アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ドイツ語

 「ホームシック」をドイツ語でHeimweh(ハイムヴェー)というが、Heimは英語のhome、wehがsoreness(「痛み」)に当たるので構造的に英語とよく対応している。ところがドイツ語にはさらにこれと対になったFernweh(フェルンヴェー)という言葉がある。Fernは英語のfarだから、これは「郷愁・故郷が恋しい」の反対で、「遠くが恋しい」つまり「どこか遠くの知らない土地に行って見たくてたまらない衝動」という意味だ。

 私はこのFernwehというのは実は人間の本質的な衝動なのではないかと思う。これがなかったら、人類が全員生まれた土地から一歩も出ずにそこで死にたがるメンタリティだったら、いくらやむを得ない事情があったとしても私たちの祖先はアフリカから出て行っていただろうか?生まれ故郷を出て行く理由は「仕事が欲しい」、「エサが欲しい」、「金がほしい」、それだけだろうか?人は本能的に山を見れば越えたくなる、海を見れば渡りたくなるものなのではなかろうか。

 私も子供の頃この気持ちに駆られたことを覚えている。近所のビルの屋上から東京湾の海が見えたので、「海は広いねえ、あの向こうはアメリカなんだねえ」と私にしては珍しくロマンチックなことを言ったら一緒にいた仲間に「馬鹿、東京湾の向こうは千葉県だろ」とあっさり冷たく返され、幼い私のFernwehはグシャグシャになってしまった。
 しかしさすが人類一般に内在する衝動だけあって、千葉県に邪魔されたくらいではなくならない。引き続いて私の心に存在し続け、高校生になった時、第二外国語としてドイツ語をとる気にさせた。当時入学した都立高校には選択科目として第二外国語があったのだ。

 それでも私が初めて実際に外国に行ったのはやっと就職してからで、その「生まれて初めて見たよその土地」はソ連(当時)のハバロフスクだった。いわゆるパック旅行でドイツへ行く途中で燃料補給に立ち寄ったのだ。
 見渡す限り続く地平線といい、土の色、空の広さといい、日本みたいなみみっちい島国では絶対お目にかかれない景色に感動した。飛行場の建物の入り口にカラシニコフを持って立っていたシケたおっさん兵士についクラクラ来そうになった程だ。飛行場のローカルぶりさえポジティブな印象となって残っている。その印象が強すぎて肝心のドイツ旅行の記憶はほとんど残っていない。

 ところで当時まことしやかに流布していた噂がある。

 「アエロフロートソ連航空のパイロットの腕は世界一だ。なぜならここはふだん、ミグだろスホーイだろの戦闘機に乗っているスゴ腕軍人が本職の片手間に旅客機を操縦しているからだ。しかもアエロフロートの旅客機はボロなので取り扱いに細心の注意を払わないとすぐ墜落して命が危ない。これを落とさずに操縦できるのは世界でもソ連のエリート航空兵だけだ。」

 これを「何を馬鹿な」とあながち一笑に付せなかったところが怖い。

 次にモスクワ空港でも途中下車したのだが(せめて「トランジット」と言ってくれ)、そこを警備していた赤軍兵士が誰も彼も紅顔の美青年だったので驚愕した。そう思ったのは私だけではない。その旅行に参加していた同行の女性陣も結構、みな陰でヒソヒソ大騒ぎしていたから。それ以外にも旅行記などで複数の女性が、ソ連、特にモスクワの赤軍兵士はみな若くてハンサム、今の言葉で言えばイケメンだったと証言している。
 そういえば、日本で誰かが「ソ連では国家の威信を示すためモスクワ空港やレーニン廟など外国人の目につきやすい場所には選りすぐった容姿端麗な赤軍兵士を配置した」と教えてくれたことがあるが、本当だろうか? でもそれを言うなら赤の広場で手を振っていた政府の要人の方がよほど外国人の目につきやすい位置にいたと思うのだが。モスクワ空港やレーニン廟にハベらせるために全ソ連からイケメンをかき集めているヒマがあったら、あのレオニード・ブレジネフ書記長のゲジゲジ眉毛をどうにかしたほうがよかったのではないか、とは思った。

