語とつながっている部分があるのかもしれない

 映画のこのシーンは場所設定がセルビアだったのでセルビア語が出てくるのは当たり前といえば当たり前だが、この男性はロマである。ロマニ語を話すのではないのか?それとも英語のオリジナルではここが本当にロマニ語になっているのか。私の見たのはドイツ語吹き替えバージョンだった。でも英語をドイツ語に吹き替えたバージョンなら、そこにロマニ語が出てきたら普通それもドイツ語に吹き替えるか、そのままロマニ語にしておくのではなかろうか。英語版ではロマニ語だった部分をドイツ語バージョンでわざわざセルビア語にする、というのはどうも考えにくいから、やっぱりこの部分は英語バージョンでもセルビア語だったのだと思う。ご存知の人がいたら英語バージョンのほうはどうなっているのか教えていただけると嬉しい。
 ロマニ語ネイティブスピーカーは全員住んでいる国の言葉とのバイリンガルだから、件の男性も実際にここで言語転換、いわゆるコードスイッチしたのかもしれない。セルビア語を話す、ということはこの男性はカルデラシュというロマのグループだったのだろうか。
 
 実は私の家の近所にも以前、ロマの人が結構たくさん住んでいたのだが、こちらには全てドイツ語で話しかけてきた。ただ、お互いの間では全く別の言語でしゃべっていたのを覚えている。多分彼らはシンティ(ドイツ、オーストリア、北イタリアなどにいるロマの一グループ)だったのだと思うが、一度少し離れた公園で別のグループのロマの人たちを見かけたことがあり、聞いてみたら、ルーマニアから来たと言っていた。つまりこの人たちはシンティではなくてヴラフ・ロマ(Vlach-Roma)と呼ばれるグループかあるいはバルカン・ロマだったのか。こちらも意思の疎通はドイツ語で全く支障がなかった。皆いつの間にか見かけなくなってしまったので少し寂しい。あの人たちは今どこにいるのだろう。 
 このロマニ語は1800年代の後半にスロベニア人の言語学者(国籍は当時のオーストリア)ミクロシッチが広汎な研究をしているが、それ以前にも単語の記述などはされていたし、ロマニ語がインド・イラニアン起源らしいということは18世紀からすでに言語学者の間で言われていたそうだ。現在も研究者は多い。ロマニ語はインド・イラン語派の古い形を保持している一方、あちこちでいろいろな言語に接触しているから、クラシックな印欧語学にも、言語接触、二言語併用など今をときめく分野にも資料を提供できる。社会言語学・応用言語学の対象としても申し分がない。いわば「これ一つやれば歴史言語学から応用言語学まで、言語学がすべてわかります」的な貴重な言語だと思う。ドイツ語なんかより(あら失礼)ロマニ語のほうがよっぽど魅力的な言語だと思うのだが。

 ところで、ドイツ語で「やりたくない、する気が起こらない」という意味の、

Ich habe keinen Bock darauf.
I + have + no + „Bock“ + on it

という表現がある。このBockという単語が曲者で、辞書には「雄のヤギ」という意味しか載っていない。私の持っている和独辞典にもその「雄のヤギ」の項目に「慣用句」としてこのIch habe einen Bock darauf(○○をする気がある)と出ている。ところがこの語は本来雄ヤギのBockとは全く関係がない別単語で、ロマニ語のbokh(khは帯気音のk)という言葉からドイツ語に借用されたもの、という説がある。このロマニ語は「食欲」とか「~したい気持ち」という意味だそうだから、完全につじつまが取れているのだ。ただ、意味は合っているがこのkeinen Bock darauf という言い回しが広まり始めたのは1970年ごろだそうで、なぜそのころになって急にロマニ語が借用されたのか、という点に問題が残る。もしロマニ語起源ならもっと前から借用例がみつかりそうなものだからだ。意味は合っているが時期が合わないのでBock=bokh説はまだ全体には受け入れられていない。
 