 いずれにせよ、ソ連が崩壊してからは兵士の見てくれも崩壊してしまった。まことに遺憾である。


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 前に故M.ジャクソンがドイツにコンサートに来た際、本屋に自分の伝記のドイツ語訳が『Die Jacksons』というタイトルで並んでるのを見て「俺を殺す気か?!」と勘違いして怒った、という話を聞いたことがある。ジャクソン氏がその後本当に十分若いまま亡くなってしまったのでこの話はあまり笑えないのだが、Dieは「死ぬ」という英語ではなくドイツ語定冠詞の複数主格形である。だから『Die Jacksons』は「死ね、ジャクソンめら」などではなくて単にドイツ語でThe Jacksons、つまり「ジャクソン・ファミリー」という意味に過ぎない。

 ところで、ドイツ語には女性の名前にUschiというのがある。発音も字の通り「ウシー」。私だと、あの、モウモウ鳴いていまひとつ動作がノロい例の角つき動物を思い浮かべて「こんな名前はつけられたくない」と思ってしまう。 アクセントの位置が違うのでむしろ「齲歯」(うし)、つまり虫歯と解釈した方がいいのかも知れないが、そのほうがよけい悪い。ロシア語でもヒドい事になっていて、Uschiはуши(ウシー)、つまり「両耳」という意味になり、初めてドイツ女性にこう自己紹介されたときは思わず耳を見てしまった、とさるロシア語の先生が言っていた。
 その先生がさらに続けてくれた話によると、Bianca(ビアンカ)という名前はпьянка(ピヤンカ)としか聞えないんだそうだ。そのпьянка(ピヤンカ)とは「酒盛り」または「ベロベロに酔った状態」。こういう名の女性はつまり「酒飲み女、酔っ払い女」ということだ。

 女性の名前ばかりではない。ドイツの男性の名前にGeroというのがある。Gerは古高ドイツ語の「槍」から来ており、転じて「槍を持つ人」という意味、ドイツ語の男性の名前Gerhard(ゲルハルト)フランス語のGérard(ジェラール)、英語のGarret(ギャレット)という名前の中のGerまたはGarもこれだそうだ。ロシア語の普通名詞герой(ゲローイ)「英雄」もこれかと思ったらどうもこちらの方はギリシア語ήρως((h)eros)「英雄」からの借用語らしく古高ドイツ語のGerとは関係がないようだ。むしろ英語のheroのほうがгеройと同源らしい。GermanあるいはGermanyのGerも「槍」だろ「英雄」だろだと思っているドイツ人がいたが、GermanのGerはおそらくケルト語の由来で、古アイルランド語garim「騒がしい」か、またはgair「隣人」と同源、つまり「槍」と「ゲルマン」ではゲルはゲルでもゲルが違い、別に「ドイツ人は勇壮だからゲルマンという名前」というわけではないのだ。それでもドイツ語ネイティブにはGeroという名前が「勇壮で非常に男らしく」響くということだが、いくら男らしかろうが金持ちだろうがハンサムだろうが、こういう名前の男性と結婚したがる日本女性はいないと思う。現に私など気遅れがしてここでこの名前にルビを振ることが出来ない。

 ギリシア語のへロスがロシア語ではゲローイになる、と聞いて思い出した。そういえばプーシキンの散文作品「スペードの女王」の主人公がゲルマンという名前のドイツ人だが、私はこれを相当永い間「ドイツ人だからゲルマンという名前」なのかと思い込み、プーシキンにしては名前のつけ方が安直だと思っていた。ところが安直だったのは私の方だった。日本語やドイツ語のhをロシア語ではgで写し取るのだ。だから「ヨコハマ」はロシア語では「ヨコガマ」、「ハンブルク」は「ガンブルク」になる。なのでロシア語の「ゲルマン」は本来のドイツ語ではHermann(ヘルマン)、日本の「あきら」とか「まさお」のように、ドイツでは極めてありふれた男性名だ。

 まだある。昔授業で読まされていたロシア語のテキストにСветлана(スヴェトラーナ)という名の女性が出てきたことがあるのだが、この女性が時々愛称のСвета(スヴェータ)で呼ばれていた。私としては美人という設定のこの女性とこの名前の組み合わせに違和感を感じた。「スベタ」じゃあねえ…