 ちなみに現在ヨーロッパではマケドニア、コソボ、ドイツ、オーストリア、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、スロベニア、ハンガリー、ルーマニアなどがロマニ語を正式に「少数言語」として承認しており、欧州会議の議員にも時々ロマ出身者がいる。ただ、ロマに対する偏見・差別は悲しいことにまだなくなっていない。
 旧ソ連も1920年代に一時、非常にリベラルな言語政策をとっていたことがあって、ロマニ語を正規に認め、ロマニ語による学校授業、出版などが許されていたそうだ。プーシキンのロマニ語訳なども出版されていたという。欧州議会が正式にロマニ語を保護しだしたのは1990年代だからそれに70年も先んじている。旧ユーゴスラビアでもそんな感じの言語政策だったらしい。残念なことにソ連ではその後ロマニ語保護政策が撤回されてしまったとのことだが。

 『ロシアより愛を込めて』で、ソ連のスパイとの丁々発止がユーゴスラビアで展開され、そこにセルビア語を話すロマが登場する、というストーリーは意味深長だと思った。おかげでセルビア語のシーン以外はほとんど何も覚えていない。ごめんなさい。


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 「白」と「黒」を印欧諸語ではそれぞれ次のように言う。上が「白」、下が「黒」である。

ラテン語
albus
niger

ドイツ語
weiß
schwarz

英語
white
black

ロシア語
белый
чёрный

古典ギリシア語
φαλός
μελας

サンスクリット
śvetaḥ
kṛṣṇaḥ

フランス語
blanc
noir

ここで例えばドイツ語・英語やロシア語の語源辞典を(うっかり)引くと、同語派の印欧語、英語辞典ならドイツ語はいうに及ばず、オランダ語やノルウェー語、ロシア語辞典ならウクライナ語やセルビア語・クロアチア語の対応語までイヤと言うほど掲げてあって本当に嫌になるので、上の7語に絞った。サンスクリット語は私がデーヴァナーガリーが読めない、という超自分勝手な都合でローマ字にした。

 まずラテン語のalbusだが、イタリック祖語では*alβos、印欧祖語で*h2elbhos *álbhos。古典ギリシャ語のἀλφός(皮膚の色が白くなるハンセン氏病の一種(!))もこれと同源だそうだ。
 なおalbusは「つや消しの白」で、光沢のある白色はラテン語でcandidusという。
 次の英語のwhite、ドイツ語のweiß(古高ドイツ語の(h)wīz、中高ドイツ語のwīz)はゲルマン祖語で*hwītaz、印欧祖語の*kweytos、*kweid-oあるいは *kweit-起源で「輝く」。別の資料には印欧祖語形を*kwintos/*kwindosまたは*kuit-/*kuid-としてあったが、語そのものに変わりはない(と思う)。古期英語のhwit、古ノルド語のhvitr、当然スウェーデン語のvitもここから派生してきたもの。さらに古教会スラブ語のсвĕтъ、ロシア語のсвет(スヴェート、「光、世界」)も親戚だ。「古代インドの言語のśvēáḥも形が近い」と辞書に言及してあったから、形としてはサンスクリットともめでたく繋がってくる。
 ロシア語белый(スラブ祖語で *bělъ)は調べによるとアルメニア語のbal、古代インドの言葉bhālam、古典ギリシャ語のφάλοςと同様印欧祖語の*bhaから派生、とあった。
 ギリシア語φαλόςは印欧祖語の語幹*bhel-から派生したもので、サンスクリットのbhāla(「輝き」)と同語源。面白いことに今はもう古語となっている、「大きなかがり火」とか「のろし」という意味の英語bale(古期英語でbǣl)もこれ起源だという。上のロシア語での語源辞典では祖形を*bhaとしているが、ギリシャ語のφαλόςがその派生例として掲げてあるし、古代インドの言語の例bhālamもここギリシア語の項で挙がっているbhālaとほとんど同形だから、これらは同語源とみなしていいだろう。
 さらにフランス語のblancは俗ラテン語の*blancusからきているそうだが、そのblancusは実は俗ラテン語がゲルマン祖語から借用した語で祖形は*blankaz(「輝いている」)。これは印欧祖語では*bhleg-(「輝く、燃える」)である。
 ラテン語の祖形となった*h2elbhosも接頭辞がついてはいるが語幹に*bhが含まれているし、続ラテン語からフランス語に流れた*bhlegもそうだから、これらを皆いっしょにすると、印欧諸語の「白」には*kweit-あるいは*kwintos系と*bhel-あるいは*bho-系との、二つの流れがあることになる。