 こういうことが続くと自分の名前もどこかの言語ではヤバいことになっているのではないかと気になって、おちおち安心して自己紹介も出来ない感じになってくる。現に「勝男さん」はイタリア語では相当悲惨なことになっているそうではないか。またあの、日本人にとっては聖なる名前の「富士」はドイツ人にはfutsch(フッチ)と聞こえるそうだ。これは「おジャン」とか「イカれた」とか「ポシャッた」とか「ダメになっちゃった」とかいう意味。つまり「富士山」は「ヘタレ山」か。

 もっともこれらは母語の音韻構造をつい外国語のそれに投影してしまっただけだからまあ、仕方がないと言えば仕方がない。母語でさえ名前を誤解釈してしまうことがあるのだから。何を隠そう私は昔、東京から利根川を越えて行ったところにある、さる荒野の大学にいたことがあるのだが、下見がてらにはるばる東京から願書を出しに行った際、バスが行けども行けども畑の中を走り続け、いいかげん不安になり始めたころやっと町らしい景色になってきたと思ってホッとしたはいいがそこの通りが「東大通り」という名前だったので驚いた。一瞬「どうしてこんなところに東京大学があるんだ。ここは筑波大学(あ、大学名バラしちゃった)じゃないのか?!」といぶかしく思ったものだ。その後大学在学中も、卒業してからでさえも周りに聞いてみたのだが、いまだにこの名前を一発で「ひがしおおどおり」と読めたという人に会ったことがない。 なおこの大学の北の方には「北大通り」というのが走っているが、これも別に北海道大学のことではなく、「きたおおどおり」と読むのが正しい。


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 前にも書いたように大学では第二副専攻が南スラブ語学、具体的にはクロアチア語だった。それを言うと友人はたいてい「何だよそりゃ?」といぶかるが、人に言われるまでもなく、自分で専攻しておきながら自分でも「何だよこりゃ?」と思いながらやっていた。実は別にクロアチア語が特にやりたかったから第二副専攻にしたのではないのだ。

 人には大抵「専攻はロシア語です」、と言っているが、正確には私の専攻は「東スラブ語学」である。つまり本来ならば「ロシア語、ベラルーシ語(昔でいうところの白ロシア語)、ウクライナ語ができるが、その中でも主としてやったのがロシア語」ということだ。主としてやったも何も私はロシア語しかできない(そのロシア語も実をいうとあまりできない)。が、その際こちらでは規則があって、東スラブ語学を専攻する者は、その「主にやった」東スラブ語派の言語(例えばロシア語)のほかにもう一つスラブ語派の言語、それも東スラブ語以外、つまり西スラブ語派か南スラブ語派の言語の単位が必要だった。これを「必修第二スラブ語」と言った。

 気の利いた学生はドイツで利用価値の高い西スラブ語派の言語(ポーランド語、チェコ語、スロバキア語、上ソルブ語、下ソルブ語のどれか)をやったし、ロシア語のネイティブならば南スラブ語派でもブルガリア語を勉強したがる人が多かった。ブルガリア語は中世ロシアの書き言葉だった古教会スラブ語の直系の子孫だからロシア人には入っていきやすいからだろう。私のいたM大学には南スラブ語派のクロアチア語しか開講されていなかったのだが、当時隣のH大で単位をとればM大でも第二スラブ語の単位として認められたから、大学の規模も大きく選択肢の広いH大にポーランド語やブルガリア語をやりにでかけて行く学生が結構いた。が、私は残念ながら当時子供がまだ小さかったので、家を長い間空けられず外部の大学に出て行けなかったためと、まあ要するにメンド臭かったのでそのままM大でクロアチア語をやったのだ。
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古教会スラブ語のテキスト。古教会スラブ語は「古ブルガリア語」と呼ばれることもある。ロシア語を大学で専攻する者は(日本でも)必ずこれをやらされる(はずだ)。 

 そこで考えた。どうせ選択肢がクロアチア語しかないとすれば必修第二スラブ語の単位取りのためだけにやるのももったいない、この際皿まで毒を食ってやれ、と。それでクロアチア語を単なる第二スラブ語としてではなく「第二副専攻」として、もうちょっと先まで深く(でもないが)勉強することにしたのだ。
 ちなみにクロアチア語、つまり南スラブ語学を主専攻や副専攻としてやる者はこちらはこちらでまた「必修第二スラブ語」、つまり今度は南スラブ語派以外のスラブ語族の一言語の単位が必要になるわけだが、ここでは東スラブ語派のロシア語を取る者が大多数、というかほぼ全員だった。私は主専攻としてすでにロシア語をやっていたからこれが「クロアチア語専攻者にとっての第二スラブ語」の機能も兼ねていて一石二鳥ではあった。
 念のため繰り返すと「副専攻南スラブ語学」というのも本来「主要言語がクロアチア語」という意味、つまり「ブルガリア語、マケドニア語、クロアチア語、セルビア語、ボスニア語、スロベニア語ができるがその中でも主としてやったのはクロアチア語」ということだ。際限がない。これがまた下手にロシア語と似ているからもう大変だった。

 例えばロシア語のтрудный(トゥルードヌィ)は「難しい」という意味だが、これと語源が同じのクロアチア語trudan(トゥルダン)は「疲れている」だ。一度「クロアチア語は難しい」と言おうとして「クロアチア語は疲れている」と言ってしまったことがある。
 でも「言葉」という言葉はクロアチア語でもロシア語でも男性名詞だからまだよかった。この形容詞trudanが女性名詞にかかって女性形trudna(トゥルドナ)になると「妊娠している」という意味になってしまう。ドイツ語などでは「言葉」という言葉(Sprache)は女性名詞だからドイツ語でだったらクロアチア語という言葉は妊娠できるのだ。
 ついでだが、クロアチア語で「難しい」はtežak(テジャク)である。

 また、ロシア語でживот(ジヴォート)と言ったら第一に「腹」の意味だが、これに対応するクロアチア語のživot(ジヴォト)は「人生・命」。ロシア語でもживотに「命」の意味がないことはないのだが、すでに古語化していて、「人生・命」は現代ロシア語では大抵жизнь(ジーズニ)で表現する。で、私は一度「人生への深刻な打撃」と書いてあるクロアチア語のテキストを「腹に一発強烈なパンチ」と訳してしまい、高尚なクロアチア文学に対する不敬罪で銃殺されそうになったことがある(嘘)。

 もっとも西スラブ語派の言語、例えばポーランド語も油断が出来ない。ポーランド語では「町」をmiasto(ミャスト)というがこれは一目瞭然ロシア語のместо(ミェスタ)、クロアチア語のmjesto(ミェスト)と同源。しかしこれらместоあるいはmjestoは「場所」という意味だ。そしてむしろこちらの方がスラブ語本来の意義なのである。「町」を意味するスラブ語本来の言葉がまだポーランド語に残ってはいるが、そのgród(グルート)という言葉は古語化しているそうだ。ところがロシア語やクロアチア語ではこれと語源を同じくする語がまだ現役で、それぞれгород(ゴーラト)、grad(グラート)と「町」の意味で使われている。
 しかもややこしいことに「場所」を表すスラブ本来の言葉のほうもポーランド語にはちゃんと存在し、「場所」はmiejsce(ミェイスツェ)。これもロシア語のместо、クロアチア語のmjestoと同源で、つまりポーランド語の中では語源が同じ一つの言葉がmiasto、miejsceと二つの違った単語に分れてダブっているわけだ。

 私は最初「町」と「場所」がひとつの単語で表されているのが意外で、これは西スラブ民族の特色なのかと思っていたのだが、調べてみると、「町」のmiastoはどうも中世にポーランド語がチェコ語から取り入れたらしい。なるほど道理で「場所」を表す本来のスラブ語起源のポーランド語miejsceと「町」のmiastoは形がズレているはずだ。が、そのチェコ語の「町」(město、ミェスト)ももともとは中高ドイツ語のstattを直訳(いわゆる借用翻訳)したのが始まりとのことだ。これは現在のドイツ語のStadt(シュタット、「都市」)の古形だが、中高ドイツ語では(つまり12世紀ごろか)「場所」とか「位置」とかいう意味だったそうだ。動詞stehen(シュテーエン、「立つ」)の語幹もこれ。中世には都市とは城壁で囲まれているものであったのが、しだいに城壁がなく、その代わり中央に教会だろなんだろ中心となるものが「立っている場所」が都市となっていった。言葉もそれにつれて意味変遷し、「場所」から「都市」に意味変換が起こりつつあった頃、チェコ語がそれを正直に写し取った。そこからさらにポーランド語が受け取り、調べてみると東スラブ語派のウクライナ語もそのまたポーランド語から借用したらしく、「町」は」місто(ミスト)である。そして「場所」はМісце(ミスツェ)だから、ここでも語彙が二重構造になっているわけだ。