 ここまでだけだとあまり面白くないのだが、「黒」を見ていくと俄然スリルが増してくる。

 まずドイツ語のschwarzはゲルマン祖語では*swartaz、印欧祖語形では*swordo-(「くすんだ、黒ずんだ、暗い」)。英語でも文語的なswart(「黒ずんだ」)という言葉にその痕跡が残っている。
 ロシア語のчёрный(スラブ祖語で*čьrnъ)は印欧祖語の*kr̥snós(「黒い」)。サンスクリットのkṛṣṇaḥももちろんここ起源である。
 ギリシア語のμελαςは印欧祖語の*melh2-。サンスクリットのmala(「穢れ」)と同語源である。
 ラテン語のnigerは実は語源がよくわからないそうだ。印欧祖語の*nókwts(「夜」)とのつながりを主張する人もいるという話だ。 
 つまり「黒」のほうが「白」よりもあちこちいろいろなところから持ってきているわけだが、中でも面白いのは英語のblackである。実はこれはゲルマン祖語形が*blakazで、「燃えた」。印欧祖語の*bhel-または*bhleg-から出たそうで、つまりフランス語、ギリシア語、ロシア語、ラテン語などの「白」と出所が同じなのである。英語では「燃えた後の状態」を黒の意味に使っているのだ。スウェーデン語のbläck(「インキ」)も同じ語源だそうだ。

 さて、「白」というと思い出すのが「白ロシア」という名称である。今はもうあまり使わなくなって「ベラルーシ」と呼んでいるようだがドイツではいまでも「白ロシア」という名称が現役である。この「白」という命名は何故なのかについて「住んでいる人が肌の色も白く、金髪が多いからだ」とかいうショーモない説明を見かけたことがあり、さすがの私も笑ってしまった(しかしなんとこれをマに受けている人もいたようで、笑ってばかりもいられない)。これは論外としても定説はないようだ。私がスラブ語学の教授から聞いたのは次のような説明である。

「むかしの中国では東西南北をそれぞれ色でシンボル化していた。東が緑、西が白、南が赤、北が黒、そして中央が黄色。 このシンボル体系が、かつて元・蒙古が2世紀の間ロシアを支配していたときスラブ民族にもたらされた。それでロシアの西にある国を「西ロシア」という意味で「白ロシア」と名づけたのではないだろうか。」

これはたしかにあり得そうだ。
 また、これを聞いて思いついたのだが、「黄河」とか「黄海」というのは別に水が黄色く濁っているからではなくて「中央の川」「中央の海」という意味でつけたのではないだろうか?ただしこちらは私のいい加減な思いつきなので、専門家に教えを請いたいところだ。

 続いて「黒」だが、ロシアの反対側、東の端にある島が「サハリン」という名前。これは「サハリヤン」という言葉からきているが、その「サハリヤン」とは満州語で「黒」という意味である。ロシア語名称「サハリン島」は「サハリヤン川(黒龍江)の河口にある島」の省略形からその名がついたことがほぼ確実、中国語名称「黒龍江」はおそらく満洲語サハリヤン「黒」の翻訳語だろうと、こちらのほうはきちんと専門家の口から聞いたことがある。
 ヨーロッパにも「黒」のつく名前はある。南西ドイツに広がる森はSchwarzwald(シュバルツバルト、「黒い森」)。ウクライナの南の海は「黒海」。これはギリシャ人の命名でエウリピデスの悲劇にもΠόντος Μέλας(ポントス・メラース、「黒い海」)という言葉が見いだされるそうだ。Μέλαςには「陰気な」とか「気味の悪い」という意味もあるそうだから、シンボル云々とは関係なく、本当に黒い、というか暗かったからそう名づけたのだろう。シュバルツバルトも確かに針葉樹がうっそうとしていて暗い。
 だが、「モンテ・ネグロ」(「黒い山」、地元のセルビア語・クロアチア語ではCrna Gora(ツルナ・ゴーラ))はなぜ黒なのか。あそこの山々は石灰岩が多くて黒いよりも白といったほうがいいくらいではないか。多分これは1426から1516年までこの地を支配し、現在のモンテネグロの国の基礎を築いたCrnojević(ツルノヴィッチ)家の名前からきているのだと思う。この一族は『8.ツグミヶ原』の項で述べた中世セルビアの支配者ステファン・ドゥーシャンとも血がつながっていたそうだ。その後この国もセルビアと同じくトルコの支配下に入ったが、当時勢力のあったヴェネチア公国(それとも共和国でしたかここ?)の言葉でセルビア語のツルナ・ゴーラが直訳され、西欧ではそっちの「モンテネグロ」という名称が一般化したということだろう。トミッチという人が 1900年にCrnojevići i Crna Gora od 1479 do 1528(ツルノエヴィッチとツルナ・ゴーラ:1479年から1528年まで」)という論文を出しているそうだから、ひょっとしたら名称の由来にも言及されているかもしれない。4ページくらいの短い文章だからセルビア語のできる人は読んでみてはいかがだろうか。いずれにせよ、ここは実際に色が黒かったり陰気だったりしたから黒と名づけられたのではないと思う。「黒」、つまりSchwarzさんという苗字はドイツにもやたらと多い。