 灯台下暗し、「町」あるいは「都市」と「場所」をいっしょにしていたのはドイツ語のほうだったのである。


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 厳密に言うとドイツ語には日本語の「科学」に相当する言葉がない。強いていえばWissenschaft(ヴィッセンシャフト)が「科学」に相当するが、これはむしろ「科学」より広い「学問」という意味だ。日本語だと「科学」というと自然科学が連想されがちだが、ドイツ語では「自然科学」(Naturwissenschaft)、「人文科学」または「精神科学」(Geisteswissenschaft)、どちらも「科学」で表すから「科学者」(Wissenschaftler)といえば物理学者も文学研究者も含まれる。つまりドイツ語には自然科学だけを暗示する「科学」という言葉はない。だからあまり「文系・理系」とすぐ人を二分割でカテゴリー化することもあまりない。
 さらにドイツ語の「人文科学」と日本語の「文系」はちょっとニュアンスが違っている感じで、日本語の「文系」という言葉を聞くと私は文字通り「文学」を思い浮かべるが、ドイツ語でGeisteswissenschaftといわれると真っ先に神学を連想する。ためしにドイツ語ネイティブに聞いてみたら人文科学の代表は「哲学だろ」とのことであった。さらにこのネイティブは続けて、「数学なんてのも本当はこの「人文科学」(あるいは「精神科学」)の最たるもんだろ。ほとんど外界と接触しないんだからな。そもそも今の自然科学だって哲学から発展してきたものだし。まあこんな2分割にはあまり意味がないんじゃないの?」と言っていた。

 実は私が最初入学した大学の学部もこの2分割からハズれていたのである。文系でも理系でもない、私は本来「美系」なのである。芸術学部だ。入試の2次試験は石膏デッサンと色彩構成の実技だった。

 家がビンボーだったので、私は「大学は国立・現役」が至上命令だった。しかも帰省にあまりお金がかからないように東京近郊という条件付きだ。高い私立大学、国立でも遠い大学は始めから視野の外。まあ、一浪くらいなら「おっとすべっちゃった」で許して貰えたかもしれないが、2浪3浪が標準の大学は除外。いわゆる英才教育などとも無縁の環境だったから、有名な芸術家の子弟で高校生のころから各種展覧会に出品するような半プロの受験生がいる東京藝術大学など絶対無理。
 それについて恐ろしい話をきいたことがある。ある年、藝大入試のデッサンの実技試験の課題として、ビニール袋に入ったブルータス像が出たそうだ。なぜ石膏像をビニール袋に入れたりするのか?

「だってブルータス像なんて受験生は何十回もデッサンして練習してるだろう。普通に出したりしたら目をつぶってても描けちゃうからそんなんじゃ全然差が付かないんだよ。」

完全に世界が違う。

 そこで藝大以外の国立の美術学部ということになるが、国立で美術学部をかかえている大学というと大きな総合大学しかなかった。
 当時国立には共通一次試験というものがあったので、私は「普通の勉強」の方も結構まじめにやった。通っていた都立高校が一応受験校だったので周りに引っ張られたし、私自身も人に禁止されるまでもなく浪人したくなかったのだ。実は中学の時も高校の時もさる国立大学の付属校を受けて2回ともボツっており、「行くのはいつも第二志望」という人生展開に嫌気がさしていて、いいかげん大学くらいは第一志望にいきたい、という思いが切実だった。合格発表の会場で自分の受験番号が張り出されていないというあのイヤーな体験は2度もすれば十分だ。

 というわけで私は普通の受験勉強の大変さも人並みには経験していると思うし、試験に落ちたときのショックもよくわかるのだが、実技試験はある意味では勉強よりキツいのでこの機会に言わせて欲しい。
 一番きついのは、実技にはカンニングとか速習・早分かりとかいうワザが通用しないことだ。試験場ではもちろん隣の人のデッサンなど見放題、カンニングし放題である。でも上手い人の絵を見てマネしたからと言ってこちらのデッサンの腕が上がるなどということはあり得ない。むしろ逆。人の真似などしたら、線は不自然になるしパースは狂うしで余計ギコギコになり、受かるものも受からなくなる。受かるものさえ受からなくなるのだからもとから受かるかどうか危ないものはさらに合格が遠のくこと請け合いだ。どんなに頭でわかっていても、手が動かなければ、自分の目でパースが見えなければ、そして紙の上に光を写し取ることができなければどうしようもないのだ。受験準備中も「飛躍的に力が伸びる」などということもない。いわゆる「ヤマかけ一発勝負」なども利かない。つまり運的要素がまったく機能しないので、本当に自分の持っているもので勝負するしかないのだ。