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警告:この記事には下ネタが含まれています。紳士・淑女の方は読まないで下さい。自己責任で読んでしまってから「下品な記事を書くな!」と苦情を言われても一切受け付けられません。

 ドイツ語にAuslautverhärtungという言葉がある。「語末音硬化」とでも訳せるだろうか。語末で有声子音が対応する無声子音に変化する現象である。例えば「子供」はkindと書き、語末の音は深層では書いてある通り d、有声歯茎閉鎖音なのだが、ここではそれが語末に来ているため対応する有声歯茎閉鎖音、つまり t となり、「キント」と発音される。複数形はKinderといって d が語末に来ないから本来の通り有声になって「キンダー」。
 私は個人的にこのAuslautverhärtungという言葉か嫌いだ。ドイツ語学の外に一歩出ると通じないからである。「硬化」というが無声音のどこが有声音より硬いんだろう。辞書を引くとVerwandlung eines stimmhaften auslautenden Konsonanten in einen stimmlosen(「語末に来る有声子音が無声のものに変化する現象」)と定義してあってさすがに「硬化」などという非科学的な記述よりはきちんと理解できるが、実はこれでもまだ不正確だ。この現象の本質は単にさる有声子音がさる無声子音に変化するのではなく、調音点・調音方法はそのままで有声性だけが変化する、言い換えると本来弁別的区別をもつ [+ voiced] 対 [- voiced] の素性(そせい)の差が語末では機能しなくなる、ということだからだ。で、人にはいちいちNeutralisierung der Stimmhaftigtigkeit im Auslaut(「語末での有声性の中和」)と言え、と訂正してその度にうるさがられている。
 それと同じ理由でロシア語の「硬音」「軟音」という用語も嫌いだ。ロシア語ではこれを使わないとそもそも語学の学習が出来ないから仕方なく使っているが、本来「非口蓋化音」「口蓋化音」というべきだろう。さらにいうと日本語の「清音」「濁音」「半濁音」という言い方も見るたびに背中がゾワゾワする。
 その、ドイツ語でシモの有声音が中和される現象だが、ドイツ人はこれが深く染み付いていて英語のsentとsend、(生放送という意味の)liveとlifeが発音し分けられない人がたくさんいる。それぞれどちらもセント、ライフになってしまい、「センド」「ライヴ」が言えないのだ。
 同じ西ゲルマン語なのに英語にはこのシモの現象がない。調べてみたら北ゲルマン語のスウェーデン語にもない。だからスウェーデン語でland(「国」)はドイツ語のように「ラント」にはならないが、その代わり d がそり舌化して [ɖ] となるとのことで「ランド」ともいえない。実際に発音を聞いてみたらそもそも語末音が全然聞こえなかった。西ゲルマン語で英語とドイツ語の中間にあるオランダ語にはこの現象がある。聞いてみたらlandはきれいに(?)「ラント」であった。さらにスラブ諸語はこの有声音の中和現象が著しく、ロシア語などは半母音さえ中和されて [j] が [ç] となるばかりか、ソナントの [r] まで語末で無声になっているのを耳にする。特に口蓋化の [r] は無声化しやすいのか、царь (ツァーリ、「皇帝」)の「リ」は [rj ̊] になることが多いようだ。
 またドイツ語では反対に無声歯茎摩擦音、具体的に言うと s が語頭や母音間では必ず有声化して z になるため、「相撲」がいえず「ズーモ」、「大阪」が「オザーカー」、「鈴木」に至っては「ズツーキ」になってしまう。頭突きをやるのは鈴木でなくジダンだろう(などと今頃言っても誰ももうあの事件を覚えていないか)。
 
 しかしこの「有声音と対応する無声音の区別が怪しくなる」というのは中国語や韓国語など、大陸アジアの言葉が母語の人にも時々現れる。それらの言葉では有声無声の対立が弁別的機能を持っていないことがあって、かわりに帯気・無気が弁別的に働くからだ。で、うっかりすると「ねえやは十五で嫁に行き」が「ねえやは中古で嫁に行き」となってしまうそうだ。
 でも昔の日本は武士階級ならともかく、庶民では女性にすでに性体験があっても別に嫁に行く際それほどマイナスにはならなかったと何かの本で読んだことがあるから(現に「夜這い」とかいう習慣があったではないか)、中古でも新品でもあまり関係ないのではないだろうか。そもそも日本語は歴史的に見れば本来有声子音(いわゆる濁音)と無声子音(清音)に弁別的差がなかったそうだし。アイヌ語などは現在に至るもこれらを音韻的に区別しないと聞いた。

 それでさらに思い出したことがある。私がドイツに住み始めた頃はうちの住所はまだ西ドイツと言ったが、その頃、まだ東ドイツもソ連も存在していた頃に「ソ連赤軍合唱団」のCDを近くの本屋さんで買ったことがある。ソ連崩壊の直前、当地の経済状態が壊滅状態で、市民を救おうとチャリティ目的のCDだろなんだろが店頭にドッと並んだのである。チャリティでなくてもとにかく一時旧東欧圏の製品がたくさん流れて来た時期があったのだ。
 もっとも以前からソ連赤軍合唱団の歌は好きでよく聴いたものだった。聴いてみてまず気づくのは、ソロ歌手でもその他歌手でも高い声がきれいだという事だ。以来どうして赤軍合唱団は高音部がきれいなのかずっと疑問に思っていたのだが、あるとき次のような話を複数の人から同時に聞いて疑問が氷解した。真偽の程は定かではない:

「ソ連の戦車は西側諸国の装甲の厚い戦車に対し、被弾率を下げ機動力で対抗するために比較的小型軽量に作られてきた。そのため車内の居住性が悪く被弾経始がキツいので狭い車内で不自然な姿勢で操縦することになる。そこで気をつけて大砲を撃たないと反動で後退してきた砲尾が股間を直撃し睾丸を潰してしまう。そういう女性化した戦車兵が続出するため、高音が出やすくなって、結果として赤軍合唱団のファルセットは世界一なのである」

いいではないか。イタリアでは結構最近まで教会コーラスのボーイ・ソプラノを維持するため、早いうちに男性歌手を組織的に去勢していたそうだし、こういう比べ方もナンだが、ブタも去勢してない雄ブタは肉が臭くて食べられないそうだ。私としてはこういうファルセットがもっと聴けるようになるのは大歓迎、ドンドンヘンな姿勢で大砲を撃って遠慮なくツブれて欲しい感じ。去勢すると攻撃性が減るそうだから、ひょっとしたらそういう兵士は戦闘員には向かなくなって強制的に「合唱専門部隊」にまわされるのかもしれない。

 もっともペットを去勢したところホルモンのバランスが崩れたためか手術の直後一時期かえって攻撃性が増した、という話もきいたことがある。するとツブれた赤軍兵もその直後は一時攻撃性が増して狂ったように撃ちまくったりしたのだろうか。もしかするとその超人的な砲撃のおかげでソ連はドイツに勝ったのか?


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