 そうやって受かった美術学部を私は2年で出てしまった。理由はいろいろあった、と言いたいところだが実は単純で、一言で言うと絵をやる覚悟・根性が足りなかった、ということだろうか。はっきり「才能がなかった」と言ってもいい。単に大学入試に通るだけなら「絵を描くのが好き・ちょっと人より上手い」レベルでいいかも知れないが、問題はその後なのだ。大学を卒業する、いや卒業後もそれでやっていくにはただ好きなだけでは駄目だ。どうしてもこれを描きたいという内部からの衝動がなければ無理。単にチョコチョコ小手先の基本技術だけ身に付け、小器用にちょっとした絵がかける程度の甘い根性ではやっていけない。私にはその内部からの衝動が決定的に欠けていた。こういうと負け惜しみのようだが自分は絵でやっていける技量はない、と気づいたことだけでもまあ美系に行ってよかった、いい人生の勉強になったと思ってはいる。せっかく人生で初めて「第一志望」に入れたのに結局落ちこぼれてしまったのは残念ではあるが。

 ところでその私のいた大学だが、芸術学部が体育学部とくっついていて、第二外国語や教育原理の授業などがいっしょだった。ここの体育学部というのがまたレベルが高く、日本一など序の口、オリンピックで金メダルをとった体操選手が当時教授をしていたと記憶している。つまり大学中で最も剛健な者と最も軟弱な者がかたまっていて、その中間、「普通の人間」がいない環境だったのだ。「文系・理系」とかそういうカテゴリーを超越した一種独特なシュールな雰囲気が漂っていた。
 後にそこを出て同大学の「普通の」学部(人文学類)に転学したが、そのとき周りの学生が皆あまりにも上品でおとなしく、行儀がいいので驚いたものだ。なるほど普通の人間とはこういうものかと感心した。そしてそのまま落ちこぼれどころか結局最後まで人間にさえなれないまま卒業してしまったのである。気分はほとんど妖怪人間だった。そういえば最近顔も似てきたような気がする。ただし同性の「ベラ」のほうではなくて「妖怪人間ベム」のほうにである。


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 もう15年くらい前のことになるだろうか、歩いて10分位のところにある地方裁判所に一家で裁判を見にでかけたことがある。不謹慎で申し訳ないが、物見遊山感覚で特に計画も立てずに適当になんとなく入っていって傍聴した。ところが、その偶然傍聴した裁判がちょっと重い裁判で、後日町の新聞にも載ったのだ。殺人未遂事件だった。

 被告席に坐っていたのは、いかにもおとなしそうな楚々とした若い女性で、始めこの人が被害者かと思ったが、ほんとうに彼女が夫を殺そうとしたのだそうだ。

 その人の夫はアルバニアからやってきてドイツで仕事につき、やがてアルバニアの親戚一族から妻を「あてがわれて」、まったくドイツ語もできないそのアルバニア女性をドイツに呼び寄せた。けれどこの夫は横暴で妻が何かちょっとでも口答えしたり、違う意見を述べただけで、罵るならまだしも、暴力までふるって押さえつけるのが日常だったそうだ。もちろん妻が外の人と付き合うのも許さず、「ドイツにいるのだからドイツ語が勉強したい」とでも言えばまた殴る蹴るだった。
 それでも妻は耐えていたが(「結婚生活とか夫とか男とかいうのはこういうものだ」と思っていたんだそうだ)、夫がついに「お前のような無能な女はもういらない。子供をここに残してアルバニアの親戚のところに送り返してやる」というに及び、1.「ご用済みの女」として一族に送り返されるのは死ぬほどの不名誉だし、2.何より二人の子供にもう会えなくなるのが辛くて、なんとか送り返されるのを阻止しようとして、夫がその晩例によって酒を飲んでTVの前で眠り込んでしまうのを待って首を包丁で切り付けた。あと2cmずれていたら頚動脈が切れて夫は死んでいたそうだ。
 しかし、切りつけたはいいが、実際に夫が血まみれになって苦しむ姿を見ると、堪えられずに、自ら警察を呼んで自首した。

 ところで、ドイツの刑法では「殺人」に2種類ある。日本でも旧刑法ではその区別があったそうだが、Mord 「謀殺」とTotschlag「故殺」だ。Mord(モルト)はTotschlag(トートシュラーク)より罪一等重い。この2つの区別は法学的に重要らしく、こちらでは殺人事件が起こると真っ先にモルトと見なすかトートシュラークで済むか(?)が話題になる。議論のエネルギーの相当部がこの区別に費やされる感じ。どうやってこの区別をするかはもちろん専門的に周到に規定されているが、大雑把に言うと、計画的に周到な準備をして人を殺したり、自分が犯した他の犯罪、例えば強姦などの罪を隠蔽しようとして被害者を殺したり、口封じのために目撃者を殺したりしたら文句なくこのモルトだ。モルトは最も重い罪でたとえ未遂でも無期刑が下されることがある。
 この女性は犯行のために包丁を買って用意したり、夫が酔いつぶれるのを待つなど辛抱強くチャンスをうかがっていたりしたので計画行為、つまりモルト未遂と見なされた。

 その鬼より怖いドイツの検察が求刑するためすっくと立ちあがった時はこちらまですくみあがったが、この検察、情状酌量の余地を鏤々述べ始めたのだ。曰く、被告が何年も夫の暴力に耐えてきたこと、曰く、結婚失敗者として親戚に送り返す、という脅しがアルバニア人社会に生きる者にとっては心理的にも深刻な脅威をあたえたこと、曰く、被害者の夫本人が「自分も悪かった。すべて許す。妻が罰を受ける事は全く望んでいない」と嘆願書を提出していること、云々…
 そして「これ以上下げることができない」とか言い訳しながら3年半を求刑した。検察側にここまで「弁護」されて本物の弁護側は他に選択肢がなくなったのか、正当防衛として無罪を主張した。
求刑後、裁判長が被告に「最後に一言」とうながすと、女性はうつむいたまま細い声で(アルバニア語で)「申し訳ありませんでした」と一言。

 判決は次の日だったが、私たちが出かけて行くと傍聴席の最前列に利発そうな男の子と可愛い女の子がいた。これが被告の子供たちだった。その隣からは小柄で優しい感じの男性が心配そうに女性と検察側を交互に見つめていた。これが殺されそうになった夫だった。被告は家族の姿を傍聴席に認めると泣きそうな顔をしてちょっと手を振って見せた。
 さて判決だが、裁判長は適用できうる法律をまた何処からか見つけてきて、さらに刑期を下げ3年となった。これはモルト未遂に適用される最も軽い罪で、法律上これ以上下げることはできないものだった。
 私達はそこで法廷を出てしまったのだが、翌日の新聞によれば、すべて終わった後、夫も子供たちも女性のところに駆け寄っておいおい泣いたそうだ。

 もうかなり前のことなので、被告はもうとっくに刑務所から出所しているはずだ。あの一家は今ごろどうしているだろう、と今でもときどき思い巡らす。
 当時傍聴席で隣に坐っていたドイツ人のおばさんが、「嘆願書を出した、というのはきっと誰かに入れ知恵されたんだろう。なんだかんだで、奥さんがいないと家の事全然できなくて困るのは自分だからね」と言っていた。「あの人、刑務所から出てきたら最後、きっと男や男の仲間から復讐されるよ」とも。そうかもしれない。確かに家庭内で日常的に暴力をふるう男性の相当数が、「実は気が弱く、傍からは優しくおとなしい人にみえる」そうだから。
 でも私はこんなことも考えた。もしかしたらこの男性は生まれてこのかたそういう価値観(男尊女卑)しか知らなかったのではないだろうか。本当は結構優しい人が回りから無理矢理マッチョの規範を押し付けられて、実は自分でもその役割を果たすのに苦しんでいて、必要以上にマッチョを演じてみせざるを得なかったのが、妻からこういう事件を起こされて、いま初めて本当の自分と向き合えたのではないか、と。

 あの家族が今はどこかで幸せに暮らしていますように。


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 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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